ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「大暑ゆえ」 2010年7月24日 偶成
今宵は、書けぬ…。布団干したり布団カバーを洗濯して干したり掃除したりして久方ぶりに衛生を取り戻し、気持ちよい。体調も悪くない。音も聴いているが、重要なアルバムすぎてまだ書くわけにはいかない…。どうでもよい音源で誤魔化すのも飽いた。へうげものとテレプシコーラの新刊を連れて帰る。自分で本を読むのもいいが、たまには人の意見を聞くのもよかろうと思い、明日は初心に戻って、とある研究会に出席予定。心機一転できれば、と。
やはり、欲しいものは自分で作るしかないのか…神戸のデパートの暗い箱の中に居るのを身請けした鼈甲のループタイ「神々の黄昏」に相応しい、白い木綿のシャツはないものか、方々を探したが、中々無いものだ…。白い木綿で、日の本の植物や蜻蛉などが地紋で白く控え目に刺繍されているシャツを欲しているのだが、男物のシャツにはろくなものが無い。男用は、ちんたらとちゃらいシャツしか無いではないか。女性用の、細やかなフリルや刺繍などが施され形態の工夫を怠らないブラウスへの憧れが強まるばかりであった。ブラウス収集、ということを発心した。女性用は概して小さいので、ししおきのある小生では着ることはできないが、そんなことはどうでもよい。ブラウスの妙境に魅せられてしまったので、収集の口火は切られた。焼物や古物だけでなく、今年は盆灯篭も収集せねばならず、たいへんだ。
愚劣番組、会社の星をたらたら見ていると、あの者らも勉強会をテーマにしていた。たわけが、と怒りがアスファルトのように噴出した。
小生の自称肩書きを、自分のために整理してみた。
在野の文人
労農茶人
愛陶家
ロック数寄者
納豆評論家(納豆ラベル収集家)
盆灯篭収集家
書家(デュシャン体創始者)
日曜俳人
日曜歌人
自家用白菜ウォッチャー
ループタイ庵主
寿司油絵師
ブラウス収集家
やはり、欲しいものは自分で作るしかないのか…神戸のデパートの暗い箱の中に居るのを身請けした鼈甲のループタイ「神々の黄昏」に相応しい、白い木綿のシャツはないものか、方々を探したが、中々無いものだ…。白い木綿で、日の本の植物や蜻蛉などが地紋で白く控え目に刺繍されているシャツを欲しているのだが、男物のシャツにはろくなものが無い。男用は、ちんたらとちゃらいシャツしか無いではないか。女性用の、細やかなフリルや刺繍などが施され形態の工夫を怠らないブラウスへの憧れが強まるばかりであった。ブラウス収集、ということを発心した。女性用は概して小さいので、ししおきのある小生では着ることはできないが、そんなことはどうでもよい。ブラウスの妙境に魅せられてしまったので、収集の口火は切られた。焼物や古物だけでなく、今年は盆灯篭も収集せねばならず、たいへんだ。
愚劣番組、会社の星をたらたら見ていると、あの者らも勉強会をテーマにしていた。たわけが、と怒りがアスファルトのように噴出した。
小生の自称肩書きを、自分のために整理してみた。
在野の文人
労農茶人
愛陶家
ロック数寄者
納豆評論家(納豆ラベル収集家)
盆灯篭収集家
書家(デュシャン体創始者)
日曜俳人
日曜歌人
自家用白菜ウォッチャー
ループタイ庵主
寿司油絵師
ブラウス収集家
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暑中見舞い
打ち続く疲労と憂鬱によるのか必然的な衰えによるものなのか分からぬが、それでも、最近は、王道なきロック史において、理論的なことが何一つ書けていないことを、少なからず悔やんでいる。頭の中では青写真ができているにも関わらず、出力する気力が後退している…悔やんでいるからといって、次回から何とかなるかというと、その保証は何も無い…。
