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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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忘れ得ぬ事…

静かに…外でリーリーと虫が鳴き…何かしらんが尻に十円玉ほどの腫物が出来る始末で、蒲団に寝てても何処か据わりの悪い感じに…ダニに噛まれたのだろうか…此の夏一杯かけて、天日干しや洗濯の機会を逸して昆布の佃煮みたいに体液で煮締まった敷布団にはダニどもが繁殖の限りを尽くしているのだろうか…増えに増えた敷布団の中でのダニの充満を上から定期的に圧迫する小生に一矢報いたつもりなのかしらん…今週は故あって時間が無く…家人の不在に託けての自由な酔いにふけりながら…ビールをしこたま流し込んで喉を覚醒させた後、葡萄の皮のタンニンが少ない分だけ赤ワインよりも白ワインの方が悪酔いし難いと山岡が云うから、既に鈍重に内的に獰猛の度合いを増す脳みそを白ワイン漬けにするが如くに白ワインを飲み続け、何も考える気が起きない懶惰な夜で…御茶を濁す…結局の処…未だに忘れ得ぬ事、事有る毎に折に触れては日毎に根強く思い起こされる事柄があって…

2016年大晦日の紅白歌合戦での、宇多田ヒカルの歌唱「花束を君に」が未だに忘れられず、今でも、日常の端々でいちいち思い返しては新たなる感銘に打ち震えており…出演する歌手の誰もが、渋谷のNHKホールで、年末と云う大衆的御祝いムードに便乗するようにして凝りに凝った派手な演出に浮かれている最中で…ヒカルは超然と…ロンドンかどこかの、異国の、何のかざりっけも無い簡素なスタジオで一人、華美な演出に拘泥せぬ普段着然として…しかし歌にだけは誰よりも精魂傾けて心の限りに誠心誠意に歌を尽くしている姿…其れは、「花束を君に」と云う歌の存在に対して何処までも誠実であろうとすれば当然のように行き着く姿が、まさに彼女の内面の誠実を証明するように、強靭に実現されたのであって…云ってみれば…豪壮華美を極めた聚楽第の隅に、利休が仕掛けた二畳敷の茶室の意味と同じく…そう…有楽斎曰く…派手好みの秀吉の喉元に突き付けた、利休の、侘び数奇の刃と云う風情であって…半年以上経った今でも、小生の日常は、ヒカルが日本全国に齎した情熱的で実質的な感動の余波にあるのである…一方で、同じ紅白歌合戦で、オリエンタルラジオの中田が、「ネオ秀吉」と銘打った演出で「パーフェクトヒューマン」を歌い、踊ったパフォーマンスは、小気味良いほどの現代的な桃山調の、W・ギブスンの「ニューロマンサー」みたいなド派手な近未来感で、印象に残った。

其れに加えて、数年前に公開された、宮崎監督の「風立ちぬ」を鑑賞した感動の余波も、未だに小生の日常における、宇宙背景輻射(ビッグバン由来の電磁波…宇宙空間自体の温度で、絶対温度3K(摂氏マイナス270℃)に相当)のように、しかし3Kよりは遥かに高い情熱で、此れもまた折に触れて事有る毎に小生は頭の中で各シーンを思い返しては執拗に新しく感動している、そんな日々が多分1年以上続いているわけで…小生は此の映画を映画館で4回、DVDで3回は見たのだが…此の映画の内容に対する思いのたけは過去に存分に書いたので此処では繰り返さないが…此の差し迫った時局…ともすれば国家主義的創作物や表現物があらゆる隙を衝いて氾濫しがちな時局の喉元に、敢然と宮崎監督は、反国家主義的な表現物と云う刃を突き付けているのである…補足をすれば…当時の時局にあって…余命幾ばくも無く、出産の見込みがない結核の女性との純愛そして結婚は…産めよ増やせよと、一人でも多くの兵士を量産したい国策からしたら…反国家主義的所業にあたる(次郎が、菜穂子の死後、後添えをもらう事を予期していたかも、などと云う意地の悪い邪推は必要あるまい)…現に作中でも、菜穂子のせいかは不明だが次郎は特高から目を付けられている…三菱が上から手を回して守ってくれたようだが…ともあれ次郎はそうした意味では反国家主義であり…と云うよりも…己が愛した女性がたまたま結核だった、しかし愛は結核に先立つので愛が揺らぐ事はない、と云う現実の奇蹟に何処までも誠実に向き合う姿を監督は表現したのであって…此のような、「現実と云う奇蹟」に向き合う勇気や誠実さと云った人間の原理が確立されていない愚昧で未熟な人間が、国家や資本、あるいは生命、などの「虚構の理屈」に盲目的に隷従するのであって、…国家主義を補完するようにして少子高齢化対策と云う錦の御旗に追従する浅薄な家族主義が隙あらば称揚される現在の時局にあっても、「家」を為さぬ男女の純愛を描いた「風立ちぬ」は反国家主義的映画として、国家主義的現在の喉元に対する刃の一閃である…此れが最後の作品と云う触れ込みだったようだが最近のニュースによるとまたぞろ新作の製作に着手したと云う朗報もあって、…楽しみである。

なお、「君の名は」も、専ら男女の出会いと云う奇蹟のみを執拗に描く事に執着し、国家的社会的生命的承認を端から必要としない、奇蹟に向き合う人間の原理のみを貫いたと云う意味では、国家主義が蔓延する今時局においては、殊更に反国家主義的に見えるから反国家主義的であったと評価出来るであろう…空気中を舞う塵や埃にまで光を当てて乱反射させる処まで超鮮明にアニメで描くと云う表現手法上の新機軸も新鮮であったし…しかし些か合点が行かぬのは…隕石が落ちるから避難命令を出すようにと、主人公の娘が、町長の親父を説得するシーンが、全く割愛されている処である…此の親父は神社の家に婿養子で入ったが、巫女の嫁さんを病気で亡くしてしまい、悲嘆のあまり結局神も仏もないんやとばかりに、其の神がかりの家を飛び出して、政治と土建が癒着した実業の世界で生きる事にした男であり…そんな町長の処へ、神がかりの血を引く己の娘が、隕石がどうの、などと云った、俄かには信じ難い、神がかり的な妄言を弄して公的な避難命令を出させようとするのだから、当然ながら、実業vs神がかり、あるいは親vs子、と云った対立軸が絡み合った両者の説得と葛藤の場面が想定されるが、そこん処が映画ではばっさり省略されて、姿も中身も娘自身である娘が町長に会いに行った次の瞬間、あっさりと、此の町長は避難命令を出してみんな無事、と云う結論を導き出しているのである。其の前段として、此の娘に憑依した主人公の男(高校生)が、此の町長に会いに行って避難命令を出させようとするが、さすがに町長は、姿は娘だが中身は男である異様を感得して、此の男の懇願を拒否するのである。其のリベンジとして、娘の姿をした娘自身が親父=町長に会いに行ったら、説得と葛藤の過程はばっさり省略されて、避難命令OKになると云う寸法だから、親vs子と云う対立軸は解消するにしても、要するに、実業vs神がかり、と云う対立軸による葛藤と其の解決が脱落しているのである。しかし此れは時代を読んだ、あざといまでの製作者の意図なのだろう…斯様な対立軸に拘泥する近代的な葛藤などに新海監督は全く興味はないし、其れよりもスピーディーに男女の出会いとすれ違いを描いて観客をスピーディーにやきもきさせる事に主眼を置いたのだろう…と理解する…何はともあれ、反国家主義的だから、問題は無い。

