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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「the pretty things/s.f. sorrow(1968)smmcd565」 2010年3月21日 春雷

 
 「ひまわりっ ~健一レジェンド~」の最終巻を買いに行く。モーニング誌を毎週立ち読みあるいは購買しているので内容は熟知しているが、一応コミックスもこれで全巻揃った。宮崎県出身の人に聴くと、やはりうどんにコシはあってはならないとのことだった。チキン南蛮についてのこだわりは聞くの忘れた。始まった新連載「主に泣いています」は、笑いのツボや読者層をいささか狙いすぎの感があるが、まだ初めなので様子見の段階である。
 床屋に行く。小生がお世話になってきた床屋列伝もまとめれば面白いかもしれないが、差しあたって同じ値段でできるだけ多く切ってもらいたい小生は80年代テクノカットを意識しつつももみ上げをスパッと落としてもらいたい美意識を密かに有しているが、最近行っている床屋は、「もみ上げは自然にしときましょうか」と聞いてくる。答えるのが億劫な小生は肯くのみのため、何だかナチュラルにもみ上げを残され、内心、恥ずかしく思っている。否!と云える勇気と元気を、読書以外何もしたくない休日の小生に要求する今風のこの床屋を気弱に逆恨みする始末。
 旅から戻る。真言宗総本山高野山金剛峰寺とその周辺で茶の湯三昧。野点という転戦に継ぐ転戦を繰り広げ、多いに楽しむ。その様子は後日「茶会記」にて発表する所存なので乞うご期待。ちょうど亡き祖父の三回忌とも重なり、故郷熊本で執り行われた三回忌の別働隊として、ごんぶとの線香で忍ぶ。その夜は団塊ジュニアの自発的な媚びについて、宿坊の湯船で友人と二人、多いに気炎を吐く。出会い、別れ、その悲しみに襲われまいとする無神経が続き、反動の虚脱、吹き上がる悲しみ、続く日常へ…。
 とりあえず義務なので記載しておくが内心やる気はほとんどないので淡々と通報させていただく。団塊ジュニアによる団塊への媚び現象がまた発生した。場所は青年向け漫画雑誌モーニング。モーニングの新人賞は従来の漫画原稿の形式に捕われない、他誌と画期した幅広い企画であるが、そこでの受賞者の原作ストーリーを、かわぐちかいじ氏が絵にするという漫画企画が先週か先々週か先々週、巻頭に掲載されていた。かわぐち氏はへうげものや島耕作とならぶ、いわずとしれたモーニングの看板作家。沈黙の艦隊やジパングで高名であるが小生は竹中労監修の黒旗水滸伝~大正地獄編~の絵師としての功績が記憶に残る。あの、大正アナキズムの最暗黒運動を描ききった傑作の絵師が、なぜかような原作の絵など描くのか、結局はその程度の認識の持ち主であったのか、と幻滅もしつつ、怒りの矛先は受賞した原作者に向かわざるをえない。
 物語の内容は、ビートルズのコピーバンドであった。同時代にビートルズを経験した団塊らよりも若い団塊ジュニアであるらしい、the Fab4というコピーバンドらは、スタジオやパブに巣食う団塊の人から、「君らみたいな若い人たちがビートルズのコピーを真面目にやってるなんて珍しいね。僕たちは同時代に体験したけど、とにかくあの頃、ビートルズは本当に革新的だったんだ」と云われ、団塊ジュニアらは、「いや、僕たちにもビートルズのよさは分かるよ」などと澄まして答える。そして別の楽屋っぽいところで、この団塊ジュニアのコピーバンドのメンバーらはロック論を多いに熱っぽく論じた挙句、「なんだかんだで結局ビートルズに還っていくんだよな」「いろんなロックがあるけど結局ビートルズが最高なんだよ」などといったことを真面目に云い、互いにぬるく承認し合うという場面があった。(「」内の台詞は作品そのままではないが、内容は概ね合っているはず。)
 特に目くじら立てるほどでもない、ごく一般的なロック史認識であるかもしれぬ。しれぬが、なぜそれを盲信し許容する、この受賞者は。漫画なりなんなりで世に問う作品を作ろうという者が、なぜ、世の大勢に率先して従順するがごとき意識的な媚びを露呈してやまぬのか。この、意識的な媚び、というのが重要である。世の大勢はエグザイルや湘南之風(最新シングル「ガチ桜」、なんだかもう、ガチで音楽業界の恒例桜フェアに報国挺身する直情的愚昧にはあきれを通り越してある種の尊敬にまで値するので笑いが止まりません)なんかを買って聴く①趣味的奴隷段階であるが、この、多少なりとも意識的な受賞者は意識的ゆえに①を否定しつつも中途半端な意識ゆえに、②趣味的普遍段階、に留まり、①を否定しえた自分への安心が慢心に繫がった結果、より高次のレベルで制度を強固にする役割を担うはめになった。そうした陥穽への意識はないから、あのような漫画をかわぐち氏に書かせる恥を厚顔にもさらしたのだった。この受賞者の団塊ジュニアよ、小生のブログを読めば自分の情けなさが分かるだろう。
 本当は、こんなこともどうでもよいと思っている。ジョン・ケージ著作集の、まことにラディカルな言葉を読むにつけ、卑近の現状に逐一反応して声高に批判するよりも、理論と実践が同義である真にラディカルな芸能を生み出し世に問うことのほうが、こうした現状に対するラディカルな批判となりうるのだ。偶然性の音楽体験を率直に述べるケージの講演に対する学生の質問「あなたの音楽は誰でもできるじゃないですか」に対するケージの答えは、曰く「その通り、誰でもできる。しかし、あなたはやっていない」。やるかやらないか。少なくともケージの音楽は、やったことで、そのやったことが、即ち原理となった。正確な意味で現状への批判となった。音楽のみならず諸芸能も、これに尽きよう…。
