ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「cafe jacques/international(1978)esca7851」
修造の基地外耳美田(きちがいじみた←万葉風)テニス教室のテレビ光景は黙殺するとして御嶽山での捜索中止を決めた捜索隊員(自衛隊、消防、警察の混成部隊)へのひとまずの手向けに、地元の幼児が歌を歌って捧げ、隊員が涙する、というこれまた気違いじみた光景が繰り広げられて反吐が出る。特に自衛隊員は、徴兵されたわけでもない志願兵であり、己の意志で好き好んで国家や国民のために己の命を捨てる事を率先する人間であり、そのために莫大な血税を投入して日頃は生産関係免除で訓練と称して遊ばせてもらっている連中である。訓練中に死ぬこともある危険性などここではどうでもよい。遊びといっているのはここでは生産に何の寄与もしない故に経済的に無意味な活動という意味である。軍事産業や、それの基盤となる思想として、軍事力が国家間における牽制効果という安全保障に寄与し、ひいては健全な経済活動にも一役買うといった言説もここでは妄想として切り捨てる。要するに有事の際に国民の捨て石となって国民の生命と財産を救うのが彼らの純然たる「仕事」であり、本人らもそれを承知で務めているのであり、そのために国民は莫大な税金を投入しているという一種の社会契約関係が成立している以上、彼らが災害現場の危険区域において行方不明者の「捜索」活動をしているのを見て、国民は、わざわざ涙を流して感謝したり子供に歌を捧げさせる必要など微塵もないのである。彼らがその辺の百姓で無報酬で危険をかえりみず捜索しているというのであるならその純然たる親切に対して涙流して感謝してもよかろうが、事情は先述の通り、地位とそれに見合った報酬に基づいて仕事しているだけなのだから本来、勇敢な無償の行為に対するような感情的な感謝などいらない。むしろ、火山灰に足を取られるだの雨が降って土石流の危険がどうのと理由をつけては捜索が遅々として進まず冠雪が来て、不明者を残したまま捜索打ち切りとなった体たらくや、隊員の一部には火山性ガスや酸素の薄さによる体調不良で役に立たなかった者も発生したという、日頃の訓練の内容を疑問視すべき軟弱ぶり、軍としての練度の低さをこそ非難すべきである。感謝するにしても、野菜を作った農家の人にお金を渡して野菜を買う時に一言「ありがとう」という時ぐらいの、限りなく日常の挨拶に近いレベルでの御礼が妥当であり、国民の、自衛隊への感謝の念が選挙権の無い子供を使って表明される現象などは明らかに過剰な、この国の行く末を暗示する薄気味悪い傾倒である。唯一、この「過剰な感謝」に価値があると考えるならば、国防に命を捧げた者らの命と、守られるべき自分ら国民の命の価値の分別もつかない国民性だからして、隊員の命を大事にしない、即ち、隊員が危険な事をするのにたんまり感謝しないという事が、そのうち、国家が国民自らの命も大事にしない事の前例というか布石になりうるから、その可能性を予め潰すためにもここは「過剰な感謝」を持ち上げておくべし、という論法があるくらいである。だから本来ならば、集団的自衛権に関する国会質疑などでよく言われるような、「自衛隊員に死者が出る可能性はあるのか」などといった懸念は、自衛隊員と国民の命を混同した迷妄であり、問題にすらならない事なのである。自らの意志で望んでいるのだから自衛隊員は死んでもよい、しかし国民は死んではいけないというか死ぬつもりはない、というごく当たり前の分別が何よりも肝要である。ここでは公式に流通する建前だけを問題にしているので、死ぬ覚悟はないし死ぬつもりもないが軍事数奇が嵩じて入隊したといった人間の自由意志は、問題にしていない。
しゃっくりを窒息で止め野分前
喉がらむ風邪と漬け丼月の蝕
いつまで経っても収まりがつかぬ内心の荒れ模様…嫌らしい隷属への無理強いがドメスティックに内政化されて拘束して来るものへの憎悪の静電火花がちらちらと発作し、堪え切れぬ癇癪へと内的に切望する薄暗さが煮え滾る夕べ…英国の不思議隙間産業的バンド、カフェ・ジャックス…先週の「悪趣味の系譜」の行列式に、「AOR」という分野を挙げておくのを失念していたが、
そうした既成の文脈の組み合わせをここで再現することはむしろこのバンドが醸す音楽性を放逐する事になるのだろう。ザ・バンドやリトルフィートの重厚なコクを巧緻な電化処理によって、上っ面の装飾でなく楽曲構造的にぎっちりプログレ化しつつポップスの転結をいやらしいほど自然にわきまえており、近未来の路地裏に取り残された臭み系純喫茶モダンポップである。時折醇乎たる分厚い叙情をドハアと分厚い毛深い胸板から滲み出してくる歌の流れが目玉と鼓膜の裏から噴出する…。ライナーを確認するとこのアルバムに参加したメンバー数、そして取扱い楽器数が多すぎてとてもじゃないが書写出来ない。実際の音は、簡素とまではいかなくとも適材適所よくまとまっており、音数や楽器数の多さを感じさせない作りである。それにつけても、こうした、およそロックという音楽のあらゆる問題意識をすべて受け止めて正面突破しようとした誠実な産物であるモダンポップ/モダンロックが何故か一般的には、奇想のひねくれ音楽として聴取される矮小化に忸怩たる心の熾火冷めやらぬも、解釈抜きにこの不思議な誠実に対して、今でも、小生はドキドキ翻弄される。関ヶ原で徳川本陣を掠めて敵中突破して薩摩に無事帰還した島津の不逞を想っては胸のドキドキが収まらないこの暑い感覚…。
この大事な時に…この期に及んで払拭できぬ気ぶっせいの憂さを晴らさんとした過度の飲酒によってまたしても口内炎を再発した兆しが…下唇裏の両端の定位置にまた…分かっちゃいるけど止み難い毒素チップスの爆喰いの報いがいぎたないまでの正確さで押し迫る…何を食っても患部に浸みて激痛が人生の楽しみの全てを根底から突き崩してくる…今さら服用したとて何の効果もない事は分かってはいても気休めにまたウヰスキーでビタミン剤を服用する惨めも再発。不透明な蛍光イエローの排尿も再発。チャイコの6番の悲愴を…ささくれ立つ表層の神経に浴びたからとて苛立ちは炎症するばかりで無暗に急く。思えばこのチャイコフスキーの6番の楽曲構成の出鱈目さといったら実に痛快で、まるで抹香鯨の胴体をぶった切って浜辺に不法投棄でもしたかのような賑やかな非尋常であるから聴いた事のない方は一聴していただきたい。NHKスペシャルの、昔の白黒フィルムに色を付ける企画で看過できなかったシーンは、60年安保闘争で国会議事堂前でデモる群衆の中で翻る赤旗から離れた処で黒旗がわずかながら散見できた事のみならず、関東大震災の映像で、「萬朝報」(黒岩涙香、幸徳秋水、堺枯川、内村鑑三…)の文字を白ペンキで大書したトラックが一瞬、通り過ぎた事である。
馬鹿犬がまた吠える…NHK「シャキーン」の金曜日バージョンは…(と、ここで、書く気が失墜したのでこの話題は次回に回すことに)
来週は所用につき休載します。次回は11月2日です。
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「moon riders/animal index(1985)pcca-00296」
イスラエル王アハブ「武装しようとする者は武装を解く者のように誇ってはならない」『列王記』
ブルーツス「法律は強いが、もっと強いのはいやおうなしの勢いだ」『ファウスト』
メフィストフェレス「ブドウの汁はどんなに馬鹿げた泡を立てようとも、しまいにはやっぱりブドウ酒になるんだ」『ファウスト』
メフィストフェレス「自由の権利のための戦いとは称するものの、よく見れば、奴隷対奴隷の戦いに他ならない」『ファウスト』
魔女エリヒト「自分の内心を支配できぬ者ほど、とかく隣人の意志を自分の高慢な心のままに支配したがるものです」『ファウスト』
ファウスト「わしは無感覚になって幸福になろうとは思わぬ」『ファウスト』
内村鑑三「単独の幸福」(1921年1月2日 漫筆)
ヒロン「結局弟子たちは教育されなかったかのようにめいめい自分の流儀でやってゆくものだ」『ファウスト』
天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎかくる見ゆ 『万葉集』
ファウスト「自由な土地に自由な民と共に立ちたい。その時は、瞬間に向かってこう言ってよいだろう。とどまれ、おまえは美しい!と」『ファウスト』
吾が屋戸の夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも
吾屋戸之暮影草乃白露之消蟹本名所念鴨 『万葉集』
若い者の前では、つとめて、新時代への理解を示そうとしながら、しかも、その物の見方の、どうにもならない頑迷さにおいて、宛然一個のドン・キホーテだったのは悲惨なことであった。…(中略)…してみれば彼自らも、伯父と同様、新しい時代精神の予感だけは持ちながら、結局、古い時代思潮から一歩も出られない滑稽な存在となるのでないか。 中島敦『斗南先生』
妬みこそは神慮よりも慈悲に富む、私たちの歩みの先導者であるのに、どんな治療学もどんな倫理学も、妬みの齎す恩恵を礼賛したためしが無いとは、奇っ怪な話ではないか。…(中略)…おのれの悪徳を大切に養うこともあえてせず、なんびとと張り合うこともあえてしない結果、我が身の手前側に留まり、万人の下位に立つみじめな人間に、あわれみを垂れてやろうではないか。 E.M.シオラン『暴君学校』
悪趣味の系譜を求める行列式。変数はテクノ、モダン、ポップ、y、サイケ、ガレージ、パンク、プログレである。yはロックの函数である。「行列」の演算については高校数学を参照されたい。
重力による空間の歪み、あるいは量子における時空=次元の不確定性などという現代物理学の概念は空間という概念形式を知らぬ浅学なる物理学者の戯言に過ぎぬ、そもそも歪みという認識があるのはその歪みを相対的に表象せしめる絶対空間を前提としており、空間を議論するならばこの絶対空間を主題にしない限り何の意味も無い、歪んだ空間などというものはこの絶対空間の中に存在する一表象に過ぎない…と昂然と古式ゆかしく執念していたのが…この、鈴木慶一の傑作の一つ、「悲しいしらせ」を聴取すると…時空の歪みと不整の脈動という量子的振る舞いが、この日常の、ニュートン力学世界にも先取りされる幻惑を体験できるから不思議である。「悲しいしらせ」は「アニマルインデックス」所収である。今宵は、この、「悲しいしらせ」についてだけ述べる。先週のヒカシューに引き続き、今回挙げたムーンライダーズも本来ならば「悪趣味の系譜」の布石であることをとうに忘れていた。上記に、「悪趣味の系譜」を路頭に迷わせる行列式を示しておく。行列中のyはバンドの固有性にしてロックの有り様そのものであるが、いずれにせよyの中に未知数xがいつまでも解答されはせぬ仕掛けというか事実に即した表現を施してある。ムーンライダーズの鈴木慶一氏は、同時代の、はっぴいえんど細野晴臣氏やYMO坂本龍一氏と互角の才能を開花させた。
まずは、「悲しいしらせ」の歌詞を写そう。日本語であるから。
悲しいしらせ 鈴木慶一 作詞作曲
一度だけならまだがまんもするが
こう何度も ウソをつかれちゃかなわねえ
海辺に連れてってよ ねえ兄貴
気分を変えたいんだ そして
馬鹿でまぬけな このボンクラ頭 波に洗おう
つまずいて大切なバラの茎折った
血迷って はいたツバは飲みこめねえ
天使を連れてきてよ ねえ兄貴
気分を戻したいんだ そして
馬鹿でまぬけな このボンクラ頭 神に捧げよう
君は天国を知らないまま 暮らしてく
君は地獄を知らないまま 暮らしてく
悲しい知らせがあるよ 今日 ボクが死んだ
一寸だけ助けてよ ねえ兄貴
も一度会いたいんだ そして
馬鹿でまぬけな このボンクラ頭 滝に打たれよう
君は天国を知らないまま 暮らしてく
君は地獄を知らないまま 暮らしてく
悲しい知らせがあるよ 今日 ボクが死んだなんて
生きてるのか 死んでるのか わからない気持ち ※
(※繰り返し)
80年代後半から90年代にかけて持て囃された内向性(=碇シンジ、「等身大の自分」byミスチルetc…)は、2000年代の今となっては、時間をかけない侮蔑の一瞥によって事済まされる、相手に値せぬ「ぬるま湯」視されるが落ちだろう…「生きてるのか死んでるのか、わからない気持ち」などと歌っていたら、今日においては「じゃ、すぐ死ね」と、すぐさま撃ち殺されるのが、現在の荒みである。人間の機微とか裏表を勘案する余裕など抹殺されているのだ。「君は天国を知らないまま暮らしてく、君は地獄を知らないまま暮らしてく」などと歌っていたら、強大な体制によって、すぐさま「地獄」に落とされる手続きが取られるだろう。当たり前と思っている生活のかき割りが叩き壊され、剥き出しの市場闘争原理による搾取と苦役と重税と隷属と権利剥奪が待っているだろう。従って、現在ではこんな歌は「通用しない」とも論評できはするがしかし…「ぬるま湯」レッテルによって「内省」が承認されない状況で、それでも内省に拘泥するならば死を覚悟した命がけの思想たるを要求される、思想にとっては望むところでもあるのだろう。時代は変わる。思想は変わらない。不動である処の思想に、時代がくっついたり離れたりするならばそうさせておけばいい。
