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番外編 ハードロックのまどろみ
盆過ぎれば立秋間近、暑苦しい油蝉の謳歌に混じって幽かにつくつく法師の調べが聴こえて、もう夏も終わり、夏の終わりに感応するのは今更より遡る事数週間前の…近所の邸宅の塀から繁茂した橙の花満開のノウゼンカズラがある日きれいさっぱり伐採された日を境にして…稲の被害への心配が先行するのが取り越しであってくれたらよいが、と、氾濫した水面に没した稲がわさわさ揺れる様子が心ならずも美しく、和歌山県にすさみ町なる地名を知り、こちらは所詮、石鎚山とかの四国山地の奮戦によって期待したほどの暴風雨も観測されず、空しい拍子抜けの陽炎から、天然人事いずれも選り好みせぬ事変への希求がさもしさを増す、大した事無かった台風一過に、罰当たりな怒りを抱える不可解に転じて…いまだ薄曇、されど風は無く蝉は鳴きどこぞの赤子は虐待よろしくわめき泣く。何も守られない空しさばかりが…屈託を持て余して、厳しい。これまで幾度もほとほと倦みながら綴ってきた描写、それに何の権威を期待していたのかも無自覚なままだからそうした意味で自堕落に己に拠って書き出される文字に己が寧ろ依存しながら…足の踏み場も無い程手数の多いというよりも手数の疎密の分布が夥しいキースのドラムはそれなりの張力なり粘性を持つ故の泡立ちの、膨れと弾けの微細且つ高速の泡沫が、生物の体温を批判する深層の深みへとぞっとするほど非人間的に直結する、そうした表層性があくまでも表面的には淡く光となってきらきら弾けては膨らむ微細を走るのが、ロックと音楽の根源に仕方なく起因する視覚的権威を嘲笑する邪気を申し訳程度に塗しながら聴こえてきて…リズムがついに、アフロの土との作用反作用のニュートン力学から解放された境地を展開するのであって、この事はイエスに云われるまでもなく「フラジャイル」(こわれもの)という形容で歴史へと編集される納まりに納まる類とは端から異なり、「幻惑されて」(ツェッペリン伯)事を済ますしたり顔に唾する程度には、高周波の切り立ちが先鋭であり、その事はこの音を聞けば聞くほど微分化される音を突きつめた結果としての積分がただの虚無という積分定数へと匿名化されるのに矢張り幻惑されながら、音の粒立ちはいまだに磨耗せぬばかりか、人間を切り裂く程度の日常に留まっている。もはやハードロックの音源たちは小生の血肉と化しており…個別の音源を取り出してあげつらう所作は、己の肉を切り裂いて手術ミスで体内に置き忘れたCDの破片を探査するようなもの、既に体と同質化しているものを取り出す事など出来ぬとして小生の思想となったハードロックは即ち己を語る事に他ならぬという、以前にも書いたが小林秀雄のドストエフスキ論と同じ撞着を免れぬが、これが方便なのか呪われた出自なのか。思えばこのセルアウトというコンピレーション的アルバムはフーの、創造的に屹立するアルバム群から数曲ずつを横断的に掻い摘んで寄せ集めたテリーヌのようなものなのであって、フーが己の全身の血肉/思想と化して最早分析的にはあたれなくなった小生にとってまさにフーを語るという越権的な戯言がありうるならばセルアウトをおいて他は無いという事情があった。フーの各時代の成果が有機的な血肉と化しているのがセルアウトであるということだ。哀切なる歌唱、そしてこの言葉が意味するのは済度し難い守銭奴や虐待家などの市井の気違いが織り成す厭世と悲惨、それらが鋤きこまれた音楽が決して猥雑なふてぶてしさを失わない不思議、如何に清冽であろうとも…フーの音楽がもたらすこうした違和感へ引き裂かれる原初の苛酷体験はいまだに鮮烈であり、聴けば聴くほど自我対自我、自我対社会の平衡作用が故障させられる混乱が生々しい…今になって、結局こちらは滅茶苦茶にしてくれなかった台風への拍子抜けが忌忌しい。
番外編と銘打っているが王道なきロック史である以上、番外編が本編になりうる可能性は濃厚だ。何度も挫折し、伏流しては湧出、既に、始まっているのは皆も承知であろう。皆、といっても、二、三人と思われるが…。
メモランダム
どうもうまく書けていないのでまた繰り返すが…武力に勝る国が、武力に劣る国の主権回復に根差した抵抗を、テロリストとレッテルを貼りつけさえすれば、勝る国が劣る国の主権を武力で侵略しても問題ではないという前例を、かつて世界の警察を自負していたアメリカとその賛同者のヨーロッパ諸国と日本などの同盟国が作ってしまった。9.11以降のアフガン、イラク侵略は決定的だったがそうした前例はアメリカによるベトナム戦争や中東や中南米での政治工作など、それ以前にもたくさんある。相手をテロリストだと決め付けさえすれば相手に対して思考停止してもよいという御墨付きだ。ウクライナやガザ、シリアなどの現在の紛争の数数はすべてこの前例を大義名分としているから欧米が今更その失政を糊塗するために何を云おうが説得力を持ち得ない状況にあり、旧共産主義国=遅れてきた帝国主義国ロシアと中華人民共和国はこの前例を利用して覇権を広げる口実とするだろう…かつて欧米が力づくで世界に承認させてきた事が仇となっている。だから歯止めが効かない状況だ。今の処、帝国主義の末路に関する歴史的遺産が有効に使われる兆しは全く無い。全然、対岸の火事ではない。
小美門研介=不世出のキャラクター。人間の裏と表を幾らでもひっくり返し、寄る辺無い世間をサヴァイブする哄笑の真実…社会的に承認された、耳に心地よい物語を徹底的に罵倒するのだけは怠らぬ激烈なるファシズム批判…「社会勉強」なるものが存在するならば、リーガルハイを見るだけでよい。糞DVDレンタル屋で借りてまた見てしまったのは、リーガルハイのスペシャルドラマ、いじめ問題編も痛快であった。第二シリーズの最終回も借りてあるので、数日中に、また、「醜さを愛せ」の名台詞に出会えるのが楽しみでもあるし、視聴するこちらの気力も調えないといけない。
一部のコスモポリタンやインターナショナリストなどによる国境否定が「心境的」なものに留まるならば時局の押し迫った当世において何の意味も無い。西ローマ帝国滅亡後、中世にかけて形成され現在に至るヨーロッパ人にとって、地理上はゲルマンやラテン系諸国に分裂していようとも、「インターナショナル」とは、例えば日本の会津と薩摩が如何に仲良くなるか、といったレベルの問題意識でしかなかった。日本国家への近代的統合への努力は時間の問題であった。EU統合の素地はそこにある。EU統合に際しそれなりに困難を乗り越えたとはいえ、彼らの抱えていた問題はその程度の事だったと見ていい。だから数世紀前から提起されている、世界連邦による国境の無意味化という一つの解決策の足がかりにEUを見るのはあながち間違いではないにしても、その困難の度合いはEUと比べるべくも無くあまりに大きいという覚悟は必要であった。元元、大航海時代以降のヨーロッパ人にとってはアフリカやアジア人は自分らとの対話や交流の対象となりうるような「同じ人間」ではない、奴隷などの「モノ」として扱うのが当然だとする、優越的な囲い込みの意識でしかなく、予め隔絶した他者性との対峙など念頭になかったのである。
高速道路の山陽自動車道上り、福山SAのフードコートに所在する、備中田舎定食と備後田舎定食はあまりにもマズすぎる。白飯が進まない定食というのに初めて遭遇した。従業員の涎をわざわざ時間かけて収集したが如き、薄すぎて水っぽいトロロ芋の小鉢…見るだけで吐き気がして手が付けられなかった。この劣悪を周知徹底したい。
台風一過、盆休み初頭の予定を狂わされて行き場をなくした民衆が手近なメガショッピングモールに殺到、消費に毒された民衆が資本の手玉に乗って憂さ晴らしの購買行動…文字にするとほんと馬鹿馬鹿しいが午後二時半頃、「麦とろ物語で彩り海鮮丼」を食していると隣席の女子らが薄く浅い恋バナで時間を潰していた。老若男女こぞっての人いきれの凄まじさに、狂ってる、と呟く民衆の一人の小生…細君にせがまれて特殊印刷用紙を買いに来ただけだ、と言い訳に徹する。モール内のヴィレッジバンガードにあった虹色のガラスのごつい灰皿にそそられたがそれを抑制した事を思い出した。
その人間の社会性が腐るほど多種多数の本を蒐集して読む人は居るし、多種多数の音楽を蒐集して聴く人は居る…音楽は聴けば聴けてしまうという事があるがしかし本を、月に二十冊以上読んでます、などとうそぶく人間の読書体験など信用に値しない。それは、月に二十冊は読める程度の、ほとんど記号化したような意味作用しか発現しない低レベルのハウツー本の類をつまみ食いしているだけの人種である事がその発言からよく分かる。例えば資本論や精神現象学、旧約新約聖書や正法眼蔵といった、およそ一人の人間が一生付き合わないと読めないようなレベルの書物を、月に二十冊といったスピードで読めるものだろうか。そんなわけで最近はもう、あまり目移りしないようにして、手元にある、自分にとっての世界と対峙するために決断し選択された、数冊の、基本的な文献のみをじっくり読むようにしている。だから小生は、月に一冊読了できるかどうか、である。音楽は、たくさんの種類を聴けば聴くほどいいとは思えど、金も時間も限られているのもあり、選ばれた数枚の、ガレージやハードロックの基本音源のみを何度も何度も沈潜して聴いている次第…
キーボード、ゴチ、司会、お散歩、地方での飛び込み取材交渉、食レポ…なんでもそつなくこなす国分太一が、今の時代の「気分」なのか。
こたびの台風報道で気になったのは、和歌山県すさみ町という地名。
再びハードロックの夢「セルアウト」
