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「the sonics/here are the sonics(1965)cnw903」小沢
「アーッアーッアーッ」
ついにここまで至ったかと。自分自身の遣る瀬無い無気力が原因にせよ自分と云う心身も含めて一切を環境のせいにするにしてもいずれにせよままならぬ生活上の、漠として悶々とした蟠りや焦燥に耐えかねて、心の中で絶叫しているつもりが、実際に、この外部世界に物理的に声を出して叫んでいた事を細君に指摘されるまでに至ったのであった。帰宅後、ブリの照り焼きを作製中…フライパンでブリの切り身を強火で焼き旨味をしっかり閉じ込めた後、さっぱり涼しい甘みが特徴のテンサイから抽出した砂糖と醤油、水、唐辛子と生姜汁を調合したタレを絡め、煮汁がなくなるまで弱火で煮、ブリに濃い味が浸み付けられ照り出す瞬間、煮汁はとろみを増しついにはジリジリと芳ばしく音を立てて焦げ目を焼き付ける調理のクライマックスにおいても定かでないうつろで、それでいて切迫した思いに憑りつかれていた小生は、自分でも気づかずに、専ら心の中で叫んでいるつもりが、肉声を発してしまったようなのである。だからどうだというわけでもなく、毎日こそこそ情けなく自分の弱さにへつらいながら生活し続けるのだろうが、自分の身体を統御する余裕がなくなる日、というのが少なからず現実味を帯びてくる…。小賢しい知恵がついた優等小学生が作文なんかで他人に印象付ける姑息な手段としてよくやる、鍵カッコの会話文を冒頭に持ってくるやり方で書いてみた。
いよいよ、7月から9月まで、土日が出勤で木金が休みとなることが本決まりとなった…共働きで幼い子供がいる家庭はどうするのか全く無視した決定である…日曜日に子供を預かってくれるところは無いだろう…小生にとっては悪い事ばかりでなく、むしろ行ける骨董市蚤の市が増えて、有難いくらいだ。
書道漫画とめはね!の最新刊を読了…「日展脱退は当然のことです!」と叫ぶ、前衛書道にひた走る高1女子に、久々に萌えた。明日は散らし書きに挑もうかな…。ぎりぎりの楽しい暮らし。
今日、喉に痛みを覚え、風邪のひき始めを俊敏に察知、小生が頼りにしている風邪薬エスタックイブを素早く服用、速攻で風邪を治した…普段、心の風邪で賃金仕事をしばしば休む小生にとって、本当の風邪で休む有給休暇の余裕は皆無に等しいため、体調管理を怠るわけにはいかない。この間、心の風邪でまた休んだから、もうこれ以上、休むわけにはいかない切迫した状況なのである。
ソニックスのファースト。多分米国。呂律の回らない泥酔した黒毛牛が杉板をバリバリ噛み砕く草食性の獰猛な声…先週、パンクの興亡を横目で確認しつつのポストプログレッシブロックとしてのモダンロックにおいても発芽しているガレージの荒みないしは異物感というのを指摘した。1965前後、まだ、ビル・ヘイリーと彼のコメッツやチャック・ベリーのような、頑迷固陋たる紳士淑女の眉を顰めさせるには十分にしても、享楽的なダンパ音楽=ロックンロールに収束していたのが、そうしたロックンロールから、良くも悪くも近代的な聴者の精神のエグミを分泌させるロックの荒みを抽出させえたような稀有なるバンドの一つが、ソニックスといってよい…アルバム所収の楽曲の大半が、50年代のロックンロール風の結構を保つ中、前触れもなく荒みに荒んだ拠り所をかなぐり捨てた強烈なリフの楽曲が勃発している…まあ一般的に言われている事の追認になるがガレージの端緒は、そしてロックという音楽の本来たる不逞は、アメリカのかようなロックンロールを突破してきた殺伐なのであって、一般的に言われているようにビートルズ史観の傀儡たるブリティッシュインベンションという現象は、個々のバンドを聴くと例外しかないにしても、ロックと云う音楽の凶暴を姑息なメロディラインで民主的市場的に馴致し萎えさせはするけれども、決してその凶暴を真空パックしてアメリカに逆輸入させるようなものではなかった。ロックの本道ですらなかった。だからといって忌み嫌う必要もないが、ロックにとっては津波災害に近いものであった。
ビートルズ史観はロック史の安全装置である。この巧妙な安全装置を外すことが、ロックと云う音楽を聴くことである。
金色の光の上に白雲が泡立つ飲み物から、琥珀色の重たい飲み物に替えて、喉を酔いに焼き付ける…スコッチLABEL5…クリーミーな味わいとあったが、なんだかヌメッとしておる…すぐ気にならなくなるであろう…。
ダルなブルースから、重ったるくダユダユに揺らめく炎の揺さぶりが次第に大きく手が付けられぬほどになり、盲滅法に強靭に、その位置を動かずに暴れ出す…繰り返すがハッとするようなリフが火花のように闇を切ることが多い…べーべーべーべ―御下劣な、耳障り極まりない下世話御サックス…これがどうしても従来のロックンロールからの容易ならざる脱皮の困難をきっちり背負わせる…この御サックスをなくし歪みギターを効かせれば明瞭にガレージの音になりうるのに、やはり65年という時代の尚早ゆえか…このようにしてロックの野生は生まれたのか、というのがこのアルバム一枚で分かる。超新星爆発後にたなびく暗黒星雲から星々が個別に輝きながら誕生している数億年前の姿を今見るような…小生はこのように、ソニックスを聴いた。いや、物理的比喩に説得力をもたすのは安全装置への加担だ、と後味悪く終わることにする。荒くれの酔漢がいい気分で歌い奇声を上げる愚駄愚駄なクリスマスソングが和む。night time is the right time、まさに今、である。now's the time!