音は…厚みを増した朝霧の不整脈…心臓が燃えて焦げ縮まる苦しい瞬間の断末魔における僅かな動悸が、電化された見通しの無い音壁と激しい歪みのファジー音像、目くるめく転調の自在で以て、ぽつ然とした不安をきょとんと、ある種の馬鹿犬のように醸してくる…煽られる不安の誇示的厚かましさと異なり、持病の如き憔悴の盆踊りがここに。こうした音楽はその特質としての点在性の達成として「ペットサウンズ」「スマイリースマイル」の「影響」を忌避した隔世の勃発である事も特筆に値する。聴けば聴くほど頭が腰砕けになるだろう。因みに、ライナーに記述されてなくて兎に角うろ覚えだが、この楽曲は元ボクサーの喜劇役者たこ八郎の死(泥酔して海水浴の挙句の心臓麻痺)を悼むものであったと思う。
なお、以下の、たこ八郎へのタモリの告別は、一見すると、調子に乗って「内省」を追撃する「時代」側の荒んだ言説に思えるかもしれないが全然そうではなくて、不動の「思想」としての、ルサンチマンを排した言葉=荒みである事は余談ながら付記しておきたい。「荒み」が、現状の勢い(=時代)と、現状への意志(=思想)の両義を意味する引き裂かれた概念であることは、拙筆なる「荒み宣言」において詳述している。
タモリ「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない。」
moon riders
keiichi suzuki
tohru okada
masahiro takekawa
tetsuro kashibuchi
hirofumi suzuki
ryomei shirai
「ヒカシュー/ヒカシュー+2(1980, 1989)toct-10049」
地元に何百年と伝わる神楽や能などは爆撃や誤爆で破壊されたらすっきりするだろうと、心の苛立ちが括目する。無気力編はヒカシュー。狂言師のような深イイ声の真面目が残酷なグロテスクを突拍子もなく飄々と謳い上げる哄笑の根底的なフザケ、一抹の毒、…災害報道でさんざん見せつけられる上にこんな約束事にいちいち欺瞞を指摘する馬鹿正直なども端から無言の嘲弄の戒めに雁字搦めだから表面上無批判に事が垂れ流される真面目くさった嘘くさい顰め顔(女子アナ、評論家)に比べ…場違いな不謹慎にこそ真実に護衛されない剥き出しの誠を感ずる。テレ東で引っ張り蛸の希代の漫画家蛭子さんしかり…人間や生き物が未来永劫いくらでも繰り出す、裸の王様=理屈とは関係ないピンピンに生きのいい電子音の、楽しげな死の音がこの上なく快い。人の気に障る不敵な面構えの同じ顔の男たちが横一列で影の無い真正面から、両腕を丸めてぶんぶん調子に乗りながらこんな事を歌いながら不連続的に非情にも迫ってくるだろう…。不逞テクノポップの苦み走った精華だ。
「幼虫の危機」
たのしいな 幼虫が死ぬなんて
たのしいな 昆虫も死ぬなんて
たのしいな 動物が死ぬなんて
たのしいな 人間も死ぬなんて
宗教や思想や芸術がのたまうあらゆる種類の人生訓の大筋はもううんざりするほどよく分かった。皆同じことを主張しているに過ぎない。要するに生存を無自覚に信奉する人間や生き物がわんさか繰り出す理屈に執着せずに、降り掛かる火の粉を命がけで振り払って死を覚悟して楽しく動くのが徳、ということだと。中島敦の「悟浄出世」や「悟浄歎異」を一読すればもう、事足りるだろう。西遊記を見事に翻案して近代の意識を表出した佳作である。ドストエフスキーの長編を読むまでも無い事だ。芸術の価値が人生の無価値と等しいならばオンの字だろう。外界での客観的な無価値認定だろうと、内発的な価値の湧出の無さだろうと、どちらでも同じことだ。
プレゼン上手が売りの少壮社会学者どもは社会を科学する学者たりえていない。彼らは、彼らが分析、解釈していると思い込んでいる社会現象の一部に過ぎない。
はしりの時雨…暗雲垂れ込めて、いつもは室内の蓄熱が酷くて暑ぼったいこの賃貸物件でさえも涼しく感じると、心境も展望の無い落胆へと無暗に落ち込むとはいえ、青空が明け透けなほどの真夏であっても憔悴した気落ちは深まるばかりなのであって、いつだって低調である。そんな最中にあって、ある企みを立案中であったところ、大勢に影響ない程度であるが一部予定がままならぬ止むを得ない事情が起こり、むしろほっとしている…それ自体は純然と残念な事ではあったけれども、その事とは別に、計画などというものがスムーズにうまくいく事などどうかしている、うまくいく方が気味悪くて恐ろしい、肝心な処で取り返しのつかぬ悲惨事の前兆のようで恐ろしい、ならば事前に、ままならぬ事が小出しにでも起きていた方がまだまし、しかし事前の小出しがむしろ「うまくいっている」形ならばそれはそれで最終局面で全てがおかしくなる悲惨事への予兆なのかしらん、と、ずんずん疑心暗鬼が跳梁跋扈する。斉天大聖孫悟空を見習って屈託無く生きていきたい。
今、現在の、あられもない欲望は衷心から、正直な商売をしている郷土料理系居酒屋でとことん飲むこと…牛すじ煮込み、湯豆腐、地魚の刺身盛り合わせ、焼き鳥盛り合わせと郷土の鮓などを迷いなく注文してからまず生ビールをジョッキ三杯ぐいぐい、あらかた飲み食いしてほとぼりが冷めた後、静かに…烏賊の沖漬けと共に日本酒(純米吟醸)、冷やで行きたいところだが老いによる悪酔いしやすさを顧みて、熱燗…。
作詞:巻上公一
作曲:巻上公一、山下康、海琳正道
「half japanese/loud and horribble(1980?)dc270 」
もはや掛け値無しの無気力編に突入した感あり。既に記憶や日々の思索からはじかれて捨て置かれているその辺の音源をまさぐる状況、これも…何なのか。ロック史的出自や文脈などどうでもよい、きれいに開かれた無邪気のままに聴きたいと素朴に願う浅ましさに逡巡、辟易、階上の掃除機音と二つ隣の馬鹿犬の無駄吠え、季節の変わり目に吹き止まぬ風に年から年中嬲られ続けて折に触れて小生をイラつかせる風鈴の三つ巴が来襲するが、囲碁と競馬を無音で無言で眺めながら、午前の将棋の感想戦に思いを馳せる。生ごみ発生と共に馳せ参じるブヨ十数匹がトレーに滴る鳥肉の血合いの旨汁を無我夢中で舐めまわしている時を見計らって即座にゴミ袋の口を結ぶと、半透明のごみ袋の中で、閉じ込められたブヨが慌てふためく。来週の火曜日にはそのまま焼却炉の火炎地獄で成仏するに違いない。
ゴミに生まれゴミにありつきゴミに生きゴミと燃やされゴミとして死ぬ
厭離穢土欣求浄土。山川草木悉皆成仏。この事は以前にも書いた根多である。それを性懲り無く繰り返した。他人事ではないからであった。笠間で震度3。潤沢な親収入と高価なお抱え箔付け教師に恵まれた小奇麗な顔した若き音楽家たちの一夏のオーケストラ佐渡裕指揮。見るに堪えない醜女、醜男が徹底的に排除された絵面…清潔ゆえに薄汚い階級社会の片鱗…そんな連中にショスタコーヴィッチの何が分かるのか、ずれにずれて一周回って正常に見えるが首が360°回るのっぺらぼうの化け物が大手を振って街や会場を闊歩する、「絆」とか「おもてなし」とか「日本の技術」とか「日本人は誠実」だとかの妄想を幾らでも吹聴しながら…それに対してカウンター絶叫すればすぐさま鈍器で殴り倒されてゴミ捨て場送りにされそうな予感。目ざとい制度、それにもまして、それの醸成に一役買うべく率先して露払いに努めるプレゼン気違いの追従少壮社会学者どもが、言語固有のレッテル効果、社会科学以前に己が使う言葉への批評精神が端から幼いだけに、うまい事言い当てる悦びにまんまと夢中になる幼稚な言葉遊びに興じているだけなのに、その夢中が齎す言語の暴力を無自覚に蔓延させたのを見計らって先述の目ざとい制度が合意形成へと一網打尽されたのが民意とやら、そうした民意からの摘発とつるし上げが言論と世論データに還元された暁にはまずは前段階としてピンポイントで重税攻撃してくるのになす術がない時、ない時、ない時、追い詰められた時、やらざるを得なくなる予感に苛まれる。宛先の無い怒りが腹痛のように自分自身に襲いかかり、目つきだけは陰険に鋭くなる。
爽快な秋晴れが続く中、計画を緻密に立てれば立てるほど当日不意に駄目になりそうだし、かといって立てないなら立てないで当日にっちもさっちも行かないのは目に見えている。晴れが続くが当日暴風雨だと全ての計画がおじゃんになるから今の内にできればガス抜きという意味で少しくらい雨が降って欲しいとすら懇願する不安症。体言止めに行き先無し。
ベープ目に沁みて秋の蚊脚長し
二枚のLPあるいはEPのアルバムをCDで一つにカップリングしたもの。half japanese とか1/2 japaneseと表記される事が多いバンドだ。気の抜けたゴム風船を蹴り上げ続ける不毛な幼児的偏執性、険悪性を露わに、色の無い音をガラクタ、鉄屑の類へと還元させる。肉と瓦礫と命とリズムと歴史が、それぞれ固有の機能を喪失した上で、等価に打ち捨てられる消費のゴミ溜めを提唱した80年代パンクの爛熟仇花…それさえも嫌らしい自意識臭がするのは隔世の感として致し方無いのだろう。上手に枯れ切った尾崎放哉の句からは臭わないが、世捨て人を気取れば気取るほど厚ぼったい自意識の装飾から脱皮できぬ種田山頭火の句(=苦)からはプンプン臭う、あれだ。あんまり人の事は云えないけれども…。
白鳳31回目優勝。大横綱。横綱就任当初は横審が強要する「横綱の品格」「いったん相手を受け止めてから相手を倒す」というのを真に受けてしまったために負けが込む時期もあったが、その呪縛を断ち切り、立ち合いの踏み切りが形振り構わず鋭すぎる時期もあったがそれも通り過ぎ、最近はニュートラルな取り組みで確実にまわしを取って投げるか寄り切る横綱相撲である。
「modest mouse/sadsappysucker(1995)cpcd004」
ここ数年の今頃だったら10月末まで一晩中エアコンつけてないと部屋に籠った熱気で死ぬくらいだったが今年はまだ9月中旬の時点でエアコン要らず、虫の音がさやかに聞こえる。ずっと己にとって重苦しく、時に睡眠を妨げるほど抱え込んでいた懸案の、難儀な交渉事を、一見、軟着陸に落ち付けたか…まずは、第1段階突破おめでとう。しかしまだ完遂したわけじゃないので油断は禁物、事を為すにあたっては、ざっぱり些末を切り捨てて如何なる犠牲を払ってでも目的遂行のために、地道に、着実に、静かに、そして徹底的に、じっくり、ゆっくり、腰を据えて、事を、じわり、じわり、と、進めなければならないのだ。NHK日本戦後サブカルチャー史…忌忌しく思いながらきっちり視聴してしまう自分はもうどうしようもないが…エヴァについて生半可な「理解」を示したりしたら承知せんぞ、と、何の力の背景も無く凄んでいたがこちらが立腹するほどでもない表層的な論評に留まっていたのでひとまず安心する貧相な自分に嫌気すらささぬやけくそな気分ではあった。心臓病の特集のテレビ見ていると心臓がどきどきして、意識してしまったら自律神経が狂って止まるんじゃないかと怯える。そういえば小生の胃に生息するポリープは人間ドッグの度に「健康な胃にできるポリープですよ」と、良性扱いされて数年くらい放置されているが良性ポリープがいつしか「悪性」へと変質することはないのだろうか…良性だろうが何だろうが禍の芽は若いうちに摘んでおくべきなのか、同じ病院だとまた放置されそうだから病院を変えるべきなのか、億劫さがのしかかりつつ、ポリープの事が急に不安の種になり、酒が進まぬ。
華岡青洲の妻 ~ 碇ユイ(旧姓 綾波ユイ)…夫の、およそ常軌を逸した目的のために自分の身命を捧ぐ妻の系譜
