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「人間椅子/三悪道中膝栗毛(2004)mecr-2015」新年
下線部緊急追記 2012年1月8日 日曜日 午前11時23分
ニュース見てたら女子高生が、己が所属する高校に承認された軽音部なる部活動でバンドしており、瞬時に怒りは勃発、「統制された馬鹿どもに何ができるっ!」と、形振り構わず大声を上げそうになった、こたつでウヰスキーの水割りを煽る小生…妻が眼前に端坐するてまえ、それは出来ぬ相談ではあったので辛うじてこらえたが…。高校教師に指導されながら、公認のフェステバルとやらへの出場を巡って選考されたり泣いたりする…あまりにも劣悪な過誤が多すぎて、もうどこから指弾してよいのかすらも見当つかぬほど呆れる新年早々である。高校の部活だろうが何だろうが何をきっかけにしてもロックバンドを志向するのは結構であるが、音を聴いてみると、やっぱりひどい。何が劣悪な過誤にあたるのか、は、本ブログの過去の記事を通読すれば自然と悟るだろう。
いきつけの激マズ回転寿司が去年の終わりにひっそり店じまい…いつも思いがけない思いをさせてくれただけに、一抹の寂しさである。一つの時代が終わった感あり。去年を代表する重大事件はあやまんJAPANの台頭くらいであった。
自分の句や他人の句を適当に列記したら連歌っぽくなった。
正月は冥途の旅の一里塚
ひとり生まれひとりくたばる 人間椅子 ※1
日の本の御旗に似たり犬のケツ 玄水 ※2
うつろふ色をかへてまちみむ 後鳥羽院
※1 人間椅子「野垂れ死に」より
※2 小生の俳号
一体いつから人間椅子を所持しているのだろう…予備知識なくジャケ買いだったのだろうこのアルバムには度肝抜かれ申した。…ドスの効いたメタルの作法をしっかり護持しつつの、歌舞伎紛いの芝居がかった謡、そして日の本の陰部で爛れ流れる濃密な地獄観を披瀝する歌詞が絶品である。否、絶品であるとかどうとかはどうでもよい、無論、これは一種のマニエリスムであるとするのは早計である。…これ、というのは、近世江戸の、たとえば歌舞伎や近松門左衛門左衛門左衛門左衛門左衛門…∞の心中天網島といった、体制への茶化しもありながら器用な手加減で内に籠るシニカルがなお一層根暗く切っ先を研ぎだす不気味な鋭さをもってはいても不毛な恨みを自滅の芝居へと収束させるしかなかった江戸の文芸のことである。子が親を殺し親が子を殺し妻が夫を殺し夫が妻を殺す、裏切りに裏切りを重ねる血みどろの戦国~桃山の、出鱈目なまでに体制も何もあったものじゃない、西洋と違ってルネサンスを基底とせず奇蹟のように宙空で乱舞するバロックの嵐が、方法化=制度化された文芸に象られたというのがマニエリスムとしての江戸の有り様、と小生は言っているのである。(江戸の文芸というのも表層の現象の描写としては無茶苦茶なものが多いとはいえ。性的事象の遍歴物においてはヴァージニア・ウルフよりは井原西鶴や平賀源内のほうがはるかにぶっ飛んで自由である。)(否否、間違っていた。日の本においては利休の茶の湯が、厳然までのルネサンスであった。利休好みの塗り立ての棗の、あまりに特異なシンメトリーにおいてルネサンス的嗜好が如実である。人口に膾炙することではある。)歌舞伎の演目となった「絵本太閤記」、など…。とはいえ、永遠のでくの坊、与太郎への憧れと絶望を歌う赤裸々な惑いを聞くと、単なる江戸的意匠とは隔絶した堅固な思想性をむしろ伸びやかに示してくるではないか。その思想とは、畢竟、地獄の底で轟きめかす熱い重油のようなリズムを無限に繰り出してくる…地獄の底での踊りほど楽しいものはない、と唆してくる危うい悪霊である。
君は明治の天才絵師、河鍋暁斎が描いた、一休狂雲斎がどくろの上で狂喜乱舞する絵図を見たことがあるだろうか。この絵は人間椅子が逃れがたく溺れる薄気味悪い悪意と悪趣味と憤怒が怨みの微光を浴びてからっからに軽くなった基底というのを一目瞭然にしてくれるだろう。メタルの作法と演歌の親近性については数年前からマーティ・フリードマンがしきりに指摘する所であるが、日本文芸への通低とロックの作法との交差点において、良くも悪くも明るい怒りを安易として本能的に自粛する恨みの成熟を批評性へと転倒させている人間椅子の奇妙は、ロックを希求する者の必然として清濁合わせ吐くハードロックという無形において全くの必然となる、限りなく偶然に近い…。ハードロックにおいてこそ、あらゆる意匠は王水に浸されたが如く溶け去るが、あらゆる意匠は意匠でしかないと慮る切り詰められた呆れ果てにおいても脱ぎ捨てられぬという人間の性のずるさしかない。よって溶け去りはしない。ハードロックを志向するからこそ日の本の文芸への宣伝が生きるのであるし、その逆も成立している。いささか、胸をかきむしりたくなるほどの恥ずかしいあざとさが無いでも無いが…。いざとなれば我慢すればいいだけの話である。我慢してでも聴かなければならない音楽もある。
また社会社への出頭の日々が取り合えず始まるにあたって、気持ちを落ち着かせる写経とは反対に、心をささくれ立たせるために、歌詞を写してみる。夏だろうが冬だろうが、無論、春だろうが秋だろうが、ウヰスキーは止められない。あらゆる季節に寄り添うてくる琥珀色の飲み物…変わり目でない季節はあらず…
意趣返し
丑の刻はいつも 仏壇を開いて
積年の怨嗟の お百度を踏みます
自分が傷付くのを恐れ
誰かに矛先向ける奴
己の阿呆を棚に上げ
人様の間抜けなじる奴
仏の顔も三度まで
それでは私外道になります
わからずやのお前に
意趣返しの刻
おためごかすお前に
意趣返しの夜
獣にもなれず 人間にはなれず
手水場に隠れて 血涙を拭きます
誰かを助ける建て前で
自分の才覚示す奴
他人のしくじり許さずに
己は高みと決める奴
暑さ寒さも彼岸まで
一足お先に地獄へ墜ちます
霧雨の降る日は 床の間に向かって
昔日をことほぐ 無残絵を描きます
誰かを味噌っ滓にしては
自分の面目守る奴
他人の威光を笠に来て
己の器量と威張る奴
人を呪わば穴二つ
先立つ不幸をお許し下さい
わからずやのお前に
意趣返しの刻
おためごかすお前に
意趣返しせむ
思いのたけ
怨みのたけを
和嶋慎治:ギター、ボーカル
鈴木研一:ベース、ボーカル
ナカジマノブ:ドラム、ボーカル
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