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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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歯痛通信

歯が…痛い…最早看過できぬほど…もう…何処が痛い、と目星も当てられぬほど…痛みの中枢へ、血流がどっくどっくと波打つように集中するのが分かるほどでその脈動の度に疼痛が増幅され…我慢ならずのた打ち回る日曜日の昼下がり…明日朝一で歯医者に予約電話するしかないほど追い込まれているがそこまでの時刻に至るまでの時間の長い事!…これというのも小生が放置していた怠慢ゆえなのであって…原因はだいたい分かっている、再発なのであった…去年の年末にも同じ種類の歯痛が勃発、というよりか、家人が指摘する処の、小生の長らくの持病である歯軋り…これをやった朝は決まって、右上の奥から二番目の歯を中心にその周りの歯肉やら歯根の奥辺りが全面的に鈍痛を惹起していたのだが我慢すれば散逸する、というのを何十年にも渡って繰り替えた挙句、ついに去年の年末12月30日、起床後の顎の疲労からまた歯軋りをやってしまったかと気付くとともに例の箇所の全的疼痛が、今までとは断絶して、最早全く我慢出来ないレベルの激痛が勃発したのであって、時節柄歯医者の殆どは年末年始の休業状態、どうしようもなくて藁をも縋る思いで唯一休日診療をして下さっている、県の歯科医師会直属の口腔保険センターに駆け込むと、診察開始時間午前9時過ぎに着いたにも関わらず患者の群れが椅子から溢れて押し寄せている阿鼻叫喚…3時間くらい待ってようやく診察して下さり…小生の歯軋り情報と、念のため撮影したレントゲン写真でも虫歯は見当たらなかった事から…長年の歯軋りによって右上奥から二番目の臼歯が磨滅しつつ斜めに陥没しているから周囲の歯肉をぎゅむぎゅむ圧迫炎症、歯根に過大な負荷を与えているから既にいささか歯もぐらぐら状態…口腔センターの名医は、歯と歯の間の歯肉がそれにしても異常にビラビラに荒れて炎症しているのを訝しんだが…名医には云えなかったが、歯痛に苦しむ小生を見かねた細君が自己流の素人判断で、歯間の歯垢が堆積しているためだと云って自身がやみつきになっている糸ようじを、小生の口をこじ開けて、既に炎症を起こし過敏になっている歯肉に無理矢理突っ込んで容赦なく糸を引きまくる荒療治を施されたせいであるという、悪い事は重なるもので…それは兎も角として、休日診療の口腔センターでは応急処置しか出来ぬというのもあって、それでも的確な見立てもあってその場でできる事として歯の表面を削って噛みあわせを改善し、痛み止めの薬をもらったのであった…そのおかげで年末年始は歯痛から解放されたのは有り難かったが…その時に、年が明けたら歯軋り防止のため町医者に行って型をとってもらった方がいいですよと忠告を受けていたにもかかわらず…当座の痛みが引いたのに付け込んでそのままずるずると何も処置しないでいたのであった…そして二か月後、案の定、また激しい歯軋りをしてしまい、同じ個所が激痛に見舞われたのであった。右上奥から二番目にばかり着目していたが、うすうす、奥から三番目の銀歯も怪しいと踏んでいる。この銀歯は昔、田舎の若いやぶ医者が施したもので…設置当初から据わりが悪く、何度か外れたことのあるいわくつきのもので…この銀歯の隙間から菌が浸入して銀歯の根元奥がぐじゅぐじゅにやられて腐りきっているんじゃなかろうか、という恐れも現実味を帯びてきた。痛み止めロキソニンSを服用したが、ずっぎゅんずっぎゅんと、冷たい釘を歯根の神経に打ち込むが如き疼痛はおさまらないから、今週は休載する。今日は米の飯とおかずが食えないから、今から、コンビニへうどんを買いに行く。明日、何が何でも歯医者に行く。

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「p-model/in a model room(1979)ss-101」



発売当初のシングルのジャケットに刻まれた謳い文句にはこうある…「…コンピューターに…かしずく…突撃…ポップ…マネキン…!…丸ごと…80年代…!!…メトロポリスの見る夢は…コンピューターの打ち明け話…マシンも怒れ!!カメアリPOP!!」今となっては鼻白むほど血気盛んである。と…ここで…急激に激しい眠気が…延髄か何かに薬剤を注入されたかのように…指先まで幼く温もって、首ががっくんがっくんするほど兎に角頗る眠くて、もう書くの止めたい…p-modelのこのアルバム…それはさておき…最近の鑑定団は割に見所あるお宝が出ているのはよいのだが、陶芸以外の工芸全般(漆芸、金工、木工)を専門にする大熊先生の出演がめっきり無くなって寂しい限りであるが…美術館で会った女性(ひと)への執拗なる思いを牙剥いて吐き捨てる恫喝歌唱とピコピコ電子音で展望する陰湿テクノパンクポップ「美術館で会ったひとだろ」…身が薄いほど対象が切れ易くなるし、軽くなるため手扱いも容易となるだろう刃物…とはいえ薄すぎると曲がりやすく折れやすくなるため相応の厚みが要求されるのが刃物であって、しかるに刀身の薄さと実用上の強度を両立させるには材料自体の強度や硬度の向上が望ましくはなるのだが…テクノパンク路線へと先鋭化した初期p-modelがそんなバランス感覚に優れた優等生的な日本刀であるはずもなく…軽く、薄く、無性に軽薄を追求するだけで凛を拒否し、ぐなぐなに曲がり易いだろう不敵は具に供されるを排する音楽であった…前のめりの性急はピンピコポヨンの打ち込み電子音で全面的に、上から目線でなく正面から揶揄されながら、を受け止める怒気に芯があった。うろ覚えだがp-modelはそれ以前、70年代初頭からマンドレイクというプログレバンドを追究していたはずだが…同一メンバーがプログレからパンクへ転向、という珍しい事例でもあり、この種の転向で囁かれるある種の拘泥も、ひょっとしたら小生一人が思いこんでいる空疎な神話なのだろう…しかしながらp-modelが、プログレもパンクも俯瞰しうる広い視野の持ち主、という評価は当たらない、何よりロックという音楽に広い視野など不要なのだから…その証拠に、このアルバム収録の楽曲にもパンクとプログレの同居が聴こえるがそれはファッション的な風味づけと異なり、しっかり構造的にぎゅむぎゅむとスピード重視で食い込んでおり、マンドレイク時代の模索が生きている。プログレからモダンロック/モダンポップへの変節は珍しくないのだろうが、プログレからテクノパンクへの転向は、その時代の当事者の内的傾向にあっては意外に困難は無いのだろうが、振り返る事の出来る現在にあっては、ロック史においては稀な結果であったと云える。下世話ついでに興味がそそられるのは対バン相手のYMO(ムーンライダーズ?)と楽屋でたいまん張る、といった真偽定かならぬ噂の方であり、往時の殺気立ったシーンを彷彿とさせるからだが、口さがない庶民の性でもある。レンタル屋で彷徨していたらキッズコーナーの昆虫コーナーが常軌を逸した発達を示しており…実際の昆虫どうしを戦わせた様子を撮影したものらしいが…カブトムシvsクワガタムシ、のDVDなど可愛いもので…小生が借りざるを得なかった色物は、「劇場版 虫皇帝~昆虫軍vs毒蟲軍~」、という内容で…ニホンカブトムシvs何とかアフリカサソリ、や、何とかアマゾネスタガメvsクワガタ、といった、えぐい対戦カードの生録が視聴できる趣向で…本来の生態圏では決して出会う事の無かった凶悪なメンツとのバトルを強制される異常を、昨今の少年は楽しむのだろうか…劇場版、というのも、理解を越えている。NHKのど自慢チャンピオン大会見ていて「民謡系は反則だろ…」と懸念していたら民謡の御方が優勝してしまい…福島、震災、地域貢献、祖母からの伝承、とネタが揃い過ぎているのも目についたが誰にも文句を云わせないほど歌唱もうまいのでぐうの音も出ないが、…手放しで納得はしていない。川崎の事件や、東京の繁華街でぼったくり犯として逮捕された店主の凶相を見て…階級による棲み分けが進んでいない公立中学というのはリアル北斗の拳の世界というか…身体的、社会的弱者と見なされたら速攻で標的にされ、隷従と虐待の対象にされる弱肉強食の世界…遠い昔…小生が中学性だった頃も、どうしようもなく凶悪で残忍な、猟奇的性向の人間というのは少なからず近くに居て、いつ殺されてもおかしくない状況であったのをふと思い出した。授業中に生きた蝉をカッターナイフで輪切りにする男子生徒(小生、この男に手のひらを切り付けられた事あり)、処構わず、たけしの暴力映画のような非情の暴力を執拗に標的に実行する男子生徒、授業中に素手で教室の窓ガラスを割りながら疾走する女子生徒、給食時間中に三角錐紙パック牛乳を投げ合って、壁や黒板にそれがぶつかる度にビシャービシャーと真っ白い牛乳液が叩き付けられる、いつも乳臭い、荒れに荒れた教室だった…その他諸々…隠岐諸島西ノ島には少なからぬ思い出があるだけに…絶対的に凶悪狂暴な奴が北斗の拳の世界のようにうようよ存在する中学校を生き抜く困難というのは男にとって切実である。教育がどうの、だとか、絶対的に凶悪な人間に吸い寄せられるようにして率先して諂い従って衆を形成して標的攻撃を成立させる取り巻き連中への社会的批判など無意味だ。あっ、地震だ。スイッチスト、という役割も、既成音楽に対して挑発的だ。

