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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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常滑焼紀行杮落としのお知らせ

常滑焼紀行のこけら落としを謹んでお知らせいたします。
小生の「日本焼物紀行」をクリックしたらば、そのページの最も下方に、常滑焼紀行があります。
先述の「日本焼物紀行」という文字のところをクリックしてくだされ。
とくとご覧あれ。
今週はこれを以って王道なきロック史の代わりとしますので何卒御容赦。

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「smokey robinson & the miracles/going to a go-go(1966)motown」悲歌



 土佐鶴の純米吟醸を傾けつつ。
 まだ買って間もないパソコンの画面がいきなり緑と灰の嵐に見舞われたかと思うと瞬時に勝手に消えた。その後電源入れてもうんともすんとも動かぬ状態が続いた。そして、こちらの意思とは関係なく何とかまた起動した…。このブログが更新されなくなったら、小生のパソコンの不調のせいであると思っていただきたい。

 今週は最悪だった。週の真ん中、水曜日の夜、仕入れ先のメーカーの接待を受ける…。路地裏の御洒落系割烹での饗応だけで終わるはずもなく、クラブというのかキャバレーというのかよく分からぬが兎も角うら若い女性が侍ってくる店へ強制収容される…割烹では、日本酒を頼む度に、細かく区切られた箱にびっしり並べられた猪口を選ぶ趣向であるが、どれもそそられぬ、つまらぬものばかりである。経済情勢や今後の日本の科学技術の進むべき方向性などが熱く語られる中、そうした枠組みに没入している事にも無自覚に没入している人間もいるんだなと思いつつ、枠組み自体に熱中できぬ自分にしてみれば技術も海外でのタフ経験も全くどうでもよかった。
 何軒目か記憶は全くないが、ブラジャーにモンペ姿の女性が侍る店と認識していたが、後日、それはアラビア風衣装であったと気が付く。
 成り行きでセーラー服キャバレーなる店に送還されると、店員に、申し訳ありませんがただ今満員でございまして、女の子も二人しか用意できませんが、と言われる。見ると、その女の子と言われた二人、明らかに、セーラー服着ているが脛毛ぼうぼうのおっさん。そんな店が水曜日の午前2時であってもお客さんでいっぱいという、流川である…。
 客の両端に何が何でも職業的化粧の激しい半裸の女性を割り込ませてくるバブリーなキャバレー…店内を賑やかす、ピロピロと陽気なクラリネットが鳴るビッグバンドジャズは自室で聴くよりもこうした雰囲気の処が馴染むものであるな、と感銘している上の空で音楽や喧噪聴きこんでいる最中に、侍る女性が、小生の数少ない言葉尻を必死にとらまえて話題を膨らまそうとする職業的努力がわずらわしく、何だか小生も疲れる…夜の店でなくとも、当たり障りのない面白おかしい話が全く出来ない小生…。
 カラオケスナック的なところ…無言で目の前のテレヴィ画面見ていると、新規に配布されるカラオケ用楽曲の曲名と歌手の名が流れている…極限まで薄められた不味いブランデーを煽っていると、モーニング娘。の新曲「あっぱれ回転寿司!」という文字を見る…さすがだな、と思った。たとえAKB48なぞに御鉢を奪われている昨今であっても、自分らがやるべきことを決して見失っていない、地面に這いつくばってでも雑草の真実を承知するように、日の本の生活の根本でくすぶる、安っぽくすさんだ部分をえげつなくも的確にとらえている…汚れに徹してこそ到達してしまう形振り構わぬ歌謡曲の業の新しい姿というのを、ある種の底辺から、虎視眈々と、モーニング娘。は狙っている。

それにしても、かような、割烹→キャバレー→スナックという、この国のサラリーマンの接待あるいは遊びというのはいつまでつづくのだろうか。仲間どうしでの居酒屋のはしごならまだ分からぬでもないが、たとえ表面上小奇麗にしてあっても決して心と話がかみ合わない見ず知らずの半裸女性とのトークを織り交ぜる事に如何なる楽しみがあるのか見当つかない。何一つ学ぶべきものがないのは確かだ。午前3時過ぎ帰宅、午前7時起床、重度の二日酔い、そして地獄の出勤…

 NHKの、いささか失笑の的である子供里山教育番組と、その欺瞞が鼻に付く子供里山教育番組の計2番組についての論考は次回に先送り。

 スモーキーロビンソン&ミラクルズ。もっとよい楽曲を収めたアルバムもあるのだろうと思いつつ、これしか持っていない不甲斐無さであっても、仕方なく車の中で何度も聞いている内に、よくなってくる。関係ないが、移動するために密室に籠らなければならない車、という存在に気が付き、少し気が触れそうになる。男か女か分からぬリードボーカル…ストリングスも交えた豪奢な演奏。弦を張り詰められた夜の綺羅星たちがお互いをうっとりと爪弾くようなメロウ…それでも、土埃の臭い薄れこそすれ、心臓の真下から突き上げてくる盛り上げのビートを繰り出してくるアフロも濃い。
 季節は先取りしてこそ…気持ち的には早、消化試合の呈である。今年論じる予定だった、「悪趣味の系譜 ‐モダンポップを中心にして‐」と「ハードロックの巴 -肯定の歌、永遠の詩、そして次は誰だ?-」は出来るのだろうか?いつまで現状に甘えていられるのだろうか、最早取り返しのつかぬところまで来ている気がする。言わずもがなだが、自分次第だ。

bill smokey robinson
ronnie white
pete moore
bobby rodgers

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「guitar slim/the things that i used to do(1955)pcd-1909」熊五郎

 