過去に遡って調べると2010年10月3日にこのザ・フーのセルアウトについて中途半端な記事を急場凌ぎで仕立て上げ、煩う悔いが疼くのか2012年4月1日、再びセルアウトが小生の心に浮沈、しかもこの場合は小生がいまだ懲りずに懐中に温めているハードロック論のプロローグ「ハードロック編第一夜」と掲げていた以上、このセルアウトがハードロックという絶えざる蘇生の肝心の滋味である事を急進的に示唆するものであった事も今更ながら了解される。それに留まらず2013年8月4日、再度セルアウトが小生の精神に召喚されている模様、とりわけあてどない、浮ついた心持とその裏腹の遣る瀬無い激情がそつなく形象化される事のない失墜の日常においてこそすかさず招来される具合であり…そして終わり、そして再びそのほぼ一年後の2014年8月3日現在、ハードロックへの拙い気運と共にぼんやりと昇華されるのがまたしてもこのセルアウトに他ならず、こうなるとある種の呪詛に漸近するような…再び車中で浴びるように聞いたところでいたずらに感無量寿光、無暗な感動の清流が腐った心臓から血抜きするだけで最早言葉如きに立脚したがる、地獄の底に気まぐれに降りた蜘蛛の糸の如き頼りにならぬのだけが明白な赤裸々な功名心すらも無事の諦念に圧せられて払拭の態、そうした心境でこそただ聴かれてしまうセルアウトという音楽の、清冽と邪気がころころたまゆらに漱がれる風情に真率なる心情が乗り移る…それゆえ、こたびも、セルアウトひいてはハードロックの真髄について何事か言及する努力の成果が啓かれず、結局、ハードロックの泡沫の如き寝言を弄するに終始するのであった。
事件
隣々の馬鹿犬が朝は午前七時から夜の午前零時まで断続的にキャンキャン泣き止まぬ騒音迷惑被害が耳に疼き、あまりの苦しみに、内耳~外耳までの聴覚ユニットをごっそりユンボで無許可に乱暴に掘りくり返されているような苦痛と憎悪が激情に達して今朝その家に勇躍押しかけた。ペット可の木賃宿とはいえ鳴き声騒音による他住人への迷惑は入居契約上許されてはいない。ただ愛玩されるために生きている室内犬、こしゃまくれたダッグスフントかマルチーズの仕業なのは分かっている。小生「御宅の犬が朝から晩までうるさいんですよ。何とかしてくれませんかね。この次は大家さんを通じてそれ相応の措置を取りますから、とにかく静かにさせて下さい。夜中までうるさいのは非常識にもほどがありますよ。よろしくお願いします」隣人から、「すみません」、という言質を取ったがどうなることやら。しかし風鈴や目覚まし時計のような発生源が特定出来ぬ相手ではないので組みやすい問題であるから多少気楽だ。それでも馬鹿犬の感情のままにいつなんどき吠えまくられるか分からぬという、日常を支配されているような惨めな状況への憎悪は消えぬ。
少し穏やかなひとときだから、波の無い内海にぽっかり浮かぶ多島のように、覇気無くメモランダム。
徳永英明が山口百恵の「さよならの向こう側」をカバーしていた。彼の形振り構わぬ商売方法についてここであげつらう言葉すらも汚辱される気がして何も云う気になれぬがそれは棚に置くとして、単純に彼のカバー歌唱は本家の歌唱に優るべくもない代物ではあった。仮に百恵の楽曲を歌って、彼女にひけをとらないばかりか凌駕しうる歌い手、を想像した場合、それは小椋佳をおいて他はないであろう。
最早…歴史を学んでいる場合じゃない…歴史に直面し立ち向かう時が来た。時局である。
家を建てる者たちの見捨てた石。
それが礎の石となった。
これは主のなさったことだ。
私たちの目には不思議なことである。 マタイ福音書
国力の拮抗した国家間闘争の現状(遅れてきた国家資本主義国によるネオ帝国主義)において…今、この場で、ある国を説得させるのに科学的データというのは何の役にも立たない。DNAだろうが衛星写真だろうが動画撮影だろうが、いかにプレゼン上手の尾鰭で飾ろうとも、その説得力など、立て板に水、無効に過ぎない。科学的データだろうが神の啓示だろうが、より高次の承認=権力構造が不在である限り、「捏造だ」の一言に付されるが落ちだからである。所詮「科学的」とされている言説でさえ、百年後はいざ知らずこの現在では、承認構造に依拠した相対的主観的言説に過ぎないのが、国家間闘争の現場において否応なく了解させられる。ウクライナでの民間航空機撃墜にしても、東シナ海~南シナ海での中国船衝突にしても…当事国どうしの証拠提出合戦の不毛…歯止めは効かない。
岡山市立オリエント美術館での鑑賞は至福であった。岡山の数奇者の遺品を丸ごと収蔵したらしき常設展示…紀元前四千年前や五千年前のペルシャ、メソポタミア地域での出土品の、たとえば土器や古代ガラスなどの、圧倒的造形力。鳥の胸のふくらみを見事に再現した豊かな造形から、ガンキャノンのように突拍子もなく二本の注ぎ口が突き出た素焼き水注など…目を移して、その近くの明日香画廊という処で催されていた現代の陶芸作家の作品を瞥見するに…何とも貧弱で創意に乏しく縮こまって小狡くまとまっており…人間性の退化という厳然たる事実を思い知らされる。
美術館での鑑賞というのをこれまではずっと…どうせ如何に逸物であっても、ルパン三世にはなれぬ小生が触手をのばす事は不可能だからいたずらに物欲が虐待される苦しみを舐めるしかないから意味がないと思ってはいたが…最近は愈々枯れてきたのか…所有、という事が重とうなって…所有せぬ悦び即ち、見る事しかできぬ悦び、へと際立ち、物との対峙が純化されて、美術館鑑賞にもそそられている自分が居る。明治細密工芸の収集に特化した、京都の清水三年坂美術館が気になる。
今週休載のお知らせ
ふと思い出して一句、
ひからびてなお足太し祖父危篤
終業式、夏の行楽の呼び水のような三連休…入道雲はまだ遠慮がちに山上のマンションの肩に見え隠れする小山風情ながら…時局の歯止めの効かなさは日を追って露骨になる、日常の景へと馴致せられて、しかし人間が馴致されたからとて事態が自ずと好転するなどあり得ず、事態は人間の都合お構いなく悪化の一途、そこで云われる悪化の意味合いはそうした事態の終局が畢竟巡り巡って人間の生を根本から脅かす類であっても… 百年以上前から金太郎飴のように、同じ顔した事態の、断続的勃発…国民国家と資本主義が相乗したナショナリズムの成れの果て、資源と領土の奪い合い、小さな出来事が少しずつ少しずつ積み重なって事態が一層不可避になる…国民の心情レベルで、それが「必然」へと熟成される悪夢だ…国家によって意図的に(あるいは中国によって一方的に)「出来事」が積み重ねられているのが尖閣諸島であり、南シナ海であり、最早、事態が「不可避」となってしまっているのがパレスチナ/イスラエル、あるいはシリア、イラク情勢…今まさに「不可避」の頂上に向けて「出来事」が積み重なりつつあるのがウクライナ…旅客機撃墜…決定的な一撃にならなければよいが…
あ、気持ち悪い、見たくない、だから見たくないものには蓋をして見ないようにする怯懦が真顔で臆面もなく罷り通る…平和公園の原爆資料館リニューアルに託けてこの資料館の価値そのものを長年担ってきた、肉と皮と爪が爛れたカーテンのように垂れ流れ、目玉が垂れたアノ等身大の被爆者人形を撤去するとの由…客観的資料の展示に重点を置きたいがためという方針らしいが、飯が焦げ付いたアルマイト弁当箱や爛れた国民服の展示が悪いとは言わぬがそんな小奇麗な「客観性」に引き籠って被爆の実相を強烈に人心に、それこそ外国人も含めて植え付けることが出来るのか、それができてこその資料館なのではないのか、そしてそのためにもっとも有効な手立ては客観的資料ごときではない、あくまでも人間の記憶を再現した創作物であり、あの人形や漫画はだしのゲンはそうした創作の戦後責任を一身にまとっていた…ところが…人間の、気持ち悪いから、という極めて表層的反射感覚に率先しておもねる形が観光客増加目標だか何だかの資本の原理までもを保身の後ろ盾にしてその責任の姿をよってたかって抹消し、「無かったこと」にしようとする行政の動きが、情けない…
資料館での被爆人形の撤去や、いくつかの学校の図書館や自治体図書館でのはだしのゲンの開架拒否、そして、鳥取城キャラクターかつ江さんの公開中止。三つとも同じ現象である。
「全体主義の起源」の著者ハンナ・アーレントがイスラエルでのアイスマン裁判傍聴にて痛感した事実…最早改めて繰り返すまでも無い、人口に膾炙すべきことだが…「悪の表層性」、ということだ…それ以上人間心理の深みも原因も事情も掘り下げようもない、ただ単に命じられたから、一般的に流布していることだから、せっせと、如何に効率よくユダヤ人を処理するかを計算して実行に移す=仕事する、という…少しでもいい、考えてみる、という姿勢が全く欠如した人間…そうした輩が、ただ気持ち悪いから、不快だから、という、格好のマーケティングモデルでしかない表層的反応を示し、且つ烏合するものだから、前述の三事例のような事が卑近ながらも勃発するのである…ただし、ゲンに関しては、作中でゲンの親父による露骨な天皇批判があるから、という理屈もあって一概に云えぬかもしれぬが…しかしそれとて言論の自由の範囲内に過ぎないことである。
こうしたぎりぎりの状況に根差した思索は日々のことだからその些細な日常の些細な思索こそがそのまま抵抗へと漸近する。
考えること=あらがうこと。
被爆体験者の高齢化や死亡による体験の風化を食い止めるため、被爆体験しなかった若い世代が語り部を引き継ぐ、継承する、という…その試みは立派な事だと思うが、やはり、結局、そうした語り部二世や三世の素人話では、高座に上がるようなプロの噺家などではないのだから、小中学生に与える影響はたかが知れるだろう…小生が学童のころはマジで顔半分と体半分がケロイドで爛れて、手の指がくっついてヒレみたいになっていた、ホンモノの被爆者の人が語り部として登場していたからインパクトは大きかったが…戦後生まれで五体満足の、多少意識が高いのかもしれぬが所詮人から聞きかじった話を少々感情こめて話したからとて何ほどのことがあろうか…体験が記憶となり記憶が記録へと無害化する時の流れにあらがう人間の所業とは何か、それは芸術以外にはない。いかに良心的であっても語り部二世三世が芸術的才能を意識せぬのであれば無意味に帰するだろう。それができないのであればやることは簡単である、8月6日の登校日に毎年全校生徒集めて体育館ではだしのゲンを上映すればよろしい。次世代の語り部育成という、目的に対する効果が曖昧なものに税金をつぎ込むよりも、こちらの方が確実だ。一発で平和教育は完遂する。井伏の黒い雨もよし。
