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区切り、そして生活問題の山積への苦渋
細君が読んでいるバクーニンの「神と国家」を横から読んでみて思ったこと。自由というのは、その行為の内容のことではない、内容が陳腐だろうがなんだろうがどうでもよい、やるかやらないか、という自由であると。アナキズムは実存主義に先立つ。バクーニンのいう自由とはサルトルのいう実存である。メモランダム。細君:内的=時間、外的=空間。バクーニン:内的=観念、外的=社会。
ここ数か月の、まさしく生きる糧にしてきたことが終わってしまって、げっそりと愕然としている。もう、生きる糧がなくなってしまった、と。親愛なる友人の結婚式のことである。翌日の観光での、渡辺美術館でのげっそり、も大きい。これから先、何を糧に生きていけばいいのだろうか、結婚式があるからということで先延ばしにしてきたが、ふと足元を見れば、己の生活上の、いかんともしがたい問題が山積、その早急なる処理を家人から求められ、いたずらに苦しいのみの、生活能力の欠如が明るみになる。それを解決したところで何がどうなるのか、喜びもあれば苦しみもあるそれだけのことになるのは分かっているそうしたことが現状とどう違うのか混乱の拍車ばかりだが、愛する者のためだけには何とかしなければならない。賃仕事進退問題彫刻進退問題文筆進退問題住居進退問題子孫進退問題の概ね五重苦が互いに雁字搦めにその問題の深刻さをきつくするのを核としてその他もろもろの些末な問題ゲリラが小生の毎日を覆う。それらすべてを後回しにする口実が、この度、終わってしまったのだから絶望の幕引き以外見えない。真っ黒な緞帳の向こう側を何とか透視する滑稽な努力を続けるしかない。微細な星の光を集める己の眼球の焦点をその緞帳に合わせて、焦がして穴をあけるしかない。穴が開いたところで何が見えるか、何も見えない可能性が大きいことも承知しつつ。
もっと友人先輩と話すべきことがあったような気がするが、持ち前の即興性の無さで、後になってこういえばよかったと思うことの1%も言えずじまい、いつもながらの後悔である。次を頑張るしかない。翌日、ホテルで、所定の階に行こうとしてエレベーターに乗り込んだものの、うまくいかず、エレベーターの中で小生よりも他人の意志が優先されてうまく所定の階に止まることができず所定の階を何度も通り過ぎながらエレベーターで上下していると、新郎とその父君?に救出された、という不条理に出遭った。奇しくも、エレベーターに乗る前、朝食バイキングで、そのシステムを瞬時に理解できず、あたふたと意味不明の行動をしていた後でもあった。気が狂えるものならいっそ発狂したい、発狂すらできぬ虫けら以下の存在(「地下室の手記」より)。何にせよ、楽しみは自分で作るしかない。苦渋に鞭打たれながら、さしあたってまた茶会を企てるしかない。先輩が結婚するというからそれも抜け目なく生きる糧にしなければやっていけない。
新郎から頼まれて余興あるいは祝辞を読んだが、自分が何を言っているのか自分でも訳が分からなくなっていた。声が白紙になるというか、自分では声が出ているつもりでも実際には声になっていなかったのではないか、と不安で仕方がない。幾人から好意的な感想をいただいたが、気を使ってくれているだけの裸の乞食なのかもしれない。一応、余計なことだと思い知りつつ、以下に、祝辞の全文掲載。小生の声を聴いた方は読む必要なし。