 子をめぐる環境についての事例の続き。自分の体験を論拠にしてしまうほど厚かましくなれないが思えば小生が初めてマクドナルドに入店したのは大学生になってからであって、無論親とマックに入店した経験など皆無であるが、そうすると生後まもなくからマックに入り浸る子の存在というのも、最早たいした事ではないのだろうと思いつつもふと気になってしまう。乳母車に鎮座する時分からママ友グループに巻き込まれて入店というのはママ友らの主権に帰する事ではあるが、いつの頃からなのだろうか、親の同伴無しで、漫画雑誌リボンやコロコロから抜け出たようなチャらいファッションの小学生らが5、6人で入って来る事もしばしばだ。学校帰りの彼らはバーガーセットを購入する資金力も潤沢であるらしいのも羨望の限りである。さらに単に小腹を満たすだけではなく、マック内で、こしゃまくれた女子のグループは学校ないしは塾の宿題をやり始め、男子のグループは携帯用ゲーム機でピコピコやったり少年の心をくすぐるキャラクターが緻密に原色でコロコロ的に描かれたカードゲームに夢中の様子である。マックがそういう場所であるのは今更驚くべくもなく、マックに限らずファミレスやファミリー向け価格破壊回転寿司屋の内装外装の大々的幼稚さは、保育園や幼稚園がそのまま住宅メーカーの工場で大量生産されたが如きである。こういう幼稚さを表すとき、たとえばプラスティックのような、という直喩が使われたりするが、19世紀の万年筆なんかに使われた樟脳の古格たるや侮り難いし、なんとなればしきりに正倉院展で持ち上げられたり日の本の伝統工芸界で一大勢力を誇る漆(ウルシオール)も炭化水素系高分子である。 

 自分や家族が今後如何に生きるべきかしか関心が無く、それすらも危うい小生は、自分より年下の他人の子供が如何なる教養環境にあろうともどうでもよく、たとえ子らの今後の人格形成とやらが政治経済的に自分の人生に影響を及ぼすかもしれなくても、そこまで気にするのも余計なお世話だろうと慎みたい。しかしながら自分が小学生だった頃は、土地が田舎だった事もあって、無論マックやマックで食べる金などありはせぬからか、学校から帰ったらすぐさま家で読書か宿題、あるいは近くの山に分け入って何かしら建築や修行や冒険めいた遊びに興じていたものだったな、と、同じマックでつまらんものを食いながら思っていると、ふと、NHKの、いささか失笑の的である番組と、その欺瞞が鼻に付く番組の計2番組を思い出した。(次回に続く)
 
 来週の土曜日日曜日、多分、よっぽどの事情が無い限り常滑に行くので休載するだろう。常滑では、たいした収穫は期待していないが、このブログを見た方で、常滑焼に興味がある方、現地で会いましょう。
 
 ギター・スリム。ミシシッピ生まれ、ニューオーリンズで活動。歩みを進めれば足の裏に黒く濃厚な、人種が重油と化したようなものがごん太の糸引いて粘るもったり感が凄まじい土地柄もあってか、ブルースもジャズも分け隔てなく肩組んで土埃を上げる。その懐で酸いも甘いもかみ分ける噛み付きかねない獰猛野卑な歌に遅れをとらじと演奏も熱く、さして珍しいものではないといわんばかりに自ずとリズム アンド ブルースがご近所徘徊するし、オーソドックスなブルースが直接ソウルでもあった黒い坩堝をたぎらせて憚らない。吐き捨てるような歌唱。いや、演奏はさほど熱くはない。ソウルはまだしも、例えばカーティス・メイフィールドのような後にニュー・ソウルと呼ばれる音楽がいかにもファッショナブルで軽薄に聴こえてしまうのも、その価値はどうあれ、ブルースという紐帯を留め得なかった所以であろう、と、ギター・スリム(あるいは空海)のようなルーツ(根本)に出会うと腑に落ちる。なぜいきなり空海なのか、は秘密曼荼羅十住心論でも読んでもらえば分かる。
 
eddie “guitar slim”jones:leader, guitar
robert A. “bumps” blackwell:leader
frank s. mitchell, roosevelt paul brown:trumpet
jseph hennry tillman, charles burbank, oeth mallard:tenor saxcs
gus fontenette:alto sax
luther hill jr:sax
ray charles:piano,arranger
lawrence eddie cotton:piano
lloyd lambert:bass
oscar more:drums
 a & r:johnny vincent, art rupe, bumps blackwell

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「the red krayola/singles(1970~2002)dc257cd」初時雨


 先週は昼時のマクドナルドにおけるママ友会合の荒み、あるいは物凄い音圧と高周波数の、人間の生の絶叫騒音について指摘した。とはいえ、マック内はママ友だけではない、小生も居るし、一見マックとは縁が無さそうな老人も結構バーガーを頬張っている。最近近所に出来た回転寿司「かっぱ寿司」は連日超満員で大盛況、マックと回転寿司がいつもいかなる時間帯も満員で時間待ちの列が長すぎるこの様は、狂っているとしか思えない。長蛇の列の回転寿司には行く気がしないがマックには行く小生も、多分狂っているのだろう。正確な名前忘れたがジャーマンソーセージバーガーを早速摂取、旨い。老若男女みんなマックが大好きだから、24時間マックに押し掛け、バーガーやフライドポテトを食う現状…頭がおかしくなりそうだ。そしてマック内ママ友会合と一口に言っても、当たり前だが様々な種類の人間がいる。中でも、さすがに目を背けたくなるのは、昨今は多いのだろう、躾けというよりも虐待の域に入ったと思しき母子である…二組の母子、そのいずれの母親もべっとりと荒んだ茶髪、服装は灰色のずんだれたジャージにサンダル、金メッキの巨大なネックレスに汚く剥がれたマニキュアという感じで、子も既に茶髪で尚且つジャンボ尾崎の功罪をしっかり継承する、後ろ髪伸ばしヘアである。ああ、まあ、よくいる類だし、あまり気にするほどでもないのだが、全体的な騒ぎの中で突発する、その、有体に言えばヤンキー系の、若くして子をなした、しかし生活疲れとそれを隠蔽しようとする厚塗り化粧の相克が深いしわとなって荒んでいる痩せた母親のヒステリックな高音は耳につく。彼らが食べ終わって店を出る時、後ろ髪伸ばした子の一人は幼児用の脚の高い椅子に座らされており、腹のところに、ジェットコースターの椅子のように転倒防止の横棒が固定されているのだが、子はそれを一人でうまく外すことは出来ない。母親も手助けしない。苛立つ母親の罵倒が響く「早くしろよこの糞馬鹿!」「遅えんだよ、さっさとしろよアホかお前はよお!」「うるせえんだよいい加減死ねやオラ!」「…!」「…!」延延10分も罵倒が続いたのだろうか。母親は「もう知らん!」と言い放って階段を下りてしまった。もう一方の、薬缶のように太めで同様のファッションの母親も、そうした事態に飽きているのだろう、無関心そうに(小生の主観だが、一瞬不敵な笑みさえも浮かべて)一緒にどこか行ってしまった。その子を、良くも悪くも大人へと道徳的に導こうとする躾けというよりも、元よりそんな思想も生活の余裕も無いのだろう、ただただイラつかせる、ムカムカさせる忌々しい存在として子を見なし、罵詈雑言が噴き出ているようだった。横棒のせいでそこから脱出できない子は泣きじゃくり大声で叫びながらガンガン体を揺さぶるものだから脚が高く不安定な椅子もろとも転倒しそうになり傍観者の小生でさえも思わず立ち上がった時に、ようやく母親が戻ってきて、横棒を外し、例の罵倒を浴びせながら子の腕をぐいぐい引っ張って店内を後にしたようだった。そしてその一方で、別のママ友グループでは、如何に子らが店内をドタドタ走りまわり椅子をバンバン叩きまくって音を出すのをひたすら続けようとも一向に注意せず幼稚園での噂話や催し物の役員選挙の成り行きに夢中、といった光景も厳然としてあった。ママ友連以外の老人、労働者、オフィス系サラリーマンらは皆黙ってバーガー摂取。
 自分として、こうした状況を、教育評論家然として批判するつもりは全くないし、どうでもよいとは思っている。しかし、時に、あまりにキツめの荒んだ状況を目の当たりにすると、幸田露伴先生、あなたの娘幸田文が小説「流れる」で描写したような世の移り行きは、半世紀以上経って、最早、ここまで来てしまいましたよ、と慨嘆せずにはいられない。
 その翌日、マックの荒みぶりに耐えかねて、ラーメン屋へ。ラーメン屋…昔ながらの、店内が赤い感じの内装は継承されず、最近は厚かましくも大きな原色文字で店名を宣伝する張りぼて的なラーメン屋が多いが、いずれにせよどんぶりに俯いてラーメンをすする客の中で、幸せそうな人間など一人も居ない…この不幸感がラーメン屋の真骨頂である。しかし、ラーメン屋でさえも、かような、ママ友会合や荒み系家族の侵入を免れない昨今である。
 あと、関連しそうな2、3の事例を紹介した上で、何か言えるかどうか試すつもりであるので乞うご期待。
 
