忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[363][362][360][359][358][357][356][355][353][352][351]

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「friction/friction(1980)」



五月蝿い、使うのが甚だ苦痛な、でも使わなければならないほど重すぎる掃除機の音を家人が鳴り立てるのを堪えながらフリクションを聴いているしそうせざるをえない午後。こういう音楽は爽快な晴れ間で聴くよりも、湿りのため重低音に凄味が増す車内スピーカーで雨の中運転しながら聴くのがいいが今はそれはままならず、この音楽に没入できない気の抜けた明るさの中で掃除機に攻められながら聴いている。この王道なきロック史で挙げる音楽は巷間に流布したきお奨め音源というわけでもなく、己の主張を統帥するための手札でもなく、徒然に手に取った音、ただそれだけであった。紡錘筋を鷲掴みされてブンブン弾かれる。久しぶりに手に取るとペーパージャケットの表面に黴が、枯れていた。音は、削ぎ落としたというよりも引き締まった、無駄の無い攻撃性。その攻撃性の述語を、人の頭諸共断ち切る具合だった。しかしこれよりも凄まじいロックというのはごまんとある、と感じた。先ほど、流産した胎児の拳が十一面観音の頭部のように硬く集結した糞を肛門を傷つけながら少量絞り終えたばかりだった。

まことに脱力させる、シャレ乙な単語を拾遺。地方局の昼の情報バラエティ番組と、破綻しかけたデパートの服売り場で見かけた言葉。

オシャンティな午後のひととき

ナイティ:寝間着、パジャマの意味

夏支度、その前の梅雨備え。冬布団を干して仕舞い、夏布団を干して迎える。物干しに使うベランダの手すりには赤虫が徘徊する。それをふき取って布団を干して引き上げる際に布団の上を赤虫がうごめいているのでいちいち弾き飛ばしていると潰れて白いシーツに赤い汁が付く。赤虫をコロコロで除去する。幾らでも日々磨滅する心の脳みそのつるつるに何の取っ掛かりも無く風さえ吹き過ぎる茶番に何時まで付き合えば気が済むのか、どんよりと頭が悪くなる…頭がおかしくなりそうなのはアナと雪の女王の歌…英語、否、アメリカ語特有の、発情猫のように汚く厚かましく伸びる声の押し付けに、ほとほと嫌気が差し、反吐を催す…最早、物欲や消費への励行によってはごまかし切れぬほど事態は深刻の度を深める家政状況…ッパパパパパッ、と、ガラス片が全身に容赦なく突き立つ、それも、摂氏五千度の熱線で瞬時に焼かれて吹き飛んだ皮膚の下の肉が爛れて剥き出しの、過敏極まりなく赤熱して水膨れした肉の表面へ…もう、今となっては…あらゆる政治的国際的を含む片鱗を示唆する些細な情報であってさえも、このように生皮剥がされたアツアツの肉面にガラス片が突き立つようなキツイ苦痛と、納まりつかぬ憤りと恐怖に吾を失いそうになるのだから、あらゆるニュース番組や報道番組は禁物な状況であった…常に古くて新しい生存剥き出しの資源争奪戦へと形振り構わぬ後進資本主義国の伝統的帝国主義化、黒船ならぬ赤船の横行(松岡正剛)、伝統的ブロック経済化による確執の激化、領土、領海強奪にかかる暴力の既成事実化による済し崩し的肯定と、弱体化した先進諸国の諦めと日和見、環境問題の無視がむしろかっこよい潔さとされる倒錯美学、原発建設においてはまず安全よりも安定した電力確保を重視するとする公言(トルコの首相)、棘のようにチラ見しただけなので正確な情報の受け取りはできていない可能性があるが対馬の神社の絵馬に韓国人が反日落書きして悪びれる様子も無い人間の無様な劣化、食糧争奪、人口、覇権、財政危機、経済破綻、そして金持ち強者優遇貧乏弱者からの重税搾