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○○君、○○さん、ならびにご列席の皆様、近在遠方より一つの祝福が集まる今日という日に私も参加することが出来て喜びもひとしおでございます。申し遅れましたが私、新郎からのご指名により余興の座をお借りしました△△と申します。秋はいい季節です。とはいえ夏の名残忘れがたく、琥珀色に呪われた液を嚥下するに思い出すのは蕉風勃興の機運を地図のように眺めながら独自の句風を吐いた江戸時代の俳人上島鬼貫という伊丹の酒豪でありまして、人口に膾炙する発句、「行水の捨て所なし虫の声」。行水と言えば漱石の猫で盛り上がる俳劇談議の一場面、花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈心入りの帽子を被って、すきやの羽織に薩摩絣の尻端折の半靴というこしらえで出てくる、着付けは陸軍の御用達みた様だけれども俳人だからなるべく悠々として余念のない体で歩かなくっちゃいけない、それで虚子が花道を行き切っていよいよ舞台に掛かった時、不図句案の眼を上げて前面を見ると、大きな柳があって、柳の陰で白い女が湯を浴びている。はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大いに俳味に感動したという思い入れが50秒ばかりあって、「行水の女に惚れる烏かな」と大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く、どうだろう、こういう趣向は、なんぞいう愉快な場面が思い出されますが鬼貫の行水は豆絞りの褌で尻を角ばらせた鯔背な男の野辺の行水だろうと推察されます。鯔背な男が片田舎ののっぱらで行水するかどうかは話が長くなるのでそれはさておき。
秋の気配が結露すると虫の音となってころころと夜風に散り急いでおりまして昼間の草いきれの残りを綿掛けする野原のただ中に盥を置き水を張ると早速、満月が生卵のように揺れている。行水する男は虫の春秋に頓着せぬたちだからざぶざぶと、青いジョロウグモの彫り物が月にさえる白い肌を洗うのであるが、ふとよぎる夜風の肌寒さ、すかさず季節の移ろいを慮ったところ、無心に鳴く虫に冷や水浴びせかけるを躊躇して、盥に残った水を捨てがたく憮然としている、可憐なためらいにこそ移ろいが宿る、鬼貫の句はそんな句です。
有明の月も遠のけば、石灯籠ぐんぐん高く伸びあがる秋の朝空、夜露を吸って根の国までどっしり湿った土には曼珠沙華の花が直に生えている。満々と水平にまで水を湛えた海でありながら水が乾ききっているように見える海の崖っぷちには浜防風が咲き乱れ、誰にもその文字が読まれる事がない、しかし誰もが諳んじることが出来る文字が刻まれた石碑の陰が立っている。水が乾いている海というのは水が干上がっている海という意味ではなく、水が乾いているこの感じが秋だと感ずるわけであります。半ば駆け落ち同然に、神話の国から神話の国へ、行き暮れて辿りつく二人でもあり、国体護持の国防婦人会初代会長アマテラスと出雲系カウンター神にして荒みの祖神であるスサノオとの板挟みで、八百万の神々が顔つき合わす夜、非生産者にして芸能の神たるアメノウズメが、はじめは、淫らにも滑稽な仕草をオカメ面で繰り出しては嘲りを含む神々の喝采をとっていたものの、その内、アメノウズメが底光りを踏み抜くがごとき力強い足踏みをそろそろと刻みだすに至ってはビートの導火線に火が付いた、拍車うつリズムへの期待感に神々はうずうずしている。天岩戸の中で拗ねたアマテラスを引っこ抜くべく待ち構えるタヂカラオは、不穏きわまりない思いつきに独り、苦しんでいる・・・いっそのこと、アマテラスをこのまま岩戸の中に閉じ込めてやろうか、精神と時の部屋で引きこもる根性も無く人恋しくなって顔をのぞかすような中途半端な奴の言いなりになることなんかない、黄昏の神々の喜びようはなんだ、そう、みんな、全てを明るく照らし出す光など必要としていないのだ、全てを照らし出してくれる便利そうなものに頼ろうとするから媚びたりへつらったりが生まれる・・・国が生まれ奴隷が生まれる・・・如何に闇夜であっても自前の松明で目の前の人の顔をしっかり確かめたり自前のたき火で煮炊きすれば肉も魚も米も単純に旨いではないか・・・ツクヨミがいるから夜でも風情があっていい、一足