それでも、熱烈に、超絶モダーン今焼を欲しているが、どこでどのようにお助けしたものか、その方法が分からない。陶芸雑誌の個展案内など見ても、見た時は、たいてい会期が終了しているし、そもそも鯉江良二だの西岡小十だの各務周海などの、既に作風が固まった連中ばかり掲載している…破れかぶれで無茶苦茶な、屑のような、イってしまっているようなモダーンで凶暴な焼物は今、最早、山田先生のへうげ十作の界隈にのみ集結しているのだろうか…そう思ってオフィシャルページを覗いても、覗いた時は、またもや展覧即売の会期が終了しており小生が眼福の栄に預かるのを拒否しているとしか思えない…可愛さ余って憎さ百倍の愚かさ承知しつつ、へうげ十作の、波を起している感じが疎ましくすら思えてくる…ただの逆恨みだ…一体、どの程度の品物なんだ!見たい、しかし、見るために必要な情報を得るのに必要な最低限の能力が、小生には、根本的に欠けているとしか思えない…
最近の「…」の多用は、福光しげゆき氏の漫画の影響であるが、こうした内向性が陥りがちな露悪趣味に陥ることもどうでもよくなっているから使っている。
それにしてもショーペンハウアーは小生の性に合っている。形而上も形而下も区別せぬ、乱れた生活圏を乱れたまま貫く思想である。小生が勘付いていながら悶々と言葉に出来なかったことを、かゆい所に手が届くとばかりに直言してくる…かといって、気の合うのばかり読むのが読書ではないとは思いつつ…。
それでも、熱烈に、超絶モダーン今焼を欲しているが、どこでどのようにお助けしたものか、その方法が分からない。陶芸雑誌の個展案内など見ても、見た時は、たいてい会期が終了しているし、そもそも鯉江良二だの西岡小十だの各務周海などの、既に作風が固まった連中ばかり掲載している…破れかぶれで無茶苦茶な、屑のような、イってしまっているようなモダーンで凶暴な焼物は今、最早、山田先生のへうげ十作の界隈にのみ集結しているのだろうか…そう思ってオフィシャルページを覗いても、覗いた時は、またもや展覧即売の会期が終了しており小生が眼福の栄に預かるのを拒否しているとしか思えない…可愛さ余って憎さ百倍の愚かさ承知しつつ、へうげ十作の、波を起している感じが疎ましくすら思えてくる…ただの逆恨みだ…一体、どの程度の品物なんだ!見たい、しかし、見るために必要な情報を得るのに必要な最低限の能力が、小生には、根本的に欠けているとしか思えない…
最近の「…」の多用は、福光しげゆき氏の漫画の影響であるが、こうした内向性が陥りがちな露悪趣味に陥ることもどうでもよくなっているから使っている。
それにしてもショーペンハウアーは小生の性に合っている。形而上も形而下も区別せぬ、乱れた生活圏を乱れたまま貫く思想である。小生が勘付いていながら悶々と言葉に出来なかったことを、かゆい所に手が届くとばかりに直言してくる…かといって、気の合うのばかり読むのが読書ではないとは思いつつ…。
「the gerogerigegege/mort douce live(1996)sound factory records」 2010年7月18日 微熱白書
体をだるく蝕む冷房から、スイカの臭いがする気持ち悪さ。
歌を一つ。
夏至越えて山は腹切る滴れや道に嵩張る碧葉の血潮
下の句が上の句にとって説明的になっていると大和歌はつまらないものだが、この歌もそのようになった感あり。うまい事、下の句で鮮やかな展開が見せられなかったと反省すべきだろう。
心身の弱りが全的に衰弱しつつ収束にはならず延延続くのだから累積疲労は増すばかり、先日から摂氏27℃の微熱が始まり、体の節々が鈍重に痛む。弱りが、心身と、心中しようとでもしているようだ…弱りが無くなった時、自分も亡くなるだろう。もう、作文では井伏鱒二の、他愛無い、読後に何も残らぬ釣宿随筆、音楽ではレジデンツしか、体が受け付けなくなってしまった…摂生のため今宵は酒を止しているが、すると、意識が鮮明なためか日々の汚辱や屈辱、憎しみや嫉みといった汚穢の思いばかりが沸々する…否、酔っていようが同じことだった…。
