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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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命の果て…

生と死のギョウソウが剥き出しになる現実が次から次に押し寄せ…一切の思惟や感情が消尽した果てに尚も佇む寂寞のみが…近頃は空しく己を満たす…今は週二回ほど…摘発後にどうせ書かされるだろう自白調書の下書きにおめおめと取り組むが(比喩的な意味で)…例文を見ただけで往年の吐き気を催し、虫唾が走る虚脱感に襲われる…其れにしても日本語学者どもめ…今となっては後悔ばかりだが其の時の判断からすればやむを得ない見通しに基づいて日本語の根幹に探りを入れていると…横柄で傲岸な書きぶりで論理の徹底が投げやりな事が日本語を語る事だとばかりにその場その場の思い付きで矛盾した事を書き散らす大先生や大家と呼ばれる専門家のふしだらな仕事ぶりも目に余るが、なかなかの慧眼ですっきり理論を組み立てているにもかかわらず大先生の仕事に直接ケチはつけまいとする忖度によって折角の成果が韜晦に紛れている不本意な論文もあったりで、文法家ごとに用語や定義を好き勝手にでっち上げるから、本当に日本語の根幹と云うのは、腐り切った泥沼状態にあり、そうと知らずに自分は巻き込まれ、自分なりにけりを付けるまではおいそれと抜け出せないから己の成果が一向に上がらない恨みが鬱積している、日本語業界に対して…。日本語文法のこうした迷妄ぶりもまた、他ならぬ日本語文法の本質の現れではあるが…だいたい、令と書いてウルワシイなどと訓ずる事で人心のとまどいを鎮めようとして政権に媚び諂う、阿諛追従も甚だしい御用学者もいるくらいだから、其の救い難さと云ったら…権力のためなら学問的良心さえもかなぐり捨てて構わない厚顔無恥の巣窟が日本語学界であった事を忘れていたよ…云うまでも無い事だが…令和は和を令する意味であり、要するに政権に異を唱える者は和を乱す者として排除する事を宣言したに等しく、史上最悪の年号である…政権が天皇制を利用して国民主権を否定したにも関わらず此度の改元を奉祝する愚民しか社会的に表出しえない全体主義状況の先鋭化を今更指摘するつもりもないが、日本語あるいは漢語の本義に戻って反駁しておくと…令と云う漢字は天から降りてくるものに対して人間がひれ伏す図を形象したものであり、此の事から、令の本義は使役であり命令である。元号発表直後、国民の心中に掠めた裏寒い感覚は、天皇制の権威の下に政権から一方的に命令される御代、に対する違和感、底知れぬ嫌悪感以外の何物でもなく、だからこそ発表直後は、手放しで奉祝する構えでいたテレビスタジオに控えていた出演者は肩透かしの戸惑いを露わにし、且つ同席していた国語学者どもは、「令は使役の意味ですけれども…」(誰か忘れた)「いや、此れは難しい意味ですね」(金田一秀穂)などと、すかさず政権や天皇制に忖度して歯切れ悪く口ごもる寒々しい瞬間があったのだ。しかし其の後、ガース―が由来を説明した時、令は美しいと云う意味、などと嘯いた処、元元無批判に奉祝するつもりだったメディアは、先刻の刹那的な違和感を払拭しきれぬまま其れを誤魔化すかのように一斉に、令=うつくしい、だからうつくしく和すると云う意味だと云う政権の見解に飛びついて、傍目にもわざとらしさが鼻に衝く安堵を演じて予定通りの奉祝に切り替えたのであった。だが、日本語の本義から云って、和を令すと云うおぞましさは、此の政府見解によって誤魔化す事は出来ない。政府見解は要するに、令と云う字には、使役の意味と、美しいと云う意味の二つが並列である事を根拠にしている。