備忘:高所得者=高額納税者が、自分らはこんなにたくさん税金を払っているのだからもっと国家からそれなりの恩恵や見返り、配慮があって当然、とする考え方。(これが極限まで行くとアメリカ型のアナルコ・キャピタリズム=無政府資本主義となる。それへの移行過程が小さな政府)資本主義の極相状態にあるアメリカの富裕層や日本のタワーマンションの住民などに多い考え方は…公共、という考えが欠落している。その欠落は単純に、日本国憲法を知らないことに起因し、上記の主張をするのであれば憲法改正を視野におさめた理屈が必要だろう…すなわち、日本国憲法では、すべての国民に、健康で文化的な最低限の生活を保証するという、基本的人権の一つの生存権を明確に謳っており、これを実現する国家的事業が即ち公共事業であり、この公共事業の資金となるのが税金である。税金はそれを払った自分のみへの見返りを期待するものではなく、広く国民全般への見返り=生存権の達成を期待するものである。生存権の対象が国民の一部や納税者に限らず国民全般となっているから。従って、金を払えば金を払ったその人がその額に応じた見返りを受けられるという対私企業への行為とは大きく異なる。だから、前述の高額納税者らの意見は一見道理があるように見えるが、生存権を担保する国家=国民全般への支払いと、個人的サービスと交換される私企業への支払いを混同した、憲法への無知による意見に過ぎない。さらに、生存権確保が全国民平等ならば税金の額も全員平等でなければならないのではないかという疑問がわくが、額が平等ではなく、負担を平等に負うというのが税金なのだろう。なぜなら年収は資本主義社会において人それぞれ違うからだ。年収1千万円の人の税金1万円と、年収百万円の人の税金1万円だとすると、税金の額は両者同じでも、後者のほうが負担が多い。負担を同じくするために、年収一千万の人の税金は10万円、年収百万円の人の税金は1万円となる。
↑ 刑事ドラマで、高所得者が上記のようなことをふんぞりかえって主張していたのにカチンとなったから、働きの悪い自前の頭を動かしてみた。たとえドラマの中であっても警察ならこれくらいのこと、ピシャリと反論しろよ、と思ったから。
今週は所用につき休載いたします。
「nuggets vol.4/original artyfacts from the first psychedelic era(1965-1968)r2 75466」
先週は投げやりで終始したが此度とてその轍を踏まぬとは限らぬ急進的な切迫がないとは限らぬ、どこか浮ついて集中が真っ白に妨げられる散漫な神経に苛まれるのは白紙を前にして何事か書かねばならぬ純朴な、指摘するだに反吐が出る幼稚なのだと言わずもがなをわざわざ剥き出しにする無恥の露呈に、今更ながら、もう、止めたくなる。思えばせんだっての失敗への思いが尾を引いているのも一因かと、しかし一因の数数を拾い集めて一箇所に整列させたからとてこの煩悶が解消されるなどありやせず、そう思うだにまた一因が、つまりは先ほどからの梅雨終わりの名残り雨のしたたりのように、蒸し暑く、不快な鈍重を増し加えるのだろう…依頼された文章を仕上げようとしたがその時には何故だか分からぬままうまく筆が運ばず、数行程度の依頼にも拘らず3時間ぐらい、内的には言葉の汗牛充棟で汗だらだらしながら画面を凝視し続けてもどこか腑に落ちぬ始末なのであった…静止した雲の濃淡の、ちょうど薄い処に日差しが当てはまると目が開くように外気が明るくなって小生の部屋も明るみを増すのだが閑話休題、そのもやもやした得心の至らなさの原因が何となく掴めた時には後の祭りで印刷会社に入稿されてしまい、どうにもならず、完成版の見取り図の如きものの添付ファイルを確認すると、依頼人の意図もあって程よく改変されてはいたがそれはよいとして、恐れていた事が現実にはなっていた…得心できなかった原因というのは、書かれる文を書いている人間の立場が曖昧だ、という事で、個人的な思いに起因する秘密保持もあるので事情はばっさり割愛して説明すると、
①その文が、作品の作者自身が書いたものなのか、
②その作品の展示会の主催者なり後援者(美術館の学芸員のような立場)が作品のよさをアピールするために書いたものなのか、
③主催者ないしは後援者から依頼されたどこぞの批評家が書いたものなのか、
④そうした事情とは何の関係もない小生自身の気持ちを書いたものなのか、
④は論外なので途中で没としたものの、それでも小生自身は①~③のどの立場でもない被依頼者なので要は①~③のどの立場に小生が成り替わって書くべきなのか、書く前に熟慮すべきだったし、欲言えば依頼された時にそこんところにピンと来て咄嗟にその疑問点を明確にすべきだったのである。しかしそれが遅きに失したがためにかの見取り図では、一体どの立場の人間の言葉なのか、非常に曖昧になって、恐らくそれを読む人には理解し難い、場合によっては不遜な印象も与えかねない感じになっていたのであった。パンフレットに、その文章を渡した後から追記された顔写真の構成からいえば、①が要求されているらしいが、小生は②の気持ちで書いているため殆どは②の文章となっているちぐはぐが気に障るし、ところどころ①と、③、④が垣間見える。①は依頼者が補筆したものである。そしてこれは今回固有の事情だが、作品の作者=依頼者でもなければ、依頼者=主催者でもなく、作者=主催者なのは確かだが、作者=依頼者ではない事もありつつ、後援会や美術館的な、ある種公的に独立した名と立場を有した後援者が存在しないので依頼者=後援者でもない、という、考えれば考えるほど没入するややこしさもあってこうした混乱の起因ともなったというのは、ややこしさの事実は確かなれども、過言だろう。もっとややこしくなるのでもっと面白くなるから更に説明すると、小生への直接への依頼者は存在するものの小生としてはその直接依頼者がもっと高次の依頼者の事を慮るゆえの依頼だと知っている故に当然ながらその高次依頼者の依頼に叶うよう書くわけであるが前述の通りその高次依頼者が一体誰なのか、的確するのが困難な状況なのでもあった、しかしそれは必ずしも的を射る必要がある類ではなく要はそれぞれの曖昧な立ち位置の関係者各位がまとめてウィンウィンになればいい文章を書けばいい話で、しかしそれをするには矢張り、他ならぬ誰に成り替わって書くべきか特定する必要はあった…要するに小生が咄嗟に問えばよかっただけの話なのだから。それはともかく、とはいえ、このような後悔の念を書きたいがために冗長に甘んじたのではなく、見方を変えれば興味深いものであり、その文章が結果的に、なんとも多角的な、例えば雪舟の達磨の絵とかピカソのキュビズムのような、様様な視点が一箇所に同列に凝集した奇怪な文章に、図らずもなってしまった、という事の北叟笑み、なのではあった。
最近、とみに鳴き止まぬことを覚えたような近所の馬鹿犬。恐らく二つ隣に飼われている、以前から居る馬鹿犬の仕業なのだろうが、以前はここまで鳴き止まぬ事は無かったのに、どういうわけか最近になって、一声吼えるだけでは済まず、小生の聴覚ユニットごとビリビリを震わす犬特有の轟き声の不快さといったら、堪え難く、こしゃまくれた、短足胴長の、無闇に周囲に怯えきった目をした頭の悪い西洋犬という正体が分かっているものだから、この馬鹿犬が朝っぱらやら夜更けに夥しく吼えまくり始めると、この馬鹿犬の首を鉈でぶった切る真っ赤な鮮烈映像を幾度も想像するようになっている。先週苦痛の頂点を極めたが如き休日ごとの不在住人による目覚まし時計音、対策として抗議のビラをアパート中に撒くと息巻いていたが結局いまだ無為を託つのは単なる怠惰もありつつ御近所問題は深刻化すると血を見るのも必定、毎週レンタルして見ているリーガルハイにも御近所騒音問題による刃傷沙汰があったし、ここは一呼吸置いて、もし今週も同様に目覚まし時計が鳴り止まぬなら、よいしょと立ち上がればよい、性急は禁物、と己を嗜めたからでもあって、首尾よく天の配剤か今週の日曜日には目覚まし時計は鳴らなかった。安堵し、小生の激昂した、無為の念力が通じたかと、本気で思っている。
NHKのアーカイブズ的な番組での鶴見俊輔の言葉に改めて篤く励まされる気持ちだ…日日の俗事にてんてこまいで忘れがちであるがしっかり心に銘記せねばなるまい。もう…遊びではない。テレビでさっと出て来た言葉なので字句の正確は問わないで欲しいが文意は「日本の軍国主義者らは戦時中、法的手順をしっかり遵守しながら戦争遂行に必要な法律を着実に作っていき、その歩みは最後まで止めなかった」…ベトナム戦争から米国兵を脱走させる教唆の疑いで、官憲に媚び扇動される世論の「法律を守れ」という非難に反論しての、鶴見氏の、思想家としての面目躍如たる言だ。全体主義においては法律が、人民の生存と権利を脅かす悪の権化だ、そうした状況で法に従えということは間違っている、ということ…もはや…時局時局ゆうて、およそ教科書どおり歴史的必然の公式の再現のように繰り返されている時局を発見して喜んでいるレベルの、その程度の面白がりに興じている「時局」では無くなったのである…それこそ「今時局において!」(←本土決戦を覚悟しての竹槍訓練時に在郷軍人出身の体育教師が述べる訓辞の冒頭でよく使われる言葉、という文脈を思いたまえ)衆参ねじれると国事が何一つはかどらないし過半数与えるとすぐさま独裁に転ずるこの国の未熟な代議制に嫌気がさしているどころでもなく、既成事実化した独裁政権は矢継ぎ早に国民のためと言いながらその実、国体という観念を第一義として保護して甘汁吸わすべきは資本の階段を上がるのに長けた目ざとい特権階級のみ、その加速を外患(国民国家間で資本主義を駆動力として引き起こされる資源と国境の分捕り合戦)が後押ししてくれるという…相も変わらず…第一次大戦から百年経った現在、国民国家の自作自演の茶番劇を強制的に演じさせられる圧制の陳腐…考えている場合じゃないのでここでこの話は中断するが…