どういう出自のバンドなのか、皆目分からぬ。なぜこれがここにあるのか記憶にないが兎に角部屋の隅に投げてあった代物を、ふと、再生装置にセットする。何の因果か僥倖化かはたまた陥穽か、賑やかしい夏フェスというものの出演が急遽決まった、まだ首筋が幼い、WASP家庭の軟弱大学生バンド風情…生産体制の地獄をいまだ己の生身で苦しみぬいたことのないながらも専ら知識と情報の中で純粋培養させただけはある、それなりの、厚みはないが薄刃なりに切れ味は鋭い先鋭を内にきらめかせつつ…彼らをしてもほとんど記憶に刻まれることのない、ファッションサイケ、インダストリアルサイケ風情の夏フェスが終わってしまった後の、人糞や空き缶、引き裂かれた衣服などが散乱するダダっ広い草原の片隅で車座、三々五々退却する客の流れとは別に、未練がましくフェスのほとぼりの落ち穂拾い、草原のそちこちで若者の集まりが即興演奏に興じるのか。巨大精巧な運営組織から電源も切られてかたなしのエレキ楽器の頼りない生音を、寛いだ雰囲気で気ままに爪弾くうちに…スカスカの、風通しのいい音楽が草いきれの残滓をさらうようにして、次第に燃え上がる一瞬が、ギタギタしいギターの捨て鉢なかき鳴らしから取りこぼされて、掠れるばかりの絶叫が、少し現場を離れたらば空気にのまれて聞こえなくなるあえなさ。いまだ人生の未経験に閉じ込められた、幼稚ながらも霜柱の結晶で大人の首筋を狙うくらいのイノセンスで無力な創意があった。長続きするまい、それでよいのであるが…。終わらないピクニック、その明るい暢気さを失わないおぞましさ。90年代の乾いた絶望が、図らずも、サイケデリアのマグマ溜まりへと通じる噴火口となりうるのか。
john wickhart:bass, guitar
dann gallucci:guitar
jereniah green:drums
issac brock:voice, guitar and oher instruments
stand up against myselfなれど…
近所の愛玩系馬鹿犬の無駄吠えがキャンキャンキャンキャン朝から晩まで断続的に止まず、一旦気にし出すとコメカミにボルト打ち込まれる具合にガンガン疼痛に苦しむ…以前、堪忍袋の緒が切れてその発生源の家に怒鳴り込んだ事があったが改善は見られず…しかし、先日偶然、その家の家人とばったり遭遇した折、家人から再度軽めの謝罪があった後、その後の経過を聞かれたが、不意を突かれて先手を打って直接言われると怒りがぽしゃって、結局人がいいのか間抜けなのか咄嗟に「最近はいい感じです」などと答えてしまい、…今頃になって、「まったく改善されてませんよ」とガツンと言ってやるべきだったと後悔するが…改善と云っても生来愚昧な飼い犬だから人のいう事など聞くはずもなく、無駄吠え認知症犬に限ってよその飼い手がつくとは思えぬ、なれば保健所のガス室送りが、アドルフから言われるまでもなく「最終的解決」なのだろう…そこまで今の飼い主が断行するとも思えず、解決にはこちらかあちらが逃散するしかない絶望の淵が居丈高に聳える。要は金か。金がない下層民だから苦しみが続くのか。
今日はもう、まとまりのある理屈の伽藍を捏ね上げるつもりはない…メモランダムの断章を刻むことにする。いい加減記憶から解放されたがっている無数の言葉が頭蓋に充満して熱運動著しく赤熱、寝つけない午前四時…目蓋閉じれども目蓋の裏の闇のかなたに焦点を結んで寝ながらにして瞳孔開きっぱなし、意識がシャットダウンしない…仕方ないから枕頭の盆燈籠を点灯して読書…ちなみに盆燈籠にはスイッチが無いから、直接コンセントに差し込まなければならないが、暗闇の中であの二つの細長い穴に差し込むのは結構難儀だった…そういえば、新約でも旧約でも「つぶやく」ことを何かと非難していたのを思い出した。かといって聖書世界では、神に向かって直接物申す事が許されているのではないのだが…当世ではツイッターが流行である。
戸川純/ゲルニカ ⇒ 椎名林檎/東京事変 …擬古主義の系譜
秋晴れの三連休、細君が家を飛び出し上方へ旅に出た…鬼の居ぬ間の何とやらで、蘭学関係の文献や明王朝末期の白話物語集などを腕が千切れるほどしこたま買い込む…安売り全集本のばら売りだから値段あたりの重量推して測るべし。日差しは残暑だが涼しさを増した風が吹き続けて気持ちいいのでつらつら、安穏と、将棋や競馬を無音で見ながら執筆している…独酌の余韻を楽しむべくアニメと韓国ドラマと日本のドラマとハリウッドしかないレンタル屋でDVDを借りる…先々週と先週、テレビの金曜ロードショーで視聴したので内容は熟知しているので漫然と呑みながら肴にできるとタカをくくって…エヴァの最新の劇場版「破」と「Q」を。ついでに、これも過去にアニメ、漫画ともに見たことあるが「AKIRA」も。
「破」と「Q」のエンディングテーマソングが宇多田ヒカルだった…宇多田ヒカルの歌は何かしら「業」を背負っているから聴きごたえがある…エヴァの「セカイ」観とも合っているのだろう、下らない事を云ったが…兎も角その点で、JUJUだとか小柳何某などとは雲泥の差で一線を画する。SEKAI NO OWARIってか、もうほんと死ぬほど下らない、ディズニーランドに監禁された閉所恐怖で狂い死ねってか。ふざけんな。井上日昭と血盟団が現在もご存命ならば政財界の要人ではなくエグザイルを標的にするだろう。自民党がゆるキャラや萌えキャラをわさわさ駆使しながらまるで何でもない事のように事態の重要度を誤魔化すべく軽く宥めすかすような、あるいは献血キャンペーンでの萌えキャラ登用のようなボランティア-な感覚の甘言で「あなたの人権、わたしにくださいっ!」「もう、人権なんて要らないよねっ!」的なセリフで萌えキャラ攻勢を仕掛け、人民も、むしろそれがいい事なんだ、国家の云う事にいちいち目くじら立てて反対するなんてなんかかっこ悪い、子供じゃないんだから、と思い込んで宥和される悪夢が正夢になる悪夢。(萌え専門じゃないのでうまいキャッチコピーを思いつかなかった)
物語を読み解く=現在を読み解く
小生如きがエヴァについて云ってもせいぜい巷間で論評されるレベルを超える事は出来そうにないので無駄とは思いつつ、キャラがそれぞれの思想を体現しているのはドストエフ数奇ーのカラマーゾフの兄弟を想起させたので整理がてらやっておく。いくらつまらん事だと思っていても、吐き出さない事には小生が睡眠障害起こすから。専ら自分のためです。書いて、きれいさっぱり忘れるため。
エヴァ「Q」について
定義:内面性=外界、環境、状況との差異ないしは齟齬による思案の横溢
社会性=①内的動機を外的動機に合わせる努力~②内的動機と外的動機との総合的一致、の範囲における種々の仕草
メガネっ娘の新キャラ→社会性②。生まれながらにして内面性ゼロ。傍観者的斜に構えつつ、それは内面的自我を防御する姿勢ではない。専ら社会性の範囲内で世事俗事を面白いか面白くないかで消費するタイプ。その、面白いか面白くないかの判断にも内面性ゼロ。恐らく、2010年以降の現代社会が最も提唱し、採用したがる人材タイプ。(このタイプ以外はばっさり切り捨てる殺伐とした荒野=2010年代以降)
アスカ→内面性の嵐に苛まれた過去を、いろいろあって克服し、今は社会性①のレベル。新キャラと協力して任務遂行することで社会性の向上をアピール。
シンジ→いまだに内面性の嵐の渦中。「Q」にあっては、「遅れてきた(迷える)90年代」その差異と齟齬によって物語の主体的駆動力となる。そうした状況を抱えながら、内面性と社会性との間を揺らぐ。
カヲル君→内面性を全肯定してくれる、社会性における特異点=希望。
綾波レイ→内面も社会性も無い、順応も反抗も去勢された、虚ろな器へと回帰したが、わずかに、接触不良による僥倖のように、内面性への回路が芽生えつつある。
物語の委細に踏み込むつもりもないが…「この世界には生きる意味も価値も何もない、一瞬の幸せはあるかもしれぬが基本ただ苦しいだけ、それでも、僕たちは生きていく」みたいな、今時の小学生以上を含めてもう世界中の人間が分かり切った、凡庸な物語をいったいどれだけ飽きもせず繰り返すのだろうか。
希望とは常に自身の手によって殺される。
舌を噛み千切りたくなるほど茶会したいが客の絶無には如何ともし難く…己の創意に走らず、素直に道具の滋味を味わうだけの寛いだ雰囲気の茶会を欲す…ままならぬので毎日、麦茶を絶やさないようにしている麦茶人に徹する。
昼寝が終わった馬鹿犬がやおら吠え始める…寝るか、吠えるかしかないのか、忌忌しい事この上ない。
結局ここまで与太話を長引かせたのも、記憶にないからであった…そして、もう、とうに終わってしまったこと、わざわざ振り返る必要などそもそも欲していない、その現場の一瞬にしか意義の無いライブなのであるから。破壊された残骸を、記憶の墓標に。書いていて何のやる気も出ない…
岩国ロックカントリー 2014年8月30日
「stand up against myself」
the polarizers→演奏技術はともかく、その音楽の業はまだまだ学園祭レベルであった。さらなる精進を乞う。業を背負う切迫感など結果として消尽してもよいが一度は通過する必要があるのかもしれない。生温かった。
Surf Vortex→非常に体幹のしっかりしたロック。速過ぎてゆっくりに見え、聴こえるくらい。湖上の白鳥の羽ばたきが優雅に見えるように。よいロック。
ジゲンオルガン→以前詳述した事もあるのでここで繰り返す事はない。これまでのロックの歴史をたとえるならば、半導体でいえば相対的に負の電荷が足りない局所の、「不在の流れ」とでもいうべき正孔型の電流に近いということを、小生は「王道なきロック史」と名付けここに展開しているが…つまり、ロック黎明期の音源を素直に聴いて演奏すれば自ずとそうなるであろうロックの「王道」=ガレージパンク~ハードロックの道筋、がある時点から「不在」となり、その不在がロックの系譜をなしているという現状分析を「王道なきロック史」といっており…そうした現状にあって彼らは、素直に、自由電子の流れを電流となす、「ロックの王道=凡庸」を地で行っている…屈託なく、地に足のつかぬ…これは先述の現状からすれば稀有である。しかしだからと言って体幹鍛えて間違いのない音を、その練度への自負と共に放出するのではなく、およそ定評ある芸がいつまでたっても板につかない不安定さを安定的に出している、という、奇怪を「へたうま」的表現へと開き直って収斂させない処に「筋」の通った美意識ないしは先鋭的尖りが聞こえはする、その匙加減は妙境を呈している。その筋とは畢竟、過去の音源を誠実に聴き続けた結果培われた率直であろう。いくら重低音を大音量で出そうとも音の本質が軽いのは上記に起因する音楽性としかいいようがない。なぜ軽いのか。その理由としてGS云々と影響関係をあげつらってもそうした御託はロックの本然とは関係ないとあえて一蹴しておく。
以下に挙げる2バンド(LIE-DOWN、めがほんず)は、音の内面的重さを爆音によって吹っ飛ばして軽くする力技(=核分裂)であるが、ジゲンオルガンはもともと内面性の薄い、軽い音を、爆音にすることで地上付近に留まるくらいの重さに調整しようとする力技(=核融合)である。核分裂と核融合、どちらが技術的に難しいかはよく知られているだろう。ただし、小生の耳がバカになったのか、今回は単純に少々怨霊が音量が足りなかった気がする。よいロック。
註:音の内面的重さ、あるいは軽さとは何か。詳述すればきりがないが、ここでは、人間を支配する習慣的な考え方の持続性即ち強制性が強固=重い、刹那的=軽いという意味でもよい。これは、信仰と自我と呪術といった概念でないと説明できないが、ただライブを聴いただけでそんな概念を援用するのは烏滸がましいとは思っている。
LIE-DOWN→記憶中枢が断線するほど爆音過ぎて本当に記憶に残っていない。だから本当は何も言えないのであるが、とにかく、荒んでいて、よいロック。客は客でそれぞれのやり方で聴いているのになにか客の態度を統制しようとする煽りがあって、嫌だった。座ってると怒られそうだったので、怒られると反撃するのが面倒なので致し方なく立って聴いたが、むしろそれへの自己嫌悪で、惨めな感情は残った。そうした煽りにも怯えずに泰然としていられるよう精進したいものだ。
めがほんず→爆音過ぎて本当に記憶に残っていない。だから本当は何も言えないのであるが、とにかく、荒んでいて、よいロック。
くだくだ書き殴ったが、一度吹き飛んだ記憶の残滓から、静かな部屋で純粋培養させた言葉の屑にさして意味があるとは思っていない。否、違う、記憶に残っていたのを一瞬で忘れた、のでさえなく、もともと記憶にさえも残っていないのである。だから、上述全て、捏造のそしりは免れないかもしれない。「よいロック」などという、ばかげた符丁を添付しているが、もう本当に、気持ちいいとか、昂揚した、とか、殺意を増した、とか、一切の傍観的感想が高速演奏とはち切れた絶叫とドスを利かせて突き上げてくる荒れたビートと音圧の殺伐によって吹っ飛んでしまっているのだから、どうしろというのか。小賢しくそれぞれの音楽性を分析するなど馬鹿馬鹿しいと思っている。今さら本物のロックに「至誠」の二字を冠する必要もあるまい。しかし、最後の2つのバンドは、低音のうなりとうねりが基本的には落ち着くというか、心地よかった。あと、最後の二つのバンドでは、第一次世界大戦の塹壕戦で精神を病んだ人の、常軌を逸した人間の動きの記録映像というのをすこぶる再現していた。みな、それぞれ、違う、それぞれに、よい、としか、云えない。記憶に残らない、ということが、要らぬ言説を寄せ付けぬ条件であるから、ロックのあるべき姿だと思う。そういう意味では、オープニングのバンド以外の4バンドはいずれも至宝である。我々聴衆こそはこうした至宝のバンドを贔屓しなければならぬのであり、聴衆が日々の生活の中で試される出番である。この度岩国ロックカントリーに聴きに来た方々の一人一人の命は、エグザイルを聴く千人ぶんの命よりも価値がある、一騎当千だと信じたい。生温い希望的観測なれど…。