ところで、小生は、出来るだけプレイヤー名と担当楽器を記すことにしているが、そのアルバムのどこかにそれの記載が無い場合は記さないことにしている。ネットとかで調べればそれくらいの情報は分かるのだろうが、あくまでもジャケットかライナーノーツに記載が無い場合は、それがそのバンドの思想として受け止め、ここにも記載しません。
「xtc/white music(1978)cdvx2095」梅雨
志野志野と降り続く雨…雨の帳の向こうの風景が唐津のように泥む(なずむ)…シングルモルト余市を一週間で飲み干す…結構高い酒である…このところ毎週木曜日を休肝日としているのに、飲み代(のみしろ)は嵩むばかりだ…
スーパーに売ってある葱や韮の類は束にされて根元を青いテープで巻かれているのがほとんどだ。それを見る度、いたたまれない気持ちになる…何故葱を辱めるのか、と…根までむき出しにされ束ねられてしまうという無作法な姿をさらしてよいのか、と…小生は、家に葱や韮を連れて帰るなり、すぐに包丁でテープを切断、いましめを解いて冷蔵庫に保管してやることにしている…風の谷のナウシカアーで、トルメキアの軍船が墜落したところに駆けつけたナウシカアーが、トルメキア軍に捕らえられていたらしい、ラステル(?)の妹の王女の両手をいましめていた鎖を、オームの皮から研ぎだしたナイフですぐさま断ち切り、死者の尊厳を取り戻すように…。ナウシカアーというのは小生所持の昔の岩波文庫版の叙事詩形式で記載されたオデュッセイアーでの表現方法である。最近の岩波のオデュッセイアーは、何故か散文小説の書き方をしている。叙事詩なんだから、昔のように叙事詩のように印刷すればよいものを、何故いちいち小説風にアレンジするのだろう…せっかくのホメロスの叙事詩が台無しじゃないか…いつになく穏やかだった心にも、怒りが不必要に飛び火してくる…ムーサイ(詩神)の薔薇色の指が山の端から見える朝焼け、という表現が印象的だった…そしてこの文庫本も、本の整理が不可能となっている状態ゆえに今では行方不明である…岡倉天心の茶の本だけで三冊持っている…読みたくなる度に見つからず、いちいち買い、ある日全部出てくるからだ…
漫画片手に細君がうとうとしている…そろそろ電気消すか…
そういえば岡倉天心といえば、茨城の五浦海岸の六角堂、此度の大津波で根こそぎ流されてしまったとのこと、小生としては東北諸窯の状況と同じくらい衝撃的な事である…自ら創設した東京美術学校(現 東京芸大)を、天心の芸術観とは関係ない、俗世上の不倫をネタに西洋画の黒田清輝に陥れられた末に自ら脱退、横山大観ら精鋭を引き連れて日本画の道を模索した記念的場所…天心が卜居したという、荒磯の点景たる六角堂の雅趣…いずれ訪れてやると思っていたのに、まことに残念至極。再建してくださることを切に願います。奈良時代の装束を、学生や教師の制服に指定し、馬で登校していた、当時としても誰もついてゆけない、ぶっ飛んだ御仁…
さて、王道なきロック史「悪趣味の系譜」編。XTC。英国1978。やろうやろうとして生来の自堕落が起因して進まぬこの企画、確か、大分前に10㏄のオリジナルサウンドトラックを取り上げようとして挫折したが、ここに、新たに再出発したい。しかし、再出発と云えど、悪趣味の系譜とは、これまでの議論、即ち、点在する系譜やサイケデリアの条件、そしてこれもまた中途で寸止めしてあるがハードロック編といったところで最終的に語られるものの、別の側面にして補強の観点(聴点)に過ぎないから、さほど耳新しいことは云わぬだろう…趣味とは何ぞや、についても、過去のどこかの日付で、段階的に述べたことがある…月並みな弁証法的記述から抜け出ることは無かったが、確か、趣味性奴隷段階、趣味性何とか段階、趣味性弁証法段階と分けて規定したはずだ(規定とかテーゼって、よく共産・社会主義者らの綱領に出てくる、たとえ論理上であっても、何が何でも前に進もうとする無謀な、あまり関わりたくない前向きさが堅固過ぎる…)…その詳細はそのブログ記事を再読願いたい。ブログ内検索で、「趣味性奴隷段階」とか入力すれば出てくるだろう。小生は面倒なのでそれも出来ないゆえ…。悪趣味の系譜ということから、少し絵画に詳しい人であれば、辻さんという方の、「奇想の系譜」という有名な著書を思い起こされる読者諸賢も居るだろう。江戸時代の絵画を語る上で、従来、狩野派の道統や円山四条派、土佐派や浮世絵でしか語られて無かったが、今、「へうげもの」で織部の食客となっている岩佐又兵衛の残酷大和絵(土佐派の伝統的大和絵の手法で、盗賊が男の胴を真っ二つに割り血しぶきが吹き上がり女房どもを身ぐるみはがして…といった絵巻)の発見に端を発して、蕭白や若冲、芦雪などの異能の画家を取り上げ、上記の主流でしか語られなかった江戸絵画史に、流派ならざるとも点在しつつ飽くまでも輝いていた画家の存在という知られざる豊穣を知らしめた業績である…
確かに、この悪趣味の系譜も、アメリカ音楽の点在する系譜も、奇想の系譜に似ていなくもない。しかし、真っ向から、異なる、と云いたい。奇想の系譜は、結局のところ、狩野派などの主流を主流として容認する立場を従来通り崩さなかった。しかし、この悪趣味の系譜では、点在する系譜では、その主流たる存在を否定するだろう…
ロック批評界に蔓延するビートルズ史観…相変わらず、モーニング掲載の「僕はビートルズ」では、どこまでもビートルズ史観を安全に追認しているが、それは兎も角、この王道なきロック史では、ビートルズ史観に対峙するものとして、ザッパ/ローリングストーンズ史観というのを樹立してきた。前者の内容は、詳細は過去の全記事を遡って読んでいただきたいが、かいつまんで云えば、「影響」という批評概念が作品制作という固有性を蔑にすることを、当の作品制作者も無意識に、あるいは自らの嗜好対象への思い入れが嵩じて意識的に追認した上で作品制作するにつれて強固に醸造される系統的制度と、それを批判する者への浅薄無思慮な反動的反発といった衆愚芸術様式である。全ては、あるいはロックの大部分は、ビートルズから始まった、とする世論である。ビートルズが何枚売れようが、そして、それの影響を受けた者が何万人居ようが、そんなことは音楽を語る上でなんら説得力を持たぬ要件である。むしろ、あたかも説得力ありげな要件にみえるからこそ、そのことによって、音楽とは、ロックとは関係を持ちえない、貧相で奴隷的発想なのである。あたかも説得力ありげに見えるということは社会の承認を得られている範囲内でのことに過ぎないからである。ロックは、音楽は、芸能は、社会承認を批判するものだ。対して、後者は、これから、訥々と述べることにする。