普段は腹八分に抑えているのがタガが外れて、調子に乗って豆腐を食べすぎて腹がはち切れんばかりである…

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2017年度安全保障談話

高校野球…プレイボールのサイレンの音色は云うまでもなくかつての日本の諸都市を焼き尽くした空襲の警報の其れを強く喚起させるから、自ずと、第二次大戦を経た日本人の情念、直接戦争を経験した訳でもない世代の無意識にまで刻まれた怨念の如き根深い情念と、倒錯した快楽を強く喚起させるのであって…一旦そう気付いたならば、開会式での選手入場は明治神宮での学徒出陣の比喩であろうし、選手らの体を張ったプレーで雨でぬかるんだ内野の、甲子園特有のどす黒い泥寧は、戦友の死体を食い漁る飢餓地獄を齎したインバール作戦を強く喚起させる比喩に他ならず、もっと云えば外野まで気持ちよく飛んだ白球までもが、ノモンハンでのソ連軍からの強力なる迫撃砲をも強く喚起しており…ついでに云えばファールボールやホームランは誤爆や空襲であり、スクイズやホームスチールは特攻なのか、負けた選手が惨めたらしく土を巾着に掻き入れるのは戦友の遺骨を持って帰る仕草なのか、と妄想すればきりが無く…其れは兎も角として…八月一五日を含む此の時期に、甲子園を選択して壮行される高校野球というのは奇しくもなのか意図的なのか、いずれにしても日本人の薄暗い情念の蟠りを喚起して止まない戦前の経験と記憶を喚起して止まない…良くも悪くも夏の高校野球は、現代における、かつての軍国日本の比喩、寓話、演劇であるからして、高校野球部員は学徒出陣保存会と云うのみならず、軍国日本の演劇部員たるべく、野球を隠れ蓑にした本番の上演を目指して日夜厳しい練習に励んでいるのであろう…此の事は、開会式で御偉方が、平和だからこそ野球が出来る幸せ云云と、同時期に日本各地で開催される戦没者慰霊式典で述べられるような文言と同じ事を云っているのだから、あながち間違いではないのだろう…従って高校野球と其の周辺事態を具に観察すれば、軍国日本に対する現代の認識と、軍国日本其のものとの差異や歪みが自ずと発露されるのであろうが今日云いたいのはそういう事ではない…観客席で、応援する生徒や保護者連れとは何処か異質で野卑な臭気を漂わせてビールを煽りながら真夏の炎天下の平日の昼間、孤立して高校野球を観戦する燻ぶった熟年男性らが、闇市の隅でやさぐれているヒロポン中毒の特攻隊の御方の生き残りにも見えるし、ベンチで腕組みしながら補欠選手をマウンドに伝令に出す、ふんぞり返ってでっぷり太ってユニフォームが風船みたいにはち切れんばかりになっている高校野球の監督と云うふてぶてしい、あるいは老獪そうな、傲慢そうな人種も、現場の兵站を度外視して大和魂一点張りで強攻させた作戦が多大かつ悲惨な犠牲のみを山積みして失敗するや否や自分だけさっさと安全な内地に引き返した挙句、責任は現地司令官に押し付けて自分は勲章を10も20も胸に垂らしている、無能と云うだけでは罪深すぎる、現実や人間の命よりも組織内でのウケ狙いに汲々する小官僚的愚劣中将レベルにも見えてしまうが、今日はそんな事はどうでもよいのである。尤も其れは見掛けだけの偏見であり、戦時の、官僚化した愚劣将官クラスとは違って、高校野球の監督ともなれば其れなりに有効な作戦や指示を繰り出しているのだろうが…素朴な疑問としては、高校野球は一応教育活動の一環にも関わらず、プロ野球と同等に観客席にはビールの売り子さんが上下して、大人の観客らは気楽にビールをゴッキュゴッキュしておるのは何故許されるのか、であって…高校の運動会や文化祭、あるいは他のスポーツイベントであるインターハイなどで観客にアルコールが販売されているはずはないのだから、高校野球で観客へのビール販売が許されるのは合点が行かないが、まあしかし、あの状況でビールを飲むなと云う方が間違っているのだろうと、小生も心得てはいる…

テレビと云う、情報を手短に伝えるしか能が無いメディアだから、歴史的背景にまで及んだ思想的主張の構築まで伝えきれないのは致し方無いのだろうとも思うが其れでもテレビを見ていて違和感を感じるのは、此の時期になると頻出する、戦時の悲惨を今に伝える体験談や証言の取材、であって…其の形式はどれも似たり寄ったりで、話の枝葉には体験者それぞれの差異はあるのだろうが、結局の所、「戦争は悲惨だった」→「だから戦争だけはやってはいけない」「だから平和が一番」と云う帰結の紋切り型なのである…当たり前のことを云っているに過ぎないとも思われるが、よくよく考えてみると恐るべき飛躍と論理の欠如、ひいては危うい歴史認識が存在しており、其れに気付いた時に、途方も無い、暗澹たる違和感を覚えたのであった。では、一体、どこが悪いのか。戦争の悲惨を事実として証言する事自体には何処も誤謬がないばかりか、其の事は機を見て折を見て絶えず伝え続けなければならない歴史的事実として、正当である。また、戦争はやってはいけない、と云うのも、此れ以上付け加えるべくも無い、至極ご尤もな見解である。しかし、此の両者を、短絡的に、一足飛びに、「だから」でつなげてしまう論法は、様様なる勘違いやら見解の相違、ひいては決定的な歴史誤認と無反省を導くものとして、危ういのである。しかも、此の論法は、戦後日本において庶民レベルで通例となっている、ごく常識的な見解となっているが故に、尚一層民主的承認の力の下で劣悪な未来を導きかねない、誠に危うい短絡と云わざるを得ないであろう。

何がおかしいのか、種種の論点が考えられるが…取り合えず、ああいった発言には戦争による被害者意識だけで、加害者でもあった歴史的事実への認識乃至反省が欠如している云云と云う論点は此の場では除外しておく。なぜなら其れは文章の内容が含んでいない事に関してであるからして、そうした論点で云えば幾らでも異論は噴出するだろうからである。此処では飽くまでも、戦争は悲惨だった、だから、戦争はしてはいけない、と云う文章が指示する内容のみから導出される危険性のみを抽出する。そうした時、此の文章をごく素直に聞く乃至読むならば…「だから、戦争はしてはいけない、如何なる理由があっても戦争だけは絶対駄目」、などと日本国民が云う時、ならば、其の戦争が、まるで自分ら国民の意志で勃発できもするし、あるいは止めることも出来ると云う認識を前提にしている事が明らかである。此の認識は実際の所、あまりにも楽観的過ぎており、事態の深刻さを一切捨象しているが故に、戦争勃発に係る事実を全く捉え切れていないのではなかろうか、と、少し考えたらば、誰でも思うであろう。誰も戦争したくてするものではない、しかし其れでも突入してしまう恐ろしい吸引力を有するのが戦争なのである。従って、だから戦争はしてはいけない、などと単純に帰結させる事自体が、戦争への認識を軽視しており、ひいては戦争の事実を伝えないばかりか戦争に対する楽観的な虚像を撒き散らす愚劣へと加担する事になるのだから、当たり前の事、更には世界平和にとって有益な事を云っているように見えて、実は、其の、誰もが納得するような手短で素朴な見解ゆえに、戦争の真実を隠蔽し、ひいては次の戦争勃発への抵抗力を殺ぐ事に寄与する罪深い言表なのである。