当世処世気質(とうせいしょせいかたぎ)→朝、出勤前にはシャレ乙オーガニックカフェみたいな所で、アンテナ立ってエッジの利いた異業種の、同じような階級の人々と交流する朝活、とやら。金曜日の夕方には気の合う仕事仲間とメタボ対策かねてフットサル、なんとなればビールをコップに移さずに、ビール瓶や缶に口つけて飲むアメリカンスタイルで飲みながらシャレ乙なスポーツバーでワールドカップ観戦、帰りに侍ブルーのユニフォーム着たままカラオケでアナと雪の紹鴎、もとい女王(アナと雪の女王、略してアナ雪)をレリゴーレリゴーと発情猫のように熱唱、土日はママ友&子らも含めて都市型バーベキュー。(これを読んでる人で武野紹鴎を知らない人はいないでしょう)全部虚像だ、そんなの分かってる。
本当はいつだって、二郎のことを思っているのだった…いまだに…毎週、リーガルハイを近所の、文化を儲けで割り切るのがうまいツタヤに返したりまた借りたりするのが習慣となっているが…ナオト・インティライミが画面に出て来ると感情に針が刺さって気持ち悪くてすぐ変える日常…マジでそれが聴こえてくると頭抱えて吐き気を催しつつ堪忍ならず「いいかげんにしろ」と絶叫しながらあてもなく突撃しそうな自分を店内で抑えるのがやっとで、不快と殺気立ちで自分が切り刻まれる殺伐に襲われ納まりようが無い心を持て余すのだが…前にも書いたがアナ雪の歌であって…発情した猫のような、アメリカ語特有の汚い発音を箍を外して臆面もなく張り上げるキチガイ沙汰が罷り通る専横には…発情した猫の鳴きはまだいい…春霞の夕暮れも冷めやらぬ、まだほの温かい春の夜…家々の屋根から猫たちがいぎり立てる具合は好ましいくらいで…むしろ猫に失礼なくらいだ…それが聴こえてくれば耳栓すればいい、という論理は、この国が嫌なら出て行け、非国民っ、という国民国家のナショナリズムの野蛮さが際立つ言説と同じであり正しい者が出て行く道理など無い、衆に恃んで厚かましい軍事的楽曲をポップ的頂点に祀り上げる衆愚昧こそ出て行け…
兎も角ツタヤに行くとキャリーさんやらあのアナ雪が否応なく聴こえるのだが(キャリーさんはOK)同時に、最近DVDが解禁となったため、「風立ちぬ」の歌が…荒井由美の傑作「飛行機雲」が聴こえてくるのであって…あんな歌を十代かそこらで作った荒井由美という芸能者の、早熟と聡明が冴え冴えとして人間の死を鎮魂する…骨だけの歌…逃げず死と向き合った、だからこそ凛として、理解している、優しい歌…「飛行機雲」と「優しさにつつまれたなら」の二曲には本当にかなわない、と思う。思い出すだにまた泣けてくる、飛行機雲という歌もそうだし、風立ちぬという映画のことも…心の中の、いつだって震えている部分には、いつも、あの堀越二郎と節子の物語と飛行機雲の歌が棲んでいるのだった…消費されないとはこういうことだ、商品の中で消費されないのは芸術と文芸と映画だけである。ここであの映画の内実に迫ろうとは思わないし、去年映画館で四回も見て、それから一年近く経ってまだ心の中で折に触れて反芻している浸った自分の状況では如何なる批評も全く無意味なのだから…所詮小奇麗なだけの映画じゃないかと言おうと思えば言えるのだがそんなことじゃないのだ。そんなにぞっこんならDVDで風立ちぬを借りてしまえばいいじゃないかというとそう簡単じゃない、借りて見るのは出来るが…あまりに思いすぎて、直にまた映画体験するのが恐ろしいのである、案外がっかりするんじゃないかという恐れが皆無なだけに、今はまだ、見られない。その代わりにさもしくも、おめおめと、リーガルハイの他に「コクリコ坂から」を借りてしまったのであった。これは一度金曜ロードショーで見ており、あまりの劣悪ぶりに唖然とした記憶があるのだが、たとえこの駄作と接する惨めを介在してもいい、無意識裡に、少しでも「風立ちぬ」に靡きたいがための所業なのである…そしてコクリコ坂を見てみると、分かってはいたがひどいものだった。「昭和レトロでござい~」「昭和レトロ入荷しました!」「ねっ、ねっ、昭和レトロですよ、昭和レトロ、好きなんでしょ、ねっ、ねっ」ダメ押しで「昭和レトロっ!」といったポン引き商法の披瀝の連続である。反体制闘争が女子的お掃除によって矮小化され戯画的に懐古的に無害化されて体制のトップと会談したら「いい大人っているものだな」で終わり、闘争を昭和レトロ雑貨商品に仕立て上げて、見たいものしか見ない、商品としての過去と未来にしか興味を示さない現在の資本と消費大衆におもねる、幾らなんでも反体制闘争の血腥い歴史を馬鹿にしすぎだろう。上っ面だけの雰囲気作りに終始して…まあいい、これが目的ではなかったのだから…気持ちは専ら「風立ちぬ」に靡いているのだから…コクリコ坂の主人公の男と生徒会長の水沼の関係が、風立ちぬの二郎と本条の関係を彷彿とさせて、萌えた。萌えたから、コクリコをDVDで2回見た。メルは可憐だ。
そういえば「コクリコ坂から」の男の主人公の声は岡田准一であったし、彼といえば黒田官兵衛、鳥取城の兵糧攻め、そして鳥取城マスコットキャラクターとして歴史の真実を告げに来た「かつ江さん」の公開と、市民からの苦情殺到による公開中止というマスコットキャラとしての死刑宣告の顛末…だいたい小生が何を書くか予想つくだろうから今宵は長くなりすぎたので今回は割愛する。
ナゲッツvol.4。ある種の仏画や曼荼羅では本尊は梵字のみで表わされ諸仏は相応に姿形を描かれながらも本尊を取り囲んで礼讃しているが如きなのだが…軽々しい、ただの普遍的=陳腐な意味だけの文字が、見る者にそれ固有の強烈な印象を残しうる絵図を忌避して、本尊足り得るということ…世界への感度が極大になるのが信仰であり(「目にうつるすべてのことはメッセージ」やさしさにつつまれたなら/荒井由美)、殉教によってイメージされるような、信仰とは何か一つ事に頑なになる態度とは異なる。だからこそ、重く煩雑な修行と貢物によって救われるのではなく、ただ念仏を唱えるという、あまりに他愛無い、それこそ寄る辺ない、吹けば飛ぶような粗末な行為への専修が、信仰によって極大になった感度にとっては深甚なる力すなわち意味、を持つようになるのであって、だから、もう、今回は、バンド名を列挙することで充分な、歎異抄的心境なのである。この「意味」も当然ながら吹けば飛ぶような粗末に過ぎないのだが…
the chokolate watchband
the leaves
the brigands
the barbarians
sam the sham & the pharaohs
the strangeloves
the kingsmen
tke knickerbockers
wailers
harbinger complex
the dovers
the charlatans
the mystery trend
clefs of lavender hill
the monks
the sonics
the electric prunes 「get me to the world on time」←小生はエレクトリックプルーンズのこの曲に出会うために生まれてきた。
the other half
richard & the young lions
paul revera & the raiders
we the people
the lemon drops
fenwyck
the rumors
the underdogs
the standells
the zakary thaks
gonn
the bees
davie allan & the arrows
「nuggets vol.3/original artyfacts from the first psychedelic era(1965-1968)r2 75466」
朝っぱらから神経を切り立たせるイラツキが激高しいまだその余波が殺気だって毛羽立っており集中できずやるべき事のしくじりの傷口を無闇に大きくするだけの結果に終わった個人的な仕儀も相俟って落ち着かぬ、元も子もない殺伐が朝からこの夕刻まで尾を引いて、その内頭痛めいた倦怠感と心の働きの先行きが真っ白に抹消される壁のような鈍痛もまた浸水して来て、やる気の根元が焼き切れていく無神経な麻痺の発作が甚だしい。早朝からタイマーのピピピピッ音がまたしてもどこその住人によって止められる事なく数時間鳴りっ放しでイラツキの火蓋が切って落とされるのも束の間、今度はまた過去に何度も小生を苦しめた目覚まし時計音ジリリリリリリリが、近所から数時間鳴りっ放し、休日に…目覚まし時計をセットして外出しておいて、自分が居ぬ間にジリリリ鳴らす、しかも何時間も鳴らしながら近隣住民、とりわけ音に過敏な小生をピンポイントで苦しめる、という暴力的嫌がらせを行使してくる悪徳住民の存在を的中させるべく雨の中家を出て目覚まし時計の音の発生源を捜し求めるが密集する家々に乱反射するため定めることが出来ぬ…家人の助けをかりて向かいの一軒家二件の玄関まで出向き、勇気を振り絞って呼び鈴を押すと出て来た住民は「うちではありません」という。しかしこれによって漸く悪の権現の居場所がだいぶ絞れてきた、音が反射するので確信が持てなかったが犯人はどうも小生が棲むアパートのどこかの一室に居るに違いない、正確には目覚まし時計をセットして自分は外出しておいて、無人の部屋で指定どおり鳴り喚く目覚まし時計による小生の苦痛を想像して北叟笑んでいる悪意の人がどこかに居るに違いないのである…今週中に筆誅の書状をアパートの各部屋に投函しまずは穏便に注意喚起を促す所存。もう…時局は…気休めの楽観を許さぬほど…堪え切れず頂点を超えて…ついに転がる石のように歯止めが効かぬ悪化へと必然しているようにしか見えなくなってきた…これというのもかつてのアメリカがイスラム勢力から本土攻撃を受けた際、なぜイスラム勢力がそうした自爆攻撃を仕掛けてきたのか、自分の命も犠牲にしてまでアメリカ人を攻撃したのか、その背景は何だったのか、自分らは中東に何をしてきたのか、という、人間ならば当然一考すべき事を一切抹殺して、頭ごなしに攻撃者をテロリスト、とレッテル貼りをする事で思考停止し、兎に角相手をテロリストと呼んでしまいさえすれば相手を問答無用で攻撃できる実例を、その当時世界の警察を自負していたアメリカが形振り構わずやってしまった、その悪影響が…例えば根底には経済と政治権力を独占する漢民族による少数民族への一方的な同化政策=弾圧政策があるにも関わらず、漢民族が、尊厳と生活の基盤を奪われたためなけなしの命による抵抗を繰り出す少数民族をテロリストと喧伝さえすれば漢民族が少数民族を搾取できる大義名分となってしまっている。共産党側は、アメリカ同時多発テロの映像と、ウイグル族による暴動や暴走映像を併置させた公報を垂れ流す事でウイグル=テロリストキャンペーンを正当化している。ウクライナもシリア情勢も同じ構図で…と、ここで、アメリカ/フランス型基本的人権において銘記されている「抵抗権」(現国家が劣悪な場合、人民は実力で以ってそれを排除するための抵抗権を有する)に触れて事態を詳述したいと思ってはいても先ほどから別件が嵩張りつつありどうしようもないのでいきなりやる気が失墜、ここでこの論議を中断する。