時間に火がつくまで、マッチを擦り続けろ。 イェーツ

susumu hirasawa:vocal, guitar, synthesizers
katsuhiko akiyama:bass, synthesizers, backing vocal
yasumi tanaka:organ, synthesizers, backing vocal
sadatoshi tainaka:drums
masahide sakuma:switchist

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「kraftwerk/the mix(1991)tocp-6804」



はあーこの冷めやらぬ感動、熱く深い安堵の淵に沈降するような…変な、時ならぬ胸騒ぎ胸苦しさに木の芽時の魔も合わさって捩じれば捩じる程ぎゅんぎゅん熱を帯びる出口の無い生活苦の胸苦しさに襲われていたのが…先ほどの鑑定団の充実に…桃山の古唐津向付五客揃いに、仁阿弥道八の手捏ね急須九種揃いと、眼福の栄に浴する事しばし呆然で心が痺れるのであった。古唐津向付の高台脇の、何とも甘い枇杷色の煩悶…高台内の土味のチヂレと云ったらたまらないし、屈託ない鉄絵の、幾何と草文が区別されぬ伸びやかな筆致が鮮烈で、固く忘れがたく…、道八の、絵図のみ残っていて永く幻とされていたらしき急須揃いのうぶだしの歴史的重要性もさる事ながら、長次郎、織部、光悦、乾山などが自由に発芽する飄逸味と、際立つ技の薄造りがへうげでないにしても雅な創意の気骨を芬芬たる形にしており目が離せなかった。その記憶の毒気に当たってしまい、生活に潜む魔の誘いも落ちたか、動悸のような胸苦しさがいつのまにやら消散しており、今は確かな器物が放つ放射能にしばし当てられっぱなしなのであった。クラフトワークの、70年代、80年代の古典的代表曲を、90年初頭に喧しくなったハウス風に抜け抜けとリミックスしたものである。電子音楽が、テクノが、サンプリングが、といった主語はこの際どうでもよいだろう。クラフトワークに限らず電子音楽の極右(仮にシュトックハウゼン(独)をその魁としよう)が、ついには音楽の空間性を否定する運びなのに端を発してクラフトワークもそうした、音楽の空間性の否定への一過程なのだとしたら、この道標に如何なる意味があったのだろう、と推察する。石炭工業が石油工業の土台となったかのように…。音楽における空間性とは響きの事であり、発音源が世界を物理的に介在させて聴取者に届く仕組みの事である。電子音楽の極右は未来において、音という感覚が、世界や空間を媒介させずに直接、脳神経に連結させる、その祖形であるだろう。その時、音が感覚の海へと溶解し、音を聴く、という概念も消え失せるだろう。そうした過程においてこそ聴き捨てならぬのは、例えば、ドラムやベースといった生音を電子音へと還元していた作業に白けるかったるさが生じた後、シンセ上で幾らでも出せる電子音へと普遍化、抽象化する全体主義的過程である。鶴亀算(具象)から連立一次方程式(抽象)へ、という移行の事でもある。連立方程式があれば鶴亀算は無用の長物なれど、人間には好み=数奇というものがあるものだ。イヤホンやヘッドホンで聴く、という所作も、この過程における、泥臭い一段階と見なされるのだろうが、…ちなみにここで電子音楽の極左として想定しているのはフランスのピエール・シェフェールやピエール・アンリなどを魁とする(もっといえば騒音=ノイズを抵抗運動の振る舞いとした古今東西の民衆運動がその根源なのだが)、具体音楽(ミュージックコンクレート)である。この両者を比較すれば分かりやすくはなるのだろうが此処ではまだ安易にその極左に目をくれることなく、極右の、それなりの痛快に沈潜したい。従って、極右の未来像が鮮明になった今、クラフトワークの試みも、音楽技術史の一幕を飾る博物館展示物へと成り下がると考えられるが、先の事など分からない。今は、そうした思いから来る奇妙な懐かしさを伴いながら未だに最先端に留まっているクラフトワークという斬新を、未来における全体主義的加担への可能性も兼ねる危うさの毒を苦みに転じさせて、渋く味わう。統帥への陶酔なのか。とはいえ、音楽における全体主義というのは此処では、単に音たちが全て電子音へと統制化される結果の事であり、音楽聴取者が政治的に全体主義へと陥る謂いではない。聴取者は、全体主義化した極右電子音も楽しめば、電子音の抽象性や普遍性を、具象性や特殊性へと引きずり落とす出鱈目に多様な音を炸裂させる電子音楽の極左も楽しむ、そうした往復=振動(反復?)が既に始まっているのは、言わずもがなである。思えば退屈な話である。一度、タラオをこっぴどく懲らしめたい衝動に駆られるのは小生だけではあるまい。風立ちぬは映画館で4回見たが、テレビでまた見てしまい…性懲りも無くその美しい余韻から立ち直れない。車の任意保険の更新時期が来ているが…菜穂子が宣伝しているソニー損保に乗り換えようか、とすら先走りたくなる…また息が浅く、苦しくなってきた。

