ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「blues magoos/psychedelic lollipop(1966) repuk1049」 2009年5月1日 頭痛
見なければよいのにテレヴィのニュースなぞつらつら見ていると、時に、航空自衛隊やレスキュー隊の候補生の選抜のための訓練、の模様が流される。半年ほど前に、航空自衛隊の新人訓練、つい先日に自衛隊から選抜された者らのレスキュー隊の訓練、がニュースの合い間の特集として放送された。訓練や試験というと聴こえはよいが、端的にそれは世界中の軍隊特有のしごきであり、せんべいをばりばり齧るたるんだお茶の間の衆目には耐え難い暴力映像であろう。例えば航空自衛隊の新人へのしごきでは、新人の中にいる一人の女性に焦点が当てられるのだが、新人らの部屋の布団が同一に整っていないのを理由に、先輩と称する国権を笠に着た犬どもが、部屋の新人の私物を全て野外に放り出して、犬どもが望む同一の有り様になるまで片付けと放り出しを繰り返したり、入室と敬礼と大声での号令を何度もやらす、といった胸糞悪い不条理の強制である。新人の女性は涙を堪えながら泣いたりして、すると新人の班長に、犬の一人が、あいつどうにかしろよ、みたいな醜く見下した表情で見やったりする。まったく、実際のところ、犬に対して失礼なほど、真性の人間の醜さの炸裂映像である。苛烈で即物的なしごき映像からスタジオに切り替わるも、小奇麗で非生活的なスタジオの空気に解消されようも無く、それでも好意的発言で場を和まそうとするニュースキャスターの苦しいコメント。
あるいは自衛隊から選抜されたレスキュー隊のしごきでは、直接的な肉体へのしごきもさることながら、新人らの脱いだ靴の紐が揃ってないことを理由に、連帯責任でまた肉体酷使が罰として与えられたりする。その間の、犬どもの怒鳴りや罵りは航空自衛隊と変わるところは無い。犬どもはいっそ無言で、しごかれたがっている保守的新人犬をしごけば、新人犬の忍耐力増強という犬どもの目的に叶うだろうに、罵詈雑言やお前のためにやってるみたいな事を浅知恵に任せて言うために、それが、権力の犬たる由縁である。
外敵侵入に対して専守防衛する自衛隊や災害現場でのレスキュー隊が任務を成し遂げるには権力への絶対服従と同一行動が必須であり、従って絶対服従と同一行動を叩き込むしごきは必要であり、しごきは暴力であるなどと騒ぎ立てるのは現場を知らぬリベラル小市民のきれいごとに過ぎぬといわれると確かにその通りである。
ただ、もしそうであるならば、小市民なりに、私たちは、権力に許されたしごきとそうしたしごきに盲従するしか能が無くそしてしごきを再生産する自衛隊やレスキュー隊の助けを、断固として拒否しなければならない。命がけのきれいごとを守らなければならない時が来るであろう。最早この概念に何の希望も抱けない民主主義、であるが、民主主義を守るため、私は、災害や事故で死にそうになっても、レスキュー隊の助けを拒まなければならないし、出来るだけ頑張るがいよいよとなれば従容として死を選ばなければならないのか。外敵侵入に際しては市民による統率無きゲリラ戦しかないだろう、ただ、核に対しては無力であるし、国民国家が私利私欲で乱立する現状況に対しては、やはり盲腸炎のように暴力汚物と共に痛みに耐えながら生きていかないといけないのか、悩ましい。国家権力による暴力を受け入れるか、市民個人らによる野放図な暴力を受け入れるか、の選択の前提を疑う議論も現在はあり、なんにしても退屈である。なんにしても民主主義は元来命がけのものである。私たちは、権力を笠に着て正義を行なおうとする軍隊や警察などという人種を絶対に信用してはならない。
現在のアメリカや戦前の日の本のように、貧困に耐えかねて入隊するといった事情が少ないにも関わらず、わざわざ、しごきといじめの現場である軍隊とその下部組織に入ろうとする、今に始まった事でもないのだろう、保守的な若い連中を軽蔑することから始めなければならない。
