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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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自民党憲法改正草案に反対する緊急声明 骨子

喀血のようにして、吐瀉物のようにして、いちどきに、まとまりなく下記の声明をぶちまけてしまった…たかだが一冊の新書の中の数行が小生の逆鱗に触れたのである。こんなにも月が美しい日曜日。

一体に事態がここまで窮迫しているとは思ってもみなかった…中国韓国が日本の昨今の右傾化、国粋主義、軍国主義復権を批判する声明を出す度に「そんなものあるか。またでっち上げで日本をこき下ろす事で国内事情の国益を謀るのか、そんな薄汚いデマを捏造するのはやめろ、いい加減、不満があるなら中日間、韓日間の政治担当者=当事者らが腹蔵無くとことん話し合え、それをせず首脳会談を拒否してばかりいる中韓の発言はもう純然たる日本への悪意と侮辱としか思えないぞ」と内心憤っていた…しかし…間違っていた。隣国の指摘の方が最早この国の内情と顛末を言い表すのに遥かに的を射ているのだ、と、ここにきて思い至った…頭に血が上って、最近は他にも色々とクリエイティブな事績に少なからず遭遇し意識が暴走して悶悶熱く眠れぬ夜、岩国=ロックカントリーでの奇蹟や、故あってレンタルして視聴したエヴァンゲリオンの1997年の劇場版二本立て(deth/(true)2 air/まごころを君に…)のえぐい法悦表現主義のクリエイティヴ絶頂…綾波ィッ…綾波ィッ…もう、「綾波」という字面の形で心臓が動悸を打つ心電図…それに加えて、三週連続で金曜ロードショウで最新のエヴァ劇場版も初見し、クリエイティヴィティを満喫した混乱もあり、そして…長年服用し続けても効いてるんだかどうなのか分かりゃしない漢方薬のような古典乃至は古文ばっかり精読している身には些か劇薬過ぎたのだろう…個人的に抱える深刻状況を更に誘発し兼ねない情報を聴いた時には本当に心臓に穴が開いたかのように胸の奥から血流が薔薇のような放射状にジターッと浸み広がる熱く苦しい感情に襲われ、それは兎も角として同じように心臓に穴が開いたように赤熱した動悸が放射されてしまったのは、故あって本屋で時間つぶしている時に何となくたまにはいいかと思って買ってしまった薄っぺらい新書本で、「リベラルじゃだめですか?」(香山リカ 著)を一晩で読了したのが、古典古文と比べて辞書的意味が全て分かる日本語で書かれているから、文意の吸収が速攻過ぎてあまりに効き過ぎる特効薬だったのか、感情は乱れに乱れ、意識はシャットダウンせず徒に暴走しては頭蓋の内壁に繰り返し激突しては糞襤褸の血塗れになる不様な養殖マグロのように不穏なのであった。