ここで、以下のような反論がありはしないか。いや、むしろ、もっと以前に、小生が、ビートルズ史観vsザッパ/ローリングストーンズ史観、という概要を打ち立てた時点で、何故以下のような反論が来ないのだろう、と、ずっと不思議に思っていた。つまり、ザッパ史観などといって、その定義に適合するようなバンドを羅列することは、まさに、批判の対象たるビートルズ史観の、単なる双子に過ぎないのではないか、と。確かに、今後、ザッパ史観に通底する悪趣味の系譜においても、今回のXTCのほかに、10㏄やロキシーミュージック、ゴドレイ&クリームやレジデンツやディーヴォやヘンリーカウやレコメン系などを取り上げるだろう。そして、何となれば、これらのバンドからザッパの影響を嗅ぎ付け、如何にザッパの音楽ひいてはサイケデリアの真正やさらにはロックの地獄の諸相がこれらのバンドに「影響」を与えたか、という論法で進めることはできる。そして、表面上は、そうなっているように見えるだろう。しかし、そうではない、と言い切るためにはどうするか。それは、ひたぶるに、彼らの音楽を、逐一、細部まで聴きつけ、意味を暴発するしかないだろうし、それに耐えうるのは、聴く者の安住を許さぬ、不快な、不愉快な細部である…ロックの原初である…不快といってもいろいろあるだろう…生理的不快もあれば、歴史認識にまつわる自尊心が傷つけられた場合の不快もあるだろう…ロックの場合、あらゆる不快が区別されず織り込まれているだろう。これで、ある程度、うっすらと、ロックにおける悪趣味の意味と云うのがつながっただろう。今後、もっとこの辺りを書き込んでいくつもりだ。論旨はこのへんで寸止めしておいて、では、XTCはいかに。
おどけるのを止めたピエロが、真顔で突拍子もなくやさぐれる。うまくいくものもうまくいかなくする無謀な前倒しはどこまでも性急で、落ち着きを許さぬ。うるさい。足がもつれたままつんのめったまま踏切を渡ろうとするせわしない慌てぶりが全編に充満する。予測つかぬ頓狂な細部が、大黒柱を片っ端から叩き切る余計な嫌がらせである。今宵はつまびらかにせぬが、かようなモダンポップ/モダンロック勢は、かつての60年代ガレージやサイケが保持していた、ロックの始まりの恥の上塗りを新鮮なまま、聴く者をいたたまれなくさせる嫌がらせ効果が十分である。恥の上塗りとは、例えばプレスリー的な、さんざん黒人を暴行してきた白人のくせに黒人音楽に割って入ってきて物まねし始めた歴史的恥でもあるし結局黒人音楽に異物を挟むようにしかならない嫌がらせ犯人としての音楽的恥さらしのことである。XTCはそのことに畢竟意識的である。アルバムタイトルがホワイトミュージックとなっている所以であり、ロックにおける白人性というのを欺瞞なく、しかし結局の処厚顔無恥にさらすしかないロックと云うとんがった業である。キンクスの名残りあり。
桑田圭祐の特集をNHKでやっていた…一人多重録音のような声質の、本当は怖い愛とロマンス…昨年末の紅白での演奏は80年代昭和の臭いぷんぷんで気骨あふれ、よかった。
andy partridge:guitar, voice
colin moulding:bass, voice
barry andrews:steam piano, clapped out organs
terry chambers:just drums
牡蠣殻ループタイ2号機の御披露目
小生ごときが少しつついてやれば、その魅力の一端をちらとでも垣間見せてやれば、感度の良い若者の中でループタイが爆発的に流行することは自明であったが、昨今、それが実現しつつあるので、この動きをさらに加速させんがため、近作の牡蠣殻ループタイ2号機を御披露目いたします。
「ループタイ庵」をクリック!
ネクタイの位置づけをループタイの立場から脅かし、ループタイの一部としてのネクタイという逆転劇をこしらえんとする野心作である。虹色のタイの縁取りを、虎縞で一針一針縫いつけました。手芸屋さんに行くといろいろと、小生の創意を刺激してあまりある品揃えであるから、時間がいくらあっても足りないくらいだ。
次は、馬蹄型磁石に砂鉄をもっさり毛羽立たせた、夏休み自由研究ループタイを作製するつもりだ。
韓国の美脚アイドルグループ軍団の来日が著しいが、いったいどこが良いのか…脚が長くてすらーっとしていて、無思考に崇められる対象でしかない一般的美人のように整形されたかのような美形顔の女性グループ…きれいだなとは思うが、きれいだから何だというのか。思えば日の本アイドル界では、名前が思い出せないが家と事務所との確執があった女性歌手や真鍋かおりや広末涼子などがアヒル口を創発したし、回転寿司の歌をえげつなく歌い上げるモーニング娘システムや、クラスで2番目に可愛い程度の女子を48人集結させる凄みを創発させてきたというのに、今さら、デパートのガラスケースの中身のようなものを賞玩するようにすすめられたところで、馬鹿にしとんのかと怒りすら覚える…景徳鎮や官窯の青磁白磁がきれいで立派なのは分かる、しかしこっちは井戸や粉引なんかに心惹かれるのであって、今さらきれいな白磁なんか!という気持である。(無論、一方で、青磁や白磁の魅力にも没入している)
「robert wyatt/rock bottom(1974)vack-1138」痴愚衆
ニッカウヰスキーのシングルモルト余市の水割り…サントリー角しか常飲していなかったためか、味の違いが分かる…余市の、麦を焙煎したかのような、ざんわりと季節の空気をたくし込む枯草が日を浴びて馥郁ともたらす芳ばしくも野趣に富んで苦み走った風味が喉の奥にごくわずかに残るのがよい…日本酒でもビールでも酒は何でもそうであるが、こうしたごく幽かな、酔いの泥沼に嵌ったりうっかり注意を怠れば見失ってしまうような微妙なる風情や苦みを感じ入りたいがために飲むという事…味わうという言の葉がふさわしい。そろそろ電気消して執筆を続けるか…(電気消す)バナナチップスと胡桃を今焼に盛る…貧相な菜っ葉らしきが水面に漂い、判読不能の俳句がしたためられた夏の軸を掛けているが、五月でこの蒸し暑さ…早くも涼を求めて、明日には秋の掛軸でも、陰干しがてら掛けようかと思う…蕪川なる画人による、葦原飛燕図…先週連れて帰ったベルト、気に入ってはいるが、斜め前の職場の人が同じベルトをしていて、どん底まで落ちないまでも落胆方向へ心が沈むのは確かだ…このベルトを着ける度にその人を思い出すのはちと嫌な気がする…やはり真のお洒落は自作するしかないのか…何か知らんがという訳でもない、予言しており願ってもいた事でもあったが、最近、ファッションの感度が高い若者の中でループタイが熱くなっている気がする。