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「the nihilist spasm band/vol.2(1978)arcd-083」



なんかまた胸苦しいが…似非オセアニア彫刻の仮面の影に隠れて忘れられていた一角に此れがあった。ジャケットの写真見ると山岳ゲリラの打ち捨てられたアジトから押収した武器のようにも見えるが、彼らの奇天烈な自作楽器であり、ちゃんと物騒である。ドラムと呼ばれる楽器を演奏する範囲内でドラムを叩いているというよりも人間の肉を直に叩きつけている不毛で残酷な虐待としか思えない、聴くだけで全身に青痣が出来そうな打撃音である。歌詞も最早、接続の切れた単なる単語の絶叫と罵倒、一方的な宣言に終始しつつ、何かしらカナダ政府に対する政治的態度を露わにしている。二度と繰り返されない即興に重きを置くスタイルながらも、ノイズほどには溶解していない楽器音の輪郭を際立たせて、苦痛を強いる音の雑多なぶちまけが挑戦的に骨格を成すリズムを保持している。

テレビ東京のように文化度の高い、エッジの効いた処が放送するアニメーション(以下、「動画」と表記する)を見られないから最近のアニメ界の実力を知り得る立場にないのは承知しつつ、何故ならば受信できないからなのであるが、だからテレ東以外の局から受信する動画を瞥見する機会もあるが大抵の場合、小奇麗な、工夫の無い塗り絵の紙芝居にしか見えず、如何にCGだのデジタル技術など小器用に駆使しようとも、すこぶる退屈で見ていられない感が強い…特に、アルプスの少女ハイジを視聴するとその思いが強まるのであり…人間や草木、花々や天象の動きに対して、コンマ数秒ごとに強烈なる考察を加える、動画ならではの創意工夫と物語場面設定上の創意が相乗しながらの創意工夫がコンマ数秒おきに繰り出されるから全く目が離せず、凄まじいくらいに面白いし、登場人物たちも甚だ激烈に尽き…無垢な思いつきで人使いが荒いハイジの傍若無人は見ていて腹立たしいほど確固たるものであり、おじいさんも獰猛を秘めた内向性インテリゲンチャで一筋縄ではいかず、身勝手なハイジの思いつきを強要されるペーターの御人好しもまた犯罪的に正直すぎる牧歌の、あまりに牧歌的なアルム(スイス)の天上界…一応それと比較する形で、ハイジが極悪叔母さんに騙されて拉致された監禁先であるフランクフルトの、産業革命で勃興したブルジョア家庭の病的状況を批判する物語構造も、現在となってはあまりに原型的ゆえに批判として力強い…21世紀が、19世紀や20世紀に努力された市場原理主義への抵抗運動を痴呆的に無かった事にされた上で産業革命発生時の剥き出しの市場原理に基づく18世紀へと退化しているのであれば猶更、である。それにつけても意表をつきまくる自然描写には脱帽であり…動画技術を究極的に追究するのを目的としたらしき崖の上のポニョの動画表現でさえも、線型的な力技に過ぎないように見えて、ハイジの、いちいち惰性から脱線する逸話と動画表現の創意には及ばないと強く思われるのであった。ハイジ(宮崎駿 場面設定、高畑勲 演出)と一緒に視聴したふしぎの海のナディア(庵野秀明 監督)の退屈さといったら無かった。前者は動画固有の創意に満ちているが、後者は動画としてはただの塗り絵の紙芝居なのだから。今の処48話までハイジを見たが、感動のあまり細君はそのほとんどでずっと泣いている…。

フランスの新進経済学者が、資本の自己増殖が労働所得を上回る事を数世紀にわたってデータで示した功績で昨今持て囃されているがデータ化したその功績はよいとしても、そんな結論は共産主義文献を俟たずとも旧約聖書の一節に既に「持つ者にはますます与えられ、持たざる者はますます奪われる」という呪詛が刻まれていた、みんながなんとなく思っている、古来からの人類の実感であった。格差社会を証明したとして、さもしいメディアからその解決策を求められたこの経済学者ピゲティはケインズの修正主義と替わる事無く、累進課税による富の再分配を能なく云うだけで埒が明かない。富の再分配論というのは資本家の食い滓のおこぼれ頂戴と、格差拡大によって多数派となる貧民からの復讐、という、物乞いと脅迫で構成された惨めな情緒論に過ぎず…およそ現実を改良しうる理論の態を成していない。よってピゲティなどが使い古された修正主義で御茶を濁すのは多くの経済学者にありがちな御用学者を出る事は無く、傾聴に値しないどころか、現実への処方の選択肢を矮小化させる欺瞞に加担しているのでもある。同じ修正主義ならば、いっぱしの経済学者であるならば、現状資本主義へのおもねり追従修正主義に盲目的に導くのではなく、少数前衛による一点突破ブランキズムや運動の歴史化による多数派的正統を誇るマルクシズム、マオイズムの再批判を前提とした幅広い選択肢を民衆に考察させる修正主義を興してこそ歴史への責任を果たすというものであろう。

クレラップのテレビコマーシャルで爺と両親と孫という家族が安全な公園の芝生の上で団欒風景しているが親世代はもう救いようがないから諦めるとしてそこで演じられた爺が、頬を桃色に染めてハート型ループタイをしながら孫にデレデレという態で…砂糖菓子のように戯画化されて人間をコケにする甘ったるいが思想も人間も無く排他的な家族主義へと飼い馴らされている様が吐き気を催すのであって、まだ曽祖父世代であれば軍隊経験と戦後のどさくさを生き抜いたとあって容易に飼い馴らされはしないだろうが、兎にも角にも、クレラップ(呉羽化学)は容器表面への吸い付き性能がサランラップ(旭化成)に劣ると思われるので、小生は専らサランラップ派である。

john boyle:kazoo
joohn clement:guitar
greg curnoe:drums
bill exley:vocals, theremin
murrey favro:drums, guitar
hugh mclntyre:bass
art pratten:pratt-a-various

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「the police/reggatta de blanc(1979)75021 3312 2」



