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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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今週休載のお知らせ

乾麺を八卦めかして夏の貧

ふと思い出して一句、

ひからびてなお足太し祖父危篤

終業式、夏の行楽の呼び水のような三連休…入道雲はまだ遠慮がちに山上のマンションの肩に見え隠れする小山風情ながら…時局の歯止めの効かなさは日を追って露骨になる、日常の景へと馴致せられて、しかし人間が馴致されたからとて事態が自ずと好転するなどあり得ず、事態は人間の都合お構いなく悪化の一途、そこで云われる悪化の意味合いはそうした事態の終局が畢竟巡り巡って人間の生を根本から脅かす類であっても… 百年以上前から金太郎飴のように、同じ顔した事態の、断続的勃発…国民国家と資本主義が相乗したナショナリズムの成れの果て、資源と領土の奪い合い、小さな出来事が少しずつ少しずつ積み重なって事態が一層不可避になる…国民の心情レベルで、それが「必然」へと熟成される悪夢だ…国家によって意図的に(あるいは中国によって一方的に)「出来事」が積み重ねられているのが尖閣諸島であり、南シナ海であり、最早、事態が「不可避」となってしまっているのがパレスチナ/イスラエル、あるいはシリア、イラク情勢…今まさに「不可避」の頂上に向けて「出来事」が積み重なりつつあるのがウクライナ…旅客機撃墜…決定的な一撃にならなければよいが…

あ、気持ち悪い、見たくない、だから見たくないものには蓋をして見ないようにする怯懦が真顔で臆面もなく罷り通る…平和公園の原爆資料館リニューアルに託けてこの資料館の価値そのものを長年担ってきた、肉と皮と爪が爛れたカーテンのように垂れ流れ、目玉が垂れたアノ等身大の被爆者人形を撤去するとの由…客観的資料の展示に重点を置きたいがためという方針らしいが、飯が焦げ付いたアルマイト弁当箱や爛れた国民服の展示が悪いとは言わぬがそんな小奇麗な「客観性」に引き籠って被爆の実相を強烈に人心に、それこそ外国人も含めて植え付けることが出来るのか、それができてこその資料館なのではないのか、そしてそのためにもっとも有効な手立ては客観的資料ごときではない、あくまでも人間の記憶を再現した創作物であり、あの人形や漫画はだしのゲンはそうした創作の戦後責任を一身にまとっていた…ところが…人間の、気持ち悪いから、という極めて表層的反射感覚に率先しておもねる形が観光客増加目標だか何だかの資本の原理までもを保身の後ろ盾にしてその責任の姿をよってたかって抹消し、「無かったこと」にしようとする行政の動きが、情けない…

資料館での被爆人形の撤去や、いくつかの学校の図書館や自治体図書館でのはだしのゲンの開架拒否、そして、鳥取城キャラクターかつ江さんの公開中止。三つとも同じ現象である。

「全体主義の起源」の著者ハンナ・アーレントがイスラエルでのアイスマン裁判傍聴にて痛感した事実…最早改めて繰り返すまでも無い、人口に膾炙すべきことだが…「悪の表層性」、ということだ…それ以上人間心理の深みも原因も事情も掘り下げようもない、ただ単に命じられたから、一般的に流布していることだから、せっせと、如何に効率よくユダヤ人を処理するかを計算して実行に移す=仕事する、という…少しでもいい、考えてみる、という姿勢が全く欠如した人間…そうした輩が、ただ気持ち悪いから、不快だから、という、格好のマーケティングモデルでしかない表層的反応を示し、且つ烏合するものだから、前述の三事例のような事が卑近ながらも勃発するのである…ただし、ゲンに関しては、作中でゲンの親父による露骨な天皇批判があるから、という理屈もあって一概に云えぬかもしれぬが…しかしそれとて言論の自由の範囲内に過ぎないことである。

こうしたぎりぎりの状況に根差した思索は日々のことだからその些細な日常の些細な思索こそがそのまま抵抗へと漸近する。
考えること=あらがうこと。

被爆体験者の高齢化や死亡による体験の風化を食い止めるため、被爆体験しなかった若い世代が語り部を引き継ぐ、継承する、という…その試みは立派な事だと思うが、やはり、結局、そうした語り部二世や三世の素人話では、高座に上がるようなプロの噺家などではないのだから、小中学生に与える影響はたかが知れるだろう…小生が学童のころはマジで顔半分と体半分がケロイドで爛れて、手の指がくっついてヒレみたいになっていた、ホンモノの被爆者の人が語り部として登場していたからインパクトは大きかったが…戦後生まれで五体満足の、多少意識が高いのかもしれぬが所詮人から聞きかじった話を少々感情こめて話したからとて何ほどのことがあろうか…体験が記憶となり記憶が記録へと無害化する時の流れにあらがう人間の所業とは何か、それは芸術以外にはない。いかに良心的であっても語り部二世三世が芸術的才能を意識せぬのであれば無意味に帰するだろう。それができないのであればやることは簡単である、8月6日の登校日に毎年全校生徒集めて体育館ではだしのゲンを上映すればよろしい。次世代の語り部育成という、目的に対する効果が曖昧なものに税金をつぎ込むよりも、こちらの方が確実だ。一発で平和教育は完遂する。井伏の黒い雨もよし。

備忘:高所得者=高額納税者が、自分らはこんなにたくさん税金を払っているのだからもっと国家からそれなりの恩恵や見返り、配慮があって当然、とする考え方。(これが極限まで行くとアメリカ型のアナルコ・キャピタリズム=無政府資本主義となる。それへの移行過程が小さな政府)資本主義の極相状態にあるアメリカの富裕層や日本のタワーマンションの住民などに多い考え方は…公共、という考えが欠落している。その欠落は単純に、日本国憲法を知らないことに起因し、上記の主張をするのであれば憲法改正を視野におさめた理屈が必要だろう…すなわち、日本国憲法では、すべての国民に、健康で文化的な最低限の生活を保証するという、基本的人権の一つの生存権を明確に謳っており、これを実現する国家的事業が即ち公共事業であり、この公共事業の資金となるのが税金である。税金はそれを払った自分のみへの見返りを期待するものではなく、広く国民全般への見返り=生存権の達成を期待するものである。生存権の対象が国民の一部や納税者に限らず国民全般となっているから。従って、金を払えば金を払ったその人がその額に応じた見返りを受けられるという対私企業への行為とは大きく異なる。だから、前述の高額納税者らの意見は一見道理があるように見えるが、生存権を担保する国家=国民全般への支払いと、個人的サービスと交換される私企業への支払いを混同した、憲法への無知による意見に過ぎない。さらに、生存権確保が全国民平等ならば税金の額も全員平等でなければならないのではないかという疑問がわくが、額が平等ではなく、負担を平等に負うというのが税金なのだろう。なぜなら年収は資本主義社会において人それぞれ違うからだ。年収1千万円の人の税金1万円と、年収百万円の人の税金1万円だとすると、税金の額は両者同じでも、後者のほうが負担が多い。負担を同じくするために、年収一千万の人の税金は10万円、年収百万円の人の税金は1万円となる。

↑ 刑事ドラマで、高所得者が上記のようなことをふんぞりかえって主張していたのにカチンとなったから、働きの悪い自前の頭を動かしてみた。たとえドラマの中であっても警察ならこれくらいのこと、ピシャリと反論しろよ、と思ったから。

今週は所用につき休載いたします。

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