り取り、生存権破壊、アメリカ富裕層が突っ走るアナルコ・キャピタリズム、そうした富裕層とは隔離された99%の貧困の身分的再生産、見掛け倒しの理屈武装で保身に躍起なネット情報ばかりが独り歩きする暴走の些細の積み重ね、目の前に居る人間の顔と事後的に積み重ねられる達成事実以上に信頼というものを得ることが出来ぬのも分からずに本質的に信頼性から事実無根である情報やデータにばかり中毒依存しては徒に事態を激化させる、顔を見ることを忘れて、という目的から遠ざかる保身的愚昧の専横、困った人(国)がいたら助けてやるお互い様の思いやりが流通する土壌は壊死、啓蒙思想の腐敗、現代の啓蒙民主主義=古代ギリシャの五百人僭主時代、クローズアップ現代とかうっかり視聴してしまうと、加えて箇条書きで垂れ流されるニュース原稿の数々でさえも、その全てが、痛覚神経剥き出しの小生の心の襞に突き食ってかかり、全てが己への暗雲と黙示録的断罪と逮捕状を通告するのだから、耐えられない、えげつない、蓮っ葉な言い方すれば気持ちが「ビンビン」に怒張しており、気が狂いそうだ…多数決剥き出しにおいては、主権の発動など、数少ない投票機会以外にほぼ無く、とりわけ自分の票が生きた事がほぼ無い(自分が投票した候補者が当選した事がほぼ無い)小生であってみれば選挙が終われば白紙委任でもされたが如きに好き勝手やりまくる政権に対して全くの無力、間接民主主義という言葉の露悪的なまでの自己撞着をぎりぎりと思い(代議的に間接した途端民主主義は寡頭制へとすり替わる…)、選出された途端、その人間は人間性ゆえに何をしでかすか分からぬのでありよって代議制をとった途端民主主義という呼称は欺瞞に陥るこの常識をシニカルに受け入れるしか能が無く…且つ、何らかの急進的な、あるいは緩やかな社会運動を起こして制度変革を目指すといっても自分にそのような組織立った才覚があるはずも無く自分にできる事を自分が出来る範囲で精一杯やり遂げるのみ、だから政権にやられっ放しなのも自分の責任として致し方ないとはいえ腑に落ちぬ熾火が消えぬ…それを甘えだと糾弾する理屈もあろうが、人の信念をこき下ろす理屈は蛆虫のごとく幾らでも湧いて出るものだ…決めて、断て=決断(ヤンキース黒田)それでも民主主義という幻想を錦の御旗に仕立てるコマーシャルを何度でも何度でも強制的に見させられ…直接民主主義ならどうだ、従来ならばそれは専従政治市民と労働奴隷という階級の固定化を前提せざるを得ないから一笑に付されようが今ならインターネットのビッグデータとやらを活用して…とここまで書いておいて自分でもその賢しげな愚昧に反吐を催すのであり…間接だろうが直接だろうが多数決が民主主義の実相ならば人間個人にとって結局絶対王政と何ら変わらない…人間一般など存在しないのだから。偶発事故により事態は一挙に決壊、自分一人で味噌汁作るのとは違う、自分一人ではどうにもならない大きい情勢に一挙に巻き込まれ翻弄される可能性だけがぐんぐん上がっている。

不思議な事に、国民国家の意識なく各々の領主がそれぞれのやり方でやっていた封建制の方が現代よりも遥かに民主主義的に見えてしまうのはなぜか…自分という人間は如何なる政体だろうと、自分が少数派だろうと多数派だろうと…まずもって救われやしないし救いをふんだんに拒否する性(サーガ)であった事を思い起こせ、隙間だらけの心に迷いが生じて、さもしい、分別の無い後悔に自分が持って行かれそうになったら、ベーコンの画集を開くとよい…グンッ、と、すぐさま此岸に引き戻してくれる…光が真っ黒に燃えるねじれてぶち切れた荒野(あらの)へと…何にしても人の信念をこき下ろす難癖など蛆虫のごとく幾らでも湧いて出る、勝手に騒いだ世間が世間を騒がせたと吹聴して生贄を叩く様は湧き出た蛆虫が餌にありつきながら餌に毒つく恩を仇で返す所業、これ以上付き合ってられない。

