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無所属の御知らせと総評…
さて、此度の政変…前原小池事変とでも云うべきか…衆院選の結果をどうみるか、であるが…小生としては、実際問題改憲勢力三分の二以上取られたのだから試合に負けて勝負に勝った、とまではいかないが上々の出来、兎に角最悪の事態だけはぎりぎり免れた、と評すべきだと思っている…最悪の事態だけは免れたと云う意味では前原小池事変の意義の功を評すべきであった…無論前原が其の辺の事まで熟慮した末での事変ではないだろうし、そんな熟慮が出来る優等の人間があのような政変を起こす事は出来ない、即ち、浅慮の末の突飛な行動力のまろび出しによって、膠着した事態を良くも悪くも何かしらが開かれた方向へと可能性を導く、いわゆるトリックスター前原の誕生なのであった…浅慮とは云っても、前原自身は恐らく自己に対して真摯な熟慮の末に、深刻に事態の成り行きを憂慮した悶々がついに弾けたように、そして渡りに船のような諸状況に目移りする過敏さも相乗しての行動だったのだとは思われる…最悪の事態とは何か…其れは…あのまま前原が行動せず、民主党のまま選挙に突入していたら…其れこそ…民主党惨敗で、恐らく民主党の議席は80いくつから50いくつまで減って、其の減った30議席を自公が上積みする事であり…こうなってしまえば、もう、リベラル勢力惨敗の雰囲気が社会的に決定的になり、政治的社会的にリベラル勢力追討の落ち武者狩り的雰囲気と言論が一斉に肯定的に正当化される、済し崩し的ファッショ状況が今日の主流となっていただろう。
しかし、兎にも角にも立憲民主党が立ち上がったおかげで、実際の処は、従来の民主党の主張を引き継ぐ議席は80いくつから50いくつまで減ったと云う議席上の現実は、上記の最悪の事態と同じであるにも関わらず、前原による民主党の事実上の解党よって一旦灰燼に帰した此のリベラル勢力はあの「排除」発言を起爆点として灰燼からの復活と云うドラマを生成させた事によって、80いくつから50いくつに減った、と云うマイナスの現実を、10いくつから50いくつまで復活した、と云うプラスの物語に再現前化せしめた事によって、議席数の現実は最悪の事態と変わらないにも関わらず、リベラル勢力の敗残ではなく、「リベラル勢力の面目を躍如した」、と云う意味の生成に、見事なまでに成功させたのであった。此の生成の意味のリベラル面目躍如によって、ギリギリの処で、全体主義傾向によるリベラル抹殺の大衆的流れを辛うじて邪魔する一本の杭を、流れの中に打ち立てた事になったのである。此の意味は些細ながらもすこぶる大きい。
かような反転攻勢のドラマの経緯、原因は、もう、当事者しか分からない…当事者の思惑なのか天然の粗忽あるいはしくじりによるのか、当事者が明かさない以上は憶測の域を出ないが…何にしても、思惑と粗忽が入り混じった人間の所産である事には変わりない…前原、小池会談での、双方の、自分に都合の良い解釈と早とちりの交錯なのだろう…恐らく前原小池会談で、小池は、ある種の条件はあるものの其れを飲めば民主党員をほぼ受け入れ可能との意味を玉虫色の文言で吐き、前原は前原で、小池新党への入党を希望しない頑迷リベラル議員はさておいても、条件付きではあるものの交渉次第でほぼ党員を全員受け入れてくれるとの手応えを感じ取ったのだろう…交渉事である以上、お互いに何らかの弱みがあるからこそ相手から利を得ようと交渉するのであり…其の条件をきっちり詰めようとすればするほど互いの弱みを相手に握られる事になるのだから案外、決裂を避けんがための其の辺の互いの阿吽の呼吸による詰めの甘さは、決裂ではなくある程度の合意を互いが求めているデリケートな交渉であればあるほど、現実としては致し方ないのかもしれない…其の一方で、前原は、小池から、リベラルをはっきり排除する事を予め通達された上で、其の事を曖昧に誤魔化しつつ、民主党解党を両院議員総会で合意させ、リベラル勢力の寄る辺をなきものにしようとした、巷に云われる前原によるリベラル殲滅説の可能性が濃厚ではあるとも、小生も勘ぐらざるを得ない…
実際の処…前原一派の考えも分からないでもない…前原らは選挙中や選挙後、安全保障に関しては安保法制容認だが、内政においてはリベラルである、という事を、小池新党敗色濃厚の選挙終盤から、言い訳のように述べていたのを聴いた事がある…其れもあまりはっきり云わないから主張として説得力はなかったが…しかし…努力して彼らの意を汲んでやると、実際の処、小生の政治的立場は前原と近いと言わざるを得ない…過去に小生が安全保障談話で表明している通り、小生は、自民党の安保法制、集団的自衛権には、暫定的に限定的に賛成の立場である…枝野んが云うようにあれが違憲であるのは間違いないにしても、現状の外部状況を見た場合容認せざるを得ない複雑な胸中は既に、其の談話で詳らかにしている。
しかし、此処できっちり断罪しておかなければならない事は…自民党は、安全保障は自民党におまかせ、と云う増上慢を自慢げにのたまうし、麻生などは早速選挙後、北朝鮮のおかげで選挙に勝ったと明け透けな本音をぶちかます始末だが…そもそも安全保障とは、隣国と仲良くする事そのものである…其れなのに、戦後70年経って尚、いまだに隣国と仲良くできないのは自民党の責任に他ならないのであって…隣国との険悪と云う、安全保障上の最悪の失政の責任を棚に上げて、ひたすら国民の血税を毟り取られる遠国との交流をアピールするのは度し難い無責任と無能をひけらかしているに等しい。自民党議員が過去に、韓国併合は正しかった、南京大虐殺は中国のでっち上げに過ぎない、そして総理安部などは過去に、歴史解釈次第では日中戦争は侵略戦争であるとは限らないなどと発言し、日本国民310万人のみならずアジアの人人の多くを無残な死に追いやったA級戦犯がまつられた靖国にこれ見よがしに大挙して参拝したり供物を捧げたりする事は、日韓基本条約や日中共同声明の基本的前提である、日本国による先の大戦への反省、と云う事を蔑ろにする行為であり、自民党議員や総理大臣がこれらの前提を蔑ろにする事を先にやるから、だからこそ韓国や中国は、日韓基本条約や日中共同宣言の合意を無視する正当性を得て、慰安婦問題を国際化し、国家賠償請求はしないが、民間が日本政府や日本企業に戦争被害の賠償請求するのは構わないなどと云う詭弁を正当化させるのであって、其の契機を先に作ったのは他ならぬ自民党の責任である。別に、自民議員が先の大戦への自論を開陳する事自体が悪いと云うのではない。しかし、そのように主張するならば、其の己の主張が、韓国や中国人を納得させられるだけの理屈と証拠を有している事を表明しなければならないのであるが、当然のようにそんな理屈も証拠もあの連中は持ち合わせていず、ただ単に国内向けに自己満足したいだけの惨めな連中であり、反日運動が高まると曖昧に濁してほとぼりが冷めるのを待つ無能ぶりの恥さらしなのであって、そうであってみれば自民議員のあの発言は、単に過ちを許容できない幼稚な恥知らずに過ぎない事を国際的に晒しただけなのである。
