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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「dr.john,the night tripper/gris-gris(1968)amcy-3167」青嵐



 青嵐過ぎれば五月雨明けて初夏の日差し。
さほど心的に追いつめられていないかというとそういうわけでもなく注意深く現状の生活を鑑みれば危うさだらけではあるものの、過去の状況と比べればさほど切迫していないためか、やる気のない理由は何にでもつけられるが、要するにやる気がなく、何にたいしても真剣みある手が付かない。切迫していないためか、注意力も衰え、物事の認識の際立ちも日々平滑にならされ心根の麻痺がまっさらに進んでいく。麻痺している事すら気が付かなくなる痴呆の時も、既に現在始まっているかのような…青春リアルが横で無音で垂れ流されているが、そこで流れている言葉が何なのかもう地滑りしている。恐らく、意味が分かっていないということなのだろう…背後の事情とか空気とか雰囲気が織り成す説得力みたいなものがこの世に存在するのは知識として知っているだけであり、そうした説得力みたいなものに一度だって心底説得されたことが無い自分が居る…見かけ上、説得されたふりをしている自分のぎりぎりの社会性も潮時なのだろうと分かっているのかどうなのか最早激甚なる麻痺においてはまっさらにおかしくなっている。浅め浅めに、低め低めに、天空の法則や精神の根本にかまけることなく生活するしかないにしても、潮時は潮時なのだろう。ようやく寝かしつけた細君に気を使って暗闇の中で食う飛び魚の刺身(半額)がすこぶる不味い…会社の星で、会社の同僚の結婚式に出席する時のマナー、なぞやっていても、発する怒りはあれど決定的な憤怒の根元の処が、痴呆症の脳のようにスカスカの空洞だらけで身が入らぬ…鶴岡八幡宮の御神木が虫食いにやられていてある日突然倒壊したように、自分という御神木は自らによって蝕まれてスカスカである。もう、本当に自分にとってどうでもよいのだろう。
 夏蜜柑の砂糖漬けを肴に、ウイスキーの水割り(ウイスキー:水=60:40)をやり続ける夜…。若葉が青葉へ、深みを濃くする季節に相応しい、甘酸っぱい初夏の光を醸す菓子が、どこか季節感の無いウイスキーにさえも、旬というのを教え諭すような…いい菓子だ。最終的には、ドストエフスキー的なるものを敵に回して打ち勝つ必要があるのだろう…あの、過剰な自意識と、想定しうる範囲内の他者に伝わらぬことをも恐れて執拗さを増す過剰な説明が繰り出す、これでもかといわんばかりの説得力と、結局の処どこか依拠しうる場所を確保したうえで構築しているに過ぎぬ人格設計…その構築が美的趣味に供されていないところは、さすがに、徹頭徹尾人間にしか興味を示さなかったらしいドストエフスキーの無意識の矜持なのだろうが、それでも、ドストエフスキーにしても、言葉が書かれる基底の処の盤石性に真正面から食って掛かったわけではない(パリに不倫旅行した時も、観光地や美術館には一切目もくれず、パリを行き交う人間をひたすらギョロギョロ凝視していたような人…)…彼にしてもあの過剰な説明の、ほとんど力技で説明が破綻しそうなほど支離滅裂であるがそれでも説明の範疇から出られぬ説明の嵐の背後で、そうした説明の説得力をすべて無効にしうるような、いわゆる名づけえぬものにうすうす気が付いていた痕跡はあるが、所詮その程度に過ぎなかったといえば云い過ぎなのか…19世紀半ばのドストエフスキーの「地下室の手記」を読めば、小生如きがこのブログで書いていたような思想信条の一部は書き尽くされているというのに…40年間地下室に引きこもる男のキツメ独白小説…。専ら小生個人の問題だが、時間や空間や概念や仕組みや人格や人間やキャラクターや雰囲気づくりや物語や面白おかしを否定し基本とせぬ、少なくとも安住できぬ小生であるからして、その理論的必然によって、小説という最もラディカルな文書において、もう、何も書けなくなっている…それでも書かれなければならないしそのようにして書かれたものこそがまっとうなラディカル文書と云えるとわかってはいても、書けるわけないじゃないか…自ら首吊り自殺を決行しながら、首の筋肉を必死に固く力ませて縄の食い込みを押し留めてまで生き延びようとする不毛且つ困難過ぎる滑稽人生劇場である。「誰ソ彼〆子の舟風呂日記」というのを書いてます。まだほとんど出来ていないし完成する可能性は限りなく零に近いけど多分一年後には完成しているだろうが、ドストエフスキー気取りで、誰か前払いしてくれる出版社ないしは好事家がいれば、その人のために書きます。裏・堀北真希というべき谷村美月の、光を濃く暗くする琥珀の如き魅力は、魅力の先達者・和久井映見に匹敵する。三者とも、目が離せぬ女優である。今日、ベルトを買った。ベルトと云うのも、こだわり出せばきりがないようだ…いくらでも、そこかしこに趣味の深みが待っている。ウイスキーやり出してから、歯肉が痩せているような気がする…もともと慢性歯肉炎だが、いつの日か、歯が、御所の襤褸塀のように一斉にばったり倒れそうな気がする。ドストエフスキーから卒業はできないまでも、自主退学ぐらいはすべきだろう。
 昨日、「彼」に出会った。ドストエフスキーではない。小生が、人生の折々で出会ってしまう、名も知らぬ男性…背が高くやせ形で髪は短めでジダンのような髪型で目は細め人…在学中から時折彼に遭遇していたが、細君によれば、言葉を発言することが著しく困難という人…自分の研究発表会のような時でも、教官らの前で言葉を発することなく、ただそこに居たという人…在学中、話しかけてきた人の言葉を反復していたという彼…河川敷付近で出会った時はギター背負って自転車に乗っていた彼…あまりによく会うので、図書館で最接近した時、小生から、「よく会いますね」と声を掛け、びっくりした表情でやはり何も言わず去った彼…昨日会った時は、福屋の本屋で、青いジーンズ生地の上着をまとい、思想・哲学コーナーに向かっていた彼…。韓国ドラマ「イ・サン」…朝鮮民族のファッションにはあこがれている…。特にあの、黒い、目の粗い帽子の涼しげな端正。
 