設置以来全く更新していないものの、小生のホームページの中の「世界を装う!ループタイ庵」のアクセス数は異様に多いし、直接的に、「若者 ループタイ」という検索ワードで訪問してくる人が異様に多い。開運!何でも鑑定団に出演する業の深そうな骨董数寄老人が身に着けている様子以外見たことなかったのが、最近は、実際、街を歩いていても、ループタイを装着している若者に出くわすことが多い。テレヴィなんかでもループタイをつけている芸人がいたりした(ジャルジャル?)。その芸人さんはTシャツにループタイという自由な装いで、ネックレス感覚で着けていたようだがそれもよい。トキオの人がタイヤの宣伝でタイヤのループタイを着けていたりする。ただ、留め具は既製品のチャラいものが多く、まだ、小生が提唱する、ループタイの途方もない可能性を実践に移すお洒落巧者は見受けられないようだ。そういう時代が来るのもそう遠い話ではないと確信する。児玉清氏が亡くなられ、合掌いたしますが、家紋は蔦紋だったようだ…。武将でいえば確か伊賀焼の御膝元、藤堂家が蔦紋だったと思うし、江戸時代になると遊女あたりの調度品に蔦紋が使われたかと思う。土に直立する樹木に絡みついて時に樹木を枯らしてまで生き抜く蔦の有り様からの連想なのか。そういうことばかり気になる。消音して見るタモリ倶楽部…空耳アワード2011…雨がしめしめと降り注ぐ音が心地よい…ドストエフスキーの地下室の手記から…「そうだ、十九世紀の人間は性格の無い個性でなければならぬ。思うに性格の無い個性である事を強いられているのだ。実行家というものは凡庸な精神の持ち主でなければならぬ。」えっ…十九世紀?二十一世紀の間違いじゃないのか…十九世紀でこんな状況ならば、二十一世紀はいったいどうなっているというのか。
暑気払いに、ロバート・ワイアットのロック底。この御方の出自云々はもう興味無い。ソフトマシーンのドラマーとして珍絶妙音楽を下支えした手練れでもあったのがパーティでの酔っ払いの果ての御人好しな上機嫌の末に二階から転落、半身不随となりドラマーとしての再起が絶たれながら云々には興味ないし、かような事を念頭することは彼の音楽を聴く上で過大なる失敬であろう。サイケデリアの真髄としてのザッパ的なるもののヨーロッパでの勃発という意味でカンタベリー系を論ずることも出来るがそれはヘンリー・カウあたりの聴取に譲るとして、小糠雨がさらさら音もなく注がれる今宵は、黙って彼の心の唄に酔いしれたいと思う…草と水と鱗と虫が織り上げた燦々と降り注ぐ明るい雨のような、大文字の人生とは関わりのない、卑小で悲惨な事柄の連続、本当は連続などというものはあり得ないのだろうけどもそんな経験の檻に縛られているがためにそうとしか見えない連続にしか思えない生活の哀切を成層圏のように唄う…その連続の檻の空しみを、レコードで楽曲が終わった後のループ音の絶え間ない出現で知らせてくる。幹というよりも葉、魚というよりも鱗を寄せ集めてできたような些細で涼しい音楽である。どこまでも速く空しい清らかな音楽である。
richard sinclair:bass guitar
robert wyatt:voice, keyboards,james' drum, guitar, delfina's wineglass, delfina's tray, a small battery
laurie allan:drums
hugh hopper:bass guitar
ivor cutler:voice, baritone concertina
mongezi feza:trumpet
alfleda benge:voice
gary windo:bass clarinet, tenor
fred frith:viola
maike oldfield:guitar
「dr.john,the night tripper/gris-gris(1968)amcy-3167」青嵐
青嵐過ぎれば五月雨明けて初夏の日差し。
さほど心的に追いつめられていないかというとそういうわけでもなく注意深く現状の生活を鑑みれば危うさだらけではあるものの、過去の状況と比べればさほど切迫していないためか、やる気のない理由は何にでもつけられるが、要するにやる気がなく、何にたいしても真剣みある手が付かない。切迫していないためか、注意力も衰え、物事の認識の際立ちも日々平滑にならされ心根の麻痺がまっさらに進んでいく。麻痺している事すら気が付かなくなる痴呆の時も、既に現在始まっているかのような…青春リアルが横で無音で垂れ流されているが、そこで流れている言葉が何なのかもう地滑りしている。恐らく、意味が分かっていないということなのだろう…背後の事情とか空気とか雰囲気が織り成す説得力みたいなものがこの世に存在するのは知識として知っているだけであり、そうした説得力みたいなものに一度だって心底説得されたことが無い自分が居る…見かけ上、説得されたふりをしている自分のぎりぎりの社会性も潮時なのだろうと分かっているのかどうなのか最早激甚なる麻痺においてはまっさらにおかしくなっている。浅め浅めに、低め低めに、天空の法則や精神の根本にかまけることなく生活するしかないにしても、潮時は潮時なのだろう。ようやく寝かしつけた細君に気を使って暗闇の中で食う飛び魚の刺身(半額)がすこぶる不味い…会社の星で、会社の同僚の結婚式に出席する時のマナー、なぞやっていても、発する怒りはあれど決定的な憤怒の根元の処が、痴呆症の脳のようにスカスカの空洞だらけで身が入らぬ…鶴岡八幡宮の御神木が虫食いにやられていてある日突然倒壊したように、自分という御神木は自らによって蝕まれてスカスカである。もう、本当に自分にとってどうでもよいのだろう。
