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「ザ・スパイダース/明治百年すぱいだーす7年(1968)tecn-20390」海老蔵
「へうげもの」がNHK-BSで来年春頃からアニメ放映されるとのこと。以前から実写ドラマ化を希望していた小生にしてみれば納得ゆかぬ思いではあるが、これを機に衛星アンテナつけようかとも思う…とにかく道具をどこまで迫真的に描けるかが勝負であろう…
今週は著しい虚脱と鬱状態に陥り、肉体、精神共に呆れるほどぴんぴんしているにもかかわらず、人間に絡む事ゆえ努力の中途で弱く折れてしまう事や何もかもがどうにも嫌になり会社を二日休む…小生が際どく成立させているぎりぎりの社会関係というのも、こうした些細かもしれぬ亀裂から決定的に崩壊していくと思われる、否、この亀裂は些細どころか決定的であり、既に崩壊していること必定である…。
と、こんなこと書いている最中、無音で流しているNHKデジスタティーンズ、反吐が出そうなほどどうしようもない媚び状態が臆面もなく露呈されていた…。どこぞの高校生が特撮手法で作った作品であるが、内容は、地上デジタル放送とアナログ放送のそれぞれを擬人化させ、特に前者を正義のヒーロー、後者を悪役に見立て、往年のウルトラマン風の演出でデジタルがアナログを倒す、というものだった。本当に情けない。いったいにどこまで恥知らずな媚びを日常化すれば気が済むのだろう、しかも映像だろうと何だろうと何にせよ作品というものを世に問おうとする者が、最もそうした媚びに対して批判的に過敏に機敏に反応せねばならぬ者が何故に、恐るべき厚顔愚鈍をさらけ出して率先して媚びるのか、呆れて物も云えぬ…このことは、同じくアナログ→デジタル化に想を得た中原昌也の小説「悲惨すぎる家なき子の死」(2010冬号「文藝」所収)と比較すれば分かる。
アートに対する意識が高いと思っているらしき先述の高校生らが、アナログ→デジタルという世の趨勢が如何なるものか自分で考えようともせず、むしろ積極的に思考停止した挙句趨勢にへつらい、かつ趨勢の趨勢たる基盤に自ら盲従的に身を投げ出す翼賛状態を嬉々として晒しているのであった。
対して中原氏の作品は、少なくともそうした趨勢に疑問を持ち、嫌なものは嫌だと、趨勢を破壊させるために有効な手立てを構築するスマートさをも敵に回すことも辞さぬ論理的一貫性の下で断固として抗う姿勢は薄暗く強固だ。この論理的一貫性とは、かようなスマートさが結局アナログ→デジタルという流れと同類であるから、自分の利益になるスマートさであっても愚直に拒否しているという意味だ。語弊を恐れず言えば誇り高いのは明らかに中原氏であり、先述の高校生はその存在が絶望的にみじめであった。その映像作品は糞にも劣る下劣なる努力の滓であった。蛇足だがしかし中原氏の作品に見られるパンキッシュな態度表明もまた趨勢に収束される構造的問題があると思う。じゃあどうすればよいのか知りたい方は小生の秘密文書をお買い求めていただければその懊悩連綿の一端が開陳されようと思う。
そう、先刻ご承知の通り、もう、自分が書き連ねた日本語群を、小説であるとか詩であるとかいうのも収まりつかぬ、いっそ秘密文書と呼ぶべきものを恥さらしにも売文してきた次第である。この場合の秘密というのは隠されたものというよりも、仏教的な意味で途方もなく明らかなるものの謂いである。場所は東京の蒲田の大田区産業会館、約500団体が出店し、会場に来てくださったお客様約3400人中、小生の初期三部作をお買い求めになったお客様は以下の通り。
女性A 男性A 女性B 男性B(敬称略)
軍国軍記(2007年脱稿) 1冊 1冊 0冊 0冊
夜学歴程(2009年脱稿) 1冊 1冊 1冊 0冊
非業愚抄(2010年脱稿) 1冊 1冊 0冊 1冊
合計 3冊 3冊 1冊 1冊
