ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「frank zappa/lumpy gravy(1968) rykodisc rcd10504」 2009年4月18日 忘冬
不況の煽りを受けて第二、第三金曜日が休業となったため、己の内観を深める契機にすべきだがそうは問屋卸さず、暁を見届けての春眠三昧。おかげで余計頭がすっきりしないので無駄に長い朝寝昼寝夕寝と相成る愚行ぶりに辟易しながらも、三昧の合い間に読むは、井伏鱒二の他愛無くも滲みる随筆「点滴・釣鐘の音」、そして道元禅師の「正法眼蔵」であり、それなりの充実を図ろうとする性急なさもしさが、禅師の鉈のような容赦ない漢文とともに暴発する仕儀。岩波書店版日本古典文学体系のものを読み始めたのだが、前座として所収されている編集者の解説読むに、中世日本の無常観の断絶、を指摘、証明しようとしていたのが気にかかった。要約すると、特に徒然草や方丈記において、冒頭から中盤までは、どちらかというと意匠としての無常観、ファッションとしての無常観であったのが、後半では内省的な、いわゆる本気の、カッコつきでない無常観に変遷した、と言いたいようなのである。前者の無常観は、現世の、たとえば戦乱や旱魃、飢饉、大風や武家の台頭貴族の没落などといった現象を目の当たりにしての率直な感想程度だったのが、後者の無常観は己と世の原理としての無常、即ち中世仏教の影響が色濃くなり、その中でも、「正法眼蔵」の影響は多大だ、と言うようなのである。通説どおりの、いわゆる、日の本固有のへなへな多神教文化に対する、外来としての仏教あるいは儒教原理の対立、による日本思想史の変遷、という図式に対する批評力は小生持ち合わせていないので何とも言えぬが、そう云われると、中世仏教と無常文学との関係のみならず、本居宣長の漢心批判に代表される国学勃興、とんで第二次大戦前後の日蓮門徒の国粋的動き(血盟団、あるいは関東軍の石原莞爾)やロマン的動き(宮沢賢治のイーハトーヴ幻想)、が教科書的に思い出されるのは小生だけではないはずである。
それはさておくとして、言語表現のひとつに比喩、なるものがあるがあるが、「正法眼蔵」や新古今和歌集なぞ読むと、小生にとっての比喩表現がいかに西洋の、たとえばロシアフォルマリズムやチェコ構造美学に毒されていたかが分かる。こうした理論では比喩は実際に対する過度な強調や異化によって印象を強める事で物語移入を促すとされている。対して、老荘でもそうなのだろうが正法眼蔵に出てくる水や月といった物象は異化ではない、ありのままの表裏無い相なのだろう(原理、というと違う気がするし、未熟な小生にはまだ何ともいえぬ。)。あるいは新古今では、枕詞掛言葉縁語の重なりによって、歌の対象を強調するのでなく、むしろ淡く淡く印象を消し去ろうとする彷徨、といった主張の論文を、うろ覚えだが、「国文学 解釈と鑑賞」という雑誌で読んだ気がする。
それはそうと、正法眼蔵、煙に巻かれながらもビシビシ鞭打たれるような面持ちで読まざるをえぬ。禅系の書物は無門関でも臨済録でも以心伝心なのか暴力的だなあという素朴な感想持っていたが、道元には、文学的表現を拒否すべしと言いながらも言葉への執拗がある。なかでも山水経などは、既にブランショ的夜でありながらもしっかり現実、であり、小生励まされます。現成公按の一説をここに写経。
人の悟りをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も爾(弓偏あり)天も、くさの露にやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
なお、意匠的無常から内省的無常へ、という指摘であったが、正直なところ、その差異の明確は非常に難しいのではなかろうか。その差異は在ると小生も考えるが、説明は、何とも困難である。翻って、サイケデリアはどうだろう。これまで、いうなればファッション的サイケデリアを否定し本気のサイケデリアを顕彰してきたが、実のところ、この王道無きロック史では、その論拠をいっこうに説明できていない忸怩がある。また、実際のところ、ファッションが駄目で本気がよい、と言える根拠は無い。ただ、21世紀になって出てきた、ラブサイケデリコ、などというバンドの音を聴くと、小生の鼓膜が般若のごとく怒りと悲しみの形相に歪むのは事実だ。真正のサイケデリアは野蛮であるとか凶暴であるとか性急であるとか獰猛であるとか、形容詞を無責任に連発してその差異を煽るだけ煽るだけで、決定的なことは何一つ言えていないことは賢明なる読者諸氏には承知のうえ、見限る方もおられよう。音楽を単なる現象的結果と思えば、ドラムとベースとギターの配合の妙を技術的に記述する事でサイケデリアを記述できるかも知れぬが、小生、そうはさせじ、と考える。悲しみを、脳のホルモンのある種の電流で説明しようとする頭の悪い脳神経学者の愚を思えばこそ。道元も、薪と灰は関係ない、薪が燃えて灰になるというは嘘だと喝するように、電流と悲しみとの関係は如何に再現性があろうともそれは科学的盲従に過ぎず、再現性は関係性を保証する絶対ではありえない。科学的再現性などは人間の寿命内の有限回数に過ぎず、従って関係の絶対性を保証できない。科学的再現性とは、そうした脆弱な関係性が、せいぜい統計学的推測上の正しさ、にすり替えられたレトリックに過ぎないのだから。聞けば分かる、と言えばそれまでであるので、勉強します。
このほど、久方ぶりに、日の本が生んだロック史上最高峰のバンド(ここではあえて名は出さぬ。いずれがっぷり四つに組んで論ずるゆえ。2007年解散?)のアルバムを聞いたが、至高の音楽であるにも拘らず、その溢れんばかりにエンターテイメント性のせいなのか、その楽曲の多くが小生の欲するサイケデリアとはどこか違ってファッションに過ぎぬサイケデリアに留まっている節があり、小生のささくれ立った心が今一歩のところで癒されず残念に思えたので、こうした事を書いた次第。はたして日の本に誠のサイケデリアが生まれるのか?
さて、ランピーグレイピーである。サードのwe're only in~の姉妹作品である。ザッパ個人名義の最初のアルバムであり、ロック色は薄く、ザッパの現代音楽趣味が固執したスタジオワークごりごりミュージックコンクレートサイケデリア作品である。お楽しみあれ。
FRANK ZAPPA
THE ABNUCEALS EMUUKHA ELECTRIC SYMPHONY ORCHESTRA & CHORUS
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