夏蜜柑の砂糖漬けを肴に、ウイスキーの水割り(ウイスキー:水=60:40)をやり続ける夜…。若葉が青葉へ、深みを濃くする季節に相応しい、甘酸っぱい初夏の光を醸す菓子が、どこか季節感の無いウイスキーにさえも、旬というのを教え諭すような…いい菓子だ。最終的には、ドストエフスキー的なるものを敵に回して打ち勝つ必要があるのだろう…あの、過剰な自意識と、想定しうる範囲内の他者に伝わらぬことをも恐れて執拗さを増す過剰な説明が繰り出す、これでもかといわんばかりの説得力と、結局の処どこか依拠しうる場所を確保したうえで構築しているに過ぎぬ人格設計…その構築が美的趣味に供されていないところは、さすがに、徹頭徹尾人間にしか興味を示さなかったらしいドストエフスキーの無意識の矜持なのだろうが、それでも、ドストエフスキーにしても、言葉が書かれる基底の処の盤石性に真正面から食って掛かったわけではない(パリに不倫旅行した時も、観光地や美術館には一切目もくれず、パリを行き交う人間をひたすらギョロギョロ凝視していたような人…)…彼にしてもあの過剰な説明の、ほとんど力技で説明が破綻しそうなほど支離滅裂であるがそれでも説明の範疇から出られぬ説明の嵐の背後で、そうした説明の説得力をすべて無効にしうるような、いわゆる名づけえぬものにうすうす気が付いていた痕跡はあるが、所詮その程度に過ぎなかったといえば云い過ぎなのか…19世紀半ばのドストエフスキーの「地下室の手記」を読めば、小生如きがこのブログで書いていたような思想信条の一部は書き尽くされているというのに…40年間地下室に引きこもる男のキツメ独白小説…。専ら小生個人の問題だが、時間や空間や概念や仕組みや人格や人間やキャラクターや雰囲気づくりや物語や面白おかしを否定し基本とせぬ、少なくとも安住できぬ小生であるからして、その理論的必然によって、小説という最もラディカルな文書において、もう、何も書けなくなっている…それでも書かれなければならないしそのようにして書かれたものこそがまっとうなラディカル文書と云えるとわかってはいても、書けるわけないじゃないか…自ら首吊り自殺を決行しながら、首の筋肉を必死に固く力ませて縄の食い込みを押し留めてまで生き延びようとする不毛且つ困難過ぎる滑稽人生劇場である。「誰ソ彼〆子の舟風呂日記」というのを書いてます。まだほとんど出来ていないし完成する可能性は限りなく零に近いけど多分一年後には完成しているだろうが、ドストエフスキー気取りで、誰か前払いしてくれる出版社ないしは好事家がいれば、その人のために書きます。裏・堀北真希というべき谷村美月の、光を濃く暗くする琥珀の如き魅力は、魅力の先達者・和久井映見に匹敵する。三者とも、目が離せぬ女優である。今日、ベルトを買った。ベルトと云うのも、こだわり出せばきりがないようだ…いくらでも、そこかしこに趣味の深みが待っている。ウイスキーやり出してから、歯肉が痩せているような気がする…もともと慢性歯肉炎だが、いつの日か、歯が、御所の襤褸塀のように一斉にばったり倒れそうな気がする。ドストエフスキーから卒業はできないまでも、自主退学ぐらいはすべきだろう。
昨日、「彼」に出会った。ドストエフスキーではない。小生が、人生の折々で出会ってしまう、名も知らぬ男性…背が高くやせ形で髪は短めでジダンのような髪型で目は細め人…在学中から時折彼に遭遇していたが、細君によれば、言葉を発言することが著しく困難という人…自分の研究発表会のような時でも、教官らの前で言葉を発することなく、ただそこに居たという人…在学中、話しかけてきた人の言葉を反復していたという彼…河川敷付近で出会った時はギター背負って自転車に乗っていた彼…あまりによく会うので、図書館で最接近した時、小生から、「よく会いますね」と声を掛け、びっくりした表情でやはり何も言わず去った彼…昨日会った時は、福屋の本屋で、青いジーンズ生地の上着をまとい、思想・哲学コーナーに向かっていた彼…。韓国ドラマ「イ・サン」…朝鮮民族のファッションにはあこがれている…。特にあの、黒い、目の粗い帽子の涼しげな端正。
ドクター・ジョン。1968、アメリカ、ニューオーリンズに召喚された夢魔…。19世紀ニューオーリンズに実在した、ヴードゥー教の司祭の名を勝手に襲名、文字通りアメリカ最深部の、まさに温床という言葉が相応しいごった煮(ガンボ)の鍋底に焦げ付きながら、トフットフッと強烈な異臭の泡を破裂させる文化文明の濃いむせりを吐き出して止まぬ…ヴードゥー教の資料をしっかり読み込んでからこのアルバムについて書こうと思ったが、福屋の本屋に売っていなかったから仕方が無い…結局、音楽は耳で聞くしかないのだから…すっかり、忘れていたのであった、かつて、この音を、貪るように聴き込んでいた事を…それにしても、あの時代の諸相の、出鱈目な正直さ…先行したジャズも闊達とアフロと西洋器楽との習合を進行形で実践していただろうが、それでも、混乱のまま形になりはせず、過酷な状況とはいえあまりに奇怪な境遇に対して、広漠たる綿花畑の地平線の先や監視が苛烈な白人の主人に見つからぬようこっそりであっても叫ぶしかなかった各個の黒人の唄…その唄が舐め散らかすのはそこらの土壌しかなく、もう記憶から伝承へと遠ざかっていた遥かなる古い大地アフリカの鼓動であったり、恩をあだで返すように騙された挙句近代兵器で虐殺された原住民の残響に今更ながら耳を傾ける罪滅ぼしなのか権力というよりも単純な圧制に対する偽装なのか西欧キリストと部族の神との習合といった文化・宗教的偽善すらもとうに忘れられ、この時代でさえも、恐らく、文化は意匠に成り果てていたに違いないのである…アフロも、原住民も、ヴードゥーも含めて…彼が身も心もやつす司祭もキッチュな装いに過ぎないにしても、この、あまりに濃く、本物のような振る舞いに聞こえるのは何なのだろう…それゆえに高まるいかがわしさが、逆にむしろ本物性を織り込んでいき最早区別できない反物となる…当然ながら、本物と模倣との区別など愚劣であることは十分承知の上で、かように拘泥している。この諸相は、芸能というものの事実であるとしかいいようがない。小生は、たとえ如何にいかがわしく、最早、これが本物であるという証拠など失われているとしても、この音楽がヴードゥーというものの教理を音楽せしめていると信じる。そして、たとえヴードゥー云々を知らなくても、この音を聴けば、独立の誇りと孤立の寂しさを隔てようとせぬ、何よりも人間の弱さと卑劣を自らの人生として経験しながら独立せざるを得なかった孤立した人間の止むに止まれぬ無駄の唄というものの、差し迫った不逞を感ずるのである。即ち、「アメリカ音楽の点在する系譜」における、星座におさまらぬ一つの巨星であり、特異点として、無意識に媚びる者どもが有り難がる歴史を磔刑に処す。かような、とうに没入しきったいかがわしさであるから、これはロックであり、ただの民族音楽の模倣ではない、ヴードゥーロックという呼称が許される。