先に狂乱の態に走ったアメノウズメが胸乳も露わに反り返りながら膝高々と力強く地面を踏み鳴らす轟にすべての樹木が飛び上がって頭から地面に突っ込むと剥き出しの根っこをバチバチさせながら煽りに煽り、腰砕けのダルマ落としで一晩中踊りに踊りぬいた神々は眼が座っていて獰猛なまでに静かだ、待っている凶暴が葦原の漣をも平定する息をのむ熱望の瞬間はあまりに長く興奮の度合いが募りに募り、神々は、生活が大の字に寝ている与太者の心拍が思いの外ずたずたに荒んでいるのがアンプリファイされた起死回生のロックバンドを出現するより前に渇望している。外の突発的喧騒と奇妙な静寂に誘われ物欲しげな表情で岩戸の隙間に指を掛けてきたアマテラス、その遠慮がちな動きを察知したタヂカラオは、素早い残酷さで指諸共力任せに岩戸を閉じてつっかえ棒、明けることの無い夜の中へすたすた走りさった。耳鳴りする足踏みを閃かせながら事切れたアメノウズメが道化のオカメを脱ぎ捨てて不敵な笑みを薄暗くこぼしながら稲妻直結で人間を真っ二つに切り裂いたベースに憑りついてベロンベロンの音を増幅爪弾く爛れの余韻ひき切れぬうちにしたたか速い気まぐれもすっ飛ばして生爪重ねるように次々リズムを更新していく。タヂカラオが血抜きしないニホンカモシカとニホンオオカミを供え物の御神酒の樽に詰め込んだだけの粗末なドラムセットを即席でDIYしたタヂカラオは几帳面なこだわりを注いだドラムのセッティングをようやく終え、聴覚のみぞおちに工夫無く体ごと連打、一撃で霧島連峰から阿蘇山までぶち抜く爆音で熊襲に自覚をうながしながら野放図に裏へ裏へとリズムの裏へと先回りするえげつなさがガンガン軽く嵩張りながら心の臓にドロドロ窮迫するビートを、疲弊しきった間の抜けに押し込めるがさつさだけが無闇に牙を剥くハードロックの編成からも開き過ぎて肋骨がポチョムキンの階段になると土が一斉に浮足立ち神々も爆発して踊り狂った。意外にもクリアなトーンを選択したギター担当のスサノオは虫のいいリズムでのたうちまわりながらもリズムに拮抗し創意を叩き上げる場違いに身を投じて本邦初の歌声を苦し紛れに絞り出すだろう。枯草をむしゃくしゃにするサイケデリアの炎が眠りながら死肉をむさぼる荒みの歌声はあまりに有名だろう。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣 作るその八重垣を」天岩戸に挟まれた指がかすかに動いて否がおうにもリズムに乗っているアマテラスは、己という光に閉じ込められて何を思うのだろうか。密閉されているがその中だけは異様に明るい部屋のインテリアはこだわりでいっぱいだ。すると、何食わぬ顔で朝日が昇り始めた。閉じ込められているのは一体何なのか。単なる人違いか。そんな宮崎という土地から、平和という現代の神話が、まさに神話の効能である隠蔽工作が戦後民主主義体制の元に形作られた広島という爆心地で学問を修めた後、ついに、出雲系カウンター神の出身にまつろう鳥取へと居を定めた二人は、あの、誰にも読まれることは無いが諳んじられている、つまり刻んである文字と諳んじられる文字が異なる可能性のある石碑の陰で結婚を誓ったのであった。電磁波でできた座卓で湯気を立てる、茶柱が倒れることもできないほどびっしりつまった膳所焼の湯呑がさながら香炉でもある。
自分の魂に自信はありますがこんな感じで、新郎のひととなりが少しでもお伝えできていればと思います。とはいえ、なんですからすこしばかりのエピソードをご紹介いたします。○○君はまことに仁徳の高い男でありまして、たとえば、高野山まで一緒に物見遊山に出かけた折、電車に座っていると、率先して御年輩の方に席を譲っていました。とうてい私にはできない親切でありまして、私などは、駅の構内で乗客たちが長蛇の列で電車を待っていたとしても、毎日疲れ切って余裕がないために、押しの強い中年女性をけたぐり倒して背中越しに罵倒が聴こえようとも席に座ろうとしますし絶妙なるポジショニングゆえにその成功率は情けないくらい高いのです。