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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「三善晃/きこえるかしら・さめないゆめ(1979)日本アニメーション」



あんな体格の、身体能力に加えて組織力まで兼ね備えた超人みたいな黒人の人たちになんか勝てっこなかったんだよ、ワールドカップ、対コートジボワール戦での日本敗戦…なるべくしてなった、素直な実力の差だと思う…これからもっと超人的な選手たちの国と対戦するのだから、あとはずり落ちるように惨めに敗北を重ねるのみ、日本のワールドカップは終わった、と、北叟笑んでいる。村上龍原作のドラマ(NHK土曜日の夜)、55歳のハローライフ、だったか、秀逸であった。ああいう、定年を迎えた団塊世代の人が、結局志が足りぬゆえに、あるいは他者の存在を受容できずに枯れきらずに何かとジタバタするドラマとか番組、というのが好きというよりか、小生の好物であり、貪るように見てしまう性分である。リリー・フランキーが的確に演じていた。来週も絶対見てやる、と思う。

あれは今から十数年前の白熱の夏…二十代も後半に差し掛かった男二人が…アニメ「赤毛のアン」のシリーズを、うろ覚えだがエアコン無く、汗だらだら、徹夜で朝までぶっ続けで視聴したのであった…書物とマンガとレコードと段ボール箱らのうず高い尖塔がカサ・ミラやサグラダ・ファミリア大聖堂の建築物のようにぐにゃぐにゃ行ったり来たりのたりながら幾つもぶんぶん渦巻いている黙示録的光景の、文字通り足の踏み場が家主のすこぶる貪欲な知識欲情報欲がのさばる具合で万年床といってもまさに人一人ぶんの棺桶の幅くらいしか空きがなく蒲団の半分以上はやはり嵩張る書物とマンガとレコードの塔が崩れ風化した跡地のようにそれらがぎっしりのっかかる、そうした六畳一間の東京のアパートの一室で活動を進めていた先輩を訪ねて小生が上京、一宿一飯の宿、しかし前もって忠告されていたように本当に寝る所が皆無なのに辟易しつつそれが全く苦にならぬ展開になったのは…ちょうど先輩が借りてきたか安価で入手したか、アニメ「赤毛のアン」のシリーズのVHSビデオかDVDか忘れたが…幾つかのお奨め実験映像を視聴した後、赤毛のアンを先輩が画面に出したのであったがそれが最後、最早…片時もその画面から目を離す事ができぬ驚愕と陶酔の強制的持続に…始めは正坐で、夜明け近くになると足は崩すが心は決して崩さぬ集中力でそれこそアン・シャーリーという類稀にして破格の人間を凌駕せん勢いのままに一晩中動悸と、暴風雨と晴天が一挙に押し寄せたかのような激しい感動にその身をコテンパンに砕かれながら、一話終わるごとに集中による無呼吸からの解放もあって怒涛で改めて押し寄せる激烈な感動に四肢の端々までその潮に満たされびんびん延ばされながら息継ぎ息継ぎ、必死に、見たのであった…

L・M・モンゴメリ原作の「グリーン・ゲイブルスのアン」について此処で本論するつもりはない。(ちなみに朝ドラの影響でアンを取り上げているのではない。数秒しかそれはみていないし、あの朝ドラの作品性自体は、「想像力の欠片も無く」アンの世界とは今の処隔絶している、しみったれている)19世紀ヨーロッパで爛熟したロマン主義がついに海を渡ったアメリカ大陸において激烈に結実した、ロマン主義最後の仇花にして至宝の人間像がアン・シャーリー一人に受肉している…ドラえもんとドラゴンボールとハウスの名作劇場に育てられた私達だとしたら赤毛のアンを題材としたら原作が凄絶によいのだからそのアニメーション化はよくて当たり前なのかあるいは原作に負ける惨めに陥るのか、往時のアニメ制作者の覚悟は聞いてみないと分からぬがしかし残ったアニメ作品は、原作の文学作品に決して引けを取らぬばかりか実力伯仲しうる金字塔に仕上がっていた。それは、どこまでも原作の思想に忠実であることが、原作による縛りという打たれ弱い悪循環を跳ね除けて、むしろ原作からよく触発された作画上演出上の創意工夫をぐんぐんのびやかに屈託無く羽ばたかせているのである。