二つの意味が同格だから、用途に応じて選択すればよく、年号では美しいと云う意味に取った、と云う云い訳である。しかし、令の本義は使役である事は動かしようのない言語学的事実であり、美しいと云う意味は、使役の意味から派生された副産物に過ぎないのである。権力構造の上部から与えられて其れに従う事が令であり、そうした権力構造の上部から承認されたものを美しいと云っているに過ぎない。つまり、使役と美しさは、使役を根拠とした直列の関係である。だから、いくら令の字に対して美しいと云う意味を強調しても、使役の意味は払拭されないどころか、寧ろ令を美しいと訓ずれば訓ずるほど、其の本義である使役の意味が濃厚に現前するのである。だいたい、令和の令は令嬢とか令息の令で、立派なと云う意味だと云うが、エタ、非人や小作農の倅や娘を令息や令嬢などとは云わないように、権力上層部からのおぼえめでたき存在をほめそやすのに令の字が使われるのであって、一般的な美を表示しないばかりか、特権階級の有り様のみを美しいと見なす差別的な字である事は確かだ。にも拘らず総理安部は、典拠を恣意的に解釈して、国民それぞれが美しく花開く事を願って云々と嘯くが、令の字に、国民それぞれの美しさを肯定する意味は皆無であるどころか、権力上層部の意図のみを美しいと云って肯定する、国民主権とは真逆の意味でさえあることを、例によってぬけぬけと公言する。無論、国民主権を否定し特権階級のみが主権を振るう世を願う政権にとっては此の意図を十全に理解した上で、ある種挑戦的に元号を選択したのは明らかだ、天皇制の政治利用さえも既成事実化して。そして情けなくも、そうした意図を忖度する政治的読解能力にだけはさもしく長けた国語学者どもは、令の本義をわきまえながらも、政権の意図を汲んで、令には美しい、立派だと云う意味もある、などと並列の欺瞞を吹聴する事で、和を令される国民の心理的違和感を慰撫し、誤魔化し、なだめすかす役割を買って出た。権力に媚び諂って学問的良心をあっさり捨てて、学問的権威を利用し、嘘の見解を流布した国語学者どもの罪は大きい厚顔無恥である。そんな中、改元発表直後、薄ら寒い奉祝ムード一色に墨を差すように、私が述べたように明確に敢然と令和への異議を唱えたとある文献学者は其の後、メディアからぱったり姿を消した。其の学者は、自分がこうした発言をする以上、相応の報いを受けるだろう事を予め其の場で言明した勇敢な知性を吐露したのだが、結果、其の通りになった訳だ。顔は思い出すが名前が出て来ない御方…確か東大の古文書の研究所の人だったような…こうした事の社会的歴史的意味を全体的に全身で一瞬で感得した私は其の直後、心身に不調を来たしたのであった。敵ながらも見事だな、と、ガースーの政治的手腕を認めない訳には行かなかった。自民党にとって元号とは、ゴキブリ退治のバルサンみたいに日本国全体に充満させてリベラル害虫を燻り殺す政治手法なのだろう…令和と云う元号の毒は確かにピンポイントで私の心身を射抜き、自律神経を侵して過呼吸と動悸で苦しめてきたのだから…となれば、時期総理はガース―だろう。そうなれば、隙だらけだった総理安部とは隔絶した隙のない大人の政治的手腕によって、文字通り和を令されて、いつの間にか雁字搦めに翼賛体制が構築されるに違いない、と云う未来さえも幻視したから、心身に不調を来たした四月なのであった…立ち直るのに半年かかったが、マジで死ぬかと思った…其れにしてもこんな事だから日本語学界は、日本語と云う国語の根幹についての明確な理論も樹立できない体たらくなのであろう。外を歩けばいつの間にか、金木犀の香でいっぱい…土中から突き出る彼岸花は、無から有の創造を思わずにはいられない…