王道なきロック史低迷編。ゲロゲリゲゲゲという名前。日本。録音は1987~1988。ギターやベースの音を激しく歪ませたり電子ノイズの嵐、フリー演奏、雄叫びなどを織り交ぜたからといって、音楽として、荒みに至るわけではない、ということが反面教師的によく分かるCDであった。だからといって、何が足りないのか、どうすれば荒みに至るのか、説明責任などありはしない。ただし、似非荒みと本物の荒みの峻別という保身にふんぞり返って胡坐かくつもりもない。似非と真の交替劇など、幾らでもありうるだろうが、そんな、鵜の目鷹の目流行跋渉も、どうでもよいだろう。
そういえば、2、3週間前の朝日新聞で、名前は忘れたが、あるバンドが、ステージで、演奏を挟みながら、コンビニ弁当を食べたりダンボールを積み上げたりする試み、というのを取り上げていた。その首謀者は、ライブに行って金払えば音楽が聴ける、と思われている前提を崩したかった、といった内容のことを言っていた。以前、小生も本ブログで似たような問題意識を述べたことがあったし、小生以前の先人においても、既に似たような発言ないしは試みはあっただろう。それを、今、実際に、なさっているようであった。それはそれで善行だと思われる。
小生は10数年前、リモコンでの、エアコンのオン、オフや風量、温度設定によって微妙に変化するだろう音やエアコン自体の持続音を披露するライブ、というのを思い立ったことがある。エアコンの、サーサーフォーフォーいう音は心地好いし、風量や湿度設定を変えることでかすかなニュアンスが生まれたら面白そうだ、と思った次第。とある公共施設の一室がイベント用にかりられるようになっていて、応募しようとおもったが、気持ちが折れて、電話して呼び出し音一回で自分から切ってしまった。今でも後悔している。気持ちが折れたのは、このライブの内容についてではなくて、電話相手と交渉しなければならないことについて、であった。
最近、ケージの本を読んでいると、半世紀前に、ケージは、「冷蔵庫の持続音は美しい」、と言っていた。インタビュアーは、「冷蔵庫が故障した時のガタピシ音が美しいのですか」、と確認を求めると、ケージは、「いや、冷蔵庫が正常に作動している時の持続音が美しい」、と言っていた…。既に先人が、自分と同じような感性を持ちえていた、ということだった…。
そういうわけで既にケージが発想していたことではあるが、いずれ、機会があればエアコンライブしたいものだ…歴史的意義もさほど無いにしても、義務として、やっておかなければならないこともあるだろう、いや、機会など、自分が作らなければ一生来ないだろう…。
juntaro yamanouchi: bass, voice, noise, all sound
toshinori fukuda: drums
hironao komaki: guitar
「daniel menche/screaming caress(1997)dfk23」 2010年7月11日 夏越祭
政見放送で自らの政策を語る党首と、その傍らにいる手話の人との遠近法が非情に気になる。正確には隣ではなく、党首の斜め後ろに手話の人が居て、目立たないように小さく写るようにしているのだろうが、古典的SFの手法みたいで、手話の人が正真正銘の小人(こびと)に見えるではないか…
クッソウ…何だかんだで…モーニング誌掲載の…「僕はビートルズ」の動向が気になるじゃないかァ…黙殺すべきだという意見は今でも変わらないが、それでもほぼ毎回読んでしまうので、これではれっきとした熱い読者ではないか…情けない…。