まず、恨みが儀式化されると呪いになる…そこに、本物と聞き違えんばかりの芸能の秘密がありそうだ…どす黒い暗闇の音。云うことを聞かぬ豚の尻を丸太で叩きのめす、残忍且つ卑劣な打撃音の連続ドラムがドカドカと。無闇に楽しいチャカポコ音も随伴する。場違いなタイミングで声を荒げる男ども、それぞれ決定的に異なる声を時間差で張り上げる女どもが、部族の言葉を暗く呟き続ける…というものの英語ではある。音を聴くというよりも、煮詰まったペースト状のものを、彼らの舌や手で、直に、鼓膜になすり付けられるような過酷な体験である。そしてサイケデリアは、このように点在する、始めから伝達を目的とせぬ狼煙の打ち上げによって漂う濃厚にして曖昧模糊とした野卑と凶暴に根ざす。ドクター・ジョンにおいても、あまたの点在者と同時に、尚且つ独自に、サイケデリアの珍念を彷彿させてあまりある。歌詞も秀逸である。そうだ、サイケは、愚か者のように沼から飛び出してきたんだ…沼もろともに!6曲目を写す。
ジャンプ・スタディ
彼女の名前はジャンプ・スタディ「力強くジャンプ」
愚か者のように沼から飛び出してきた
彼女は魚たちと踊っていたと人は云う
皿の中で炎を操ったという人もいる
バイユー・セント・ジョーンズで暮らす彼女は
手を上げて電気の嵐を起した
彼女は不安定な女だった
悪意があった訳じゃない
ある日、消防署を飛び越えて
火災報知機を作動させてしまった
どういう訳か、ラトルスネイク通りの真ん中で
クイーン・ジュリア・ジャクソンと関わり
クイーン・ジュリア・ジャクソンがゾラ・ルブレクを落とすと
ジャンプ・スタディは魂を捧げて死んでいった
彼女の名前はジャンプ・スタディ「力強くジャンプ」
対訳 田中まこ
「genesis/nursery cryme(1971)cascdx1052 7243 8 39780 2」萩
来週、また、萩焼祭りに行くつもりだ。数年前、既に行っており、萩焼に関しては小生好みの名品を既に幾つも所持しているから、始めて行く窯業地や骨董市や陶器市や個展でのように、何が何でも名物をお助けしなければならぬというガッツキから解放されているゆったり感の中で、五月の萩焼と親しみたい…程よく錆びてむらのある赤銅色の油膜のようにぎらつく玉虫色の萩井戸茶碗が欲しい。
そろそろプログレ再聴しなければならんな、と誰に頼まれた訳でもなく思い出ずる悩み…。かつては自分でもどうにもすることができぬほど強靭な意志に沿って、プログレ風のジャケットを見かけたら何も考えず衝動買いしていたほど、兎に角プログレばかり聴いていた…。思えばこの循環、多分3回目ぐらいになるのではないか…この半世紀ほどの、忘却に埋もれるほど長くない期間において極めて系統的に分派習合を繰り返したロック音楽を聴く者ならば、厳密に時系列に沿うものでなくとも各系統を自分好みに巡礼するかのように聴き、一巡しても終わりではなく思い出したかのようにまた幾度となく巡礼するのではなかろうか。(小生の例でいえば)ブルースやR&Bなどの黒人音楽→ガレージ→ザッパ→サイケ→ハードロック→メタル→プログレ→ジャーマンプログレ(ジャーマンサイケ)→シルヴァーアップルズ→パンク→モダンポップ(モダンロック)→ハードコア、オルタナティヴ→GS→ブルースやR&Bなどの黒人音楽…といった、まさにロック数寄者の業(カルマ)ともいうべき万華鏡の六道輪廻から解脱できないし、むしろ解脱したいとも思わぬのだろう、多少の枝葉への脱線はあろうとも…
そんなわけで自分の中でプログレの季節風がそよそよし始め、まずはジェネシスと相成った。プログレ的なるものとは何だったのか、についてはここでは深入りしない。小生がプログレの中でもとりわけジェネシスを重要視する理由は、彼らはその初期からプログレ的様式を備えながらもモダンポップ的つんのめりを晒して憚らぬ特異性を有していたからだ…キングクリムゾンがプログレ批判の嵐に色目を使ったのかあるいは比叡山の高僧のような脱俗態度の末にむしろ純化されたありのままの迷いの表出なのかわからぬが兎も角珍妙でひ弱なモダンポップ路線を後年になって漏らす…しかしジェネシスはプログレのプログレ的なるものの礎石の一つとして大きく貢献しながら、既にその端緒から、プログレの否定という偏った方向性の稚戯とは隔絶しているのか加担しているのか曖昧に真顔で笑うモダンポップ性をも創出していたと小生はその音源から聴きつけていた…。モダンポップとは何か、ということも、これまで再々に渡って文章の端々に絡ませてきたが、やはりここでは深入りしない。これも何度も云うているけれどもいずれ「悪趣味の系譜」編にて述べる予定だ。
そんなわけでジェネシスの中のモダンポップ性を再確認するために、生首でゲートボールかクリケットみたいなのしている油絵が秀逸なnursery crymeを聴いてみたら、上記のようなことは確認できなかった。いわゆるプログレだった。マシュマロ一杯に頬張ったようなピーター・ゲイブリエルの咆哮…甘みがさわやかな綿飴から降り注ぐ五月雨を浴びるような、べとつかぬ抒情…悪くなかった。上記のようなことが聴き取れるのは、今思い出したが、フォックストロット(1972)であった。
道が私を歩いている
観念は言葉の身体だ
tony banks
michael rutherford
peter gabriel
steve hackett
phil collins
「the who/odds & sods(1974)uicy-6422」葉桜