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本日休載…

気乗りせず…次回は9月29日です。

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出頭か…

先週、生命の治安維持法に摘発された云々と記述したが、具体的には、生命の裁判所が、生命の治安維持法を根拠として、生命公安からの逮捕状請求を正式に受理した模様、とでも形容すべき事態であり…其の事を知った私としては、おとなしく自ら出頭すべきか、悪あがきで逃亡を続けるべきか、迷っているのが目下の状況と云える…出頭しても地獄、逃亡しても地獄で、どう足掻いても地獄から逃れられそうも無い現実だけが日常であり、そうこうして手をつかねている間に、摘発の魔の手が決定的に戸板を叩く時刻が迫っているのはよく分かる…表層的に事態が好転しているように見える些細な事柄もありはしたものの、其の程度の些事に、事態の決定的な好転を期待するほど楽天的な状況でないのは自分自身が知悉している…こうした苦境において、自分の野心を白日の下に公にする努力への集中が如何にも困難に思えてしまう弱気に、心身の元気が抉り取られているのは否めず…其の野心、其れが実現すれば人類史上決定的な成果になるであろう野心を仕上げるための直接的な努力は差し置いて、其の準備段階に過ぎぬ論文だけでも、何とかものにすべく、論文としての体裁を整えるために参考文献を取り寄せたりしてしまったが…及び腰の逃げの姿勢なのか、最低限必要な処世術なのか、最早判断できない…本当は、野心を進捗させる直接的な仕事に集中したいと云う未練もいまだありつつ…一方で、其の論文一つとっても、うまく行けば極めて重要な知見の成果である事も分かっているから、惑いは猶更深く…とは云うものの、論文などと云う小手先の書式などとは比較にならぬほど、其の野心の成果は絶対的なのだが…結局どちらにも集中できずどちらも中途半端に終わる事だけは避けたい…愚かな日本政府は、早く金にならない基礎研究を蔑ろにして小手先の応用研究にばかり補助金を出しているようだが…世界の潮流は何と云っても基礎研究重視であり、なぜなら、基礎研究の成果こそが、決定的な技術的優位を確立させる事を理論的に熟知しているからで…小手先の応用研究にばかり投資しても、小手先の成果などは直ぐ追いつかれて何の意味も無いとする見解が国際常識なのだから…惑いの九月、月明かりはこうこうとして…それにしてもヤクルトの村上すげーな。確か宗隆と云う、戦国武将みたいな名前にも好感が持てるし…長野は九月になってようやく活躍しだしたが、遅すぎるよ。うおっ、日も落ちた六時半、いきなりツクツクホウシがベランダで鳴き始めたから糞うるせー。

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生命の治安維持法に摘発された

ずっと其の兆候は散見され、気付いていたし、其れを漫然と放置していたのも他ならぬ自分であるが…お盆休み以降、人生苦、生活苦を増強させる事態の悪化が、最早誤魔化しようのない厳然たる現実として肉迫している…つくづく、現実と云うのはすげえな、と、水難者がついに沈む無力への無念と諦念と共に憔悴しきった感慨を自嘲するしかなく…確実に、私の精神の活気を抉り取るのに最も的確な方面から処置して来る…私本人を責め立てても効かないから、其の周辺の物事を人質のようにしてじわりじわりと苦しめて来る…そういう状況になっているのは他ならぬお前の責任だと云う理屈に私自身も抗えないような状況さえも巧みにこしらえて、尚且つ、其の理屈も含めた状況の成り行きに対して私自身も異論を持ちようがない形に自然に嵌めて、諸共に苦しめる此の人生苦よ…もっとも、此れまで相応の猶予を与えられる感じで大目に泳がされていた現実もあるから一概に怨恨の対象とするのは不当だとの理屈にも、異論を持ち得ないのだが…実際、自分が心底難儀だと思い、自分を徹底的につけ狙っていると被害妄想しているのは…国家主義や全体主義や資本主義などと云った上っ面の社会的人事ではなく、今となってはそんなものは眼中になく、寧ろ此れらを根拠づける運動でさえある生命の原理であり…今や…国家が成立させた治安維持法に摘発される以前に、より根源的な、生命の治安維持法に摘発され、処罰される予感が、遁れがたい現実味を迫らせ、ついに、令状を持って戸板をどんどん叩かれている暗澹たる気分だ…法が法であるならば全てが法の通りに始末がつくのならいいのに、わざわざ法から逸脱する者をこしらえて、其の逸脱者の存在によって法の存在も自己確認される茶番に不当に付き合わされた感覚ならば其れはまだ他人事のような受け取りだから心に余裕があるが…一方で自己の責任をも痛感させ、尚且つそうした痛感が自由意志の根拠にもなっている手の込んだ仕組みには、吐き気すら催せず、言葉を失う…だいたい、国家や社会に対しては少なくとも見かけ上、振る舞いや心情において抗う事はできるのだろうが、そもそも生命と云う大きい流れ、自分の心身も否応なくがっちり属している其の流れに抗う事など出来るのだろうか…それをやりおおすのが意志であるとの立論にしがみつくように思想してきたものの…だいたい、出来たとして勝ち目はあるのか、勝ち目とはどんな状態なのか…心理的な暗転に次ぐ暗転が収まらず…周囲を地獄に落とした鬼畜の所業として健全な生命どもから袋叩きに遭う被害妄想と現実の区別などつかない…無論、以前に覚悟した際、自分が鬼畜である事は既に十分自覚していたが…自覚が苦悩を薄める事は無く、寧ろますます先鋭化させ己と周囲を無益に傷つけるのもまた分かっていた事だ(秀吉から橋立の茶壺とお吟を所望され、茶壺を渡さずお吟を差し出した利休の独白「わたしは鬼畜になってしまった…」)…いずれにせよ、遂に年貢の納め時、潮時の第一波が来たのだろう…此れを開放させれば爆発的に成果が上がるはずの一筋の光を後生大事に胸に温めたままだから、生命の治安維持法に抵抗するには此の一筋の光を期待とするしかないのだが…事此処に至っては…其れを起爆させる装置としての私の精神が持つかどうか、踏ん張り処が毎日瓦解する毎日に耐えられるのか、耐えている猶予は無いはずの処に築くのが踏ん張り処だから、あがくだけあがいて、苦しみもいつかは過ぎ去る、諸行無常を信じるしかない…ついに私が、生命の治安維持法に摘発されたのは疑うべくも無い事実だ…ならば…むしろそれゆえにこそ…往生際は悪くなくてはならぬ。