相変わらずどこぞの軒先に下げられたまま人知れず年から年中風が吹けば鳴り続ける風鈴による耳障りに苛つきを嵩じさせるのに乗じて当てのない怒りを先鋭化させる一助とするに如くはなく、そうした便乗に頼らざるを得ないほどの衰弱が意識下でますます露顕するのであって、細君は友人とお茶しに出掛け、風に吹き回される洗濯物の安否を擦りガラス越しにちらちら確認しながら、囲碁トーナメントを消音垂れ流しで見るともなく…風がどふっと来て身構えるのにワンテンポ遅らせて風鈴がリンリンリーンリン喚き散らし、堂々巡りだが音源が分からないから対処しようもなく、しかしこの場を去る甲斐性も無いから忸怩たる思いを燻らせつつ冷えたほうじ茶を啜るも、風鈴が止むはずも無く、イラツキと思想が、地鉄と鋼の合わせ技で硬軟の長所短所を補う鍛刀のように先鋭化すればよいが、また風鈴が、頭が締め付けられる憎悪を幾ら伴なおうとも、風鈴が鳴り止まず、周囲をぶち壊したくなるがそれをやれば片付けるのは自分であると振り返ると、いつの間にか井山棋聖が勝者となって感想戦している。階下の莫迦犬が鳴かないだけまし、と考え、ポリス。

風が止んだ。今の内である。軟弱白人ポップの、世を白ける余裕をかましたプログレ上がりの…と云えば口が悪すぎるだろう。濁りと錆のジャギジャギのこれ見よがしな荒みの主張を基調とした60年代サイケパンク/ガレージパンクとは趣を異にする叛旗やよし、つるつるした石油製品のてれてらした文明のジャンクを消費し尽くす空しい、冷めた、最早遊びも無い、見返り無き反抗をもよおした70年代終盤のパンクに吊し上げられるハード/プログレ継承者、という相克に活路を見出したモダンポップ/モダンロックは大上段に人目につかぬ際どい音楽性の追求へと、隙間の汚れを落とすカッターナイフのように実用性を醸しながら、歯コボレや錆に見舞われたら折って捨てるを繰り返す、継承性を断絶した新しさであるから本来最も先鋭的な分野たりうるがしかしその趣味性の高さからか隙間産業的地位を免れぬ、といった指摘も、とうに無意味にして、既に地下に潜伏して久しいロックにとって、地上と市場を経世済民する、沈黙の気不味さを埋めるためだけのメジャーと呼ばれるコンビニ音楽とは決定的に断絶した事も、指摘するまでも無い常識である。ちゃんと音楽を聴きたい人は地下を訪れて聴くし、そうでない人は地上の音楽に満足するという平和的棲み分け。こういった事を以前にも書いた事があった。プログレもポップも南米音楽や黒人音楽といった、ロックの要素を成すあらゆる音楽が内面化されているこの音楽がポリスと名乗った処で目くじら立てて義憤する土壌は皆無にして、云うべき言葉も消尽している。

と、ここで、風に煽られて小生の服が、ベランダの、乾燥わかめみたいなのと埃と砂と人毛と昆虫の死骸で小汚い床に落ちてしまった。すぐに拾い上げて手で払ってみるが、見た目には綺麗であっても、洗濯という事業が根底から台無しにされた感はどうにも払拭し難く、汚辱に塗れてそれを再び洗濯機に叩き込んだ。見切りをつけて全洗濯物を室内に引き上げた。

テレビスポーツ教室「ボルダリング」が始まった。ふかふかのマットが敷かれた人造の岩で指定された凸凹を指定された手順で上る…ハイジ(8歳)とペーター(11歳)が、手を滑らせたらガチで死ぬしかない断崖絶壁を、はぐれた子山羊を連れ戻すため命綱無しで上っていたのを熱く思い出すのに比べて、ボルダリングとやらの、小汚い清潔さが我慢ならず、だいたい、既に、テレビで映し出される人間の笑顔の全てが嘔吐を催すほど気持ち悪い。風鈴がこめかみにぎゅうぎゅうめり込む。地方の観光列車や観光特急などが、絶景スポットと云われる処で、駅でもないのに数分間停車し、写真を撮らせる、という気配り/おもてなしの愚劣にも嫌気が差す。「絶景でござい」「昭和レトロでござい」「エロでござい」などと、顔剥き出しで真正面から云われて興を催す人間がいるのだろうか。この国の侘びと寂びはどこへ行ったのだろうか。興醒めである。頭脳警察(ザッパの歌詞を典拠とする)などはまだ体制を揶揄する体力があったがポリスにはそれを期待できない分、予想だにできぬポップ楽想をしんみり楽しめるし、演奏はしかし、骨太にしてしなやか、創意に満ちた演技を連発する段違い平行棒の体操選手の肉体のような音楽である。簡単にやっているように聴こえるが極めて困難な音楽をやっていると思っていい。基本的な事ほどその会得は難しいものだが、基本的でないのに困難な音楽である。時折聴こえるレゲエ趣味、ワールドミュージック趣味はこの時代のご愛嬌。

くだらない事なら幾らでも書ける、という事ほどくだらないものはないが、無駄事が過ぎて本題が走り書きになる本末転倒であっても何とか前に進めたく、具体的な事例を豊富に上げる親切こそ遂げられねど、理論のみを抽出するだけでも、あとは分かろうというものである。心配りの無い割り切りが言説において権力を持つものならばこの際、躊躇する暇はない。いくらでも疑問符が付けられると思うけれども今は辻褄を合わせて正解の答案を作成する暇がない。読者各位において再構築、再批判するためのたたき台になればよい。

※思想とは⇒外部が己に直接与えた体験に立脚しない知を意識化した意志。すごく大雑把に云うと、例えば、日本に住む日本人が、アフリカの飢えた子供たちを救いたい、と考える事など。

※思想的善とは⇒己の体験に立脚しないが、その発露としては、既成的に承認された概念即ち情報を批判するから、己の身を危険に晒しながら意識的に意志をする事。
 ①思想的善における社会的善の事例:多数派批判。権力批判。全体主義批判。諸芸術。
 ②思想的善における社会的悪の事例:テロリズム

※思想的悪とは⇒己の体験に立脚しないが、その発露としては、既成的に承認された概念即ち情報を鵜呑みにして無自覚に内面化するから、己の身を安全な言説にかくまいながら無意識に意志する事。
 ③思想的悪における社会的善の事例:生命の原理。国家の原理。権力の原理。社会の原理。市場の原理。労働の原理。教育の原理。家族の原理。多数派への同化。全体主義。
 …卑近な具体的な事例としては、直接的に日本軍から占領、虐待政策の被害を受けた訳でもない、戦後生まれの若い韓国人が、体制から施された教育のプログラム通りに反日思想をたぎらせて声高する、人間の意志と価値と誇りを自ら貶める惨め、あるいは、ナチスの幹部の子孫が、若いユダヤ人の集団(ホロコーストを情報として知っているだけで体験してはいないくせに)に取り囲まれて吊し上げられ自己批判を迫られる、教育と情報の悪の結果…等々。
 ④思想的悪における社会的悪の事例:犯罪

