ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「killing floor/out of uranus」 2008年9月21日 大安 野分の後腐雲
本日、茶人として2回目の茶会を催し、それなりに成功をおさめたように思う。その様子、また茶会記にて報告いたますので乞うご期待。
さて、killing floorである。英国。今宵は充実した疲労はなはだしいので、原色新日本の美術第二回配本「京都画壇」(小学館)をつらつら鑑賞しながら、付け合せに、とるに足らぬバンドの平凡な楽曲を、むしろそれゆえにこそ聴取せざるを得ない、そうした苦しい態度の有り様と数寄心の鍛錬について語れたら、と思ったが、盲で選んだハル・ブレイン「サイケデリック・パーカッション」、如何にもドリーミングサイケなんだけれども、もっとロックを!、と徒然なるまま、セットし替えたのがこれであった。
相当に批評するのに骨折れそうな快アルバムである。サイケの一言では終わらせられぬ曖昧さである。兎に角聴いてくれ、で終わらせたいが、ブルースのブルースによるブルースのためのプログレ化がロックの王道でありこれ即ちハードロックであるが、そうした常道に至る前の、過渡期の絶妙な境界に踏みとどまっており、過去と未来の全てのロックの交差点でギグし続けているような出来である。ためらいの無いリフの、変拍子とまで行かないまでの凝った作りは如何せんノリがよくて。空間を否定しているので響かないが大きさだけが大きいブルースハープの不躾な音が小気味良いではないか。本当はもっと言わなければならない最重要バンドの一つであるが、東村アキコ「ひまわりっ 健一レジェンド」(モーニング掲載)を2度読みしたいのでこの辺で。
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