悪い例がマンガ「へうげもの」のアニメ化作品である。最早この国の至宝ともなった「へうげもの」、それをアニメ化するならば何らかの覚悟が問われるはずが、そうした覚悟を背負い込む知恵も度量も上滑りするような浅薄な連中がアニメ化に携わった不幸なのか…「へうげもの」の精神を何一つ分かっていないばかりに、原作がマンガだからというのもあるのだろうが原作の絵をそのまま動画にしました、といった態の、たいした工夫も無い、安易なものなのである、何よりも創意工夫が主題となっておろう「へうげもの」をアニメ化するのだから原作を馬鹿の一つ覚えみたいに当たり外れなくなぞってどうする、アニメ化に当たっても「へうげ」てみるべき余地乃至は新境地が当然開けてしかるべきだろう、だのにそれを括目することが出来なかった愚昧な制作者陣だから、あのような、原作を貶めた愚作をご丁寧にDVD化する破目になるのである。しかるに「赤毛のアン」アニメ制作者陣は…前述したように、誠に屈託無く、アニメという手法でもってアンを新しく止揚しながら原作の精神とアンという人間性をあます処無く表現しきっているのである。それは、見ている者に、打ち震えるほど伝わってくるし、往時の制作者陣の本気度が画面の細部で炸裂しているのである…それを数え上げたらきりが無いし、最高評価の批評というのはその作品をなぞる、臨書する、書き写す、カバーする、ということであり究極的にはその作品を、批評を伝えたい相手にそのまま提示する事に他ならないのだから赤毛のアンをそのままここに持ってくることになるのだから、この際、レンタル屋で借りて見てほしいとお奨めするしかない。

生活描写の細部に十九世紀の風俗が生き生き精密であるし、たとえばマシューが木型のような道具を用いてブーツを脱ぐ描写をきっちり描いている所など、細部の行き届きに作品の心が感応している。アンの、恐ろしくよく発達した前頭葉…都会の文物よりもアヴォンリーの自然からの誘惑にびんびん感じすぎるアン…(日曜学校にて牧師の話をよく聞いていなかった事を咎められて)「牧師様は私たちではなく神様に向かってお話なさっていたわ、だから、わたしは聞かなかったの」(他の少女らが造花の飾りの帽子をしていたのは怒られず、アンが、自らの創意の赴くままに、野で摘んだ花を帽子に飾ったのが叱られた事に対し)「帽子の飾りが、造花なら許されて、摘んできた花ではどうしていけないの」あまりに本質的な問いを澱みなく繰り出すアン。そつなく調子のいい「スクリーン」しか見せない「イラスト」ばかり持て囃される劣悪な現状を、「人間の神経系統に直結する絵画」で以って自ら告発した画家フランシス・ベーコンの仕事を思い出す。あと、気づいたこととしては、アンの話には茶会が多い、というのがある。洋の東西は違えど、茶の湯物語としても見ることができる。

見てなかった回があるのでリーガルハイを近所のツタヤでレンタルするついでに店内を視察しているとアニメ「赤毛のアン」シリーズがあったので、ふっと、前述の、十数年前の感動を思い興こし、アンをレンタルしたのであった…そして…泣いた。初回~十話まで借りて…一週間かけて4回ずつは再視聴したからアンだけでのべ40回は見た。その間にリーガルハイも楽しんだ。ついでに南の島のフローネも借りていたが、アンとは比較にならぬほど、まあ、普通の出来なんだろうけども、今となってはアンとは比較にならぬほど雑な出来栄えのアニメに思えた。とても見てられなかった。ちなみにツタヤというのはほんと劣悪な品揃えのレンタル屋であった…久しぶりにタルコフスキーのノスタルジアでも見たい、と思って探しても、あるはずもないとばかりに「そんなミニシアター系みたいな高尚なものなんかうちでは置きませんよ」と悪びれもせず言うような貧しい品揃えで、最新ハリウッド作品と売れ筋の国内&海外ドラマとジブリと萌えアニメと、申し訳程度にチャップリンしか置いていない。黒沢や小津すらも無いという殺伐とした割り切りである。寅さんもないってどういうこと?ツタヤといえば蔦屋、江戸時代の浮世絵の版元として北斎や広重や写楽などのさまざまな実験的試みを受け入れて世に放った、幕府の弾圧にも耐え抜くしたたかさと、芸術への眼力を備えた、懐の深い版元であったのに…。クソッタレ、と思う。放送中に見そびれた半沢の西大阪スチール編を最近、DVDで確認した折、半沢疲れともいうべき激しい充実した疲労に倦怠感がひどかったが、此度はアンを見過ぎてアン疲れが甚だしい。

 何よりも音楽がいいのである。三善晃作曲のオープニングとエンディングテーマが凄まじくいいのである。武満徹以降、現代音楽の聴衆離れという拭い難い風潮を横目に調性回帰へと短絡の一途を辿る日本現代音楽界にあって、調性と非調性の狭間に交響楽の歴史の成果を全て詰め込もうと勇躍した貴重な作曲家の一人である…それは、過去にこの王道なきロック史において言及した事があるが、今宵は本格的にそれを味わいたい。