自民議員が戦争への無恥な無反省を表明するから、反日運動の肯定化と云う前提が韓国や中国に存在するのであって、自民議員の愚行がなければ、今日の安全保障環境はもっとましだった可能性は否めないだろう…今のままでは、仮に北朝鮮から日本にミサイルを撃たれたら、北朝鮮本土への日本の反撃は不可能だろう…なぜなら、日本と北朝鮮の間に韓国が存在するからだ…北朝鮮迎撃のために日本の艦船を日本海に出撃させようにも、韓国は、日本海軍が朝鮮半島近海に来る事を絶対に容認せず、最悪、日韓戦争すら勃発しかねない…ましてや、日韓が協力して北朝鮮に反撃すべく韓国に自衛隊が上陸する事は絶対に容認しない…日本から北朝鮮をミサイルで迎撃しようにも、間にある韓国が容認する筈はない…従って、日本は北朝鮮に反撃できないまま、北朝鮮からやられ放題になるかもしれない…領土問題は歴史認識とは別の側面のシビアさであるが…尖閣にしても…反日と云う中国国内での前提が無く、日中友好が熟成されておれば、武力衝突も辞さないと云う現在の強硬的態度を中国が示すにはいくらかの躊躇があっただろう、しかし、現在は反日と云う前提があるから、中国としても平然と武力による威嚇が現前化できるのである…そう考えると…相手のある事だから一概に云えないかもしれないが今日叫ばれている安保危機の半分は、畢竟自民党がもたらしたとも云えるのであって、其れを棚に上げて、アメリカだけにすがらざるを得ない安保危機をもたらしたのは誰の責任か。其れは自民党である。其の責任を棚に上げて、安全保障は自民党にお任せなどと喧伝するのはちゃんちゃらおかしい茶番なのである…まあしかし、其の唯一の頼みの綱である日米安保さえも破綻させかけた民主党鳩山政権(⇒中国による尖閣への強硬姿勢の顕在化)と云う記憶が日本国民に根強いから、相対的に、日米安保醸成が得意な自民党が、安保上手として何となく評価されているに過ぎないのである…しかし繰り返すが、根本的に安保状況を悪化させた、あるいは改善できなかった責任は、戦後70年経っても隣国との真の友好を熟成できない自民党の無能と幼稚な無反省による失政にある。
以上の事を肝に銘じた上で…まあそうは云っても事此処に至った以上…頼みの綱は日米安保による集団的自衛権のみである事実は変わらないのであって…枝野んが云う、専守防衛と周辺事態法の再整備と云うのはいささか現実味に欠けるように見えるのは否めないのであろう…其れで、前原一派が、安保に関しては従来の民主党の主張とは決別して安保法制容認に転向した上で、内政は従来通りリベラルにやりたい、そうすると従来の主張との相違点がやましいから心機一転して勢いある新しい看板、小池新党と云う看板でやりたい、民主党の看板だとじり貧だから、と云うのは、理解できないでもない。安保は現実路線だが内政はリベラル、と云うのは、小生と同じ政治的位置である…しかし、選挙中、彼らがそのような主張をはっきり云うならまだ支持しようもあったが…なんだか最後まで其の辺が曖昧なままであって、其処へ、小池の「排除」発言である…此れは小池のうっかりした誤算と云うよりも、小池の、国家主義者(=反民主主義者)としての地金が出たという処なのだろう…現行の国家主義優位な雰囲気からすると、あえて強い言葉でリベラル(=民主主義者)排除を公言すれば、保守系有権者からウケる、と踏んでの発言なのである…此の保守系有権者を二つのグループから調達しようとしたのが小池新党であり…安部の露骨な私利私欲政治には何となく不満で真の国家主義はそうではないと思い込んでいる自民党支持の国家主義者や、民主党のリベラル路線の護憲原理主義的安保下手への傾きを警戒する内政リベラル派の、双方から「ウケて」、双方の陣営を切り崩して小池新党への支持を増やせると見越した上でのウケ狙いだったのだろう…しかし政局は非線形であって…結果は、あの排除発言によって、小池新党は、リベラルを排除する自民党と本質的に同じである事を表明した事になったから、自民党支持者を切り崩す事も出来ず(自民党と同じなら自民党に投票する。わざわざ新党に投票しはしない)、民主党支持者内の【安保法制容認ただし内政リベラル派】らは肝の据わった確信犯的国家主義者ではないから、小池が結局は自民党と同じように、リベラル=国民主権+基本的人権さえも根本的に否定する素振りを示したなら小池になびく事は不可能となり…結局、小池は、当てにしていた双方からの票の切り崩しにしくじったのであった、と云う顛末であろう…。小池新党の輩は、其の公約でも選挙中の発言でも、安保は現実路線だが内政はリベラル、と云う事は前面に出さず、原発を30年後になくすだとか禁煙だとかの上っ面の政策を云うばかりだから、保守からもリベラルからも信用されず、其の双方の陣営を切り崩しての集票は叶わず、中途半端に終わった。小池新党は、安保は集団的自衛権で現実路線だが、内政は反自民としてリベラルである事をはっきり公言しておれば中道路線として立ち位置がはっきりして勝機は見いだせたものを…原発だの禁煙だの情報公開だのの小奇麗でスマートげな政策の数々を具体的に陳列するだけで、此の政治的立ち位置と云う本質の表明を怠るから、不信感が増しこそすれ、選ばれはしないのである…其れと云うのも、前原の思惑とは異なって、結局は小池は内政においてもリベラルではない国家主義者であると云う本質のせいなのかもしれない…既に小池周辺からは、小池の私利私欲=国家主義に起因すると思われる疑惑や不満が噴出している模様だし…たとえば比例復活での名簿の順番でも…明らかに得票数の少ない小池の友達を小池の一存で高順位に持っていって比例復活で当選させ、得票数の高い元民主党員を比例で落としたり、といった、民意を踏みにじった公私混同の罪さえも、露わになっているではないか。此れでは選挙中に小池が安部を御友達優遇などと森加計問題で非難する資格は無い。だいたい小池は、森加計問題を、友達優遇であるとしか表層的に批判できない欺瞞的感覚が、既に国家主義的本質の罪が分かっていない、小池・安部自身に共通する国家主義的本質の発露に過ぎないのである。
もしも、安保法制容認+内政リベラルと云う本質で立党したかったのなら、小池を代表にしたのがどだい失敗だったのだろう…結局の処小池は安保法制容認+内政国家主義(=安部自民党)であって、内政リベラルとは反する思想の持ち主なのだから…此度の選挙の争点の本質は…表層的に云われるように消費税でも教育無償化などではない…そもそも選挙の争点というものは、解散権を持つ総理大臣が宣言すれば其れで決まる、と云うものではなく、選ぶのは有権者なのだから、大衆の中で潜在的に重要度を増している問題が、結局は選挙において顕在化するのである。そうした潜在的争点を読み違えたのが希望の党であり、うまく読んだのが良くも悪くも立憲民主党ではあった。つまり、此度の選挙の潜在的争点とは…国家主義か、あるいは民主主義(リベラル)か、と、安保法制容認か、否定か、の二つの組み合わせなのであった。小池新党は、其の辺を読むことが出来ず、表層的な小奇麗な政策ばかりをショーウインドウに陳列するだけで、潜在的な争点の組み合わせを明瞭に示す事が出来なかったから、真の争点と噛みあわず、従って民意と噛みあわなかったから、小池の風だけを頼りにしていた俄か候補者はほぼ全滅したのである。小池新党に行った連中の中には、9条改憲容認の人間もおれば反対の人間もいたり、国家主義者と民主主義者が混在したりというばらばらの有様を国民は見せつけられたから、最終的には何がしたいか分からぬ政党と云う事で終結した。
(安部の私利私欲が、国家主義の本質であって、安部を自民党の首領から挿げ替えた処で其の本質は変わらないから、安部を自民党の首領から引きずり落とした処で、私利私欲なき真の国家主義の純化が達成されるなどと考えるのは空想であり誤謬である事は、過去に何度も証明して来た)
そして小池子飼いの連中はほぼ討ち死にし、小池新党として当選したのは地盤がしっかりした元民主党員が大部分なのだから…安保法制に関しては与党に上積みする形で賛成派が増えるが…内政へのリベラル、即ち国民主権と基本的人権の尊重に価値を置くらしき議員が増えた、即ち、立憲民主党と小池新党と合わせて100超だから、旧民主党時代の80幾つ⇒100超まで、内政リベラル勢力が増えたとも解釈出来るのであるから、結果は上々だ、とも云えるのである…つまり、内政に関しては、小生が最も危惧している処の、自民党の憲法草案の実現化を阻止する勢力が増えた事にはなるのである…三分の二は自公で取られているとはいえ…リベラルの面目は躍如した、サッカーで云うならば次に繋がる形ではある…しかし、小池の口から国民主権と基本的人権の尊重と云う言葉を聞いた事はないし、其の小池の軍門に一度は下った此の腐ったリベラル勢力の連中をどこまで信じればよいか、現状では疑問符は付くが…以前、保身のため小池に下った此の腐ったリベラルはいつかは小池の国家主義的勢力を腐らせる可能性があると記述しておいたが…予想を上回って早く、此の腐ったリベラル勢力は、小池から政治的実権を削ぐ事に成功しているようで…小池と云う、将来のスマートファシズムの萌芽を摘む事に寄与出来た事に、腐っても鯛ではないが、腐ったリベラルは其れなりに役に立ったようで…其の意味でも、結果は上々だったと云えるのである。