 すぐにできないならば、せめて、新しいものに挑戦している人がいたら、せめて身銭を切って、あるいは自分の考えや賛意を伝えて、応援したいものだ。このことも、この度の高野山旅行での会談で学んだのだった。まずは、先々週テレヴィでやっていた、広島市サンモール内で、白いワイシャツやブラウスという枠組みの中で形態や布や意匠に種々工夫を凝らすデザイナーズショップを視察する予定だ。
 プリティ・シングス。英国。1968年。コンセプトアルバムなる思想は既に世に出ていたが、本作は、アルバム全編を通して自作の物語が貫くロックオペラ・サイケデリアの嚆矢とされる。おそらく、そういう情報の元に、とりあえずお助けしたのだろうと思う。なんにせよ今、読み直し、見直し、聴き直しが迫られている小生。かつて、つまらぬ通俗的理由でとりあえず読み聴きしたものを、最近、改めて味わうと、かつてとは違った読み方聴き方見方が出現するようになり、今まで何を漫然としてきたのかとじっとり焦らされる日々である。平たく言えば、いい具合に忘れている、といえよう。そんなわけで、さほど印象に残っていなかった本作を久方ぶりに再聴するに、「あれ、そんなに悪くない…結構いいな、よくできてる…、いや、すごくいいわ、これ」と思った。他愛無いものである。
 ファッショナブルなラーガもあるが多数すぎる創意工夫のてんこ盛り、時折ぐわぐわ暴発するハードネスの萌芽、不意に流れ出るモダンでクールな煽り展開。彼らの、思いついたことを惜しみなく繰り出すというサービス精神旺盛な開けっ広げ精神は、わざとぼかして含みを持たせるのを深いと思っている川端康成のような一部の日本文学と異なる風土で、言いたい事を攻撃的なまでにしつこく全部書き尽くした上で勝負に出るドストエフスキーほどではないにしても、重要である。歌詞と曲の、そこはかとなく人生に対し後ろ向きな寂しい低調感を、さらに病的にまで強調したのがザ・フーの「トミー」なのであろう。トミーの前身であり、トミーの本歌といえる、今更自分が言うまでもないことだ…。
 なぜこれほどの音楽性を今まで聞き逃していたのか。最後まで聴くという最低限の義務をこれに限って怠ったためか。いや、違うだろう。
 表向き、一介の趣味人として英国サイケも許容する態度を示しながら、薄暗い腹の底に鎮座する「本音」が、人面そうのような醜い顔で次のように口汚く罵るのは否めない。「どうせ英国サイケなんてみんな産業サイケだろ!SEやらインド風味を小器用に組み合わせる物珍しいだけのスノッブ音楽だろ!そんなのが、俺のささくれ立った心の友として同伴してくれようか。獰猛さに欠けるんだよ!ブリティッシュ・ロックにありがちなヴォーカルのメロディだのハーモニーだのが煩わしい!男がハモるな!一人にしないと手がつけられぬ男が捨て鉢に叫びまくるだけか(ストーンズ、ツェッペリン)、顔も声も絶望的に異なる男どもが一斉に好き勝手歌いまくる(マザーズ)のがいいんだよ!トラフィック?全然駄目だ!演奏も録音もうますぎるんだ!もっともっとダダ崩れの変態演奏略して変奏を聴きたいんだ!クリーム?下らん!持ち上げられてるだけなんじゃないの?見苦しい!英国サイケなんかは全否定だ!ストーンズのサタニック・マジェスターズだけは例外だがな!」と。
 無論この「本音」は、小生の理性の検証を経ずして吐き出されたものであり小生の全人格が責任を負うべきものではない。ただ、いずれにせよ、腹の底に住まう、かような愚かしい偏見、過剰な自意識が小生の耳を曇らせ、プリティシングスのした事の機微をこれまで受け取れずじまいだったに違いない。小生が一方的に欲する荒み(すさみ)を本作から得ることはできなかったが、そういった私情は抜きにしても、トミーほどの分かり易さには至っていないのかあえて避けているのか分からぬ極めて分かりづらい繊細な音楽性だけは小生の耳をして汲み取るべきであった、もっと早く、と反省する。反省といっても、ただ無能にぼんやりとそのことを思うだけなのだが…。
 結局、本作がサイケの本然に適うかどうかは、どうでもよいことだ。サイケデリアに裁判官は要らない。サイケデリアは境界のない、緩い雲であればよい。しかしプリティ・シングスはフーと同じく、あるいは異なった方法でサイケデリアからハードロック路線へと貫きえた現存する数少ないバンドとして重要であろう。特に、壊れやすく(イエス)、危機(イエス)的であるというハードロックの、その名に反してか弱い実存を王道なきロック史として再検証するとすれば、テルミンの演奏のようにとらえどころなく綾取る必要があるのだから、フーと同じくプリティ・シングスも留意する必要はあろう。これからは、馬鹿馬鹿しい結論だがやはり虚心坦懐に一つ一つの音源を丁寧に聴かねばならぬ。それができれば苦労しない。

phil may: vocals
wally allen: bass guitar, guitar, vocals, wind instruments & piano
dick taylor: lead guitar & vocals
john povey: organ, sitar, percussion & vocals
twink: drums & vocals

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