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「the who/odds & sods(1974)uicy-6422」葉桜
自分を追いつめるようなキツメの書物の一つ二つ読まねばならぬ時期なのに、そうではない、例えば井伏鱒二の、鱸の刺身のように淡白で滋味深い随筆ばかり読んでしまう情けない状況が、下り調子の億劫な人生のようにだらだら続いている…いつものことながら引き絞るような心の衰弱著しく、磨滅する感受性と失語の継続が落ちる…気持ちが鏡のようにすり減りながら有象無象が無意味にうつりゆく毎日が続く…そんな折、昔は心和む良い番組だったのに最近は醜悪愚劣ぶりを見せて憚らぬ所さんの笑ってこらえて。日本各地の学校の体育系部活をめぐる旅…基準などよく分からぬしそんなものはないのだろうが兎も角厳しめの指導をしてくるコーチあるいは監督あるいは教師と、それに泣きながら頑張って盲従する生徒の図…胸糞悪い保守根性…体育系の監督の人生訓など幾らでも反駁できるしそもそも新体操というものそのものが下劣である…ここでいう下劣というのは自らが納まる枠組みに抗うどころか無批判に愚直に従順することである…空を見た事も無い連中の健康な行進風景には飽き飽きしつつ、そういう人々の中にはそうでない人もいるかもしれないという、論理的推論の枠組みに収まる想像力におもねて慮ったところでそうでない人などいやしない現実に何度も遭ってきた。あまりに人間的な奴隷階級はどう転んでも、あまりに人間的な奴隷階級に過ぎなかった。これからはそうではないという保証もないし、これからもそうであるという保証も無いままに。酒が無くなったので清酒一升とサントリー角と共に、日本酒用に鮭トバと、ウイスキーに合いそうな肴として乾燥バナナをも連れて帰ったら細君が怯えている…どこまで飲むつもりなのだろうか、と…。消沈している理由は生活全般なのだがとりわけ今日は、先日壊れた牡蠣殻ループタイ2号に新たな創意を加えて修理した結果、小生好みの出来栄えにはならず納得いかぬのが大きい気運なのだろう…福島県などで、学級崩壊に寄与していた小中学校生は、震災や原発や避難区域となった今だからこそ、平素行っていた学級崩壊行為を断固として継続すべきである。避難所となった学校で、避難住民の方々が毛布に包まり炊き出しなどに忙しい中明日を見据えている時に、震災前に教室を荒れさせていた者は、震災後でも、それを持続すべきである。そうでないと平時の崩壊行為(教師に対する無視、暴行等々)に何の矜持も持てはしない。そもそもそんなものは無かった事の証明にしかならないだろう。ただの甘えに過ぎなかったと告白しているようなものなのだろう。元より本当にどうでもよいことではある。筋を通さない事こそが屑の屑たるゆえんなのだろう。
ザ・フーの、寄せ集め野郎であった。井伏随筆をちんたら読むようにポカポカ聴きつつ、しかし、やっぱり、安住を許さぬザ・フーの本然が鼓膜に炙りだされる経験であった。これは、過去の正規発表アルバム所収の楽曲の別テイクや未発表音源の吹き溜まりである。フーズネクストやライブアットリーズやトミーなどの威容なるアルバム群の…だから、本当は先に、これら正規発表アルバム群について感興を述べなくてはならないのだろうが、そんな気合が失せた今であっては、かような吹き寄せ趣が心に馴染むのだから云々という言い訳である。有体に申せば、最後に聴くべきアルバムの一つなのかもしれない。ザッパでいえばバーントウィニーサンドウィッチのような…過去の猥雑多極まりないアルバム群を聴き込み、レコードをかけている時以外でも、記憶するまでもなく毎日いつ何時でもその音を思い出している人が、もう、それらのアルバム山脈が腹蔵する谷の襞から植生から水脈に至るまで味わった後、無論、味わい尽くす事など有り得ぬから今まで何度となく聴いてきたのだけれども、それでも終わりのような穏やかな訪れに際し、思い残す事どもが有るか無きがの如くこれまたいちいち堪能する上で手に取る類であることは否定できない。