それにしても、此の状況下で、万延元年のフットボールを読むのはさすがにきつい…大江作品の中でも沈鬱な有毒性が最も濃厚で…しかし結局、己自身の痛みをわざわざ増幅させるようにして読んでしまうのは作品の力なのだろう…NHKの100分de名著で、ちょうど、燃え上がる緑の樹をやっているが…最も緊密な成功を収めているのは万延元年のフットボールか、同時代ゲームだろうに…燃えあがる~も面白いが、何より万延元年~がテレビ的に忌避されるのは、十分な理由があるだろう…あの中には、谷間の者から、スーパーマーケットの天皇と呼ばれる成り上がりの朝鮮人が登場するからだ…時局柄、あまりに物議をかもし過ぎる直截的な設定が、数十年の時を経て尚アクチュアルに蘇って今の日本社会に有効な、現実と作品との過激な衝突が想像される。

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四面楚歌は青空を見上げて

真実…現実を現実としてとらえること。
虚構…非現実を非現実としてとらえること。
妄想…非現実を現実としてとらえること。=現実を非現実としてとらえること。
だとすると…真実を直接把握する事は不可能なのだから、真実と対偶?関係にあるらしき虚構を通して真実をとらえる虚構に甘んじるしかないのだが…問題は虚構と妄想の違いであるにしても、所詮は虚構に過ぎぬ閉塞感の要因の一端を担っているとはいえ、其の閉塞感の責任を負って生きている訳でもなく寧ろ天下の往来を闊歩する気概に満ちているにも関わらず、己の外部からどしどし陰鬱にやってくる閉塞感はほとんど天災のようにしてやってくるから、結局は閉塞感が心理と云う身体を与えられて常態化しようとする隙の無さにこそ、閉塞感を感ずるようになっており、日増しに苦しさを増す自責の念に逼迫する…にっちもさっちもいかないとの思い込みの壁からふと上を見上げれば、青い光さえも突き抜けた暗闇の宇宙と、其の星屑が無情であろう…二週間前に痛めた右わき腹から右胸にかけての肋骨間神経痛は、蟻一匹ほどの影響力を残すのみで治癒が見えて来た感じもあり…痛みがカナブンほどの影響力で、其れの消失の目途が見えない状況にもかかわらず、近所のレベルの低いプールで泳いだのが功を奏したのか…悪化する懸念もあったし、事実、其の後、痛みが増大したのだが、一晩後は先述のように良い方向に様相が変わる…

ここ十年ぐらいは物理学、数学、文法学、最近はウイルス学などの本ばかり、半ば嫌々ながら読んできたが…此処に来て猛烈に小説が読みたくなり…昔から読み慣れてはいるが中身は上手い具合に忘れているのを手に取る…万延元年のフットボールと流離譚を同時に…今となっては改めて新鮮な気分に意味の着眼も鮮明な自由を獲得し、自己に有意義な成り行きを認める…そうなると、あれも読みたい、これも読みたいと、移り気が活性化するが、此れもまた、いかんともし難い閉塞感の結果なのだろう…