テレヴィなぞをつらつら見るとも無く視聴していると、白シャツにループタイを装うナイス男性を見受けることがある…夏が来た…日本の夏、戦後の夏が…。映画「耳をすませば」を漫然と視聴、雫と天沢とのうれしはずかし裏声ジャムセッションに飛び入り参加した三人の老人のうちの一人、タンバリンやリコーダーなどのマルチプレーヤーの老人が、ちゃんと、ループタイを身につけているではないか…分かっておる、と合点しつつ、さらに見ると、翌日、西洋アンティーク系雑貨屋の老人の胸元に、またもやループタイが…。満足であるが、しかし、店内の、西洋アンティーク小物に対する精緻な書き込み陰影描写に比して、ループタイの描写がまったくおざなりであり、残念であった。ハヤオ・ミヤザキはループタイの何たるかが分かっていない証左である。ともあれ、耳をすませばは、原作の、柊あおい先生の漫画の方も結構面白い。雫の友達の赤毛のお下げの女の子は、男に恋したことで夢や幻想を失った、魅力なき赤毛のアンであり、将来の雫の隠喩であろうことは映画でも仄めかしていたが、原作では、天沢が雫に、幼い告白をするシーンで、天沢の顔が、告白にそぐわぬ、恐ろしくも蒼白にして壮絶な呈を示したのだった…これは、雫のファンタジーの死の宣告するものであった…このことを証明するかのように、雫は、その後、自分の物語に、ヒロインのお相手としての天沢らしき男を追加で登場させちゃったりして雫自身と思しき姫と一緒に冒険までさせる始末なのだ…最早、ファンタジー原石を磨く磨かないの問題ではない、ただの色恋沙汰に堕したのであった…。
王道なきロック史低迷編。なんて読むのだろう、ダニエル・メンケでいいのだろうか。1997年、ドイツの電子脅迫音響作品である。とにかく最悪である。このアルバムは、卒業する先輩からもらったもの。収集道というのは、当然ながら収集家が数寄な物を集めるのであるが、物がある程度集まりだすと、ある時点から、物が物を呼ぶような感あり。茶碗なども最近は縁あって人から譲ってもらったりすることもあるし、有り難いものである…しかしこの音源は、聞くと、本当に胸糞悪くなる。無論、ファンキーモンキーベイベーだのミスチルだのを聞かされる拷問における苦しさとは別種の、どちらかというとほくそ笑みたくなる種類の胸糞悪さだが、一度聞いたら二度と聞きたくない代物であることは確かだ…最高だ…。
まさに電子音の鬼畜である。まずしょっぱなから、地獄の門の容赦ない閉門に挟まれて二回目で断頭されるがごとく、物凄い音圧の閉門の電子音響が耳をつんざく…心の臓を容赦なく魂消らせる…そこからはもう、薄気味悪い静と動を過剰に織り交ぜながら、陰湿で脅迫的に、殺意や執念を増大加速させる、嫌がらせを目的にしているのだけがはっきりとした電子音像である。ここまで、ひたすらゴモゴモ、ドォーンドォーン、あるいは空襲爆撃の最中のようなヒュウヒュウドカンドカン電子音響で、人間の憎悪を剥きだした音響を、小生は知らない。荒み、キツめの芸能でないと、どうにも我慢ならない小生であっても、これは、限界に位置するかもしれない…、まだ灰野敬二や非常階段などの程度のノイズのほうが、受容しやすい。
それはそうと、既に所持しているファッグズのアルバムを、所持しているのを忘れて、また、買ってしまった…、家に帰ったら、棚の隅に、同じのがあるではないか…同じ物を買ってしまう性向を、どうにかしたい…。
「francisco lopez/untites #91(1999)」 2010年7月4日 監視
下線部追記。
連日の高湿度のためなのか慢性的な疾患なのか、そして風邪が減衰しつつ長引き、恐らくクーラーによる筋肉の冷えの影響も大きいと思われるが、兎も角、鉛のようにだるく、体調が悪い…。クーラーを26度にするとすこぶる寒く、しかし27度にするとすこぶる暑い三菱製クーラー、26.5度に設定したいが適わず、臍を噛む思いだ…。三菱のエアコンはタフだがうるさく強力すぎる、対して別室で使っているダイキンのエアコンはツボを押さえた繊細さがあり、よい…。そして、小生の車庫入れの時には、いつも、向かいの一軒家の熟年男性が、カーテンを開けてしつこく、小生が部屋に入るまでジッと監視してくる…心がおかしくなりそうだ…監視を察した時に、何度か、こちらからも熟年の方をジッと見続けてやったこともあったが、向こうから目をそらす事無く、執念深く小生を観察してくる…怒鳴り込むべきなんだろうか…。いずれにせよ理由も無く追い詰められている…無論、理由があって納得しているのならば追い詰められていることにはならぬのだが…。