嵐の当日…
其れで先週末何してたかと云うと…御忍びで京都へ一泊旅行の、秋の観光シーズン…京阪神方面でのホテル宿泊予約は半年以上から争奪戦に参戦しないと取れないし参戦したからとて勝ち取る事も覚束ない此の御時勢…有り難い事に…京都と大阪の府境辺りと云う、京阪を攻めるにはもってこいの要衝の地に新居を構えた親戚の御方から、一晩の仮宿の承諾を得たと云う有り難い前提条件があって…早速新幹線にて上洛の運び…兼ねてより気に掛かっていた箇所を順に巡る…清水寺などの観光寺院には興味はないが…清水寺方面行きのバスに乗るのにまず京都駅で長蛇の列…其れ以前に…土産の地酒などが重すぎるので京都駅でコインロッカーを探すも何処も満杯…落ちた体力には初っ端から消耗を強いる流浪の末、分かり易い場所のロッカーは何れも電子制御で700円以上であったが何れも満杯のデジタル表示ゆえ…ようやく辿りついた駅外れの鍵付きロッカー(300円)に荷物を押し込む…汗牛充棟のバス…230円…いつも、どの季節でも京都はこんなものなのだろうが…此度はちょうど国立博物館で国宝展をやっているせいでもあるのか…手の込んだ洋館作りの博物館では大勢下車しかし乗車も大勢で…雪舟の慧可断ぴ図を公開しているとの事だから事前の調査で鑑賞候補に挙がっていたものの人出の渋滞も予測されて予め諦めていたのが正解だった…三年坂を上り…なんとゆうか…観光客の8割は中国人…途中、七味屋で七味を購いつつ…第一の目的地、清水三年坂美術館に着く…通りの人だかりに比べて、美術館の客は数人…幕末~明治にかけての超絶技巧工芸品を肉眼で鑑賞…其の、本物が持つ気風を己の感性に叩き込むべく必死に目を開いてつぶさに鑑賞…安藤碌山の牙彫や並河氏の有線七宝、名前を失念したが某氏の無線七宝や薩摩焼、根付、自在置物や銅器などは当然凄まじく緻密な超絶であるが…改めて見直したのは無銘の、蒔絵や彫漆を組み合わせた刀装具などの漆器であって…見る人間の感覚をさらにもう一次元鮮明に開いてくれる、感覚が開拓される此の感覚…今まで見てきたものが全て擦りガラス越しだったかのような…周囲の森羅万象が肉眼でまざまざと鮮明にくっきり像を結んで再現される覚醒の感覚には、心身の疲労すらもやむを得ず、勉強になったのであった…二階の企画展もよく…矢立、煙管入れが系統だてて陳列されて…下痢した後に美術館を出ると、小雨…シャレ乙な町屋カフェで腹拵えのパスタとエスプレッソ…
高台寺脇を抜けて八坂神社に出る…その中に美人の霊水が沸く社があるとの事で行ってみると歌舞伎揚げみたいな中国人の熟年女性が其の霊水でバシャバシャ洗顔しているから霊水には近づけず、賽銭だけあげて細君の美容祈願…本殿廻りにはエステや化粧品関係の幟がびっしり…其処から建仁寺を抜けて祇園をはんなり歩き、四条河原方面まで行く最中…兼ねてより恐れていた歩行困難に見舞われ…歩行のための運動器の不調、膝や足首や腰の不調と云う訳ではなく、其の辺は鍛えているから大丈夫なのだが…生き物と云うのは本当にこんな詰まらない事さえもうまく機能しなければ歩けなくなってしまうのか、本当にぎりぎりのバランスで全ての要素が正常に機能しないと生き物と云うのは生きていけないのかと、些細な事に課せられた奇跡的重要性に打ちのめされる結果となり…どういう訳か呪いなのか最近…左足を踏み込むと、左足の人差し指の指の腹が斜めに傾き、説明し難いが、斜めになった人差し指の爪の横辺りの肉が盛り上がって、二時間以上歩くと、其の盛り上がった肉の皮膚が靴下と擦れて痛みを発する、と云う問題に苛まれており…些細な事ながら致命的に歩行を困難にするから…旅の前に、様々な実験を繰り返して対策を模索し、靴や靴下、テーピングなどを検討項目として、比較的痛みが少ない組み合わせで上洛したつもりであっても…旅の実践にあっては其の対策も不十分で…案の定、歩くのが辛く、足を引きずるようになったのである…無駄と知りつつテープなど貼っても更に痛みが増すから、綺羅星の如き洋館やデパートが立ち並ぶ京都市内の銀座みたいな御高級な通りで靴下を脱いでテープを貼ったりしばらく歩いて直ぐ剥がしたりの惨めな姿を晒しつつ…問題は最後まで解決せず…辛く、痛みに耐え将来への絶望的不安を抱えながら、其れでも歩くしかないのであった…次の目的地である京うちわの老舗「阿以波」を、三条通と四条通の間辺りに、訪ねる…店番の女性に品物をいろいろ出していただき、吟味に吟味を重ねて、抹茶色の女郎花と、雪紋の切り絵団扇の二つを購う…竹の細工が水際立った、妥協なき職人技は全くすっきりして見飽きず、惚れ惚れ…来年の夏が楽しみである…へうげものによれば織部監修の瀬戸屋も店を構えていたおしゃれスポットの三条通でシャレ乙な雑貨やコクのある舶来のアンティーク雑貨など見つつ…目的があって噂の錦通りに行く…物凄い人だかり…京都の台所との触れ込みであったが…多分地元の人は寄り付けないほどの、雰囲気だけを確かめに来た無責任な観光客ばかりが、狭すぎる幅員でにっちもさっちも行かず、しかも折からの雨だから噎せ返って…京都だから致し方ないが…乾物や漬物ばかり…物の分からぬ観光客のマイルドヤンキー的中高生男子風情のグループが、一本5千~1万円のカラスミなど指さして下卑た笑いをぶちまける体たらく…ほとんどが雰囲気を味わうためだけに来て何か買う気はない冷やかしの中国人観光客ばかりで先行きが思いやられるが…其の晩御世話になる親戚御夫婦への手土産に、明石の天然鯛でもみつくろおうと思っていたが…数店見つけた魚屋を検見するに…やはり魚介類は北陸や山陰がいいのだろう…あまりおいしそうに見えないパッとしない感じではあったが…其の内の一軒で、老舗らしき気難しいおやっさんが奥に控えている魚屋にて、枕ほどもある肉厚の、いかにも旨そうな天然鯛が二匹氷に埋もれていたので、其の内の一匹を、失礼の無いと思われる価格で購い、取り敢えず三枚におろしてもらう…其れなら、訪問先で短冊の身は即刻刺身に、中骨と頭は後日お好みでアラ煮にして召し上がっていただけるだろうと云う考えが安易だっただろう…数刻してよく考えると、三枚におろしただけだから、鱗は除去してあるが皮が残っているのであって、刺身にするには訪問先で皮を剥がなければならないが鯵を二、三匹おろした事があるだけの小生に其れが出来るか、否、出来まい、と云う現実がのしかかり…皮つきのまま刺身にする鯛の湯引きと云う料理も脳裏を掠めたが鯛の皮にさっと晒越しに湯を掛けるが身には熱を入れないなどと云う高度な技法などやった事ないから此の高級鯛でそんな冒険は不可能だろう…世知の足らぬ未熟者のくせに調子に乗って分不相応な、大それた事をしでかしたと云う赤面の後悔に苛まれ…痛みやら後悔やら物理的にも精神的にも重い鯛を引きずるようにして訪問先に到着…しかし結果オーライ、其の場で調べてもらったネット情報を頼りに何とか鯛の皮剥ぎに成功…最初は盲滅法に皮剥ぎに取りかかって身を傷つけたのに悔いが残り、最初からうまく皮剥ぎが出来ればもっとおいしい刺身なっただろうと云う悔いもあったが…しかし其れでも鯛の刺身五人前大皿に山盛りして皆で旨し旨しと大満足…持参した地酒をあっと云う間に空け、都の澄み酒にまで手を伸ばしたから話も弾んでしたたか酔いが回り…