戦争を始める口実は、其の主体的関係者から見た場合、次の三つが挙げられるとする。

①天、あるいは神による災厄
②純然たる領土的野心
③自国の領土防衛、経済防衛、あるいは他国に居る自国民の防衛、あるいは他国からの侵略に対する防衛

①は今回は論外としたい。軍同士の戦闘は兎も角として、例えば空襲や原爆などに対して、此の国の国民は、どこかしら自然災害のような認識を抱いている節も否定できない…とりわけ空襲や原爆に対する体験者の手記や表現物において、降り注ぐ爆弾を自然災害かのように、其の爆弾の向こう側に実際に爆弾を落とした主体が存在する事が全く想像だにされずに、受け入れられている奇怪な諦観が、それらの端々に見受けられるのは無視出来ない、日本固有の現象、己に主体が無く戦争に追従したから(しかし、国民の主体の否定が、戦争推進の力なのである…)、だから爆弾の向こう側にも主体的人間を認めえないような状況であるが、今回は、「…だから、戦争はいけない」と、一応、話者が主体的に言明しているから、此の、戦争=自然災厄説は、関係ないとしたい。

②とは、放っておくと他国から自国が侵略される懸念が存在する訳でも無いのに、専ら自国内において内発させた領土的野心に従って、領土拡張にために他国を侵略する場合、である。例えば古代の、アレキサンダー大王のインド遠征や、中世の、チンギス・ハーンによる中央アジア遠征、などである。近代の、ヨーロッパによるアジア、アフリカ、アメリカ大陸侵略は、植民地獲得競争による経済防衛と云う意味合いで事態は複雑化するので②には入らないかも知れない。

③は、戦争を主体的に始めた者が最も多く口にする要因であり、口実である。戦争というのは、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンのような稀な事例を除けば、ほぼ99%は、自国の領土と経済の防衛を大義名分として勃発するのであり、特に近代になってからの戦争口実は③以外在り得ない。逆に、近代以降、②のような純然たる領土的野心を発端として戦争が開始される事はなく、ほぼ絶対的に戦争開始者は、自国の防衛を口実として、戦争を開始するのである。其れは、ナチスや軍国日本の例を挙げるまでも無く、其れこそ純然たる事実である。

しかるに、戦争は悲惨であった、だから、戦争はしてはいけない、といとも簡単に楽観的に一足飛びに結論付ける時、此の話者あるいは此の文言を雰囲気的に何となく肯定する共同体が、戦争開始と停止を主体的に決定できるかのような権力を有しているかのように読み取れるのである。戦争の開始あるいは停止を、自分らの意志のみで、即ち主体的に決定できるのは、其の戦争が純然たる領土的野心に起因する②の侵略戦争だった場合にのみ、云える事である。とすると、此の話者乃至は、此の文言を肯定する共同体即ち日本人の大部分は、先の大戦は、日本による純然たる領土的野心が原因だった、とする認識を抱いている事になる。しかし、近代以降の歴史が、そんな単純な道理で動くのだろうか。先述したように、近代以降、②は在り得ないのである。従って、あのような文言が肯定される日本社会は、先の戦争は本当は防衛を大義名分としたものだったのに、純然たる領土的野心を大義名分としていた、というような、誤った認識を公言している事になる。

このように書くと勘違いを誘発するので予め抑えておきたいのは、先の戦争が防衛を口実としていたと云う歴史認識は、だからといって先の戦争を防衛戦争だったと言う意味で賞賛的肯定的に捉えている訳ではない、と云う事である。当然の事ながら、自国を攻められた中国やアジア諸国にとっては日本による侵略戦争なのだから、此の戦争が肯定される理由は何処にも無い。此処で云いたい事は、専ら日本国内においては、戦争を開始する大義名分の内実は、自国の防衛だった、という事実である。アジアの解放だとか大東亜共栄圏などと云った当時でさえも大衆向けのスローガンなどは、大陸での皇軍の振る舞いを見たら虚飾に過ぎないのは明白なので、此処では相手にしない。専ら歴史の持続性に鑑み、当時の国家指導者層は、自国の領土的経済的防衛を目的に、自国の防衛を大義名分として、戦争開始への意思決定を統一したのである。そして、防衛戦を大義名分とする其の論理とは…自分には領土的野心も無く戦争は出来るだけしたくないけれども、自分らでは主体的にどうにもならない諸状況によって国民の生命、財産が脅かされるから、致し方なく開戦する、と云うもので…国家から此のように云われたら、国民側として其れに対して論理的に反駁する事は、今の処不可能なのである…いざ国家が防衛戦を主張すれば、戦争は悲惨だからいけない、と云う反論も散発するだろうが其れは防衛戦を前にすれば情緒的な意見に過ぎず、防衛戦の論理に対抗できるだけの論理性が欠如しているから、国民や国家に影響力を齎しはしなかったし、今後もしないだろう…

簡単に日本国内の身勝手な論理の事情を紐解けば…南下してくるロシアと清が朝鮮半島を廻って勢力争いしている状況で、清が朝鮮を占領しても遅かれ早かれロシアには敵わないから、そうするとロシアが朝鮮半島を植民地化する可能性がある…そうすると対馬は直ぐそこであり、領土的野心旺盛なロシアによって北海道や対馬などの自国の領土が済し崩し的に侵されるのは時間の問題である…折しも日本国内は金融恐慌やら大恐慌やら飢饉やら米騒動やら労働争議やらで絶望的である…差し迫った内憂外患を何とかするために…従って、まずは朝鮮半島に対する清の関与を切断するために日清戦争を起こして清を排除…ロシアに取られるより先に朝鮮半島を併合しておいてロシアの南下を防ぎつつ…満蒙で好き勝手しているロシアといずれ一戦交える事になるのだからと日露戦争して辛くも勝利…満蒙に日本の権益を確保…そうすると大陸における日本の権益は、当然のように自国の利益の防衛の範囲内に拡大指定され…日清、日露戦争で流した数万の将兵の犠牲を思えば…満蒙での権益は自国の領土其のもの、満蒙は日本の生命線である云云、として…何かと日本の権益と競合する中華民国の影響を排除すべく満州国建国…事変をでっち上げて日中戦争勃発…いろいろあって満蒙の権益に口を出してくる欧米とも開戦…と云った流れなのだから、日本側の論理からしたら、日中戦争、太平洋戦争は、侵略ではなく防衛戦争なのである。そして、幾らでも拡大解釈される此の防衛戦争は、防衛を大義名分として侵略戦争を拡張して行くのである… なお、このように書くとロシアが全て悪いと思われるが、ロシアとて国内事情と欧州との確執を抱えての、「防衛上の」必要性を大義名分として極東アジアへの侵出を決め込んでいるのである…

要するに…戦争は悲惨である…それはそうである…しかし、だから、戦争はしてはいけない、などと短絡させて、まるで先の戦争が、純然たる領土的野心から勃発したかのように捉えて、防衛戦争を大義名分とした歴史的事実を隠蔽するならば、今後、またしても国家が、防衛を大義名分として戦争を開始しようとした時に、戦争はしてはいけない、などと素朴に抗弁した処で何の意味もなくなるではないか。仮に先の大戦が、日本の純然たる領土的野心に起因したならば、其れは国内のみの内心の問題だから、戦争はしてはいけませんね、悲惨だから、などと主体的に思い返すだけで、戦争は防げるだろう。しかし、先の大戦も、そしてこれから起こるかもしれない戦争も、実際には、絶対に、日本の防衛を大義名分として誘導されるのは目に見えているのである。従って、戦争は悲惨→だから戦争は駄目、のような素朴な論調を馬鹿みたいに肯定的に繰り返すことは、戦争を領土的野心のみで捉えて、実際の防衛戦争を大義名分とした場合を全く隠蔽するものだから、今後、いざ、国家が、防衛を大義名分として戦争を開始しようとした場合、其の防衛の論理に抗うカウンターの論理を構築する機会を徹底的に奪っている事になるのである。そして遂には、過去と同じように、防衛戦争の論理に抗いきれずに、打ち負かされて、同じように、戦争開始へとなだれ込むであろう。従って、国家が、内憂外患の行き詰った状況で、領土と経済の防衛の論理を振りかざして戦争開始の是非を国民に問うた時、いまだに国民は、此の防衛の論理の正当性を打破しうる論理を構築出来ていないのである…そうするとまたずるずると、先の大戦と同じように、戦争に対して非主体的に隷従的に引きずり込まれ…そうすると、仮に人類滅亡を免れた「戦後」が存在した場合、無自覚に戦争開始に追従した過去の大戦と同じ轍を踏むように、其の再度の「戦後」も、戦争に対する自堕落な無反省を繰り返して、馬鹿の一つ覚えみたいにまたしても戦争は悲惨だから戦争はいけません、などと能天気に自慰し続ける羽目になって、結局また戦争が再発するのである。そうするに、こんな無反省無自覚な現在の状況は、とても胸張って「戦後」などと云えないのである。従って、もはや戦後ではないどころか、いまだ戦後ではない…こういう事を小生は危惧するのである。