 レッド・クレイオラというアメリカのサイケデリアバンドのシングル集のようだ。アメリカ中西部の、あまり人の命を大切にしなさそうな、とぼけた、乾いた民俗臭を吐き散らす食虫植物らの暢気な宴が次第に獰猛への傾斜を濃くする手の付けられなさが、珍妙な拍子をへべれけに繰り出す…気に障る、気ままなギター。東欧のプログレみたいな気忙しい展開も示してくる。満天の、無駄に豪奢を爛れさすシャンデリアが攻めてくるような、それでいて殺風景な星辰の下、人も含めて如何なる獣を焼いているのか分からぬ炎に照らし出された脂ぎった髯面の男どもが、痴呆の毒蛙の汚い鳴き声に耳を傾けながら、いきなり、前触れそのものを攻撃するかのように、聴く者(小生)の心の臓目掛けて丸太の杭を突っ込んでくる野蛮な油断のならなさが馥郁と危険だ…数億匹のゲジゲジに荷車引かせて大陸を行脚しながら作製したようなこの、愚直なまでに地を這う音楽もまた、身勝手に動き回り毒を吐き続けるサイケデリアの本性を常に尖らしている不逞なる健在を今に伝える。無論、こうしたサイケデリアがそのいちいちで内発させるのだろう、恐ろしくのどかな呆けぶり、弛緩ぶりもやはり、怨み辛みを低く呪文する不穏に染め抜かれている…いままではこうした音楽を点在する系譜としてまとめていたが、もう、今後は、そうした理論が孕む統率につきものの悦入りにも飽いたので、言わないことにしたい。いちいち、新しき暴発に触れる慌てふためきのままに、自分も音楽も投げ出す所存。

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「buddy guy/i was walking through the woods(1970)mvcm-22009」忌中

 

 とりたててそのことに意見なり理論なりを持っているわけではない無責任でありながらも、しかし何らかの関係のありそうな幾つかの見聞を列挙したいと思う。いろんな動機の一つに、己を荒(すさ)ませたい、荒み体験によって己を研ぎ澄ませたいという欲望もあって、しばしばマクドナルドで餌にあずかる小生。平日昼時のマックやファミレスはママ友会合で占拠されている事が多い。その両方をしっかり体験済みである小生だから断言するが、そのママ友会合による荒み度はやはりファミレスよりもマックが激しい。
 そうした中で明らかに現場労働者風の出で立ちの小生が一人、コンビニで売っている、漫画雑誌以外のゴミのごとき書籍の中で辛うじて、嫌々ながら読んでもいい、日の本の皇室崇拝オピニオン総合誌文藝春秋を斜め読みしながらダブルチーズバーガーセットを摂取している光景の違和感は、ごく稀に居る、モバイルパソコンを操作しながら端正なスーツ姿でバーガー食っているオフィス系サラリーマンに比しても著しい。また、1店内に計4~5グループに大別されるママ友会合群(1グループにつき親子が3~4世帯)に比すればその違和感孤立感は尚更高まるのだが、そんな事を意に介する小生ではない。連れられた子らが幼いので仕方ないとも思いつつ時にこれはどうなのだろうと思わないでもない、子らの店内でのドタドタ走りや暴れ、耳に痛い絶叫、容赦無い食べ零し飲み零しは、先述したママ友会合の人数からも予想はつくように、マック内は、その騒音の内容はこれから精査するとしても兎も角若い母親とその子らによる阿鼻叫喚地獄となっている事実をまずは一報したい…ことにこういったママ友会合において、おとなしく椅子に座って零さず食べている子は皆無と言っていい、あれだけの人数の子らが同時に暴れ廻りそれを制したり放置したりするママらの怒号も加わるからその音量たるや…(物凄く長くなりそうなので今週はこの辺で打ち止め。続きはまた来週…)