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痛みの積算…そして浜木綿の其の後

此の頃はもう…一度身体に発覚した痛みは、時間が経っても治癒する事無く、次々に発現する痛みが積算される感じで、気が滅入る…先週、レベルの高いプールでの無理がたたって右胸の肋骨あたりが痛み、一週間気を付けて安静にしていたが、少し軽減した程度で、痛みが本格的に引く兆しが見えない…病院に行った方がいいのだろうか、ただの筋肉痛だと恥ずかしいけれども…其れに加えて、弱り目に祟り目で、内在する人生苦や生活苦が日増しに表面化する事で心身への打撃が兎に角積み重なり…晩夏なれど憂鬱だけは常に目新しく…気分の落ち込みが甚だしい…本日は此れにて。

発芽後、葉が成長した浜木綿…植えている茶碗に白い画用紙が巻いてあるのは、真夏の直射日光によって茶碗が物凄く発熱しているのに気づき、根が熱で枯れるのを恐れての処置…こうすると、比較的、茶碗の発熱が抑制される事は手で確認済み…しかしそろそろ日が弱くなってきたので、外してもよいかも…。




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筋肉の世界へ…

此の処、週一のペースで、習慣化に向かうべく水泳を持続出来ているのは、心身共に紆余曲折あった今年の中でも特筆の事なのだろう…昨日は故あって近所のプールではなく街中の総合スポーツ施設みたいな処に道場破りの態で乗り込む…細君は故あって、見た目には大仰に見える筋肉造成器具が集成したトレーニングジムで体を動かす事になり、私は併設のプールへと分かれるのだが…大抵のプールは、親子連れが水遊びするレーンと、腰痛持ちや御老体が水中ウォーキングに励むレーンと、ストイックに泳ぎ続ける人用のレーンに分かれるが…其処はプールの深さが3mもあって何ならシンクロナイズドスイミングの練習すらも出来ると云う本格派で、深過ぎて危険だから当然親子連れや水中ウォーキングは御断り、ガチで泳ぐ者のみが自己に沈潜しながら専ら鍛錬に励む、予想外にハイレベルの場所だった…3レーンほどはスイミングクラブが専用しており、鍛え抜かれた腹から出てるから断続的に場内に矢鱈と響き渡るコーチの掛け声に早くも気圧される以上に、クラブの連中の泳ぎっぷりの、弩迫力の水しぶきの高さにも閉口を禁じ得ず…泳ぐと云うよりも、水上バイクみたいに体の半分程が水面から浮いて見えるくらい暴力的に勢いを余して水を耕運機で開墾する具合に驀進するクロールで休みなく追い込む気迫…そうはいっても一般市民のレーンも残されているが、そうした性質の場所柄か、利用者は案外少なく、1レーンを占有して泳ぐ事が出来たのだけは幸運だった…しかし、此岸には水中に高床が設けられて足で立てるものの、彼岸には足場は無く、レーンを仕切るプラスチックに掴まれば問題ないものの、泳いだ疲労を抱えて彼岸に到着した途端に足がつかないのは一抹の恐怖であった…何よりも辟易したのは、此のプール系においては、クラブの人と、少数の市民も含めて休憩する者が一切存在せず、ただひたすら往復で泳ぎ続けなければならない雰囲気で…しかも、入場時から係員に言い含められた事として、泳力が足りないと見なされた者にはお声掛けさせていただく、と云う厳しい掟めいた忠告も、実感を以て思い出され、四方から監視員に監視されているが、其れは、溺れる者を早期発見する目的もあろうが、其れよりむしろ、彼らの内的基準に照らし合わせて、此の場で泳ぐ事が許されるほどの力量を備えているかどうかを見極めている意図の方を強く感じる、そうした鋭い視線を浴びながらであったから、…普段だったらこまめに休憩を入れつつ自己流で泳ぐのに、其処では皆と同じく殆ど休憩なしで泳ぎ続ける羽目になった45分であった…其の後、案の定、左肋骨よりも内側の何かが、今まで経験した事の無い痛みを引き起こして今に至る…単なる筋肉痛ならばよいが、過度な運動が引き金になって、心臓まわりの主要な血管系に異状を来したかのような疼痛にも覚えるから、年寄りの冷や水と云うほどの年でもないにしても、気を付けねばな、と自省する…