さて、ブルースマグースである。アメリカ。サイケデリックという単語をアルバムに使用した最初期のバンドと言われていることで時として一般のロック史に顔を出すバンドである。まだ10代の、年端も行かぬ者らの音は、ガレージというよりもサイケポップ的な、比較的おとなしめながらも、主としてキーボードを気弱に鳴らすことでサイケの音色に近づく。しかしながら捨て鉢でひねこびた攻撃的楽曲もあり、サイケデリアの根暗な北そ笑みの面目躍如もあり、油断は禁物である。退屈さを厭わぬ、いかにもサイケっぽい冗長なインプロもやってみる素直。取り立てて演奏が激しいとか野蛮だとか上手であるとかいう特徴は無く、凡百のバンドの一つかもしれないが、安易なフラワーに流される事なく、衆に恃まぬ、バンドという単位のみが奏でうる心優しい楽曲の素養には、英国の彼らの影響があるのもこの際致し方ない。英国の彼らとは、その内の一人が暗殺され、その彼に声も姿もそっくりなその彼の息子が日の本の車の宣伝に出たりしている叙勲バンドである。
ralph scala:keyboard
ronnie gilbert:bass
emil "peppy"thielhelm:rhythm guitar
dennis lapore:guitar
john finnegan:drums
「mutantes/mutantes(1969) bom22004」 2009年4月26日 旧寒
人々の中で生きていると、時として独り言をぶつぶつのたまっている人に出くわすものである。小生の出会った独り言人は、大きく分けて二つ。一つは純然たる独り言系で、その中でも、何かしらに対する罵詈雑言系(「糞ったれ!」「ああああ」「あいつムカつく」「絶対殺す」「何でワシが死んでアイツが生きとんや」(?)等々)と、己の精神中の出来事を延々と忠実に口にするプルースト-ジョイス-ベケット的なモダン文学系である。こうした例は公共交通機関や公園などによくいる。
しかし、二つ目の、対話型の独り言は、なかなか居るものではない。先週、行きつけの詰まらぬマクドナルドで、小生定番のダブルチーズバーガーセット(飲み物はコカコーラ)を貪っていたら、隣のおばさんが何やら大声でぶつくさ言いよる。携帯電話しているのかと、いまいましく思いながらふり見ると、電話せず、コーラだけをテーブルにおいて、ああ、独り言系の人である。そして、その取り留めの無い内容を聞くに、珍しくも対話型であった。あまりに取り留めの無い言葉たちなので小生にも、そして本人にも恐らく一切記憶に残らなかったが、どうもおばさんが一方的に喋っており、その喋り方は、二人称に対する構造を持ち、時に相槌までうっている。一度店を出たが、置き忘れたどぎついピンク色の帽子を取りに戻り、そして何者かと喋りながら街へ出たおばさん。
さて、ムタンチスである。ブラジル産サイケ。本作は彼らのセカンドにあたる。60年代末、カエターノ・ベローゾやジルベルト・ジルといった人物が中心であるブラジルのサイケデリア運動「トロピカリズモ」に参加していたロックバンドである。プログレッシブロックは英国のみならず、北欧、東欧、アジアなどにご当地プログレが思い起こされるが、プログレほどではないにしてもサイケデリアでもご当地サイケがあるだろう。ご当地ものには、米英と違ってブルースの模倣、消化、脱却といった地道なロック弁証法に鍛えられた生え抜きの経験がなく、そうした米英の経験をパッケージで輸入したのがロック受容の歴史とならざるをえないところがあるとしても、そのことがご当地におけるロックの未熟を説明するものではない。そいしたことは関係ないのがロックのインターナショナルなところであるが、しかし、そうすると、ロック受容が、ブルーノート即ち音階との格闘という音楽の核との桎梏を逃れて、ポップス的なアレンジ感覚あるいはファッション性となりがちになるだろう。そうしたアレンジ感覚の広がりに助力したのがサイケデリアであり、もっと言えばサージェントペパーズ的サイケデリアの功罪であった、とここに断罪したい。英国の植民地主義帝国主義のなれの果てがサイケデリア伝播にも影響を及ぼした、とまで言う気は無い。