当面4つの位相を取り上げたが、現実は善悪に割り切れるものでもなく、善悪の移行過程/共存関係にある。思想と社会も移行過程/共存関係にある。たとえば近現代の市民革命は、思想的善から思想的悪への移行過程として捉えられる。②→①→③。社会現象をとらえるのにこの4位相の組み合わせに強弱の調子を付け合わせればある程度合点がいくと思う。そしてこれらの組み合わせによって章立てされる項目に社会現象を当てはめていく作業をすれば、項目は存在すれども、それにあてはまる実際の社会現象が思い当たらない、空白の項目が現れた時、そこに、何らかの突破口=突破項があるだろう。

もっといえばこんな分析も小賢しいママゴトだと思っている。鑑定団見ていると…明治の道具鍛冶の名工、千代鶴是秀の鑿一式を買うために、これまた大工の名棟梁、江戸熊は自分の娘を身売りして手に入れたという…是秀の凄まじい仕事ぶり、技の超絶を目の当たりにした弟子の一人は精神錯乱して自殺、是秀ほどでないにしても腕がよく跡継ぎとして期待された息子も己の限界に懊悩して投身自殺したという…分かる奴には言葉を尽くさずとも分かる事だし分からん奴には何言っても無駄だろう。承認範囲内の心理学的飼い葉桶他者論/コミニュケーション論に今更拘泥するつもりはない。ただし、人に云うべき言葉が無くても、人の話は聴きます…ただ、聴くだけであるが…風鈴いまだ止まず、むしゃくしゃが最高潮にぎり絞られて、今、入力している液晶画面を拳でぶち抜きたい衝動に駆られる。尻のみにどぎついデザインのクッションを当てて背筋伸ばして上体をおこして半跏に組んだ脚は赤熱した炬燵の中。

新旧アナロジー

吉田鋼太郎とリリー・フランキー
アディーレ法律事務所とサッカー日本代表元監督アギーレ氏

stewart copeland
andy summers
sting

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空の名残

徒然草より

第二十段
某とかやいひし世捨て人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

第三十九段
また、(法然上人は)「疑いながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

第五十九段
大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら、捨つべきなり。(中略)身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速やかに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いとけなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。


このところ毎夜むさぼり読んでいる徒然草の一節を書き出してみたがパソコンでの古文の入力が頗る手間がかかり…速やかな変換が絶対にままならず、のみならず、それに託けて、現代文でも、GHQが選別し強要する常用漢字以外ならばすぐさま障碍となる日本語入力の現状にも思い至り、媒体ごときによる中身の検閲以外の何物でもないとむしゃくしゃする…この一件だけでも、日本語および諸芸術(とりわけ音楽)の、技術による選別と検閲の現状に義憤冷めやらぬ問題化すればまたきりがない…世の趨勢如何な険悪なろうとも、ゆえあって自転車で長い坂道を登攀、寒風のさなかでも背中の黒ジャンパーは蓄熱する小春の日差しにほだされ、本当ならば、円満な豆腐のような心持で、のんのんする暮らしぶりのはずだったのである。とはいえ返す返すも心の根深で、喉に刺さった小骨のように居心地悪い悔いが残滓し続けている現状を糊塗するに限界が噴出…常日の態と云われるならばさかしらに否めぬのは納得済みながらも、…年が明けて、ザッパ二枚とキューバ音楽一枚について掲載したるも…吾ながら、なんとも、気と骨の足らぬ髄なき文章となっている忸怩たる思いが誠に我慢ならず…本当ならばもっともっと突っ込んで幾らでも書くべき事はある、しかし理由はどうあれ結果的に生半可な磯せせりの、貧相なその場凌ぎの浅思案を披歴、物事の構造を抉り出す胆力の欠けた、腰砕けのゴマカシしか書けていないのは読者諸氏に置かれてこそ、とうに見限られているものを…ならば今ここで一念発起、再起=再記をかけて踏ん張ればいいのであるが、過去に一度書いてしまった以上、もう一度それをこね回す気力も、奮起せぬ、という、消沈に打ち勝てず…誰に頼まれたのでもないが勝手に己が拘束されている、この、ブログという形式の故なのか、と責任逃れするようにして、もう、書く気しない、何かもう汚れた気がする。何もない、白紙に筆を落とす瞬間の緊張にこそ執筆の興奮が宿るのに、一度発表したものをいじくるのはたとえ自分の文章であっても他人のまわしで相撲取るようなもの、我慢ならず…しかしきちんと全うできなかった慙愧のみが喉に刺さる小骨のようにいつまでも気にかかってしょうがない、という責め苦に悶々と煮詰められるのであった。だから今回は一回休んで、かような毒を嘔吐する事で次回への発信に改めたいと思うた次第。

猫も杓子も家族家族の家族礼賛の家族主義の風潮甚だしく…家族礼賛テレビ番組、家族大好きJポップなどが手を変え品を変えて…それの延長である日本礼賛番組の横行も最早なりふり構わぬ…その一方で、長い年月を経ても決してぶれる事のなく樹立されていた明晰なる殺意をついに実行に移す特異点的猟奇殺人事件も、その実行において他からの影響を払拭しながら勃発する時系列的点在性がありもするし…佐賀と名古屋の事件は。

「誰ぞっ、誰ぞ漢文の読める者はおらんのか!」アメリカの黒船に勇躍乗り込んだ松陰先生の開口一番には大いに笑わせていただきました花燃ゆ。どこに出しても恥ずかしくない立派な漢文で己の志をしたためた松陰狂子、いくら漢文が東アジアの公用語であったとはいえさすがに黒船に通ずるはずもなく…誰もが「そんな無茶な」と突っ込んだであろう…その一方でこの松陰二十一回猛士の行状、ひいては維新の志士たちの運動を、史実に照らして描けば描くほど…圧倒的草の根的統制的封建的世襲的家族主義、国家主義が蔓延する昨今の御時勢にあっては、はなはだ「都合の悪い」、即ち「不都合な真実」に、製作者NHKはぶち当たっているのがよく分かる。維新の志士と云えば恰好良いがその内実は既成の体制に対する反逆者にして、ただ一身にして己の志を果たさんとする危険思想家にしてテロリストである。維新の志士たちは、いろいろあるのは承知で簡略化しているが結果的に、家族が大事、既成体制=幕藩が大事とはならずにそれらを断ち捨てた思想家たちである。いや、志士は、「幕藩体制」よりも大事な、「日本という国家」を守るために運動したのだ、という説明は、志士の行動を、国家主義的に「説明」し丸め込む懐柔工作にして単なる欺瞞に過ぎない。なぜなら、天皇制との絡みは置くとしても、少なくとも、志士が行動を起こした時点においては彼らは既成体制にとって決定的に反体制であった事実は払拭しようも無い事実と見なさなければ、彼らの運動の実態は掴めぬであろうからである。既成体制の支配が圧倒的に警察権力を振るう真っ只中で、ほとんど無力でありながら、家族への封建的弾圧も一向に顧みず脱藩し、自ら立ち上げた未熟で危ういネットワークを駆使しながら、既成体制の意向に逆らう反体制的行動を策動させる、それほどの意志を行使できる自立した人間…それが志士であり(無論、種々の立場や例外はあろうが)、そうした志士に、生き様=死に様を見せつける事で文字通り志士の「先達」となったのが松陰である。現政権ならびに国民の雰囲気が戦後、例を見ない程統制的であり、そうした雰囲気を強制される事なく「察して」おもねる事の上手なマスコミが作るドラマで、松陰の史実が描かれれば描かれるほど、体制におもねりたいドラマ製作者には、松陰という反体制的史実との矛盾を突き付けられるであろう。その矛盾との葛藤をごまかす欺瞞装置として、松陰の妹、を主人公に仕立てたのであろうが、欺瞞と云うのは隠蔽しようとすれば隠蔽しようとするほど、一層露顕するものである。松陰という一個の思想家を、その妹=家族の色眼鏡で捉える事で松陰の思想を家族主義へと矮小化させて体制になじむよう揉み込み、無害化する隠蔽工作なのだろうが、しかし皮肉なことに、動かざる松陰の史実は逆にそうした欺瞞工作が激しければ激しい程、際立つのである。

