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「ハッチ ハッチェル/旅のアルバム(2009)0bbq 0014」初秋
早速、心底一途に思っている、割れてしまった高麗彫三島の盃を、厳重に梱包して金継ぎ屋さんに送ることに。盃を収容するのに最低限必要な箱の容積の100倍近い容積の段ボール箱に、婦人画報の大半のページを破って丸めた簡易梱包材を詰め込み、盃を安置。宅急便をお願いした近所のコンビニのバイト店員が、多角化の一途を辿るコンビニ業務にまだついてゆけぬ新人だったらしく、自信なさげにあたふたと不手際をさらしたのだった…。他のものはどうでもよい、兎に角この盃だけはきっちり送ってほしい!何をどうすればよいか全くわからないらしく、何故か小生が色々と、箱に貼る紙を出すよう指示したりする始末…箱の隅々にワレモノ注意と極太マジックで書きまくっているにも関わらず、ぞんざいに扱う店員に業を煮やした小生は自分でも思いがけず叱責の怒声を上げざるを得ず…必要事項書くように出されたボールペンはインクが出ない…書けるものを改めて持ってこさせるとそれはシャープペンシル…一応下の転写紙に文字がうつるからいいものの一抹どころではない不安があった…受け取ったら連絡するよう金継ぎ屋さんにお願いしてたが、到着指定日時を過ぎても連絡が来ず…イライラとやきもきが鬱屈し、あの店員の不手際が頭をちらちらする…何かをしくじり、盃を行方不明にしてしまったのではなかろうか、という強い疑心暗鬼が吉里吉里と心に差し込まれる…
「美味しんぼ」の海原雄山所持の骨董品を中坊くらいの山岡士郎が誤って割ってしまった時の雄山激怒のセリフ「お前の命なんかより何百倍も価値があるものを割りやがって!」がよく分かる…そして後年、雄山との決別を決意した山岡が今度は故意に、雄山の目に適った古陶磁を大量にギタギタに破壊した後の、あの親子の徹底した不仲ぶり…作品中では母親がらみの不仲説が通説であったが、本当は、愛玩していた古陶磁を故意に山岡が大量に破壊したことが主要因ではなかろうかと思う…あのコンビニへ怒鳴り込みに行ってやろうか、控えの荷物番号で宅急便に荷物を探してもらっても見つからない最悪な事態になった場合は、この店員をどうしてくれよう…自分でも最早抑えが利かないかもしれない…とまで自分を追いつめたギリギリの矢先、まずは先方が受け取ったかどうか、短めの、しかし怒気込めた確認メールを送る…すると、数時間後、受け取ったとの返信が。がっくり膝が折れたと同時に、自分が、どこかおかしくなっていたことに今更ながら気づく…しかし、数寄に余裕など、あってはならないのだ…これが数寄(=安土桃山)と風流(=江戸の文人趣味)との違いだ…
憂さ晴らしにまた激マズ寿司で自己研鑽してみるかと行ってみれば、広島駅内の激マズ寿司屋「仙台 平禄寿司」が長年のご愛顧ありがとうございました…閉店。もし平禄の客が多くて入る気しなかった場合は隣の、いつも客が少ないうどん屋で腹を満たすか、と計画していたが、このうどん屋も同時に店じまいと相成っていた。一抹の寂しさありあり。平禄はしょうがない。周りの似たような店は異常なほど客が多いのにこのうどん屋に限って何故か客が少ないが、味は、周りの店と変わらないレベルなのだ…何か不当な差別を受けているのではないかと勘繰り、よく利用していた事情があっただけに、店に限らないが自分が良くも悪くもひいきしてきたものに限って衰退している気がしてならない…
致し方なく、閉店間際の別の激マズ寿司に直行。無言で在庫処理に励む小生であるが、やっぱり須らく不味かった!無理して最近流行りの炙りものに挑戦したはいいがお手軽ガスボンベバーナーで炙るものだから炭化水素ガスから分解された二酸化炭素と水の中の水のせいなのか炭火と違ってジュチャッとしているし(美味しんぼの説)、そうしたネタの上に乱れかけられたマヨネーズは、長時間回り続けた結果、なんか透明度を増しているし…。マヨが透明度を増すくらいだからネタはカピカピに乾燥済みOK!