このムタンチスでも、名前の通り(=ミュータント)、サージェントペパーズ的サイケデリアのアレンジ感覚と、南米大陸の豊かな音楽文化や新興ジャズのボッサ・ノーヴァとが奇妙にも自然に馴染み、共生している。散りばめられた奔放な不協和音をも辞さぬ創意のフラワー感が、ボッサ調の憂鬱の五月雨にうたれ、熱帯地方の束の間の清涼を聞かす。
ただ、こうした輸出入可能だった貿易サイケとは別の、まさにそのご当地の事情から生まれた土着のサイケデリアはもっと各国に無いものか、と小生欲する。土着のサイケは、各国文化の深化もさることながら、自ずと米国ブルースを突き抜けて、足を踏み入れた事の無い無双夢想のアフリカの土俗土足の荒くれに至るだろう。少なくとも北米大陸には、ザッパ&マザーズ、ドン・ヴァン・ブリート、ブライアン・ウイルソン、ドクター・ジョン、ヴァン・ダイク・パークスなどが、ムーブメントを拒否する猛々しくも土着のサイケデリアを孤立した人の共有されない夢のように発奮させていたし、英国にはソフトマシーンが、そして日の本ではスパイダースが「フリフリ’66」だけでも日の本独自のサイケデリアの可能性を示したのである。
私たちの土着が即ち音楽であることを示す、「サイケデリアの鎖国宣言」を成しうるサイケデリアを欲する。(なぜならば、小生は、米国の独立宣言に否定的であるからである。詳細はまた今度。)
リタ・リー
アルナルド・バチスタ
セルジオ・ヂアス・バチスタ
野点放浪記第一回観桜茶会
ついに野点放浪記始動。その第一回の野点茶会「観桜茶会」の茶会記が左にあるので今すぐクリック!動画にてお楽しみいただけます。音声付きですので音も出して!
「frank zappa/lumpy gravy(1968) rykodisc rcd10504」 2009年4月18日 忘冬
不況の煽りを受けて第二、第三金曜日が休業となったため、己の内観を深める契機にすべきだがそうは問屋卸さず、暁を見届けての春眠三昧。おかげで余計頭がすっきりしないので無駄に長い朝寝昼寝夕寝と相成る愚行ぶりに辟易しながらも、三昧の合い間に読むは、井伏鱒二の他愛無くも滲みる随筆「点滴・釣鐘の音」、そして道元禅師の「正法眼蔵」であり、それなりの充実を図ろうとする性急なさもしさが、禅師の鉈のような容赦ない漢文とともに暴発する仕儀。岩波書店版日本古典文学体系のものを読み始めたのだが、前座として所収されている編集者の解説読むに、中世日本の無常観の断絶、を指摘、証明しようとしていたのが気にかかった。要約すると、特に徒然草や方丈記において、冒頭から中盤までは、どちらかというと意匠としての無常観、ファッションとしての無常観であったのが、後半では内省的な、いわゆる本気の、カッコつきでない無常観に変遷した、と言いたいようなのである。前者の無常観は、現世の、たとえば戦乱や旱魃、飢饉、大風や武家の台頭貴族の没落などといった現象を目の当たりにしての率直な感想程度だったのが、後者の無常観は己と世の原理としての無常、即ち中世仏教の影響が色濃くなり、その中でも、「正法眼蔵」の影響は多大だ、と言うようなのである。通説どおりの、いわゆる、日の本固有のへなへな多神教文化に対する、外来としての仏教あるいは儒教原理の対立、による日本思想史の変遷、という図式に対する批評力は小生持ち合わせていないので何とも言えぬが、そう云われると、中世仏教と無常文学との関係のみならず、本居宣長の漢心批判に代表される国学勃興、とんで第二次大戦前後の日蓮門徒の国粋的動き(血盟団、あるいは関東軍の石原莞爾)やロマン的動き(宮沢賢治のイーハトーヴ幻想)、が教科書的に思い出されるのは小生だけではないはずである。