JAが製造している八朔サイダーと云うのが、炭酸の爽快さと八朔のほろ苦い甘味が絶妙で、愛飲しているのだが…此れに、何ぞアルコールを添加すれば尚一層よろしいのではなかろうか、とよからぬ思い付きに立って、スピリッツ、と云う、新たな酒の分野に触手を伸ばす…カクテルとかに入れるものなのだろうか…其れ自体は高濃度のアルコールで噎せ返るような蒸気を放つが、八朔サイダーで割ると、アルコールとしての存在感をきれいに消して、あくまでもサイダーと果汁の風味を引き立てる…だから飲みやすいが、しかし蒼然と強烈なるアルコールを含有している事実はあるから、酒に疎い娘などにこんなの飲ませたら確かにいちころだろうな、と、危機感を覚えながらも、猛暑の飲料として既に重用している…酒については保守的な性分で、ビール、日本酒、ワイン、ウイスキーの四天王のみを傍に置いていたが、此処に来て此れまた新展開。

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発芽!



去年の宮崎旅行の折、青島で拾った浜木綿(はまゆう)の種…栗の形したマシュマロといった風情で…今年の四月頃植え付け、土が乾いたら水をやる日々だった…しかし六月になっても芽吹かずに、諦め、……其れからは水やりも中断し、もうそろそろ処分するか、と、一月ぶりぐらいに、遣る瀬無い思いで嫌々眺めやると…少し種が浮いているように見える…ふっと気付いて、種の廻りを少し掘ってやると、三センチメートルほどの長さの、根とも芽ともつかぬ緑色の突起物が水平方向に生えていた。何なのか調べてみると、どうも根のようであり…根を先にしっかり土に張り巡らした後に、根から芽が分岐して地上に出る算段らしい…浜辺などの過酷な環境に耐える植物ならではの、周到な作戦が伺えた。しかしとうに水やりは怠り、しかも雨が入らないベランダだから土はカラカラに乾いているのだが、梅雨時期の濃密な湿気に反応したのか、ようやく活動期に入ったらしく…歓喜もひとしおであった…というのも、発芽せぬ不発の浜木綿の沈黙が、我々の生活に暗い影を落としていたは確かで…床が軋む、網戸が劣化してぼろぼろ、エアコンの黴臭がひどい、バカ犬がうるさい、などの些細な事から漠然とした先行きまで、いろんなところで限界が来ている閉塞感に加え、寄る年波の心身の不調が加速する生活苦の暗雲が足音立ててやって来る日々におののく元凶のようにして、芽吹かぬ男としての小生の存在が通底する訳だが…其の事を追認するメタファーとして、芽吹かぬ浜木綿がそこはかとなく、しかしいやに露骨に顕在化した具合だったのである…其処へきての発芽、と云うよりも発根は、其の薄ら寒い定説をひとまずは覆す小さな奇跡であった…しかし、発根したものの、一向に地上に芽吹く気配を見せずやきもきしていたが…発根から三週間ほどたって、ようやく発芽しました。
それにしても高校野球、宮崎の富島高校のキャプテン、脚速いな。強豪校との対決ではあったものの…一塁全力疾走で内野安打をもぎ取ったかと思えば、同じく俊足を生かした巧みなホームスチール(?)…眼前の相手選手が、ボールを取る瞬間における、まさに其の時間の一点では相手選手の動きが止まる、其の一点に至る直前で、観念したかのようにスピードを緩めたかと思いきや、動きが止まる其の一点に付け込んで瞬発的に猛ダッシュして相手をかわすと云う…ボールを取る瞬間は体の動きが止まらざるを得ない、と云う物理的条件を利用した、理に適った作戦が鮮烈であった…そして、一塁全力疾走、で思い出すのは、どうしても、一塁全力疾走を怠ったと見なされた野間が緒方に張り手撃ちされる、そして其の後の試合で、若手投手のアドゥワが一塁全力疾走して内野安打をもぎ取り、試合の流れを呼び込む、みたいな、本来ならばファインプレーとして素直に称賛されるべき事にも、野間の事があったから、と云う風に、野間の一件が影を落とすように思い出されはするものの…此の処の勝ち続きを見るにつけ…暴力だろうがなんだろうが結局はチーム内のある程度の緊張感が勝利を齎すのか、と云う即物的な結論が妙に説得力を持つように感じ、割り切れぬ思いもする。