備前の徳利に入れて一週間冷蔵庫で保温することで、いい具合に角が取れた気がする日本酒に怒りのローアングルでほろ酔いのさ中、NHKで「ソングライターズ」視聴。おクラシックとおジャズを好むスピッツみたいな中性的男子が、何故か、ほどほどの問題と個性を抱えたナチュラル女子に「あなたって変わってるのね」などと個性持ち上げられ言い寄られる村上春樹の自慰ファンタジー小説が好きそうな、物わかりのよさげな若者とミュージシャンとの間の、不穏さが皆無の、ぬる過ぎるワークショップ…先週のNHK「会社の星」の醜悪ぶりは凄まじかった…莫迦が莫迦な本を何千冊も読むことでより莫迦が補強される絶対の円環には唖然である…自分を研ぎ澄ますために仕方なく見ているが、もう、いい加減、その、砥石としての効用すら鈍化してきたようだ。いつかいつかといいながら、そろそろ、この会社の星を徹底批判する総括をしなければならないが、気が滅入る。
それにしても東陽片岡の「レッツゴー!!おスナック」(青林工藝社)の、びっしりGペンで書きこまれた、濃く汚い、おスナックのママ絵がシミジミ心に沁みて何度も熟読してしまうではないか…報告だが、遂に「はだしのゲン」全巻購入。たとえこの世からゲンが無くなっても、小生が守護するつもりだ。
マクドナルドとファミリーレストランでもいろいろあったのでいずれその行状記をまとめたいが、昼時のファミレスに集う子連れママ友らの会合は、傍から見てても殺伐としてくる…決してお互い心を許してはいないが何故か行動を共にしなければならないゆえの気遣い感、そしてやっぱり互いを信用していない感が、子育ての具体例に限定された話題の中でひしひしと感じるので、脇で大声を上げて暴れまくり料理をこぼして憚らぬ子らの所業もあいまって、こっちも疲れる。基本的にはこういったことに小生はどうってこともないが、清少納言や太宰の女生徒から1990年代の女子高生(村上龍のラブ&ポップ)に受け継がれた先鋭的とされた感覚にしてみれば、ファミレスのママ友ランチは、醜悪の一言で手厳しく切って捨てられるのだろうな、と勝手に思う…そして、かつて先鋭的だった女子高生らが、全てではなかろうが、今、そうしたママ友という関係性に居るのだろう…。当然ながら、先鋭的な女子高生というのも幻想であったと思う。
ハッチハッチェルの旅のアルバム。日本。簡素にして正しい、これ以外に無いアルバム名…氏のこれまでの経歴…ロック史上不世出のバンド、デキシード・ザ・エモンズのドラマーとしての破天荒な活躍を思えば、ロック数寄ならずとも多少とも音楽が数寄であればバンド解消後のその去就が気になるだろう…ここでデキシード・ザ・エモンズの栄光の軌跡とその限界を批評する余裕はないので、不世出とか栄光とかといった空虚な修飾辞でお許しいただきたい…特にアルバム「S,P&Y」で到達してしまった途方も無いロック音楽の高み(プラトー)は、ザ・フーやレッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリクス エクスペリエンスといった基本の峰々を、登山家が6大陸最高峰の登頂を目指すことで登山家と承認されるように、真面目に踏破する王道を歩んだ上での全く新しい、西洋のフォンやスパイスのコクとは異なる、日本の一番だしのような音楽であった…こんなことは王道なきロック史においてはありえなかったにも関わらず、成し遂げたがゆえに逆説的王道というロック裏街道がまたまた表街道でもある…
そして、かようなワダカマリ薀蓄や、ロックというある種の枠組みからもするりと抜けるようにして、素晴らし系の音楽をぬけぬけと奏でだしたのであった。最早ロックの諸形式にも硬くこだわる事無く、本作は、カントリーやジャグバンドの道統に続くノベルティソングであった。ノベルティソングというのは、カントリーミュージックによくあるが、一つながりの、滑稽な物語性を持った歌である。音程を素っ頓狂に外す苦み走った愉快。
「S,P&Y」でも存在した、社会社の生産管理統制から無頓着に逸脱しながら陽気に、その辺の街角に巣くって楽しく暮らしているらしい、厭世家でも深山方丈での隠遁者でも世捨て人でもない、逃げも隠れもせぬ市井の仙人(「ご一緒させていただきたい」!)が、人生の苦味をジックリ味わった上でそれを酒の肴にしながらの気ままな珍道中に出た音楽。この若い仙人、ビールと酒を好む習性らしく、行く先々で駆けつけ3杯、同じ酒飲みとして共感この上なし…儀式と宴会、祭りと宴会、そして儀式無き宴会を夢想する小生にしてみれば、かような、人生=旅=宴という音楽に心惹かれぬはずはない。自分らしく生きろと強制してくるもっともらしい自己啓発の制度化には反吐を催すが(檻の有無が問題なのに、檻を少し広くしただけ)、この旅のアルバムは、そうした、周到なる気味悪さとは無縁だ…ともすれば功利的になりがちな励ましとも無縁な、デキソコナイへの単なる視線こそが、語弊を恐れず云えば、愛情に近いものなのだろう…人を救わない愛…
全然関係ないかもしれないが、ハッチハッチェルバンドが、シベリヤ抑留されている日本兵の収容所に慰問に訪れるのを夢想した。宴会讃歌を歌い上げるべく世界中をどさ廻り中の彼ら、シベリヤ超特急に乗ってユーラシア大陸横断の途中、シベリヤで強制労働させられている日本人のことを聞き、たいした野心も無く訪れたいと思う。彼らのことだから、ソヴィエトの冷徹な共産官僚をウォッカ一本で上手いこと懐柔、その辺に衣類剥がされた丸太のような日本兵の凍った死体が晒されている広場に集合させられた日本人の前で演奏することが許される…いわゆる極限状況が物事の本質を炙り出すと考えているわけではないが、一体、どうなるのだろうか。生きているだけで楽しいという他愛無い、簡素な人生讃歌がむしろ心に響くのだろうし、そうした簡素が簡素であればあるほど帯びてくるインチキ臭さが、ホッとしたような、泣きたくなるような笑いを、過酷過ぎる状況の抑留者に誘うかもしれないが、実際のところ、よく分からない。ハッチハッチェルのこの音楽が、表面的には多少の私語をしようが根本的に決定的に黙る抑留者の心を鷲掴みにするのかどうか、ちょっと分からぬし、不可能なようにも思える。インチキ臭さというのは、例えば、おムード歌謡歌手が場末のおスナックへの営業廻りを30年ぐらい続けて初めて箔になる類の、本物の謂いであるかもしれない。ハッチハッチェルが本物のインチキ臭さかどうか分からぬが、まだまだ続ける事が大事であろうと他人事ながら思うし、あっさりとまた別種の音楽性へと見切り発車するにしても、やはり今後も耳が離せない。
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