全く身に覚えの無い宴会に出席させられることになり、今更断るのも幹事の人に迷惑がかかるし何よりそういったちょっとした手続きでもひどく億劫なので、ずるずると参加。送迎バスに揺られ、ホテル的な大きい会場に拉致された…と思ったら、小生が祝言を挙げたところであった。7~8人程度が一組になって丸テーブルを囲む、そういった丸テーブルが幾つもあるパーティ形式。案の定、いつの間にか小生が居るテーブルに居た他の人々は立食パーティ的混雑のどさくさで権勢家や能力家に酒を注ぐ仕事をこなすためいなくなり、権勢も話題力も一切無い小生一人、丸テーブルに座って無言…飲食…不動…悪目立ち…。同じ会場にいる参加者に何の興味も無いのが露骨に態度に出てしまう小生が引き受けるべき、必然的な状況である…。
鬱屈していない時期は皆無の、低調極まる小生なれど、時として、ギュむっと心が鷲掴みされることもある…社屋の最上階に、とりあえず約束守りました的なつまらん茶室が新築されているが、茶室に至るまでの飛石脇に、夏目漱石の脳ほどの巨大なカサが笹原からぬきんでた、、真っ白のキノコがぬけぬけと生えていた。梅雨の雨をいっぱいに吸って!おおお、この巨大な白いキノコを、床の間にしつらえる茶花として用いたらどうだろう…、備前の鶴首、あるいは砧青磁の花入れにこのキノコをぶち込んだらさぞ面白かろう、少なくとも茶の湯でキノコを使ったことなど、聞いた事は無い…当代随一の花人、川瀬敏郎といえども、キノコは生けたことあるまい、ましてや金満池坊なぞ…。種々の想念がぐんぐん、夏雲のように盛り上がるではないか…。その日はお助けしそびれたが、もし翌日、まだそのキノコが生えておれば、早速お助けして、県内に住まう先輩に電報でも打って茶会に誘いたい、そして共にキノコを愛でたい、ケージでも聴きながら…そう思っていたが、翌日、件のキノコは排除されていた…茶会に使われたのなら本望だが、どうせ、下らない、会社のお稽古茶道(上田宗箇流!)なのだから、そんな才覚など期待できまい…。気持ち悪い、などといった幼稚な美意識によって、あの禍々しくも高貴な、白く大きいキノコは排除されたに違いない…。仕方が無い、自分で、山で、キノコを探しに行くしかない…。
王道なきロック史低迷編。フランシスコ・ロペス。アメリカ。1999。CDがCDケースに入っているだけ。ジャケットなど、無い。どうでもよいのだろう。通常、多くの人々が音楽を聴くような音量設定では、まず、このCDからは音は聞こえない。最大音量に設定して初めて、不安を殊更にあおる、ひたすらゴモゴモいう電子音がごくごくわずかに聴こえる。スピーカー自身が出す音とは異なる、明らかに故意の作曲になる、虚弱なる吃りの波濤。雲が何なのか知りたくて雲の中に入ったら、まさに五里霧中だったのだ。この音楽を聴く時の適切な音量というのはどうなのか、がいきなり問われる…。環境、聴取、沈黙…こういった音楽に対し、このような言葉を塗りたくって何事か説明することも可能だし、むしろこういった試みは、音楽の過剰な弱音と反比例して、コンセプチュアルな言説を高めがちであるが、最早、そんな必要もあるまい。いずれにせよ、1990年代になって初めて、電子音響は、既成楽器音という制度からの解放という役目を終えて、既成楽器音と同様に、人間の憎悪や不安をむき出す方法を見つけたのだった。次回、この辺についてさらに相応しい音響を紹介する。