昭和新山や西ノ島新島の噴火が大地の生成をリアルタイムに感じさせるように、イスラム国は、まさに原初的な国家の勃興の有様をリアルタイムに知らしめる。圧倒的殺傷能力を運用できる集団を所持する事で住民と領地と生産力を支配し、少しずつ組織化しながら被征服民族を奴隷化したり他国民を直接的武力や人質交渉によって侵略、恐喝してくる領土的野心、という…およそ、現在、国家を名乗るあらゆる共同体が古代や中世において遅かれ早かれ経験してきた国家の実情というものを今さらながら剥き出しにしてくるイスラム国を、既成国家が、「野蛮」「卑劣」「残虐」「暴力と恐怖による住民支配」などと批判すればするほど、その批判がすべてブーメランのように自分らに帰ってくるような気にならないか。現状の既成国家、特に先進国と呼称される一群はイスラム国ほどに、思想と物資の統制はなされていないかもしれないが、その統制の質はイスラム国と同質にして、程度の差があるに過ぎない。その程度の差が決定的だとして既成国家を好評価するにしても…。既成国家がイスラム国を「持て余す」にしても、その持て余しかたは、イスラム国を「交渉不可能な卑劣な野蛮人」と見なすのではなく、「全ての国家と云うものの本質に根差す原初的凶暴」と見なさなければ、殺戮と憎悪の応酬は終わらないし、他人事ではなくなるだろう。イスラム国を「野蛮」と見なして場当たり的な「壊滅」を目指したところで第二、第三のビンラディンやバグダディが勃発するだろう…戦前の中東での身勝手な植民地政策や戦後のイスラエル建国、イラク戦争などの失政に責任のある英米こそが、今日の中東の混乱の責任を取るべきであろうが最早この二国でもおさまりはつかないのであろう…ドイツのナチズムやイタリアのファシズムを曲がりなりにも武力で壊滅できた成功体験が、なまじ英米にはあるばかりに、イスラム国を武力で「壊滅」したがるのだろうが、とは言え戦時中の英米の指導者には、日本の全体主義の根本である天皇制を頭ごなしに「壊滅」させずに改良的に存続させ「敗戦国」へと「全体主義」的に軟着陸させる「知恵」があった。(それが日の本にとってよかったのか、ここでは問わぬが…)英米の戦勝国史観をいまだに刷り込まれた現在の日本においてイスラム国という呼称がこれを「国」と認める事になる云々ともめているが…つまらん識者が、国際法における国家の定義を1.領土をもつこと、2.国民がいること、3.国際的承認があること、などとうそぶいているがおよそ国家の樹立というものは、歴史を振り返るに一方的な「独立宣言」「建国宣言」以外のなにものでもなく、他国の承認を条件とした事例などほとんど皆無である事も分からんのか。アメリカ合衆国、共和制フランス、ソビエト連邦、中華人民共和国しかり…安保理の常任理事国らはその建国にあたって、他国からの承認を条件としただろうか。いずれも非承認を振り切っての一方的宣言ではないか。よって、イスラム国を国家として認める認めないなどの議論は愚の骨頂である。1と2をみたして「3.支配層の意志で建国を宣言」さえすればもう「国家」であると他人や他国は認めざるをえないのである。そうした現実を直視した認識でないと、イスラム国の問題への対処を誤るだろう。既成国家は、自らの国家としての歴史に直面しない限りイスラム国による近隣住民虐殺と搾取をなくすことはできないだろう…「啓蒙」がアラブ圏に有効かどうかははなはだ疑念が残るとしても…。無論、この程度の概念整理で解決するとは思ってはいない。

焼き芋や取材の誉に立つJOGO忌

嵐のみ時々窓におとづれて明けぬる空の名残をぞ思ふ 山家集

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「buena vista social club/buena vista social club(1997)wpcr-5594」



