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ハードロック編 第一夜
週末、妻からの電話への返しにて詠める
妻は鍵を失うてこそ自由なり春待ちの宵帰路の電鉄
軽く、取っ掛かりも、淡陽に撫ぜられて尖りが磨滅するように滑落した末、すっかり観念して春雨にくたす袂を絞れど一滴の努力も落ちぬ拍子抜けにも今更の無関心に、ほんわりと、豊かさから離縁する細めの揺らぎが風の隙間をひょうひょうと縫うて、途絶も糸目無く軽々と、笑いの無い楽しみが途方も無く淡く仄々と蒸せて、播種される畝とは別れたばかりの無根拠の高揚ばかりが無闇に薄まり、広がりはせぬ意固地が発芽の拳を土に貫く…フーのセルアウトを恒常的に聴き(実際に録音媒体を再生させて己の聴覚から外部入力することもあれば、記憶に残る曲の断片を四六時中反芻するという意味で)、西村賢太氏の私小説を青嵐のように読み下していると、歩行の連続性が滑落するような殺人的眩暈に襲われ、袋小路で淡く、おかしくなりそうになる…セルアウトについてはだいぶ以前に表層的な事をお為ごかしに記載している。西村氏の獰猛私小説…外見的には突沸的に繰り出される暴力の顕現が、結局言葉のみの純正品では有り得なかった身勝手な理性というものの一形態として目先の弱いものをぶん殴る底辺の現状を剥き出しにするものの、基本的に、基底のところでは言葉の豊穣への信仰に救われている、その是非を問うているわけではないが生死を意識しはせぬ生活者のしたたかさが、ぎりぎりのところで作品=商品となっている図太さの限界と、学ぶべき柵(しがらみ)と、断絶すべき馴れ合いなのだろう…理性というのは暴力という形で表出されることもある。一方で横溢するセルアウト(sell out)を、自分は何故聴いているのだろうか。この、終わりの歌を…。恐らく、例えばザッパのバーントウイニーサンドイッチと同じ格付けで、フーの大抵のアルバムを己の血肉にしてきて正直聞き飽きる寸前まで己を追い込みながらなおのことフーの音楽からその度毎に感動を受けるように内発的に感動を生産せざるを得ない切実な聴者が、ふと思い立って、フーの仕事の全貌が切羽詰った深刻さではなく飽くまでもやんわりと季節の空気を吸うようにして且つ一挙に滝のように己の脊髄を怒涛で伝ってくるアルバムが、このか弱きセルアウト(=売り切れ、裏切り)に他ならない。全体とは終わりである(all is end)、とは言い条、フーの音楽に全体は無い、よって終わりもないのであるが弱さというものに付け入るのが人の心と云うもの、虫唾が走るほど出鱈目な約束のようにして概念も人間を保護しようとしてくる。その作用に抗うことも可能であるがその護持の包摂もまとめて花いちもんめとばかりに芸能が迸るのだから、当ては外れる。取り残された荒野は相変わらず茫漠としている。セルアウトを聴いていると…脳が、右脳と左脳と小脳と海馬にすっきり分かれてそれぞれがぷかりぷかりと気球のように陽気に浮かんでいくような気分になる。
言葉は精神の身体である。芸能は偶然の身体である。精神とは偶然か?否、そうとは言い切れない。精神は身体によって偶然から隔てられている。だからといって精神に偶然性が全く無いというわけではない。それゆえに芸能は偶然の身体であるといえる。
完全に均質に分散されることなくざんぐりと荒く混ざる冷気をくるむ暖気にあてられてどこまでも淡い眩暈に襲われているのは、季節以外に動機が無い寄る辺なき心のせいのみではなく、寧ろ、望外に満たされてしまった物欲の、矛先の無い満たされ、によるものであった。インターネットのオークションという恐るべき世界で、船底一枚下の地獄を思わせる簡便さで、かねてより強欲していた茶釜と、故あって入手しなければならぬ茶合を所持できてしまったことによる、その余韻で、いまだに眩暈がしている…深酒によるビタミン不足が原因かと思って野菜ジュースとか飲んでいるが、効かず、眩暈はおさまらず、さらさらした陽の結晶を浴びると、意識の噛み合わせが断絶したかのような刹那の眩暈に襲われる。度肝抜く形態の、まさかの車軸釜…こんな逸品がこんなにいとも簡単に手に入るとは…今までの自分の涙ぐましい労苦と徒労は何だったのだ…これはまずい、身を持ち崩す地獄への案内人=ヤフーオークション、と細君に認定され、しばらく(?)禁止処置に遭う…確かに、やばい…オークション(競り)、という購買形態も、小生の新たな人間性を明るみにしてくる。酔いの人であって賭けの人ではないと自負していた小生である。酔いの人とは、方法と成功の破壊者である。賭けの人とは、方法と成功への偏愛者である。
