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内省編 「吾如何にして吾になりしか」其の一
割り切れぬ蟠りは徒に熾火のように胸苦しく、暴発の予感のみが、王政廃止共和制樹立を熱望する怒髪パリ市民がパリ中で夜中十叩き鳴らす半鐘のように気ぜわしい落ち着かなさに身もだえしながら、一端吐き出された途端文字通り限りを知らず噴出余儀なくさせる無鉄砲さに事前におののく用心深さまでもが自らを苛むように如何ともしがたく、この、ここ数十日で専ら小生内部で沸き起こった思念や情念そして決断にまつわる溢れんばかりの言葉を吐き出してしまわない事には、真に己のなすべきことに集中できぬ弊害が大きいという無闇に切羽詰まった挙句での始まり、ここに「内省編」と銘打つ。これまで、「サイケデリアのふるさと編」「点在する系譜編」「ハードロックの非継承編」「悪趣味の系譜編」「低迷編」と銘打つごとに、生来の怠慢と目移りちらつき衰弱によるものなのか完遂することなく潰えては生え、を繰り返してきたが、性懲りもなくまた新機軸を打ち出す。経緯定まらず、即ち縦糸横糸などといった統制も無くこれらの糸がフェルトのようにもつれにもつれたのがこの「王道なきロック史」といえる。内省編については、しばらくの間、ロック音源から離れるだろう…気が向いたらロック音源についての言説を挿入するかもしれぬが、それも結局は見かけの態に過ぎぬ。というのも、先週その兆しを垣間見せる嫌らしさのままに、語弊が多い表現となって申し訳ないが小生においてまことに個人的な文化大革命が勃発している…それに付随しての諸々の経緯と展望が身勝手にざわめきを止めず、はた目には至って割り切れぬ、何を考えているのか死んだマグロのようにぬぼうと無明なれども、発情した馬のように心の息は騒々しく熱く重い。当然ながら、こうした事情が今後のロック聴取に影響を与える可能性がある、とは云わぬ。ここで、影響、という概念を使ってしまうとこれまでの論考の全てを台無しにしてしまう。否、ことあるごとに台無しにすることこそが肝要でもある。影響や変化などと不用心にいうことで、まるで、ああすればこうなるみたいな統制論理へおもねる結果にもなるのは慎みたい生硬な潔癖からいまだに脱却できぬという事情もある。将来的にはそこのところもどうにかしたいという、転んでも只では起きぬ野心的目論見もありはする。だいたい、こうした内省においては、無自覚の内に、己の生き様や思想を因果律などで整合し、整合ということを成立させながら整合自体にも依存しているが如き美意識への説明責任に忠義を尽くすブルジョア奴隷になりがちではあるが、そんなことはどうでもよく、この内省編では割り切れぬ矛盾が整理されることなく説明責任を放棄してそのままぶち撒かれるだけだろう。何か知らんが人は因果や直線とか対称性とか円とか区切りとかに無自覚に媚びるようにそれらを崇めるかと思えば、反動なのか超克なのかバロックなのか弁証法なのか言い訳がましいが曲線や非対称や混沌にもすり寄る…もう、そんな反復横跳びにも、目を細めて安らかに残忍に冷め切って愛想尽かしている。正・反・合ならぬ、正・反・離などとポスト近代が云われたところで(小生の咄嗟の思いつきであり、聴いたことは無いが)、遠い昔の猿蟹合戦にしか思えない…それに個人的文革とて今更ながら突発したように書いたがそれは言葉の綾というものであり、実情では日常において既に馬鹿馬鹿しいほど空のように明らかになっている底の浅い、卑小なる懊悩に過ぎない。それとこれとは関係ないが、否、関係するかもしれぬが、人の性格を表す表現として、たとえば、おっとりしている、怒りっぽい、優しい、しっかり者、ずぼら、普通、異常、等々、枚挙に暇ないが、ここに、無政府主義者、というのを追加したい。私は、特に生活において実際に活動したりしているわけでもないしその予定もないが、人格として、無政府主義者である。繰り返す。私は、人格として、無政府主義者である。最早こらえようもなく逃れがたい業ともいえるので、ここにとりあえず布石しておく。無論、無政府主義者とて種々の歴史的解釈が存在するだろうが、この際、そのいずれもひっくるめて、である。ニーチェならば、思想とは人格である、などと断言しそうではある。多分、どこかで言っているだろう。ただ、己の事を語るなどと云うても、数数の組織の中で速攻で孤立してきたし自分から排除してきた小生とて絶海の孤島に一人存在しているわけでもなく、多分に社会化されているゆえに、問題は難儀だ…ここで小生が云う社会化とは、自分が何かしたら、それによって不利益を被った他人群あるいは不利益すらも被らぬ、何ら小生と関係ない他人群からぶちのめされ兵糧攻めにされる、という事ではなく、自分が何かしたら、自分にとって大切な特定の身近な人々が悲しみ、恐れ、怯え、苦しむ、その苦しみを自分としても連動して波のように感応してしまう、という、いささか幸福な定義である。