忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[386][385][384][383][382][381][380][379][378][377][376]

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「cafe jacques/international(1978)esca7851」



修造の基地外耳美田(きちがいじみた←万葉風)テニス教室のテレビ光景は黙殺するとして御嶽山での捜索中止を決めた捜索隊員(自衛隊、消防、警察の混成部隊)へのひとまずの手向けに、地元の幼児が歌を歌って捧げ、隊員が涙する、というこれまた気違いじみた光景が繰り広げられて反吐が出る。特に自衛隊員は、徴兵されたわけでもない志願兵であり、己の意志で好き好んで国家や国民のために己の命を捨てる事を率先する人間であり、そのために莫大な血税を投入して日頃は生産関係免除で訓練と称して遊ばせてもらっている連中である。訓練中に死ぬこともある危険性などここではどうでもよい。遊びといっているのはここでは生産に何の寄与もしない故に経済的に無意味な活動という意味である。軍事産業や、それの基盤となる思想として、軍事力が国家間における牽制効果という安全保障に寄与し、ひいては健全な経済活動にも一役買うといった言説もここでは妄想として切り捨てる。要するに有事の際に国民の捨て石となって国民の生命と財産を救うのが彼らの純然たる「仕事」であり、本人らもそれを承知で務めているのであり、そのために国民は莫大な税金を投入しているという一種の社会契約関係が成立している以上、彼らが災害現場の危険区域において行方不明者の「捜索」活動をしているのを見て、国民は、わざわざ涙を流して感謝したり子供に歌を捧げさせる必要など微塵もないのである。彼らがその辺の百姓で無報酬で危険をかえりみず捜索しているというのであるならその純然たる親切に対して涙流して感謝してもよかろうが、事情は先述の通り、地位とそれに見合った報酬に基づいて仕事しているだけなのだから本来、勇敢な無償の行為に対するような感情的な感謝などいらない。むしろ、火山灰に足を取られるだの雨が降って土石流の危険がどうのと理由をつけては捜索が遅々として進まず冠雪が来て、不明者を残したまま捜索打ち切りとなった体たらくや、隊員の一部には火山性ガスや酸素の薄さによる体調不良で役に立たなかった者も発生したという、日頃の訓練の内容を疑問視すべき軟弱ぶり、軍としての練度の低さをこそ非難すべきである。感謝するにしても、野菜を作った農家の人にお金を渡して野菜を買う時に一言「ありがとう」という時ぐらいの、限りなく日常の挨拶に近いレベルでの御礼が妥当であり、国民の、自衛隊への感謝の念が選挙権の無い子供を使って表明される現象などは明らかに過剰な、この国の行く末を暗示する薄気味悪い傾倒である。唯一、この「過剰な感謝」に価値があると考えるならば、国防に命を捧げた者らの命と、守られるべき自分ら国民の命の価値の分別もつかない国民性だからして、隊員の命を大事にしない、即ち、隊員が危険な事をするのにたんまり感謝しないという事が、そのうち、国家が国民自らの命も大事にしない事の前例というか布石になりうるから、その可能性を予め潰すためにもここは「過剰な感謝」を持ち上げておくべし、という論法があるくらいである。だから本来ならば、集団的自衛権に関する国会質疑などでよく言われるような、「自衛隊員に死者が出る可能性はあるのか」などといった懸念は、自衛隊員と国民の命を混同した迷妄であり、問題にすらならない事なのである。自らの意志で望んでいるのだから自衛隊員は死んでもよい、しかし国民は死んではいけないというか死ぬつもりはない、というごく当たり前の分別が何よりも肝要である。ここでは公式に流通する建前だけを問題にしているので、死ぬ覚悟はないし死ぬつもりもないが軍事数奇が嵩じて入隊したといった人間の自由意志は、問題にしていない。

しゃっくりを窒息で止め野分前

喉がらむ風邪と漬け丼月の蝕

いつまで経っても収まりがつかぬ内心の荒れ模様…嫌らしい隷属への無理強いがドメスティックに内政化されて拘束して来るものへの憎悪の静電火花がちらちらと発作し、堪え切れぬ癇癪へと内的に切望する薄暗さが煮え滾る夕べ…英国の不思議隙間産業的バンド、カフェ・ジャックス…先週の「悪趣味の系譜」の行列式に、「AOR」という分野を挙げておくのを失念していたが、



そうした既成の文脈の組み合わせをここで再現することはむしろこのバンドが醸す音楽性を放逐する事になるのだろう。ザ・バンドやリトルフィートの重厚なコクを巧緻な電化処理によって、上っ面の装飾でなく楽曲構造的にぎっちりプログレ化しつつポップスの転結をいやらしいほど自然にわきまえており、近未来の路地裏に取り残された臭み系純喫茶モダンポップである。時折醇乎たる分厚い叙情をドハアと分厚い毛深い胸板から滲み出してくる歌の流れが目玉と鼓膜の裏から噴出する…。ライナーを確認するとこのアルバムに参加したメンバー数、そして取扱い楽器数が多すぎてとてもじゃないが書写出来ない。実際の音は、簡素とまではいかなくとも適材適所よくまとまっており、音数や楽器数の多さを感じさせない作りである。それにつけても、こうした、およそロックという音楽のあらゆる問題意識をすべて受け止めて正面突破しようとした誠実な産物であるモダンポップ/モダンロックが何故か一般的には、奇想のひねくれ音楽として聴取される矮小化に忸怩たる心の熾火冷めやらぬも、解釈抜きにこの不思議な誠実に対して、今でも、小生はドキドキ翻弄される。関ヶ原で徳川本陣を掠めて敵中突破して薩摩に無事帰還した島津の不逞を想っては胸のドキドキが収まらないこの暑い感覚…。

この大事な時に…この期に及んで払拭できぬ気ぶっせいの憂さを晴らさんとした過度の飲酒によってまたしても口内炎を再発した兆しが…下唇裏の両端の定位置にまた…分かっちゃいるけど止み難い毒素チップスの爆喰いの報いがいぎたないまでの正確さで押し迫る…何を食っても患部に浸みて激痛が人生の楽しみの全てを根底から突き崩してくる…今さら服用したとて何の効果もない事は分かってはいても気休めにまたウヰスキーでビタミン剤を服用する惨めも再発。不透明な蛍光イエローの排尿も再発。チャイコの6番の悲愴を…ささくれ立つ表層の神経に浴びたからとて苛立ちは炎症するばかりで無暗に急く。思えばこのチャイコフスキーの6番の楽曲構成の出鱈目さといったら実に痛快で、まるで抹香鯨の胴体をぶった切って浜辺に不法投棄でもしたかのような賑やかな非尋常であるから聴いた事のない方は一聴していただきたい。NHKスペシャルの、昔の白黒フィルムに色を付ける企画で看過できなかったシーンは、60年安保闘争で国会議事堂前でデモる群衆の中で翻る赤旗から離れた処で黒旗がわずかながら散見できた事のみならず、関東大震災の映像で、「萬朝報」(黒岩涙香、幸徳秋水、堺枯川、内村鑑三…)の文字を白ペンキで大書したトラックが一瞬、通り過ぎた事である。

馬鹿犬がまた吠える…NHK「シャキーン」の金曜日バージョンは…(と、ここで、書く気が失墜したのでこの話題は次回に回すことに)

来週は所用につき休載します。次回は11月2日です。

拍手[2回]

PR

この記事へのコメント

Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
管理人のみ閲覧できます
 

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]