 バディ・ガイ。シカゴブルースの老舗チェスレコードの名盤であり、モダンブルースの金字塔の一つである。しっかり電化されたギターを、スモーキーな闇に刻み込むようにビンビンビロビロとよく鳴らしつつ、同じく闇が大口開けて扁桃腺を鰹のようにビチビチに共振させるように歌い上げるシャウトやいやらしくなめずるようなメロウを器用に使い分ける芸達者である。響きを甲高く拒絶する硬質の、鍵盤楽器というよりも打楽器という原始をごまかさぬ単調なピアノプレイが耳を痛ませる。熟れた黒い果実からの滴りじみたベース、黒い土地をじかにゆったり歩きながら(be walking!)出鱈目に大柄であり、発情のためテラテラに黒光りするホーン部隊が時折道化する気忙しい滑稽をもあったかく包み込む度量が凄まじいドラム。調和を崩してクサビを打ち込むハーモニカの粗暴が噴煙を上げる。演歌師のような流浪の個人が歌う素朴な労農呪詛の歌だったブルースが、楽曲構成上他が付け入る余地の無いバンド形式という専門集団の礎石を得た事によって、ブルースは演者と聴衆の区別無く共に歌い共に聴くかつての民俗から遊離してしまったのだろう。良くも悪くも演者と聴衆を隔ててしまい、その心情はどうあれ、演者にとっては聴衆に聴かせるもの、聴衆にとっては演奏を聴くもの、という分離が発生したのだろう。この分離がモダン化であり、電化という、それを所有するものしか奏する事が出来ぬ楽器の採用によってこのモダン化は拍車をかけられた…もう、ほとんどロックだ…と、今更当たり前のことかも知れぬことを、改めて自分で考えると言うかなぞってみた。だからどうだ、と何かしら意見を言う気は毛頭無い。

buddy guy:guitar and vocals
jack myers:bass
otis spann:piano
fred below:drums
jarret gibson:tenor saxophone
bob neely tenor:saxophone
donald hankins:baritone sax
junior wells:harmonica
lafayette leake:piano
leonard caston:piano
lacy gibson:guitar
al duncan:drums
maurice white:drums

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「professor longhair/21 blues giants(19??)pcd-3758」祝言記念日

 



 在野の書家として勝手に振舞う小生は、筆の運びもままならぬ仕儀であるのに、早くも落款へと興味が集中する、自分でも手に負えない始末である。広島市内の書道具屋「熊野筆センター」に早速、篆刻道具を買い求める…己が目に適う石調の印材として、黄昏模様が棚引く黄色の石と、照葉樹林が溶けたような濃緑の石をお助け。この石に刻印するための印刀と、印材を固定する印床、さらに朱肉も購入したとあっては早く彫りたいという思い募る。日中は元より午前零時を過ぎないと何かやる気が出ない小生はこの日も午前0時くらいから篆刻に励みだした…。まず自分の号を楷書体から篆書体に直したいが篆刻辞典買い忘れた!ネットで少々調べても分からず仕方ないから自分でなんちゃって篆書を作ってみる。しかし、細君が持ち前の粘りでネットで調べてくれた本物の篆書体を見ると、その、甲骨文字だった頃を色濃く残す呪的禍々しさには、小生の似非篆書は到底適わぬ…午前1時頃から、文字通り酔狂であるから酒をぐい飲みつつ、ゴリッゴリッと地道に彫り上げた…開封した朱肉は、スポンジみたいなものに色素滲み込ませたコンヴィニエンスな代物ではなく本物の朱肉であったため、物凄くネッチョリしており、手を抜いて浅くなった凹部分が朱肉で埋設されてしまう危機もさることながら、なんという初歩的なミスであろう!予め文字を左右反転させて彫るのを忘れてしまったがために、紙に印したものが左右反転していた!
 ここが踏ん張り処ぞ、と、くじけず、印材の反対の面に再チャレンジ。慣れぬ彫刻作業で指の感覚が麻痺しつつ飲酒と眠気で目が霞む中、刻みが弱くなるのを挽回できない苦しさも堪えつつ、午前3時半頃、何とか仕上げたのがこれ。いまいちな出来ではあるが、千里の道も一歩から。篆刻という、書道の中でもとりわけディープな世界に真っ先に突入した夜明けである。まだ指が麻痺している…。
 本当は村木局長無罪~検察の証拠改竄~大阪の警察官のヤクザ級恫喝取調べ録音といった一連の事件を思えばハラワタ煮えくり返るほどであるし、お昼時に遭遇するファストフード店でのママ友会合と子らの傍若無人に対して言いたいこと山ほど有るが指がまだ痛いので次の機会に。

 フーのライブ アット リーズを再聴するにつけ、自分が考える、そして事あるごとにこの王道なきロック史において言及してきたハードロック論の概要が否応無く確信に変わる…早く、10夜連続講義のようにして、王道なきロック史ハードロック編を綴りたい思いが高まるが、別件でこの10月は忙しく、丹田をしっかり据わらせて論を議する余裕が無い。別件云々というのは小生が日々書き綴る秘密文書の初期三部作の最後を飾る、「軍国軍記」「夜学歴程」に続く新作「非業愚抄」の完成を急ぐ必要があるため、という事情である。青田刈りされる方は小生のホームページのメールフォームからコンタクトをとって下されば。随時予約受付中にて。ロハで郵送します。
 長髪教授。「バーエー」と聞こえる、意味不明の珍妙コーラスが何とも脱力させる。アメリカニューオーリンズのもったりしたブルースを大口開けて聴かす破天荒な御方である。ブギなんかも器用にこなしつつ、ショウビズ的な切羽詰った感じから程遠く能天気な、気ままなダミ声をぼっそり抑揚無く唸るし、野暮ったいピアノががしゃがしゃ鳴り続ける。ばしゃばしゃのリズム隊は飽くまでも熱いが乾いており、無謀に寝床に潜り込もうと猪突するがそこはベッドでも藁山でもない場違いな荒野。駅馬車併設のサルーンに入り浸る酒浸りのアル中どもがよだれ垂らしながら踊り喜ぶ昼下がりの奇蹟のような…時に、一瞬、ブードゥー的な南方宗教的土俗の深みへと不用意に傾斜することも辞さぬような気楽なうっかり屋さんでもある。

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「the who/sell out(1967)uicy-2311」時雨日和