政府自民党の憲法改正草案…以前にもその草案中の表現の自由の項について言及、批判を加えた事がある。その内容は繰り返さないが要するに自民党は表現の自由を徹底的に弾圧する、というその内容への批判だった。しかしその当時小生は、自民党の中のとりわけ頭が悪い連中がうっかりミスでたまたま表現の自由についてはそれを弾圧する文意を書いてしまったのだろう、言葉の意味が如何に理解されるかを考慮せぬ愚昧だから、と、タカをくくっていた。しかし、そうではなかった…くも膜下出血の前兆のように感情がぐらぐら頭真っ白、煮え滾り激昂冷めやらぬ憤激に苛まれた… 政府自民党は…全く以て明証的に自覚的に現行憲法の根底を叩き壊して新たな、というか旧態の国家主義国家の創設を目論んでいるのが明白となっていた…そう、ちょび髭伍長のアドルフがその著書「マイン・カンプ」において己が成すべき事を全て赤裸々に明示していたのと同じように…ひぃふっ、と、…突如…くも膜下出血の血汐が引いて行くように熱狂が解れ跡形もなくなった後の無残な低調の心情に飲み込まれながらも物を書くにはやはりこうした底辺から舐め上げるが如き構えの方が安定を増す気がする…何の話だったか…そう…自民党は極めて自覚的且つ組織的に、本気で、憲法の中枢である基本的人権の項の根幹の思想的部分を壊滅させるつもりだ。国民主権を抹殺して国家主権へと挿げ替えようとしている。国民主権は現行の日本国憲法のみならず国連憲章を始め欧米その他の多くの諸国の近代憲法で自明とされてきていたことだが、それを、あっさりと、明白に、やめようというのである。しかも、その改悪を、それとは国民に気づかせない巧妙な組織的手筈で静かに、しかし着実に行おうとしているのは必至だ。絶妙なタイミングと馴れた手綱裁きでマスコミや公安、警察、司法、財界と結託しながら秘密裏にいつのまにか世論構築し絶対的に実行する覚悟であることが、自民党憲法草案を垣間見れば一目瞭然なのである。…自民党草案によれば、国民に主権があるのではない、あくまでも国家に主権があるのであって、国民は国家の奴隷であり、国家が要求する奉仕、責任、義務を果たす国民だけが、国家から、ご褒美=餌として、極めて制限された基本的人権が与えられる、というのを明記している。引用が遅れたがこういうことだ。(「リベラルじゃだめですか?」の孫引き)

自民党 日本国憲法改正草案 添付 Q&A集

Q14 

「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務についてどのような方針で規定したのですか。

答え

(前略)権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。(後略)

自民党 片山さつき参議院議員のツイッタ―から

「国民が、権利は天から賦与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権説をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆で考えるような前文にしました!」

正気なのか。天賦人権説とは、人権が天から与えられた、即ち人間の社会関係から起因するシガラミとは無関係に、専ら人間そのものの意志のみによって生成したとする説である。この天賦人権説を否定して、公共の福祉とは別の価値観で作動する国家の恣意が人権を規定/規制する国賦人権説を取るというのか。国の歴史、文化、伝統などという曖昧な概念によって人権が規定されるという事は、そうした概念を意味づける国家の恣意が人権を規制するということと同じ意味である。そもそも憲法とは国家の上位にあって国家権力を規制し国民の主権と人権を保障するものであり、法治国家の謂いである。そうした憲法を国家の恣意の下に置こうとする事は法治国家たるを捨てるに等しい。国家が必ずしも国民に悪を成す必然は無いが善を成す必然も無い。そうした状況で、国家の恣意が国民の諸権利を蹂躙しうる可能性を憲法に仕組むという事はその時点で看過すべからざる人権侵害である。政権与党中枢から公開された文書に、このような、人間の尊厳を徹底的に踏みにじる言説が罷り通っていることへの驚愕と戦慄。こんな重大な事を、「~前文にしてみました!」などという軽い調子で済ます無神経にぞっとする。 人間は…自分らに突きつけられたあまりに深刻な事態、というものに直面した時、それをまともに受け止めた場合の恐怖と混乱を恐れて、それを見なかったことに、あるいは過小評価して失笑に付す欺瞞的皮肉的服従へと走りがちだが(いや、まさかこんなこと、本気じゃないんでしょう?的な。ナチスのユダヤ人絶滅政策を思い返せ。いくらアドルフが絶叫演説しようとも、実行に移されるまでは、誰も本気にしてなかった)、こんなのが公開されていて何故いまだに政権の支持率は安泰なのか…この状況の深刻さは小生でさえいまだ信じ難い、もう、手遅れなのかも…とすら悲観してしまう…。

