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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「はっぴいえんど/風をあつめて」


蕪村が好きで好きでしょうがない…詩も俳句も絵も…どっしりと軽い。スマホやそれに類する端末をいじって、そのいじる事が出来ることに得意になってる感が露骨な小学生などみると腹が立ってくる…ああしたものがどのように作られどういった原理で動いているのか分かりもせず、分かっていると自負しているにしてもウィキペディアを斜め読みして分かった気になってる、自分の考えで自然法則と事を構えながら自然をよく観察して仕組みを仮設して試行錯誤を繰り返して手を汚して物を作った事が無いくせにスマホのアプリに徒に操られて道具に使われていい気になるが如きは…。

衛星放送を見ることが出来ない貧困層が見る地上波は再放送だらけで充分と莫迦にしているのか地上波のNHKは再放送だらけなのだが、出土した、弥生時代の木製祭器を、現代の木工系人間国宝三人が、当時の道具(これも現代の名工の鍛冶師が再現)を使って再現に挑戦するETVスペシャルをまた再放送していた。内容は熟知しているのに再度、最後まで視聴してしまった午前1時。この番組については小生のエッセイ「白菜の終わり」に書いているので、再放送を再視聴しても感想は変化しないが…また、心が熱くなった、否、篤くなった。二千年前の名も無き工人の、実に理にかなって手間を惜しまず丁寧かつ工夫に富んだ真摯な仕事ぶりを、人間国宝たちが困難を極めた再現作業を通してまさに手と心で以って痛感し、篤き涙を流すというシーン…弥生時代の木工製品でさえもどうせ作れやしないガキどもがスマホいじっていい気になっているのを見ると、糞忌忌しくなって来る。

インタラクティヴアートやメディアアート、たとえばプロジェクションマッピングなぞ、建築物にプロジェクターで映像をテンポよく器用に映写して人心を公的に驚かすだけの…本当に下らないと思う。アンテナ立ってる、エッジの効いたクリエイター先生が如何に高度なアルゴリズムを駆使しようともやってる事はくだらない子供だましであり、大人の鑑賞に耐えるものではない。あんなものは、フランシス・ベーコンの三幅対の如き真の芸術に比べたら、恥ずかしくて自刃すべき屑の如き代物だ。

山岡&雄山の福島での鼻血問題は19日のスピリッツを待つしかないが、ここで留意すべきは、自民党の憲法改正草案では、「公の利益に反する恐れのある表現は認めない」としている、即ち山岡の鼻血といった表現は、自民党が目論む憲法では公然と弾圧の対象となること、である。以前にも書いたが、自民党憲法の下では表現の自由は無い、という事である。繰り返すが表現の自由とは、既存の公の利益という存在を批判すること=反する事そのものだからだ。総理、閣僚そろい踏みでの今回の対応はその前哨戦だ、と見ていい。

集団的自衛権の憲法解釈は、相も変わらずだが、憲法9条という神学論争を改めて公表した不毛に過ぎない。神学とは神の実在という神聖不可侵の前提を壊さずに、どうにも神の不在を信じるしかない現実の事例を、あくまでも神の存在で以って説明しようとするロジックの工芸品である。憲法9条という明文が意味する処を壊さずに、如何に9条の意味とはどう考えても異なる事案を、飽くまでも9条の意味に添うように解釈しようとする神学答弁の虚構はもう、今更、そもそも自衛隊や日米安保でも効力を持ってしまっているのだから、今更また言い訳がましい神学論争する集団的自衛権に、目新しさは無いが、そうした常態化もまた承認構造への便乗へと託つのに一役買っているのだろう。日米安保という、9条から神学的承認された、9条の衛星的神学を否定する気が無いなら、9条の神学的衛星の日米安保の神学的衛星の集団的自衛権行使もまた神学的に承認される、という…もう、何にも新しくは無いが、…いう事は無い。批判するなら日米安保をイシュー(問題)にすべきだが情勢から云ってどうせそれをしないならば自動的に集団的自衛権はイシューになりはしない。だが、問題というのはいつの時代でも、有り触れた、馴れてしまっている、思考停止のこの大勢この岩盤そのものである。