 ドクター・ジョン。1968、アメリカ、ニューオーリンズに召喚された夢魔…。19世紀ニューオーリンズに実在した、ヴードゥー教の司祭の名を勝手に襲名、文字通りアメリカ最深部の、まさに温床という言葉が相応しいごった煮(ガンボ)の鍋底に焦げ付きながら、トフットフッと強烈な異臭の泡を破裂させる文化文明の濃いむせりを吐き出して止まぬ…ヴードゥー教の資料をしっかり読み込んでからこのアルバムについて書こうと思ったが、福屋の本屋に売っていなかったから仕方が無い…結局、音楽は耳で聞くしかないのだから…すっかり、忘れていたのであった、かつて、この音を、貪るように聴き込んでいた事を…それにしても、あの時代の諸相の、出鱈目な正直さ…先行したジャズも闊達とアフロと西洋器楽との習合を進行形で実践していただろうが、それでも、混乱のまま形になりはせず、過酷な状況とはいえあまりに奇怪な境遇に対して、広漠たる綿花畑の地平線の先や監視が苛烈な白人の主人に見つからぬようこっそりであっても叫ぶしかなかった各個の黒人の唄…その唄が舐め散らかすのはそこらの土壌しかなく、もう記憶から伝承へと遠ざかっていた遥かなる古い大地アフリカの鼓動であったり、恩をあだで返すように騙された挙句近代兵器で虐殺された原住民の残響に今更ながら耳を傾ける罪滅ぼしなのか権力というよりも単純な圧制に対する偽装なのか西欧キリストと部族の神との習合といった文化・宗教的偽善すらもとうに忘れられ、この時代でさえも、恐らく、文化は意匠に成り果てていたに違いないのである…アフロも、原住民も、ヴードゥーも含めて…彼が身も心もやつす司祭もキッチュな装いに過ぎないにしても、この、あまりに濃く、本物のような振る舞いに聞こえるのは何なのだろう…それゆえに高まるいかがわしさが、逆にむしろ本物性を織り込んでいき最早区別できない反物となる…当然ながら、本物と模倣との区別など愚劣であることは十分承知の上で、かように拘泥している。この諸相は、芸能というものの事実であるとしかいいようがない。小生は、たとえ如何にいかがわしく、最早、これが本物であるという証拠など失われているとしても、この音楽がヴードゥーというものの教理を音楽せしめていると信じる。そして、たとえヴードゥー云々を知らなくても、この音を聴けば、独立の誇りと孤立の寂しさを隔てようとせぬ、何よりも人間の弱さと卑劣を自らの人生として経験しながら独立せざるを得なかった孤立した人間の止むに止まれぬ無駄の唄というものの、差し迫った不逞を感ずるのである。即ち、「アメリカ音楽の点在する系譜」における、星座におさまらぬ一つの巨星であり、特異点として、無意識に媚びる者どもが有り難がる歴史を磔刑に処す。かような、とうに没入しきったいかがわしさであるから、これはロックであり、ただの民族音楽の模倣ではない、ヴードゥーロックという呼称が許される。
 まず、恨みが儀式化されると呪いになる…そこに、本物と聞き違えんばかりの芸能の秘密がありそうだ…どす黒い暗闇の音。云うことを聞かぬ豚の尻を丸太で叩きのめす、残忍且つ卑劣な打撃音の連続ドラムがドカドカと。無闇に楽しいチャカポコ音も随伴する。場違いなタイミングで声を荒げる男ども、それぞれ決定的に異なる声を時間差で張り上げる女どもが、部族の言葉を暗く呟き続ける…というものの英語ではある。音を聴くというよりも、煮詰まったペースト状のものを、彼らの舌や手で、直に、鼓膜になすり付けられるような過酷な体験である。そしてサイケデリアは、このように点在する、始めから伝達を目的とせぬ狼煙の打ち上げによって漂う濃厚にして曖昧模糊とした野卑と凶暴に根ざす。ドクター・ジョンにおいても、あまたの点在者と同時に、尚且つ独自に、サイケデリアの珍念を彷彿させてあまりある。歌詞も秀逸である。そうだ、サイケは、愚か者のように沼から飛び出してきたんだ…沼もろともに!6曲目を写す。

ジャンプ・スタディ

彼女の名前はジャンプ・スタディ「力強くジャンプ」
愚か者のように沼から飛び出してきた
彼女は魚たちと踊っていたと人は云う
皿の中で炎を操ったという人もいる
バイユー・セント・ジョーンズで暮らす彼女は
手を上げて電気の嵐を起した
彼女は不安定な女だった
悪意があった訳じゃない
ある日、消防署を飛び越えて
火災報知機を作動させてしまった
どういう訳か、ラトルスネイク通りの真ん中で
クイーン・ジュリア・ジャクソンと関わり
クイーン・ジュリア・ジャクソンがゾラ・ルブレクを落とすと
ジャンプ・スタディは魂を捧げて死んでいった
彼女の名前はジャンプ・スタディ「力強くジャンプ」
 
対訳 田中まこ

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