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打ち上げ花火、近くで見るか、遠くで見るか

なるべく政治的な情報を自分に入れまいとして意識的に遮断していても、テレビを1秒見ただけで其の手のニュースが、コンタミのように侵入するから油断ならず…少しでも政治情報が体に入ると瞬時に怒りで沸騰するほどむしゃくしゃに掻き毟られるから…先週は港付近で恒例の花火大会があり…しかし現地まで出かけると人ごみによる地獄を見る事が必定なので、地図を眺め…方角と地形を考慮して、遠くからでも花火が見えそうなスポットを予想する…駐車料金が有料ではあるものの、遠くに港付近が見おろせそうな山腹の運動公園に狙いを定め…モスバーガーとスムージーを買い込んで、夜八時前に到着…花火は八時開始九時終了、公園の閉演時間は夜九時なので、鑑賞時間は十分確保される見込み…到着すると…多目的施設のようなところで、恐ろしい大音量で和太鼓の練習に励む者らが山々に遠慮なく太鼓や横笛、腹太い掛け声などを響かせており…我々にとっては些か過剰なほどの演出が整っていた…さすがにうるさすぎて風情どころではないので、少し上った処に潜むあずま屋に腰を落ち着ける…其処だと和太鼓の煽りもまた予期せぬ祭り風情と相成り…街灯が付近にあるが其の光はあずま屋には届かず、星明りのみが頼りのあずま屋…細君のスマホのライトで僅かに闇を凌ぐが、懐中電灯を持参すべきであったと反省しつつ…程なくして花火開始で、実によく見えるから、予想的中の喜びと相まって、落ち着いてゆっくり鑑賞…花火なんてものは近くから見るもんじゃないな、と云う、余裕を醸した優越感に浸る…顔に激突してくる甲虫の類をあしらいながら…小さいながらも遠くならではの視認によって開いた形の特徴がはっきりと分かる大輪小輪の花火が音も無くパッパッと開き、一連のプログラムにおける一小節が終わった頃に、光との時間差で音が山々や谷筋に木魂する風情で…存分に七月の終わりを惜しむ…散るために開く矛盾を全く意に介する事無く、開く事さえも散る事に含めてただ散るばかりの打ち上げ花火…

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無題

心身の健康維持のためなるべくテレビを見ないようにしているので美味しんぼのDVDばかり見ているが…続けて視聴していて不審に思う事は…岡星の暖簾の割れ数が、回毎に異なると云う事…暖簾が四つに分かれている回もあれば、五つに分かれている回もあり…当時のアニメーターのいい加減さが目に付く…製作陣に、京都アニメーションの名もクレジットされていたが…縁起を担ぐ店屋では、偶数は割り切れるから御客との縁が切れると云う事で忌み嫌い、だから奇数を選ぶはずだが…其れは兎も角として、やはり、究極対至高が始まると、話に一本筋が通って俄然面白くなるわ…コミックスの方で悉く内容を知り尽くしているとは云え…そして…続けて見ていると更に気付いたのだが…例えば暖簾の割れ数が五つであっても、其の暖簾に配された岡星の二字の位置が、同じ回の中でも場面ごとに異なると云う、製作陣の怠惰な露骨が見て取れる…右から3番目と4番目に岡星の二字が染められているかと思うと、2番目と3番目に染められている場合もあり。
散るために開く矛盾を全く意に介する事無く、開く事さえも散る事に含めてただ散るばかりの打ち上げ花火を、穴場で鑑賞…其の顛末は後ほど。
此れで、巨人、中日、ヤクルトを三タテに制しての九連勝にはなるものの…緒方が、凡打後に一塁への全力疾走を怠ったとされる野間へ平手打ち数回、と云う暴力沙汰が暗い影を落とす…小園大暴れ…

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