国家や資本側による労働環境の悪化=搾取化もまた顕在化鮮明化している…幾たびも繰り返されてきたし資本主義体制の必然であるのは分かりきったことであるのに…労組軽侮の論調が国家=資本から一方的に吹聴されようとも…結局どうにかできるのは労組しかないというのは歴史のみならず、歴史的に資本と闘い続け、今ではそこそこ恵まれた労働環境を得ている現在の大企業の製造業における労組存在を見れば分かることだ。食品、衣料、ITその他新進企業などは労組を作らぬことを採用条件にする手口など…これもまた昔からある手口だが…ブラック企業などと呼称するとさも現代的な問題に聴こえるが全くそんなことはない、産業革命期から根強く昔からある問題だろう…そもそもそんなのは労働三権を明記した憲法違反であって、しかしいまだに昔ながらの悪質な方法が効いてしまうという実情は、自分の知りたい事を自分の範囲内でしか知りえないコンビニエンスな検索情報を貪るばかりで、無制限に乱雑極まりない過去の人間の蓄積した知識の大海を自ら遊泳して獲得した知恵をおざなりにした若年層自身の怠惰によるツケともいえる。ようするに馬鹿にされているのだ、馬鹿にされていることにも気づいていないことも馬鹿にされて思う存分、昔ながらの資本の原理から搾り取られている。もっと詳しいことを云えば、ポール・ラフォルグ(マルクスの娘婿)がかつて提唱した「怠ける権利」という概念が布石となってくるのだが…これもまた長くなるので次稿に譲る。

昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。
先にあったことは記憶に残っていない。
これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。 
…旧約聖書 伝道者の書

旧約の伝道者の書の一節だが、この一節はたいしたことないがこの伝道者の書、これほどに震撼すべき書物を小生は知らない。

ルソーが述べている、近代代議制の限界は、単なる現実であるし、それについて小生は超克の必要を訴えるのではないが、肝に銘じるために挙げておく。

他人の自由を犠牲にする事無しには自由を保つことができず、市民が完全に自由でありうるためには、奴隷は極端に奴隷的でなければならぬ、という不幸な状況がある。それがスパルタの状況であった。諸君のような近代人は奴隷を全くもたないけれども、諸君自身が奴隷なのだ。諸君は、諸君の自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ。…(中略)…それはともかく、人民は、代表者をもつや否や、もはや自由ではなくなる。…ルソー「社会契約論」

もう、云ってしまうべきなのか。昨今の内政および外交全ての問題の根底を…云い惜しむ余裕など最早ないのだろう、あと一年後から小生が執筆を開始する創作文書においてこそそれはきっちり告発されるはずだからずっと我慢しているのだが…先に云ってしまおう。19世紀と20世紀の世界は、18世紀の西洋の啓蒙思想の遺産を食って生きてきた…21世紀になって最早…西洋啓蒙思想(基本的人権、人間の尊厳、etc…)がその効力を失墜しているのだ、少なくとも非ヨーロッパ圏においては、と。啓蒙思想とは何なのか、を歴史的思想的に追究すれば、現在の状況=時局は全て手に取るようによく分かる。この難局を乗り切るには…結局私達が私達自身で新たな啓蒙思想を創出せねばならぬ…それは啓蒙思想と呼ばれないにしても…そうしたありようがそもそも啓蒙思想なのだ、ということがあまりにも現在、忘却されている…今回は此処までに留めよう。

