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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「pink floyd/the piper at the gates of dawn(1967)tocp-70300-01」 2010年3月7日 啓蟄

 

 いやはや、骨董市などというところは二日続けて行くものではない。薄汚い世界であり、値段などあってないようなものだとは充分認識していたはずなのに、悲しい事である。気持ちに迷いがあってお助けできなかった未練の品があり、次の日、もう一度行くと、行く先々で店員に覚えられており、声を掛けられる始末。中高年がほとんどの客層の中で、明らかに年齢層が異なる小生が、隠そうとしても滲み出てしまう気を品に集中させるものだから、印象が強いのだろう。「兄ちゃん、昨日も来たやろ」みたいな。いいカモにされているのか、情けないし、恥ずかしい。二日目に行くときは変装すべし、と学んだが、分かってはいてもションボリさせられるのは、昨日お助けした古伊万里(?)の蕎麦猪口7000円が、今日には2500円になっていること。あまり考えまい。
 ただ、未練があった煎茶の煤竹茶合、二日目に再確認すると、彫物がある竹は上質だが彫物があまりに最悪であり、一方、彫物が無い竹は味わいもなく、結局見送り。フライパン級の大きさのごろごり彫りまくった硯は誰かに買われていてもう無かった。品との出会いは一期一会である厳しさである。替わりに、高麗系の平茶碗と、焼きは明らかに新物だが染付けの紋章は精緻ながら退廃的にくたびれているのが印象的な水差しをお助けしておいた。高麗平茶碗も呉須南蛮紋水差しも夏の茶会に相応しいかろう。上田宗箇流からは、茶会申し込みに関する吾が渾身の書状に対する返答がまだ来ない。