来週はおでん作るぞ。
メイトーのかぼちゃプリンは絶品。
冷蔵庫の中で木綿豆腐一丁腐っていた。一緒に封入された水にとろみがつき、豆腐表面が糸を引く。捨てた。
今日はもう、まとまりのある理屈の伽藍を捏ね上げるつもりはない…メモランダムの断章を刻むことにする。いい加減記憶から解放されたがっている無数の言葉が頭蓋に充満して熱運動著しく赤熱、寝つけない午前四時…目蓋閉じれども目蓋の裏の闇のかなたに焦点を結んで寝ながらにして瞳孔開きっぱなし、意識がシャットダウンしない…仕方ないから枕頭の盆燈籠を点灯して読書…ちなみに盆燈籠にはスイッチが無いから、直接コンセントに差し込まなければならないが、暗闇の中であの二つの細長い穴に差し込むのは結構難儀だった…そういえば、新約でも旧約でも「つぶやく」ことを何かと非難していたのを思い出した。かといって聖書世界では、神に向かって直接物申す事が許されているのではないのだが…当世ではツイッターが流行である。
戸川純/ゲルニカ ⇒ 椎名林檎/東京事変 …擬古主義の系譜
秋晴れの三連休、細君が家を飛び出し上方へ旅に出た…鬼の居ぬ間の何とやらで、蘭学関係の文献や明王朝末期の白話物語集などを腕が千切れるほどしこたま買い込む…安売り全集本のばら売りだから値段あたりの重量推して測るべし。日差しは残暑だが涼しさを増した風が吹き続けて気持ちいいのでつらつら、安穏と、将棋や競馬を無音で見ながら執筆している…独酌の余韻を楽しむべくアニメと韓国ドラマと日本のドラマとハリウッドしかないレンタル屋でDVDを借りる…先々週と先週、テレビの金曜ロードショーで視聴したので内容は熟知しているので漫然と呑みながら肴にできるとタカをくくって…エヴァの最新の劇場版「破」と「Q」を。ついでに、これも過去にアニメ、漫画ともに見たことあるが「AKIRA」も。
「破」と「Q」のエンディングテーマソングが宇多田ヒカルだった…宇多田ヒカルの歌は何かしら「業」を背負っているから聴きごたえがある…エヴァの「セカイ」観とも合っているのだろう、下らない事を云ったが…兎も角その点で、JUJUだとか小柳何某などとは雲泥の差で一線を画する。SEKAI NO OWARIってか、もうほんと死ぬほど下らない、ディズニーランドに監禁された閉所恐怖で狂い死ねってか。ふざけんな。井上日昭と血盟団が現在もご存命ならば政財界の要人ではなくエグザイルを標的にするだろう。自民党がゆるキャラや萌えキャラをわさわさ駆使しながらまるで何でもない事のように事態の重要度を誤魔化すべく軽く宥めすかすような、あるいは献血キャンペーンでの萌えキャラ登用のようなボランティア-な感覚の甘言で「あなたの人権、わたしにくださいっ!」「もう、人権なんて要らないよねっ!」的なセリフで萌えキャラ攻勢を仕掛け、人民も、むしろそれがいい事なんだ、国家の云う事にいちいち目くじら立てて反対するなんてなんかかっこ悪い、子供じゃないんだから、と思い込んで宥和される悪夢が正夢になる悪夢。(萌え専門じゃないのでうまいキャッチコピーを思いつかなかった)
物語を読み解く=現在を読み解く
小生如きがエヴァについて云ってもせいぜい巷間で論評されるレベルを超える事は出来そうにないので無駄とは思いつつ、キャラがそれぞれの思想を体現しているのはドストエフ数奇ーのカラマーゾフの兄弟を想起させたので整理がてらやっておく。いくらつまらん事だと思っていても、吐き出さない事には小生が睡眠障害起こすから。専ら自分のためです。書いて、きれいさっぱり忘れるため。
エヴァ「Q」について
定義:内面性=外界、環境、状況との差異ないしは齟齬による思案の横溢
社会性=①内的動機を外的動機に合わせる努力~②内的動機と外的動機との総合的一致、の範囲における種々の仕草
メガネっ娘の新キャラ→社会性②。生まれながらにして内面性ゼロ。傍観者的斜に構えつつ、それは内面的自我を防御する姿勢ではない。専ら社会性の範囲内で世事俗事を面白いか面白くないかで消費するタイプ。その、面白いか面白くないかの判断にも内面性ゼロ。恐らく、2010年以降の現代社会が最も提唱し、採用したがる人材タイプ。(このタイプ以外はばっさり切り捨てる殺伐とした荒野=2010年代以降)
アスカ→内面性の嵐に苛まれた過去を、いろいろあって克服し、今は社会性①のレベル。新キャラと協力して任務遂行することで社会性の向上をアピール。
シンジ→いまだに内面性の嵐の渦中。「Q」にあっては、「遅れてきた(迷える)90年代」その差異と齟齬によって物語の主体的駆動力となる。そうした状況を抱えながら、内面性と社会性との間を揺らぐ。
カヲル君→内面性を全肯定してくれる、社会性における特異点=希望。
綾波レイ→内面も社会性も無い、順応も反抗も去勢された、虚ろな器へと回帰したが、わずかに、接触不良による僥倖のように、内面性への回路が芽生えつつある。
物語の委細に踏み込むつもりもないが…「この世界には生きる意味も価値も何もない、一瞬の幸せはあるかもしれぬが基本ただ苦しいだけ、それでも、僕たちは生きていく」みたいな、今時の小学生以上を含めてもう世界中の人間が分かり切った、凡庸な物語をいったいどれだけ飽きもせず繰り返すのだろうか。
希望とは常に自身の手によって殺される。
舌を噛み千切りたくなるほど茶会したいが客の絶無には如何ともし難く…己の創意に走らず、素直に道具の滋味を味わうだけの寛いだ雰囲気の茶会を欲す…ままならぬので毎日、麦茶を絶やさないようにしている麦茶人に徹する。
昼寝が終わった馬鹿犬がやおら吠え始める…寝るか、吠えるかしかないのか、忌忌しい事この上ない。
結局ここまで与太話を長引かせたのも、記憶にないからであった…そして、もう、とうに終わってしまったこと、わざわざ振り返る必要などそもそも欲していない、その現場の一瞬にしか意義の無いライブなのであるから。破壊された残骸を、記憶の墓標に。書いていて何のやる気も出ない…
岩国ロックカントリー 2014年8月30日
「stand up against myself」
the polarizers→演奏技術はともかく、その音楽の業はまだまだ学園祭レベルであった。さらなる精進を乞う。業を背負う切迫感など結果として消尽してもよいが一度は通過する必要があるのかもしれない。生温かった。
Surf Vortex→非常に体幹のしっかりしたロック。速過ぎてゆっくりに見え、聴こえるくらい。湖上の白鳥の羽ばたきが優雅に見えるように。よいロック。
ジゲンオルガン→以前詳述した事もあるのでここで繰り返す事はない。これまでのロックの歴史をたとえるならば、半導体でいえば相対的に負の電荷が足りない局所の、「不在の流れ」とでもいうべき正孔型の電流に近いということを、小生は「王道なきロック史」と名付けここに展開しているが…つまり、ロック黎明期の音源を素直に聴いて演奏すれば自ずとそうなるであろうロックの「王道」=ガレージパンク~ハードロックの道筋、がある時点から「不在」となり、その不在がロックの系譜をなしているという現状分析を「王道なきロック史」といっており…そうした現状にあって彼らは、素直に、自由電子の流れを電流となす、「ロックの王道=凡庸」を地で行っている…屈託なく、地に足のつかぬ…これは先述の現状からすれば稀有である。しかしだからと言って体幹鍛えて間違いのない音を、その練度への自負と共に放出するのではなく、およそ定評ある芸がいつまでたっても板につかない不安定さを安定的に出している、という、奇怪を「へたうま」的表現へと開き直って収斂させない処に「筋」の通った美意識ないしは先鋭的尖りが聞こえはする、その匙加減は妙境を呈している。その筋とは畢竟、過去の音源を誠実に聴き続けた結果培われた率直であろう。いくら重低音を大音量で出そうとも音の本質が軽いのは上記に起因する音楽性としかいいようがない。なぜ軽いのか。その理由としてGS云々と影響関係をあげつらってもそうした御託はロックの本然とは関係ないとあえて一蹴しておく。
以下に挙げる2バンド(LIE-DOWN、めがほんず)は、音の内面的重さを爆音によって吹っ飛ばして軽くする力技(=核分裂)であるが、ジゲンオルガンはもともと内面性の薄い、軽い音を、爆音にすることで地上付近に留まるくらいの重さに調整しようとする力技(=核融合)である。核分裂と核融合、どちらが技術的に難しいかはよく知られているだろう。ただし、小生の耳がバカになったのか、今回は単純に少々怨霊が音量が足りなかった気がする。よいロック。
註:音の内面的重さ、あるいは軽さとは何か。詳述すればきりがないが、ここでは、人間を支配する習慣的な考え方の持続性即ち強制性が強固=重い、刹那的=軽いという意味でもよい。これは、信仰と自我と呪術といった概念でないと説明できないが、ただライブを聴いただけでそんな概念を援用するのは烏滸がましいとは思っている。
LIE-DOWN→記憶中枢が断線するほど爆音過ぎて本当に記憶に残っていない。だから本当は何も言えないのであるが、とにかく、荒んでいて、よいロック。客は客でそれぞれのやり方で聴いているのになにか客の態度を統制しようとする煽りがあって、嫌だった。座ってると怒られそうだったので、怒られると反撃するのが面倒なので致し方なく立って聴いたが、むしろそれへの自己嫌悪で、惨めな感情は残った。そうした煽りにも怯えずに泰然としていられるよう精進したいものだ。
めがほんず→爆音過ぎて本当に記憶に残っていない。だから本当は何も言えないのであるが、とにかく、荒んでいて、よいロック。
くだくだ書き殴ったが、一度吹き飛んだ記憶の残滓から、静かな部屋で純粋培養させた言葉の屑にさして意味があるとは思っていない。否、違う、記憶に残っていたのを一瞬で忘れた、のでさえなく、もともと記憶にさえも残っていないのである。だから、上述全て、捏造のそしりは免れないかもしれない。「よいロック」などという、ばかげた符丁を添付しているが、もう本当に、気持ちいいとか、昂揚した、とか、殺意を増した、とか、一切の傍観的感想が高速演奏とはち切れた絶叫とドスを利かせて突き上げてくる荒れたビートと音圧の殺伐によって吹っ飛んでしまっているのだから、どうしろというのか。小賢しくそれぞれの音楽性を分析するなど馬鹿馬鹿しいと思っている。今さら本物のロックに「至誠」の二字を冠する必要もあるまい。しかし、最後の2つのバンドは、低音のうなりとうねりが基本的には落ち着くというか、心地よかった。あと、最後の二つのバンドでは、第一次世界大戦の塹壕戦で精神を病んだ人の、常軌を逸した人間の動きの記録映像というのをすこぶる再現していた。みな、それぞれ、違う、それぞれに、よい、としか、云えない。記憶に残らない、ということが、要らぬ言説を寄せ付けぬ条件であるから、ロックのあるべき姿だと思う。そういう意味では、オープニングのバンド以外の4バンドはいずれも至宝である。我々聴衆こそはこうした至宝のバンドを贔屓しなければならぬのであり、聴衆が日々の生活の中で試される出番である。この度岩国ロックカントリーに聴きに来た方々の一人一人の命は、エグザイルを聴く千人ぶんの命よりも価値がある、一騎当千だと信じたい。生温い希望的観測なれど…。
来週はおでん作るぞ。
メイトーのかぼちゃプリンは絶品。
冷蔵庫の中で木綿豆腐一丁腐っていた。一緒に封入された水にとろみがつき、豆腐表面が糸を引く。捨てた。
自民党憲法改正草案に反対する緊急声明 骨子
喀血のようにして、吐瀉物のようにして、いちどきに、まとまりなく下記の声明をぶちまけてしまった…たかだが一冊の新書の中の数行が小生の逆鱗に触れたのである。こんなにも月が美しい日曜日。