あらためて原曲をきちんと、音の房を掻き分ける具合にその陰陽の綾を聞き取る機会を得ずして綴ろうとしている…「はっぴいえんど」の「風をあつめて」について…だから隔靴掻痒のもどかしさは否めないにしても、漫然と垂れ流すテレビから、風をあつめてが聴こえたがそれは、21世紀になってよくありがちの、往年の邦楽やJポップをボッサノヴァないしはニューソウル調に、シャレ乙な感じにアレンジを施したそれではあり泡沫の憤怒が火花を散らす刹那もありつつむなしい大勢の流れに押し流されるしかないそれでもまた怒りが…シャレ乙な、例えばカリモクのソファなどナチュラルでオーガニックな趣向でしつらえたカフェなどでしばしば遭遇する世界観…それでも、件の、糞不味い珈琲と腐ったダシ汁の臭気が充満するフォーク崩れ親父の、ごてごてとつまらん伊万里の金襴手の皿など飾り立ててそこかしこに汗と油で湿った埃が堆積して総じて不潔な、昔からやってる純喫茶の劣悪よりはこの際ロハスカフェのリラックス感と緩やかなコミュニティ感を控え目に出すがそれゆえに情報巧者なあざとさが拭えぬオーガニックカフェの方が幾分ましなのだと思えど…返す返すも腐ったダシ汁純喫茶への憎悪は徒に煮えくり返るが…はっぴいえんどやユーミンなどの楽曲をシャレ乙ボッサ調に塗り替えてシャレ乙カフェの空気感の演出に供するそうした感性への批判をここで展開するつもりはなく(京都のバンドくるりの功罪?)、「風をあつめて」のシャレ乙バージョンをふと耳にして多少のいらつきを超えつつ自分として思い起こしているのは直接的に、原曲の、はっぴいえんどの風をあつめて、ではあった。十数年前…ロックという音楽の探求を、小生が負うべき音楽全般研究の一貫として始めた頃…当時入手しづらかったエクスペリメンタルないしはコンクレート、フィールドワークや音響系音楽などは、各種の実験音楽雑誌(私家版)に載っている気骨あるレーベルやレコード屋さんに手紙を書いてカタログを郵送してもらい、そこから満を持してこちらで選んで手紙で注文、先方から代金の総額と振込先を明記した手紙を受け取り次第入金して目当ての音源を郵送してもらう、ということをしていたが、ロック研究においてはそこまで流通が厳しくないと踏んでまずはレンタル屋で片っ端から基本的な音源のCDを借りて個人的に楽しむためにテープに録音、という方法を取っていた。その一貫としてはっぴいえんども、テープに採っていたから、はっぴいえんどのCDやLPは所持していない。

