忍者ブログ
 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
[40][39][38][37][36][35][34][33][32][31][30]

「znr/barricade3(1975)rer znr1」 2009年1月18日 仏滅 全共闘忌

 
 本日は40年前の東大安田講堂籠城戦の日であった。これに呼応したのか、ここ数日の間に民放およびNHKで安田講堂事件を振り返る番組みがなされた。民放ではドラマと実際の記録映像を交互に繰り出す仕組みであり、且つ官憲および学生両者の視点から描く試みに見えるがそれは無論形式上の事に過ぎず、結局は官憲権力側からの総括に過ぎないだろう。専ら官憲の反共視点から描かれた浅間山荘事件の映画などでも名を上げ、今もメディア等で反共の英雄と自他共に認められる官憲の佐々淳行役を、浅間山の映画では役所広司であったが今回の民放ドラマでは陣内孝則が演じていた。浅間映画での佐々は、庶民から限りなく遠い凶悪犯罪者どもと粛々と対決解決する冷静なる正義の警察官とその的確な指揮ぶり、として演じられ、籠城者の左翼の人々の背景思想については全く触れられもせぬ徹底的な無視が決め込まれ、露骨極まりない反共国策映画といっても過言ではない。一方このほどの民放安田ドラマにおける佐々は、かつてNHK大河ドラマ「太平記」でバサラ大名佐々木道誉を演じた陣内の、不逞な気骨すらない単なる下品なありようによって、国家権力を笠に着て正義を行おうとする出自の根源的な卑しさが露出する警察という人種のチンピラ犬ぶりが如実に表されており、佐々(陣内)が醜く口をゆがめて学生どもへの悪意を噴出させながら攻撃命令を下すごとに、制作者側(メディアと資本と国家)の意図に反したのかどうか分からぬが、警察の不動の正義を堂々と示す事にはならず、専ら陣内特有の演戯の醜さによって官憲の醜さをも露呈させるに至っていた。時折この佐々は、「学生をここまで追い詰めた社会が悪いかも」、とか、果ては、「このように弾圧されて、これ以降、学生に反骨の元気が無くなったらいやだな」、といった台詞を申し訳程度に棒読みしていた。敵に憐憫されるほど屈辱はなかろう。そしてその舌の根も乾かぬうちに喜び勇んで突撃命令を煽るのである。開いた口がふさがらない小生をさらに唖然とさせたのは、元学生運動家で籠城戦に参加していて今はなぜか東大の経済学教授の、過去を振り返るようなコメント、正確な言葉は忘れたが、大意としては、「まあ、あの頃は元気があった、熱に浮かされていた、今の学生も、38℃くらいの熱に浮かされるべきではないか、40℃では困るがな」、などとしゃあしゃあと転向発言するのである。転向は構わぬが、その転向の恥を持って生き続けなければならないというのが小生の思いではある。この恥は次代の新しい運動展開の原動力になるだろう。そして恥を生き続ける実践とは、メディアに利用されぬことではなかったか。ここまで来れば最早厚顔無恥の一言では納まれぬ、これほど怒りを通り越した衝撃は全く久方ぶりであった。この教授の発言、体制の許容範囲内におさまる若い連中のやんちゃぶりとその無自覚な媚びを可愛がるが、許容外の反権力活動は否定する、明白なる体制側意見であり、団塊にありがちな趣味の悪さを露見させた。だいたい、法律遵守しながら革命などできるか。この教授、および、陣内にああした台詞を言わせた制作者側は、大江健三郎の小説世界であれば、直接行動を辞さない左翼残党の総括部隊によって真っ先に半殺しの標的になるだろう。無論、小生はこの教授をよく存じ上げないし、それにテレビのやることだから、たとえこの教授がマルクス主義についての私観を捲くし立てたとしてもカットされる可能性大である。(東大にそんな教授がいるとは考えられぬが)
 官憲が活動家を憐れんでいるような台詞を吐かせることで、運動の脅威をも体制に取り込んだことの既成事実を肯定し、かつ、実際にすっぽり体制に飲み込まれた(らしき)教授を出演させる。もし極左の人々が生き残っておれば、主義と言うよりも人間としての怒りに実直して、形振り構わず制作者に攻撃をしかけるだろう。しかし、こうした放送がされたということが、むしろ、この放送を見て怒りに駆られる極左など最早存在せぬと過信する体制の意図がうかがえるのであり、事実そうなのだろうと小生思う。勉強不足の連中に共産主義の要旨を説明しようともしない浅薄さでありながらも、一応、学生と官憲を平等に描こうとした番組意図が、その余裕が、反権力運動の終わりを一方的に宣告しており、歴史の年表に書き込んで過去に封印しようとしているのである。ただし、ドラマ中、講堂を取り巻く官憲の後ろで、老人が、旧帝大の戦争協力を声高に告発するシーンがあったが、辛うじて民放の良心をここに目撃した。
 ただ、なぜ今頃メディアは学生運動を取り上げるのだろうかと考えた場合、やはり昨今の、資本主義批判に傾きつつある民衆の心情にあるのだろう。資本主義がおかしいから共産主義、というのも今となってはあまりに短絡ではあるが当然の成り行きではある、蟹工船は売れる、党員は増えてもいる。そうした社会情勢に呼応するようにしてメディアは過去の運動を取り上げるのであるが、その内容の多くは体制側であり、運動の無意味を暗に訴えるものであり、蒙昧な庶民に思想家=危険人物、という図を植えつけるのである。往時の左翼運動をよく知らぬ若い者らの、共産主義への淡い憧れを予防すべく、体制側は、運動の無意味さ、転向者の無恥の醜さを晒すのである。
 そうはいってもNHK、元活動家の、それぞれのその後をじっくり追うルポ形式にて、どこまでも放送の中立への意志が見て取れた。指摘したいシーンは山ほどあったが、安田講堂事件の写真展なるものが最近開かれ、かつての闘士たちが運動を懐かしむために集うという、ある種の団塊特有の醜さが露呈する場面を挙げておきたい。また、元活動家の教授が、学生に鍋物を食わせながら、アジ演説を聞かせて感想させる場面があったのも興味深い。録音のアジ演説、早口すぎて小生には全く分からなかったが、学生にはその筆記資料もプリントしているようだ。距離を置く反応しかせぬ今時の学生。そういえば、今年早々に、NHKで、去年11月の東大駒場祭にて、学生らと、元全共闘の団塊らとのシンポジウムが開かれたのを放送していた。どういった議論が交わされたか、殆ど流されなかったが、キンキキッズと吉田拓郎とのフォークを介した結託、つまりキンキキッズの、吉田拓郎およびフォーク世代への媚び(近々きっちり書きます)、のような、最近の打たれ弱い若者に見られがちな団塊への無恥なる媚びでなければよいが、と願う。そういえば民放でもNHKでも、出てくるのは元活動家ばかりであった。恥を知る活動家は矢張り野に下りて草の根運動を着実に紡いでいるのか、いずれ日の目をみることを陰ながら願う。
 さて、ZNRである。フランス。日本全共闘ではしきりに、インターナショナルを時に歌いながらも、世界の音楽手法の歴史から全く眼を背けたルサンチマンに無恥無自覚で何よりも音楽として退屈極まりないフォークソングを歌っていたようである。(ただ、メディアはロックを本性的に決して照らさぬので、ひょっとしたら全共闘でもロックされ、しかしメディアによって体制馴致のフォークにすり替えられたのかも知れぬが)しかし、1968年パリの5月革命では、バリケードの中でロックが奏された。(例えばその名も「コミンテルン」というバンドがバリケードでギグしていた)このアルバムの成立詳細はライナーを参照していただきたいが、当時のフレンチコミュニスト学生がアンガジュマン(政治参加)ロックしていた頃の生の音である。比べるのもおこがましいが和製フォークなどは全く話にならぬほどの、人間の音楽史を出来るだけ身に受けようとする気概のある音楽性である。最早、いわゆるブルース形式すら捨て去ったフリーインプロヴィゼーション作品である。拙い、幼稚ですらある爛漫な小声のキーボードが訥々しながら、凶暴むき出しのサックスが突出するも、あくまでも弱者の怒りを意地悪く剥きだす巧妙かつ意義深い音楽である。言語も英語、仏語、スペイン語、中国語とインターナショナル。どこまでもフリーにその辺の雑貨を叩いたり、ノイズや物音、自作楽器も当然やる知性。過去の音楽制度をしっかり見据えた上でそれへの反抗を試みるこうした音楽は、矢張り政治革命の本義にも適うだろう。(無論、ここまで書いておきながら今更であるが、ZNRの音楽は左翼の教条的解釈におさまるものではない。ただ音楽として注意深く聞くことが肝要)対して、和製フォークは、先述したようにその音楽形式への無自覚のため、体制馴致の音楽に過ぎない。よって、同じく革命を志しながら、日本全共闘とパリ5月では少なくとも音楽のレベルは歴然であるばかりか、革命の試みの結果にもそれは現れた。パリ5月では学生だけでなく労働者との共闘もあったことが一つの成功を導くが、安田事件では労働者を巻き込めなかったという挫折、運動の未成熟さは音楽に如実に現れているではないか、と下衆の勘ぐりしたくなる。フォークなどやっているから体制に飲まれるんだと野次されてもあながち野次には留まらないだろう、結局はそうした拙い音楽観が政治レベルでも露見してああした体たらくになると、少なくとも音楽の側面からは断言できる。ZNRはレコメンディッドレーベルの日本支部「ロクス・ソルス」で買えます。

