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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「ジゲンオルガン/ライブ@岡山ペパーランド(2008.11.23)」 2008年12月28日先勝 無雨

 けたたましくもマスコミュニティは派遣切り派遣切りと鬼の首を取ったような正義づらの魯鈍な傲慢顔で書き立て喚きたてる年の瀬である。バブル後の好景気初期に勝ち組負け組と無遠慮に喧伝した舌の根の乾かぬうちの、言われた者の痛みを一慮せぬ言葉の卑劣をもてあそぶ無神経が、いっそ総括すれば今日の謂われ無き自然状態(ホッブズ)即ち資本主義を非科学的に制度化しているのである。ダーウィンの「種の起源」そして種の起源の資本側による功利的曲解に耐えかねて彼が世に問うた「人間の起源」からホッブズを批判したのちに資本主義批判したいところだが本題がまたしても遠のくのでまた今度。要約すれば、ダーウィンは人間の原始における相互扶助社会を証明しようとしており、生存競争はあくまでも他種属どうし、あるいは生物対環境での有り様だとしているのである。
 さて、クリスマス・イヴだというのにテレビでタケシが東条英機に扮した戦時ドラマをやっていた。その意気やよし。明治憲法であっても、天皇裕仁の戦争責任は明白である。よって国民主権の司法によって有罪とされなければならない。国民主権の無い明治憲法下で許容されていた政治判断を、後の日本国憲法下で裁けるかは罪刑法定主義の問題となるかもしれぬが、もっと言えばそれは罪刑法定主義上の問題に過ぎない。なぜならば、主権在民は人民の形式であり原理であるからである。主権は革命によって封建領主から獲得された発見物ではない。原始だろうが中世封建社会だろうが近代市民社会だろうが、歴史の責任は人民にある。たとえ世襲領主であろうとも、本性として一斉蜂起革命権(ゼネスト権)を有する人民がそれを許容する以上(ゼネストしない以上)、領主は人民に選ばれていたのである。主権在民は歴史の原理である。歴史とは民主主義である。したがって、天皇が悪い、東条が悪い、近衛が悪い、辻が悪い、武藤が悪い、松岡が悪いと述べ立てたところで、政治の失政の責任は国民にある。そして失政の被害を最も蒙るのも国民ではなかったか。
 翌日クリスマス日に、他番組は面白おかしい番組であったのに、どこかのテレビ局が「東京大空襲」という映画をやっていた。その意気やよし。当代一の女優、堀北マキの面影に釘付けになりつつ、当然ながら物申したい内容であるが、これもまた今度に。