従って、悲惨な戦争をしないためには、国家が提唱して来る防衛の論理を超克し、防衛の論理を破綻せしめる別の論理を構築する必要があるのだが、実際の処、国内は元より現状の国際関係が国民国家意識を超克し得ていない以上は、如何ともし難い…国民国家を超克する布石であるはずの国連も、民主主義を標榜しながら、実情は常任理事国の特権によって、世界で最も非民主主義的組織として甘んじている体たらく…しかし世界政府の方向性は必要としつつも…しかし、世界政府成立など待ってられない切迫した昨今だから、まずは、現在の、国民国家が群雄割拠する状況で、国民は、戦争反対の論理を構築しないといけないのである。此れについては、別稿に譲るが…小生のもくろみとしては…やはりルソーの社会契約論であって…しかし…ルソー自身は、社会契約論の中で国民主権と基本的人権の絶対的理論を構築しえたにも関わらず、国家が主導する防衛戦争に対しては、肯定的であり、いざ戦争となれば、国民は人権を放棄して戦争に奉仕しなければならないとしている…しかし、当のルソーの理論を敷衍し、徹底すれば、其の防衛の論理さえも打破できると考えるので、そんな試論を展開したい。ともあれ、防衛戦争の論理を打破するための困難とは何であろうか…其れは、防衛の論理と、戦争はしてはいけないと云う、いわゆる非戦の論理が共に、国民の生命と財産を守ろうとする基本的人権を根拠としているから、非戦の論理だけでは防衛戦の論理を否定できないのである…無論、大局的には非戦の論理の方が、目先の事情のみを勘案する防衛の論理よりも、人権を守る事になるから、非戦の論理の方に人間の英知を認めて防衛の論理を批判する事は出来ようが…しかし、当座の、切羽詰まった、今日明日を生き抜かなければならない命にとっては大局も小局も無いのが実情なのだから、非戦と云う大局の正義の犠牲になって自分らの生命や財産が犠牲になるのは我慢ならないから手っ取り早く防衛の論理に走るのが人情である…従って、非戦の論理では容易に防衛の論理を崩せないだろう…其れは畢竟、国民国家、ネーションステイトの限界である…

其れはさておき…「戦争は悲惨である→戦争はしてはいけない」式の、単純なスローガンを掲げるリベラル勢力には、防衛戦争の正当性の論理を破綻せしめる別の論理を構築できていないと云う功罪を、此れまでの論考で明らかにして来たが…リベラル側の、こうした空疎な、抵抗の論理の脆弱性に付け込むようにして、ハイエナ保守の連中は、リベラル側の此のスローガンを、いわゆる「お花畑」として批判するのだが…リベラル側が、防衛戦争と云う大義名分に対して無反省で無自覚だから、ハイエナ保守に付け込まれるのだが…だからといって此のハイエナ保守の連中が、国家が主導する防衛の論理を超克し其れに対抗して戦争を回避できるだけの、別の、真に人間的な論理を構築すべきと主張しているかと云うと全くそんな事はなく、むしろ此のハイエナ保守は国家の尖兵として此の防衛戦争の論理に乗っかり、悲惨な戦争推進の駆動力に追従するだけなのだから、取り立てて褒められるものではないどころか、積極的に公的に弾圧すべき対象でもある…現実との格闘とは…すぐ目先の、尖閣状況の危機を煽り立てる事も些事とは云わないが…其れ以上に、防衛の論理に縛られた過去と現在の国民国家の状況をまずは分析的に認識し反省し対策を練る事ではなかろうか…そうでないならば、此のハイエナ保守も結局は、お花畑リベラルと同じ穴の貉である。否、むしろ、ハイエナ保守の方が積極的に防衛の論理を加速させて人命を軽視する事甚だしいから、たちが悪いのは云うまでもない。

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美味しんぼ地獄…

身に覚えがあるにしても合点がいかないままに左手薬指の第二関節あたりが、びりびりと、棘が刺さったかのような、要するに神経性の痛みが走るようになり…一晩寝たら何となく治癒した頃と違って…痛みや不調が一度発症すると、もう決して完全に治癒する事は無く、今後治る見込みのない痛みが種類を増しつつ体に積み重なって持続していく老いの現実に鬱屈しつつ…其れは今更どうにもならぬとして…数年前から、秘蔵していた美味しんぼ1巻~60巻を改めて乱読したい欲求に駆られつつも、桐箱やら茶道具やらが汗牛充棟押し込まれている天袋の更なる最奥に仕舞い込んでいるため、其れを引きずり出す苦労を億劫に思って己の欲求を捨て置くうちに其の欲求が堪え難く嵩じてしまい…ついに一念発起、夏場、灼熱の其の部屋での汗だらだらの小一時間も厭わずに、ようやっと美味しんぼ60巻を引きずり出したのであった…其れからは自ずと貪るように1巻から読み続ける日々が始まり、毎晩午前2時~3時まで強制的自動的に読まざるを得ない状況に陥ったから、毎日が睡眠不足で、日々の仕事に支障を来す嘔吐の日々が2週間も続いた、美味しんぼ地獄の日々ではあった…しかし、だからと云って、改めて読んだからとて新たな知見や経験を得られたかと云うとそうではない徒労でさえもあって、結局、美味しんぼ60巻分を小生は既に十分身に付けてしまっている事を再確認したのみ…従って60巻読破した今でも重だるい体調の恢復ままならず…薬指も痛いので、今日は無内容のまま終わりたく…8/13は休載し、次回は8/20です。

それにしても雄山と和解した後の、連載休止直前の山岡の、目玉焼きの食品サンプルを貼り付けたような、ほぼ死んでいる目と、異様にがたいだけが発泡スチロールのように軽く大きくなった図体を並べている姿の張りぼて感の拙劣さは、初期の腐った棘みたいなアウトロー感を思えば、耐え難いものがある…

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2020東京オリンピックは中止し、自粛せよ

道に落つ青栗は立つ白雨哉

体が少しずつ暑熱に馴れて来たせいとは言わせたくない、自分の鋭敏な感覚はもう、実質的にはエアコンフル稼働とは云えども、夏の衰えを察知…八月前ながら虫の音もそこはかとなく秋の兆しをいみじく覚えて…しかし、車の修理に行ったディーラーから手土産にもらったポップコーン山盛りを思わず爆喰いしたせいで、頭がボーっとする…何も考えられず、覇気が失墜する始末…しかしながら…2020東京オリンピックのメイン会場である、新東京国立競技場建設に係り、若い現場監督の男性が過労自殺したと云うのも尻目に、何事も無かったかのように目出度く浮かれきった東京五輪音頭の御披露目イベントが開催され…一体どういう神経しているのか。