 joseph racaille :acoustic and electric guitar, ARP2600, voice
hector zazou :ARP2600, VCS3, bass, violin
patorick portella :bass clarinet, clarinet
andre jaume :soprano and tenor sax
david rueff :alto sax and flute
haevey neneux :guitar
gilly bell :ARP2600&c
fernand d'arles :percussion

 大河ドラマ「天地人」で、上杉軍が山脈の尾根を行軍するに魅せられて、来週からしばらくの間、ザッパの音楽山脈を論じます。2回ザッパのアルバム、1回その他のアルバム、という形式で連載します。この山脈を超えずして、ロックは語れぬ。今まで逃げてきたが、時が来たのである。

拍手[0回]

PR

この記事へのコメント

Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
管理人のみ閲覧できます
 

この記事へのトラックバック

トラックバックURL

忍者ツールズプロフィールは終了しました

HN:
々々
性別:
非公開

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

ロック史最新記事

(03/03)

ブログ内検索

最新トラックバック

最新コメント

[04/09 VonaldaDupt]
[04/08 TrealdaDupt]
[04/08 TrealdaDupt]
[04/07 VonaldaDupt]
[04/06 TrealdaDupt]

忍者アナライズ

Copyright ©  -- 仄々斎不吉 --  All Rights Reserved

Design by 好評ゼロ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]