自分を追いつめるようなキツメの書物の一つ二つ読まねばならぬ時期なのに、そうではない、例えば井伏鱒二の、鱸の刺身のように淡白で滋味深い随筆ばかり読んでしまう情けない状況が、下り調子の億劫な人生のようにだらだら続いている…いつものことながら引き絞るような心の衰弱著しく、磨滅する感受性と失語の継続が落ちる…気持ちが鏡のようにすり減りながら有象無象が無意味にうつりゆく毎日が続く…そんな折、昔は心和む良い番組だったのに最近は醜悪愚劣ぶりを見せて憚らぬ所さんの笑ってこらえて。日本各地の学校の体育系部活をめぐる旅…基準などよく分からぬしそんなものはないのだろうが兎も角厳しめの指導をしてくるコーチあるいは監督あるいは教師と、それに泣きながら頑張って盲従する生徒の図…胸糞悪い保守根性…体育系の監督の人生訓など幾らでも反駁できるしそもそも新体操というものそのものが下劣である…ここでいう下劣というのは自らが納まる枠組みに抗うどころか無批判に愚直に従順することである…空を見た事も無い連中の健康な行進風景には飽き飽きしつつ、そういう人々の中にはそうでない人もいるかもしれないという、論理的推論の枠組みに収まる想像力におもねて慮ったところでそうでない人などいやしない現実に何度も遭ってきた。あまりに人間的な奴隷階級はどう転んでも、あまりに人間的な奴隷階級に過ぎなかった。これからはそうではないという保証もないし、これからもそうであるという保証も無いままに。酒が無くなったので清酒一升とサントリー角と共に、日本酒用に鮭トバと、ウイスキーに合いそうな肴として乾燥バナナをも連れて帰ったら細君が怯えている…どこまで飲むつもりなのだろうか、と…。消沈している理由は生活全般なのだがとりわけ今日は、先日壊れた牡蠣殻ループタイ2号に新たな創意を加えて修理した結果、小生好みの出来栄えにはならず納得いかぬのが大きい気運なのだろう…福島県などで、学級崩壊に寄与していた小中学校生は、震災や原発や避難区域となった今だからこそ、平素行っていた学級崩壊行為を断固として継続すべきである。避難所となった学校で、避難住民の方々が毛布に包まり炊き出しなどに忙しい中明日を見据えている時に、震災前に教室を荒れさせていた者は、震災後でも、それを持続すべきである。そうでないと平時の崩壊行為(教師に対する無視、暴行等々)に何の矜持も持てはしない。そもそもそんなものは無かった事の証明にしかならないだろう。ただの甘えに過ぎなかったと告白しているようなものなのだろう。元より本当にどうでもよいことではある。筋を通さない事こそが屑の屑たるゆえんなのだろう。
ザ・フーの、寄せ集め野郎であった。井伏随筆をちんたら読むようにポカポカ聴きつつ、しかし、やっぱり、安住を許さぬザ・フーの本然が鼓膜に炙りだされる経験であった。これは、過去の正規発表アルバム所収の楽曲の別テイクや未発表音源の吹き溜まりである。フーズネクストやライブアットリーズやトミーなどの威容なるアルバム群の…だから、本当は先に、これら正規発表アルバム群について感興を述べなくてはならないのだろうが、そんな気合が失せた今であっては、かような吹き寄せ趣が心に馴染むのだから云々という言い訳である。有体に申せば、最後に聴くべきアルバムの一つなのかもしれない。ザッパでいえばバーントウィニーサンドウィッチのような…過去の猥雑多極まりないアルバム群を聴き込み、レコードをかけている時以外でも、記憶するまでもなく毎日いつ何時でもその音を思い出している人が、もう、それらのアルバム山脈が腹蔵する谷の襞から植生から水脈に至るまで味わった後、無論、味わい尽くす事など有り得ぬから今まで何度となく聴いてきたのだけれども、それでも終わりのような穏やかな訪れに際し、思い残す事どもが有るか無きがの如くこれまたいちいち堪能する上で手に取る類であることは否定できない。
かような、別テイクや別アレンジの楽曲が正規版、という言葉が悪ければ初回発表時のもの、に比べて劣るということは無いし、そもそも比較する論拠は無い。それぞれ別の物だと割り切って聴けばいいのだが、以下で、あえて拘泥するのは、これが他ならぬフーの音源であるから、ということをこれから示せたら。初回発表盤を聴く時に訪れる、襟を正さざるを得ない感興というのではない、どこか気の抜けたものが、別テイクものには、聴く側にも、楽曲自体にもあるような気がする。襟を正す聴き方からすれば、別テイクには、どこか腑に落ちぬ、納まりどころが徘徊するような印象が拭えぬ…これは過去の初回発表版を聴き込んでいる耳があるからだとするのは簡単だしそれも一理ある。しかし、初回発表版を聴かずしてこの別テイクに遭遇したとしても、ザ・フーにおいては恐らく、腑に落ちぬ、不安定な興が起こると思う。そもそも、初回発表盤自体が、一体、何がやりたいのか、全く分からぬ代物なのであった。繰り返すが、別テイクと初回発表の区別など意味は無い、しいて申せば全部初回発表といえるし全部別テイクともいえる、などといったこれみよがしな理知が、そもそもザ・フーひいてはハードロックにおいては役に立たぬということを云いたいのである。
最早書き惜しみすまい…いずれいずれと思うているハードロック論の序でもあり結でもある事を、準備不足構わずそろりと進める…ザ・フーを初めて聞いた時、それが四重人格だからいけなかったのであるが、一体、何がしたいバンドなのか、さっぱり分からなかったのである。そして、分からなかったから、賞賛しようもなく、懐中、否定さえしていた暗愚であったのである。分からなくても、何かしら引っかかる、と感づくことは、分からないということではなく、本当に分からなかったから、さように感づくことすらなく、ただただ分からなかった。今でも、分かってはいない。分からぬことが分かったところで暗愚の水平から海抜することなど有り得ぬ。この、分からぬもの=ハードロック、という言葉の柵で囲ったところで、フーの音楽が現存する限りこの中宇の不安性は払拭されない。ただしここでいう不安というのは、人間奴隷の餌たる心理と心理学とは無関係である、と云いたいが、云い切れぬ。
たとえ初回発表盤を聴いてなくても別テイクの不安性はザ・フーの本質ゆえに励起するし、その事が、初回発表盤の不安性をも自然する。しかしながら、初回発表盤を既に聴いているから、こうしたことは決して証明されえないこともまた、ザ・フーのある種徹底した不安性から来る、偶然を装った必然的事実のようにも思われる。どこまでも、納まりどころからすり抜けるようにして、妖怪が無意味にぬっと現れては消えるようにして、その有り様を角目立たせる。
例えば小林秀雄のいうモーツァルト性と、小生の云うハードロック性は似て非なるもの、と予め釘を刺したい。これは結果ではなく宣言である、目的無き処、意志が徘徊と樹立を物狂おしく果てる謂いである。戦中から戦後へと、積極的な媚びを特徴する民主主義の欺瞞に辟易した小林氏の潔癖が、モーツァルト的な、涙も追いつかぬほど疾走するかなしみに傾倒しロマン主義の心理解釈大仰云々を唾棄する事情はよく分かる。しかし、少なくともザ・フーをして、ハードロックはロック史におけるロマン主義運動の先駆けとする先入観から免れさせるほどザ・フーも、そして小生も潔癖ではありえず、心理や概念や権力や生活の垢にまみれた猥雑な雑音と音楽を峻別することなく聴きまくることこそがロックの醍醐味ともいえる。