気付くと朝…経験上、全く身動きできない程、体の芯のところまでやられている重度の二日酔いではない事は分かっていたから、控えめに、おいしい朝食をいただき…成り行きで済し崩し的に結局親戚の御方の車の御世話になる運びとなり…小生の此度の旅の目的であった、百万遍近くにある老舗の金平糖屋さんである「緑寿庵清水」(美味しんぼにも出演)に近づいた頃には…不覚にも…手足の先が寒くて痺れだし…二日酔いと乗り物酔いのブレンドに襲われ…頭から血の気が引くような寒気と呼吸の苦しさで身動きが取れず後部座席でどうっと倒れる醜態を晒して…旅先の二日目で体調を崩す、大抵は調子こいた呑み過ぎのせいで、と云う、小生の悪い癖を再発させ、御世話になった方々に御迷惑御心配をおかけしてしまったのであった…しかし、何としても其処の金平糖だけは手に入れなければならぬ、小生の茶風を確立する真白き金平糖を、来るべき茶会のために此の老舗の銘店で入手せねばならぬ、と云う思いだけは、白濁した意識の中で持ちこたえ…細君に、生姜風味の白い金平糖と、其の他の白い金平糖の二袋を購うよう託すが…店先まで車で乗り付けると…170周年記念事業に打ち込むため本日休業の張り紙…ホームページでは営業日だったはずなのに…其の無情の衝撃もあってか其の後意識は朦朧となり…同じく百万遍の知恩寺で同日開催された、此の手の催しとしては嚆矢とも云えるナチュラル系手作り市には雨の中細君らは勇躍出かけたが小生は参戦できず、無念を抱えて車中で横臥し体調の回復を図る…ナチュラルな風合いの木の柄が付いたコロコロ(粘着テープの埃取り)を購って来た細君らが戻って来た頃、そこはかとなくむくりと回復…客層の品がよい、つまり話の通じない荒んで貧相なジモヤン(地元ヤンキーあるいはマイルドヤンキー)などは近隣に棲息しない、センス良く品質のよい衣服と装身具を身に付けた熟年夫婦や女性客、子育て世代客が多いパン屋系カフェでお子様ランチセットのパスタを食すると…アルコールを無害化する炭水化物エネルギーを体が要求していたのか、回復の速度が上がり…茶禅一味の総本山、大徳寺(臨済宗大徳寺派)を旅の締め括りに選ぶ…利休が讒言の難に遭う発端となった山門の金毛閣が雨の中佇む姿はすこぶるデカい…何もかも兎に角デカいのだが…寺内のそれぞれの区画を、これまたそれぞれ由緒ある塔頭が占めて、それぞれの塔頭で拝観料を取られる仕組み…其の内の黄梅院を拝観…折からの雨で苔が生き生きとして…利休作庭の庭…数寄屋の繊細な作りや庭の大きさに比して、朝鮮からの見聞に想を得たと云われる、巨大な亀と豚が重なっているような石灯籠がこれまた無神経に武骨でデカい…こういう野放図な豪胆さは江戸時代以前の人の仕業だなと思わせ…織豊の息吹を吹きかけられたが如くに生々しく感じる…利休鼠の襖や雲谷派の山水画の襖絵など…大徳寺は其れなりに有名な寺だが京郊外に位置する観光客疎らなこんな寺でも(権力への寄り添いと金銭上手が露骨であっても)生々しく歴史が継承されている様に感を得ざるを得ず、うらやましい限りである…当初はたいしたもんじゃなかろうとたかをくくっていたが、大徳寺…やはり実際行ってみると、本物と見所だらけでとても2時間足らずでは味わえない古刹であった…織部と光悦のコラボ企画を展示中の織部美術館やら、表裏千家に併設する茶道資料館など気になったが例の二日酔いと乗り物酔いのブレンドでどうにもならず、他にも今後の人生に暗い影を落とす絶望的な足指の痛みなどさえなければ色々行けたのだが…いろいろ気になる処はあったが此度は御預けで帰路に着いた…返す返すも緑寿庵の金平糖が入手できなかったのは残念だが、阿以波の京団扇を御助け出来たので御の字である。旅先での気の緩みによる呑み過ぎは改めて戒めたい…帰宅後、性懲りも無く、二日酔いの厄落としのためと称してビールを飲み直したりしたが…
もう一つの嵐…あと30分もすれば、各社はいっ、ドーン、自公大勝、改憲勢力3分の2超確実の一斉報道だろう…
自爆の後
決定的に此の国において前提から勘違いされてしまっている事は…民主主義=多数決、と云う原理である。しかし、此れは間違いであって、民主主義は多数決の事ではないし、民主主義の手法として正しいのは多数決、なのでもなく、要するに、誤りである…
民主主義を国民主権、と置き換えれば直ぐ分かる話である…国民主権とは、国民の一人一人の全てが政治的主権を持つ、と云う事である。従って、国民主権=多数決、と仮定すると、多数決だと少数の人の主権が否定されており、従って全ての一人一人が主権を持つと云う国民主権を否定する事になる、よって国民主権=多数決と云う仮説は矛盾する、と云う事になる。
云い換えると多数派に主権がある、あるいは多数派に主権が移譲される、とすると、其れは、多数派主権であり、要するに少数派から主権を奪っているのだから、多数派主権とは其のまま、少数派を弾圧し排除し少数派の生命と財産を蹂躙する事を肯定する国家主義ないしは全体主義国家を意味する。だから全体主義国家は少数を「排除」(小池)するのである。小池は全体主義者である。安部も小池もファシストである。ちなみに、国民が有する主権は移譲されないし、何らかの政治的手続きによる虚飾によって国家や代議員に移譲されたとしたら其れは国民主権ではない。選挙と云う、あたかも民主的に見える手法によって選ばれた代議員に、国民の主権が移譲される、と云う事は有り得ない。なぜなら、そうだとすると其れは代議員主権であって国民主権ではないからである。議員に主権は存在せず、主権は何処までも国民にあるからこそ国民主権なのである。主権と云うのは潜在的には国民が有しているが、選挙によって選ばれた代議員によって初めて顕在化し、行使されるのだ、と云う形而上学もついでに否定しておく。主権とは現実を変える直接的で顕在的な力そのものであって、普段は潜在的に存在しているが直接現実に影響を与えるには別の契機や力能を必要とするならば、そんな間接的な力は主権でも何でもない。以上の詳細はルソーが社会契約論できちんと証明しているので参照していただきたい。別に小生の思いつきでも何でもない事である。ついでに云うと、少数派に主権がある、とすると、其の少数派主権とは君主制ないしは貴族政あるいは寡頭政治と云う専制国家を意味するであろう。
即ち、民主主義は多数決ではないし、民主主義は多数決と云う手法によっては実現も保証もされない。国民一人一人の主権(国民主権)を保証するための民主主義の手法で許されるのは、話し合いによる全会一致である事が理解されるだろう…此れが即ち、民主主義が議会制を採用する意味の枢要である。従って、此の話し合いで重要なのは多数派工作などではなく、多数派と少数派が共に納得しうるような妥協や調整あるいはそうした対立をも無効とするような新しい対案を提出できる知恵が要求されるのであり…そうした知恵が必要とされるためだからこそ、ロボットではない人間が話し合いの主体となっている意義が証明されるのである。話し合いの場で知恵を出す努力を放棄するのであれば人間が話し合う必要などなく、文字通り議員自らが議会の主体である議員と云う立場を否定しているに等しい…話し合いによる全会一致と云う前提があってこそ、多数派と少数派と云う分断が解消されるだろう…だとすると、此れも、モンテスキューやルソーが既に指摘する事であるが…民主主義と云うのは古代の十数人ぐらいの部族が部族として方針を決めるのには有効であるが、数億人の人口の政体では不可能ではある事を意味する…数億人の主権者が全組み合わせで直接話し合って全会一致の方策を導く事など不可能ではある…よって…民主主義とは理想の空論である事は明らかではあるのだが…其れでも…だからと云って、民主主義と云う理想のタガをあっさり取り去ってしまえば、少数による専制政治や、多数派による全体主義の弊害に陥るのは歴史が明らかにしている以上、民主主義と云う建前を大切にしなければならないのであって、其れこそが社会契約と云うものである…フィクションの契約…即ち、民主主義は上記のような不可能性の下に立脚しているが其の不可能性にぎりぎりまで挑戦する努力を放棄した途端非民主的政治の弊害に転落するのは明らかである。多数決と云う、非民主的強行がもし許されるならば、其れは、民主的努力をぎりぎりまで尽くした姿が国民に明らかにされた時でしかなく…少なくとも、物事の本質を衝く質問と、其の問いに対する誠実な答弁と、対立のための対立を煽る依怙地を解消し対立を昇華する真の知恵が幾つも出された姿を国民に提示出来ていない以上は、多数決に訴える正当性は無い。