一体に事態がここまで窮迫しているとは思ってもみなかった…中国韓国が日本の昨今の右傾化、国粋主義、軍国主義復権を批判する声明を出す度に「そんなものあるか。またでっち上げで日本をこき下ろす事で国内事情の国益を謀るのか、そんな薄汚いデマを捏造するのはやめろ、いい加減、不満があるなら中日間、韓日間の政治担当者=当事者らが腹蔵無くとことん話し合え、それをせず首脳会談を拒否してばかりいる中韓の発言はもう純然たる日本への悪意と侮辱としか思えないぞ」と内心憤っていた…しかし…間違っていた。隣国の指摘の方が最早この国の内情と顛末を言い表すのに遥かに的を射ているのだ、と、ここにきて思い至った…頭に血が上って、最近は他にも色々とクリエイティブな事績に少なからず遭遇し意識が暴走して悶悶熱く眠れぬ夜、岩国=ロックカントリーでの奇蹟や、故あってレンタルして視聴したエヴァンゲリオンの1997年の劇場版二本立て(deth/(true)2 air/まごころを君に…)のえぐい法悦表現主義のクリエイティヴ絶頂…綾波ィッ…綾波ィッ…もう、「綾波」という字面の形で心臓が動悸を打つ心電図…それに加えて、三週連続で金曜ロードショウで最新のエヴァ劇場版も初見し、クリエイティヴィティを満喫した混乱もあり、そして…長年服用し続けても効いてるんだかどうなのか分かりゃしない漢方薬のような古典乃至は古文ばっかり精読している身には些か劇薬過ぎたのだろう…個人的に抱える深刻状況を更に誘発し兼ねない情報を聴いた時には本当に心臓に穴が開いたかのように胸の奥から血流が薔薇のような放射状にジターッと浸み広がる熱く苦しい感情に襲われ、それは兎も角として同じように心臓に穴が開いたように赤熱した動悸が放射されてしまったのは、故あって本屋で時間つぶしている時に何となくたまにはいいかと思って買ってしまった薄っぺらい新書本で、「リベラルじゃだめですか?」(香山リカ 著)を一晩で読了したのが、古典古文と比べて辞書的意味が全て分かる日本語で書かれているから、文意の吸収が速攻過ぎてあまりに効き過ぎる特効薬だったのか、感情は乱れに乱れ、意識はシャットダウンせず徒に暴走しては頭蓋の内壁に繰り返し激突しては糞襤褸の血塗れになる不様な養殖マグロのように不穏なのであった。
政府自民党の憲法改正草案…以前にもその草案中の表現の自由の項について言及、批判を加えた事がある。その内容は繰り返さないが要するに自民党は表現の自由を徹底的に弾圧する、というその内容への批判だった。しかしその当時小生は、自民党の中のとりわけ頭が悪い連中がうっかりミスでたまたま表現の自由についてはそれを弾圧する文意を書いてしまったのだろう、言葉の意味が如何に理解されるかを考慮せぬ愚昧だから、と、タカをくくっていた。しかし、そうではなかった…くも膜下出血の前兆のように感情がぐらぐら頭真っ白、煮え滾り激昂冷めやらぬ憤激に苛まれた… 政府自民党は…全く以て明証的に自覚的に現行憲法の根底を叩き壊して新たな、というか旧態の国家主義国家の創設を目論んでいるのが明白となっていた…そう、ちょび髭伍長のアドルフがその著書「マイン・カンプ」において己が成すべき事を全て赤裸々に明示していたのと同じように…ひぃふっ、と、…突如…くも膜下出血の血汐が引いて行くように熱狂が解れ跡形もなくなった後の無残な低調の心情に飲み込まれながらも物を書くにはやはりこうした底辺から舐め上げるが如き構えの方が安定を増す気がする…何の話だったか…そう…自民党は極めて自覚的且つ組織的に、本気で、憲法の中枢である基本的人権の項の根幹の思想的部分を壊滅させるつもりだ。国民主権を抹殺して国家主権へと挿げ替えようとしている。国民主権は現行の日本国憲法のみならず国連憲章を始め欧米その他の多くの諸国の近代憲法で自明とされてきていたことだが、それを、あっさりと、明白に、やめようというのである。しかも、その改悪を、それとは国民に気づかせない巧妙な組織的手筈で静かに、しかし着実に行おうとしているのは必至だ。絶妙なタイミングと馴れた手綱裁きでマスコミや公安、警察、司法、財界と結託しながら秘密裏にいつのまにか世論構築し絶対的に実行する覚悟であることが、自民党憲法草案を垣間見れば一目瞭然なのである。…自民党草案によれば、国民に主権があるのではない、あくまでも国家に主権があるのであって、国民は国家の奴隷であり、国家が要求する奉仕、責任、義務を果たす国民だけが、国家から、ご褒美=餌として、極めて制限された基本的人権が与えられる、というのを明記している。引用が遅れたがこういうことだ。(「リベラルじゃだめですか?」の孫引き)
自民党 日本国憲法改正草案 添付 Q&A集
Q14
「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務についてどのような方針で規定したのですか。
答え
(前略)権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。(後略)
自民党 片山さつき参議院議員のツイッタ―から
「国民が、権利は天から賦与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権説をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆で考えるような前文にしました!」
正気なのか。天賦人権説とは、人権が天から与えられた、即ち人間の社会関係から起因するシガラミとは無関係に、専ら人間そのものの意志のみによって生成したとする説である。この天賦人権説を否定して、公共の福祉とは別の価値観で作動する国家の恣意が人権を規定/規制する国賦人権説を取るというのか。国の歴史、文化、伝統などという曖昧な概念によって人権が規定されるという事は、そうした概念を意味づける国家の恣意が人権を規制するということと同じ意味である。そもそも憲法とは国家の上位にあって国家権力を規制し国民の主権と人権を保障するものであり、法治国家の謂いである。そうした憲法を国家の恣意の下に置こうとする事は法治国家たるを捨てるに等しい。国家が必ずしも国民に悪を成す必然は無いが善を成す必然も無い。そうした状況で、国家の恣意が国民の諸権利を蹂躙しうる可能性を憲法に仕組むという事はその時点で看過すべからざる人権侵害である。政権与党中枢から公開された文書に、このような、人間の尊厳を徹底的に踏みにじる言説が罷り通っていることへの驚愕と戦慄。こんな重大な事を、「~前文にしてみました!」などという軽い調子で済ます無神経にぞっとする。 人間は…自分らに突きつけられたあまりに深刻な事態、というものに直面した時、それをまともに受け止めた場合の恐怖と混乱を恐れて、それを見なかったことに、あるいは過小評価して失笑に付す欺瞞的皮肉的服従へと走りがちだが(いや、まさかこんなこと、本気じゃないんでしょう?的な。ナチスのユダヤ人絶滅政策を思い返せ。いくらアドルフが絶叫演説しようとも、実行に移されるまでは、誰も本気にしてなかった)、こんなのが公開されていて何故いまだに政権の支持率は安泰なのか…この状況の深刻さは小生でさえいまだ信じ難い、もう、手遅れなのかも…とすら悲観してしまう…。
上記草案の考え方の否定すべき処を改めて明記する必要など本来ないはずなのだが…全く前提が狂っている、しかも堂々と狂っているから意志が弱い人にとっては正しいのかと思わせてしまうほど、要は、人を殺しても罪になりません、と憲法草案で宣言しているのと同義なくらい、本当に笑えない、気違い沙汰だ。 何故ならこの草案の文言は、国家の統帥の名の下に人間性を破壊するものだからだ。そもそも国家とは概念ないしは機能に過ぎず、そんなものは実在しない。国家とは、あくまでも国民それぞれの幸福追求を達成するための概念あるいは機能に過ぎない。国民の下に国家が存在するのが正しいのであって、だから国家が国民の上位に来るのは根本的に誤っている。せいぜい自民党がいう国家とはGDPだの貿易収支だの出生率だのといった棒グラフや国土の絵図といった、人間の抽象の産物に過ぎないのだろう。さらに、愛国心、郷土愛などという独りよがりで不可解な観念の妄信を国家と云っているのであろう。後者は論外として、本来、そうした棒グラフや絵図を、数ある手法の中の一つの指針として、国民の幸福のために活用するものである。更に云えば、本来、国民の生活のビッグデータから得られたそうした棒グラフは単なる国民の積算値あるいは平均値に過ぎないのであって、個々の人間は一般論と平均値で生きているのではない、それぞれ固有の人生を生きているのであるからグラフが上がり下がりしようが個々の人間にとっては何の関係もない無効であるばかりか、個々の人間の人生を棒グラフの予測値に向けて統制させようとする人間弾圧である。棒グラフは抽象物であり、データである。データは常に、特定の少数の人間の解釈、とりわけそのデータの信頼性を背後で保証する権威的人間共同体からの解釈と承認を得て初めて意味を付与される。そして、ここで言う特定の、ごく少数の解釈者こそが、国家という隠れ蓑の背後で甘い汁を吸う一部の特権階級であり、要するに国民が国家の奴隷になるという事は一枚皮をはいで見たらば国民がこの少数の特権階級の奴隷になるという、民主制の暈を来た古色蒼然の専制独裁なのである。甘い汁というのは、恐らく、国民が国家に奉仕するというスペクタクルショーを安全な高い場所から独占的に楽しめるという自分中心的な倒錯的思想的悦楽と、そうした専制の旨みとしてもたらされる税収やそうした専制と当然ながら結託する市場経済からの進物としての利権であり、この甘い汁にあずかれるのは、国会議員と治安系公務員(司法も含む)、財界と天皇である。そういうシナリオが見え見えである。
だいたい、国民の権利が共同体の歴史、伝統、文化から徐々に生成された、というのは一体どこの歴史をいうのか。そんな事実は歴史上存在しないし、自民党の、悪びれないほど露骨な虚構である。伝統や文化から人権は生成されやしない。人権は専ら、伝統や文化といった惰性の現状肯定からは生成され得ず、現状に反し現状を変革しようとする意志ある人間の思想の産物である。基本的人権はブルジョア革命の過程において非連続的に生成し、一方的に宣言されて生成したものであり、共同体の慣習から無意識に連続的に醸成されたものではない。そこに至る様々な経緯の蓋然性は説明されるだろうがだからといってその説明で決定的な生成を明らかにすることは不可能であり、少なくとも生成という一点をとってみれば絶対的に非連続的非線形であり、まさに人間の意志の樹立といえる事こそが、西欧の、革命たる所以である。ルソーなどの個人が紡いだ思想がその萌芽をばらまいた、人間の人間たる思想の樹立である。他の諸国は日本も含めてその啓蒙思想の結果だけを受動的に導入したに過ぎない。基本的人権があらゆる理屈からのこき下ろしを排除する、理屈無しに人間の人間たるを保証する人間の意志であり近代の人間そのものなのである。そうした成果を頭ごなしに否定する野蛮な言説に負けることは出来ない。人権が国家の歴史、文化、伝統の理屈によって規定される時、人間は国家の、そしてその背後にいる合法的既得特権階級の思うがままの奴隷に成る事を強いられる。人権が国家の理屈や恣意で左右されるならばそこには最早、思想・信条の自由も表現の自由も抹殺されるだろう。思想や信条というべきものは国家の恣意への批判以外に有り得ないからだ。帝国憲法の顛末を見るべくも無く、憲法によって、装いも新たな治安維持法や国家総動員法が合憲になるだろう。これはもう…断じて許される文言ではない。
今ここで慌てふためいて反論に打って出なければ一体いつ人間を「取り戻す」のか。事態が成立に向けて「熟成」してしまってはもう成立したも同然であり、手遅れであり、如何なる反対論も抹殺されるのは目に見えている。反撃反論するのは、本当に今しかない、どうすればいいのかぱっとは思い浮かばないが反論の論陣を張るなどの実力行使するならば今しかないのである。
結局…基本的人権の啓蒙思想はまさに全く寄る辺ない人間の意志に依拠するものだから、意志と云うものをもたない人間が多数派を占める国家であるならばそれが瓦解するのは時間の問題だった、という事に尽きる、という絶望状況を直視しなければならない。そこに人間の意志は無く、主義でもイデオロギーでも何でもない惰性に過ぎない資本主義と市場原理に惰性で流され盲信、追従する多数派…上記の憲法草案の文言自体に問題があるのは当然だが、問題の本質はもっと根深い。民意を汲み取り先取りすることに長けた政権与党が作成した草案なのである…大多数の国民が、あの文言を一笑に付し、否定し去る状況というのか空気というのか、兎も角そういう状況であれば取り合えずあの文言の卑劣のみを批判しさえすれば事足りるのである。本当の問題は…あの憲法草案が、国民投票で承認されかねない、という一抹の不安を否定できる状況に無いことである。通過する可能性が、事ここに至って、時局として生じ始めたのである。文言を孫引きした新書…表層的な現状分析ばかりでなぜ今リベラルが瀕死なのか、の根底を探るには至っていないが現状分析としてリベラル勢力が弱小化しており、その挽回を図るのが極めて絶望的なほど、国家主義的「空気」が濃厚なのである。国家主義、惰性主義が多数派を占める現状日本なのである。あの手この手でどうあがいても今の日本ではリベラル勢力の復権が困難になっているという状況分析はよく分かった。ただし、なぜそうなったか、は、この新書では突っ込みきれていなかったが、小生の私見だと理由は単純である。安倍首相が日銀政策によって円高是正に成功した、という、数値ではっきりと示せる成果を出した、この一点に全ては起因するといっていい。円高是正→円安化への成功が、一挙にこの国の空気を変えた。アドルフをはじめ、ファシストはいつの世でも経済政策がうまいのだ。経済さえうまくやれば、「満足する民衆=時代の空気」の力を借りて、他の政策へのリベラルな異論の封殺など一気に片が付く。