 さて、ジゲンオルガンの続きを。英国ドリーミングサイケポップバンドのカレードスコープなぞを聞きながら書いているため、文字書きによる覚醒のままドリームに逝ってしまいそうなので結論を急ぐ。音楽における奏者と聴衆の定在に対する異議申し立ては、演劇同様に近代の産物であったろう。演劇では演者が街に繰り出すことで世界を劇場にしようとしたり、あるいは演者が市井の会話のようにぼそぼそ会話する事でこうした二元論を打破しようとしたが、音楽でも同様に環境音の発見から主客未分を問うた。言うまでも無いだろう、ケージの3分44秒(正確な時間は忘れてしまった)は、挑発的に舞台に置かれたピアノをまともに奏することなく(確かピアノの蓋を開け閉めしたり、たまに鍵盤を一音叩いたりしているだけだったと思う)聴衆の発する物音に注意を向けさせ、主客区別せぬ奏者の創出あるいは音を出す者イコール音を聴く者、という有り様を提案したのであった。ただ、こうしたいわゆる観客参加型芸能は現在、インターネット社会の発達も相俟って多大な功罪も齎しているようである。現代美術でありがちな観客参加型企画の多くが詰まらぬものだし、リニューアルした「日立 世界不思議発見」での視聴者の解答を求めるための解答選択制が精妙なる番組の流れに馴染まぬ中だるみを起こし、且つは野々村まことのナイスボケの可能性を狭める愚行であり番組の魅力を半減するものだとは、当のジゲンオルガンのドラマーの弁であったと小生記憶する。
 なお、舞台制批判においては、演劇分野においてスクリーンという科学装置を介在させる映画の出現と同様に、音楽でのレコードの発明が一役買っているだろう。生の演者奏者と客との間にスクリーンないしはレコードを介在させることで、それは読書に近くなる。こうした介在が、奏者と客との直接を否定し、作品と読者の対峙、あるいは物化した作品性が生じたのである。無論生の奏者とて作品と見なせ無くは無く、また作品の質をライブとレコードの違いで問うような事に当然意味は無かった。両者は位相が異なるだけであり、それぞれ別種の作品世界を持つに至ったのである。結局何が言いたいのか分からぬ韜晦に陥ってしまったが、それもよかろう、いずれにせよ、共産主義を批判する者は共産主義的思考しかできないくらい共産主義にのめり込む、あるいはファシズムを批判する者はファシストに自らならなければ当の批判対象を突破出来ぬ、即ち批評的立場に立って保身しながら言辞連ねても駄目だとこの頃思うようになったに付け、関が原で敵中突破しながら薩摩に帰った鬼島津を思う。ミイラ取りがミイラになった後の人間への復活にこそ新しい批評ないしは芸事が生まれるのである。
 さて、ジゲンオルガンはロックの王道である。正確には、王道になりそうな飛び石の一つである。真面目な仕事をするバンドである。王道を見定めようとせぬ、横着且つ卑猥で奇妙で不真面目で時として資本におもねながらも人望は無い道こそ、逆説的にロックの王道となっている現在までの王道なきロック史、と結論づけていた小生であるが、なるほどここまで仕事が真面目であるとさらに倒錯的にロックらしからぬという意味でロックであった。ジゲンオルガンは凡庸ですらある異端である。ここで言うロックの横着とは、過去のロック音源を聞いて当然導かれるであろう次代のロックを奏しようとせぬ、単なる不勉強が原因なのか相当のアマノジャクがなせる技なのか分からぬ結果的怠慢を言う。人間皆違うといいながらも大抵考える事は似たり寄ったりである。そうした意味でごく普通の感性の持ち主が至極普通にロックに魅かれロックを過去の創世期から順に聴いていったならば、そして自らでもロックしたいと熱望したならば、次やるならば当然このあたりだろうな、とロック史の正統系譜上の予想は付くだろう。このあたり、というのを誰もやっていない、あるいはごく少数で系譜に連なるほどの隆盛ではないから王道なきロック史なのである。件の正統系譜が仮想のまま宙吊りになっているから王道不在といわれる由縁である。そして小生は王道不在を肯定する者であるが、特に在っても良いとも考える。
 振り返るのも最早煩わしいが大局としてブルースやソウル、R&Bやフォーク等の合流であるロックは、その過程でアメリカで、白人的なるものと、母なるアフリカの土俗やアメリカ先住民の土俗と習合しながら(ブードゥー教やモルモン教)、時にアメリカ大陸同様に起きたカリブ海諸国での先住民と白人との習合土俗とのフィードバックを築きながら、その侵略性に無自覚な白人が開拓民としての土俗という珍妙な、矛盾した野蛮を野蛮なまま音楽にしていった最たるものがサイケデリアであった。これは全く新しかった。ロックを志すものならばこうしたサイケの本質に軸足を置くだろう。そして、より凶暴に激しく、即ちハードネスを切望して止まぬ。サイケの平和が静謐で薄らトンカチな欠伸から只ならぬ悪臭を吐きながら、聴く者の背骨ごと煽る、土と足裏との絶え間なき咬合である土俗のリズムは、民族に対して優しい祭りの興奮の安泰をも遠ざける白人の身勝手な狂気も乱入するものだから、人に優しくない凶暴を呈して、即ちリフという潔い思想に至るのはブルースのおかげでもある不思議。健康な人に心臓マッサージを施す無謀なおせっかいである。
 そうしたサイケとハードの両輪によるガレージの爆走が米英でフラワーしながらザ・フーやレッドツェッペリンにまで至ったところで、プログレやメタルへと伸びて行った。このそれぞれはまた大きい潮流であるので一言では言い切れぬが、有色人種白色人種の習合土俗という面白いバランスだったところが、白人的文化が勝る形で変形していったのである。シンフォニックな構成あるいはジャズ的な奏法の取り入れなどは、サイケの発生と比べるならばロックの怒号を薄めこそすれ、さほど新しくも無い消化試合の呈に近いのである(個別のバンドを聞くと一概には言えぬが)。これはこれで楽しめはするが、これからやる音楽ではない、構築美の旧態に過ぎぬだろう。これへの反発としてパンクが生じたが、サイケの、かような歴史の忸怩をあえて知ろうともせぬ明朗なる無知のケツの青い戦略的宣言もまた、特に新しくも無く小生を白けさせるにしくはない。リズムのツッパリが白人的に過ぎる表のリズムのみに終始することが多く、これはこれで興味深いがこれ以上やっても仕方なかろう。明るい表の音楽には興味が持てない。何だか、俺はこういう音楽を聴きたいんだと言っているだけのようだが、ここで、哲学など趣味の言い訳に過ぎぬと言ってのけたニーチェを引用するのは怠慢だろうか。
 さて、プログレもメタルもパンクも今更出来ぬとあればどうするか。近年流行の、パンキッシュな思想に彩られたサイコビリーなぞに未来は無い。黒人の裏のリズムもわきまえた芸達者であろうとも、それがわざわいしてグチャグチャ感が足りぬ整合性に安住しており、上っ面のサイケ臭なぞ小上手いだけで煩わしく、混沌に遊ぶいかがわしさに欠ける、物分りのいい就活野郎の上品ゆえに下品な音楽なのである。ではどうするか。凡庸なるロッカーがやるべき事は何なのか。いわゆるロックの代名詞でいながら、そのことがロックにとって漠然とした方向性でしかなくなっているハードロックを、即ちロックの王道を行くしかなかろう。そのためには、曖昧でいながら最もロックであったハードロックが至ってしまったプログレやメタルといった様式化を拒む必要があり、そのためには、サイケ=ガレージに踏ん張りながら踏み止まることが肝要である。そして、愚直にもその凶暴を今までに無く強化する事である。するとハードへと自然するだろう。こうした、サイケ=ガレージ=ハードロックが渾然となったロックにはツェッペリンがようやく到達して以降、ディープパープルはぎりぎり許容範囲とするとそれ以降、筋肉質の様式化へと固まり前期メタルの様相となるのであった。従ってかようなロックの王道(中道)は継承性を持たぬままいまだ不在である。(系譜にならぬという意味で不在は点在に等しい。)今ロックするならこの辺りである。そして、それをやろうというのが他ならぬジゲンオルガンであった。至極当然な思考の流れであり、凡庸である。しかし、実際にやっているあるいはやっていた人が少ないという詰まらぬ理由で、異端である。その優しさに縋りたくなるファンク的黒人的民族的安住を避けながらノリも大切にしながら捨て鉢な勢いでリズムの土俗をより凶暴せしめ、どもりを高い声低い声で奇声しながら、リフに身を委ねる浅知恵に頓着せぬ怒涛でひたぶるに煽りに煽り、けだしカラッとうるさい平和でもあるし、聴いてるとむかつくだけの小さい嫌がらせ、粘着質の陰湿、いっそ楽しくなくても良い内向であれ、と、ここに至って、ジゲンオルガンの実際の音楽性と小生の飽くなき熱望が混ざってしまったが、こうしたことを言わしむる音楽を提供したのがジゲンオルガンであった事は事実である。ジゲンオルガンはもう、英国的あるいは日本のGS的あるいは俳諧的とぼけ風味を加える余裕すらも捨て去って、専らロックが要請する性急さを厭わぬほどの野卑のリズム一筋に憑依されるべきである。GS的なるものについては今後きちんと論じなければならないが、日本人がやるロックとしてのGS風の加味は世界的に見て大きい特徴でも有るし、客には嬉しいおまけかもしれぬが、どうしても日の本の高雅な金満町人文化が匂うのでサイケの土着性の足手纏いになりかねぬ。それに、既にいくつかのバンドがやっている事でもあるし取り立てて新しくは無いという理由もある。キーボードとベースとドラムという編成も、うるささとリフとリズムのトリニティを成すに最小限であることはどこまでも本質的であらざるをえない。これから実地で成されるであろういま少しの修練により、ドラムは黒人の裏のリズムを会得するだろう、そしてそれを吹っ切ってまでも、ロックの不逞を奏するであろう。ロシア・フォルマニズムの詩人マヤコフスキーに「ズボンをはいた雲」という詩があるが、ズボンをはいた鬼であれ、角の無い鬼人であれ。
 既に派を立てたという意味で立派なるロックをこの世に発信し始めたジゲンオルガンの音楽性について小生如きが提案すべくも無いので、音楽とは関係ない提言をささやかながらさせていただきたく。