個人の身の上話など当事者以外にしてみれば取るに足らない、いずれも似たり寄ったりの金太郎飴のような小さい凡庸な悩みに過ぎないのだろうと思われるが、とくのこの電誌を未知のお客様への営業目的に書いているわけでもなく、専ら小生自身のやむにやまれぬ常習的発作に起因して書いているので、如何に読者がつまらないと思おうが、己が書きたいように生臭い吐露をできるだけ綴るつもりだ…無論、全てではない…いくらなんでもこれは書けない、と判断される危機的事情も小生は抱えているので、そうしたことは選択的に除外されるだろう…自分が赤裸々に書いたものを読むことでうろたえ、あるいは無礼な扱いを受けたと憤る身近な人が居るというのならば電誌に書かなければいいじゃないか、せいぜい紙の日記帳に万年筆でこっそり記せばよいではないかという声もあろう。(ブログという外来語が馴染めないので、勝手に和名を名づけました、電誌と。いまいちなセンス…)これから何かするにせよしないにせよ、自分一人で生きていくつもりはないのだから自分の生活史を書くことは否が応でも、これからお世話になる人々やずっとお世話になってきた人々の神経を逆なですることもありうるだろう。だいたい、そういうことは直接口頭で述べるべきことであって、一般的に公の発言とされる、しかもお手軽な電誌を介して知らされることで恩人に対して真心の籠っていない態度だと受け取られ、立腹されるという筋道もごもっともである…そうした不本意を回避しつつそれでも書きたいのならば夜中に隠れて日記に書けばよいと思われる。正論である。松岡何某が、電誌は公や近親からの目を想定され自己規制が働く分、日記よりもつまらなくなると千夜千冊で云っていた。だからといって、小生が、日記を超えるほど電誌で赤裸々しようと挑戦しているのではない。そんなことは幾らなんでもくだらなさすぎる。M・ブランショは「文学空間」の冒頭で、「私は孤独である」と書き綴る詩人の欺瞞を指摘していた。私は孤独である、と、他ならぬ他者への伝達手段である言葉で以て述べるということ自体、他者を想定しているのであり、その限りにおいては孤独でもなんでもない、という指摘である。無論、ブランショにあっては、この冒頭の指摘から、言葉や私の根源的な孤独ないしは死へと思索を下降していくのであるが…社会的ににっちもさっちもいかなくなったら、命をあきらめずに、山か孤島に籠って自活しよう…狩猟採集の能力に疑問はあるが、餓死をもいとわぬ…自決は嫌だ…しかしこの場合の餓死は自決に等しいではないか…どうしたものか…特に、自分が孤独だと思っていないから、全く不必要な引用であった。思えば、事ここに至って、書きたいことなど何もないように思えてきた…しかし、書かなければならないのだろう…書きたくないんだけれども、書かなければならないのであるこの苦痛…欲望にもまさる義務感、というのがある。趣味は欲望である。しかし芸道は義務である。例えば小生にとっては陶磁器収集や音楽聴取は趣味であり欲望である、多少は、義務も入っているが…。しかるに文芸ならびに工芸は義務である…小生には、来るべき文芸や工芸の姿がはっきり見えている…それがこの世に顕現すれば、その途方の無さはいささかも歴史に解消されることなく燦然とこの世を反乱混乱させうるだろう…それをこの世に花開かせるべく、義務感に無情にも日々苛まれている…その根拠など全くないにも関わらず、もう、見えてしまっているのだから、やらざるを得ない…誰かがやってくれるのならばそれでいい、しかし、誰もやりそうにないなら、自分がやるしかない、やりたくてやるわけではない、誰もやらないから、自分が仕方なくやらざるをえぬ…運命の奴隷だと笑うがいい、一度未来を見てしまったら、現状の小競り合いなど影絵に過ぎぬ…などと啓示のように思いながら小生のこの怠けは一体なんなのだ…少しでも多く彫刻修行しなければならないのに、こんな駄文に貴重な時間を割いてしまって。そういえば、自分の生活史について書くのだから身近な人に影響を及ぼすかも云々という懸念であったが、何も解決されぬまま、このまま、電誌に書き続けようと思う、書けば書くほど物事は悪化の一途を辿るだろう、それに対する社会的大人的覚悟など無く、その都度うろたえながらきちんと解決できずに大切な人々の信用を失いながら、安全策を講じる立ち回りの良さなどとうに瓦解、さらに物事は悪化するだろう、大切な人の事を大切に思っている唯一のまことも、的確な行動で示されないと次第に理解され難くなるところまで追いつめられて初めて、小生の、なけなしの社会性でもってぎりぎりの礼を尽くすことでぎりぎりの社会性を保ってきたが、今後展開されるこの内省編によって、その、ぎりぎりの社会性が通用しなくなる危険を承知で、でも承知していたらとても書けないので真剣には分かっていない浅はかさ、日常が続くという無根拠に基づいて…いずれにせよ、悪の華である。注記、この電誌文は、上述の、小生がなすべき文芸、とは何ら関係ない、極めて表層的なこなし仕事だから、そこまで生活を賭ける理由も全くなかった。それでも書くのはかわらないのだけれども。それに、よく考えたら、これを明かしたら既存の人間関係が崩壊する、というほどのことは自分の過去にありはしなかった。よく考えたら、何も考えていなかった、という御粗末。
駄句一つ
水道の水が冷たし秋来る
昨日、会社の車の中で10円拾った。素早く己の財布にしまった。
やり遂げられる目標(3法案成立)を立て、政官民一体となったあらゆる妨害に耐えながらそれを達成した暁に辞めた管総理は、ここ数年でころころ変わった歴代首相の中では立派だったと拍手したい。
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