自民党のやり方としては、現状を政策で以て憲法の精神に合わせて合憲にさせるという立憲主義とは真逆に、憲法を現状という既成事実に合わせる企みである。そして、これは陰謀説めくがあながち昨今の状況を見ると間違っていないと思われるが、政府が法整備に先立って懇意のマスコミなどに情報をリークすることで現状からの反応を見ながら情報を小出しにして現状を法に合うように成型加工した後に、その既成事実=民意をより盤石に固めるための総仕上げとして法案成立させる、という最悪の手法である。情報化社会とやらの実情は此れである。特定秘密保護法案、生活保護法改悪、派遣労働者法改悪、配偶者控除廃止の動き…。自衛隊は軍隊であるのは既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。日米安保は集団的自衛権行使という既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。そして最終的には…多数派の国民は意志を持たず思想・信条の自由も表現の自由も必要としていない、さっさと奴隷に成りたがっているのが既成事実なのだから憲法もそれに合わせる。即ち国民から、少数者が口やかましく言い張る基本的人権を憲法から剥奪する。そういうシナリオである。さらっと書いてしまったが、そう、結局…日本人の中では既に、思想・信条の自由や表現の自由、言論の自由が必要だ、と考える人間はごく少数なのである。そして、唯我独尊生存欲求⇒金儲け⇒市場原理の惰性に汚染された多数決民主主義において少数者の権利保護という観点は消失する、というか保護しなければならないという、人間の、ある種惰性に反する意志を樹立することが出来やしない、意志薄弱の多数派からすればそうした保護政策をリストラするのが必然なのである。かつて吉本隆明の転向論から想起して小生の「荒み宣言」にも書いた事だが、食うに困り空襲に怯えども基本的人権など無くても困りやしない、それなりにぬくぬくと狡猾に戦時中を生き延びていったのが、「大衆という実存」なのであった。
もっと言えば、国家の背後で甘い汁吸う特権階級、と云う風に最終原因を前述で措定したが、それさえも本当は虚構に過ぎない。安倍氏、石破氏を政権から引きずり落とせば事態の悪化が防げる、というものではないのである。しかしだからといって、安部氏、石破氏などという政治家個人を眼中に置かぬ超然主義はただ隷属を待つのと同じである。彼らとて、彼らに協力する数多の権益団体とて、その行動原理の主体は…煙に巻かれている…それこそ、…戦時中によく云われた、開戦前夜の「空気」みたいなもので…その空気がある一線で絶頂に達した時、状況は一挙に傾斜する。小生は何も自民党の政策に片っ端から反対と云っているのではない。政策によっては悪くないのもあろう…しかし、この憲法改正案だけは断じて許す訳にはいかない。という事は、最終的にこの憲法改正草案を成立させるために少しずつ外堀を埋めるが如き、政権与党の、実に巧みな、隠密裏の、「空気作り」「既成事実化」の煽動工作の一つ一つを丹念に発見しては過敏に反応しなければならないだろう。この改正草案が国会に提出された時、それは、国民投票も含めて「この草案が成立する」という確信を政府与党が得た時である…成立させるための地ならしに、今の与党なら余念はないだろう…今はその地ならしが少しずつ、それとは気づかずに行われていると見るべきだろう…口の軽い麻生氏が「ワイマール憲法をいつの間にか無効にしたナチスの手法から学ぶべきだ」と発言したように。
それと、多数派と少数派、という乱暴な民衆規定のせいで、少数派にとっての上記のような絶望状況が論理的に免れないのではないかという懐疑もあるかもしれない。だが…最早…認識とは常に人間の主体的な構成によるものといえど、いくらスマートな社会科学モデルがマイルドな共同体モデルを提起しようともそれが、ここで言われているレベルでの現状認識(存在論から問われるガチの認識論の対象ではない、ごく通俗的な共通認識…)の変更を余儀なくされるとはどうしても思えない。たとえばエグザイルや関ジャニのような下劣音楽の下に数万人集まるのに対し、8/30岩国での、これ以上突き詰めようもないほど最高至宝の音楽の下には数十人しかいない、というあられもない現実に対し、多数派、少数派という規定をしており、芸術においてのその意味は別稿を割くとして、とかく政治においてはこの規定この現実の持つ意味は甚大としか言いようのないのである。多数決だから。
時局はこれほどまでに深刻化しているとは、本当に知らなかった。その打開は、正直言って絶望的である。最早、状勢を楽観視することは慎まなければならない。戦前戦中の事件と、現在目に余る時事との共通符号を数え上げればきりがないかもしれない。それほど切迫している。最近の、とち狂ったように増え続ける、日本礼賛テレビ番組なども本当に気持ち悪い(日本の文化は素晴らしい。日本人は礼儀正しい。日本の技術は凄い、…)…国連脱退前夜に「日本人はなぜ偉いか」的な著作喧伝が溢れかえり極めつけに理論づけた日本ロマン派の勃興という事実…この絶望状況の時局、如何に生きるべきか。ガチで直面すべき時はとっくに訪れた。そのことを、8/30の、岩国ロックカントリーでの出来事を通して、涙ぐましくも、ぎりぎり、論じたいと思う。演奏が終わってしまえばその音楽は終わってしまう…記憶の中の音楽など、あの現場での現実に比べたら遺骨のようなもの…まるで無かった事にされるかのように…しかし、終わらせはしまい、限りなくゼロに近い文筆の微力で以て刻印すべし…次回、再びstand up against myself!
一体に事態がここまで窮迫しているとは思ってもみなかった…中国韓国が日本の昨今の右傾化、国粋主義、軍国主義復権を批判する声明を出す度に「そんなものあるか。またでっち上げで日本をこき下ろす事で国内事情の国益を謀るのか、そんな薄汚いデマを捏造するのはやめろ、いい加減、不満があるなら中日間、韓日間の政治担当者=当事者らが腹蔵無くとことん話し合え、それをせず首脳会談を拒否してばかりいる中韓の発言はもう純然たる日本への悪意と侮辱としか思えないぞ」と内心憤っていた…しかし…間違っていた。隣国の指摘の方が最早この国の内情と顛末を言い表すのに遥かに的を射ているのだ、と、ここにきて思い至った…頭に血が上って、最近は他にも色々とクリエイティブな事績に少なからず遭遇し意識が暴走して悶悶熱く眠れぬ夜、岩国=ロックカントリーでの奇蹟や、故あってレンタルして視聴したエヴァンゲリオンの1997年の劇場版二本立て(deth/(true)2 air/まごころを君に…)のえぐい法悦表現主義のクリエイティヴ絶頂…綾波ィッ…綾波ィッ…もう、「綾波」という字面の形で心臓が動悸を打つ心電図…それに加えて、三週連続で金曜ロードショウで最新のエヴァ劇場版も初見し、クリエイティヴィティを満喫した混乱もあり、そして…長年服用し続けても効いてるんだかどうなのか分かりゃしない漢方薬のような古典乃至は古文ばっかり精読している身には些か劇薬過ぎたのだろう…個人的に抱える深刻状況を更に誘発し兼ねない情報を聴いた時には本当に心臓に穴が開いたかのように胸の奥から血流が薔薇のような放射状にジターッと浸み広がる熱く苦しい感情に襲われ、それは兎も角として同じように心臓に穴が開いたように赤熱した動悸が放射されてしまったのは、故あって本屋で時間つぶしている時に何となくたまにはいいかと思って買ってしまった薄っぺらい新書本で、「リベラルじゃだめですか?」(香山リカ 著)を一晩で読了したのが、古典古文と比べて辞書的意味が全て分かる日本語で書かれているから、文意の吸収が速攻過ぎてあまりに効き過ぎる特効薬だったのか、感情は乱れに乱れ、意識はシャットダウンせず徒に暴走しては頭蓋の内壁に繰り返し激突しては糞襤褸の血塗れになる不様な養殖マグロのように不穏なのであった。
政府自民党の憲法改正草案…以前にもその草案中の表現の自由の項について言及、批判を加えた事がある。その内容は繰り返さないが要するに自民党は表現の自由を徹底的に弾圧する、というその内容への批判だった。しかしその当時小生は、自民党の中のとりわけ頭が悪い連中がうっかりミスでたまたま表現の自由についてはそれを弾圧する文意を書いてしまったのだろう、言葉の意味が如何に理解されるかを考慮せぬ愚昧だから、と、タカをくくっていた。しかし、そうではなかった…くも膜下出血の前兆のように感情がぐらぐら頭真っ白、煮え滾り激昂冷めやらぬ憤激に苛まれた… 政府自民党は…全く以て明証的に自覚的に現行憲法の根底を叩き壊して新たな、というか旧態の国家主義国家の創設を目論んでいるのが明白となっていた…そう、ちょび髭伍長のアドルフがその著書「マイン・カンプ」において己が成すべき事を全て赤裸々に明示していたのと同じように…ひぃふっ、と、…突如…くも膜下出血の血汐が引いて行くように熱狂が解れ跡形もなくなった後の無残な低調の心情に飲み込まれながらも物を書くにはやはりこうした底辺から舐め上げるが如き構えの方が安定を増す気がする…何の話だったか…そう…自民党は極めて自覚的且つ組織的に、本気で、憲法の中枢である基本的人権の項の根幹の思想的部分を壊滅させるつもりだ。国民主権を抹殺して国家主権へと挿げ替えようとしている。国民主権は現行の日本国憲法のみならず国連憲章を始め欧米その他の多くの諸国の近代憲法で自明とされてきていたことだが、それを、あっさりと、明白に、やめようというのである。しかも、その改悪を、それとは国民に気づかせない巧妙な組織的手筈で静かに、しかし着実に行おうとしているのは必至だ。絶妙なタイミングと馴れた手綱裁きでマスコミや公安、警察、司法、財界と結託しながら秘密裏にいつのまにか世論構築し絶対的に実行する覚悟であることが、自民党憲法草案を垣間見れば一目瞭然なのである。…自民党草案によれば、国民に主権があるのではない、あくまでも国家に主権があるのであって、国民は国家の奴隷であり、国家が要求する奉仕、責任、義務を果たす国民だけが、国家から、ご褒美=餌として、極めて制限された基本的人権が与えられる、というのを明記している。引用が遅れたがこういうことだ。(「リベラルじゃだめですか?」の孫引き)
自民党 日本国憲法改正草案 添付 Q&A集
Q14
「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務についてどのような方針で規定したのですか。
答え
(前略)権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。(後略)
自民党 片山さつき参議院議員のツイッタ―から
「国民が、権利は天から賦与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権説をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆で考えるような前文にしました!」
正気なのか。天賦人権説とは、人権が天から与えられた、即ち人間の社会関係から起因するシガラミとは無関係に、専ら人間そのものの意志のみによって生成したとする説である。この天賦人権説を否定して、公共の福祉とは別の価値観で作動する国家の恣意が人権を規定/規制する国賦人権説を取るというのか。国の歴史、文化、伝統などという曖昧な概念によって人権が規定されるという事は、そうした概念を意味づける国家の恣意が人権を規制するということと同じ意味である。そもそも憲法とは国家の上位にあって国家権力を規制し国民の主権と人権を保障するものであり、法治国家の謂いである。そうした憲法を国家の恣意の下に置こうとする事は法治国家たるを捨てるに等しい。国家が必ずしも国民に悪を成す必然は無いが善を成す必然も無い。そうした状況で、国家の恣意が国民の諸権利を蹂躙しうる可能性を憲法に仕組むという事はその時点で看過すべからざる人権侵害である。政権与党中枢から公開された文書に、このような、人間の尊厳を徹底的に踏みにじる言説が罷り通っていることへの驚愕と戦慄。こんな重大な事を、「~前文にしてみました!」などという軽い調子で済ます無神経にぞっとする。 人間は…自分らに突きつけられたあまりに深刻な事態、というものに直面した時、それをまともに受け止めた場合の恐怖と混乱を恐れて、それを見なかったことに、あるいは過小評価して失笑に付す欺瞞的皮肉的服従へと走りがちだが(いや、まさかこんなこと、本気じゃないんでしょう?的な。ナチスのユダヤ人絶滅政策を思い返せ。いくらアドルフが絶叫演説しようとも、実行に移されるまでは、誰も本気にしてなかった)、こんなのが公開されていて何故いまだに政権の支持率は安泰なのか…この状況の深刻さは小生でさえいまだ信じ難い、もう、手遅れなのかも…とすら悲観してしまう…。