上記草案の考え方の否定すべき処を改めて明記する必要など本来ないはずなのだが…全く前提が狂っている、しかも堂々と狂っているから意志が弱い人にとっては正しいのかと思わせてしまうほど、要は、人を殺しても罪になりません、と憲法草案で宣言しているのと同義なくらい、本当に笑えない、気違い沙汰だ。 何故ならこの草案の文言は、国家の統帥の名の下に人間性を破壊するものだからだ。そもそも国家とは概念ないしは機能に過ぎず、そんなものは実在しない。国家とは、あくまでも国民それぞれの幸福追求を達成するための概念あるいは機能に過ぎない。国民の下に国家が存在するのが正しいのであって、だから国家が国民の上位に来るのは根本的に誤っている。せいぜい自民党がいう国家とはGDPだの貿易収支だの出生率だのといった棒グラフや国土の絵図といった、人間の抽象の産物に過ぎないのだろう。さらに、愛国心、郷土愛などという独りよがりで不可解な観念の妄信を国家と云っているのであろう。後者は論外として、本来、そうした棒グラフや絵図を、数ある手法の中の一つの指針として、国民の幸福のために活用するものである。更に云えば、本来、国民の生活のビッグデータから得られたそうした棒グラフは単なる国民の積算値あるいは平均値に過ぎないのであって、個々の人間は一般論と平均値で生きているのではない、それぞれ固有の人生を生きているのであるからグラフが上がり下がりしようが個々の人間にとっては何の関係もない無効であるばかりか、個々の人間の人生を棒グラフの予測値に向けて統制させようとする人間弾圧である。棒グラフは抽象物であり、データである。データは常に、特定の少数の人間の解釈、とりわけそのデータの信頼性を背後で保証する権威的人間共同体からの解釈と承認を得て初めて意味を付与される。そして、ここで言う特定の、ごく少数の解釈者こそが、国家という隠れ蓑の背後で甘い汁を吸う一部の特権階級であり、要するに国民が国家の奴隷になるという事は一枚皮をはいで見たらば国民がこの少数の特権階級の奴隷になるという、民主制の暈を来た古色蒼然の専制独裁なのである。甘い汁というのは、恐らく、国民が国家に奉仕するというスペクタクルショーを安全な高い場所から独占的に楽しめるという自分中心的な倒錯的思想的悦楽と、そうした専制の旨みとしてもたらされる税収やそうした専制と当然ながら結託する市場経済からの進物としての利権であり、この甘い汁にあずかれるのは、国会議員と治安系公務員(司法も含む)、財界と天皇である。そういうシナリオが見え見えである。

だいたい、国民の権利が共同体の歴史、伝統、文化から徐々に生成された、というのは一体どこの歴史をいうのか。そんな事実は歴史上存在しないし、自民党の、悪びれないほど露骨な虚構である。伝統や文化から人権は生成されやしない。人権は専ら、伝統や文化といった惰性の現状肯定からは生成され得ず、現状に反し現状を変革しようとする意志ある人間の思想の産物である。基本的人権はブルジョア革命の過程において非連続的に生成し、一方的に宣言されて生成したものであり、共同体の慣習から無意識に連続的に醸成されたものではない。そこに至る様々な経緯の蓋然性は説明されるだろうがだからといってその説明で決定的な生成を明らかにすることは不可能であり、少なくとも生成という一点をとってみれば絶対的に非連続的非線形であり、まさに人間の意志の樹立といえる事こそが、西欧の、革命たる所以である。ルソーなどの個人が紡いだ思想がその萌芽をばらまいた、人間の人間たる思想の樹立である。他の諸国は日本も含めてその啓蒙思想の結果だけを受動的に導入したに過ぎない。基本的人権があらゆる理屈からのこき下ろしを排除する、理屈無しに人間の人間たるを保証する人間の意志であり近代の人間そのものなのである。そうした成果を頭ごなしに否定する野蛮な言説に負けることは出来ない。人権が国家の歴史、文化、伝統の理屈によって規定される時、人間は国家の、そしてその背後にいる合法的既得特権階級の思うがままの奴隷に成る事を強いられる。人権が国家の理屈や恣意で左右されるならばそこには最早、思想・信条の自由も表現の自由も抹殺されるだろう。思想や信条というべきものは国家の恣意への批判以外に有り得ないからだ。帝国憲法の顛末を見るべくも無く、憲法によって、装いも新たな治安維持法や国家総動員法が合憲になるだろう。これはもう…断じて許される文言ではない。