眼を転じて、自民党の議会での振る舞いを見てみると…民主主義を遂行する唯一の方法である議会を悪びれもせず悪しざまに嘲笑的に軽視しているのが明白である…野党議員が、与党に都合の悪い事を訊くと、私的な保身の態度を顕す事で公的な利益を毀損するのも憚らず、まっとうな質問であっても其の質問には徹底的に答えず、はぐらかし、全く関係ない、中身のない答弁を繰り返して、兎に角面倒な議会の時間を無事にやり過ごせたらいい、くらいの態度が露骨であり…そして…最終的には多数決で決めてしまえばいい、そして、其の事を批判するメディアは国家と資本の実力で潰してしまえと公言する事で、本来民主主義とは何の関係も無い多数決に安易に依存する体質は…明らかに国民主権を否定した多数派主権であって全体主義体質である。此れらの実例は、特定秘密保護法案や共謀罪の成立過程や、安保法制の運用実態の不透明性、武藤や二階といった自民党の議員による言論弾圧扇動、森友・加計問題での見え透いた嘘の隠蔽などを思い出せばよいだけである。無論、民主主義の不可能性については十分承知しているし、其の必要悪の最終手段としての多数決には致し方なく肯定せざるを得ないのも承知しているが…端から議論する気も無い態度も赤裸々にしている怠慢は、民主主義の方法を端から否定しているのであって…
多数決と云う、非民主主義的手法の中では最も民主主義に近いとされる手法が許されるのは、議会と云う民主主義的手法を誠実にやり尽くした結果を残してこそ肯定されるものであって、そうでないならば多数決は国民主権にとって有害なだけで全体主義に資するだけである。最初から議論せず多数決するのであれば、議会はおろか議員の存在すらも必要ない事を、即ち自らの存在を否定している事を自民党自らが公言しているに等しいのである。とりわけネットが発達した世の中…全て多数決でよいならば、例えば行政が提案した諸問題について、国民がイエスかノーかをネットで一斉に投票すれば済む話である。しかし其れでは単なる多数派主権による全体主義国家になるし、何よりも問題に対するより良い解決策を深める手法である議論の機会を自ら放棄する事になるのだから、良い解決策が生まれる条件が全く無くなるだろう。議会が機能しなければ民主主義=国民主権は見かけでさえも成立しないし、議論(他者の意見との出会い)を通じた良い解決策にも出会えないから社会はよくならない。つまんない事で皆を苦しめる単なる全体主義国家になるだけである。少数派が絶対的に正しいと云う根拠が無いのと同じように、多数派のやる事が絶対的に正しいと云う根拠は無い。少数を排除した多数派が丸ごと取り返しの付かない過ちを犯す事もあるのは、ナチスによるユダヤ人虐殺や軍国主義による無謀な戦線拡大による無辜の民の死を持ち出すまでも無いだろう。だからこそ、多数派とか少数派の区分けを解消した個々人が己の頭で互いに頭を突き合わせて話し合う事で知恵を出し合う議会が最低限必要なのである。
要するに自民党は、そして其れに追随する公明党、維新、小池新党、日本のこころを大切にする党は、民主主義とは多数決であり多数決には民主的正当性があり、多数派にこそ主権が存在する、其の事は民主的正当性に立脚していると思い込んでいる。だから、此れらの自称保守勢力は国民主権を否定する全体主義を目指す勢力である事は明らかである。加えて、多数派と云っても其れは投票の結果による議会の中だけのフィクションである。其の議会での議決に正当性を依存する内閣や政府あるいは国家の構成員は、主権者国民からしたら少数者である。にも拘わらず、此の多数派主権論者は、前述のように議会内での多数派にも主権は無いのに、其の虚構の誤謬(議会内多数派に主権があるとの思い込み)を無知蒙昧にも無根拠にふしだらに類推させて、議会内多数派によって正当性を与えられた内閣や政府や国家にも主権が存在すると思い込む、此の二重の誤謬を、さも正当性のように欺瞞的に成立させる国家主権者=国家主義者でもある。此の誤謬を思い込んでいるのか意識的に悪びれもせず悪用しているのかは定かではないし問題でもない。結果として、多数派主権論者である自民党と其の補完勢力は、全体主義者にして国家主義者であり、国民主権を否定する反民主主義者であり、従って必然的に国民主権から遊離した此の連中は社会的正当性が欠如した私利私欲、経済的にも思想的にも公的にはなり得ない私利私欲を国民全般に押し付けようとする圧制の主体にして、主権者国民の敵である事も明らかである。国家主義者の本質の発露たる、経済的にも思想的にも公的になり得ない私利私欲は例えば森友、加計問題で顕著であって…天皇家の存続と云う、かつては支配階級であったが近代以降は何て事ない一家系の存続のために臣民の生命を捧げる事を正当化した教育勅語は思想的な私利私欲を公的なものと偽る欺瞞であるからして此の勅語を教育に使う森友への支持を公言していた自民党議員の、公的な説得力を失った思想的私利私欲が明白であるし、森友=日本会議を通じて森友への有利な活動が明らかな維新も思想的同罪である。経済的私利私欲については、明らかになった森友の補助金詐取や国有地の不当な安価売却からも明らかである。あんなところに値引き額八億円分のゴミがある訳はない。其の事は、実際にゴミ処理を業者に委託した建設会社藤原工業が行政に提出した領収書でも明らかである。加計についても同じである…そして、こうした、国家主義者の本質に由来した、公的権力を私利私欲に費やした事件を、せいぜい政権の御友達と民間との癒着といった偶然的事故として解釈する事しか出来ない小池新党も、其の根っこは国家主義者にして全体主義者、反民主主義者にして国民の敵である。そして、自民党が国民の敵である事は、彼らの憲法21条改正草案で表現の自由を否定している事に究極的に表現されており、此の草案を否定しないか、此の草案の成立過程に参画していた維新、公明、小池も同罪である。自民党と其の補完勢力が多数派主権と云う内心を隠蔽して未だに表向き民主主義を標榜しているのは…曲がりなりにも今も「ある程度」は国民主権という事が国民の中に根付いている事を気にしているからであって、しかし、自民党は、小さな開き直りの積み重ねで国民主権を否定する既成事実を積み上げる、民主主義への破壊工作を繰り返しているのだから、此のままでは民主主義と云うフィクション、貨幣価値と同様の原理で成り立つ此のフィクション=社会契約が瓦解する危機に現在、あるのである…
此度の件で…保守とは何か、リベラルとは何か、が改めて巷間に取り沙汰され…無責任な論者が手前勝手に、此の国の政局の歴史や海外の事例などを、重箱の隅をつつくように枝葉末節にこだわって互いの矛盾の揚げ足取りに終始する事で徒に国民主権者を韜晦に誘う論じ方を披歴するのが、国家主義者の罪の隠蔽に加担するかのような悪意にすら思える節もあるが…保守は改憲でリベラルは護憲、などの、憲法の中身の論議を割愛した論調は本当にどうでもよい。要は簡単な話である。少なくとも此の国で云われている保守勢力は…其の実態は、多数派主権者=全体主義者=国家主権者=国家主義者=反国民主権者=反民主主義者=反社会契約者=私利私欲=法的犯罪者である。リベラルとは…少なくとも、立憲主義、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、を立憲民主党や社民党や共産党は明言し、自民党の憲法21条改正草案に論理的に反論しているので、彼らはリベラルを名乗る資格を有し…即ちリベラルとは、基本的人権と国民主権を第一の価値とする国民主権者にして民主主義者である。かといって、リベラル勢力の政治的力量不足、とりわけ核心を衝く質問を構成する言語能力の鈍さ、歯切れの悪さ、言語能力が保守勢力に劣ると云う救い難い罪には政治的責任が追及されてしかるべきであるが…以上のように、民主主義は多様な意見を議会でたたかわせる場であるが、此の民主主義自体を否定する国家主義者=自民党と其の補完勢力は、其の多様性の範疇から排除されてしかるべきであろう…民主主義を否定する者を多様性の範疇に含めると、民主主義自体が崩壊するからである…其れは、国民の生命と財産を守るために構成された社会において、生命と財産を毀損する者が刑法的に排除されるのと同じ論理である。従って、民主主義を否定する自民党と其の補完勢力は、民主主義において排除されるべき存在である。なんなら、自民党と其の補完勢力は、いっその事民主主義の廃止を唱えて、世襲議員による貴族制などの専制の正当性を訴えればよい…欺瞞的に民主主義の皮を被って実質貴族制をやるたちの悪さに比べたら、遥かに正直である…国民に、「どうか、国民の皆様の主権を取り上げさせてください。国民の皆様を、私たち世襲議員の奴隷にさせて下さい。何不自由ない暮らしを保証しますから、国民の皆様を私どもの奴隷にさせて下さい」と訴えればよい…其れが筋と云うものである。