ようやくアメリカとキューバが対話の運び…誰に頼まれた訳でもない、勝手に自らに課した宿題が増えるばかりになると誰に頼まれた訳でもなくそれを放棄する後味の悪さばかりが募るのだから詰まる所何もしたくない怠惰が…ここぞという時に莫迦犬の吠えがかき乱して来るからアウトレイジな心持になり、ビヨンド、何のことは無い、小賢しい経済ヤクザなんぞに「解釈」などという高級なママゴトを付け合わせる存念なぞ端から無かったのである。金勘定や先物取引なんぞに長けた三成タイプの小賢しい経済ヤクザなんぞはバッティングマシーンに嬲り殺される何事の無さでかたがつき…己の出世とヤクザからの上納金目当てでヤクザ間の抗争を巧みに仕掛けるド腐れマル暴刑事小日向をようやくたけしが射殺して終わるが…淡々として残酷、残酷にして淡々…アウトな連中の性懲りも無い仕業とはいえ、これが果たしてインター=世の中ではないと言い切れるのか、トヨタ車に機関銃を据え付けて国境を横断するISISの映像…結果的にたまたまそうなっている現象とは言え、あまり笑えない必然のように象徴してもいる。空っからに乾いた土埃は飽くまで押し固められた往来に、直上からの強日射、オールドバハナの街角の鮮烈な影に映える古き良き自動車…便利で使い勝手はいいが魅力の尖りが殆ど馴致せられた現代の大多数のつまらぬ日本車など皆無…平凡非凡の枠超えて己の為すべき事を深く知り尽くした誇り高い音楽…北米にひけを取らずヨーロッパ(スペインとポルトガル)と原住民との音楽混淆の豊穣(タンゴ、サンバ、ボサノヴァ、ソン、フォルクローレ…)が凄まじい南米の…否…今はもう小生の胸が途端に苦しくここ最近の諸々の刺激に途方も無い混乱を呈し、この、誇り高いキューバのソンについてなど…昔見たかもしれないがすっかり忘れていた溝口の雨月物語…始まるや否な陶技指導に永楽善五郎と出た時にはただ事ではないと発作、居ても立っても居られず京マチ子のいにしえ人ぶり、その妖艶冷めやらぬ内容に息が詰まるし、アウトレイジビヨンドの寂しい他愛ない現実にも息苦しく、勝新の座頭市に胸が空くのもあり、加えて座頭市の音楽は伊福部昭であった事も度胆抜く発見でありつつドカドカドカドカと鼓舞する激しい音楽…とち狂ったかのようにアルプスの少女廃児に首ったけながらもその豊富な創意に抱腹絶倒の動悸息切れで絶え絶え、耽読中の折口信夫の死者の書に幽体離脱する興奮のイキレに悶絶の苦しみ、併読中のボルヘスの砂の本のコクを味わう中毒にイカレて、二十一回猛士吉田松陰の志の凄まじさはまさに「先生」であり己の愚鈍の絶望を叩き込まれつつ…とことん腐る事すらも出来なかった戦後日本民主主義への三島由紀夫の絶望が、小生が彼の血の滴る心臓を高々と抱え上げる妄想すら許されるくらいに、今はもう、本当によく分かるのだ…徹底的に人間の人間性を愚弄、しかも良かれと思って無意識に無邪気に人間を馬鹿にする愚昧に対して何ら恥じる事の無い、NHKが垂れ流す未来予測への絶望たるや…、ただの動くICチップへと堕した家畜未来人の有り様への絶望が予め麻痺させられる絶望を目の当たりにしたとあっては猶更(何でもかんでもネットにつないでイイ気になる前によお、エネルギーと有機資材の石油依存と放射性廃棄物の解毒化をどうにかできねえのかよ、優先順位は何かガキでも分かるだろそんなもん糞ボケがっ、とアウトレイジ調に凄みたくもなるよ)、小生一人切腹すればこの梗塞麻痺痴愚未来が変えられるのであれば、と思いつめ、いきり立って掴み処なく…いっそアウトレイジの方がましに思えてくる…無意識に、そしてさらには意識的に奴隷に成りたがっている家畜人間に何言っても無駄って事。寛いだコク音楽、さりとて、いざとなれば、恋や怒りに瞬時に身を焦がして関係者を燃やし尽くすくらいの度量はあるだろう、よく生きた古老たちの…。

eliades ochoa:vocal, guitar, lead vocal
compay segundo:backing vocal, congas, guitar
ibrahim ferrer:backing vocal, vocal, lead vocal
ry cooder:guitar, mbira
manuel 'guajiro' mirabal:trumpet
carlos gonzales:bongos
albert 'virgilio' valdes:maracas, backing vical, chorus vocal
joachim cooder:udu drum, dumbek, conga
barbarito torres:laoud
orlando 'cachaito' lopez:bass
manuel 'puntillita' licea:backing vocal, lead vocal
luis barzaga:backing vocal, chorus vocal
julienne oviedo sanchez:timbales
juan de marcos gonzalez:conductor
…etc

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「frank zappa/zappa in newyork(1976)rcd10524/25」

 

ザッパ イン ニューヨークである。ライブ録音であるが「ライブ」と銘打ってないアルバムなのでこれも録音後、ザッパが編集と修正を加えたものであるのはザッパ愛聴者ならば知悉してしかるべき事項である…と書きかけて、どうにも周囲の、執筆への集中を妨げる状況にイラつきながらも他の部屋は寒すぎるので炬燵から抜け出せず、願わくばサザエさんの消音したいがそれは許されない。まめまめしい義務に満ちた生活の、落ち着かぬ気忙しさの只中でただひたすら浮つきながら書かざるを得ぬ…一日中ほうじ茶ばかり作ってる気がする…

このアルバムについて云いたい事は只一言、これは、特に冒頭の「テディ&ベア」という楽曲は、小生ならばこう邦題するだろう、即ち、「ファンキー・ファウスト」であると。

とっくに大掛かりなショウビズ化されてはいるギタギタしたメタルのガガたる山容を津波のようにドシドシ繰り出す目出度い近未来ファンクのリズムにのせて、ザッパ扮するファウスト博士らしきと、迂闊に近寄ると頭ごと食い千切ってくる、どうにも手の付けられぬ邪鬼の声で場を乱すメフィストらしきとの掛け合いのように聴こえるのからして、これほどまでにファンキーなファウストの達成はこの楽曲だけだと思われる。特にメフィスト役の男(多分、ドラムのテリー・ボッジオ…顔が異なる、むくつけき男どもの中で恐らく一番の年若の美少年にして御下劣な声の持ち主、という混乱させる御仁)の、どうにも救い難い濁声で薄汚い罵りを性懲り無く張り上げるのであるがその内容は恐らく本家メフィストに劣らず人生への洞察を貫く金言に満ちているだろう…詳細は思い出せないが邪鬼のようなのを踏みつける忿怒系明王という仏像があるだろうが、見るに、この忿怒系明王の表情の中味は空っぽ、恐らくものを考えた事はないしその必要性が無い事に何ら痛痒も感じない単純な悟りだろうが、踏み付けられている当の邪鬼は不様ながら眼光炯々として一層思慮深いものを推察される…そうした邪鬼メフィストが、下顎を外した全開で人の頭をガブリと飲み込む深海鮫の獰猛のがなり=金言を延々させるのをいなす具合に、ファウスト役のザッパがクールにレスポンスするのであって…本家ファウストではファウスト博士の方が肝の据わらなさを示しメフィストの方が冷徹に道化るのであるが、この度の「ファンキー・ファウスト」でのファウスト・ザッパは猛獣使いに興じながらもメフィストの知性から邪鬼と獰猛を引き出し、最後は共にファンクのリズムの彼方に消える仕上げ。後はザッパ交響楽の態。ドラムの見せ処「ブラックページ」も所収している。

そうした事よりも今日の最大の発見は、「リズム」という単語をアルファベットで記すと全て子音のみで母音が無い、という事である。rhythm。ここに西洋音楽の秘密の一端があると確信する。