それはさておくとして、言語表現のひとつに比喩、なるものがあるがあるが、「正法眼蔵」や新古今和歌集なぞ読むと、小生にとっての比喩表現がいかに西洋の、たとえばロシアフォルマリズムやチェコ構造美学に毒されていたかが分かる。こうした理論では比喩は実際に対する過度な強調や異化によって印象を強める事で物語移入を促すとされている。対して、老荘でもそうなのだろうが正法眼蔵に出てくる水や月といった物象は異化ではない、ありのままの表裏無い相なのだろう(原理、というと違う気がするし、未熟な小生にはまだ何ともいえぬ。)。あるいは新古今では、枕詞掛言葉縁語の重なりによって、歌の対象を強調するのでなく、むしろ淡く淡く印象を消し去ろうとする彷徨、といった主張の論文を、うろ覚えだが、「国文学 解釈と鑑賞」という雑誌で読んだ気がする。
それはそうと、正法眼蔵、煙に巻かれながらもビシビシ鞭打たれるような面持ちで読まざるをえぬ。禅系の書物は無門関でも臨済録でも以心伝心なのか暴力的だなあという素朴な感想持っていたが、道元には、文学的表現を拒否すべしと言いながらも言葉への執拗がある。なかでも山水経などは、既にブランショ的夜でありながらもしっかり現実、であり、小生励まされます。現成公按の一説をここに写経。
人の悟りをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も爾(弓偏あり)天も、くさの露にやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
なお、意匠的無常から内省的無常へ、という指摘であったが、正直なところ、その差異の明確は非常に難しいのではなかろうか。その差異は在ると小生も考えるが、説明は、何とも困難である。翻って、サイケデリアはどうだろう。これまで、いうなればファッション的サイケデリアを否定し本気のサイケデリアを顕彰してきたが、実のところ、この王道無きロック史では、その論拠をいっこうに説明できていない忸怩がある。また、実際のところ、ファッションが駄目で本気がよい、と言える根拠は無い。ただ、21世紀になって出てきた、ラブサイケデリコ、などというバンドの音を聴くと、小生の鼓膜が般若のごとく怒りと悲しみの形相に歪むのは事実だ。真正のサイケデリアは野蛮であるとか凶暴であるとか性急であるとか獰猛であるとか、形容詞を無責任に連発してその差異を煽るだけ煽るだけで、決定的なことは何一つ言えていないことは賢明なる読者諸氏には承知のうえ、見限る方もおられよう。音楽を単なる現象的結果と思えば、ドラムとベースとギターの配合の妙を技術的に記述する事でサイケデリアを記述できるかも知れぬが、小生、そうはさせじ、と考える。悲しみを、脳のホルモンのある種の電流で説明しようとする頭の悪い脳神経学者の愚を思えばこそ。道元も、薪と灰は関係ない、薪が燃えて灰になるというは嘘だと喝するように、電流と悲しみとの関係は如何に再現性があろうともそれは科学的盲従に過ぎず、再現性は関係性を保証する絶対ではありえない。科学的再現性などは人間の寿命内の有限回数に過ぎず、従って関係の絶対性を保証できない。科学的再現性とは、そうした脆弱な関係性が、せいぜい統計学的推測上の正しさ、にすり替えられたレトリックに過ぎないのだから。聞けば分かる、と言えばそれまでであるので、勉強します。
このほど、久方ぶりに、日の本が生んだロック史上最高峰のバンド(ここではあえて名は出さぬ。いずれがっぷり四つに組んで論ずるゆえ。2007年解散?)のアルバムを聞いたが、至高の音楽であるにも拘らず、その溢れんばかりにエンターテイメント性のせいなのか、その楽曲の多くが小生の欲するサイケデリアとはどこか違ってファッションに過ぎぬサイケデリアに留まっている節があり、小生のささくれ立った心が今一歩のところで癒されず残念に思えたので、こうした事を書いた次第。はたして日の本に誠のサイケデリアが生まれるのか?