今ここで慌てふためいて反論に打って出なければ一体いつ人間を「取り戻す」のか。事態が成立に向けて「熟成」してしまってはもう成立したも同然であり、手遅れであり、如何なる反対論も抹殺されるのは目に見えている。反撃反論するのは、本当に今しかない、どうすればいいのかぱっとは思い浮かばないが反論の論陣を張るなどの実力行使するならば今しかないのである。

結局…基本的人権の啓蒙思想はまさに全く寄る辺ない人間の意志に依拠するものだから、意志と云うものをもたない人間が多数派を占める国家であるならばそれが瓦解するのは時間の問題だった、という事に尽きる、という絶望状況を直視しなければならない。そこに人間の意志は無く、主義でもイデオロギーでも何でもない惰性に過ぎない資本主義と市場原理に惰性で流され盲信、追従する多数派…上記の憲法草案の文言自体に問題があるのは当然だが、問題の本質はもっと根深い。民意を汲み取り先取りすることに長けた政権与党が作成した草案なのである…大多数の国民が、あの文言を一笑に付し、否定し去る状況というのか空気というのか、兎も角そういう状況であれば取り合えずあの文言の卑劣のみを批判しさえすれば事足りるのである。本当の問題は…あの憲法草案が、国民投票で承認されかねない、という一抹の不安を否定できる状況に無いことである。通過する可能性が、事ここに至って、時局として生じ始めたのである。文言を孫引きした新書…表層的な現状分析ばかりでなぜ今リベラルが瀕死なのか、の根底を探るには至っていないが現状分析としてリベラル勢力が弱小化しており、その挽回を図るのが極めて絶望的なほど、国家主義的「空気」が濃厚なのである。国家主義、惰性主義が多数派を占める現状日本なのである。あの手この手でどうあがいても今の日本ではリベラル勢力の復権が困難になっているという状況分析はよく分かった。ただし、なぜそうなったか、は、この新書では突っ込みきれていなかったが、小生の私見だと理由は単純である。安倍首相が日銀政策によって円高是正に成功した、という、数値ではっきりと示せる成果を出した、この一点に全ては起因するといっていい。円高是正→円安化への成功が、一挙にこの国の空気を変えた。アドルフをはじめ、ファシストはいつの世でも経済政策がうまいのだ。経済さえうまくやれば、「満足する民衆=時代の空気」の力を借りて、他の政策へのリベラルな異論の封殺など一気に片が付く。

自民党のやり方としては、現状を政策で以て憲法の精神に合わせて合憲にさせるという立憲主義とは真逆に、憲法を現状という既成事実に合わせる企みである。そして、これは陰謀説めくがあながち昨今の状況を見ると間違っていないと思われるが、政府が法整備に先立って懇意のマスコミなどに情報をリークすることで現状からの反応を見ながら情報を小出しにして現状を法に合うように成型加工した後に、その既成事実=民意をより盤石に固めるための総仕上げとして法案成立させる、という最悪の手法である。情報化社会とやらの実情は此れである。特定秘密保護法案、生活保護法改悪、派遣労働者法改悪、配偶者控除廃止の動き…。自衛隊は軍隊であるのは既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。日米安保は集団的自衛権行使という既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。そして最終的には…多数派の国民は意志を持たず思想・信条の自由も表現の自由も必要としていない、さっさと奴隷に成りたがっているのが既成事実なのだから憲法もそれに合わせる。即ち国民から、少数者が口やかましく言い張る基本的人権を憲法から剥奪する。そういうシナリオである。さらっと書いてしまったが、そう、結局…日本人の中では既に、思想・信条の自由や表現の自由、言論の自由が必要だ、と考える人間はごく少数なのである。そして、唯我独尊生存欲求⇒金儲け⇒市場原理の惰性に汚染された多数決民主主義において少数者の権利保護という観点は消失する、というか保護しなければならないという、人間の、ある種惰性に反する意志を樹立することが出来やしない、意志薄弱の多数派からすればそうした保護政策をリストラするのが必然なのである。かつて吉本隆明の転向論から想起して小生の「荒み宣言」にも書いた事だが、食うに困り空襲に怯えども基本的人権など無くても困りやしない、それなりにぬくぬくと狡猾に戦時中を生き延びていったのが、「大衆という実存」なのであった。