平和とは畢竟、一人の生命も損なわれず尊重される状況を云うとするならば、平和の祭典であるオリンピックのために一人の犠牲者、有ってはならない犠牲者が出てしまったのである。此の重大事を等閑視して憚らない現今の状況、あるいは日本政府の対応に、一体如何なる大義があると云うのだろうか。一人の人間の生命を犠牲にしてまでも建築物や大会を成立させなければならない大義があるとすれば、そんな大義が広く巷間に納得されるよう説明づけるどんな理屈があると云うのか。いずれにせよ、2020東京オリンピックは、此度の過労自殺者を一人出した事を以て、其の大会の本義を失ったのである。従って、此の重大事を等閑視して尚開催に踏み切る大義は何もない。此の、オリンピックの存在意義を真っ向から否定する、開催国の非道、不始末が国際的に大した非難に晒される事なく(われわれ日本人が知らされてないだけか?)、そして国内的にも些事に付されて、せいぜい通常の労災扱いで事を納めようとする御都合主義は何なのか。聞けばオリンピックは其の開催にあたって、例えば選手の食事には健康や環境に優しい物や、あるいは家畜の尊厳に配慮して肥育された食肉を使用するなどと云った、「先進的」な規定があると云う…無論、競技場建設において死傷者を出さない事、などと云う労務規定は、あまりに前時代的な、当然各国の国内法で以て守られてしかるべき課題故に、オリンピック開催規定の中でわざわざ設けるまでもないと云う意味で、定められていないのであろう…従って、規定的には、会場設営で労災過労自殺者が出ても、オリンピック開催の権利は認められるのだろうが…しかし実際には、此の開催国日本は、環境や家畜への配慮以前に、人間への配慮が欠けた、救い難く野蛮な「後進」国である事を露呈したのである。

平和の祭典と云う本来のオリンピックの大義から云えば、会場建設において過労自殺者が出たとあっては最早大会の意義そのものが失墜させられたとして、過労自殺者を出した開催国の責任が厳しく問われ、且つ、かような自殺者の犠牲の上に、飛んだり跳ねたりの浮かれ騒ぎスポーツに興じる事は第一に、制度のピラミッドの最底辺で押しつぶされる汚辱に塗れながら追い詰められて呻吟止む方なく殺されたに等しい一人の死者の尊厳を、即ち命の尊厳を蔑にする罪に加担するのである。即刻、関係者は此の事の重大さを衷心より反省し、自殺者を出した事に対し少なくともIOC、JOCおよび東京都と日本国に、国際社会の中で明確に責任を取らせ、2020年のオリンピックは其れこそ、斯うした痛切なる反省を行動に示す意味で、中止し、自粛せねばなるまい。此れまで進めてきた目先の努力や費用を思えばおいそれと中止できない俗な物惜しみも理解できるが、よもや、一人の尊い人命よりも、巨大なスタジアム建設や国際社会持ち回りの国策スポーツイベント開催の方が価値がある、と堂々と公言できる者はおるまい。居るとすれば其の者は、生命を尊重しない思想の持ち主として、人類の敵として弾劾され、社会的に抹殺されるだけである。

一人の過労自殺者を出して尚、オリンピックを自粛しない事は即ち、人間の生命を尊重しない、国民主権と基本的人権と平和主義を尊重しない、いわゆる全体主義者、利己的国家主義者、白色テロリストとして世界に表明するに等しく、人類共通の敵である事を公言する事である。尤も、近代オリンピックと云うものが、ナチス政権下のベルリンオリンピックを持ち出すまでも無く、スポーツと呼ばれる、肉体と精神をある種の制度下で運動させる事に熱狂させる、国家と資本が結託した全体主義装置である事は言わずもがなであるにしても、自殺者を出して尚大会開催に疑義が問われない此の状況こそが、オリンピックのそうした暴力的側面を如実に示すのである。ましてや、自粛しないばかりか、過労自殺者を出した厳然たる事実に真摯に向き合う姿勢や反省、後悔など全く垣間見せないばかりか、斯様な事実などまるで無かった事かのように、欺瞞的に隠蔽するかのように、恐らく自堕落に何にも思慮する事なく予定通りに、新東京五輪音頭などと云う浮かれたイベントを敢行して騒ぐのは、自殺者の遺族ならずとも鬼畜の所業としか思えない。

無論、大事業故に中止とならば莫大な金銭的損失が発生し、まかり間違えば新たな自殺者も発生するかもしれないが…其の損失はもう、責任の所在や重み付けに応じて負担するしかあるまい…自粛しなければ此の鬼畜の所業に加担した事になるのだから、痛切なる反省を責任者の人生に実際的に刻み込んで、反省を生きたものにするためには、致し方ないのである。オリンピック自粛による日本の国際的信用云々と云っても、最早、既に、本質的には、会場建設において過労自殺者を出した時点で、其の信用は失墜しきっている事を、真の反省に立って、肝に銘じよ。肝に銘じたならば、未使用の資材や打設したばかりのコンクリート基礎が剥き出しの状態の、建設途上の競技場を其のままの状態で保存しつつ、其の中央に、自殺者の霊を慰める慰霊塔を建立し、其の塔の下で責任者や関係者は反省の弁と具体策を告白しなければならない…国家の恥と責任と反省を公明正大に表明する誠実さこそが、国民と国際社会の信頼を回復させるのである。

清宮選手…プロ十年目くらいの選手に見える…清原と桑田は…職業、高校球児、年齢、50ウン歳、に見える…。

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夏バテ…

納豆の糸玉響に扇風機

人間ドッグ…早く着きすぎたので、人気のない、早朝の歓楽街をぶらつくと…梅雨の終わりの、篠つくような土砂降りに見舞われ…折り畳み傘では埒あかず近場の店先で雨宿り…すると、仕事明けのホストとおぼしき、将棋の佐藤名人のような風体の男と二人、雨に降り込められる気まずい沈黙…数値はいい感じで、体重も学生時代にだいぶ近づく良好な結果…其れでも連日の猛暑で食欲減退し…次回は7/30です。「玉響に」は「たまゆらに」と読みます。

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政見の夏バテと警鐘

アスパラの穂先腐りて口内炎カット葱さえ腐るグジュグジュ

ようやっと内閣支持率が三割台まで下がったが政党支持率を見ると公明、共産の微増とは裏腹に民進がごっそり減って無党派が増えている事から誰の目にも受け皿不在即ち受け皿となる新党への渇望が読み取れると云う事で俄然、小池新党の国政進出そして小池総理の現実味が高まった事になるが…と、なると、事態は改善へ向かうと云うよりも劣悪化への胸苦しさに暗雲垂れ込めるのであって…都知事小池は細川や小沢などの野党を渡り歩いたとは言え最終的に自民に落ち着いた其の政治思想は自民の其れであって…「しっかりした国家観をお持ちで」などと自民時代は同志を誉めそやす処や其の他自民時代での言動を思い出すと、国家が主体であって民衆を奴婢と見なす、民主主義者を弾圧する国家主義者である事には間違いない…自民を表向き脱した今でこそ都民ファーストあるいは国民ファーストなどと、民衆を主語即ち主体として民主主義風な言説を述べて幅広い支持を手際よく集客しているように見えるが、心根で燻らせている政治的信条と云うのは簡単に変節するものではない…。自民も小池も、国家主義的共通点を有する同じ穴のムジナの仲であって、今は政治的戦略によって表向き反目しているように見えるが其れは一時的な事に過ぎず、元来、其の政治信条は同根なのだから、折を見て、其れこそ国政進出し小池が政権を掌握した暁には、すぐさま小池は自民と馴れ合い、何だったら連立政権さえも辞さないしたたかさを備えているのだろう(お互い反目の素振りを見せながらも、其の事を互いに阿吽の呼吸で了解している、つまり茶番である)…小池が、情報公開の姿勢を示して民衆への説得力を表現しつつ全体的な合意形成を図るスマートファシズムを具現化せしめる可能性が高い…安部政権初期もそこそこスマートにこなしていたが此の頃になって地金が出たと云うのか、自民伝統の、本質的に料亭政治から抜け切れない隠蔽体質、近親の奸臣を厚遇する側近政治から抜け切れない、反民主主義的国家主義的私利私欲的政治の地金が、株価と為替の数値が良ければ絶対に支持率は下がらないとの、国民を馬鹿にした思い込み、札束を口に突っ込んでおけば物言わないだろうと云う、国民に対する嘲笑的楽観的憶測の傲岸によって野晒になったのが一連の事件であったが…自民はそういう意味で幼稚なファシズムだからいずれは瓦解する希望が持てるが…小池が目指すスマートファシズムは其れこそ情報戦略やプレゼン上手に長けて、自民のようなボロを出さないスマートさで其の本質の国家主義が進行すれば、其れこそ、自民ファシズム以上に突破口の無い、隙の無い、絶望的な全体主義=スマートファシズムの到来が予見され…此処に警鐘を示す次第である。情報公開やら合意形成の巧みさを表層的にプレゼンした絶対的民主的正当性を後ろ盾にした、透明性の果ての結晶の中に人間が雁字搦めに閉じ込められたかのような、あらゆる些細な異物が徹底的にスマートに除菌される、水晶内制度(笙野頼子)=スマートファシズムの到来を、小池の着実な政治的野心からひしひしと感ずるので、警鐘を鳴らす次第…