世間の椅子取りゲームは苦手でも電車の椅子取りゲームには負ける気がしません。徳の高さの違いが分かろうかと思います。もう一つ、これは○○君の人格とは全く関わらないですし彼が自分の意志とはかけ離れたところで関わっていることゆえにそのひととなり以上にむしろ凄みがあるといえるのですが、奇妙な状況について申しますと、○○君から何かしらの連絡、たいていは飲みや遊びの御誘いだったりするのですが、そうした連絡があった時の前後には必ず、私の生活がかなりぎりぎりにまで追い込まれ目をそらすことができないほど生活の欺瞞を直視させ、私に何かしらを覚醒させてしまうのです。その状況は普通に考えると専ら私自らが蒔いた種に過ぎないのですが、そうした偶然の符号が幾度となく続いておりまして、この度結婚の知らせが来た時は事の重大さからして覚悟はしたものの、やはり、その知らせの重要度に応じていまだかつてなく厳しくも肝心な事がありました。その中身について話すことは、まさにスサノオが機織り娘たちの前に生皮剥いだ馬を転がす様なものなので自粛します。しかしながら、自分の意識とは関係なく、純然たる偶然で以て、何故か私をして生活を括目させ、ある種の覚悟を求めてくる、というのは○○君以外には見当たりませんし、私事ではありますがそうした矮小なる艱難辛苦を、彼と他愛のない酒を飲むことで乗り越えてきた節があります。私は広島、○○君は鳥取と、中国山地を隔てた形ではありますが、こういう事は○○君が鳥取に就職してからですので、やはり、スサノオの鼻息が鳥取という土地から分水嶺を越えてこちらまで吹付けているためとしか思えません。
まあ、そんなことは気になさらずまた誘ってください。面白い道具を手に入れたので大山に雪が降るころ、私からも、また、茶会に誘います。
大杉栄は、思想に自由あれ、行為に自由あれ、そしてさらには動機にも自由あれ、と言いましたが、前の二つはたいして重要ではありません、最後の、動機にも自由あれ、というのが一番、ぞっとするほど恐ろしくも重要な事だと、おかげさまで、最近、分かりました。○○さん、○○君をよろしくお願いします。
生臭い話ばかりしてしまいましたが、挙句に、蕪村の夏の句で清めたいと思います。「ところてん逆しまに銀河三千尺」結婚おめでとう。
軌道、そして来週は休載
さてと
「これを命令するものに発砲せよ」 クロポトキン?大杉栄?
手抜編「nikola kodjabashia/reveries of solitary walker(2002?)rer nk1」滅私滅公
悲願である荒み茶会記の執筆も、些事にかまけて三歩歩まず、祖霊を迎えるための社会社の休みの御近づきもあって心ははや、消化試合の態。いつまで、目先の餌に釣られて痛みをけろりと忘れたらば気が済むのだろう己の愚鈍。他の重大事にまつわる創意の方が沸々としていて今宵は書けず仕舞い。日が落ちるのがもう、早くなったように感ぜられ、夏至を過ぎたのだから当然ではあるが、すかさず鬱陶しいまでに気落ちする。
東欧の偽民族風の、まことにいんちき臭い黴臭い石造りの臭いを微細なノイズをばらまきながら濃厚に萌出してくる。コムラ返りのように頓狂なおかしみが、整列した男たちが繰り出す奇怪なまでの重厚な歌唱から滲み出る事請け合いである。
dzijan emin:french horn,vocals
ivan bejkov:double bass,percussions,vocals
gazmend berisha:violin
vladimir pop-hristov:violoncello,vocals
goce sevkovski:percussions
nikola kodjabashia:piano,percussions,sampler,vocals,conducting
oleg kondratenko:violin
