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「genesis/nursery cryme(1971)cascdx1052 7243 8 39780 2」萩
来週、また、萩焼祭りに行くつもりだ。数年前、既に行っており、萩焼に関しては小生好みの名品を既に幾つも所持しているから、始めて行く窯業地や骨董市や陶器市や個展でのように、何が何でも名物をお助けしなければならぬというガッツキから解放されているゆったり感の中で、五月の萩焼と親しみたい…程よく錆びてむらのある赤銅色の油膜のようにぎらつく玉虫色の萩井戸茶碗が欲しい。
そろそろプログレ再聴しなければならんな、と誰に頼まれた訳でもなく思い出ずる悩み…。かつては自分でもどうにもすることができぬほど強靭な意志に沿って、プログレ風のジャケットを見かけたら何も考えず衝動買いしていたほど、兎に角プログレばかり聴いていた…。思えばこの循環、多分3回目ぐらいになるのではないか…この半世紀ほどの、忘却に埋もれるほど長くない期間において極めて系統的に分派習合を繰り返したロック音楽を聴く者ならば、厳密に時系列に沿うものでなくとも各系統を自分好みに巡礼するかのように聴き、一巡しても終わりではなく思い出したかのようにまた幾度となく巡礼するのではなかろうか。(小生の例でいえば)ブルースやR&Bなどの黒人音楽→ガレージ→ザッパ→サイケ→ハードロック→メタル→プログレ→ジャーマンプログレ(ジャーマンサイケ)→シルヴァーアップルズ→パンク→モダンポップ(モダンロック)→ハードコア、オルタナティヴ→GS→ブルースやR&Bなどの黒人音楽…といった、まさにロック数寄者の業(カルマ)ともいうべき万華鏡の六道輪廻から解脱できないし、むしろ解脱したいとも思わぬのだろう、多少の枝葉への脱線はあろうとも…
そんなわけで自分の中でプログレの季節風がそよそよし始め、まずはジェネシスと相成った。プログレ的なるものとは何だったのか、についてはここでは深入りしない。小生がプログレの中でもとりわけジェネシスを重要視する理由は、彼らはその初期からプログレ的様式を備えながらもモダンポップ的つんのめりを晒して憚らぬ特異性を有していたからだ…キングクリムゾンがプログレ批判の嵐に色目を使ったのかあるいは比叡山の高僧のような脱俗態度の末にむしろ純化されたありのままの迷いの表出なのかわからぬが兎も角珍妙でひ弱なモダンポップ路線を後年になって漏らす…しかしジェネシスはプログレのプログレ的なるものの礎石の一つとして大きく貢献しながら、既にその端緒から、プログレの否定という偏った方向性の稚戯とは隔絶しているのか加担しているのか曖昧に真顔で笑うモダンポップ性をも創出していたと小生はその音源から聴きつけていた…。モダンポップとは何か、ということも、これまで再々に渡って文章の端々に絡ませてきたが、やはりここでは深入りしない。これも何度も云うているけれどもいずれ「悪趣味の系譜」編にて述べる予定だ。
そんなわけでジェネシスの中のモダンポップ性を再確認するために、生首でゲートボールかクリケットみたいなのしている油絵が秀逸なnursery crymeを聴いてみたら、上記のようなことは確認できなかった。いわゆるプログレだった。マシュマロ一杯に頬張ったようなピーター・ゲイブリエルの咆哮…甘みがさわやかな綿飴から降り注ぐ五月雨を浴びるような、べとつかぬ抒情…悪くなかった。上記のようなことが聴き取れるのは、今思い出したが、フォックストロット(1972)であった。
道が私を歩いている
観念は言葉の身体だ
tony banks
michael rutherford
peter gabriel
steve hackett
phil collins
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