天袋に仕舞っていた小生収集のテープ群から埃塗れになって探し当てたのがこれだ。収録曲の配列を見る限り「風街ろまん」や「(通称)ゆでめん」といったオリジナルアルバムではない、それらの寄せ集めのベスト版のCDをテープに複製したもののようだ。しかし、このテープをかけてみると、中からはザッパ&マザーズのフィルモアイーストやアナザーバンドフロムLAが脂っこく聴こえて来てむさ苦しい事この上なかった。恐らくはっぴいえんどのテープの上にザッパを上書き録音したようだ。したがって、風をあつめてのオリジナル音源を確認すること能わず。ユーチューブといった方法も承知しているが、それは違うと依怙地になっている。だから、専ら記憶に頼るしかない。そう…文庫でいえば岩波文庫なのだろうか…「真理は万人によって求められる事を自ら欲し…」で始まる岩波茂雄の発刊の辞、これは三木清が代筆したものであるのは人口に膾炙するが…そんなことは御構い無しに、納屋に仕舞いっぱなしの古い壷の底に澱む歴史の古層の空気が…ボフォッとげっぷするふてぶてしさが熱く濃い塊のようで…この場で古式ゆかしい日本語ロック論争に参戦するつもりはないが…黒く湿った呼吸が初めて日の光を浴びた音楽がのっしのっしと。どっかどっかと、騒ぎ立てとは技の組み立てが異なる、物の音のような生音感がエレキを通して、暮らしている。朝日を浴びては夕日に目を掠めている生活。小生が悩んでいるのはこの音楽の、音楽的立ち位置などではない、そんなものはどうでもよい、寧ろはっぴぃえんどが澱んでいた、納屋の暗がりの古い壷が何なのか、である。山陰の地で荒みの祖神スサノオとバトルした八岐大蛇が大いに呑んで呑まれて呑んだ酒、機嫌よく八回も首を切られたこの酒を入れた甕は備前焼だった、と「伊部焼通史」(鳥山信次著、昭和十二年六月五日発行)に記され痛快なのだが、はっぴいえんどは何焼の壷なのか、に苦悩している…やはり古備前なのか、と思う次第…メジャーなのに譲らぬ所は決して譲らぬ手際が寡黙ながら確実に切れており、誤魔化しを許さぬ気質がある…丹波の獰猛ではないし、常滑、信楽、越前系の分かりやすい陽性なポップスとは、この頃のはっぴぃえんどはまだ隔絶していた(常滑~信楽~越前焼の大らかな伝播、汎用性、自由度はGSであろう、もっといえば常滑焼はタイガース、信楽焼はスパイダース、越前焼はジャックス?ゴールデン・カップス?)…古瀬戸釉のような舶来憧憬はフラワートラヴェリンバンドか、はたまた和製プログレ系の四人囃子か、と…一体何を云っているのか、自分でも頭がおかしくなったのかと思う。こうなると、ならば唐津焼はどのロックバンドに相当するのか、萩は?益子は?、と、焼物を主としてロックバンドを語る奇怪な牽強付会に陥る…しかしあながち間違ってはいないと、北叟笑んでもいるのだが…とはいえ、はっぴいえんどに古備前を思うのはあながち間違いじゃないにしても、さらなる可能性を突き詰めるならば、珠洲焼も見落としてはならぬと自戒するのだった。能登半島の突端で、これまた独自に連綿と、途絶えながらも今に至る孤児の如き、須恵器の生きた化石、青備前の典雅を詰るが如き、野卑にざらついて青黒い還元焼成一筋という稀有。そう思うと、そうした一面もないわけでもないが、はっぴいえんどを珠洲焼一つに収斂するのは無理があろう…やはり備前だ。

裁判が結審していない以上、推定無罪の原理を尊重するが、シャブ&アスカ(チャゲ氏に失礼この上ないが、あまりに秀逸なので週刊文春でのえげつないこの表現を踏襲させて頂きたく)。yah yah yahの冒頭は予言的だった。細君が揶揄的に気付いたので、それをここに記す。飛鳥氏は、「その気に」なってしまったのか。こうなると全てが揶揄に聴こえる。創作するミュージシャンの苦悩を慮るも、シャブは幻覚妄想で殺人に発展するから取り締まりはやむなし。此度の騒動が、彼の才能と人人に対する認知度の再燃の好機になることを願う。say yesやyah yah yahよりは、love songやはじまりはいつも雨、に、何ともユニークな音の連なりがあった。頼りにすべきはチャゲ氏しかいない。

必ず手に入れたいものは
誰にも知られたくない
百ある甘そうな話なら
一度は触れてみたいさ
勇気だ愛だと騒ぎ立てずに
その気になればいい

日曜日の昼間、何でも鑑定団二本立てをぶっ続けで視聴してしまった退廃に苦しむ小生であってみれば、陶芸家夫婦による骨董屋殺人事件が、身につまされる。堺雅人氏が次の次のNHK大河ドラマの主演真田幸村に抜擢されたとの由、この不幸を悲しむ。当代一の俳優堺雅人氏は、「へうげもの」の主人公古田織部役でこそ、その都度創意あふれる演技で「へうげもの」世界に匹敵するであろうし織部を演じることで堺氏自身も新境地をひらくというものを…三谷氏脚本の真田物というのも、「新撰組!」を過去にやっているのだから予測がついて、新味に欠ける…そんな、先の見通しの無いドラマで堺氏のキャリアに汚れが付くのを黙ってみては居られぬ…加えて、幸村を堺氏がやるということは、へうげものを大河ドラマで堺氏がやる可能性が払底されたことを意味するのだからその絶望たるや。

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