maria pendeva:piano
jane kodjabasha:byzantine chant
aleksandar pop-hristov:electric guitar,double bass
sheazair:saz
martin allen:percussuions
marko petrovski:guitar
荒み茶会記 ~荒みの時代がやってきた~ 下書き、あるいは素描
もう、ほとんど、こんな駄文をシレシレと薄気味悪く書き連ねている時間も無いし状況でもないという切迫した焦熱の上で転げ回るようにそれでも書き連ねるといった事態にしか執筆の動因が無いという静かな平衡である。他にやらねばならぬ事がてんこ盛りだというのに…隔週連載だというのに最近連載が滞っているのを心配していたモーニング掲載のへうげもの、このほど江戸編突入ということで連載再会、胸を撫で下ろす…と同時にコミックス最新⑮巻発売もあって、連載を毎号欠かさず読み込んでいるので中味はしっかり心に刻み込んでいて知り尽くしていようとも早速第1刷を買う。桃山最期の徒花、狂熱の関ヶ原…虚実の境に山田先生の創意が炸裂、気持ちよく抱腹絶倒させていただきましたが、やはり、桃山の終焉、そして物語の終焉の陰がじわりと滲み出ざるを得ず、山田先生ゆえ必ずしも史実(織部切腹)そのままにはなさらぬかもしれぬが気の早い寂しさにもう堪え切れぬ思いも嵩じ、前々から沸々していた、小生が講談社編集部に建白いたしたき儀、というのも早々に動かねばならぬと肝を冷やしている。そう、連載終了を記念して、「利休妄魂」(織部が利休の忌日に、死者を偲ぶ茶会した時に掲げた扁額)ならぬ「織部妄魂」の扁額を掲げた、北野大茶会の興業である。日頃の、へうげもの絡みの陶芸展なども悪くは無いが、最後は、あの北野大茶会の現代的再生をせねばならぬだろう。北野天満宮を貸し切って、世界中から数寄者を招聘し、前代未聞の空前絶後の茶会を開く数寄の祭典を、ぜひとも編集部主催で行ってほしいのである。当然ながら小生も、在野の労農茶人、数奇の壮士として馳せ参じるであろう。現代的意義を鋭く抉る「荒み」(すさみ)の美を世に広く披露すべく、既に、織部妄魂の北野大茶会における小生の茶事、というのも創意はほぼ完成している。あとは直接行動あるのみである。無論、賢明なる編集部諸氏におかれては既に同じ思いで構想しているとも思われる。余計なお世話と思いつつ、喫緊で編集部に書状にて正式に進言いたす所存。
と、殊に数奇に関しては鼻息荒いが、その私生活は、陰惨な苔を舐めるさえない縮こまりである。暗黒の月曜日の朝、公休取得せし妻がうらやましうなった途端、気付いて、休めばいいんだと、気付いて、心折れ、心の風邪で、社会社を欠勤して詠める…
鳴り止まぬ電波の追手に耳を塞ぎエアコンのバリアの彼方油蝉わめく
母を気遣う寝言一声妻の夕にぎやかに芋の転がるカレーを作る
一瞬、鼓膜が羽ばたき始めた。物凄い轟音…それは、外界からの音を摂取しているのではない、専ら鼓膜自身が激しく闇雲にばたついている、手の付けられぬ感じ…独自の意志を格納した鼓膜が耳を離れて耳道を飛び立とうとしている感じ…こういうのを耳鳴りというのだろうか。目の瞬きだけで空を蝶のようにクラゲのように浮遊する、軽い軽い夢も見る。
画伯、という尊称ほどいんちき臭いものは無い。
夏の京都でハモの湯引き、ほど俗なものはない。 山岡 士郎
以下、「荒み」に関するメモランダム。
○侘びや寂びはある種の美意識による排除と抽象によって成立する。しかし荒みは、全てを含みはせぬが排除はしない、あるがままに生活する言葉である。とすると窮極的には全てを含む故に言葉や意識からも解放されうる…そんなことはない。それでいて平和や平穏、安泰、安全から隔絶した、まさに生活そのもののようなふしだらな言葉である。