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練習問題

ラジオつければ此処は球場カマス焼く

雨が揚がればすかさず付け込むように蝉が鳴き込んで来る本格的な夏の到来も見掛けの化生に過ぎず…心中では既に年末を迎えている自分すら思い描き、何事も為さ無かった己の阿保面が門松に挟まれている愚かしく目出度い図すらも、腐りかけた真っ赤な紫陽花を眼前にしても、ありありと思い描く始末…そうは云ってもそこはかとなく否応無く静かにしかし確実に訪れるだろう変化の兆しに発作的に怯えるが、其れでも、軽やかに変化に対応したい理念を慄きながら旗立てる己も居つつ…漫然と頭が鈍く、傍枕の書物が頭に入らない鈍麻に抗うようにして落書きだらけの解析の教科書の中の定理だけを摘まみ読むが当然ながら理解力の衰えを改めて認識するまでもなく無理解しながら…何かの参考になればと、誠に表層的な理解だけを脳の表面に吹き付けてみるが定着する筈も無く…テイラー展開はある関数を高階導関数のべき級数に書き直しているらしい…マクローリン展開は…テイラー展開のある変数を零とした場合の特殊系…などといった、恐ろしく浅い理解…

都議選で自民大敗前夜、秋葉原での街頭演説で総理安部が、大衆による安部辞めろコールに対して「こんな人たちに負ける訳にはいかない」発言…そして、保守系の連中は、あの時街頭で安部辞めろコールしたのはごく一部の過激派に過ぎない(と云う強弁で以て、政治的意志を持つ勇者と大衆との分離工作を図る、国家主義者のいつもの手口)、あの中には反レイシストの過激派集団の代表がいた、あるいは共産党の動員だ、と事件を矮小化、隠蔽化する主張を為し、そうでない人人は、火を付けたのは政治的意志を持った少数の人間だったかもしれないが其れが起点となって安部辞めろコールが大衆的に燎原の火のように起こったのだ、それは大衆に潜在的に国家主義者安部への怒りがある事の証拠に他ならない、レイシストに反対する政治運動家が中に居て何が悪い、共産党の動員である証拠は何もない、問題を矮小化しようとするお前等の流言飛語だ、と云った首謀者の身元捜しに躍起になって問題の本質とは関係ない場外乱闘がある一方で(「あれは共産党の動員だった」と己の願望まかせの憶測を述べた元都知事猪瀬に対して、現場の状況を的確に述べた民進議員から、其の証拠提出を求められると、特に証拠は無かったようで、猪瀬は不遜な態度で負け惜しみたっぷりの皮肉を込めて悪びれる様子も無く発言を撤回。と云う馬鹿げた愚行さえも形振り構わぬ国家主義者のあがきがそこかしこで炸裂の模様)、安部辞めろコールをした連中を共謀罪で逮捕すべしと云うフェイスブック上での誰かの提起に対して自民の議員二回生がいいねボタンを押したのを朝日にばらされて報道されるとすかさず撤回、うっかり間違っていいねを押したとの由…いずれにせよ、安部辞めろコールは安部派からすれば彼らの言論の自由を阻害する実力行使に見え、だからこそ「こんな人たち」発言を擁護する主張、総理安部の言論の自由が否定された、との主張もまるで正当であるかのように罷り通る、と云う事で、格好の、実地の練習問題である。

練習問題 安部辞めろコールは是か非か
解答   是

証明 

政治問題第二定理を参照。「言論の自由を否定する者の言論の自由は否定されなければならない。」

あの現場だけに事態を限定するならば、確かに総理安部の言論の自由は否定されたとまで行かなくても、其の言論に対する反対意見が単に表明されたとも云えるが、此処は分かり易く自民側の立場に立って考えると、其の声量によって多少ならずとも妨害されたとも云える。しかし、事態はあの現場だけに限定される筈も無く、歴史的経緯が政治の実態であるからして、そうすると、自民と反自民の、どちらが先に言論の自由を否定したか、と云う事実が重要になってくる。即ち、先に言論の自由を否定した者こそが、「言論の自由を否定する者」であり、其の者の言論の自由は否定されてしかるべきなのである。
では、自民と反自民、どちらが先に言論の自由を否定したか。其れは火を見るより明らかに自民党である。その事は、自民党が数年前に発表した自民党憲法草案(2012年版)の第21条から明白である(此の詳細は過去の記事での小生の論考を参照ください。左下のブログ内検索にて。)。あるいは、此処数年で度々自堕落に麻痺したように話題になるが、例えば幹事長二階などは度々マスコミ弾圧発言を公言して憚らぬし、議員大西と其の仲間どもも経団連を動かして広告料を絞り上げて目障りなマスコミを弾圧すべしと数年前に公言している。
従って、先に言論の自由を否定した安部自民の言論の自由は否定されなければならないから、安部辞めろコールは民衆による正当なるカウンター行為として是である。

此の問題を受けて、以下のように第二定理を修正したい。
「問題系において初めに言論の自由を否定した者の言論の自由は否定されなければならない」

話は戻るが…産経は…安部辞めろコールの群集の中に対レイシスト過激派団体(対レイシスト過激派と云っているのは産経である。なぜ反レイシストと表記しないのか。此の事からも、産経の、レイシスト団体への親近感と、反レイシストへの偏見的侮蔑がうかがえる)の代表が居たと吹聴するが其の意図の姑息で卑しい根性と云ったら、わざわざ指摘するのも気分が悪いくらいだが…レイシストに反対を表明する事に一体何の非があるのか、産経は、レイシズムに賛成なのかといぶかざるを得ないが恐らく表面きってレイシズム賛成を表明する度胸も無い姑息な小心ゆえに…、産経が殊更問題視しているのは…いわゆるヘイトスピーチを得意とするレイシスト団体のデモへのカウンターとして繰り出した反レイシスト団体が、レイシスト団体と街頭で揉め事を起こした事を風紀紊乱と見なした官憲が反レイシスト団体を拘束した事に対して、此の反レイシスト団体を過激派と指定しているらしいが…そもそもレイシストと反レイシストのどちらが悪徳かはレイシストに決まっているのであって、原因かつ悪の根源はレイシストである。レイシストが存在しなければ反レイシストも存在しないのであるから。どちらが過激派かと云うとレイシスト団体の方である。そうした本質を隠蔽するようにして、十把一絡げに御上を煩わせたと云う一点で以て、嫌らしくもここぞとばかりに付け込むように庶民感覚に便乗して、官憲に捕まる=過激派と云う「印象操作」を抜け抜けと捏造する産経の本質はもう誰もが知悉している事だが産経の国家主義傾向、国民主権否定を如実に表すし、レイシスト団体が存在しなければカウンターとして存在する事は無かった反レイシスト団体、言論の自由を守ろうとするごく良識的な反レイシスト団体を過激派扱いにして大衆との分離工作を吹聴しようとする産経の、自己の存在に対する卑屈で根暗い鬱屈による屈折したやっかみ、人権とか主権在民とか平和主義とか綺麗事を云う人間への先天的嫌悪による腹いせが為せる、新聞としての誠実などかなぐり捨てた非道理的傲慢には、姑息且つ貧相を通り越して憐憫の情すらも禁じ得ない。人権、主権在民、平和主義が存在しないと新聞も存在できないのに、己の存在を否定する言辞を弄して一体何がしたいのか。そんなにまでして、会社丸ごと、国策発表機関として編入されたいのだろうか。公正中立な民間の報道機関と云う立場で国策報道を天壌無窮とばかりに押し戴いて無条件に肯定化する事ほど、事態の本質を隠蔽する悪質な事は無いのだから、産経や読売はいっそそのまま丸ごと国策報道機関NHK傘下に入って、あるいは総務省広報部として、国策報道機関として正直にやればいいだろう…その時には、当然ながら、官邸からの政府広報を垂れ流すだけで記者による情報の裏取りをする必要が無くなり、余剰人員が生じるから元産経と元読売は大リストラを甘受する必要を迫られるが…。

