忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[264][263][262][261][260][259][258][257][256][255][254]

手抜編「the damned/live at the lyceum ballroom(1981)meci-25119」夏至



 
 6月25日午前11時23分 下線部緊急追記

 ザ・ダムドのライブ版。まことにすっきりと筋を通さぬ混乱ぶり、手詰まり感のまま、何はともあれ始まったようなさわやかな開き直りとも無縁のまま、構造をはにかむ幽かな至誠ともいうべき、洗練を拒む武張ったがなりが、頼もしくも、よい。ロックと云う音楽の天然というのは、それこそつぶさに個々の星粒をきっちり見つめなければその当の星の、海月の毒のごとき光の貫きに貫かれる不名誉の証を刻まれることはないだろう、と改めて思わせてくる。星座にとらわれていては星の光輝を見出せはしない、しかし、物言わぬ星辰から星座という物語を創造せざるを得なかった人間もおざなりにはできぬわだかまりも一生、ずっしり背負いながら、というのがハード&へヴィの道程である。ロックは死んだなどと、したり顔でいう、物語に尻尾振るのが生活だと思い込んでいる志願奴隷の人々の大声への批判力が無ければ、影響あるいは継承性を拒むハードロックというものが、商業的にはパンクとも言われたりすることの無効と同時に、このダムドにおいてさえもきっちり、しぶとく、生まれてしまっていることに気が付かないかもしれない。本来的に、あの、影響、という悪しき概念に無反省に従属する大きい流れやムーブメント、物語、ロック史に限って言えばビートルズ史観、なぞに囚われていてはロックの勃発は聴こえぬし、そういう史観とは端からそっぽむく生業であって、各自が、公の教育を拒む独学でもって、まずは勝手にやってみる(政治的に言うといわゆるDIY。do it yourself)ことから世にはみ出るようになった。勝手にやってみたところで、結果的に他の、勝手にやってみた人の音楽と似てしまうこともあるだろう、しかし、似ている似ていないはこの際、言語上の分類と系統と統一をよしとする概念に過ぎず音楽の現在とは全く関係ないことである。誰かの影響でやりはじめた、という出発論も、始まりと終わりを社会化された妄想で措定した上で成り立つ、その内実は無意味な虚栄心を隠蔽する恰好よさ自慢の統一理論、韻を踏んだ作文に過ぎず、音楽にとってどうでもよい。かといって、ここでは、殊更にそれぞれの存在の固有性を強調し持ち上げようとしているのでもない。この際言語的概念も含めて相違も特徴も固有性も認識の否定も含めてそれぞれがばらばらにあるがままにあるといってもよい。姑息であれ。影響、という概念も、そうした意味で、音楽から拒まれ、付け入る隙は無い。そういえば、かつてこの王道なきロック史でサイケデリア論を論ずる際にしきりに言っていた点在する系譜という考え方であるが、既にちゃんと、世の中にあったのに最近気が付いた。小生は専らサイケデリアという芸能文化を聴き込むことで到達したのであるが、一般的には政治理論として、1950年代末には存在したようである。いわゆる状況主義である。組織されることもないし今後もそれを望まぬ、しかしある志を有する者らが各々、自らのタイミングで決起するということ、市場や公権力からの承認を根気強くいじましく忠犬よろしく待ち続けたり小奇麗で小器用なプレゼンテーションのスキルアップとやらに励むみじめな努力に没頭するのでなく、非承認・反承認のずたぼろのまま、脱兎するということ、それは文化を運動するのでなく運動を文化するということ、ブランショがいうところの、明かしえぬ共同体ということ、計り知れぬノマドの炸裂ということ、その例は文化的にはダダやフルクサス、60年代のハプニングや2000年代のプランクスター、革命後に理想社会を作るのでなく、全社会の革命前に勝手に革命後の社会を作ろうとする個別の先走りであること(素人の乱)、体制を破壊するのでなく体制が破壊された状況を生み出す事こそが直接行動であるということ(シチュエーショニスト・インターナショナル)等々、枚挙にいとまないこと。勝手に自分で思いつめて吐き出したものと志を同じくする思想が既にあったとしても、しかし、それはそれで構わぬとも思っている。それは、まさにそうした点在する思想の有り様を体験することでもあるし、加えて、似たような同志の存在を知ったところでこの明かしえぬ共同体には到底、連帯の安心感など求めようもない殺伐なのだから。ダムドに話が戻るが、もたつくリズムであって、形振り構わぬゴチャ感がいい。器楽の轟音による歌声(といっても絶叫)の埋没、というのはロックの肝心だと思う。劇団四季のような朗々たる歌唱を聴くと反吐が出て当然である。その心は、もう、言わずもがなであろう。影響は影響を自認し追認する者によってその存在が承認される従属の証である。こういうことは明治以降の近代的な学者よりも江戸時代の国学者のほうがよく分かっている。

 読んだ事は無いが鈴木先生という、なかなかにエッジの効いているらしい漫画に出てくる鈴木先生は若年のように見えるがループタイを召していた。自分を追い込んでいる人に相応しいお洒落です。

デイヴ・ヴァニアン:ヴォーカル
キャプテン・センシブル:ギター
ポール・グレイ:ベース
ラット・スキャビーズ:ドラムス

拍手[2回]

PR

この記事へのコメント

Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
管理人のみ閲覧できます
 

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

最新コメント

[04/09 VonaldaDupt]
[04/08 TrealdaDupt]
[04/08 TrealdaDupt]
[04/07 VonaldaDupt]
[04/06 TrealdaDupt]

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]