と、こんな事を書いたが…小生個人としては此度の選挙…諸々の事情を鑑みて…自民と其の補完勢力の合算が、衆院で三分の二よりすくなくなればオンの字、憲法改正だけは阻止できればよいと思う…九条、憲法改正、北朝鮮、等々が絡む小生の真意は後日説明したい。
湯呑から湯気上がりおり秋来る
愚者の自滅
しかしだからと云って…小池に恭順の意を示して軍門に下るにしても…其の恭順の意が疑われないようにするために、家臣(民主党議員)と兵隊(支持母体=連合)の首を全て差し出すのは致し方ないにしても、いざとなったら帰るべき城に火まで付ける事(衆院で民主党自体を抹消する事)は無かろう…小池と前原と連合との密会で、小池が出した条件が、家臣、兵、城全て差し出す事だったのかもしれないが…だいたい…密室でどんな密約を結ぼうとも…城(党)を焼き払い兵力(連合)を小池に差し出すから、家臣(議員)全員の命を安堵するよう密約を結んだところで…小池にしたら…家臣も兵も城も差し出して来た丸腰の裸の無力の無能な男との約束を破った処で、何かしらんが自分からそんな無力になってしまった人間から小池が反撃される心配はないのだから、安堵を約束した其の口先も乾かぬ内に、小池が、自分の家中にとって害を為しそうな者の首を斬るとまで行かなくても召し抱えるのを拒否するのは寧ろ当然ではないか…小池にしたら…民主丸ごと受け入れたら、せっかくの新党が、大衆への不人気が決定的な民主党と同一視されて足を引っ張られるのは当たり前なのだから、小池家中に仕官したいなら踏み絵と云うか思想的転向を要求して、右翼的思想浄化の条件に適った者のみを小池家臣(外様として監視と冷遇対象ではあるが)として登用するのは、至極尤もな話である。そんな事も見通せず、独りよがりな誠意に没入して何もかも、まだ味方ではない敵の敵に何もかも差し出して、徒に敵将小池の憐憫に訴えるにまで墜ちてしまった前原などはせいぜい産経とかの物笑いの種であって、憐みさえもたいして期待できないではないか…じり貧ならじり貧なりに知恵を出して駆け引きするぐらいの機転も利かせずに、まあ時間も無かったのだろうが、兎も角愚かしくも小池に生殺与奪の権を全て与えておいて、一体何が交渉できると云うのか前原よ…交渉と云うのは対等の実力があってこそ成り立つのであって…一切を差出し軍門に下った以上…敵方に好き勝手に扱われ、選別と排除のもてあそびの対象にされ、いわんや先に脱走して小池家中の重臣になりおおせた裏切り者の民主家臣が首実検奉行を仰せつかり、後から投降して来たかつての仲間を見下し顔で値踏みさえしてくる二重の屈辱と嘲笑に付され…選にあぶれた民主党リベラル残党がマスコミから面白半分の掃討戦の対象にされて、そこらの村民(民衆)に落ち武者狩りを煽り立てるが関の山であろう…だから…要するに…家臣と兵は差し出すにしても…城まで焼くことは無かったのだ…小池陣中に逃げ込みたい奴はそうさせればよい…いっその事支持母体もくれてやってもよい…ただし、小池家中が民主丸ごと引き受けるなどと云うのは有り得ないと云う先見の明ぐらいは働かせて、衆院の中に民主党と云う形骸だけは残しておけばよかったのである…党を割ればよかったのである…党自体まで潰す事は無かったのである…参院に残留しているとは云え…そうすれば、安部一強を阻止する(表層的)反自民政党の躍進に資する事も出来るし、民主党としても中途半端な保守連中と云う不純物を小池に押し付ける事で、リベラル政党として純化した、右翼勢力に対する対抗軸が明確化するのだからある程度の議席は確保出来るだろう…残留民主党の議席は現有の80幾つから、まあ10~15議席まで減るだろうが、其れでも、自公維新合算で過半数割れするような選挙結果次第では小池との連立をちらつかせてキャスティングボードも握れるかもしれないではないか(維新の動きは油断ならぬが)…金と権力と天皇しかよすがの無い右翼勢力と違って、リベラル政党の存在意義と云うのは基本的人権と国民主権と云う寄る辺なき意志だけなのだから…民主党は…超新星爆発みたいに弾け飛んだとしても、微力ながらも爆発後に残留する確かな白色矮星として、リベラルの小さな灯を掲げ続ける事に意義があるのであって、其の灯すらも吹き消して逃散したとあっては、全体主義の闇に抗する灯が全く無くなるのだから、国民に対する背信の罪はデカすぎる…闇夜の嵐の灯台として、たとえ無力で小さくあってもリベラルの灯は絶やしてはならないのである…其れなのにあの馬鹿はさっさと吹き消しやがって…まあいずれにせよ小池が元民主党リベラル派を家中に入れる筈も無いのだから、残留リベラル派は結集して新党立ち上げしかなかろう…其の動きも少しあるようだが…一体どうなる事か…無所属だと比例復活がないのだから此のままだとリベラル系が全滅するだろう…もし其のリベラル新党が出来ないのなら…此の国の衆院の勢力から、国民主権と基本的人権を第一義とする中道左派としてのリベラル系が一掃され、国民の選択肢は、極右と極左しかなくなるのだから…極右は国家主義的資本主義的全体主義だし、極左も基本的には共産主義型全体主義として、資本主義型全体主義と結果は同じになる可能性は拭えぬから(委員長志位が、あの柔和な顔立ちの裏に、毛沢東やスターリンやポル・ポトや北のきれいなジャイアン的本性を隠している、と云いたい訳ではないのだが)…民主党リベラル残党は至急、新党を作りなさい。
もう一つうがった見方をすれば…案外其れが真実かもしれないけれども…元元、民主党と共産党との連携に憎悪を煮やしていた前原…彼の所領の京都選挙区では自民との対決よりも共産との対決の方が熾烈な訳だから共産との連携に忸怩たる思いを抱いていたと推察できるし現に代表に就任してからは共産との連携に否定的な言動を明らかにしていたし…元元前原は民主党右派あるいは中道右派としてリベラルとは犬猿の仲であって…そうであってみれば、二大保守政党の確立によって安部一強を倒しつつ前原が考える中道右派政権の樹立を目指すために、思想的にも選挙区的にも前原の敵である共産党との連携を進めた、前原にとっての怨讐の敵=民主党リベラル勢力の壊滅を狙っての内ゲバとも取れるだろう…小池がリベラルを取らないと分かった上で、民主党の総会では全員公認を目指すなどと二枚舌を使って曖昧な希望を煽ってから民主党壊滅を済し崩し的に承認させておいて、事後にリベラル排除を通告、しかもリベラルが籠城する城まで焼き払った上で…と云うリベラル潰しの首謀者前原…仮に予め画策してそうなったのであれば其れなりにしたたかだが、背信以外の何者でもない確信犯の詐欺師である…(しかし…所領の京都で共産党の選挙協力乃至は候補者調整が出来れば、其れなりに前原にとっては好都合だとも思われるが…そう考えれば、前原の共産嫌いはやはり専ら思想的なものなのだろうか…)
