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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「suicide/suicide(1977~1978)mut red star9104-2」 2009年8月30日 自民党忌


 衆議院議員選挙当日ということで、つまらぬ狂歌を一句。

 静けさや開票前の蝉の声

 昨晩、正確な番組名は忘れたが、NHKで、東京かわいいTV、のようなものをやっていた。在日欧米人が、シヴヤとかギャル雑誌とかに出てくる、ヤマンバギャルやアゲハ嬢などのファッションを、コミケ的マンガやアニメーションも交えて、真似しているばかりか、本国でも、アキバ的な店が繁盛したりそういったファッションに没頭する若人が増えているらしい。NHKらしく、巷間には分かりきった頃に特集する底意地の悪い慎重さなのか単に鈍感なのか、特に目新しくない今更感のある企画である。そこで、日の本のギャルサー(ギャルによるサークル)によるパラパラというディスコで催される踊りが、欧米でも流行っているらしい。欧米人や南米人が、ギャルサーを組んで、欧米や南米で、パラパラのコンテストに打ち込んでいる映像が流れる。
 小生、パラパラ聖典なるVHSビデオを所持鑑賞しており、これは、小津安二郎もビックリなほど決して動かぬ固定カメラの正面で、三人のギャルが、正味2時間ぶっ続けでひたすら様々なパラパラを踊るという、ある種ストイックでハードコアなビデオである。従って小生は僭越ながらパラパラに一家言ある。そして、別の時間帯にNHKでやっていた徳島の阿波踊りの様子も見るに及んで、確信するに至った。
 阿波踊りの本質は、踊りながら、体の芯が滝のように止まっており、すっと下に落ちているのである、冷え冷えとしながら。表層では熱く踊りに没入しているように見えるが、芯は不動である。これを能面のような、とでも言うと白洲正子的な俗悪解釈になるが、この阿波踊りの真髄を、日本文化などについて一顧だにしたことないであろう日の本のギャルが踊るパラパラも、きっちり継承しているのだから、通底する民族の文化というものは空恐ろしいものである。
 一方、欧米人が踊るパラパラは、トランス楽曲に合わせて筋肉も体の芯もぐちゃぐちゃに闇雲に浮き足立って動いており、日の本ギャルのパラパラとはかけ離れた、精髄を知らぬどたばたに過ぎなかった。このことを、日本贔屓の欧米ギャルも知ってほしいものである。

 さて、スーサイドである。ずばり、自殺、である。繰り返しになるがへヴィ・メタルやプログレッシヴ・ロックにまで至ったロックの、技術主義、筋肉主義への叛旗のようにして、簡素な楽曲を稚拙に叫ぶパンクの動きに対してさえも筋肉主義を嗅ぎ取り、一般にニューウェーヴと呼ばれる派も生じてきた70年代終り。後に90年代テクノへと連なるだろうニューウェーヴ史に関しては、この王道無きロック史で自説を述べたい重要なテーマであるゆえ詳論は控えたく、よってこの場での読者諸兄は一般的なニューウェーブ解釈を持っているものとして論を進めたい。何が一般的か、はここでは問わない。兎も角、楽器の演奏技術やライヴでのパフォーマンスといった技術主義筋肉主義への反発のため、シンセサイザーなどのエレクトロニクスを導入し、ツマミやボタンの単純操作だけで、時に人力では演奏不可能な楽曲を拵えようとした連中が現れたのである、いわずと知れたクラフトワーク、YMO、・・・。そしてその極北の一つに、スーサイドが居た。現れた。ギターは時に無い場合もあるがベースとドラムというロックバンドにとって鉄のフォーメーション(ドアーズのようにベースの替わりにキーボードの場合もあるが)すらも無視、一人は声、もう一人がエレクトロ、という、この時代の必然である怒りの編成である。
 各々の楽曲もいたって簡素。男が不安げな事をぶつぶつ言ったり、時に断末魔のような叫びを途切れがちに消尽させながら、これまた単調で、不安と呆気を締まりなく垂れ流す、決して楽観的ではない電子音の羅列。電子音は人為からかけ離れたように錯覚されがちだから天上的な表現に使われがちであり、後のトランスだとかに応用されるのだが、この頃のプレ・テクノ期の、クラフトワークやYMO、そしてスーサイドの電子音には節操があった。
 関係ないが、頭の悪い陶芸家や伝統工芸職人などが、工場で大量生産された製品とは比べものにならぬほど自分らは手間ひまかけてやっているから良いものができる、一つ一つ違うのも味わいがある、などと述べて乙にすましている。産業や物作りを知らぬ恐るべき愚である。規格内に納まる製品を大量生産するための設備開発に必要な人員や知恵や手間というものは、技術開発ということを知らぬ伝統工芸職人の手間の総量とは比べものにならぬほど膨大である。生産物というものは、ほっとけばバラバラな物が出来るものである。それを狭い範囲内におさめながらしかも大量に生産するとなると、絶え間ない努力と工夫が必要なのであり、少々バラバラでも構わぬ伝統職人の手間の比ではない。ああした発言を何の批判も無く垂れ流すマスメディアの無知も甚だしい。日の本はそうした生産力によって成り立っていることを知らぬのはどうしたことか。
 だから、シンセなどのエレクトロを使ったからといって、技術主義や筋肉主義から免れるものではなく、むしろシンセを製造した開発者や労働者の膨大な血と汗が、楽器演奏バンドの血と汗よりもうわまりかねぬ。
 しかし、だからといって、スーサイドの、既存のロックに安住する者らへの敵意むき出しの、殺伐として悲惨な音楽の先鋭性が失われる事はない。こうした事も、安住を許さぬロックという音楽の本性を根暗に証明する。

alan vega:voice
martin rev:electronics 

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