ナゲッツvo.3。一層幅広い選曲でありながらむしろ此処に来てガレージ色が尖鋭化する兆しが聴こえる…すると…いろいろ生活上、ちょっと本当に時間がなくなったのでここで立ち消えせざるをない…一文字ずつ収録バンド名を記載することで念じたい。事態が窮迫し、気持ちのまとまらなさが激しくなっているために、今宵はこれ以上書き続ける余裕はない。
the hombres
the golliwogs
new colony six
the daily flash
lyme & cybelle
the choir
the rare breed
sir douglas quintet
the music explosion
the e types
the palace guard
the gestures
the rationals
the humane society
the groupies
the sonics
the lyrics
the lollipop shoppe
the balloon farm
mouse & the traps
the uniques
the standells
the mojo men
unrelated segments
the third bardo
we the people
the shadows of knight
the music machine
the human expression
the amboy dukes
「nuggets vol.2/original artyfacts from the first psychedelic era(1965-1968)r2 75466」
取っ掛かりが皆滑る済し崩しの諦めの胸中、ずんずん進行する国家と資本との結託はぎちぎちに押し迫るがだからといって主権在民という美辞麗句の餌をあてがわれて後は黙ってろとばかりに無力極まりない個人の、如何なる環境においても速攻で孤立するなれの果てには歯噛みするばかりでこの熱が伝導する先は絶無だ。古代から人民の記録や戸籍は支配と課税の大前提だが着々と進む国民総背番号制は、社会=会社による国家資本翼賛体制の総仕上げと異物摘発システムの始動の鶏鳴であった。赤毛のアンのアニメを日に10話くらい浴びながら、バランスというよりも修復不可能にまで引き裂かれたい一心でそのアニメ見ながらサド侯爵のソドム120日を右目で読みつつ蛭子能収の地獄のサラリーマンを左目で読むのであって…自民党特攻隊員田中善幸が、国民の幸福のために人柱にされている最中の全裸の少女をかどわかそうとして結論を下す台詞を銘記したい「国民全部楽しようなんてムシが良すぎるんだよ!!幸せになるのは一部の人間だけでいいんだ!!股を開け!!」(蛭子能収「少女死すべし」より)自民党の考えの再現として全く正しいとしか言いようがない。人柱を埋める穴の底に待ち伏せていた自民党特攻隊員は、上からユンボで土砂を入れられる怒涛の中、柱に縛り付けられた全裸処女を強姦することで人柱の効力を無効にしようと特攻するのであった…口先では女性の時代云々と建前を述べながらの先般話題の東京都議会での女性蔑視という下劣な自民党体質も赤裸々に表している。日本三大漫画家は手塚治虫、水木シゲル、蛭子能収といっても過言ではないが、蛭子さんが描く男の目の荒んだ鋭さが、サド侯爵の、馬鹿げているくらい研ぎ澄まされた文章に似ていて、変に小気味良い。
たとえばリーガルハイの、古美門の元妻の鈴木京香が、ガッキーの、裁判に対する純朴な態度を評して「赤毛のアン」と揶揄するのであるが、アンの物語とてさほど生温い夢物語だけで終始するのではなかった。少女たちの夢見がちがあまりに高まっているがゆえに、その後、年齢を重ねるにつれて少女たちが社会階級へとそれぞれ引き裂かれる現実への対峙は、寧ろ酸鼻を極めるほど残忍といってもよい。小生はサドと蛭子さんを両手にしつつ、「想像力によって夢見る少女たちが社会の現実によって無残にも階級へと引き裂かれる嘆きを、もう一度見たい」という根強い欲望のナイフを己が胸に突き立てるために、アンとダイアナが階級に引き裂かれるシーンがある回を何度も何度もしゃぶるように視聴したのであった。アンの心の友、ダイアナが最も輝いていた、クリスマスコンサートでの独唱を思い出しながら…日頃の声とは画然として思いの他大人びた、曇り空のような澄んだ湿潤が心地いいダイアナの歌声は玲瓏たる、と評したいし、今も忘れられない。着々進む国家の次の所業で目に付くのは…TPPで財界の意向に逆らう農協は解体、現行の農業法人の法律は役員の半数以上が実際に耕作に携わる事を義務付ける事で戦前の封建制へと逆行を阻止するものだったがそうした気遣いは消え去って、この規制を取っ払い、農業の実作業に従事せずとも農業経営可能とする法案…農業の家族経営を解体して法人化することでグローバル経済への攻めの農業への転回などと聞こえはいいがその実、農業法人=生産手段つまり土地を所有する領主、その社員=生産手段の所有を奪われた小作農、という構図は戦前の封建制の復活である。戦後のGHQによる農地改革によって曲がりなりにも戦前の封建制が抜本的に改革され、耕作者が生産手段を所有する、明け透けに言えば生産者=生産手段の所有者というプロレタリア独裁、という、封建制の次段階が、ある意味、日本という資本主義国にあって特権的に達成されていたのだがそうした保護政策はグローバル化の掛け声と、家族経営という現状による跡継ぎ不足(職業選択の自由が憲法で保証されている以上、子供が農業やるとは限らぬ…)によって、ほとんど必然の現象として封建制へと里帰りするのであった。戦前の封建性は日本軍国主義の元凶であったにも関わらず、である。
ならばどうすればよかったのか、そんな言説は幾らでも吐けるがそんなものになんの意味があろうか、ただ、忸怩たる思いだ…。その上国家は…カジノ解禁で観光立国振興、とやら。愚民から金を巻き上げて、借金漬けへと誘惑しておいてさらに消費者金融の法定金利上限を上げてマチ金=それを手下にするメガバンクは右派右派儲かる仕組みを作ろうってか、徹頭徹尾財界への利益誘導を乞われるままに上げ膳据え膳し、そうした囲い込みの埒外の国民を徹底的に虚仮にする国家自民党をいつまで支持するのだろうか、大多数の国民は…法人税下げながらも、これまで以上に中小企業への課税を重くする法案など…公益という名の私利私欲保身まっしぐらの大企業優遇中小企業殲滅政策はなりふり構わぬ露骨だ。要するに国民は国家から馬鹿にされているということだ。馬鹿にされているのであれば闘って見返さなければならぬ…オモテナシとキズナの翼賛ぬるま湯に馴致せられた団塊の人人に、大企業仙羽化学への公害闘争を鼓舞する古美門の歴史的長舌名演説のように。広く重く馬鹿な愚民どもからふんだくっておれたち少数の選ばれし階級は特権的に私腹肥やしてやれ、とばかりに、馬鹿にされているのであれば…ただ、こうした現象の推移は短絡的に与党を罵れば解明されることにはならないのは百も承知だ…というのは…基本的人権を踏み躙る人間の出現は、基本的人権を標榜する民主主義の必然であるからだ…根は深い。とはいえ…政治に対して種々不満はあれど、それを実力でどうこうしようという気はないのが本音だ。いかなるつまらぬ事でも…この社会の中でそれを成し遂げるためには命と生活の全てを賭けなければ出来やしない、いざとなれば己の死を以てなす、あるいは自分の生活の全ての時間を費やす事も辞さないのでないと、出来やしない。それをしないのであれば如何なる言葉も屑=野次同然であるのも痛感している。なぜ小生が政治しないのか…それは…先述の、小生にとって社会の中でやりおおせなければならぬ命と生活をつぎ込んだ些細な事、というのが政治ではない、他にやりたいことがあるからだ、という、それ以上掘り下げようもない浅い事由による。しかしながら…それでも、やられ放題の政治に甘んじる惨めな感覚は拭い去れぬ。
先週見そびれたが今週の、団塊の人が定年退職後己の人生をもてあましてジタバタする連続ドラマ55歳のハローライフ(NHK土曜日夜9時)も秀逸であった。還暦近くなっても人間の実存に直結する寂しさや空しさにも向き合えない団塊人が、これまでは社会的役割ゲットによってそうした実存的寂しさを隠蔽できていたが定年を機にその寂しさと向き合う事になった途端、その内的寂しさを隠蔽するために他者=家族に甘えるがゆえの稚拙な傷つけ合い=傷の舐め合いを秀逸に描いていた、村上龍が。外部に言い訳して承認を取り付けるのに汲々する前に、やりたいことやれ、っていう事。ただし…と、ここで、奴隷制を遠望する小生…これ以上は保身のため、書けない。
