ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「franz schubert(1797-1828)/the last three piano sonatas D.958・959・960 three piano pieces D.946 philips438 703-2」 2009年3月21日 鬻春
第3回目の茶会記を記録しました。左にあるので今すぐクリック!
本日、広島市内の段原骨董館に繰り出してきた。複数の骨董店が寄せ集まったビルである。店先で骨董関係者の者らが屯して内輪の話で大声しているのを見て、今や小生にとっては、めったに客なぞ来ないであろう骨董街のありふれた風景ではあるものの、感じが悪い印象は拭えぬ。しかし人間の薄汚さとは関係なく、彼らが鬻(ひさ)ぐ器物の方が遥かに重要である。致し方なく、屯している処から比較的遠い店に入ると、店主と思しきおばさんと、客なのか友達なのか分からぬおばさんが世間話。そうはいってもなかなかに品は廉価で良く、三品ほどお助けしてきました。
NHKの美の壷が終わった後、例によって芸術劇場。この度はモーリス・べジャール特集であった。モダンバレエを代表するのコリオグラファー(振付師)である。ボレロの公演でよく来日するシルヴィ・ギエム、男か女か分からぬが誰か彼または彼女の独断場の踊りを止めてくれ、と懇願したくなるほど抜き差しならぬ踊りを燃やす上半身裸に見えるギエム、どうやら女性だったようだ。男たちを従えながら、朱塗りの円盤の上で、ボレロと共にひたすら高まり跳躍を決める彼女の不世出を今更述べるまでもないだろう。あの朱塗りの円盤が漆なのかどうかが気になる小生である。ボレロも、単調のようでいて、いわゆる西欧古典のソナタのような弁証法ではなく、どちらかというと日の本の序・破・急のようで、一方的に爆発する投げやりが、よい。バレエは直線的か円状の動きが多いが、その中にあって、膝を曲げるポーズは、バロック的な退廃を際立たせて、興をそそるものである。あと、チャドの民族音楽と共にあった踊りも直接的に卑猥であった。サイケデリアの野生の平和は、アフリカの野生の平和であった。
さて、シューベルト晩年のピアノソナタである。ロック史とは全く関係ないが、しかし、よもやロックに思いを致す者で、ロックしか聴いていない者など、有り得ないだろう。ベートーヴェン生存時の音楽としては、ベルリオーズと並んで、誠に奇妙な音楽性を有する作曲家である。一般的に、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの古典派と、シューマン・リストなどのロマン派の過渡期にあたり、その事に異論はないが、小生としては、ベートーヴェンのゴリゴリ骨太音楽とモーツァルトの天上韋駄天音楽との合いの子のようにも聴こえ、即ち遅れてきた古典派であり、非常に数寄である。いたずらな深刻さはなく、世渡り上手そうな軽やかさもなく、野暮に聴こえる寸前の洗練が、田舎とは一線を画する純朴である。洗われたような魂が惜しげもなくポロポロと袖から転がり落ちるような音楽である。聴けば聴くほど沁みます。ちなみに、演奏は、小生好みの、アルフレッド・ブレンデル。漆界で言えば、螺鈿や蒔絵のような技の華からは遠いが、しかしひたすら木目の渋さを浮き上がらせる拭漆を愚直に丹念に重ねる類のピアノ職人である。
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