○荒みの相を便宜的に分けるとするならば、1.荒んだ生活、2.荒んだ芸能、である。しかし、これは説明しやすくするための仮設であって、本当は分かたれない、というよりも混沌である。荒みは説明および説明責任を暗殺する。註:仮説、ではない。真理を不当に誘導し既成事実とする手先としての観念的エンジニアリングではない。
○生活…目先の諸事に汲々している血眼。未来、展望、真理といった理念など雲の上の御伽噺。今日、明日をいかに生き抜くか、切り抜けるか、にしか頭を使わない思考の筋肉性。権力を構想せぬしその暇も無いので腹が空いたり腹が立ったら目先の弱者を引っぱたく弱者の坩堝が限りなく濃く煮詰まっている。無論、思想もする。形而上学もやる。そして思想も形而上学も人間であり生活である。まとまりはせぬ、思弁と生活反射労働の分極が身体論を破綻させるまでに。そこに生活の出鱈目な基底がある。
○芸能の荒みは生活の荒みをますます荒ませる。荒れた皮膚炎を堪え切れず掻き毟る救い難い刹那的即ち生命的楽。燻る熾火をかき立てるがさつな前衛。生活者の生活を思弁的に否定もしなければ肯定もしない、むしろ拍車をかける、生きている人に心肺蘇生を施す余計な御世話の如く。ただの、これ以上底意の無い、下りきった現状認識=基底である根本的無益にして非構築的だから、階級意識や権力構造を明らかにする思弁的抵抗や反撃には組しない。あらゆる構造や構築、組織とは無縁に、勃発するささくれ。とはいえ、反構築ゆえに構築からスマートに脱しえるかというとそうではない。荒みは、自分の身を汚さず論理的正しさに引きこもり、生活の矛盾を悟り顔で馬鹿にするカッコ良さ自慢の小綺麗な脱構築を否定する。というかそれさえも飲み込む。清濁合わせ飲み、清濁合わせ吐く。荒みは評価され得ぬ暗愚でもあるから、その時々で階級闘争も行動するが結局その闘争が当初の高邁なる理想を遠のけ更なる地獄を再現してしまったとしても、そうした失敗すらも最早恐れはしない。否、恐れながらも、なんとなく、うっかり、分かっていながら、だらしなくやってしまう。どしどし誤謬する。思想も芸能である。芸能たる思想は生活の失敗を後押しすることで最早失敗も誤謬も出まかせな浮き草となって、しかし、沈痛なる燻り、遣る瀬無い怒りは癒しを拒む辛うじての誇りである。生活と芸能が行為と思弁をこき混ぜた、善悪と好き嫌いが無効となったところに泥臭い荒みがある。清らかな大白蓮華がすっと伸びて花咲くのを許さぬ、毒の汚泥こそが荒みである。火宅の中でカラオケを熱唱するのが肝の据わらぬ間抜けとしての荒みである。
○荒みは、いざとなれば、肉を切らせて骨を断つ覚悟で、それでも速攻で孤立しながら組織だった階級闘争もすれば一人一殺のテロといった時代遅れの古法も辞さず、村の中で一人、思弁的アジテーションもわめく、床に飾る茶花を選ぶし、珍奇な芸能や思想を各地で開陳勃発させ、こせついた生活に絞られもすれば蓬原の滴に映る日月を愛で、流行のアーティヴィズムにおいて街の統制をおちょくることもする。たとえ、それらが、過去に幾度となく繰り返された茶番であり自己満足だと揶揄されようとも、反復とか永劫回帰とかいうよりも単純に物忘れして繰り返す。そして、歯噛みする思いで何もせずくすぶることも辞さない。行為者と非行為者が価値なき生における同一線上で綱渡りする危うさを有する。
○荒みは、変哲無き生活そのものとして生活を負うという意味で命を殺めてしまうこともあるかもしれないが、統一されぬ矛盾において、命と物とそれらとの出会いを極力大事にする。
・・・続く・・・
テレヴィ番組は面白くなくてもよいものほど面白いものである。タモリ倶楽部しかり、ちい散歩しかり…今テレヴィつけたらやっていた、有吉くんの正直散歩、面白い。しいていえば、ゲストはいらない。有吉のみでよい。