賭け事に金を賭ける、ということには、確かに、小生は何の興味も無い。金などどうでもよい…(骨董界には古銭好きとかもいるが、全く共感できぬ世界だ)しかるに、小生の心を鷲掴みにする器なり道具なり書画骨董なり美術品が我が物になるということだと、「なにがなんでも取りにいってやる」「物の価値の分からん奴にこの品を渡すわけにはいかぬ」というどす黒い物欲が否が応にもマグマ噴出、見境なく値を張ってしまう習性があるようなのである。骨董市などで、眼前の品物に業者が張った値にたじろいでしまうことはあっても、オークションという動的状況、自分が所持するために存在するような品物の値が、どこの馬の骨ともしれぬネット上の他人によってどんどん加速度的に上昇していきついに他人の手に渡りそうな危機的状況となれば、普段は尻込みしてしまう金額でも、どーんと張ってしまいそうな、自分が恐ろしい。漫画「骨董屋とうへんぼく」なども熟読しているから、中途半端に、骨董品の業者市場での手練手管を齧っているから、値を提示するタイミングとかのテクニック(方法)にのめり込みそうな自分が居て、恐ろしい。
そもそもヤフーオークションという危うくも甘い蜜が充溢する蕊に分け入ることになったのは、偶然ネット検索で、小生の我儘で関わらせてもらっている工芸にまつわるところの品が売りに出されていたからで、それを競り落とさんがためである。先代の銘が入った、煤竹に蜂の細密彫刻を施した茶合なんだけれども、関係筋から偽物(ぎぶつ)であるという情報も得てはいたが写真を見る限りどうにも偽物だとは信じ難く、既に所持している偽物の茶合の、ヤドカリ彫刻と比べると技の冴えは今回の偽物?の方が遥かに上を行っているのは確かだ。偽物であるなら猶更世に出回らせる訳にはいかぬし、偽物だから修行の参考にしてはならぬかもしれぬが今の自分からすれば超絶技巧この上ないのは確かであるし、理屈はどうでもよい、兎に角欲しいという形振り構わぬ思いであった。ネットオークションというのは出品者が入札者に成りすまして(別のIDによって)、他の入札者が現れたらいい鴨とばかりに、客が諦めるか諦めないかのぎりぎりを狙って値を釣り上げている可能性もあると聞く…本当ならば由々しき事である。煤竹の茶合が欲しいなんぞ、小生も含めて、よっぽどの数奇者に違いない…この度小生は件の茶合を、ネット上のある入札者と最後まで競り合い、最終的に小生が500円差で競り落としたが、本当にそれが欲しいと思っている数奇者だったら、500円差くらいものともせず上に被せてきてもおかしくないはず…それが無かったということは、適当なところで手を打ってそこそこ儲けておこうとする入札者=出品者なのではなかったかと、勘繰っている。不当に値を釣り上げる、市場の不健全が拭えぬネットオークション界であるが、既に目ぼしい火鉢を見つけている。小生は、茶釜と風炉、の、あの一体感を嫌い、己の目に適った火鉢に、例の仰天車軸釜を据え付けようと企んでいる。饕餮紋を施した、六角形の銅器の呪的火鉢が気になる。今はおとなしくしているが…。
何事も無かったかのように、全くの手ぶらで、ついに、ハードロック編が始まる。気楽な散歩のように、ほころぶ梅やコブシ、沈丁花の薫香を愛でながらというわけにもいかない、未熟故に肩肘張ったものとなろうが、さてどうなるか。井伏鱒二のようにハードロックを語りたいものだが、無理だろう。準備不足は否めないがしかし、もう、時間がない、小生に残された時間、というのも、痛切に感じ入るこの頃ゆえに、最早、その成すべき業の大きさにたじろいでいる場合ではない、という事だ。闇雲に始めるしかない、と己を奮い立たせる時、始まりとは闇雲であった、と、言葉の悪用の空梯子を掛ける浮足立ちのまま、野を走る兎に一念の誉れあれかし。
ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
(「yes songs, song remains the same, who's next」)
ハードロック編唯一の問答は、これだ。
問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
答:「それは、ハードロックである」
この問答の間には、禅でいうところの問答無用と云うもので、本当は何も無い。無いが、しかし、聴こえるものがある…音楽を論ずることが音楽を聴くことに限りなく漸近しなければならないし、そうした聴き方=論じ方をしなければ、ハードロックというものは聴こえてこないだろう。便宜上、三つのバンドを取り上げているし、その中でも、イエスとツェッペリンについては、彼らの代表的なライブ版アルバムを聴取の対象とした。多少の語呂合わせ乃至は辻褄合わせでしかない意味でフーにおいてはライブ版ではないフーズネクストを題目に採用しているが、フーについてハードロック編において主に聴取するのはやはりライブ版アルバムの「ライブ アット リーズ」とする。(次回に続く)
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