さて、ランピーグレイピーである。サードのwe're only in~の姉妹作品である。ザッパ個人名義の最初のアルバムであり、ロック色は薄く、ザッパの現代音楽趣味が固執したスタジオワークごりごりミュージックコンクレートサイケデリア作品である。お楽しみあれ。
FRANK ZAPPA
THE ABNUCEALS EMUUKHA ELECTRIC SYMPHONY ORCHESTRA & CHORUS
「the electric prunes/lost dreams(1968?) bmr022」 2009年4月12日 散春
所蔵している書籍の記憶が遠くなりがちなのは、全ての本を収蔵、総覧可能な本棚がいまだ無く、そこいらに無造作に積み重ねては奥の本が見えない悪状況のためとも言えず、自身の怠慢による、自身の記憶が日々曖昧に霞んでいるためなのだろうと思い、老いと呆けへの微かな恐れをちらとでも感ずる。そうした由でうっかり、既に所持しているのにもう一冊、なぜか新しい気持ちで購入してしまった本としては、ベルクソンの「思想と動くもの」、そして幸田露伴の「幻談・観画談」であった。特に後者に関しては、忘失の彼方から定まり難く迷い現れる感がその風情に合っており、よろしいのであるが、そうはいっても本日、読み終わったので書庫にこの露伴晩年の傑作を納めようとしたら、既に同じ岩波文庫のものが鎮座しており、ぎょっとせざるを得なかった。
さて、エレクトリック・プルーンズである。プルーンというのはそういえばしきりにザッパの歌詞に、恐らくイヤラシイ意味合いで出てくるが、どこかアメリカの、サイケデリアの風土に根差した風物なのだろう。そして何よりもエレクトリックであるからして、電気的であり、且つセクシャルである両義性を含む事は確実であろう。ガレージ・サイケデリアの徒花である。本CDは彼らのLPを纏めたコンプリートである。ドン・ウオーラー氏の解説も、当時としてはありがちながら滋味あってサイケデリア人脈の妙を綴っておるのでそれを読み、そして音を聴くだけでよいのであるが、ご閑読の段。
結論としては、全曲、よい。ダルく不敵なリズムと分明ままならぬまま、独自の素人くさい実験ファズ音が利いたギターと変態じみた野蛮な声どもが噛み付いてくるし、演奏技術を振り捨ててまで生き急いでいる性急さなのであるから、正真正銘のガレージの国民、否、移民である。the 13th floor elevatorsやブルーチアー、ブルースマグースなどと並んで、ガレージ、そしてサイケデリアを解するのに最も適したバンドの一つである。
昨今、NHKで、一押しのバンドとして、黒猫チェリーズなるバンドを聴いた。エッジの利いた裏のリズムを攻撃的にまとめる技量は相当高く、邪気をがなる凶暴性の音楽であり、中々に聴かすものであった。しかしながらその音楽性は、意識的なのかサイケデリアの地獄を排除しているのか知らぬのか、パンク由縁の、パンカビリーやサイコビリーなどと90年代以降創出された鋭さと技巧なのである。悪くは無いので今一度聴きたいものであるが、小生の、鬱屈に荒れに荒れた心と相伴してくれる音楽は、火事場に石臼を担ぎ出して大八車で暴走する不器用な暴走あるいは凶暴な、ささくれ立った形振り構わぬガレージの原初である。サイケデリアの殺意であり、パンクやメタルの小器用ではなかった。
サイケデリアを現在に蘇らせるに際して懐古趣味から脱するのは容易ではないが、ガレージの、ロックの坩堝の怒りに思い致せば可能であると、一縷の望みつないで、エレクトリック・プルーンズの殺伐には、小生、心より癒されます。
「最初に抜けるのは誰だ?」などと言い争った挙句、あっ気なく彼らは解散した。
james lowe-vocals/autoharp/rhythm guitar/tambourine/harmonica
weasel-vocals/rhythm guitar
ken williams-lead guitar/effects
mark tulin-bass guitar/piano/organ/marimba
mike gannon-rhythm guitar/vocals(track 12&22)
preston ritter-drums
quint-drums/percussion(track 1,11,12,23)
「うしろゆびさされ組/うしろゆびさされ組ベスト(1985~1987) pcca-01615」 2009年4月5日 桜春
洋式便所の便座を下ろしたまま排尿することは男にとってささやかな挑戦であろう。わずかに入口が狭くなるだけではあるが粗相すればそれなりに被害は甚大であるからして、こうした挑戦に賭ける事からでも何かしらあてどない人生の飛躍を遂げたいものである。
本日はNHK日曜美術館の新編成スタートの日。壇ふみの後継が和久井映見にならなかった不満を押し殺しつつ、姜氏の手並み拝見と相成った。結果、ゲストの村上隆の、西洋近代論から一歩も出ぬ詰まらぬ発言はどうでもよいとして、まだ馴れぬながらも持ち前の小声で説得力を番組に染み渡らせていた。今後に期待が持てよう。女性NHKキャスターがお約束のように、画家の青年期までの孤独な生涯、という定形から画風の解説をゲストに求める陳腐も、もう何も云うまい。ただ、スタートから蘇我蕭白を取り上げるとは、過去に取り上げたテーマでもあるが、やはり見る者を相当に本気にさせずにはおかぬ。しかも、生涯初めての、野点茶会を控えた茶人にとっては、奮起されることこの上ない。ついに、野点放浪記が始まりました。その第一席「花見茶会」の模様、後日発表したいので、乞うご期待!
