ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「kitty winter gipsy nova/feel it(1978)vscd580 」 2009年8月15日 大日本帝国忌
漱石を読み返す日々。つくづく漱石という人は、明治の代名詞の一つである立身出世の権化のような資本家(岩崎弥太郎のような)や権力者や西洋人を心底憎んでいる。我輩は猫であるにしても坊ちゃんでも草枕でも二百十日でも倫敦滞在中の日記でも、彼らへの露骨な嫌悪の表明だらけである。特に二百十日は、弥次さん喜多さんみたいな二人の男が、文明の革命を起こすために阿蘇山に登る話だった。忘れるべからざる事である。
ロックやロック文脈について述べるのに今宵は気ぶっせいな感じなので、滅法界に、キティ・ウィンター・ジプシー・ノヴァのファーストアルバムを手に取った。ドイツはシュトットガルトの、ヨーロピアン・ジャズ・フュージョン・ソウル・クラブ音楽のバンドである。スキャットが多い。なぜこのアルバムを小生が所持しているか思い出すに、この当時(10年ぐらい前か)、音楽における歌詞への懐疑、という問題意識があって、その一貫で、スキャットを多用する音楽、例えばボッサ・ノヴァや、ミシェル・ルグラン(フランス映画「シェルブールの雨傘」の音楽で高名)なぞを聴いており、そうした流れでお助けしたものなのだろう。
オシャレな感じの、毒の薄い音楽性である。このアルバムのような、かつてのアメリカン・ジャズの血と汗を失った涼しげな、いかにもヨーロピアンな音作りの、そしてまろやかな音色を電気的にエフェクト選択したフュージョンの出現とか、先述の音楽における歌詞の意味性とスキャット、あるいは絶叫といった問題が立ち表れるのだが、今宵は問題から逃亡したいからこのアルバムを選んだのであり、ご容赦願いたい。家系的にジプシー出身のキティ(ジプシーに家系図は相応しくないだろうが)の、達者なヴォーカルは、多様なヨーロッパ民族の歌唱を心得たものであっても、そうしたそつの無い技量が、ジャズやロック的本来からすれば寒々しい陰惨なものに聴こえもするが、しかし人はいつもいつもジャズ的ロック的な原理主義者ではあるまいし、たまに聴くのは甲でなくとも乙ではある。
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