 率直に楽しかった数寄三昧&旧交温め泥酔へろへろ恥ずかし旅も終わった途端、またぞろどこかに行きたくなる芭蕉気分。祖父の見舞いでは切実な体験をせざるを得なかったがおおまかに何だか今は珍しく幸せ夢気分の今日である。 旅、見舞い、そして立て続けのハイライトは小生自身の人間ドッグであったが、心のしこりであった健康問題、少しく改善の兆しを見せるデータが示され一安心であった。血中の悪玉コレステロール値が去年は危険な閾値に漸近していたが、今回は、完全なる安全圏ではないにしても値が下がっていた。体重も少し減っていた。完全にはできていないが魚を増やしたし、週一回腹に入れていたラーメンも止めたが、多分効いたのはもずく健康法だと思っている。週三~四回はもずくの黒酢和えを食っている小生、このほど、プレミアムもずくというのを食した…もずくのくせに、何がプレミアムなんだ…そういえば、サントリーの旨いビールにプレミアムモルツというのがあったのを思い出す。いや、胃が少し荒れているという警告もあったので、ここに備忘のため記す。気をつけねば…毎日が充実していないので、できるだけ長生きしたいと思っている、長生きしたとて充実など決してしはしないのであるが、生への執着いぎたなく無能に丸出し結構。
 北野天満宮での天神市でのプチ御大尽でやや反省点あるものの小生好みの品々をお助けしてきたが、人間ドッグ後、まだ麻酔によるダルさも残っておりながらも、地元の陶器屋と骨董屋にぶらり迷い込み、思いの外廉価で、実に和む、大らかな天目形の黄瀬戸茶碗(夢に浮かぶ野山のようなタンバンの緑は時折尋常でないカサつきを轟かせ、黄瀬戸釉の牧歌的ホツホツがたまらぬ)をお助けしたとあって相当満足である。この骨董屋、店内の半分はレゲエ系のアイテムを売っており、店主は異様に長い腕に汚いタトゥーいれまくるドレッドヘア、BGMも当然ディープレゲエ。たぶん親父がやっていた骨董屋をレゲエ好きの息子が継いだと見える。
 比較的平穏であるがこんな安定がいつまでも続くわけがないと疑心暗雲たぎらせながらもそこそこいい感じであるから他者や制度に悪態つく気持ちも消沈しているにも関わらず、消音して見るともなく見ていた青春リアルには怒りが勃発するではないか。心が満足した人間に対してさえも怒りを呼び覚ますこの番組は何なんだ。しかし、慢性的な腰痛は慣れすぎてあまりに自然に庇っているので最近は意識すらしないが、このほどは首筋が痛く、さらにこめかみなどの頭痛がちょっとひどい。そして、何だかはっきりしない、下手糞な歯科技工士作製のいまいち収まりが悪い銀歯をかぶせたところの奥の神経が曖昧に痛む…確実に痛ければすぐ歯医者にいくのであるが…

 日本国における国防ひいては日米安保という問題は、沖縄問題等の解決策として勘案される自主防衛と安保解消ということに焦点を当てた場合、他国にとは異なる過酷かつ特殊な決断を日本国民に強いるということを念頭に置かなければいつまでも議論が曖昧なままだろう。他国民が自国民を命がけで殺しに来た時に、自国民は命がけで、それこそ相手も殺すし自分も殺されるかもしれないという覚悟で防衛できるか、というのが国防の生の姿である。一般の国々は既にそうした問いが問われる以前に、選択の余地なく制度上否応なく、自国民は命がけで他国民とやりあわなければならない状況なのである。集団的自衛をとっていようとも、それはこうした国防の生の姿を希釈しようとする仕組みに過ぎず、国防の本質は変わらない。しかしながら武装蜂起をうたう憲法9条そして日米安保という特殊状況下の日本人にとっては、制度上、そうした殺し合いを免除されていた。その上で自主防衛を選択するということは、自主防衛と同義ではある上記の問い、即ち殺し殺されるということを自らの意志で選択しなければならないのである。こうした問いかけと意思というのを受け入れるのに躊躇するのは、一般普遍の人間であれば当然であって、日本人は平和ボケしているから云々というような石原慎太郎的な老害の論拠では説明つかぬ。こうした問いかけがなされる状況が初めから無い中で既に殺し殺されが制度化して機能している国と、こうした問いを受け入れた上で自主的に意志的に防衛を選択しなければならない国の状況は全く過酷さが異なるのであって、この点を抜きには結局沖縄や尖閣や安保は語れない。どちらが過酷かとは言えないが、少なくとも意志でもって殺し殺されを選択しなければならない状況の日本国にある種の曖昧さが伴うのは必然である。良くも悪くもこの曖昧さが戦後の日本を形成している。政治とは、白黒つけるだけではなく時に灰色を選ぶことも肝要なのだ…と、以上、文藝春秋や論座風のお堅い政治記事を書いてみました…。ブラタモリ復活が目出度い。

 ザ・フーのセルアウト。1967、英国。昨日細君から指摘されて今更ながら初めて気付いたのであるが、同じくフーの「who's next」のジャケット、礫岩の荒野の中にコンクリートの矩体が突き刺さっており、その付近にフーの面々が佇んでいる…としか思っていなかったが、よく見ると、徹頭徹尾顔の異なる彼らの手はズボンのチャックあたりを所在無げに触っており、コンクリートの矩体には4つの、液をかけられたばかりとおぼしきシミが残っている…そう、彼らがあの矩体に立ち小便したばかりの写真だったのだ。フーとは関係ないが、同じく細君が小耳に挟んだ噂によると、過剰に上半身を反り返らせて放尿する男が実在するらしい。その立派なる姿、見たいような見たくないような…
 トミーやフーズネクストなどは重要すぎて心が高ぶり冷静に聴けない、そんな逃げの姿勢から愛聴し始めたこのセルアウトにしたって聴けば聴くほど危うさの沼地のような音楽性でありすっかりのめり込んだ今、眩暈のような恐ろしさが、視界無き眼前に歴然とするではないか。その途方も無い怯えについては結局フーの音楽に通底するものであり一筋縄ではいかないので今朝は勘弁願いたい…7.「恋の魔眼」といったサイケ調の意匠をまとった名曲もあるが基本的にはサイケデリアのドリームに拘泥しながら身にはならぬ性がフーであり、むしろハードロックの根源たるアイロニーあるいはメランコリアの発散がフーというバンドでは如実である。世間への攻撃的逆恨みたるアイロニーあるいはメランコリー。
 殊更に激しい演奏の炸裂力を示すでもなく凝った編成や楽曲に挑戦しているように聴こえるでもなく、一聴すると淡々とした印象しか残らぬ本作かもしれぬが、こうした他愛無いのが何度も味わえる。秋の日のように穏やかだ…名曲も多い。ある分野の芸能の中の何でもないような他愛無いものが好きになれるかどうかが、その芸能全般が好きかどうかの試金石になるのだろう。しかし繰り返すが、やはり、全く何がしたいのか分かりかねる、謎めいてはいないが謎としか言い難いような奇妙さが、聴くほどに際立つ…殊更前に出るわけではないがツボを的確するパンチの効いた演奏なり確実なドラミングなりに、能天気なパーティー歌詞や切実に衰弱へ傾倒する歌詞(8.「私は君に至らぬ」は絶唱)を乗せて、不安に満ちた陰鬱曲調で熱く奏する統合失調を容赦なくポップに盛り込むからその危うさは、ビーチボーイズのペットサウンズやシルヴァーアップルズの危うさとどう違うか再考せねばなるまい。
 フーをしてハードロックの祖ならしめるのはその卓越した熱い演奏といった側面だけではなく、彼らがわだかまるアイロニーやメランコリア、あるいは寂びといった壊れかけの姿が大きいのであって、従って、言わずもがなではあるが元気いっぱいに旺盛に演奏すればハードになる、あるいはレディオヘッドのように内向性を問題化させる抑鬱楽曲がハードロックになるといったものではなく、ハードロックというのはそうした破れかぶれへの尋常ならざる踏み止まりを意味している。破れかぶれを矛盾と書かなかったことで弁証法から逃れた気になっているのではないが、しかるにその後のロックを聴くに、