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旬の枇杷旨し

梅雨晴れや産毛で弾く枇杷たわわ

なかなか状況がじっくり書かせてくれない状況の中で…手短に…人工知能と云う訳語の氾濫について…一体何が知能と云えるのか未だ定かではないはずの、人類永遠のテーマである知能がソフトウェアで再現できると云う事らしく、人工知能と云う文脈で云われる処の、其の知能として措定されている「機能」としては自己学習機能などが挙げられているようだが…実際、人間にとって知能とは何か、と云う問いに対して普遍的で絶対的に正しい解答など得られていない状況であるにも関わらず、プログラミング技術の当事者たちが、其の社会的影響を深く考慮する事なく行き当たりばったりで早い者勝ちとばかりに「こういったものが知能でござい」と喧伝しまくり既成事実化すればするほど…即ち、人間の知能と云われるものが目に見える形で商品化されればされるほど…本来の人間自体と関わる知能自体が、其の、「商品化され定義され有限化された人工知能」へと馴れ合い、漸近して行く傾向は免れないようで…

其の人工知能が、人間が所有する知能よりも良質なものならある意味神の領域に近づく訳で結構な事とも云えるが…人間が漸近する対象である人工知能が劣悪なものであるならば、人間が所有する知能は劣悪化する訳で、実態は後者である可能性は高いから、また新たな反吐が出る訳である…要するに、人間の知能は、商品化された人工知能へと劣化するだろう…一体、商品化された知能の何が愚かなのだろうか…其れは、其の現場で喧伝されているセールスポイントを列挙すればいいだけで…曰く、大勢の群集の中から顔認証できる、とか、将棋で人間に勝てる、だとか、人間の言葉に其れらしい応答が出来るだとか…要するに現在の処、人工知能と云われているのは外的で現象的な機能に過ぎず、其れだけで云えば単にプログラミング技術の延長に過ぎない…翻って、人間が考える、容易な定義を拒む人間本来の知能とは…そうした機能の現象的顕在能力のみを独立に扱うのではなく、心や感情と云った、何処までも内在的で、顕在化する現象との対応関係それ自体を無効にし得る不連続で不確かなものとの関係性を排除しては語れないものなのであって…

愚昧なる脳科学者や行動心理学者などと云った、人間を社会に売る奴隷商人どもが例えば…怒っている人間の脳みそのある個所が充血している、あるいは何とか云うホルモンが分泌されているから、感情の一種である怒りは脳のある個所、あるいは何とかホルモンであると定義する訳だが…そんなものは目先の現象に過ぎず、たとえそうした現象が身体で起きようとも、其の人間が、怒っていないと主張すれば覆る、「主観」的問題なのだから客観的現象的結論など意味がないのであって…知能と云われるものも、そうした、不連続で不確かな心や感情と不可分なのである…だから、内在的な心や感情を都合よく捨象した(人工)知能を人間の知能と認めてしまうと、知能は、単なる現象へと劣化する。云いかえると…心や感情は内在的でしかなく、外的な条件付けや外的な表出は本来不可能なものであり、例えば身体の状況や外部からの実力的脅迫が内的心理に影響を及ぼす、などと云うのは、其れを肯定する者にとっては真実かもしれないが其れを否定する心を持つ者にとっては虚構に過ぎず、即ち主体である人間の主観に左右される事から、心への影響云々は普遍的真理ではない。また、心理の表出としては言葉や表情があるが、結局此れらを解釈するのも人間である以上、主体である人間が判断する事なのだから普遍的真理では有り得ないだろう。現象を判断する人間がどこまでも主体であり主観的である限り、そうした主観は外的に普遍化されず法則化されないのだから、主観は何処までも不確定で不連続で曖昧な振る舞いに留まる…そして、かような曖昧さ、即ち自由こそが主体の立脚点の条件なのである(そして、斯様な主体や心さえも結局は虚構に過ぎない…)。心が、外的条件で決定され、外部に対応するならば其れはいわゆる機械論であり、自然の摂理による万物決定論に堕するだけなのだから、其れは人間の主体性の否定である。単なる高速アルゴリズムに、人工「知能」と云う商品名を烙印する事は、人間を機械的決定論で抑圧し、人間の主体を否定する事になる一方で、人工知能の隆盛に乗して機械的決定論に組する奴隷的人間は、其の決定論に従って、単なるロボット人間へと堕するだけだろう。こうして、人工知能の流布は、主体性が無いし求めもしない、奴隷的ロボット人間を量産するだろう…

しかるに、たかだか現象のみを取り扱う高度なアルゴリズムに人工「知能」という商品名を被せてしまうと…それでなくても国家と市場の理屈には滅法弱いあまたの奴隷的人間は、商品の中で承認された浅薄極まる(人工)「知能」をこそ人間の知能なんだと無批判に従属的に嬉しげに受容して、…人間の知能の劣化に歯止めが効かなくなり…皮肉な事に、人間本体の知能の方が、「人工知能」に等しくなってしまう、と云う、惨めなSF的結末が、もう、現時点で目に見えるようである。「人工知能」と云う商品名の「高度アルゴリズム」の流通のせいで、現象だけを連続的に線形的に高速で追いかけ、目先の事しか効かない(人工)知能を己の知能としたロボット的人間が増殖する未来に…胸糞悪く思っている次第である…そして、主体性が元元備わっていない奴隷的ロボット人間が、全体主義社会を構成する主たる「材料」(ドストエフスキー)になるのは火を見るより明らかである。

だいたい、「人工知能」の真っ先の使い道は、国家による言論の「検閲」に決まっているではないか…中共は人海戦術でネットを監視して、不穏分子を洗い出しているようだがそんなものは、「人工知能」にまかせて、ネット上のあらゆる言論の中から不穏な用語や文脈を洗い出させて、其れを書き込んだ人間の身元まで官憲に一括で報告させれば済む話である…人工知能で文明生活が便利になる反面、人間の本来を不当に取り締まる碌でもない道具になる蓋然性の方が遥かに高く、絶望的である…此処で書いているような事も、そして小生のブログも、共謀罪法成立によって、将来開発されるだろう、そして既に密かに稼働しているかもしれない人工知能「特高君」(小生による仮称)によって監視されるのである。そして此れを閲覧した御方や、拍手ボタンを押した御方の身元も一網打尽という訳である…人工知能のせいで奴隷人間がロボット人間へと更なる劣化を遂げる時、人工知能によるこうした人間弾圧に更なる拍車をかける劣悪な相乗効果となるだろう…