計4人のお客様に計8冊買っていただいた。五千人くらいのお客様が我も我もと押し寄せてきてもおかしくない文書であると自負するものであるが、買っていただいた方にはまことに感謝であり、励みになり申す。特に女性Aの方は、イベント開始直後に訪れ、迷うことなく速攻で三冊買ってくださった。この、侵略すること火の如き動き、明らかに、事前にこのイベント元締めのホームページで展開してくれた530組の団体の広告文の中から、わざわざ小生の煽り文句に目をつけていただき、あるいは小生のホームページまでも予めチェックし、感じ入るところがあったためとおぼしき強烈な目的意識を臆することなくさらけ出されているようで、その、当然あってしかるべき貪欲ぶりに圧倒されました。
このイベントのよいところは、見本市のようなことが別室で催されており、各団体から提出された3種類までの見本用の冊子をテーブルに広げてあり、お客様はそれを自由に閲覧するというシステムである。男性Aの方は、この見本市で小生の文書を手に取ってくださり、感じ入るところがあった旨、小生に直接表明してくださった。迷うことなく3冊お買い上げいただいた。小生の年齢や小生が影響を受けた高名の文人について質問され、簡単に答えた小生。
他の御二方は、文書が発する抗いがたい業のようなものにうっかり憑りつかれたのか長々と逡巡、ついに一冊我が物にしてしまった感じである。なにぶんキツメの文書ゆえ気の毒かもしれないが、多謝である。
むさぼるような異様な確信を持って速攻で全部買ってくれる方と、さんざん迷いながらこらえ難く一冊買ってしまう方と、一度は手に取るものの汚物でも触ってしまったかのようにすぐさま手放す方と、全く見向きもしない大多数、という内訳であった。
さて、この度の上京のもう一つの目的は、浅草酉の市名物の熊手をお助けすることであった。彼岸や正月のみならず折々の祭りに際して日の本の民が織り成す飾り物というのは時に凛として裏表無き薄さの清々しさ弱しやしさであったり、過剰なるおめでた尽くしであったり、材も竹、木、葉や和紙などの儚き調いであるからして欲しゅうなる。掻き入れられた福々はダルマやらオカメやら天狗やら福助やら笹や餅が一緒くたの熊手に心魅かれた次第。
黄昏時に浅草寺に着くと、冬の早々した闇の裾間で夢幻的にも爛堕なる明かりが寂しくも色づいておる…参道脇に他愛無い土産物屋がびっしり軒を連ね、特に祭りでもなんでもないのに非現実的に活気づいており、人通りもぞろぞろと…仲見世であった。上京前の勉強として、浅草に縁の深い、偏奇館主人または断腸亭こと永井荷風散人の「墨東綺譚」(正確にはさんずい+墨)を読んでいたが、まさに荷風の世界がビルヂングに囲まれながら健在であった。一通り素見ぞめて楽しみ、中くらいの熊手を購入。初めは小さいものを買い、年々大きくしていくのが熊手の作法であるが、もう来ることは無いと思って…。しかし、色々見ていくうちに、自分は、数珠が欲しいと思い出す。数年前亡くなった祖父の葬式の折、一人の小柄な老人が、一般的なサイズ(腕輪みたいなの)とは桁外れに長い数珠を巧みにさばきつつ、別離の礼の所作を美しく全うされていたのであった。小生は、憧れた。かような数珠さばきが板についた、枯れながらも艶のある老いを迎えたいものだと思った。それにはまず道具だろ、といぎたなく欲望する小生は、数珠の玉の材質や大きさ、房の毛並みなんかにも目がいく始末…。閉店間際の仲見世通りの数珠屋で、店主の婆が言うには荒法師なんかが山岳修行に使うための、菩提樹の玉を連ねた、直径70cmくらいの、情熱的な数珠をお助けした。菩提樹の玉というのは、一個一個が衛星のようにアバタのように凹凸が激しく穿たれた禍々しい威容である…。
下からライトアップされた浅草寺本堂や五重塔の、軒の木組みが吐き出してやまぬ荒々しく濃いぬばたまの闇の丈夫に圧倒されながらも、小生は、参道から見えた、今話題の東京スカイツリーに端を発して色々思った。そういえば浅草には、凌雲閣、通称、浅草十二階という塔があった。大正末期の関東大震災であえなく崩壊したが、それ以前はこの塔、聞くところによると、女衒ややくざ、右翼の親分や侠客や社会主義者、無政府主義者、新劇役者興行師演歌師地面師世間師そしてこうした有象無象の陰日向の人士を取り巻く私娼公娼の女たちが蠢く巣窟であったとのことである。