贔屓しているヴィレッジバンガードで、以前から目をつけて、他の客に買われないように他の品物に埋もらせて隠していた電燈を購入する。しかも、二つ。琥珀化したゴーヤのような電燈と、エミール・ガレ風のPOP蛙の電燈…支払を終え梱包してもらって店を出てぼんやりしていると、店の人が追いかけてくる…聞くと、他の客に渡すはずの商品と間違えたというのだ。全く、小生が何となくぼんやりしていたからよかったものの、足早に帰って、袋を開けたら、自分が欲さぬ品物がっ!という最悪状況に、あわや、なるところであった。油断ならない、しかし、むしろ油断していたから、件の、自分が欲するところの電燈をお助けすることが出来たのである。一寸先の闇が本当に空恐ろしい。やり場無くまた、心が殺気立つ。
荒み茶会記 ~荒みの時代がやってきた~ 下書き、あるいは素描
荒み茶会 初座 席上揮毫 菜っ葉の掛軸に大字書「荒」 仄仄 書
拡大 画竜点睛としての缶バッチ「噛みマーク」(禁止記号の内側から噛み付く、小生の諸活動のシンボルにして家紋) 細君 製作
拡大 遊印「滅私滅公」 仄仄 篆刻
雨ずれや夜長に恋し空の夢 (過ぎ去った梅雨に寄せて)
過去にこのブログにコメントを寄せてくれた状況でいえば大抵エロ産業であったりロシアの銀行からの脅迫まがいな投資話だったりと当惑せざるを得ないものばかりであったが、最近、偶然、寄せられた複数のコメントを見ると、読むに堪える、それだけで有難いものだったので、この場をお借りして御礼申し上げます。
蕾ごと投身するはなぜに槿よ (桑田調)
以下の文章は、いずれ、小生のHPの茶会記に収納される予定でありますが、こたびはその下書きです。しかし、この調子ではこの茶会記、書き終えるのに数か月かかるやもしれず、早くも憮然としております。過去に、たとえば小生の志向する文芸上の歴史的位置づけは、非業宣言にてまとめている。度々この王道なきロック史においても滲ませている荒みという美的概念であるが、この度、正式に世に問うためであるにも関わらず、極めて限られた客人をもてなす茶会という形式にこだわり、故に従来の、歴史に名を成す様々な宣言…ダダ宣言、未来派宣言、シュールリアリズム宣言、ネオ・ダダ宣言、等々とは有り様を異とするだろう…荒みは宣言にあらず、しいて云うならば「金字塔破壊宣言」である。生活の古層である。・・・中略・・・
ともあれ、言葉は、魂の直接行動である。茶会記を書き進める。
あはれ、おかし、幽玄、雅、侘び、寂び、しおり、軽み、でろり、エロ、グロ、・・・そして、今、「荒み」!!!
2012年7月14日 梅雨の終わり、「荒み」を標榜した茶会を旗揚げした。
・・・中略・・・
挙句、酒の景を撫ぜるように愛でることからしか言の葉が生まれでることもない投げやりに即刻額づく場当たりで、祈りも無く。黄砂も落ち切ったほどやることの無い黄昏時の透明な琥珀の光を留める炎の水を嚥下すれば、何度でも云うがよく発酵して寧ろ爽やかな枯草の野趣溢るる苦みの追憶が万古不易たる余市の水割りで意識を軽く、凪の蒸し暑さに思いがけず割り込む涼風がカーテンをふわりと膨らますようにぐらつかせるしかないところまで、自ずと、自滅に近く追い込まれている。
緑金の光芒が、先週の茶会で使った土嚢から溢れた砕石を持て余している、ありふれた真夏の光が照りつける埃っぽいコンクリート打ちっぱなしのベランダに闖入したかと思ったら、こちらの理解が追い付けそうにないほど闇雲に慌てふためいたカナブンがきりきり舞いでコンクリに激突、エアコンの排水パイプの口から薄気味悪く拡散する腐ったワカメ状の気持ち悪い領域に転げ込んだ途端カナブンさえも気持ち悪かったのかもんどりうった拍子に腹を見せて裏返った。コンクリート平面に仰向けになったものだから何の取っ掛かりも無く脚を余裕なくばたつかせるのみでその裏返りという危機からは自力では脱出出来ようもなく、しばらくばたばたしていたが体力の消耗に気づいたのか少しおとなしくなった。羽も広げられないから、カナブンにとっては絶体絶命なのだろう。このままだと脚は空を切るのみでどこにも移動できないから、餓死が待っている。じっと眺める小生。