そういえば今週のモーニング掲載のへうげもので、古織公が大徳寺に寄進していた、地蔵さまを浮き彫りした織部燈籠を、作中で、上田殿が激しくメモっていたが、過日、小生が上田宗箇流の茶会に参じたおり、数寄屋までの露地に、まさに漫画で描かれていた織部燈籠そのものが佇んでいた…織部燈籠もよいが、朝鮮燈籠というのも相当侘びていて、よい。朝鮮燈籠も地面に刺すタイプだったような違うような…どちらが先かは、どちらでもよいでしょう。あと、以前、へうげものの実写ドラマ化の提案した時、肝心の古織公のキャストが決まらなかったが、今少し思ったのは、阿部サダヲという役者さんが、ヌメッとしててよいと思う。利休はやっぱり、御大水木しげる先生で。へち貫役をしていただく予定だった坂上二郎氏が亡くなったのは残念だ…
茶会記お流れ
震災当日(?)でも来日公演をきっちりやりおおせた云々はどうでもよろしいのだけれどもNHKのソングスで放送されたシンディ・ローパー、その動きが、ショウビズ的な訓練に盲従したことによる賜物とは隔絶して、全く洗練されていず、ステージ狭しとやりたいように野蛮にブルブル場違いに動き回っていた様が、成程、この御方ならば地震だろうがなんだろうが歌うのだろう、と思わせた。NHKのスタジオで、エレキ大正琴のような楽器を弾いており、小生の創意を先に行動に移された感が強いが、彼女が弾くエレキ大正琴は音量が小さく、小生が欲する演奏スタイルとは異なるからまだ安心できる。
震災後の政治、文化状況の惨めな動きに関しては言い出したらきりがないので今宵は割愛するとして、気にはなるのは、震災の影に隠れてあまり取り沙汰されず進む角界の粛清のような力士解雇の嵐である…などと書いていたら熱血!オヤジバトル決戦ライブなるものが始まった。中高年の方々の生ぬるい懐古趣味のロックカヴァーを聴かせるのだろうと邪推していたらCCRのカヴァーなども始まってげんなり…相撲はスポーツではない。プロレスと同じ、ただの見世物興行である。民主主義的情報公開の上で公認された規則に準拠しながら勝ち負けの様を記録記憶する悪しき近代文学的解釈なるスポーツとは異なる原理のものであった、少なくとも江戸時代までは…。相撲観戦などといえば喧嘩しにいくようなもので傷一つなく長屋に帰ると男の恥であったし、不滅の大関雷電などは土俵上で相手力士を投げ殺す、悪態つく観客の馬子の首を引っこ抜いて殺す、その様が文楽かなんかになってやんや喝采といった出鱈目浮世の太平であった。品格などという、生噛りの生ぬるい文学的概念が入り込む土壌は一切なかったのだろう。戦後、横綱大鵬などが品格ある横綱像を文学化してしまい、江戸的な感性の持ち主朝青竜が排斥された後、白鵬関が改めて文学的横綱像を継承(大鵬がロシア人の混血、白鵬がモンゴル人、いずれも共産主義圏の人、が横綱の品格に関わった、と考えるのも邪推だろうと思いつつ)…力士らが自分らの生活を守るための八百長の何が悪いのか、自分にはさっぱり分からぬから徒な粛清に見える…任侠とは関係ない、クスリや強請に精を出すヤクザに金が渡る仕組みはよろしくないとは思う。
今、全てとは言わないが多くの平時の公務員が生み出している途方もない無駄、誰も読みはしないし読んだところで何にもならないパンフレットや文書(「何々の拡充」云々…)、役に立たない計画や巨大建造物の全てこそ、この国で生み出されている芸術ではなかろうか。如何なる芸能芸術学術も何らかの経済的寄与に貢献しなければ存在が許されぬ昨今であればこそ、そうした経済的大衆的要請に振り回されることなく粛々と生産される、ぎりぎりまで面白くないし何の滋養にもならぬ公務員の生産物こそが、真の芸術といえる。いっそのこと、日本国家や地方公共団体の全ての仕事や産物を芸術だと思えば、それらが何をやろうとも気持ちいいし、芸術の代償だと思えば税金払うのも腹が立たない。巷で雨後の竹の子よろしく垂れ流されるチャリティー歌唱の、媚びに媚びた生ぬるさなんぞよりは、国民や県民のためだと口では言いながら決して見事に役には立たない公務員の仕事ぶりのほうが、はるかに、芸術のあるべき不毛さを体現している。自衛隊や消防は役に立つじゃないかという向きもおられようが、以前にも申し上げたが、あのような、上官からのしごきに耐えるのを自分に課して恥を知らぬ、精神の膠着した玄人集団からの救助を、断固として拒絶する日々の修練が、破綻した成熟した市民たる小生をして必要と痛感する…急性アルコール中毒で意識せぬまま救急車のお世話になったこともある自分なれど、さような未熟からは何とか脱却したい。
益子や笠間の窯業地が大きな被害を受けたと聞くが、ささやかながら愛陶家としての小生が最も気になるのは福島の焼き物である。福島または会津は、東北でも有数の焼物の産地であり、小生もいつか現地調査したいと思っていた諸窯は、今、どうなっているのか…原発避難区域になっている可能性もあり、それでも小生としてはいずれ行かなければならないから、保身と物欲との間で葛藤している。藩窯の相馬駒焼の、あの渋すぎる鉄絵の馬…窯だしと同時にピンピン音を走らす魅惑の青磁貫入…大堀相馬焼、会津本郷焼、そして、三重の四日市とは異なる、諸星の漫画に出てくる、黄泉の光を浴びてそうなった元人間の土くれのような謎の万古焼(田島万古焼?)…福島の焼き物の情報が無いが、復興のため云々は関係なく、自分が欲しいからいずれ行くつもりである。
茶会記を書くつもりでいたから、書くつもりでロック音楽をちゃんと聴いていないし、先ほどまでの贅言が過ぎ、タモリ倶楽部が終わると本題に入る体力もないのでこの辺で。ミュージックフォーカスという番組で、うまい棒に仏像を彫る御仁が現れた!。何にせよ、蜂蜜でローストした胡桃をつまみに杯を重ねるスコッチがうまい…江戸の人々はその辺の熊さん八っつぁンでも飲み代に困ったら天狗やら仙人のコスプレして小銭を稼いだというがアキバあたりのコスプレイヤーの方々も、東京電力や政府の作業服を調達してコスプレする時期が来ていると思う。多分、時期をおいて、政治家の物まねを見せるニュースペーパーというコント集団あたりが、作業服着た枝野氏の物まねをするのだろう。
金継ぎのススメ 落成のお知らせ
なお、小生のホームページを全面リニューアルしています。
アドレスは変えていませんが、もしうまくつながらないようであれば、再度、非業組合、仄々斎不吉、王道なきロック史、等で検索していただきたく。よろしくお願いいたします。