もっと言えば、国家の背後で甘い汁吸う特権階級、と云う風に最終原因を前述で措定したが、それさえも本当は虚構に過ぎない。安倍氏、石破氏を政権から引きずり落とせば事態の悪化が防げる、というものではないのである。しかしだからといって、安部氏、石破氏などという政治家個人を眼中に置かぬ超然主義はただ隷属を待つのと同じである。彼らとて、彼らに協力する数多の権益団体とて、その行動原理の主体は…煙に巻かれている…それこそ、…戦時中によく云われた、開戦前夜の「空気」みたいなもので…その空気がある一線で絶頂に達した時、状況は一挙に傾斜する。小生は何も自民党の政策に片っ端から反対と云っているのではない。政策によっては悪くないのもあろう…しかし、この憲法改正案だけは断じて許す訳にはいかない。という事は、最終的にこの憲法改正草案を成立させるために少しずつ外堀を埋めるが如き、政権与党の、実に巧みな、隠密裏の、「空気作り」「既成事実化」の煽動工作の一つ一つを丹念に発見しては過敏に反応しなければならないだろう。この改正草案が国会に提出された時、それは、国民投票も含めて「この草案が成立する」という確信を政府与党が得た時である…成立させるための地ならしに、今の与党なら余念はないだろう…今はその地ならしが少しずつ、それとは気づかずに行われていると見るべきだろう…口の軽い麻生氏が「ワイマール憲法をいつの間にか無効にしたナチスの手法から学ぶべきだ」と発言したように。

それと、多数派と少数派、という乱暴な民衆規定のせいで、少数派にとっての上記のような絶望状況が論理的に免れないのではないかという懐疑もあるかもしれない。だが…最早…認識とは常に人間の主体的な構成によるものといえど、いくらスマートな社会科学モデルがマイルドな共同体モデルを提起しようともそれが、ここで言われているレベルでの現状認識(存在論から問われるガチの認識論の対象ではない、ごく通俗的な共通認識…)の変更を余儀なくされるとはどうしても思えない。たとえばエグザイルや関ジャニのような下劣音楽の下に数万人集まるのに対し、8/30岩国での、これ以上突き詰めようもないほど最高至宝の音楽の下には数十人しかいない、というあられもない現実に対し、多数派、少数派という規定をしており、芸術においてのその意味は別稿を割くとして、とかく政治においてはこの規定この現実の持つ意味は甚大としか言いようのないのである。多数決だから。

時局はこれほどまでに深刻化しているとは、本当に知らなかった。その打開は、正直言って絶望的である。最早、状勢を楽観視することは慎まなければならない。戦前戦中の事件と、現在目に余る時事との共通符号を数え上げればきりがないかもしれない。それほど切迫している。最近の、とち狂ったように増え続ける、日本礼賛テレビ番組なども本当に気持ち悪い(日本の文化は素晴らしい。日本人は礼儀正しい。日本の技術は凄い、…)…国連脱退前夜に「日本人はなぜ偉いか」的な著作喧伝が溢れかえり極めつけに理論づけた日本ロマン派の勃興という事実…この絶望状況の時局、如何に生きるべきか。ガチで直面すべき時はとっくに訪れた。そのことを、8/30の、岩国ロックカントリーでの出来事を通して、涙ぐましくも、ぎりぎり、論じたいと思う。演奏が終わってしまえばその音楽は終わってしまう…記憶の中の音楽など、あの現場での現実に比べたら遺骨のようなもの…まるで無かった事にされるかのように…しかし、終わらせはしまい、限りなくゼロに近い文筆の微力で以て刻印すべし…次回、再びstand up against myself!

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