ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「bob marley&the wailers/uprising(1980)」 2008年8月24日 赤口 初涼
レゲエといえばボブ・マーリーと思われがちかもしれないが、ボブのレゲエは一般的な他のレゲエ、例えばラバーズロック的なものと異なる。その主だった違いはブルース色の強さである。ボブの楽曲あるいはギター奏法はレゲエの中で最もブルース的であることが、レゲエのみならずロックにおいても際立っている。レゲエは言うまでも無く英米のジャズやロックと、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエを神とするジャマイカ地産のラスタファリズム音楽との習合である。レゲエの前身スカはブラスジャズとラストとのタッグであり、そしてレゲエはロックとラスタとのタッグ、そしてダブはロックにおけるエフェクト処理(テクノの一手法)とラスタとのタッグであった。このようにしてレゲエ流派はロック史に伴走した。昨今のレゲエはヒップホップのがなる煽りを取り入れているようだが、これは、ラスタ的反抗を忘れてしまったように聞こえる。
ラスタマンの約束の地エチオピアは旧約にも出てくる通り、自然宗教の多いアフリカには珍しく一神教も根差し得た国であった。レゲエの特徴であるワン・ドロップリズム、フェードアウトして終わる無限持続性と、レベルミュージック(反抗の音楽)であり一神教でありながら排他的でなく、どこか大らかな南国音楽、といった諸特性の関係は気になるところである。ボブの作品はいずれ全てを取り上げる予定なのでその度にこのテーマは深めたいと思う。それにしても、例えば、このアルバムではないがボブの「レボリューション」というナンバーにしたって、体制への抵抗ないしは革命を歌うにしては、内気で、小さい感じで、鬱屈した楽曲が多いのはなぜだろう。そういう音楽なのである。無論挑発的な調子のナンバーもありはするが、敵への攻撃への突出よりも、連帯へ向かう内的なベクトルが大きい。リスナーの好き嫌いが分かれるところであろうが、この、音楽における好き嫌い、あるいは趣味界における好き嫌いについては、今後じっくり腰据えて論ずる。
さて、uprising。ボブ・マーリー&ウェイラーズの最期のアルバムである。私はわりにこの、これまで濃かったエフェクトの曇りがすっきり晴れて涼しくも透明で、枯れたアルバムが好きである。悪化してゆくボブの体調のせいもあるかもしれぬが、寂しげである。もう既に、バンドごとどこか遠くへ遠ざかりながら奏している。例えば大長編ドラえもん「のび太の宇宙開拓史」(傑作!)で、ロップル君とチャミーが住んでる別の島宇宙と地球ののび太部屋の畳をつなぐ入口が、回路が、切れかかって、今まで一つだった入口が二つに(!)分かたれて二つの世界間の距離が異次元を介して大きくなる悲しさ、寂しさである。
「リデンプション・ソングス」(信仰の歌)絶唱。
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