ピート・タウンゼンド:ギター
ロジャー・ダルトリー:ボーカル
ジョン・エントウイッスル:ベース
キース・ムーン:ドラムス

 後味悪く終わってみました。
 

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今週休載のお知らせ

家の事情が逼迫しつつありながらの巡礼の時を迎え、気もそぞろである…デキシード・ザ・エモンズが解散した、と以前書いたが、それが本当のことなのかどうかまったく自信はない…どこで聞いた情報なのか、小生の妄想じみた勘違いなのか…その真偽を確認する方法は至って簡単なのだろう、検索エンジンに入力してエンターすれば、あっという間に解明されることなのだろうが、その、些細なことが、できない…というよりか、もうついてゆけない…たとえば、腹減って、とある店に入店したところ、眼前の食券売り機を見た途端、もう、嫌になってへなへなに萎えて…極めて簡単なはずだが、それがその店の仕組みあるいは規則である以上、いかに他愛なくとも、ついてゆけない弱気になってしまう…結局、その店を速攻で這う這うの態で出てしまった。特に、そうした仕組みに対してこらえがたい臭みを嗅ぎ付けてしまう正義感のような頑健な感覚とは異なる、どうしようもないへなへなである…しめやかに研ぎ澄まされよ秋の月
NHKでBizスポが始まった。この国には文化はないのか。

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「ハッチ ハッチェル/旅のアルバム(2009)0bbq 0014」初秋

 

 早速、心底一途に思っている、割れてしまった高麗彫三島の盃を、厳重に梱包して金継ぎ屋さんに送ることに。盃を収容するのに最低限必要な箱の容積の100倍近い容積の段ボール箱に、婦人画報の大半のページを破って丸めた簡易梱包材を詰め込み、盃を安置。宅急便をお願いした近所のコンビニのバイト店員が、多角化の一途を辿るコンビニ業務にまだついてゆけぬ新人だったらしく、自信なさげにあたふたと不手際をさらしたのだった…。他のものはどうでもよい、兎に角この盃だけはきっちり送ってほしい!何をどうすればよいか全くわからないらしく、何故か小生が色々と、箱に貼る紙を出すよう指示したりする始末…箱の隅々にワレモノ注意と極太マジックで書きまくっているにも関わらず、ぞんざいに扱う店員に業を煮やした小生は自分でも思いがけず叱責の怒声を上げざるを得ず…必要事項書くように出されたボールペンはインクが出ない…書けるものを改めて持ってこさせるとそれはシャープペンシル…一応下の転写紙に文字がうつるからいいものの一抹どころではない不安があった…受け取ったら連絡するよう金継ぎ屋さんにお願いしてたが、到着指定日時を過ぎても連絡が来ず…イライラとやきもきが鬱屈し、あの店員の不手際が頭をちらちらする…何かをしくじり、盃を行方不明にしてしまったのではなかろうか、という強い疑心暗鬼が吉里吉里と心に差し込まれる…

 「美味しんぼ」の海原雄山所持の骨董品を中坊くらいの山岡士郎が誤って割ってしまった時の雄山激怒のセリフ「お前の命なんかより何百倍も価値があるものを割りやがって!」がよく分かる…そして後年、雄山との決別を決意した山岡が今度は故意に、雄山の目に適った古陶磁を大量にギタギタに破壊した後の、あの親子の徹底した不仲ぶり…作品中では母親がらみの不仲説が通説であったが、本当は、愛玩していた古陶磁を故意に山岡が大量に破壊したことが主要因ではなかろうかと思う…あのコンビニへ怒鳴り込みに行ってやろうか、控えの荷物番号で宅急便に荷物を探してもらっても見つからない最悪な事態になった場合は、この店員をどうしてくれよう…自分でも最早抑えが利かないかもしれない…とまで自分を追いつめたギリギリの矢先、まずは先方が受け取ったかどうか、短めの、しかし怒気込めた確認メールを送る…すると、数時間後、受け取ったとの返信が。がっくり膝が折れたと同時に、自分が、どこかおかしくなっていたことに今更ながら気づく…しかし、数寄に余裕など、あってはならないのだ…これが数寄(=安土桃山)と風流(=江戸の文人趣味)との違いだ…

 憂さ晴らしにまた激マズ寿司で自己研鑽してみるかと行ってみれば、広島駅内の激マズ寿司屋「仙台 平禄寿司」が長年のご愛顧ありがとうございました…閉店。もし平禄の客が多くて入る気しなかった場合は隣の、いつも客が少ないうどん屋で腹を満たすか、と計画していたが、このうどん屋も同時に店じまいと相成っていた。一抹の寂しさありあり。平禄はしょうがない。周りの似たような店は異常なほど客が多いのにこのうどん屋に限って何故か客が少ないが、味は、周りの店と変わらないレベルなのだ…何か不当な差別を受けているのではないかと勘繰り、よく利用していた事情があっただけに、店に限らないが自分が良くも悪くもひいきしてきたものに限って衰退している気がしてならない…
 致し方なく、閉店間際の別の激マズ寿司に直行。無言で在庫処理に励む小生であるが、やっぱり須らく不味かった!無理して最近流行りの炙りものに挑戦したはいいがお手軽ガスボンベバーナーで炙るものだから炭化水素ガスから分解された二酸化炭素と水の中の水のせいなのか炭火と違ってジュチャッとしているし(美味しんぼの説)、そうしたネタの上に乱れかけられたマヨネーズは、長時間回り続けた結果、なんか透明度を増しているし…。マヨが透明度を増すくらいだからネタはカピカピに乾燥済みOK!