まさに大正期を代表するエロ・グロナンセンスの坩堝のような場所が浅草十二階であったのだ。それが震災によって倒壊したことは、大杉虐殺も含めて、大正リベラリズムの決定的な終焉を象徴した。天の配剤とはかくも恐るべし。関東大震災がもらたした政治、文化状況の激変ぶりは阪神淡路大震災の比ではなかった。たとえば震災後、関東のアナキストらは運動の本拠を関西に求め、大阪水崎町に借家人同盟を結成し着実に運動を逞しくしていた逸見直造や逸見吉三の宿を根城にして運動の建て直しを図る動きもあったが戦争の激化に伴う検束の苛烈によりいかんともしがたい昭和への突入という歴史を思えば分かるだろう。このあたりの交遊史は、直造の息子で吉三の弟、宮本三郎著「アナーキスト群像回想記~大阪・水崎町の宿~」(あ・うん社)に詳しい。
戦後、東京タワーが昭和の復興および戦後民主主義の象徴のようになったが、この度、凌雲閣のことを思えば奇しくも浅草に近いところで建造中のスカイツリーというバベルの塔は、平成の御世にあっていかなる時代を見せてくれるであろうか…。
さて、浅草凌雲閣ということで思い起こされるのは、やはり、スパイダースのオリジナルサイケデリアコンセプトアルバムの金字塔、「明治百年すぱいだーず7年」であろう。ジャケットに凌雲閣の絵をあしらっている。どの曲も最高に良い。東京旅行について贅言を尽くしすぎたためGS史再考する体力が悲しいことになくなってしまったが、以下簡単に。
「あなたといる時、そんな時」、凝った楽曲構成と楽器編成、和臭のする歌謡曲や江戸職人諧謔趣味と外来ポップスと流通サイケロックへの無邪気な盲信との絶妙のバランスという、切り立った、狭すぎる尾根の上で愉快にやるスパイダースの際どさに匹敵するのは、並み居るGSでも数えるほどでしかないであろう。このような切り立った尾根、少しでも足を滑らせたらある種の様式に固まってしまう恐れがびんびんするような危処でこそ、初期日の本ロック=GSというのが成り立つ証明である。うっかりすると、あまたのGSがそうであるように歌謡従属ロックのようになってしまうし、はたまたゴールデンカップスのようなハード路線、もっと惨めなのはフラワートラベリンバンドのような悪しき近代的精神性にも陥ってしまいGS性のかるみを失う…そのいずれも嫌いではないが、ことGSというくびきを重視するならば、スパイダースほどの妙境は少ない。
「オツム・コン!コン!」マチャアキの絶唱、ヘレカンダラストロンパ!こんな尋常ならざる合いの手は、ザッパの、ヘーンヘニャニャニャヘニャニャヘーン、ホーイッホーイッホーイッ!に匹敵する。
「黒ゆりの詩」、なんと素晴らしいのだろう…気持ちが揺さぶられてきちんと書くことが出来ない…一見他愛無い流行へのおもねりのように聞こえないこともないがそんな事は無い、厳しさをも研ぎ澄ますエレキシタールの適用が朝靄の向こうに佇む次元を顕現する。異星人との交信のようなコーラス、心の臓を鷲掴みにしてぐいぐい揺さぶる地熱の如きドラミング、雨月物語にETが出現して黒百合の酒宴を開くのか…「神の掟」の世界も通底する。
「赤いドレスの女の子」、昨日、フィギュアスケートで村上佳菜子という選手が好成績を残したが、彼女の蓮っ葉な、アッパッパ一枚で伊勢踊り繰り出しながら米兵に春をひさぐ切羽詰まった昭和的あばずれな感じが評価されていたようだが、そうした蓮っ葉が能天気なパーティ趣味で怒涛する熱い出鱈目。
「エンド・オブ・ラブ」もうほとんどハードロック=切り立った尾根、である。
「真珠の涙」、日本の情趣がこんな形で分厚いロックになりうるなんて!
井上 順 ヴォーカル
大野 克夫 ヴォーカル、オルガン、エレキピアノ、エレキシタール、スチールギター
田辺 昭知 リーダー、ヴォーカル、ドラムス
堺 正章 ヴォーカル、タンバリン、フルート
井上 孝之 ヴォーカル、ギター、12弦ギター
加藤 充 ヴォーカル、ベース
かまやつひろし ヴォーカル、ギター、ベース、エレキシタール、ドラムス
余談であるが、浅草寺で買った熊手、例のイベント会場に置き忘れてしまった…このたびのお客様との出会いも熊手のおかげであろう、ならば悔いなし。
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