さて、うしろゆびさされ組である。おニャン子クラブの音楽性は50年代の前ロック的な、プレスリーがいるかいないかのいわゆるアメリカオールディーズ楽曲に、秋元歌詞が乗っていたし、ウインクの音楽性はクラフトワーク、YMOの経験も生きているユーロビート・テクノ音楽を基調としていた。その間に当たるうしろゆびさされ組は、ロックに近いポップスであるだろうとの想像に難くない。おニャン子でも歌唱力があってスピンアウトしたデュオの彼女らの楽曲は、例えば代表曲「うしろゆびさされ組」や「渚の『・・・』」に聴かれる只ならぬ性急さによって、ガレージサイケの性急さ、あるいはガレージサイケの模倣あるいはその模倣不可能性の下に不敵に居続けたパンクまでの歴史に通ずるだろう。一瞬ではあるが土俗的に迫るドラムがその証拠だ。うしろゆびさされ組という、世間から弾かれた諸相に生きようとする気概がそのままバンド名になった彼女らの音楽は、アイドルといえども反抗のロック史に燦然と輝く。ハイスクール奇面組の主題歌でもあった「うしろゆびさされ組」の歌詞では、ロマン的狂人から逸脱した「変態」(無論、奇面組リーダー、一堂零のこと)への愛を歌っており、ザッパ的なるものとしてのサイケデリアを発端とする「変態」の、系譜ならざる点在する系譜が、80年代日本アイドル界で突発したのである。勿論、サイケデリアの殺人的変態と、文字通り戯画的な奇面組のハチャメチャな変態とは大いにことなるが、変態どうしに共通点などあるはずがない、途方も無く異なるから変態なのである。前述した性急さは、「うしろゆびさされ組」の歌詞にもあるように、趣味が悪いねとまわりの友達は言うけど魅かれてしまうその悪趣味の対象と合致する。異常で野蛮な性急さと悪趣味が合致したとき、米国のDEVOあるいは80年代英国のモダンポップをも彷彿させる、と言い添えたい。秋元康らの80年代アイドル歌謡のある種天上的トロピカル世界観については、いずれ課題としたい。
「frank zappa the mothers of invention/uncle meat(1969) rykodisc rcd10506/07」 2009年3月29日 憂春
テレビ番組の年度末ということで今期を以って終了する番組が多いようである。なかでもNHK日曜美術館、壇ふみの降板は小生に限らずとも大きい事件であろう。かねてより壇ふみの後継として和久井映見を推していた小生であるが、そんな小さな声が届くはずもなく、熊本の在日韓国人評論家の羹氏と、NHKの女性キャスターが後釜に座ったようである。どんなもんかいなと本日鼻息あらく午前9時にチャンネルセットすると、小生のしつこい課題である日曜美術館はやっておらず、春の高校野球が放送されていた。相も変わらず団塊世代とその追従者らの玩具に過ぎぬ高校球児の奴隷的見世物ぶりは、空襲警報のような試合開始のサイレンと相俟って吐き気を催す。
野球漫画でありながら、ほとんど名人芸的にしみる漫画「あぶさん」の酒豪、影浦安武がついに現役最後の年、引退を決めたようです。なんと年齢は60代。一抹の淋しさ、しかしあぶさんの衣鉢を継ごうとして物干し竿(あぶさん特注の長いバット)に執心するルーキーの名前、梅桜風太郎というのだが、なんとも、同じ掲載雑誌(ビッグコミック)にある浮浪雲(はぐれ)のようで、生産や実体から遠く浮つき、じつに風流である。
一つ吾ながら名句を物にしたので眉汚しにご披露。
梅と桜うちかさなりて雪ときゆ 不吉
自讃まことにおこがましいが、万葉(梅)から古今(桜)まで総覧しつつ、花と雪が境なく互いの印象を打ち消すように渾然とした新古今の世界を平明に叙しながらも、それが近世発祥の俳句、即ち、西行の和歌、雪舟の絵、宗祇の連歌、利休の茶、その通ずるものは一なり、と喝破して自らを風流の後継に任じた芭蕉に代表される蕉風俳諧にもなっている。やまと歌の歴史がすべてここにある、と勝手ながら自負している。
さて、マザーズのアンクルミート(肉伯父さん)である。前年68年にランピーグレイピーという、欠かすこと出来ぬアルバムがあるが間違えて先にこちらを。60年代のザッパ山脈の最高峰である。最高峰ばかりだから山脈であるのだが、そう書かずにはいられなかった。最早言葉が追いつかぬほど盛りだくさんのこのアルバム、ブルー・ノートとその踏襲、変奏というロックの形を必ずしも守らなくてもロックでありうる可能性を開いたばかりかその極限まで突き詰めてしまった感がある。全くブルーノートから逸脱しているのでもないし、かといって微かなロック形式を、ミュージックコンクレート式に継ぎ接ぎすることで旧来のロック形式からの逸脱を狙う、といった、単に目新しさに鵜の目鷹の目である幼稚な方策ではない。無論、メンバーらが自分がどこをどのように演奏したのか、完成品を聴いても分からないほど編集に賭けているザッパであるから、そのカット&ペーストは、先に挙げたミュージックコンクレートやその他コンテンポラリーミュージックのみならず、当然ながらレイモン・クノーやバロウズといった文芸分野での切り貼り手法、そして何より先行した絵画分野でのキュビズムといった成果への意識の高さが方法論として聴こえる。
