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「the genovaのロシアものについて」諫早
かつてないほど、今週は最悪だった…自分が手がけた新製品が、今週末の最終試作で、全く、できない、という事態に陥った。来週初めから正式に量産開始というこの時期に…全身からさぁっと血が抜ける寒気に襲われる。絶体絶命、電話の嵐、責任のなすりあい、組織からの袋叩き…今更出来ることなど殆どないが、気休め程度に出来るだけの策を施して来週を迎える、ほとんど無策状態。天命を待つのみ…まあ死ぬわけじゃあるまいし、戦争に行かされるわけではないし、と気休めしつつ、不意に、科学テロ、という言葉が薄暗くよぎる…蒲団の中でがたがた震えながら、ハッチハッチェルの新譜「理由なき祝宴」を、それこそ藁をも掴む思いで必死に聴く…聴いたからとて好転することなど絶対有り得ないのだが…聴いていると、どんなに現世が辛くても強制的に笑わせられてしまう、まるで笑い茸のようだ…苦しすぎる泣き笑いの発作で死にそうだ…
かつてこの王道なきロック史でも論じたことがあるスパイダースのアルバムvol.1とvol.2を聴きたいと唐突に所望したが、見つからない…。どこにもない…。仕方が無いからアマゾンで買おうかと思って検索しても、vol.2の再入荷予定がないとのこと。熱いカバー集であるvol.2がどうしても聴きたいので街に買出しに行くが、無い…vol.1のみ連れて帰る…消化出来ぬ記憶のしこりがまたしても残る…
高橋源一郎と、ロビー的なところの椅子に座って議論する夢を見る…道元について思うところを聞かれ、小生としてかつて見解をまとめていたが思い出せず、側にあった、自分の思いつきを記録したノートやメモ類をめくるが出てこず、待ちきれぬ感情を露にした高橋氏が、「道元は高みへ昇ろうとしているのか」と言い、小生は答えて曰く「否、底辺へ向かおうとしている」。ここで目が覚めた。道元についてまた勉強しなければならないようだ…道元の文章で使われている単語が全く分からないからきついのだが…
掲載している写真はザ・ジェノヴァではなく、ザ・プレイボーイの「ジュビデビで行こう」のシングルジャケットであると思われる。街のレコード屋さんにふらりと迷い込むと、60年代GSのシングルの寄せ集めCDの類が多くある。これは「カルトGSコレクション[クラウン編]」であり、sixties japanese garage/psych raritiesと銘打ってある。60年代GSを、欧米ロックの文脈としてガレージ/サイケ運動として捉え直す、思想的な意志が強いシングル集である。往年のファンのみならずロック数寄の若い人々の問題意識をくすぐらんとする意図が明白であり、それを買ってしまう自分というのが何かしら媚びているようで情けなくも恥ずかしい思いもありはするが、確かに、この問題提起によって発せられるであろう聴取方法の改めというのは避けて通れぬし、レコード会社が提起しなければ他の者や他ならぬ小生が遅かれ早かれ提起せざるを得ない、有体に云えば在り来たりな問題提起であった。
種々のGSバンドの音が2、3曲ずつ収録されている。GSをガレージ/サイケと見なすこの問題提起、概念設定に対しては大いに是々非々論じたいところである。しかしながら今宵はそれを忌避するとして、そのように漫然と聞くにしてもどうしても耳についてしまうのは、この、ザ・ジェノバである。戦後のいつからかは思い出せないが、日の本の歌謡界でロシア民謡が流行った時期があったかと思うが、短絡的に云えばザ・ジェノヴァはそうしたロシアものの、まことに隙間産業的な流行をGSとして律儀に全うしようとした結果なのだろう。だが、なぜロシアものなのか、よりによってGSというロックの端くれなのに…バンド名はイタリアの地名なのに…そんな疑問などどうでもよく、ロシアものがキている、という作曲家北原じゅんのこらえ難く異様な確信が、ザ・ジェノヴァを生んでいる…。
凍て付いた大地でウオッカ煽りながら男たちが斉唱する重厚なロシア民謡調の日本語歌唱が、ふざけているとしか思えない歌舞伎の唄い回しと共通しつつ、合間でふざけたように過剰に叫ばれるロシア語の禍々しさ…どのようにふざけているのかというと、例えば、人の云うことを聴かない不逞の馬が前歯剥き出しで汚く人語をおらぶような…それでいて曲調は時にラテン風味でもある滅裂、ピロピロのキーボードが雪原をさ迷う寂しげ。かつての日本の領地(異論はあると思われるが)、樺太=サハリンへの望郷の念を情感たっぷりに歌い上げる…しかし領土問題への意識は全くない。できれば北方領土(エトロフ、クナシリ、ハバマイ、シコタン)について歌ってほしいが…
解説の中ではシベリア・サウンドと呼んでいるようだ。殊更に60年代の作物の特異性を現代の視点から面白がり、まるで発見したかのように自己顕示する恥を今更晒す必要はなく、古今東西、何でも有り得る芸能の世界なのである。それにしても日の本の民の、二葉亭四迷など明治以降続くロシア数寄というのは何なのか…小生は料理書を読む趣味がある。家庭画報社なぞが出す、主婦(主夫)向けの、写真ばかりの実用的な料理本は眼中に無い。写真も絵もなく、聞いた事もない料理名と入手不可能な材料と調理法のみが雑に記載された昔の料理書を読んで妄想するのであるが、ロシア料理の味付けや材料などは日の本料理と似通ったところがある。戦後のロシア数寄には、ロシア文学や共産主義といったブランドに加えて、シベリヤ抑留という体験までも加わった。かような、愛すべき似非ロシア民謡ロックでさえも、そうしたシベリア抑留の所産であると思えば、途方も無く予見しがたく調子に乗る芸能の本質たる椿事、ということを思う…
ザ・ジェノヴァ
「サハリンの灯は消えず」
「さよならサハリン」
「別れた湖」
「いとしのドーチカ」
「想い出のムーン・ストーン」
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