上記草案の考え方の否定すべき処を改めて明記する必要など本来ないはずなのだが…全く前提が狂っている、しかも堂々と狂っているから意志が弱い人にとっては正しいのかと思わせてしまうほど、要は、人を殺しても罪になりません、と憲法草案で宣言しているのと同義なくらい、本当に笑えない、気違い沙汰だ。 何故ならこの草案の文言は、国家の統帥の名の下に人間性を破壊するものだからだ。そもそも国家とは概念ないしは機能に過ぎず、そんなものは実在しない。国家とは、あくまでも国民それぞれの幸福追求を達成するための概念あるいは機能に過ぎない。国民の下に国家が存在するのが正しいのであって、だから国家が国民の上位に来るのは根本的に誤っている。せいぜい自民党がいう国家とはGDPだの貿易収支だの出生率だのといった棒グラフや国土の絵図といった、人間の抽象の産物に過ぎないのだろう。さらに、愛国心、郷土愛などという独りよがりで不可解な観念の妄信を国家と云っているのであろう。後者は論外として、本来、そうした棒グラフや絵図を、数ある手法の中の一つの指針として、国民の幸福のために活用するものである。更に云えば、本来、国民の生活のビッグデータから得られたそうした棒グラフは単なる国民の積算値あるいは平均値に過ぎないのであって、個々の人間は一般論と平均値で生きているのではない、それぞれ固有の人生を生きているのであるからグラフが上がり下がりしようが個々の人間にとっては何の関係もない無効であるばかりか、個々の人間の人生を棒グラフの予測値に向けて統制させようとする人間弾圧である。棒グラフは抽象物であり、データである。データは常に、特定の少数の人間の解釈、とりわけそのデータの信頼性を背後で保証する権威的人間共同体からの解釈と承認を得て初めて意味を付与される。そして、ここで言う特定の、ごく少数の解釈者こそが、国家という隠れ蓑の背後で甘い汁を吸う一部の特権階級であり、要するに国民が国家の奴隷になるという事は一枚皮をはいで見たらば国民がこの少数の特権階級の奴隷になるという、民主制の暈を来た古色蒼然の専制独裁なのである。甘い汁というのは、恐らく、国民が国家に奉仕するというスペクタクルショーを安全な高い場所から独占的に楽しめるという自分中心的な倒錯的思想的悦楽と、そうした専制の旨みとしてもたらされる税収やそうした専制と当然ながら結託する市場経済からの進物としての利権であり、この甘い汁にあずかれるのは、国会議員と治安系公務員(司法も含む)、財界と天皇である。そういうシナリオが見え見えである。
だいたい、国民の権利が共同体の歴史、伝統、文化から徐々に生成された、というのは一体どこの歴史をいうのか。そんな事実は歴史上存在しないし、自民党の、悪びれないほど露骨な虚構である。伝統や文化から人権は生成されやしない。人権は専ら、伝統や文化といった惰性の現状肯定からは生成され得ず、現状に反し現状を変革しようとする意志ある人間の思想の産物である。基本的人権はブルジョア革命の過程において非連続的に生成し、一方的に宣言されて生成したものであり、共同体の慣習から無意識に連続的に醸成されたものではない。そこに至る様々な経緯の蓋然性は説明されるだろうがだからといってその説明で決定的な生成を明らかにすることは不可能であり、少なくとも生成という一点をとってみれば絶対的に非連続的非線形であり、まさに人間の意志の樹立といえる事こそが、西欧の、革命たる所以である。ルソーなどの個人が紡いだ思想がその萌芽をばらまいた、人間の人間たる思想の樹立である。他の諸国は日本も含めてその啓蒙思想の結果だけを受動的に導入したに過ぎない。基本的人権があらゆる理屈からのこき下ろしを排除する、理屈無しに人間の人間たるを保証する人間の意志であり近代の人間そのものなのである。そうした成果を頭ごなしに否定する野蛮な言説に負けることは出来ない。人権が国家の歴史、文化、伝統の理屈によって規定される時、人間は国家の、そしてその背後にいる合法的既得特権階級の思うがままの奴隷に成る事を強いられる。人権が国家の理屈や恣意で左右されるならばそこには最早、思想・信条の自由も表現の自由も抹殺されるだろう。思想や信条というべきものは国家の恣意への批判以外に有り得ないからだ。帝国憲法の顛末を見るべくも無く、憲法によって、装いも新たな治安維持法や国家総動員法が合憲になるだろう。これはもう…断じて許される文言ではない。
今ここで慌てふためいて反論に打って出なければ一体いつ人間を「取り戻す」のか。事態が成立に向けて「熟成」してしまってはもう成立したも同然であり、手遅れであり、如何なる反対論も抹殺されるのは目に見えている。反撃反論するのは、本当に今しかない、どうすればいいのかぱっとは思い浮かばないが反論の論陣を張るなどの実力行使するならば今しかないのである。
結局…基本的人権の啓蒙思想はまさに全く寄る辺ない人間の意志に依拠するものだから、意志と云うものをもたない人間が多数派を占める国家であるならばそれが瓦解するのは時間の問題だった、という事に尽きる、という絶望状況を直視しなければならない。そこに人間の意志は無く、主義でもイデオロギーでも何でもない惰性に過ぎない資本主義と市場原理に惰性で流され盲信、追従する多数派…上記の憲法草案の文言自体に問題があるのは当然だが、問題の本質はもっと根深い。民意を汲み取り先取りすることに長けた政権与党が作成した草案なのである…大多数の国民が、あの文言を一笑に付し、否定し去る状況というのか空気というのか、兎も角そういう状況であれば取り合えずあの文言の卑劣のみを批判しさえすれば事足りるのである。本当の問題は…あの憲法草案が、国民投票で承認されかねない、という一抹の不安を否定できる状況に無いことである。通過する可能性が、事ここに至って、時局として生じ始めたのである。文言を孫引きした新書…表層的な現状分析ばかりでなぜ今リベラルが瀕死なのか、の根底を探るには至っていないが現状分析としてリベラル勢力が弱小化しており、その挽回を図るのが極めて絶望的なほど、国家主義的「空気」が濃厚なのである。国家主義、惰性主義が多数派を占める現状日本なのである。あの手この手でどうあがいても今の日本ではリベラル勢力の復権が困難になっているという状況分析はよく分かった。ただし、なぜそうなったか、は、この新書では突っ込みきれていなかったが、小生の私見だと理由は単純である。安倍首相が日銀政策によって円高是正に成功した、という、数値ではっきりと示せる成果を出した、この一点に全ては起因するといっていい。円高是正→円安化への成功が、一挙にこの国の空気を変えた。アドルフをはじめ、ファシストはいつの世でも経済政策がうまいのだ。経済さえうまくやれば、「満足する民衆=時代の空気」の力を借りて、他の政策へのリベラルな異論の封殺など一気に片が付く。
自民党のやり方としては、現状を政策で以て憲法の精神に合わせて合憲にさせるという立憲主義とは真逆に、憲法を現状という既成事実に合わせる企みである。そして、これは陰謀説めくがあながち昨今の状況を見ると間違っていないと思われるが、政府が法整備に先立って懇意のマスコミなどに情報をリークすることで現状からの反応を見ながら情報を小出しにして現状を法に合うように成型加工した後に、その既成事実=民意をより盤石に固めるための総仕上げとして法案成立させる、という最悪の手法である。情報化社会とやらの実情は此れである。特定秘密保護法案、生活保護法改悪、派遣労働者法改悪、配偶者控除廃止の動き…。自衛隊は軍隊であるのは既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。日米安保は集団的自衛権行使という既成事実なのだから憲法をそれに合わせる。そして最終的には…多数派の国民は意志を持たず思想・信条の自由も表現の自由も必要としていない、さっさと奴隷に成りたがっているのが既成事実なのだから憲法もそれに合わせる。即ち国民から、少数者が口やかましく言い張る基本的人権を憲法から剥奪する。そういうシナリオである。さらっと書いてしまったが、そう、結局…日本人の中では既に、思想・信条の自由や表現の自由、言論の自由が必要だ、と考える人間はごく少数なのである。そして、唯我独尊生存欲求⇒金儲け⇒市場原理の惰性に汚染された多数決民主主義において少数者の権利保護という観点は消失する、というか保護しなければならないという、人間の、ある種惰性に反する意志を樹立することが出来やしない、意志薄弱の多数派からすればそうした保護政策をリストラするのが必然なのである。かつて吉本隆明の転向論から想起して小生の「荒み宣言」にも書いた事だが、食うに困り空襲に怯えども基本的人権など無くても困りやしない、それなりにぬくぬくと狡猾に戦時中を生き延びていったのが、「大衆という実存」なのであった。
もっと言えば、国家の背後で甘い汁吸う特権階級、と云う風に最終原因を前述で措定したが、それさえも本当は虚構に過ぎない。安倍氏、石破氏を政権から引きずり落とせば事態の悪化が防げる、というものではないのである。しかしだからといって、安部氏、石破氏などという政治家個人を眼中に置かぬ超然主義はただ隷属を待つのと同じである。彼らとて、彼らに協力する数多の権益団体とて、その行動原理の主体は…煙に巻かれている…それこそ、…戦時中によく云われた、開戦前夜の「空気」みたいなもので…その空気がある一線で絶頂に達した時、状況は一挙に傾斜する。小生は何も自民党の政策に片っ端から反対と云っているのではない。政策によっては悪くないのもあろう…しかし、この憲法改正案だけは断じて許す訳にはいかない。という事は、最終的にこの憲法改正草案を成立させるために少しずつ外堀を埋めるが如き、政権与党の、実に巧みな、隠密裏の、「空気作り」「既成事実化」の煽動工作の一つ一つを丹念に発見しては過敏に反応しなければならないだろう。この改正草案が国会に提出された時、それは、国民投票も含めて「この草案が成立する」という確信を政府与党が得た時である…成立させるための地ならしに、今の与党なら余念はないだろう…今はその地ならしが少しずつ、それとは気づかずに行われていると見るべきだろう…口の軽い麻生氏が「ワイマール憲法をいつの間にか無効にしたナチスの手法から学ぶべきだ」と発言したように。
それと、多数派と少数派、という乱暴な民衆規定のせいで、少数派にとっての上記のような絶望状況が論理的に免れないのではないかという懐疑もあるかもしれない。だが…最早…認識とは常に人間の主体的な構成によるものといえど、いくらスマートな社会科学モデルがマイルドな共同体モデルを提起しようともそれが、ここで言われているレベルでの現状認識(存在論から問われるガチの認識論の対象ではない、ごく通俗的な共通認識…)の変更を余儀なくされるとはどうしても思えない。たとえばエグザイルや関ジャニのような下劣音楽の下に数万人集まるのに対し、8/30岩国での、これ以上突き詰めようもないほど最高至宝の音楽の下には数十人しかいない、というあられもない現実に対し、多数派、少数派という規定をしており、芸術においてのその意味は別稿を割くとして、とかく政治においてはこの規定この現実の持つ意味は甚大としか言いようのないのである。多数決だから。
時局はこれほどまでに深刻化しているとは、本当に知らなかった。その打開は、正直言って絶望的である。最早、状勢を楽観視することは慎まなければならない。戦前戦中の事件と、現在目に余る時事との共通符号を数え上げればきりがないかもしれない。それほど切迫している。最近の、とち狂ったように増え続ける、日本礼賛テレビ番組なども本当に気持ち悪い(日本の文化は素晴らしい。日本人は礼儀正しい。日本の技術は凄い、…)…国連脱退前夜に「日本人はなぜ偉いか」的な著作喧伝が溢れかえり極めつけに理論づけた日本ロマン派の勃興という事実…この絶望状況の時局、如何に生きるべきか。ガチで直面すべき時はとっくに訪れた。そのことを、8/30の、岩国ロックカントリーでの出来事を通して、涙ぐましくも、ぎりぎり、論じたいと思う。演奏が終わってしまえばその音楽は終わってしまう…記憶の中の音楽など、あの現場での現実に比べたら遺骨のようなもの…まるで無かった事にされるかのように…しかし、終わらせはしまい、限りなくゼロに近い文筆の微力で以て刻印すべし…次回、再びstand up against myself!