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胸に閊える…

結局、例のゴキブリの御遺骸…旅先から帰って来たら、ゴキブリに向けて殺虫剤を噴霧した現場の部屋のベンチシート下に設置してある、コロコロやウェットティッシュなぞを収容した、云われてみればちょうどゴキブリ色をした籠の中で発見されまして…仰向けにひっくり返って六本の脚を広げ切った硬直した姿なれど、自身と同じ色をした籠の中を最期の死に場所に選ぶ事で擬態への執念を見せつけられつつ、当方としては当惑するのみ…故あってある種の体の不調を患い医師を訪ねるが…医者は当然ながら、小生の主訴から導かれる判断で以て薬を処方する訳で、確かに小生の主訴からすれば其の薬を処方するのは至極な訳で反対の仕様がないが…小生としては此れは些か説明しづらいが、小生の秘めたる考えでは…確かに直接の原因は「其れ」である訳だが「其れ」は云わば呼び水と云うかきっかけに過ぎず、其のきっかけによって、別の本質的病状が発現されていると思っており…確かに、表面上の症状は、「其れ」による症状と、本質的病状による症状で区別はしにくいが…小生としては其れとなく暗に、別の本質的病状の存在を示唆してはみたものの…通じるはずも無く…結局、「其れ」に対処する薬のみ与えられ…しかし実際は「其れ」のせいかもしれないからしおらしく云いつけ通りに其の薬を試すものの…案の上、悪くはならないにしてもさして良くもならないと云う膠着状態となり、本質的病状に対処した薬であれば改善が見込めるものを、実は其の、本質的病状の薬を小生は持ってはいるが既に少量で且つ期限切れで効能が落ちているから、此れを期に、其の薬を入手したいと云う存念であったがままならないもので…何かしら歯車の噛みあわない、喉元に骨が刺さったままのような、胸に閊える後味の悪い感じを引きずる状況で…今週は休載し、次回は7/2です。

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ポリティカルマジックショーの読み捨て

其れにしても見事な手際であると認めざるを得ないではないか…憲政史上類の無い最悪な強行採決を一度ならず二度までも強行したと云う意味で憲政史上類の無い最悪な強行採決であった共謀罪の事は当然の事ながら…同時並行していた加計学園問題の扱い方が、あまりに見事で惚れ惚れするぐらいである…野党が有している、共謀罪を廃案に追い込む唯一の手駒であった加計学園問題…文科省による再調査結果の発表タイミングの絶妙さといったら…即ち、肉を切らせて骨を断つ剛腕で以て先にさっさと共謀罪を可決させ、大目的を果たし得た後になって、文科省の再調査結果を発表させる…此の事によって、本来、共謀罪を廃案に追い込む一手であった、文科省再調査結果発表が、一転して、共謀罪の強行採決と云う暴挙を、メディアの中で希釈させたのである…

議会制民主主義を否定しきった此の暴挙、はっきり言って加計学園問題より遥かに悪質な此の暴挙を、である…実に巧妙な離れ業をやってのけているとしか云いようがない…実際、共謀罪はもう成立し国会も閉会したのだからそれ以上マスコミ的なネタは共謀罪からは出て来ない、せいぜい其の危険性を概念的に雪辱を以て細々と訴えるしかなくニュース的な新鮮味は欠けるのは否めない…其の穴埋めとしての格好の餌として、見事に、此の加計問題を充当しているのである…しかもご丁寧な事に文科省は、疑惑の文書のみならず、わざわざ、新たな文書と云う新鮮な餌まで加えて撒いているではないか…此れを餌と考えずに何と考えるのか。野党、メディアを引き寄せる撒き餌そのものではないか。ほとんどポリティカルマジックとしか云いようがない…自民党としては、共謀罪可決の後に、再調査の発表すれば何の問題もない、と云う、彼らの目的からすれば至極合理的な戦略であったに過ぎなかったのかしれないが…結果はこうもあっさりと、共謀罪可決による毀誉褒貶の嵐を、何事も無かったかのように加計学園問題にすり替えてしまい、共謀罪可決による民主主義破壊を、無かった事にしてしまうとは…此処までのマスコミコントロールを意図してやっていたとしたら、まあ見事としか云いようが無い訳である…結局、現状では、加計学園だろうが何だろうが自民党の支持率が下がる事はないし、加計学園問題にしたって(森友学園も)、独立した権力であるべき司法が捜査に動かない限り、政権には何のダメージもないのだから、加計学園と云う餌にしばらく群がってくれる方が、政権にとっては共謀罪による民主主義破壊との誹りを免れる事が出来て、有り難いばかりなのである。

メディアや野党としても加計学園問題が現時点では格好の餌に過ぎないと分かってはいても、与えられた餌を貪らない訳にはいかないから、完全に敵の術中に嵌っている状況である。メディアや野党としては、加計問題をつつく事が、自民党による共謀罪可決と云う犯罪を隠蔽する事でしかないと分かってはいても、此れをつつき続けるしかないのである。(無論、加計問題が長期化すると其れなりに政権はじわじわとダメージを食らうので、頃合いを見て森友問題みたいに収束を図るだろう)無論、政権にとってこうした万々歳な状況が構築できるのは、独立の気概なき司法による日和見と、何がどうあっても落ちない支持率があるからこその盤石があってこそなのである。従ってしばらくは、たとえば、泥棒を疑われている人に対して、盗んだ物をだせ、と要求しても、持っていません、と云う返答で終わり、あるいは、盗んだ物は確かに自分の家にあるけれども、其れが何を意味するのかは分かりせん、などと云う返答で終わり、みたいな、馬鹿げた茶番をみせられるだけである…こうした問題を当事者本人に聞いても、当事者が、自分の都合の悪い事を自分の口で喋る訳がないし、其れは確かに通常の刑法捜査でも認められる事なのであって、森友問題と同じように、知らない、確認できない、捨てた、と云えばそれで終わりになるのである。従って、加計学園問題は、共謀罪が可決した今となっては、政権側からすれば何ら痛痒を感じないどころか、むしろ政権側の利益にしかならない。現状では此の問題を幾ら追及した処で、知らぬ存ぜぬとの強弁が罷り通る政権本丸が炎上する事はなく、せいぜい出城の家老が詰め腹を切らされて終わるだけなのだから。権力にあぐらをかいて非合理的な言説を喋る事を何ら恥と思わないどころか、非合理な言説を吐いても身の安全が保障されている事を自らの特権とさえ考え、そうした特権にあずかれない下々の者らが合理性を盾に批判して来るのを腹黒く嘲笑さえしている権力側の傲慢は、元元理性を軽んずるアジア的特徴なのだろうが…此の件で司法が動く訳がないし動きようも無いのだろうから、此の、非合理と私利私欲による専横を許すか許さないかは、有権者国民自身が判断すべき事である…益も無い、馬鹿げた結論だけれども…。

強行採決、議会制民主主義と多数決の問題については後日やります。と、ここで、カーテンに、ちょっと有りえないほどデカくておぞましい、大きめの爪切り程の大きさのゴキブリが張り付いているのに出くわして度胆抜かれ…努めて冷静に料理を別室に移動させて、殺虫剤を噴射…奴は神経性の痙攣を発してジタバタとカーテンから転がり落ちたのは確認したが、一体どこに落ちたのやら…床やらサッシやらを懐中電灯まで照らして隈なく探しても、奴の遺骸は見当たらぬ…殺虫剤は絶対効いている筈だから余命幾ばくも無いはずだからそう遠くには行けない筈なのに一体何処に転がり込んだのやら…家の何処かにゴキブリの遺骸が潜んでいるにも関わらず其れの処理は叶わぬ、後味の悪い結末が尾を引く…

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