ザッパのクレジットにコンダクター、とあるのに目くじら立てるロック論者も居るやもしれぬが今宵はそれには触れぬ。貧民向けの地上波は再放送ばかりで殆どぼったくりバーのようなNHKで夜中に再放送しまくる吉本隆明特集を何だかんだでもう4回目くらい視聴するのに嫌悪し、ついに吉本隆明も、民主的多数派の耄碌した懐古趣味に回収、消化された無害化の結果なのか、と、…考える事多数あるが次の機会に持越したく、久々にレンタル屋で借りたのは…アウトレイジ、そして細君が見たがる武士の家計簿と羅生門…それを二日がかりで見終わって返すついでにまた借りたのはアウトレイジ・ビヨンド、溝口健二の雨月物語、そして細君が見たがる座頭市とアルプスの少女ハイジ…アウトレイジ…ほんの一滴でも、人間関係の信頼というものを信じてしまったものは、まるでその信じる事が猛毒だったかのように呆気なく次次に凄惨な死を遂げる…ほとんど殺されて、そうした挙句に生き残ったのは三浦氏という俳優と、今時の、英語と算盤に明るい経済ヤクザの二人であったが、この経済ヤクザに対する映画の中での解釈は、本作においてはまだ保留、という形であった。保留という形の解釈かもしれぬが次回作ビヨンドで、この経済ヤクザへのけり=解釈?をつけるのであろう、と推察する…ヨーロッパ文化が古典ギリシャ・ローマ文明とゲルマン民俗とキリスト教の混成であるように日の本では漢学とヤマト民俗と仏教の混成であるならば漢学やらないと日本語の真髄も何にも分からない、漢籍を読み下すために町の儒学者に教えを乞いたい処だが2015年、そんな儒学者が身近に居るはずも無く…差し当たって四書五経を精読する前に王義之の蘭亭序の臨書を独習し始めるが全然駄目だ、出来ない…土鍋を糞欲しいと念じながら目に適うたものがない日々…美の壺の再放送でまた土鍋特集をやっていた…轆轤目と胴締めがぐわぐわ力強い、飴釉を下敷きにした黒釉で、少し浅めで、見込みは柿釉の土鍋をぜひとも育てたい…と強欲する。十数年ぶりに見た羅生門の京マチ子はもう本当に平安末期の高貴なドぐされ女にしか見えない凄みである。

今週いろいろ考えたけれども今夜は書く時間が無いので来週に回したい主題の、叩き台

1.思想的善悪と社会的善悪の対称/対偶関係
2.「多数」の「絶対化」という止揚が全体主義の一起源である。

frank zappa:conductor, lead guitar, vocals
ray white:rhythm guitar, vocals
eddie jobson:keyboards, violin, vocals
patrick o'hearn:bass, vocals
terry bozzio:drums, vocals
ruth underwood:percussion, synthesizer, and various humanly, impossible overdubs
don pardo:sophisticated narration
david samuels:timpani, vibes
randy brecker:trumpet
mike brecker:tenor sax, flute
lou marini:alto sax, flute
ronnie cuber:baritone sax, clarinet
tom malone:trombone, trumpet, piccolo

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「frank zappa and the mothers of invention/one size fits all(1975)rcd10521」



今だに社会社の工場内では着用を義務付けられているだろう帽子capの縁の裏にはまさしくone size fits allと小さくプリントされており、その帽子を被った時にボンの窪に自ずとあたる部分の、帽子の円周サイズを調整できる伸び代乃至は縮み代の機能を表示しているのであるが…小生の全音楽史の総論を以て想起される慷慨と感慨のあらましには、ザッパ&マザーズの最高傑作の一つであるこのアルバム「one size fits all」が燦然と屹立するのであった。邦題では万有何とかの法則、というそれはそれで秀逸ではあるが原題に比べて無理がある感は否めなかった。世襲政治家と経団連が結託した封建制に甘んじる苦しい圧政の現在…報われない労働を強いられる小生にとっては作業帽の裏にone size fits allとプリントされている事にどれだけ激励された事か。隠れキリシタンがマリア観音を懐中する、何ものをも信じられぬからこそ神を信じる信仰の気位…ルネサンスとは、およそ人間の自然状態…仁義なき権謀術数と人の弱みに付け込むのに長けた経済ヤクザ=禿鷹的合理主義、そうした世情や経済と渾然するゆえにぎゅうぎゅうに異次元へと、即ち人間の惰性=資本主義とは断絶するように高まる信仰と芸術であった西洋ルネサンス…虫唾が走るほどの政治的胆力と、あらゆる学芸に秀でた上で事を為す奔放であるルネサンス…ロック音楽においては唯一のルネサンス的巨人であったザッパの作品群=ザッパ山脈においても最高峰に位置する本作は何において最高峰なのか、などは云うに易しいがそれら一切の言説が空しいだけだろう…ロックにおけるルネサンスとは言うまでも無くサイケデリアの本源と関係するのであり、ルネサンスがギリシャ古典を召喚してこそルネサンスであったように、ロックにおけるルネサンスとはサイケデリアを召喚してこそ、である。ここでいう本源サイケデリアとは何か、については小生の過去の論考を参照頂きたい。云うまでも無く本源サイケデリアを構築するのがザッパの音楽であるのは云うまでもないことであった。芸術における最高峰とは畢竟最底辺=基底と同義である事は最早、いまだ情報へと消費されはしないが唯一凡俗へとへりくだった権現ではなかろうか。人生において思想が遂に意志へと実用化される時、それは凡俗へと成り下がるのへ表裏をなしつつ、雪の結晶のようにその表裏の間に深みは無い。インカの薔薇。これほどまでに美しい楽曲…失墜の限りで痴呆する弱体の小生にあってみれば最早これに太刀打ちする気力も憔悴してなお、噎せ替える疼きが蜷局巻いて沸騰する序盤から、苦みとノリを滔々と抜け駆けする不思議旋律の歌唱を経て、ザッパのギターはいまや雪舟の筆使い、空間に時間を悠々墨絵する…山水の境に遊びながらも…志村けんのバカ殿様的オチで〆る悪趣味を厭わぬすかしッ屁で、これまでの業績を一挙に灰燼に帰するとち狂った圧巻は残忍と獰猛が功利する無残なマキャベリズムの倒錯的芸術態である。芸術態における功利とは無駄へと志向する。雪舟などの室町文化は西洋ルネサンスとほぼ同時期であるがそうした概念的関連を棚に置いて専ら音を聴いただけでも感得されるのは…雪舟の山水長巻の筆致を見ても立派に「荒」んでいるし、ルネサンスとは政治的に荒みの絶頂、サイケデリアも一言で言えば荒みの一表出であって…ザッパが雪舟するサイケデリア性の荒みであってもいいだろう。西洋に天才あり、東洋に達人あり、…大洋を分かつアメリカ大陸の深部においてザッパ(雑派)が天才と達人の境涯に遊ぶギター…。それにつけてもジャケットの図案もまた至宝である。毛深い掌が摘まむのは極太短小の葉巻…その紫煙の彼方、炸裂する銀河、ぐりぐり独楽にされる土星、奇怪な天文学図、まばゆい恒星の光から照明の力を奪う暗黒の漆黒の宇宙に浮かぶ真っ赤なソファ…ただただ美しい。

frank zappa:all guitars, lead vocals on …(省略)
george duke:all keyboards & synthesizers, lead vocals on …(省略)
napoleon murphy brock:flute and tenor sax, lead vocals on …(省略)
chester thompson:drums;gorilla victim
tom fowler:bass
ruth underwood:vibes, marimba, other percussion
james "bird legs" youman:bass
johnny "guitar" watson:flambe vocals on …(省略)
bloodshot rollin'red:harmonica when present

(ライナーには使用スタジオやミキサー、エンジニアたちもきっちり記載してあるのでザッパの考えからいえばそうした人々もここできっちり記載すべきなのだろうが小生の時間の都合で割愛させて頂く…)

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今週休載

今週は休載します。次回は2015年1月11日です。

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