「animal rights benefit(1990)zb001」
他にも飲酒の機会に多々恵まれたためか過剰摂取されたアルコールがビタミンB系の吸収を阻害したためか直結する因果応報でいつもの箇所の左下唇裏側に辛い口内炎を発症、飲食の度に容赦なく沁みる激痛、加えて口内炎による顎回りの筋肉の引き攣りによってこめかみに六角ボルトを打ち込まれるぎりぎりした頭痛と慢性的な首筋の疼痛(いっそ頭を帯のようなもので吊るせば頭部の荷重が首に掛からなくて一思いに楽になるのか)が口内炎によって更なる劣悪化で苦痛が堪え難いにも関わらず罪に罪を、罰に罰を加える所業やまぬのか抑え効かずポテトチップス「ディーポ」暴食したためシチリア産の極上岩塩が口内炎をピンポイントで炎上、悲しみの感情とは乖離した、純然たる痛みの涙を目尻に溜めた…何をするでもない、さもしい市民の野次馬根性を満たすためのマスコミのヘリが毎朝七時から終日うるさくてかなわぬ。噛み砕いたビタミン剤をウヰスキーで嚥下しながら、口に含んで口内炎を痺れさせて消毒させる…すると、防汚性に優れた如何なる便器をも染め付けかねないほど毒々しい蛍光イエローの尿が出る。いずれにしても口内の荒れと頭痛がひどく、耐え難い。
粘り気がなく、ぱさぱさなマサ土。…だからこの地方では焼物が出来ない→焼物が駄目だから文化的にも不毛になる、という風に腑に落ちる…亡くなった方の氏名表示(特に高齢者)に、男の場合は「無職 〇〇〇〇」「会社員 〇〇〇〇」と示すのに女だったら「〇〇〇〇」、と名前しか表示せず無職とか会社員とかの肩書き表示が免除されているのは何故か。マスコミの公然たる男女差別である。大声のような脱糞の後、断続的な土砂崩れのような下痢にも襲われたのは何故か。結局「じゃりン子チエ」と「はだしのゲン」のコスプレイヤーが出現しない、その程度のレベルのコミケなど、自分にとっては何の価値も無い。自分がやるべきだったのだろうが、過去に一冊も売れなかった悲しい実績の現場でコスに現をぬかす余裕はなかったし、細君にチエのコスチュームプレイをやっていただくのは忍びなかった…ちなみにテレビ東京の鑑定団では出演する高齢者は男女の別なく「無職」等の肩書きを冠していた。
鉄子の旅、という、鉄道好きの女性を鉄子と名付けた嚆矢の漫画があるがそこでラディカル・鉄の横見さんが「レールクイーン」なる新ジャンルを渇望する。文脈を読み取るとレールクイーンとは鉄道に興味はあるけれどもまだそこまでディープな鉄道知識を有していない女子に限られ…要するに鉄ヲタ殿が「育てる」ことが可能な範囲内の、愛玩対象である。NHKの土曜日の夜でも同じ構図が確認された「ニッポン戦後サブカルチャー史」…講師役の人が、誰でも知ってるような一般的な芸能史年表を、何も知らないが少しは知っているし興味もある若者相手に、反撃される恐れがないのを見越してしゃべくり満足する構図…サブカルというエサを介在させた、愛玩者のおっさんと被愛玩者の若者との生温い馴れ合いの愛玩関係の臭気が耐え難いものだった。丸山眞男の講義録「日本政治思想史1967」はスリルに満ちている…教授が、その時々の研究成果の最高の到達点を、講義という形で共時的に惜しげもなく学生に披露しているのではないかと思われるくらい、臨場感溢れる真摯な有り様がびんびん伝わってくる…
1930年代ドイツ社会派風の画風…街頭の強烈な光なれど夜を照らすどころか闇を殊更に獰猛にする夜道…後ろめたそうに足早にマクドナルドを持ち帰る男を追尾するのは…恐らくそのマックの食材にされた物言わぬ動物たちの呪詛…作者忘れたが「動物農場」というSFを思わせる絶望的皮肉の…口内炎の炎症が上顎の歯肉や首筋、こめかみの痛苦を併発して物に集中できぬ苛立ちが切っ先、常態的な内的人生苦の妄想も徒に暗雲増幅され捨て鉢で遣る瀬無い苦しみに呵責され…無暗に赤熱する一方…見やると…ジャケ買いだったのか…ずっと部屋の隅に転がしたままよく聴いたことはなかった、そして遠い昔、東京のアナキズム屋さんで購入した事も思い出した。透明でも濁りでもない霧が高速でさーさー流れる、突出感が予め去勢された90年代デフレスパイラル音楽、ラディオヘッドなどが流行った時期の…そうした音楽性の中、問題意識の高そうな白人男性が、一語ずつねっしりと歌詞を発音するから言語的メッセージ性の強い作品と見受けられ…透度の高いギターの背後で軽率な希望を圧するシンセの音圧…竜の鱗の彫金…打ち込まれる鏨の精確のようなリズムだがそれを上回る「飛ばし」の技法とでもいうべきか、あえてフッと、要所要所で変拍子寸前にリズムを飛ばすことで、たとえ鱗の数枚が切り出されていなくてもむしろそれによって竜の肉体の長いうねりの高次のリズムを想起させ、さらにその長いうねりが内包する、集中的に打ち込まれる無数のリズムが想起されるから豊かともいえるが、総じて冷たい…ベルギーで製作されたCDのようだ。
神曲の地獄篇か煉獄編で…いずれの党派にも属さなかったがゆえに蜂や虻に刺される呵責を受ける人々がいて、天国からも地獄からも疎まれている様子が描かれていた。
ウェルギリウス(がダンテに向けて)
「この惨めなさまは誉れも無くそしりも無く生涯を送った連中の哀れな姿だ。神に仕えるでもなく背くでもなくただ自分たちのため…(中略)…」
「彼らについては語るな、ただ見て過ぎろ」
黒い糸トンボが道路に着地した途端、車に轢かれるのを見た。
盆休みの御知らせ
やつれたまふ木槿身を投げ蕾むまま
承認された制度内での小賢しい立ち回りのうまさばかりが、最早なりふり構わず誉めそやされる時局…何事もなせぬまま夏の廃色は濃厚、けじめのない雨が続き不作の気配、びんびん感じるこの国この世界の全体主義の気配の毎日、結局全体主義を本質的に無力化できぬばかりか牽制もできぬばかりか増長させる具にしかならぬ情報化社会…ネットゲームの成績を履歴書に書く輩、それを慶ぶ資本家、アジアの工場で廉価労働力を使いながら世界中の書物を片っ端からばらばらに裁断してデジタルデータに換金するグーグル、さながら書物のホロコースト(大量虐殺)だ…ただただ、空しい。
結局またリーガルハイを見通してしまった…半沢と小美門を見てしまったら、もう、他のドラマを視聴する気が失せる…
「まず下りろ!醜く薄汚い人間の底辺に下りろ!」
「人間の世界へ、ようこそ」
「醜さを、愛せ…」
疎開先の小さな教室内で…率先して時局に媚びる少女が発端となって…全体的な統制と異物排除の草の根の全体主義が醸成される少女たち…NHKスペシャル「少女たちの戦争」
我馬というラーメンチェーン店にもの申す…コシ強めの細麺でコクのよいスープによく絡んで万人受けで悪くはない、付け合せ(?)のおにぎりも、塩と米が互いの旨みを高め合っている…されどどうにも我慢ならなかったのが…きくらげ。黒い、ぶよぶよしたきくらげが塊のままトッピングされているこの無神経…きくらげを細切りに刻んでおれば麺と共に噛む際に触感の違いが生き生きと楽しめるというものを、塊のままだから麺の触感を邪魔して口の中でぐちょぐちょぐちょぐちょになってせっかくの麺のコシもスープとの絡みも全部台無しだ。我馬よ。きくらげを細く刻め。
LEDの読書灯(中国製)…買った当初から電源を入れると電源アダプタが異常に発熱しているのを危惧してはいたが先ごろ、フッと、とうとう光らなくなってしまった。LEDだから四半世紀は使えるはずだったのに、結局その周辺回路の作りが御粗末なのだからこのざまだ。忸怩たるものあれど致し方なく、蒐集物の盆燈籠を読書灯の代替にしているが部屋のメイン照明を落とすとこの盆燈籠だけで読書するのはいささか困難を禁じ得ぬほど光が弱くて辛い…新蛍雪時代の到来。
広陵の一回戦負け、後味の悪い負け方でマスコミからも一顧だにされぬ扱いよう…延長十一回裏で広陵は守りの番、二塁三塁に敵方の走者あり、打席には敵方の中でも打率の良い打者、これを敬遠して満塁、しかし次の打者で仕留める背水の陣のはずが連投の疲れが出たかここ一番でフォアボールで押出し、という拍子抜けの幕引き…投手の選手層の薄さが敗因なのか、敬遠せず勝負したらば、などといっても…本当のところは、北叟笑んでいます。
寅さん「人間はねえ、理屈なんかじゃ動かないんだよ」
今週は所用のため休載します。次回は8月24日です。
承認された制度内での小賢しい立ち回りのうまさばかりが、最早なりふり構わず誉めそやされる時局…何事もなせぬまま夏の廃色は濃厚、けじめのない雨が続き不作の気配、びんびん感じるこの国この世界の全体主義の気配の毎日、結局全体主義を本質的に無力化できぬばかりか牽制もできぬばかりか増長させる具にしかならぬ情報化社会…ネットゲームの成績を履歴書に書く輩、それを慶ぶ資本家、アジアの工場で廉価労働力を使いながら世界中の書物を片っ端からばらばらに裁断してデジタルデータに換金するグーグル、さながら書物のホロコースト(大量虐殺)だ…ただただ、空しい。
結局またリーガルハイを見通してしまった…半沢と小美門を見てしまったら、もう、他のドラマを視聴する気が失せる…
「まず下りろ!醜く薄汚い人間の底辺に下りろ!」
「人間の世界へ、ようこそ」
「醜さを、愛せ…」
疎開先の小さな教室内で…率先して時局に媚びる少女が発端となって…全体的な統制と異物排除の草の根の全体主義が醸成される少女たち…NHKスペシャル「少女たちの戦争」
我馬というラーメンチェーン店にもの申す…コシ強めの細麺でコクのよいスープによく絡んで万人受けで悪くはない、付け合せ(?)のおにぎりも、塩と米が互いの旨みを高め合っている…されどどうにも我慢ならなかったのが…きくらげ。黒い、ぶよぶよしたきくらげが塊のままトッピングされているこの無神経…きくらげを細切りに刻んでおれば麺と共に噛む際に触感の違いが生き生きと楽しめるというものを、塊のままだから麺の触感を邪魔して口の中でぐちょぐちょぐちょぐちょになってせっかくの麺のコシもスープとの絡みも全部台無しだ。我馬よ。きくらげを細く刻め。
LEDの読書灯(中国製)…買った当初から電源を入れると電源アダプタが異常に発熱しているのを危惧してはいたが先ごろ、フッと、とうとう光らなくなってしまった。LEDだから四半世紀は使えるはずだったのに、結局その周辺回路の作りが御粗末なのだからこのざまだ。忸怩たるものあれど致し方なく、蒐集物の盆燈籠を読書灯の代替にしているが部屋のメイン照明を落とすとこの盆燈籠だけで読書するのはいささか困難を禁じ得ぬほど光が弱くて辛い…新蛍雪時代の到来。
広陵の一回戦負け、後味の悪い負け方でマスコミからも一顧だにされぬ扱いよう…延長十一回裏で広陵は守りの番、二塁三塁に敵方の走者あり、打席には敵方の中でも打率の良い打者、これを敬遠して満塁、しかし次の打者で仕留める背水の陣のはずが連投の疲れが出たかここ一番でフォアボールで押出し、という拍子抜けの幕引き…投手の選手層の薄さが敗因なのか、敬遠せず勝負したらば、などといっても…本当のところは、北叟笑んでいます。
寅さん「人間はねえ、理屈なんかじゃ動かないんだよ」
今週は所用のため休載します。次回は8月24日です。