ナゲッツ4枚組ボックスセットのvol.2である。下記収録バンド名横の○印は、既に個別に論じた事のあるバンドである。先日vol.1について書いたのでvol.2になったからとて特段特筆すべき事もないがバック フロム ザ グレイヴにかまけて、このボックスセットを入手したものの永らく放置していた事が今更ながら悔やまれるほど…ロックと言う音楽を己の精神の核とするのに欠かすことの出来ない歴史的に重要な音源をあますことなく拾い上げている、編集者の炯眼なる耳のよさに今改めて感謝する次第である。今改めて聴くと…全てのバンドの音が…それぞれのやり方で狂おしいほど誠実な音を突き立ててくる…シャドウズ オブ ナイトの、夕焼けの真っ赤な太陽がいきなり砕け散って終わったが如くの誠実…キム・フォウリ-のうらぶれた、やさぐれた、方法のない手ぶらで絶叫する後戻りできない、それでいて決して信用できない如何わしさがたまらない…いちいち挙げているときりが無いくらいだが中でも毛色が違って聴こえたのがエラスティックバンド…理不尽な唐突によって口を拳で殴られたかあるいは率先して相手の口を殴ったかそのいずれとの溶融状況を吐き出す、言葉をろくに言えやしない呂律が回らぬ吃りが何事か手短に呪詛したかと思えば黄泉の祭り、踏み付ける地団駄さえも失われた黒縄地獄で鋭利なラップ調の告発を繰り出す、それはまるで全盛期のキャプテンビーフハート(このアルバムにも収録されている)のバンドのような、型崩れした脱臼のまま恐ろしいほどの速さが単純極まる鈍器による暴力にしかならぬほど尋常では関知しえぬズレと崩れの糞踊りを伴って。基本的には車中で聞いているのでどの楽曲がどのバンドかを確認しながら聴くことは出来ない、従ってバンド名分からぬまま聴いていると自ずと耳につく楽曲というのが記憶に強烈され、後日バンド名を確認する運びになるわけだがそうすると必ずぶち当たるのがチョコレートウォッチバンドなのであって、率直なブルースのむき出しが、もう徒な、惰性的な増殖を断ち切った、守ってくれる細胞膜を自ら破壊して脱出した剥き出しの核のDNAのような、ぎりぎりの感覚が、澄み、鋭く、一回限りの暴発であったのである。そしてこのチョコレートウォッチバンドの次に収録されているのがあのストロベリーアラームクロックであって…このバンドは過去に取り上げた可能性もあるがしかし自信が無いという事は自分としても隅隅まで書ききっていないのだろうと思う。数年前までとことん聞き込んでおりアルバムも4枚くらい所持しているくらい、これまた自分の精神の血肉とすべく摂取していた歴史があるものだから…改めて取り組む必要のため別稿に譲る。精巧緻密にして流れる絹織物のような作りでいながら加賀友禅が随所で焦付くような容赦無い工夫が散りばめられいくらでも意表を衝く水際立った音楽性の、冷めた抒情が聴く者をして滾らせるストロベリーアラームクロックというバンドには生半可では太刀打ちできないだろう。
夏用のズボンを欲し、方々探すが、結局、ユニクロのヴィンテージチノパンなるものを今強く欲している…なんだかんだで手に取ってじっくり観察すると…生地や縫製の質が、許せる値段において上質なように思う。
the music machine ○
the del-vets
the human beinz
kenny & the kasuals
the sparkles
the turtles
the litter ○
the elastic band
the chocolate watchband
strawberry alarm clock ○?
the brougues
love ○
the outsiders
the squires
the shadow of knight
kim fowley
the seeds ○
the remains ○
the beau brummels
the nightcrawlers
the gants
the five americans
the woolies
swingin' medallions
the merry-go-round
paul revere & the raiders ○?
captain beefheart & his magic band ○
the sonics ○
syndicate of sound
blues magoos ○
max frost & the troopers
「三善晃/きこえるかしら・さめないゆめ(1979)日本アニメーション」
あんな体格の、身体能力に加えて組織力まで兼ね備えた超人みたいな黒人の人たちになんか勝てっこなかったんだよ、ワールドカップ、対コートジボワール戦での日本敗戦…なるべくしてなった、素直な実力の差だと思う…これからもっと超人的な選手たちの国と対戦するのだから、あとはずり落ちるように惨めに敗北を重ねるのみ、日本のワールドカップは終わった、と、北叟笑んでいる。村上龍原作のドラマ(NHK土曜日の夜)、55歳のハローライフ、だったか、秀逸であった。ああいう、定年を迎えた団塊世代の人が、結局志が足りぬゆえに、あるいは他者の存在を受容できずに枯れきらずに何かとジタバタするドラマとか番組、というのが好きというよりか、小生の好物であり、貪るように見てしまう性分である。リリー・フランキーが的確に演じていた。来週も絶対見てやる、と思う。
あれは今から十数年前の白熱の夏…二十代も後半に差し掛かった男二人が…アニメ「赤毛のアン」のシリーズを、うろ覚えだがエアコン無く、汗だらだら、徹夜で朝までぶっ続けで視聴したのであった…書物とマンガとレコードと段ボール箱らのうず高い尖塔がカサ・ミラやサグラダ・ファミリア大聖堂の建築物のようにぐにゃぐにゃ行ったり来たりのたりながら幾つもぶんぶん渦巻いている黙示録的光景の、文字通り足の踏み場が家主のすこぶる貪欲な知識欲情報欲がのさばる具合で万年床といってもまさに人一人ぶんの棺桶の幅くらいしか空きがなく蒲団の半分以上はやはり嵩張る書物とマンガとレコードの塔が崩れ風化した跡地のようにそれらがぎっしりのっかかる、そうした六畳一間の東京のアパートの一室で活動を進めていた先輩を訪ねて小生が上京、一宿一飯の宿、しかし前もって忠告されていたように本当に寝る所が皆無なのに辟易しつつそれが全く苦にならぬ展開になったのは…ちょうど先輩が借りてきたか安価で入手したか、アニメ「赤毛のアン」のシリーズのVHSビデオかDVDか忘れたが…幾つかのお奨め実験映像を視聴した後、赤毛のアンを先輩が画面に出したのであったがそれが最後、最早…片時もその画面から目を離す事ができぬ驚愕と陶酔の強制的持続に…始めは正坐で、夜明け近くになると足は崩すが心は決して崩さぬ集中力でそれこそアン・シャーリーという類稀にして破格の人間を凌駕せん勢いのままに一晩中動悸と、暴風雨と晴天が一挙に押し寄せたかのような激しい感動にその身をコテンパンに砕かれながら、一話終わるごとに集中による無呼吸からの解放もあって怒涛で改めて押し寄せる激烈な感動に四肢の端々までその潮に満たされびんびん延ばされながら息継ぎ息継ぎ、必死に、見たのであった…
L・M・モンゴメリ原作の「グリーン・ゲイブルスのアン」について此処で本論するつもりはない。(ちなみに朝ドラの影響でアンを取り上げているのではない。数秒しかそれはみていないし、あの朝ドラの作品性自体は、「想像力の欠片も無く」アンの世界とは今の処隔絶している、しみったれている)19世紀ヨーロッパで爛熟したロマン主義がついに海を渡ったアメリカ大陸において激烈に結実した、ロマン主義最後の仇花にして至宝の人間像がアン・シャーリー一人に受肉している…ドラえもんとドラゴンボールとハウスの名作劇場に育てられた私達だとしたら赤毛のアンを題材としたら原作が凄絶によいのだからそのアニメーション化はよくて当たり前なのかあるいは原作に負ける惨めに陥るのか、往時のアニメ制作者の覚悟は聞いてみないと分からぬがしかし残ったアニメ作品は、原作の文学作品に決して引けを取らぬばかりか実力伯仲しうる金字塔に仕上がっていた。それは、どこまでも原作の思想に忠実であることが、原作による縛りという打たれ弱い悪循環を跳ね除けて、むしろ原作からよく触発された作画上演出上の創意工夫をぐんぐんのびやかに屈託無く羽ばたかせているのである。
悪い例がマンガ「へうげもの」のアニメ化作品である。最早この国の至宝ともなった「へうげもの」、それをアニメ化するならば何らかの覚悟が問われるはずが、そうした覚悟を背負い込む知恵も度量も上滑りするような浅薄な連中がアニメ化に携わった不幸なのか…「へうげもの」の精神を何一つ分かっていないばかりに、原作がマンガだからというのもあるのだろうが原作の絵をそのまま動画にしました、といった態の、たいした工夫も無い、安易なものなのである、何よりも創意工夫が主題となっておろう「へうげもの」をアニメ化するのだから原作を馬鹿の一つ覚えみたいに当たり外れなくなぞってどうする、アニメ化に当たっても「へうげ」てみるべき余地乃至は新境地が当然開けてしかるべきだろう、だのにそれを括目することが出来なかった愚昧な制作者陣だから、あのような、原作を貶めた愚作をご丁寧にDVD化する破目になるのである。しかるに「赤毛のアン」アニメ制作者陣は…前述したように、誠に屈託無く、アニメという手法でもってアンを新しく止揚しながら原作の精神とアンという人間性をあます処無く表現しきっているのである。それは、見ている者に、打ち震えるほど伝わってくるし、往時の制作者陣の本気度が画面の細部で炸裂しているのである…それを数え上げたらきりが無いし、最高評価の批評というのはその作品をなぞる、臨書する、書き写す、カバーする、ということであり究極的にはその作品を、批評を伝えたい相手にそのまま提示する事に他ならないのだから赤毛のアンをそのままここに持ってくることになるのだから、この際、レンタル屋で借りて見てほしいとお奨めするしかない。