 備前の徳利に入れて一週間冷蔵庫で保温することで、いい具合に角が取れた気がする日本酒に怒りのローアングルでほろ酔いのさ中、NHKで「ソングライターズ」視聴。おクラシックとおジャズを好むスピッツみたいな中性的男子が、何故か、ほどほどの問題と個性を抱えたナチュラル女子に「あなたって変わってるのね」などと個性持ち上げられ言い寄られる村上春樹の自慰ファンタジー小説が好きそうな、物わかりのよさげな若者とミュージシャンとの間の、不穏さが皆無の、ぬる過ぎるワークショップ…先週のNHK「会社の星」の醜悪ぶりは凄まじかった…莫迦が莫迦な本を何千冊も読むことでより莫迦が補強される絶対の円環には唖然である…自分を研ぎ澄ますために仕方なく見ているが、もう、いい加減、その、砥石としての効用すら鈍化してきたようだ。いつかいつかといいながら、そろそろ、この会社の星を徹底批判する総括をしなければならないが、気が滅入る。

 それにしても東陽片岡の「レッツゴー!!おスナック」(青林工藝社)の、びっしりGペンで書きこまれた、濃く汚い、おスナックのママ絵がシミジミ心に沁みて何度も熟読してしまうではないか…報告だが、遂に「はだしのゲン」全巻購入。たとえこの世からゲンが無くなっても、小生が守護するつもりだ。

 マクドナルドとファミリーレストランでもいろいろあったのでいずれその行状記をまとめたいが、昼時のファミレスに集う子連れママ友らの会合は、傍から見てても殺伐としてくる…決してお互い心を許してはいないが何故か行動を共にしなければならないゆえの気遣い感、そしてやっぱり互いを信用していない感が、子育ての具体例に限定された話題の中でひしひしと感じるので、脇で大声を上げて暴れまくり料理をこぼして憚らぬ子らの所業もあいまって、こっちも疲れる。基本的にはこういったことに小生はどうってこともないが、清少納言や太宰の女生徒から1990年代の女子高生(村上龍のラブ&ポップ)に受け継がれた先鋭的とされた感覚にしてみれば、ファミレスのママ友ランチは、醜悪の一言で手厳しく切って捨てられるのだろうな、と勝手に思う…そして、かつて先鋭的だった女子高生らが、全てではなかろうが、今、そうしたママ友という関係性に居るのだろう…。当然ながら、先鋭的な女子高生というのも幻想であったと思う。

 ハッチハッチェルの旅のアルバム。日本。簡素にして正しい、これ以外に無いアルバム名…氏のこれまでの経歴…ロック史上不世出のバンド、デキシード・ザ・エモンズのドラマーとしての破天荒な活躍を思えば、ロック数寄ならずとも多少とも音楽が数寄であればバンド解消後のその去就が気になるだろう…ここでデキシード・ザ・エモンズの栄光の軌跡とその限界を批評する余裕はないので、不世出とか栄光とかといった空虚な修飾辞でお許しいただきたい…特にアルバム「S,P&Y」で到達してしまった途方も無いロック音楽の高み(プラトー)は、ザ・フーやレッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリクス エクスペリエンスといった基本の峰々を、登山家が6大陸最高峰の登頂を目指すことで登山家と承認されるように、真面目に踏破する王道を歩んだ上での全く新しい、西洋のフォンやスパイスのコクとは異なる、日本の一番だしのような音楽であった…こんなことは王道なきロック史においてはありえなかったにも関わらず、成し遂げたがゆえに逆説的王道というロック裏街道がまたまた表街道でもある…

 そして、かようなワダカマリ薀蓄や、ロックというある種の枠組みからもするりと抜けるようにして、素晴らし系の音楽をぬけぬけと奏でだしたのであった。最早ロックの諸形式にも硬くこだわる事無く、本作は、カントリーやジャグバンドの道統に続くノベルティソングであった。ノベルティソングというのは、カントリーミュージックによくあるが、一つながりの、滑稽な物語性を持った歌である。音程を素っ頓狂に外す苦み走った愉快。
 「S,P&Y」でも存在した、社会社の生産管理統制から無頓着に逸脱しながら陽気に、その辺の街角に巣くって楽しく暮らしているらしい、厭世家でも深山方丈での隠遁者でも世捨て人でもない、逃げも隠れもせぬ市井の仙人(「ご一緒させていただきたい」!)が、人生の苦味をジックリ味わった上でそれを酒の肴にしながらの気ままな珍道中に出た音楽。この若い仙人、ビールと酒を好む習性らしく、行く先々で駆けつけ3杯、同じ酒飲みとして共感この上なし…儀式と宴会、祭りと宴会、そして儀式無き宴会を夢想する小生にしてみれば、かような、人生=旅=宴という音楽に心惹かれぬはずはない。自分らしく生きろと強制してくるもっともらしい自己啓発の制度化には反吐を催すが(檻の有無が問題なのに、檻を少し広くしただけ)、この旅のアルバムは、そうした、周到なる気味悪さとは無縁だ…ともすれば功利的になりがちな励ましとも無縁な、デキソコナイへの単なる視線こそが、語弊を恐れず云えば、愛情に近いものなのだろう…人を救わない愛…
 全然関係ないかもしれないが、ハッチハッチェルバンドが、シベリヤ抑留されている日本兵の収容所に慰問に訪れるのを夢想した。宴会讃歌を歌い上げるべく世界中をどさ廻り中の彼ら、シベリヤ超特急に乗ってユーラシア大陸横断の途中、シベリヤで強制労働させられている日本人のことを聞き、たいした野心も無く訪れたいと思う。彼らのことだから、ソヴィエトの冷徹な共産官僚をウォッカ一本で上手いこと懐柔、その辺に衣類剥がされた丸太のような日本兵の凍った死体が晒されている広場に集合させられた日本人の前で演奏することが許される…いわゆる極限状況が物事の本質を炙り出すと考えているわけではないが、一体、どうなるのだろうか。生きているだけで楽しいという他愛無い、簡素な人生讃歌がむしろ心に響くのだろうし、そうした簡素が簡素であればあるほど帯びてくるインチキ臭さが、ホッとしたような、泣きたくなるような笑いを、過酷過ぎる状況の抑留者に誘うかもしれないが、実際のところ、よく分からない。ハッチハッチェルのこの音楽が、表面的には多少の私語をしようが根本的に決定的に黙る抑留者の心を鷲掴みにするのかどうか、ちょっと分からぬし、不可能なようにも思える。インチキ臭さというのは、例えば、おムード歌謡歌手が場末のおスナックへの営業廻りを30年ぐらい続けて初めて箔になる類の、本物の謂いであるかもしれない。ハッチハッチェルが本物のインチキ臭さかどうか分からぬが、まだまだ続ける事が大事であろうと他人事ながら思うし、あっさりとまた別種の音楽性へと見切り発車するにしても、やはり今後も耳が離せない。
 