オープニング「きこえるかしら」…よい音楽というのはビーチボーイズのスマイリースマイルにしろ何にしろ始まりというのがギロチンや火蓋が切って落とされたその瞬間が永遠に告示されるかのような素っ気無く速い始まりを始めて全てを置いてゆくのだがこれもまた凄い始まりで野原が既にして見えないほどの音の躊躇の無さが残酷なほど爽やかだ…この歌の凄い処は…冒頭の一節「きこえるかしら ひづめのおと」の後の、間奏による間、である…この一節の直ぐ後にそれに接ぐように歌詞が歌われるのが凡俗の普通の運びなのだが、あえてためらいも無く突き放したように悠々と詞を入れず、時間を出し惜しみする事の無い豊穣、この非連続が必ずしも断絶を伴わぬ自由さを即座に遊んでいるのであって…安易な慣性を許さぬ、捕まえられそうで捕まえられない蝶の飛び方のような外し処を随所に、線形な時間経過の中でなく流れが放射へと解放される潮の満ち引きの緩慢且つ気まぐれな噴流へと頂く玄妙なる間奏であって、脱臼した鯨の遊弋、ふと物思いから覚めたかのように何事も無かったかのような無垢なタイミングで「ゆるやかなおかをぬって かけてくるばしゃ」と歌うのである。ドビュッシーの交響詩「海」とマーラーの交響曲「大地の歌」が僅か1、2分に凝縮したかのような、細部の煌めきと大きい揺らぎを支える超絶技巧のオーケストレーションを惜しみなく投入している濃厚がある。この間奏では、更に、20世紀初頭の白人世界におけるジャズの受容形態ともいうべき、たとえばラベルであったりガーシュイン風のビッグバンドジャズのブラスを、擬古的に挿入する遊びもある。この第一節と第二節の運びだけで既に、これから活写されるアンという人間の真に迫る形を与えている。原作がそうであり、それをアニメがこの上ない尊敬を以って再現出しているのであるがアンという人間の表情というのは並の人間とは比較にならぬほど一定時間における表情の変化回数が桁外れであり、それはアンが想像の炸裂にまかせて言葉の羽を紡ぐように喋りたおしている最中は当然ながら、喋りと喋りの間の、たいていの場合は感無量で胸が一杯になって言葉が詰まっている時の、黙っている時においても、意識の流れが剥き出しのままに表情が、ころころ落ちる水滴のように無邪気に、20通りくらいは変化しているのである。だから、アンが黙っている時の表情の、川の瀬のように常ならぬ変化の流れのその沈黙の豊かさというのが、前述の間奏で、表現しきれているのである。その後のアニメ技法上の創意工夫とこの音楽の相乗はまさに計り知れぬほどで、むかえにくるの むかえにくるのね だれかがわたしをつれてゆくのね 白い花が渦巻く無限世界、どっさり宙を舞う落ち葉、凍て付いた樺の道に走る雪、しろいはなのみちへ かぜのふるさとへ 最早その全てを感覚しきれぬほど手が込んだ、所詮人間には追随出来ぬ自然、にまで昇華してしまっているので、こんなに小さな楽曲なのにまことに大掛かりに湧き上がる陶酔に身を任すしかない。つれてゆくのね つれてゆくのね…人間にはかないっこない美しい自然へと、この生死をゆだねる、確かな心の、あきらめの穏やかさ…

エンディング「さめないゆめ」…超高速ピアノの微細高音トレモロがにわか雨の気まぐれを強い意志で繰り出してくる有り得なさ…人間の思考や感覚というのを邪気無く、批評的に小ばかにしてあざ笑うのではない、少女らが折に触れてくすくす笑うように些細な刺戟に乱反射する、ただ面白いだけの笑いであり、人間にはその軌跡の起伏を決して悟らせない、それほどの速さが…速度というのが如何に人間の身勝手で傲慢な物理であるかというのを痛感させる。はしっても はしっても おわらない はなのなみ みずうみはとおく もえるくもはもっととおく…この破格の音楽の天国への階段は山が雲になった証し、そんな壮絶オーケストレーションが音も心も剥き出しに次から次へ、生まれては生み生んでは生まれる狂ったように絶えざる盛り上がりの盛り上がりの底を雷鳴のリズムがティンパニーだろうか情熱的にダーンダーンダーンダーン力の限りとことん叩き尽くされて銅鑼がドシャーン夕暮れの真っ赤に爛れた積乱雲が燃え尽きた…その瞬間の絶頂を少し越えた翳りがついに滔々と歌う…はなのなかで いちにちはおわる さめないゆめみたいに さめない ゆめみたいに…まだ懲りない超高速トレモロはすばしっこく裏駆けて姿もみえぬほど速い命、光そのものへと…熱く静まる…そのいとおしさ…余韻がいつまでも火照る。

アニメ「赤毛のアン」
製作:日本アニメーション・フジテレビ
演出:高畑勲
場面設定、画面構成:宮崎駿
作画監督、キャラクターデザイン:近藤喜文
アン・シャーリー:山田栄子
マリラ・カスバート:北原文枝
マシュー・カスバート:槐 柳二

オープニングテーマソング:きこえるかしら
歌:大和田りつこ 作曲:三善晃 作詞:岸田衿子

きこえるかしら ひづめのおと
ゆるやかなおかをぬって かけてくるばしゃ
むかえにくるの むかえにくるのね
だれかが わたしをつれてゆくのね
しろいはなのみちへ かぜのふるさとへ
つれてゆくのね つれてゆくのね

エンディングテーマソング:さめないゆめ
歌:大和田りつこ 作曲:三善晃 作詞:岸田衿子

はしっても はしっても
おわらない はなのなみ
みずうみはとおく もえるくもはもっととおく
はなのなかでいちにちが おわる
さめない ゆめみたいに
さめない ゆめみたいに

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