生活描写の細部に十九世紀の風俗が生き生き精密であるし、たとえばマシューが木型のような道具を用いてブーツを脱ぐ描写をきっちり描いている所など、細部の行き届きに作品の心が感応している。アンの、恐ろしくよく発達した前頭葉…都会の文物よりもアヴォンリーの自然からの誘惑にびんびん感じすぎるアン…(日曜学校にて牧師の話をよく聞いていなかった事を咎められて)「牧師様は私たちではなく神様に向かってお話なさっていたわ、だから、わたしは聞かなかったの」(他の少女らが造花の飾りの帽子をしていたのは怒られず、アンが、自らの創意の赴くままに、野で摘んだ花を帽子に飾ったのが叱られた事に対し)「帽子の飾りが、造花なら許されて、摘んできた花ではどうしていけないの」あまりに本質的な問いを澱みなく繰り出すアン。そつなく調子のいい「スクリーン」しか見せない「イラスト」ばかり持て囃される劣悪な現状を、「人間の神経系統に直結する絵画」で以って自ら告発した画家フランシス・ベーコンの仕事を思い出す。あと、気づいたこととしては、アンの話には茶会が多い、というのがある。洋の東西は違えど、茶の湯物語としても見ることができる。
見てなかった回があるのでリーガルハイを近所のツタヤでレンタルするついでに店内を視察しているとアニメ「赤毛のアン」シリーズがあったので、ふっと、前述の、十数年前の感動を思い興こし、アンをレンタルしたのであった…そして…泣いた。初回~十話まで借りて…一週間かけて4回ずつは再視聴したからアンだけでのべ40回は見た。その間にリーガルハイも楽しんだ。ついでに南の島のフローネも借りていたが、アンとは比較にならぬほど、まあ、普通の出来なんだろうけども、今となってはアンとは比較にならぬほど雑な出来栄えのアニメに思えた。とても見てられなかった。ちなみにツタヤというのはほんと劣悪な品揃えのレンタル屋であった…久しぶりにタルコフスキーのノスタルジアでも見たい、と思って探しても、あるはずもないとばかりに「そんなミニシアター系みたいな高尚なものなんかうちでは置きませんよ」と悪びれもせず言うような貧しい品揃えで、最新ハリウッド作品と売れ筋の国内&海外ドラマとジブリと萌えアニメと、申し訳程度にチャップリンしか置いていない。黒沢や小津すらも無いという殺伐とした割り切りである。寅さんもないってどういうこと?ツタヤといえば蔦屋、江戸時代の浮世絵の版元として北斎や広重や写楽などのさまざまな実験的試みを受け入れて世に放った、幕府の弾圧にも耐え抜くしたたかさと、芸術への眼力を備えた、懐の深い版元であったのに…。クソッタレ、と思う。放送中に見そびれた半沢の西大阪スチール編を最近、DVDで確認した折、半沢疲れともいうべき激しい充実した疲労に倦怠感がひどかったが、此度はアンを見過ぎてアン疲れが甚だしい。
何よりも音楽がいいのである。三善晃作曲のオープニングとエンディングテーマが凄まじくいいのである。武満徹以降、現代音楽の聴衆離れという拭い難い風潮を横目に調性回帰へと短絡の一途を辿る日本現代音楽界にあって、調性と非調性の狭間に交響楽の歴史の成果を全て詰め込もうと勇躍した貴重な作曲家の一人である…それは、過去にこの王道なきロック史において言及した事があるが、今宵は本格的にそれを味わいたい。
オープニング「きこえるかしら」…よい音楽というのはビーチボーイズのスマイリースマイルにしろ何にしろ始まりというのがギロチンや火蓋が切って落とされたその瞬間が永遠に告示されるかのような素っ気無く速い始まりを始めて全てを置いてゆくのだがこれもまた凄い始まりで野原が既にして見えないほどの音の躊躇の無さが残酷なほど爽やかだ…この歌の凄い処は…冒頭の一節「きこえるかしら ひづめのおと」の後の、間奏による間、である…この一節の直ぐ後にそれに接ぐように歌詞が歌われるのが凡俗の普通の運びなのだが、あえてためらいも無く突き放したように悠々と詞を入れず、時間を出し惜しみする事の無い豊穣、この非連続が必ずしも断絶を伴わぬ自由さを即座に遊んでいるのであって…安易な慣性を許さぬ、捕まえられそうで捕まえられない蝶の飛び方のような外し処を随所に、線形な時間経過の中でなく流れが放射へと解放される潮の満ち引きの緩慢且つ気まぐれな噴流へと頂く玄妙なる間奏であって、脱臼した鯨の遊弋、ふと物思いから覚めたかのように何事も無かったかのような無垢なタイミングで「ゆるやかなおかをぬって かけてくるばしゃ」と歌うのである。ドビュッシーの交響詩「海」とマーラーの交響曲「大地の歌」が僅か1、2分に凝縮したかのような、細部の煌めきと大きい揺らぎを支える超絶技巧のオーケストレーションを惜しみなく投入している濃厚がある。この間奏では、更に、20世紀初頭の白人世界におけるジャズの受容形態ともいうべき、たとえばラベルであったりガーシュイン風のビッグバンドジャズのブラスを、擬古的に挿入する遊びもある。この第一節と第二節の運びだけで既に、これから活写されるアンという人間の真に迫る形を与えている。原作がそうであり、それをアニメがこの上ない尊敬を以って再現出しているのであるがアンという人間の表情というのは並の人間とは比較にならぬほど一定時間における表情の変化回数が桁外れであり、それはアンが想像の炸裂にまかせて言葉の羽を紡ぐように喋りたおしている最中は当然ながら、喋りと喋りの間の、たいていの場合は感無量で胸が一杯になって言葉が詰まっている時の、黙っている時においても、意識の流れが剥き出しのままに表情が、ころころ落ちる水滴のように無邪気に、20通りくらいは変化しているのである。だから、アンが黙っている時の表情の、川の瀬のように常ならぬ変化の流れのその沈黙の豊かさというのが、前述の間奏で、表現しきれているのである。その後のアニメ技法上の創意工夫とこの音楽の相乗はまさに計り知れぬほどで、むかえにくるの むかえにくるのね だれかがわたしをつれてゆくのね 白い花が渦巻く無限世界、どっさり宙を舞う落ち葉、凍て付いた樺の道に走る雪、しろいはなのみちへ かぜのふるさとへ 最早その全てを感覚しきれぬほど手が込んだ、所詮人間には追随出来ぬ自然、にまで昇華してしまっているので、こんなに小さな楽曲なのにまことに大掛かりに湧き上がる陶酔に身を任すしかない。つれてゆくのね つれてゆくのね…人間にはかないっこない美しい自然へと、この生死をゆだねる、確かな心の、あきらめの穏やかさ…
エンディング「さめないゆめ」…超高速ピアノの微細高音トレモロがにわか雨の気まぐれを強い意志で繰り出してくる有り得なさ…人間の思考や感覚というのを邪気無く、批評的に小ばかにしてあざ笑うのではない、少女らが折に触れてくすくす笑うように些細な刺戟に乱反射する、ただ面白いだけの笑いであり、人間にはその軌跡の起伏を決して悟らせない、それほどの速さが…速度というのが如何に人間の身勝手で傲慢な物理であるかというのを痛感させる。はしっても はしっても おわらない はなのなみ みずうみはとおく もえるくもはもっととおく…この破格の音楽の天国への階段は山が雲になった証し、そんな壮絶オーケストレーションが音も心も剥き出しに次から次へ、生まれては生み生んでは生まれる狂ったように絶えざる盛り上がりの盛り上がりの底を雷鳴のリズムがティンパニーだろうか情熱的にダーンダーンダーンダーン力の限りとことん叩き尽くされて銅鑼がドシャーン夕暮れの真っ赤に爛れた積乱雲が燃え尽きた…その瞬間の絶頂を少し越えた翳りがついに滔々と歌う…はなのなかで いちにちはおわる さめないゆめみたいに さめない ゆめみたいに…まだ懲りない超高速トレモロはすばしっこく裏駆けて姿もみえぬほど速い命、光そのものへと…熱く静まる…そのいとおしさ…余韻がいつまでも火照る。
アニメ「赤毛のアン」
製作:日本アニメーション・フジテレビ
演出:高畑勲
場面設定、画面構成:宮崎駿
作画監督、キャラクターデザイン:近藤喜文
アン・シャーリー:山田栄子
マリラ・カスバート:北原文枝
マシュー・カスバート:槐 柳二
オープニングテーマソング:きこえるかしら
歌:大和田りつこ 作曲:三善晃 作詞:岸田衿子
きこえるかしら ひづめのおと
ゆるやかなおかをぬって かけてくるばしゃ
むかえにくるの むかえにくるのね
だれかが わたしをつれてゆくのね
しろいはなのみちへ かぜのふるさとへ
つれてゆくのね つれてゆくのね
エンディングテーマソング:さめないゆめ
歌:大和田りつこ 作曲:三善晃 作詞:岸田衿子
はしっても はしっても
おわらない はなのなみ
みずうみはとおく もえるくもはもっととおく
はなのなかでいちにちが おわる
さめない ゆめみたいに
さめない ゆめみたいに
「nuggets vol.1/original artyfacts from the first psychedelic era(1965-1968)r2 75466」