そういった編集技術もさることながら、ヴァレーズへの傾倒著しいザッパであるから、ここはザッパ音階と呼んでもよいような音の運びが、ブルーノートに収まらず既に独特であった。四海あまねく全ての民族音階やそれに含まれるブルーノートや沖縄音階、平均律、ドビュッシー音階、十二音技法(シェーンベルク)、偶然性(ケージ)、管理された偶然性(ブーレーズ)、セリー技法、といった、音楽にとって決定的に制度的である音階の中で、ザッパ音階が誕生したということも提唱したい。元来、音階の発明が音楽家の成果であり、音楽家の誕生を意味するのではなかったか。いかにもロマン主義的な音楽家あるいは作曲家という概念を否定したところからポピュラーに広まったロック史にあっては、ザッパやザッパ同様に独自の音階やリズムを持つ者は異端であり続けた。そうした史観をいたずらに否定するつもりは無い。しかし、ロック史のポピュリズムを批判的に検証したい反逆の心抑えがたく、そのためには、旧大陸的ロマンチストというよりも、ロマン主義の影響を免れえた新大陸の変態でありえたザッパやドン・ヴァン・ブリードやブライアン・ウイルソンといった点在する者らに耳を澄ましたいのである。
音階だけではない、ロックは音色の探求にも熱心であり、ザッパとて例外ではない。既成の楽器から、いかにテクスチャーの異なる音、即ち音色を引き出すことに執心したか、ギター史だけとってみても明らかである。11番目の楽曲アンクルミートバリエーション、ザッパ音階による天上的に壮麗な世界を、薄汚く変声された卑小な声が歌い上げる白眉である。
あと、本アルバムはCDで2枚組であり、1枚目は精緻に組み上げられた感のある、編集職人魂の面目躍如であるが、2枚目に至って、編集美の構築なぞ糞食らえとばかりに、編集の妙を全否定するように、自作の意味不明の映画のナレーションやら即興演奏やらがぶち込んである無茶苦茶である。一体に、何を以って、作品としてのまとまり、などと断定できるのであるか。お前の制度化政治化権力化大衆化された趣味を押し付けるな、とでも言いたげに、絵画はとうにそうであるが、音楽の間口の広さを成立させた。それにつけても文芸の間口の狭さよ、3ページ置きに鼻くそが付着していたってよいではないか。見渡せば、何一つ危険を冒さぬ、お上と資本に喜ばれる伝統工芸小説ばかりである。
もう一つ感想。このアルバム、まことに楽器数多いわりにはすっきりして聴こえる。そしてやはり、異様な創作意欲の暴発のわりには、どこか物寂しい。聞き込むにつけ、かつて引きこもり少年だったザッパの、如何に大勢の仲間との音楽的交渉能力を常に試される社交的生活にありながらも、基本的な侘びへの理解が聴こえるのである。
FRANK ZAPPA guitar, low grade vocals, percussion
RAY COLLINS swell vocals
JIMMY CARL BLACK drums, droll humor, poverty
ROY ESTRADA electric bass, cheeseburgers, Pachuco falsetto
DON (Dom De Wild) PRESTON electric piano, tarot cards, brown rice
BILLY (The Oozer) MUNDI drums on some pieces before he quit to join RHINOCEROS
BUNK (Sweetpants) GARDNER piccolo, flute, clarinet, bass clarinet, soprano sax, alto sax, tenor sax, bassoon, (all of these electric and/or non-electric depending)
IAN UNDERWOOD electric organ, piano, harpsichord, celeste, flute, clarinet, alto sax, baritone sax, spesial assistance, copyist, industrial relations & teen appeal
ARTIE (With the Green Mustache) TRIPP drums, timpani, vibes, marimba, xylophone, wood blocks, bells, small chimes, cheerful outlook & specific enquiries
EUCLID JAMES (Motorhead/Motorishi) SHERWOOD pop star, frenetic tenor sax stylings, tambourine, choreography, obstinance & equipment setter-upper when he's not hustling local groupies
spesial thanks to:
RUTH KOMANOFF who plays marimba and vibes with Artie on many of the tracks
NELCY WALKER the soprano voice with Ray & Roy on Dog Breath & The Uncle Meat Variations
「franz schubert(1797-1828)/the last three piano sonatas D.958・959・960 three piano pieces D.946 philips438 703-2」 2009年3月21日 鬻春
第3回目の茶会記を記録しました。左にあるので今すぐクリック!