かような、別テイクや別アレンジの楽曲が正規版、という言葉が悪ければ初回発表時のもの、に比べて劣るということは無いし、そもそも比較する論拠は無い。それぞれ別の物だと割り切って聴けばいいのだが、以下で、あえて拘泥するのは、これが他ならぬフーの音源であるから、ということをこれから示せたら。初回発表盤を聴く時に訪れる、襟を正さざるを得ない感興というのではない、どこか気の抜けたものが、別テイクものには、聴く側にも、楽曲自体にもあるような気がする。襟を正す聴き方からすれば、別テイクには、どこか腑に落ちぬ、納まりどころが徘徊するような印象が拭えぬ…これは過去の初回発表版を聴き込んでいる耳があるからだとするのは簡単だしそれも一理ある。しかし、初回発表版を聴かずしてこの別テイクに遭遇したとしても、ザ・フーにおいては恐らく、腑に落ちぬ、不安定な興が起こると思う。そもそも、初回発表盤自体が、一体、何がやりたいのか、全く分からぬ代物なのであった。繰り返すが、別テイクと初回発表の区別など意味は無い、しいて申せば全部初回発表といえるし全部別テイクともいえる、などといったこれみよがしな理知が、そもそもザ・フーひいてはハードロックにおいては役に立たぬということを云いたいのである。
最早書き惜しみすまい…いずれいずれと思うているハードロック論の序でもあり結でもある事を、準備不足構わずそろりと進める…ザ・フーを初めて聞いた時、それが四重人格だからいけなかったのであるが、一体、何がしたいバンドなのか、さっぱり分からなかったのである。そして、分からなかったから、賞賛しようもなく、懐中、否定さえしていた暗愚であったのである。分からなくても、何かしら引っかかる、と感づくことは、分からないということではなく、本当に分からなかったから、さように感づくことすらなく、ただただ分からなかった。今でも、分かってはいない。分からぬことが分かったところで暗愚の水平から海抜することなど有り得ぬ。この、分からぬもの=ハードロック、という言葉の柵で囲ったところで、フーの音楽が現存する限りこの中宇の不安性は払拭されない。ただしここでいう不安というのは、人間奴隷の餌たる心理と心理学とは無関係である、と云いたいが、云い切れぬ。
たとえ初回発表盤を聴いてなくても別テイクの不安性はザ・フーの本質ゆえに励起するし、その事が、初回発表盤の不安性をも自然する。しかしながら、初回発表盤を既に聴いているから、こうしたことは決して証明されえないこともまた、ザ・フーのある種徹底した不安性から来る、偶然を装った必然的事実のようにも思われる。どこまでも、納まりどころからすり抜けるようにして、妖怪が無意味にぬっと現れては消えるようにして、その有り様を角目立たせる。
例えば小林秀雄のいうモーツァルト性と、小生の云うハードロック性は似て非なるもの、と予め釘を刺したい。これは結果ではなく宣言である、目的無き処、意志が徘徊と樹立を物狂おしく果てる謂いである。戦中から戦後へと、積極的な媚びを特徴する民主主義の欺瞞に辟易した小林氏の潔癖が、モーツァルト的な、涙も追いつかぬほど疾走するかなしみに傾倒しロマン主義の心理解釈大仰云々を唾棄する事情はよく分かる。しかし、少なくともザ・フーをして、ハードロックはロック史におけるロマン主義運動の先駆けとする先入観から免れさせるほどザ・フーも、そして小生も潔癖ではありえず、心理や概念や権力や生活の垢にまみれた猥雑な雑音と音楽を峻別することなく聴きまくることこそがロックの醍醐味ともいえる。
そういえば今週のモーニング掲載のへうげもので、古織公が大徳寺に寄進していた、地蔵さまを浮き彫りした織部燈籠を、作中で、上田殿が激しくメモっていたが、過日、小生が上田宗箇流の茶会に参じたおり、数寄屋までの露地に、まさに漫画で描かれていた織部燈籠そのものが佇んでいた…織部燈籠もよいが、朝鮮燈籠というのも相当侘びていて、よい。朝鮮燈籠も地面に刺すタイプだったような違うような…どちらが先かは、どちらでもよいでしょう。あと、以前、へうげものの実写ドラマ化の提案した時、肝心の古織公のキャストが決まらなかったが、今少し思ったのは、阿部サダヲという役者さんが、ヌメッとしててよいと思う。利休はやっぱり、御大水木しげる先生で。へち貫役をしていただく予定だった坂上二郎氏が亡くなったのは残念だ…
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