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「eugene ysaye(1858-1931)/sonates pour violin solo/thomas zehrtmair plays/ecm1835」春一番
もう春など来なくていい、とまで、半ばはぶてたように恨みがましく募らせていたのが、一雨ごとに暖こうなる季節の移り行きにほだされるかと思いきや、そうはならぬ頑なな思いが私生活の鬱屈も相まって八つ当たりのように、こんなに寒くて苦しいのに今更春が来たって、お情けをかけられているようで馬鹿にしているとしか思えない、いっそこのままずっと冬でもいいわいという薄汚れて子供じみた意固地はいささかも衰えはせぬ、余人にも計り知れる浅はかなくさくさ感と気ぶっせいである。冷たい粒子と暖かい粒子がざんぐり混じった風が、ふくらかに、大きい。
部屋を薄暗くしないと文字が書けない。光と音と文字と点字の関係を語り出したら今宵は眠れないので躊躇しておくが、一般的に文字が黒いのは無政府人格(無政府主義ではない…)との関連があるに違いないと確信している。人格、と云うことで、主義がまとう歴史や直接行動から逃げるわけではない、と、言わずもがなの註も入れつつ。むしろ逃れがたい業として、転向の言い訳を遮断する覚悟として、人格、と云うているのである。
この冬、ずうっと、自分好みのコートを探求していたが、ついに連れて帰ることができて満足しており、もうこの先何も出来そうにないほど虚脱している…一度、何となくその店に入ったところあまりのデザイン性の高さに這う這うの体で逃げ帰った事があったが、今回は満を持して突入したのである。モンゴルで羽を伸ばす朝青龍が着ていたような民族衣装をモダンにしたような大胆な布のカッティングと水際立つ構成力、細部に渡って有り余る工夫と上質の布地、縫製を施したコートである。現在、まあ悪くは無いので渋渋買ったがサイズが合わないので真っ二つにぶった切って溢れ出る綿と格闘しながらリメイク中のコートもあるが、遅遅として進まぬ手縫いの苦しみを背負いながら持続する気力が、この度お連れしたコートの出現によって萎えてしまう。いずれにしても、よい物を作って売っている店は、微力ながら支えねばならぬ義務感によって。
自分でも救い難く俗っぽいと思いつつも、真白き豆腐に醤油を垂らすのに長らく疑問を煩悶させていた小生は、醤油を止め、豆腐に塩を降らせることにする…江戸時代の「豆腐百珍」に既に記載されているかもしれぬが、名付けて、雪見豆腐、とする。塩が酒と豆腐の味わい全てを生かし切る潔さ…見た目にも美しい。豆腐と云うのはつくづく眩惑的な食べ物である。
宇宙の終わり、即ち時空の終わりを、時空の形式の中でしか説明できぬ物理学者らは、もしその説明で満足しているのだとしたら、それは同時に物理学の敗北と終わりを宣言しているに等しいのだろう…時空の終わりの時空的説明というのは、理解と云うのをイメージの枠の中でしか捉えられぬ、無学の民衆相手の説明に過ぎず、実際の物理学はそんな愚は重々承知であることを、不勉強の小生が知らぬだけかもしれぬとはいえ…宇宙が膨張後に収縮して消えるにしても拡散して薄まって消えるにしても、そうした述語はどこまでも時空的である…時空の終わりを云わんとしているにもかかわらず…こうした述語は、消える宇宙を包括する高次の宇宙時空を前提しているから、終り乃至は死という一点をとらえられぬ言葉自体の無明性というのに範疇的説明から自ずと近づいてしまう、今更わかりきった遠回りに過ぎぬのだろう…数式以前の言葉の原理の問題に、わざわざ数式経由で至っているのだろう。数年前に再会した、素粒子論している高校の旧知が、最近の物理学ではカントを読むようになったと言っていたが、今更感が強い。本当の最近の物理学はどうなのだろうか。
イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタである。ベルギーのヴァイオリン奏者兼作曲家兼指揮者。イヤホンでポテトチップス喰いながら聴いていると、ポテトチップスを食む音が黙示録的崩壊のように凄まじく増幅されながらヴァイオリンも粘り強く聴こえてくる妙な体験となる。本当云うと近頃ではザッパの初期しか聴いていない。とはいえ、枝じゃない、葉も花も実も要らぬとばかりに幹のみで立つ針葉樹が強靭に軋みながら割れながら音を叫んでいるようなイザイの楽曲の孤立感は立派である。吠えるのを取り戻そうとする現代人である。アフリカやアマゾンの奥地の事まで熟知していないが、多くの人間は吠えることが無くなっている…その辺の犬や虎のように、小生は、吠えたい、ただ月夜に向かってではなく、あくまでも人間生活上の危機に際して、眼前の人間に対して無闇に吠えかかりたい。吠えたい。音楽は「吠え」でなければならぬ。音と声と吠えがあって、音楽は「吠え」を音と声に分割管理したのかもしれない、言葉が内通する儀式や資本の論理によって…。言葉の特権を放棄した、最後の、切羽詰った威嚇と攻撃の前触れを心理なく即座に吐き出す獣の活動…思えばロックと云う音楽ほど吠えるのに適した音楽はなかった。「吠え」は怒りですらないのである。無論、ロックほど怒りを聴かせる音楽もないのであるが…そして、それゆえに、人間の「吠え」の最前線を音楽へと収束、馴致させることで「吠え」の不可能性を社会に説明する恰好の見せしめとなりやすい音楽でもあった、いずれにしても最前衛の音楽であった。今はどうか?それにしてもイザイ…鉈で弦を弾いているような危うい獰猛よ。
来週、うまく事が運べば、茶会ができるかもしれぬ…正直、うきうきしている…とはいえ、客になってくれそうな先方の都合がよく、且つ、小生の賃仕事の都合が割り込まなければ、の話である。茶会の組み立ては、完成した。
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