ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「mc5/kick out the jams(1968)amcy-2563」 2010年3月27日 桜と吹雪
送別会で二日酔い。またほとんど何も喋らず、ひたすら飲むだけの無為の時間を不愉快に過ごす。今宵はまた清め酒するしかない鬱屈である。来週も歓送迎会がある、いまだ肌寒い季節である。桜が八部咲きの中、ボタン雪がどぼどぼ落ちて来る山間部…。
ショーペンハウアーの意志と表象としての世界がびしびしと、他人事とは思えぬ程心に滲みてくる昨今であるが、そんなこんなで、盲目的に暴発する無目的な意志の現れのようにして、やってくれた。佐渡島のテンである。桃山の茶会記など読むと、懐石に、鶴汁やトキ汁なんぞが旨そうに記載されているが、現在、国家予算で護持された堅固かつ高大な佐渡トキ保護センターの金網の中で、放鳥を待つトキが数十羽、人間によって手厚く保護されていた。そんな隙間を、夜、何も考えず、テンがするっと忍び入り、一匹のトキを見るも無残に自然にズタズタに食いまくり、それで腹一杯になったはずだが満足が終りを意味せぬ、たちの悪い野性のテンは、更に次々と、木に泊まる白いぼんぼりのように暢気に満足げに眠るトキの喉笛を噛み千切った連続殺傷をぬけぬけと仕出かしていて、いまだ健在の御様子なのである。
昔は、壮健そうなヤツを狙わず、群れから孤立した子供のヌーや怪我をしてびっこひいているヌーなんかを狡猾に狙い撃ちして囲い込み、喉笛や腹を噛み破って湯毛立つ臓物を引きずり出して食い漁るブチハイエナ、などといった爽快で恐ろしい自然の掟番組もあったが(捕食だけはされたくない…)、今となっては毎週のように人畜無害な、文字通り飼い馴らされた甘いペット番組が垂れ流され、即ち、動物の動物性が無視されている。動物はそんな人間界の保身などには無頓着ゆえに、時折、動物らしい突飛な獰猛を剥き出しにするのである。公に保護されたものを、公の隙間を目ざとく利用して公に侵入し、無茶苦茶にするという、人間ですらできぬことを佐渡のテンがやらかしてくれた。まことに小気味いい。佐渡のテンは、今やチェ・ゲバラに次ぐテロリストの権化である。
ギースギースと鳥が耳障りに鳴いている。ひよどりかな…。
我が渾身の書状が無視された顛末を記録した幻滅茶会記、更新しました。
ここをクリック→茶会記
さて、モーターシティファイブことMC5の代表作ライブ版である。1968年、アメリカ、デトロイト。個々のバンド乃至個人をあまりに印象スケッチ風に語られる論説の脆弱ゆえに容易に低きに流れがちなロック史(ビートルズ史観)が跋扈するゆえ、戦略的に概念的な説明を繰り出してきたが、もうそんな戦略性もどうでもよいと思っている。ガレージ的先走り前のめりやサイケデリアにおける白人欺瞞土着による眠れる凶暴がブルースのリフ頼みに骨太さが骨粗しょう症と紙一重となろうハードロックが、その希少性、点在性のもとに、各個で暴発したならば、幾らでもリズムから遅れを取るどてっ腹のドラムが滅多矢鱈に、あるいは無言朴訥に連打されようし、己に失明を強いるかのような暗闇の緞帳で空間を敷き詰めるどんよりと牙を剥くベースは酩酊、ギターは耳障りだけをモットーに肋骨かきむしるようなやかまし系の鋭角をさび付かせたまま人に噛み付いてくる獰猛、声は言葉を放棄した吠えや鳴きにまで至り、当てのない地べたを走り回る盲目の四足動物の慟哭を気弱に響かすだろう。そんな、危うくもろいハードロックの成り立ちを現実に夢見て書き綴られるだろう王道なきロック史ハードロック編であるが、それがほぼ現実という形式で成立しているのが、あっさりと、MC5であった。自分の思いが、実際に在ったら、ああ、こうなるのだろう、と枯葉が散るように呆気なく得心させたMC5である。
だらしなくも荒々と繰り出されるでべでべのリフ、うるさいだけのシャウトは病気がちな日本狼の喉を嗄らして吠えるから、聴くだけでも喉はからからになるし、ブルースの骨格を残しながら、人間骨だけにあらずとばかりにつき上げる鈍重なボトムラインは体中の紡錘筋という紡錘筋に発電所直通の電極を繋ぐ無謀な放電である。曲にのらず、寧ろもたつく声ども。
パンクの嚆矢とされ、確かにパンクという言葉は、云わずもがなだが60年代末から既に人口に膾炙しているのでセックスピストルズ云々はどうでもよい議論ではある。だから、パンクをプログレの反動と捉えたりガレージからハードへ、という発展史観は野晒しにしたまま、この王道なきロック史における諸概念は、多発勃発する諸状況の諸側面を表すというのでもなく、無基底であり、無基底であることを負う責任感の強い野次、と考えるべきである。ここでいう責任というのも、無反省に、ただ何となく薄らぼんやりと思う、白痴の祈りに近いだろう。
言葉は何でもよいはずだが、ここでは、MC5を、既成概念としては狭量が否めないパンクとして聴くよりも、ハードロックの、始まりにして終わりの、点(テン)の祖形として捉え直すことで、ロックという音楽の茫洋たる責任無責任が丸ごと聴こえてこないか。1968という、産業サイケと区別無くサイケデリアのフラワーピースフルが安穏していた時代にあって、デトロイトでは、政治運動云々はともあれ、MC5だけでなく、荒廃しきった怒りのロックが殺伐とした道を、牙で静かに舗装していたのは、絶対に聞き逃してはならない。
MC5を聞き直したら、いきなり話は飛ぶかもしれないが原爆オナニーズの、余白や余裕を土足で蹂躙して憚らない激しい芸能が、切実な祈りのように聴こえてきた…。
さらに飛ぶが、忘れないうちに、小顔のアラフォーが気になる、という懸案のテーマで、永作博美、はしのえみ、渡辺まりなの三人について考察する必要に迫られている。
ロブ・タイナー:vo
ウェイン・クレーまー:g
フレッド・ソニック・スミス:g
マイケル・デイヴィス:b
デニス・トンプソン:ds
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