 1.失明せよ。音楽に光は要らない。照明を落とすか、客に目を閉じるよう強要せよ。
 2.お好みのサイケシャツの上に、蓑(みの)を羽織るべし。烏帽子も被ればなお良し。草かんむりに衰えると書くとは、何と野趣溢れる字であろうか。
 3.自身のロックに乗せて、日の本の古典を歌ってはいかがか。「へうげもの」の山田先生の初期の漫画に、方丈記の冒頭を明るく歌う村娘の話があるが、そこから創意を得ました。お勧めは、方丈記、平家物語、古今和歌集、新古今和歌集、和漢朗詠集、そして定番の梁塵秘抄といったところか。

 追伸 ジゲンオルガンの創意なのか、どこぞの気の利いた贔屓客の押し付けなのか分からぬが、バスドラムにしつらえられた、真っ赤に熟れたほおずきが初めのフットペダルの一撃で落実したのが奇しくも晩秋のライブの始まりを告げ、終わりに、同じくバスドラムに施された正月飾りが、冷静に暴れ狂うベーシストの手で天空に舞い上げられたのは、2月のとんど祭りの見立てともなり、よかった。季節は先取りしてこそ、である。

 ゆえあって脱藩するので、来週1月4日(日)は休載します。新年は1月11日(日)から会いましょう。よいお年を。

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