それにしても…此度の事での前原の罪はもう一つある…其れは…大衆に人気のある小池によってリベラル派が「排除」される事がマスコミによって殊更に喧伝される事によって…大衆に人気のある小池の言動が日本社会での承認と同化して、社会的に「リベラル派」は「排除」されるべき対象であると云う既成事実あるいは社会的承認の成立に加担した事である…此度の件によって…本来、誰よりも国民の側に立って、国民主権と基本的人権を旨とするリベラル派が、国民の敵として排除の対象になる事が、社会的にも公的にも承認された事実を作ってしまった事である…此の罪はあまりに大きいし、全体主義成立への加速の契機として恐ろしく効いてくるだろう…其れと云うのも…小池の下に行きたい奴や受け入れられる奴だけをさっさと行かせればよかったのに、迷妄なる情に流されて、全員受け入れの由を、政治的手腕に長けた小池に恐らくたばかられて、愚かしくも密約してくるから、小池に、「選別」の権を与え、更に「排除」の権までわざわざ与えてしまったが故である。此の事が、取り返しのつかない政治的失策である事が、後になって明らかになるだろう…悪夢だ…小池新党が民主党のリベラル派を選別・排除する、と云う個別的事象が、小池人気と云う大衆からの承認によって、社会的に正当化されたから、今後は、もう、此の社会においては、リベラル派は排除すべきもの、と云う刷り込みが実施されてしまったのである…フランスでもアメリカでも、市民革命前後の混乱期においてリベラルと云うのは嘲笑と弾圧の対象であったし、ドイツや日本における全体主義成立の前兆としては、まず、リベラルとか自由主義と云うのが、真っ先に嘲笑と弾圧の対象となるのは歴史的事実である…此の歴史が繰り返されようとしているのは明白だ…其のパンドラの箱を開ける鍵を、前原が小池に渡して、小池が躊躇なく開いたのだ…落ち武者狩り=リベラル狩りが始まったのだ…此のリベラル狩りの下地は自民党が作ったし、無論、民主党の政治的無能による責任は救い難く大きい。
前述で、小池新党の事をスマートファシストと名付けたが、此れが、自民党の世襲封建ファシストとどう違うのか、は後日説明したい。たちが悪いのは小池のスマートファシズムの方である事を予告しておく。そんな危険な、自民党よりも悪質な可能性の高い小池新党に加担しなければ安部一強は倒せないと云う悲劇よ…転がる石のように…。都知事としての小池は…ダイバーシティ(多様性)と云う事を涼しげに云うが…其れはわざわざ英語で云っているのが顕示するように、対外向け、白人向けの美辞麗句に過ぎないのであって、国内にあっては小池が政治的多様性を認める事は「さらさらない」事が明白になった…リベラル派を排除する小池が吹聴する多様性というのが、虚飾のための欺瞞である事も露わになり、其の実態は自民や維新と同じ国家主義的利己主義的反社会的勢力として、お門が知れた、馬脚を現した、地金が出たのだ。小池新党が維新との提携を決めた事も、日本会議を底流とした極右連合の成立であって、従って選挙後は同じく日本会議を支持基盤にする自民とも馴れ合いも含んでおり…小池は今は原発ゼロ、消費増税反対を掲げて自民との対決色を出しているが…日本会議をバックに持つ維新、小池、自民の三者は同じ穴の貉…二大保守政党などと云うのは茶番で、保守が幾つに分かれようが中身は同じだから直ぐ合体できる単細胞の右翼全体主義…右翼だらけ国家主義だらけの此の国…そんな全体主義国家の成立に、あの前原は一躍加担したのだから其の罪は万死に値する。
white moles「パレイド」(2011)volt-age records stereo bqgs-25
自分にとって 寵愛の対象でありつつ呪いの主に様変わりしてしまった革靴…購入早々己の先走った愚昧によって仄かなシミを当の革靴にも己の心にも浸みつけてしまった、取り返しのつかないしくじりが呪いの始まりであったにしても、続く日々には、まるで餌付けのような僥倖も齎してくれるから、寧ろたちの悪さに感付きながらも、遁れる事が出来ない執着の底無し沼に引きずり込まれるようで…シミはどうにもならないにしても、其の後も己の無意識に自虐的な粗忽故なのか、むきになって磨いているとうっかり爪で引っ掻いて革靴を傷つけてしまうと云う、錯乱した絶叫を喉に詰まらせた救い難い絶望に陥れられるも、いつの間にか、数週間経つと、其の傷が見えなくなっており…本革にはある程度の自然治癒力が備わっているのか…小生を呪いに引きずり込む悪意ある僥倖…其の上…甲がきつくて足が痺れるほどで、長時間履いていると足の甲で血栓ができて其れが心臓や脳に飛んで心筋梗塞や脳梗塞を起こす懸念すら担わせていたのに…昨日履くと、なんかちょうどよくなっており…僥倖に次ぐ僥倖が不安を深める日常…今日も、革靴を、布で磨く…祝福された呪い…其の証拠に…最初に小生が此の革靴に齎した仄青いシミは、決して消えない。
何が聴きたいのか小生の中ではくっきりした像を結んでおり…小生は決定的にノリが悪く音楽の才には全く恵まれておらぬから自分での創作は不可能と諦念したが故に、他の、才能ある方々が創作した音楽を探して入手するしかないのだが…しかしいつしか、其の、小生が渇望して止まぬ音楽に現実に邂逅する機会に恵まれぬ失望を重ねると…探究する気概も薄れ…要するに…ビーチボーイズのペットサウンズを楽曲の骨格としたハードロック、を聴きたいのであって…ペットサウンズあるいやハードロック(ザ・フー、イエス、レッド・ツェッペリンの三位一体)を要件とする以上、此の両者は当然の帰結(=ロックの王道)として過去に小生が提唱したサイケデリアの本然とガレージパンクの内積を表出するのであり、ロック史上、唯一小生の此の渇望に近い成果だと云えるのは、ザ・フーのトミーに他ならなず、此の事は其れだけでも十分奇蹟的な価値を称揚して止まぬが…其れでも厳密に渇望すれば、せいぜい近傍と云う概念に救われているに過ぎない、本来気にするほどでもない微かな、無視しても何の問題も無い差異ながらも其れでも存在するが故に決定的に際立つ其の差異が、殊更に更なる渇望を欲深くするのであって…従って…ペットサウンズを構造としたハードロックは、いまだに認められない…(=王道なきロック史)フー、イエス、ツェッペリンの三位一体としてのハードロックとは何か、については、小生のしこりとして未だに残っている、やり残している課題ではあるが…サイケデリアやガレージパンクの本然の姿については、過去のブログにある程度論じ得ている…
ふっと、頭の栓が抜けたように思い出して此のCDを入手した前段には…2013/10/13米子でwhite molesの音楽に接したのがきっかけであって…其の時の模様は過去のブログ記事に恐らく何らかの記載があろうが…其れは其れとして…其れを読み返す事無く…改めて此の音楽を体験する事になって…地獄としての天国にいざなわれたのは確かであって…しかし其の天国は飽く迄も日常の地平から逸脱する事なく…日常に潜む、と云うよりも、日常そのものの形をした悪意への確かな過敏、即ち制度そのものへの殺伐たるイラつきの棘がそのままの形でソフトに、即ち、日常と地続きで外に出ており…殊更に取ってつけたような反抗の大見得が、現代の歌舞伎のように体制への補完的隷属に瞞着しているのにも気付かない罪深い愚かしさ故にうるさいだけで図体ばかりでかいのが厚顔無恥なマッスル馬鹿的似非ロックなど端から眼中に無い無視の一閃で無効化する批評的ソフトだからこそ…音の根源に己を晒す知性=勇気が欠けた奴隷的音圧狂いを排して、其れこそ、目的のための急所を撃つ的確な音の配置に徹するソフトな連なりが、単に耳に心地よい産業サイケ的ソフトサイケとは異なって…たとえソフトであっても…事有る毎に人間に隷従を強いる制度からすり抜ける陰湿な戦略を音楽的手法で以て勝ち得ているから、説得力があるのである…其れは…ジョン・アンダーソンほど天上への親近さとは違って、日本の日常の曇り空の直ぐ下程の低空を行く、白く濁った柔らかい裏声が…くも膜の下に滑り込んで通俗的な感覚を一時的に麻痺させる夢心地の、麻酔が切れた後の些か禍禍しい夢心地である故に、一層日常の禍禍しさを一種清潔に覚醒させてくれる。