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「penderecki/utrenja, the entombment of christ(1971)bvcc-38303」新世界忌


 割れてしまった高麗彫三島の盃。思えばこうなることは分かっていた。弘法市で井戸茶碗の紛い物をお助けしたおり、店主の因業婆さんからおまけで貰ったこの三島、お助け当初から 存在した、高台脇の釉薬剥がれも気にならず、柿色の土焼けを見せる、月食形に削り上げた非対称高台もさることながら、割り切れぬ生活苦の懊悩が染みるヘドロ色の緑青が時折異常な赤みを帯びつつ透明に流れたような釉の 回転を否応なく加速させる白泥の菊花日輪紋は草臥れ果ててその古格たるや飽くまでも堂々…

 重用に重用を重ね、時に八丁味噌や酒盗、烏賊の塩辛やコノワタなぞの肴を載せるかと思え ば、当然ながら澄み酒を満々湛えることもあり、小生を泥沼の、怒りの深酔いへ誘う、かけがえのない心の友であった…そして割れた。予感はしていたのだ、たとえば細君が、不安定に積み重ねられたお椀の上にこの三島盃を載せているのを見た時、危険よの…と思っていた。

 この低級のお椀どもが何かの拍子に崩れた時、真っ先に破壊されるのがこの三島ではないか…。しかしそのこと をきちんと細君に注意する確固たる目的意識が実行される前に、消えるように萎えて、言えなかった…こんなことが何度もあったのだ…ある日、胸騒ぎがして、これが最後かもし れないと思い、酒肴を楽しんだ後、いとおしむように丁寧に自分で洗った。そしていつもの、洗った食器を乾かす樹脂製の籠に入れておいた。少し元気がある時は、こういう場所は危険だから、抹茶碗と 同様に、他に設けてある小生の名物部屋(本陣)で速攻でお休みいただくのであるが、無意味に気が抜けて、危険を承知しつつ、その、食器の雑居房に放置してしまったのだ。

 翌朝、が しゃああん、と、食器が崩れる音が聞こえた…半分眠りの中、ああ、終わった、と気づいた。引き気味の態度で細君が、言いにくそうに小声で、三島が割れたことを尻すぼみに伝えて来 た。案の定、不安定に高々と積み上げられたお椀の上に三島を置いた時、崩れ、三島が真っ逆さまに床に叩き付けられた結果、割れたというのだ。すべて、予感していたことであった。結果を承知しつつ、心の虚ろにびょうびょうたる風が吹き抜ける感は拭えぬ…。

 しかし、転んでも只では起きぬ小生。早くも数寄心がむくむくと赤熱して鎌首をもたげるではないか…。「継ぐ」ということ、である。金継ぎや溜め継ぎなど、茶道具や古陶磁において、割れ た部分の継ぎ目を漆で接着して金銀を蒔くことで継ぎ目を繕いつつ鑑賞したり、あるいは釉薬と同じ色に漆を調色して繕う共直しなど、常道である。これを楽しまぬ法はないということで、早速 金継ぎ屋を探し、さしたる情報もないまま目に叶った職人さんと連絡を取る。小生から、素人の夢想無鉄砲のままに第一案から第五案まで提出、見積もり額や技術的なことについてメール で根気強く交渉を重ねた結果、以下の案で進めることで決着した。

 ・器の内側の継ぎ目を、金継ぎ(消し金)で、稲妻のように、直線的に仕上げる。
 ・器の外側の継ぎ目を、錫(スズ)継ぎで、時雨のように、曲線的に丸みをもたせて、流れるように仕上げる。琳派を意識して。
  ※単純に継ぎ目を繕うのではなく上記のようなニュアンスを表現するために、継ぎ目に接した釉薬の一部を控えめに剥がして漆で下地をこしらえ、鋭い直線や丸みのある曲線が表現 できないか試す。銀継ぎの方法もあったが、釉薬の色味との調和を考え抜いた結果、あえて渋めに錫を用いることにした。
 ・高台脇の釉薬剥がれの部分には、螺鈿をほどこす。曲面なので螺鈿用の貝を細かく割って、隙間なく敷き詰める感じに仕上げる。雨後の水たまり、あるいは異次元への入り口のよう になれば。
  ※螺鈿と釉薬の境界には、貝の接着の必要性から、漆の縁取りをごくわずかに残すことになるが、この部分の仕上げは職人さんの感性に任せる…
 
 陶器の直しで蒔絵をほどこすのは、たとえば織部の伊賀水差し「破れ袋」の写しとして、川喜田半泥子の伊賀水差し「欲袋」があるが、螺鈿という技法を使うのは、これが世界で初め てではなかろうか…と勝手に自負している。本日、三島を発送、三か月の納期が待ち遠しい…。

 上述のことで頭が一杯なので、今宵はポーランドの現代音楽の作曲家ペンデレツキ。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」の、黒い雨を模したトーンクラスターが有名な前衛家。古スラブ語 で歌われ、東欧のキリスト正教の詩句が散りばめられたオラトリオ「ウトレンニャ~キリストの埋葬~」。静と動の格差が脅迫的に激しく、気がめいること間違いなし。新約や旧約以前 の原始キリスト教、原始ユダヤ教のむせるような神性が、獰猛なクラスター音の残響から臭い立つ、いけにえの肉っぽい音。

フィラデルフィア管弦楽団
ユージン・オーマンディ 指揮

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