 ピンク・フロイド。英国。1967年。「夜明けの口笛吹き」という素敵な邦題を与えられた本作は、言わずもがなだが後にプログレッシブ・ロックという潮流の片翼を担うバンドのファーストである。悪趣味の系譜を語らんがため今のところ着目しているモダン・ポップ勢を再考するにあたり、必然的に、モダン・ポップ(モダン・ポップの継承体として存在するごく最近のそういった傾向のバンドをモダン・ロックと呼称しているのも散見される)が近代と見なし超克を図ったプログレッシブ・ロックについて再考を迫られるだろう。言い訳めくとしても致し方ない茨の道が言語の無様でもあるからどうにもならぬが、ともあれ、音楽は解釈するのではなく聴けばよいのだと自責しつつも、何らかの見解が必要になった次第である。たとえ、プロ愚烈史悔ロックに関する小生の見解が、巷間に流布する閾を出ぬにしても、人の切り開いた道を舗装するぐらいの公共の福祉が求められているのか…と思えば、もう投げ出したくもなる始末ながら…。
 ルイ・アラゴンかネルヴァルを今、強烈に読みたい、幻想というのを今一度再確認したい欲求にかられ、所持しているはずなので何処かにあるはずだが、本棚というよりも単なる本置き場と化した場所で目的の本を探すのは著しく面倒な事態になっており、また新たに買いに行くも、無く、結局、似て非なるものと承知の上で、眼前にあるブルトンのナジャを再読する。今まで自分が殆どナジャを読みきれていなかった後悔が沸いた。何を言っているのかよく分からぬ部分もあるし、たいした事を言っていないかもしれぬが、ブルトンが、闇雲に、蝸牛のごとく地道に自分の見切りのみを頼りに書き綴っている愚直が読める…。小生も励まされる思いゆえに、やはり、プログレッシブの運動を自分として生き直す必要があろう。特にいままで意識して避けていたわけではないが、事ここに至って、モダン・ポップを語ることは、繰り返すが必然的に、プログレッシブをも背負うということである。
 しかしながら、ピンク・フロイドをプログレと捉えることは、ザッパはプログレか、という問いと同格ではないにしても、一抹の異議があるかもしれぬ。何がプログレで何がそうでないか、などという峻別の滑稽は承知しながら、プログレッシブは、サイケデリアの解毒剤として欧州ロマン主義の血清を注入された、歴史的に承認された民族主義的なロック運動と捉えるならば、真っ先にプログレから排除されるほどではないにしてもピンク・フロイドはプログレとは異質な精神である。どちらかというとピンク・フロイドと同質の異議申し立て者としてジャーマン・ロック勢という仲間が大陸には居たと思われる。
 この、ピンク・フロイドをロマン主義的昂揚から断絶させる要素とは何かというと、やはり、拭いようもなく頑固なサイケデリア・ガレージ性であった。無論、ピンク・フロイドもジャーマン・ロックも合わせてプログレなんだと範疇拡大するのは自由であるが、それはプログレという国家の総動員発揚に過ぎず音楽の本然とは関係ないばかりか音楽の機微に耳を澄ますという、素朴ながら尊い行為を否定するものだ。(なお、ザッパはプログレか、という問いが荒立てるであろう数々の事々については、重要なのでいずれ詳論したい)
 ピンク・フロイドの後々の作品が欧州ロマン主義と隔絶するというあら探しについてはその後々の作品と再会した時に改めて論じたい。自分も全てのピンク・フロイド作品を聴いた訳ではないので、ひょっとしたら論が覆される可能性あり、と留保しておく。 ただ、この「夜明けの口笛吹き」だけは、確実に、むせるようなガレージの源薫を放出して憚らない。低調ながら生硬な憎悪を内気にたぎらせて連打されるドラムとベースのリズム隊の強迫性はガレージの不様である。幼少時に受けた親父からの仕打ちを何十年も根に持ち続け、親父が老いさらばえてから復讐の途に出るタイプの小汚いわだかまりがありありしている。あくまでも個人の立場で、捨て鉢な暴力を無益に振るう暗い街角の怒りがある。時に仲間を裏切りもするだろうが、小粒で浅慮で希望の無いほこりまみれの息を大きく吸っては吐いて吸っては吐いてどっこい生きているが呆気ない野垂れ死にも辞さぬ。人の居ないところで無茶苦茶高速で暴れて手がつけられないシャウト、夜の気をじかに爪弾くがごとく懐が深いが短気な野太ギター。饐えた、暢気な田園歌唱が、チャカポコと、往年の日本昔話のような有毒な楽観オルガンのピーピー音と同伴して、何をしでかすか分らぬ憩いも間抜けに歌うのでサイケの典型もある。易経を歌ったりもする自由がある。
 GSのアウト・キャストのアルバム欲しいと思って贔屓の中古レコード屋に行こうとしたら久しぶりなので道に迷って辿り着けず、仕方ないのでタワーレコードに行ったらアウト・キャスト無くて、何となくお助けしたのがこの口笛吹き、おとついのことであった。小生の愛聴盤となろう。関係ないが、小生は、体を一回転させると方角が感覚的に全くわからぬほどの、方向音痴である。自分の感覚を全然信用していないので、車で、勘でどこかに行く、という、男らしいとされている手柄が不可能な人である。
 これまでの論としてはアメリカ発祥のサイケデリアに直結するガレージ性ということであったが、英国のガレージ性サイケ性というのを総じて否定しているのではない。本当は発祥などどうでもよいのだということは、かつて提唱したサイケデリア概念を再読していただければ分かると思う。重要なのはサイケ・ガレージ性とは、起源を内包する様式の継承(ビートルズ史観)ではなく、同時多発内乱(ザッパ/ローリング・ストーンズ史観)と考えることであり、即ち点在する系譜と考えることが、60年代末からのロック史の百花繚乱の実情にあっている。この同時多発性をいま少し掘り下げるためにも、悪趣味の系譜という筋交いが必要であり、また、ピンク・フロイドに聞かれるような、プログレにおけるガレージ性という異質性も悪趣味の先鋭であるとすれば、モダン・ポップの解釈に一役買うに違いない。
 
syd barrett:lead guitar & vocals
nick mason:drums
richard wright:organ, piano & vocals
roger waters:bass guitar & vocals
 
ところで、来週はゆえあって脱藩するのでお休みします。

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