本日、広島市内の段原骨董館に繰り出してきた。複数の骨董店が寄せ集まったビルである。店先で骨董関係者の者らが屯して内輪の話で大声しているのを見て、今や小生にとっては、めったに客なぞ来ないであろう骨董街のありふれた風景ではあるものの、感じが悪い印象は拭えぬ。しかし人間の薄汚さとは関係なく、彼らが鬻(ひさ)ぐ器物の方が遥かに重要である。致し方なく、屯している処から比較的遠い店に入ると、店主と思しきおばさんと、客なのか友達なのか分からぬおばさんが世間話。そうはいってもなかなかに品は廉価で良く、三品ほどお助けしてきました。
NHKの美の壷が終わった後、例によって芸術劇場。この度はモーリス・べジャール特集であった。モダンバレエを代表するのコリオグラファー(振付師)である。ボレロの公演でよく来日するシルヴィ・ギエム、男か女か分からぬが誰か彼または彼女の独断場の踊りを止めてくれ、と懇願したくなるほど抜き差しならぬ踊りを燃やす上半身裸に見えるギエム、どうやら女性だったようだ。男たちを従えながら、朱塗りの円盤の上で、ボレロと共にひたすら高まり跳躍を決める彼女の不世出を今更述べるまでもないだろう。あの朱塗りの円盤が漆なのかどうかが気になる小生である。ボレロも、単調のようでいて、いわゆる西欧古典のソナタのような弁証法ではなく、どちらかというと日の本の序・破・急のようで、一方的に爆発する投げやりが、よい。バレエは直線的か円状の動きが多いが、その中にあって、膝を曲げるポーズは、バロック的な退廃を際立たせて、興をそそるものである。あと、チャドの民族音楽と共にあった踊りも直接的に卑猥であった。サイケデリアの野生の平和は、アフリカの野生の平和であった。
さて、シューベルト晩年のピアノソナタである。ロック史とは全く関係ないが、しかし、よもやロックに思いを致す者で、ロックしか聴いていない者など、有り得ないだろう。ベートーヴェン生存時の音楽としては、ベルリオーズと並んで、誠に奇妙な音楽性を有する作曲家である。一般的に、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの古典派と、シューマン・リストなどのロマン派の過渡期にあたり、その事に異論はないが、小生としては、ベートーヴェンのゴリゴリ骨太音楽とモーツァルトの天上韋駄天音楽との合いの子のようにも聴こえ、即ち遅れてきた古典派であり、非常に数寄である。いたずらな深刻さはなく、世渡り上手そうな軽やかさもなく、野暮に聴こえる寸前の洗練が、田舎とは一線を画する純朴である。洗われたような魂が惜しげもなくポロポロと袖から転がり落ちるような音楽である。聴けば聴くほど沁みます。ちなみに、演奏は、小生好みの、アルフレッド・ブレンデル。漆界で言えば、螺鈿や蒔絵のような技の華からは遠いが、しかしひたすら木目の渋さを浮き上がらせる拭漆を愚直に丹念に重ねる類のピアノ職人である。