産業サイケ的なソフトサイケとは…本然サイケデリアにおける平和=ピースを、制度的資本的悪意を以て勘違いした隷従サイケの事であって…過去に小生がサイケデリアの条件を論じた事があるから其れの繰り返しになるが…サイケデリアの本然におけるピースとは、すやすやと眠ってこそいても、道行く者の足首をがぶりと食い千切る獰悪さを突発させるほどの、眠りと覚醒が一致した純真無垢だからこそ凶悪な惰眠の事を云うのであって…此れは即ち理性と云う狂気と同じ謂いなのだが…其の事を意図的なのか早とちりなのか勘違いして、産業サイケにおけるソフトサイケ部門は、此の、サイケデリアの条件の一つであるピースフル概念を、単に、政治的困難に際して無邪気にラブ&ピースを無能に唱えるだけが関の山の、人畜無害な痴愚の如き扱いにして、表層的には爽やかな雰囲気に便乗して此れを売りとして称揚しつつも裏で嘲笑しているのである。しかし、ホワイトモールズにおけるソフトは、此の、産業サイケにおける隷属的嘲笑的アイロニー的ソフトとは断絶して、サイケデリアの本然としての獰悪ピースフルを顕現させる事が出来ている。此れは稀有であって、そして、本物のサイケデリアである。
制度からすり抜ける陰湿な戦略とは何か…其れは、それぞれの楽器の役割が体現している…前述のように、聴く者のくも膜に滑り込んで麻痺させながらも、日常が麻痺そのものである事を告知する曇り空的裏声でもあり、歌詞の意味云々とは関係も無く意地悪な福音を齎す日常を歌い…音、特にロックが百家放斉の方法で異議を突き付けるものならばとりわけロックにおける音の本質は警鐘、警報である事を如実に表していたキーボードの繰り返し音は…一筋縄ではいかぬ苦み走った音色選択を万華鏡のように繰り出しつつ切迫感を損なわない殺伐の漣を渡らせて…聴く者の神経をイラつかせる単調なキーボードの、挑戦的なほど単純な音の繰り出しと、其の音色の薄気味悪い含有は…Jアラートの例のように、音が警報である根源を執拗に告知して来る…また、キーボードによる警報が転調への契機を為す楽曲構造は焦燥的でユニークではある…そして、適時電化されたコーラスは楽曲の賑やかしと云うよりも、キーボードの音色と地続きを為しているから本質的な意味での警報ともなっている。ギターは思いの外肝が据わって、荒んだ生活にしっかり根を下ろしながら、他の楽器が全体として柔らかで緻密な虹色の濁りを蔓延させる中で、野太く歪んだ音を棘だらけの背骨としている心強さがある。従って、ソフトでポップでいながら骨太の荒みを放出したハードロック足りえている。時折突拍子もない性急なリズムを前のめりに発破させて創意あるリズムも自然に接続させる不可思議さが巧みなドラムや、確かな地面を鱗雲のように柔らかく捉えた濃厚なベースが齎すスピード感は…凡百のバンドが、せいぜい地球上で車を走らせるスピードに甘んじているのに対し、ホワイトモールズのスピード感はどこか天体的にリアルなスピード感、即ち、地球が自転しながら太陽の周りを公転しながら太陽系が銀河系の中を回りながら銀河系が銀河団の中を回っている地球の表面で体感するはずであるスピード感であるかのような、本来人間にとって日常的ではあるが実際には現実感の乏しいが現実ではあるスピード感を体感させてくれて、其れが、天界であるかのような、しかし、其の、天界こそが現実ではある日常と云う地獄であって、天界と日常と地獄が乖離しない天界、あるいは天界と日常と地獄が乖離しない日常、あるいは天界と日常と地獄が乖離しない地獄でもある事を告知してくるのである…音の始末の電気的効果は小憎らしいほど巧みな工芸のようでまことに神経が行き渡っている。
楽曲としては…木造のバベルの塔がコンコルドになって飛翔する貴婦人の不時着のようであって…一部のプログレやメタルのような天上に向けて組み上がる静的な石造のゴシック内陣ではなく、構築が速度に変換されて水平方向への流れとしての建材がばらばらにまとまりながら量子的振る舞いで時折意表を衝く切断と接続を露わにする楽曲もあって…そういう意味ではイエス的なプログレッシブ展開(=マクローリン展開)でもあるし、マクローリン展開であってみれば即ちペットサウンズ的切断と接続での不連続による連続もあって…加えて…よくあるジャンル的通説の組み合わせで説明すれば…ぬけぬけと歌謡曲的でもあればプログレ的でもあり、ガレージ的でもあって、前述通りサイケデリアの本然を外さないし、ロックの音の本質である警報としての切迫感や異様感も申し分ないとすると、ホワイトモールズは極めて、小生が渇望する音楽に近い達成であると云える…ノイズ的な遊びを付加的に付けた部分があったが、此れは、伝統的なサイケデリアのアルバムにありがちな装飾を踏襲したものだからして、いわゆる、ガチのノイズミュージックではないとは云え…しかし、である。しかし、其れでも小生は、まだまだ渇望するのである…思い出していただきたい…小生の渇望とは…ペットサウンズを骨格としたハードロック、なのである…惜しむらくも、ホワイトモールズを以てしても、ペットサウンズ的量子的音の振る舞いを、楽曲の骨格に据える事は出来なかった、せいぜい、骨格に影響を及ぼさぬ装飾としての遊びとして散りばめるのが、此のアルバムでは精一杯であった、と、苦汁を飲んで、断じなければならないのである…
ホワイトモールズが楽曲をポップにまとめたから、と云うのではない…此の場合のポップも楽曲の達成の一部であって、楽曲の肝はポップでありながらも逸脱でもある事を主としているのは小生も承知している…にも関わらず、なのである…ならば、どうすればよいのか…ホワイトモールズはそうはいっても…ある程度堅実な連続性を保証されたリズムを前提として、其の流れの中で、量子的な振る舞いの切断=接続や、巧みな音の始末を装飾的に事後的に散りばめており、其れは其れで実に啓蒙的な稀有な達成である事には違いないのだが…楽曲の構造そのものが非線形且つ非連続性(=非線形且つ非連続である事が線形且つ連続である)ではなく、ある程度の線形性と連続性を前提としている漫然たる作曲態度は否定できないから、一種の限界ではある事から免れないだろう…リズムの骨格自体を量子的にしたら、楽曲そのものが崩壊したり前衛音楽に収容される閉塞感に陥るのではないか、と云う懸念が付きまとうが、現実として量子で出来ているらしい我々の現実は知性と感覚の両面において古典力学と量子力学が共存した処の、「こういったもの」である以上、崩壊とか構造が意味をなさない境地が必要になるのだろう…其れを説明するには…小生の渇望である、「ペットサウンズを骨格としたハードロック」という処の、ハードロックとは何か、への回答、即ち、小生の頭の中ではだいたい完成しているが、いまだに執筆できていない課題への回答が、改めて待たれるのである…ハードロック、と云う事が、即ち、イエスとフーとツェッペリンを同時に聴く事とは何か、が、渇望する達成への鍵となろう。別に、ソフトだから駄目だ、と云う意味ではない。ソフトとかハードと云ったジャンル的区別は無意味であり、ホワイトモールズは通俗的にはソフトサイケに分類されるかもしれないが、その辺の自称ハードロックに比べてはるかにハードロックとも云えるし、ハードを、困難、と解するならば、ある程度の困難を達成しえた、立派なハードロックとも云えるのである。筋金入りのロックである。しかし、其れでも、小生の渇望への道標になったとはいえ、渇望の標的そのものには至っていないのである。益益の今後の活躍を期待する次第である。末筆ながら黒の揚羽蝶…いつまでも心にヒリヒリ浸みるように傷み続ける哀切であった。
話は変わるが…数年ぶりにまたテレプシコーラを読んでしまい…チカちゃんの事で不覚にも涙ぐんでしまう…山岸先生が…畳み掛けるように…チカちゃんの死後…「此れがチカちゃんだったら」「チカが生きていたら」と、度々、生前チカちゃんが輝いていた踊りの姿を活写するから…悲しくて。ユキちゃんのコリオグラファーとしての才能を到底見抜く事が出来やしない先生五嶋の愚昧ぶりに改めてムカつきつつ…。
ズルイズルイス大場(bass, chorus)
がっちゃん(drums, chorus)
ゆら田ゆら美(organ, synth, chorus)