舞台や映画やドラマでの女優や歌手としては今一歩何かが足りず、モデルは卒業した状況での活路を、強力な事務所の揺るぎない戦略によって確立された、「CM女優」という新しい分野。商品と自分自身をわずか15秒間だけ輝かせることが出来る、という才能(=容姿)の発見。CM女優という立ち位置をいまだ意識できぬ古い視聴者から、映画やドラマ界では活躍できぬのにCMに出まくるのは何の権利や実力があっての事だと苦情が殺到しようとも、しつこく起用し続けた事務所は、もう、この「CM女優」という新需要の確立を、盤石にしている。これもまた、我々は受け入れるしかない、さもなくばテレビを燃やすしかない。

・上戸 彩…先駆者
・武井 咲
・剛力 彩芽
・佐々木 希

結局、流通媒体を抑えた者が権勢を振るう…卸問屋とか電力会社とかネットとか人事部とか、そしてその流通媒体の様式によって、その、流通される内容(クリエイターの方々が吹聴するところの「コンテンツ」とやら)が規定される可能性が大きく、ぎたぎたしく口惜しさがこみ上げる…書物、という形態も電子データへと解体される未来予想図は着実なのだろう、そうするとそうした流通様式に率先しておもねた内容のものが時代に合った新作物として誉められ、好ましく気軽に受容され、幅を効かす…その作物のそうした有り様が新しさの新発明の栄誉に浴するのを指を加えて見ろというのか…書物の、たとえば初版本収集に見られる物としての愛好癖がタブレット普及によって一掃されるのは爽快かもしれない、書物のモノ性が払拭されて純然たるデータとしての内容のみが競われる世界への突入…悪くはないが、文学芸の行く末はこの際どうでもよいが、ただ、電子媒体による流通が如何に張り巡らされ芸術様式が変容を余儀なくされようとも、残るものは残るだろう…それは、人間が人間の真ん前で引き起こしてくる、最も原始的な様式…例えば演劇であり、音楽ライブという方法は。ネットやテレビでの受容方法とは一線を期して、肉迫する体験をもたらすこの、古代から続く直接様式の格別が抹消される事はないし、そうなっては本当に終わりだ。現在では防音壁に隔離された小部屋に甘んじているとはいえ…ドームや武道館やアリーナや夏フェスなどは自治体主催の無意味祭り(国民体育大会、ヒロシマフラワーフェステバル、フランス革命時のロペスピエール主催の最高存在祭り)にまで公共的に磨滅しきっている。この直接様式の肝は、受け手が演者の繰り出す表現を調整・制御できぬ屹立した暴力性も要因の一つだろう。テレビやネットは受け手が音量や画像の大きさなど調節できるというのもあって。しかしそれよりもこの直接様式の肝は、やはり、受け手の眼前の人間が表現を繰り出す、という方法が露わにする、人間というのはいつなにをしでかすかわかったもんじゃない、という根源の体験であった。面倒なので「表現」という言い方を不躾にやけくそ気味に使ってしまった。「根源、ただそれだけだ。」と、草野心平の詩を評して、高村光太郎が述べたのを思い出した。

そして開かれる目に光を放射するものが開かれる   ヘルダーリン「ランダウエル」

reck:vocals,bass,synthesizer on no thrill *guitar solo on crazy dream *rhythm guitar on out
tsunematsu masatoshi:all guitar except*
chiko hige:drums,alto sax on cycle dance & out

拍手[1回]

PR

この記事へのコメント

Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
管理人のみ閲覧できます
 

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]