余裕と云うのが痛々しいほど擦り切れた切迫した状況がいきなり眼前に現出し、当惑しながらも、なんだか気だるいような面倒臭さも燻って、もぞもぞしているカナブンを指でピンと弾いてやる。瞬時に羽を広げて何事も無かったかのように飛び去る。早速洗濯物を干す小生。自分が指でピンとしなかったら、このカナブンはこの酷暑地獄のベランダで無意味に死んでいたのか、と思うと、やり切れない、解消しきれぬ空しみにどっと襲われる。死というものがある日突然訪れる、死が外在的でしかない生物と、常に死を意識している、死が内在的な人間。そういえば、ひっくり返ったらそれは死を意味する動物、というのは他にも居た、例えばゾウガメ。雄同士の決闘で、ひっくり返されたら、体の構造上そのまま元に戻ることが出来ず、ゾウガメは、餓死するしかないという。まことに他愛のない要因で死に至る生物たち、思うだにいたたまれぬ。遣る瀬無い。
不意に、カブトムシについて思い出す。スーパーやホームセンターの一角で、旬の野菜や果物のように山積みにされて売られているカブトムシのことを。つまらん合成樹脂製の透明容器に、臭いの拡散防止のためか爪楊枝の直径ほどの空気穴が申し訳程度に一つ開けられ、その中に敷き詰められた小汚いオガ屑にまみれた固形燃料のような餌に最早見向きもせぬほど疲弊しきって時に腹を見せてひっくり返っている囚われの、売り物のカブトムシの姿を。本来夜行性なのに、スーパーやホームセンターが容赦なく陰を殲滅する厚かましい消費の光に被曝されてゆっくり眠るのもままならぬ無神経な境遇で身売りの時を待つカブトムシの惨めな姿を。日の本の昆虫の王、カブトムシへの劣悪な扱いや、そもそもカブトムシは早朝の照葉樹林で自分で捕ってくるべきものだろう、といった懐古趣味的小言がルサンチマンにあたろうが何だろうがそんなことはどうでもよい。買う奴が居るから売る業者も現れて、済度し難いみじめの売買によってみじめを流通させているどうしようもない惨めな状況に、魂のはらわたが煮えくり返る。パックで売られたカブトムシは、どうせ、マックで無礼と無神経とタフな生活力とを混同させたママ友会合を驀進させる連中が、ひたすら耳障りな奇声を上げ続けバタバタひっきりなしに複数で走り回る、後ろ髪をジャンボ尾崎風に伸ばした手の付けられん子供に、欲しがりもせぬのに無意味に買い与えられるのだろう、という無根拠な偏見もどす黒く芽生え、心は、鮫肌のように無性にささくれ立つ。みじめな売買がみじめさをより一層度し難いものに培養する。頼むからスーパーやなんかでカブトムシを売らんでくれ、と、怒りの拳を左で握りしめながら、思う。
今年の正月、実家から車で帰る途中、対向車線を走ってくるバイクがすれ違った瞬間、全身逆立つような嫌悪感と寒気に襲われた。大型二輪を運転する、父親と思しき男が、後部座席に、5歳にも満たぬような子供を乗せているのであるが、その子供、上半身をがっくんがっくんさせてほとんど気を失っているようで、父親の服を掴んでいるその手も、あまり力が入っていなさそうで、時速60㎞ほどで走っているそのバイクからいつ振り落とされ、後続車や対向車にいつ轢き殺されてもおかしくない状況であったのだ。無論、他ならぬ小生がその子供を轢き殺していた可能性だってある。一瞬の事ではあったが、ぞっとした。家に帰ってテレヴィでニュースなどチェックしたが特にそうした報道は無かったのでその子供は無事だったと信じたい。それにしても、あの男は一体何なのだろう。ちゃんと自分で体が振り落とされぬよう支えることが出来ぬような幼い子供を、なにゆえバイクに乗っけて猛スピードで前方車と対向車の隙間を縫うようにしてぐいぐい小賢しく走ったりするのだろう。これも偏見だが、こんな安全の何たるかも知らないような人間が、国民づらして、例えば原発の安全性、あるいはオスプレイの安全性、に疑問を呈しているのかと思うと、一体どこから批判していよいやら途方に暮れるほど、心底、胸糞悪くなってくる。
・・・続く・・・