風の無い厚曇り、梅雨のはざま、長閑な昼下がり…雨を吸ってずっしり涼しい気温が心地よく集中が壊れていく音もなく、蝶がまぐれのたまたまの浮き沈み、その下を、それぞれの関係性の猫三匹がサカリ声を人語のように妖しくなすり付け、子らのドッヂが塀にぶつかるゴム音が間断なくうるさく…雀はちゅんちゅら。目出度いばかりか恨めしいくらいの、生誕を起点とする還り日も近づくにつれて、真っ黒の柾目のような慟哭を、声を忍んで、目から黒い血が流れたらいっそせいせいするものを、開き切った目が見る物はそこらの、いつも目にする、ありふれた家具。ほうじ茶を啜り…日の傾きの遅れに豪を煮やしつつ夕方に向けて緩慢なる日差しの強まりも思い出でて、近所は、まだ、晩の支度に着手せぬまでの長閑が能然としている。(「能然」という言葉は多分ないと思う。小生の咄嗟の造語)気晴らしにワインと赤肉塊(ローストビーフ)でも買いに行くかとぼんやり思い、極私的な聖餐を妄想…しかし故あって別途飯を炊かねばならず、憂鬱もある。思い起こせば、それがしくじれば、あるいは強烈な他者の悪意の的になってしまったならばもろに自分の生命財産や大切なものを脅かす恐れが強大だが、しかしだからといってそれの解決のために小生自らが直接的に行動に打って出る事は出来ぬというか出る幕が無い、そうした社会的規定状況にあって、煩悶は徒に貧相なびくつきへと苦しく、小生を苦しめ、不甲斐無く、それをふと思い起こす度に、気持ちが陰惨になり、ぐったりと、如何なる祝いの隙をも抹消してくる暴力が目下、続くしかなくて、気まぐれ且つ明確な悪意目的を遂行しかねぬ他人の御目こぼし頼りというはなはだ心許ない危うさの中で、苦しい日が、最低でも一週間は続く目算だから、浮かばれない、自粛モードが氷河のように日常を少しずつ奈落へと攻め落とそうとする不安が…加えていわゆる誕生日も近いのだからなお一層、日頃の、浮ついた、地に足のつかぬ、ゴミへの漸近でしかない志ははや滅多打ち、何もかも台無しにされたような被害妄想に窒息寸前の妄想暴走…惨めどころじゃない苦しさが最近のトレンドとなっている。つい数か月前にインターネット上の仮想通貨ビットコインを扱っていたある会社が破産、というのがあったがそもそも仮想でない通貨などあるのだろうか…国家通貨だろうがビットコインだろうが、通貨というのはそれ自体仮想でしかない…通帳をまじまじ眺め、貯金=寿命と考えた場合、こんな吹けば飛ぶような、ゼロの多い少ない関係なく、素っ気なく印字された数字(=今はやりの「ポイント」へと還元されるだろう、近い将来…)に何の実態があるのか…世のシステムが全的に悪意で壊されるか全的にうっかり壊れるかしたら、「はいッ、残念でした~(笑)」といった軽い感じで、通貨=ポイントなんか、たちどころに霧散して取り返しつかぬ消失は免れないのだから…また、ぎゅっと苦しくなる。
権力に中心など無いだと、そんな、上から目線の御託は、余裕こいたプチブルどもの戯言だ、この期に及んでそんな小奇麗な歌合せに付き合ってられるか、あいつだろ、あいつが全ての元凶なんだ、と、急進、切迫する余裕の無い藪睨みの底辺が焦点を焦付かせんとするそのあいつを実力で排除した処で替わりのあいつがどんどん更新されてでてくる玉葱の皮むきだと…そんなら剥きまくってやれ、玉葱の皮を飽く事無く剥いて剥いて剥きまくってやれば何にも無い虚無が剥き出しになるだろう、その剥きだしの虚無を表沙汰にする事で安全安心が撹乱されるのが怖いから権力に中心は無いなどと正論に座して乙に風流ぶってんじゃないのかよ、こっちは余裕は無いんだ、だから、あいつが真に権力の中心かどうか、など、神学論争やってる暇は皆無、まずは目先のあいつに目を付けて皮を剥いてやれ、所詮人間のやる事、皮は無限じゃない、兎に角表にぶちまけてやれ、と、毒つきが止めどないのは本当は、近所の留守宅で鳴り止まぬ目覚まし時計のジリリリ連続音に苛まれているからであって…目覚まし時計をセットしたまま家を出て、蛻の殻の家屋で一つ、指定時間通りに目覚ましが鳴り捲り、しかしそれを止めてくれる家人が外出で居ないのだから目覚ましはいつまでもいつまでも鳴り続け…15分鳴り続けて一旦鳴り止んだ後、5分後にまた鳴り始めるという…何が何でも主人の目が覚めた、という確証を得たい目覚ましはその肝要な処をバチコンと苛立たしく叩き押されるまで、執拗に、律儀にジリリリリリリリ鳴り続け…休日だと言うのに…茶碗蒸しのような小生の脳みそに、バリも取ってないささくれ立ったフォークを突っ込んでぐちゃぐちゃに掻き回されているような耐え難いイラツキが激昂…早朝から深夜午前2時までひたすら続く、上の階の子のドタドタ音や、風の日にはこれまた鳴り止まぬ近所の風鈴音など、騒音での拷問は種が尽きないが目覚まし時計もまた、解決せず持続するだろう…近所と言っても、一体何処の家からなのか、絞りきれぬゆえに。(子のドタドタ音は、引っ越してくれたので一応の解決を見た)あいつの最近の所業…いよいよ以って年金破綻が目に見えたのもあって小出しの誠意で取り繕おうってか、激甘な見通しであの年金額予測…ひとまず景気浮揚の絶対目的として年金を人質にしておいて国民の綱紀粛正(資本への奴隷化)のだしに使うか、という見え透いた策略…加えて年金の運用における株式運用の比率をアップする法案も検討だと…生き馬の目を抜く株式市場で、とっぽいお役人が出し抜かれるのが目に見える。難局打開にはリスクを伴うのは理解するが、そのワリを食うのはやっぱり被支配者層であり、上層支配層ではない(ただ…年金運用の最大の投資先が現状、「日本国債」、であり、株式どころじゃない、最も×××(自己規制!))…さらには消費者金融の法定金利上限を上げる法案…此処までくると、国民への、裏表無き悪意としか思えない。沖縄返還に暗躍した若泉敬や鴎外の「堺事件」のような、失策や失政の責をとって自決するくらいの覚悟を前例で形で示してもらわない限り、政権の純然たる悪意が結実しているようにしか思えない。富の再分配による基本的人権の保障を目的とする社会契約的公の精神をかなぐり捨てた国家が資本の論理と結託した挙句、国家が国民を資本家と被支配者層へと分断し、国家=資本へと振舞うつもりならばそれは国民を棄民と見なす事であるからして、国民自身が国家の治安に気兼ねする必要も無くなる。最早…憂さ晴らしにこんなところで反吐している場合じゃない。
ナゲッツ四枚組の第一弾。ジャケットのアートワークがよい。ガレージパンクというものを掬い上げ先鋭化したバッグ フロム ザ グレイブ(以下、グレイブ)に比するとその純度は劣るが言わずと知れたガレージ集成の嚆矢である。とはいえ、ナゲッツでは、グレイブが先鋭化したガレージパンクの純度が低い分、より鳥瞰的なところから、如何にガレージへと急進的に先鋭化されたか、の、過程が大雑把に聞き取れる。ここでいうガレージパンクというのは、その語を知らなかった小生がかつてサイケデリアのフルサトとして想念していた、アメリカ文化の真髄に位置するあの獰猛性=荒みであるといえる。このアルバムに収録されたバンドを下記のように列挙しており、その横に○印がついているものがあるがそれは、小生が過去に「王道なきロック史」で取り上げたバンドであり、その主要概念であるサイケデリア=ガレージパンクを強く突き動かしてくれるバンドたちである。小生の精神の核を成していると言ってもいい。ナゲッツには、だから、ガレージへと濃縮される以前の原液の雑多ぶりが彷彿しており、ソフトサイケやガレージサイケ、フォークサイケやコーラスサイケやスイートサイケやポップサイケなど万華鏡有象無象である。みな、いとおしい。何もかも終わってしまって、今となっては、何もかもが懐かしい、という気持ちと、まさに今、この音楽が己の精神と生活を進行形で耕してくる、切迫して生きた当事者意識、との差異が擦り切れてなくなるような…グレイブを聞き込んでいた時期はナゲッツに物足りなさを感じていたものだが今となってはこの如何わしい多様性に立ち返ってこそ可能性が臭うのだろう。そして…ザ・シーズやエレクトリックプルーンズ、13フロアエレヴェーターといった小生の精神を形成した化け物に出くわすとやはりその度に度肝を抜かれる…精神の波形が黒死病の死者数のように鋭く他を排して屹立する制御の出来なさ…この3バンドが、ナゲッツに拾ってもらえなければ歴史の藻屑へと消え失せたかもしれないのだったらこのナゲッツの功績というのは文字通り計り知れない。あるいは、ナゲッツが無ければ、狂わされる人間が少しでも減ったのではないか、という慙愧の歯軋りが悲喜こもごもなのである。小生も、その、狂わされた一人だからだ。過去に何度も書いたが、人生への険悪の種、ザ・シーズのpushin' too hardに出くわすと今も頭がおかしくなりそうになる…これ以上の危険思想というのはあるのだろうか。○印以外にも、精神の基底を揺さぶってあまりある、不逞なるバンドは多い…ザ・キャスタウェイとか…異次元人の古典芸能としか思えない。 チョコレートウオッチバンド、ずっと探していたが入手できずにいたがこんな所にいたとは。これほどまでに土迫力とは思わなかった。ミュージックマシーンに匹敵する。黒人に武器を持たせてしまった白人の後悔とでもいおうか、音楽的な意味で。
すれ違う群衆の一人が、「芸能なんか、服従への慰めに過ぎんよ」「学術も芸能も宗教も政治も、所詮薄汚い隷属を、悟り、信仰、知への愛、真実、善、美、表現、崇高、荒み、福祉、公共、自由等々の意匠に言い換えて、飽きもせずとっかえひっかえ御色直し=編集している茶番だ」と唾棄する声が今、聞こえた。 その声に今は…反撃できない。侮辱の中で甘んじるしかない。反論、ではない。反論などいくらでも出来る。ねちねち反論に弄する時間はない。やるべきは反撃だ。来年から、反撃を開始します。今は、その来るべき時のための文献修行の真っ最中だから。ナッズが怒涛の煌めきでopen my eyesさせてくれたから。私の辞書には「=」(等号)という言葉は無い。絶叫と感嘆と宣言と命令だけ。結局ローストビーフでワインがぶ飲み。大の字に寝、腕と脚の付け根と膝と足首にまで酔いが回ってじんわり温かく麻痺する感覚が心地よい…。
the electric prunes ○
the standelles
the strangeloves
the knickerbockers
the vagrants
mouse
the blue project
the shadows of knight
the seeds ○
the barbarians
the remains ○
the magicians
the castaways
the thirteenth floor elevators ○
count five ○
the leaves
michael & the messengers
the cryan shames
the amboy dukes
blues magoos ○
chocolate watch band
the mojo men
the third rail
sagittarius
nazz
the premiers
the magic mushrooms