「john hudak/brooklyn bridge(1998)coal002」 2010年6月27日 救済
下記の下線部、緊急加筆しました。
たとえ明文化されていようとも従う気など毛頭ないが暗に察するよう強要されている、いわゆる強制志願(特攻隊…)のような雰囲気に根差した根回しや儀礼に対する小生の生来の無頓着無神経に対して、予め出来るだけ反論を封じ込めようとする周到さで断固として己を守護しようとする折り目正しい怒りの正論が長大な書面で送り付けられたりした。また、早い夏ばてなのかこのところ体調が優れず、尚且つ、自分の荒んだ食生活から類推される将来の健康不安も重なり、更に更に、行く先々で事がうまく運ばない憔悴の日々。機種変更した携帯電話の受話音量を最大設定にしても、出力される実際の音量は異常に小さくて相手の話し声がほとんど聞き取れないという、我慢ならない椿事も小生を一層憔悴させた。
景気づけに激マズ寿司でも食ってやるかと思っていったら、普段は金曜日の夕方であっても客席ガラガラなのに、その日に限って満席、「お名前書いていただいてしばらくお待ちいただけますでしょうか。」店の前に並ぶなど馬鹿馬鹿しいししかも激マズのくせに待ってられるかと怒りがこみ上げさっさと出る、どうしようもなくささくれ立った空しさ。本日、休日出勤で雨に濡れ、明らかに風邪を引いて喉が痛い。そういえば、風邪引いて熱っぽい、ということだけを深刻にだらだら書き上げたのが暗夜行路という珍妙小説だったと思う。
去年の年末あたり、専ら小生の心で、こらえ難くナチュラル系のファッションや暮らしが気になり、いずこの本屋の一角をも必ず占めているだろうナチュラル系雑誌を買いまくっていた。その詳細の論述からは、疲労ゆえにまた逃げさせていただくが、そうした縁でナチュラル系フリーマーケットにのこのこ押しかけたのが先週のこと、これも次回。冷房つけっぱなしで寝たら全身がだるい。のしかかる気ぶっせいに出口はないのか…。
追い詰められた人間であればこそ、他愛の無い、小さな、ほとんど希望とはいえないような些細な事で、救われてしまうのだろう、と思った。現実的権能など及ぼしようもない、およそ無意味無価値な諸芸能が、追い詰められた人間の琴線にこそ触れてしまう事が、必ずしも諸芸能をこうした枠組みに収める必然性は無いにしても、どうしようもなく在ってしまう。とことん追い詰められている人間は、その人の最悪状況を根本治癒してくれるような大きい幸福ないしは、その人の不幸を補うに余りある幸福が供されなければ救われないのではないかと人々は思われるかもしれない。しかし、実際には、追い詰められている人間であればあるほど、些細な事を独自に精密に感受し、現世において別次元を見出す。溺れる者は藁をも掴む…これは溺れる者の軽率な愚を笑う一方で、溺れる者の、他愛無い軽率にも縋らざるを得ない切羽詰った実態を表した格言なのだろう…希望の無い救いである。溺れる者は、あまりに危うく流れる藁でないと、救われない。むしろ、過剰な幸福でないと救われない、あるいは過剰な幸福でも救われないのが、追い詰められていない人間であろう。あるいは、自分を追い詰めることすら出来ぬ奴隷制度人間…。小生は、この、追い詰められていない人間を、恵まれた人、と書く気が起きない…。救い、という概念で救われたいとは思わない、と考えるのは簡単であるが、それは、まことには追い詰められてはいない人間の謂いである。小生は真宗ではないが、飢饉や疫病、火事に辻風、地震に戦乱、肉親も含めた裏切りといった日本中世における浄土真宗(南無阿弥陀仏題目、他力本願)の基本はここにあるのだろう…。シモーニュ・ヴェイユもしかり。中世の日本庶民ほど追い詰められていない小生であるが、小生が住まう賃貸アパートの大家さんがアパートのバルコニーで種々の野菜や花を育てており、共同掲示板に「きゅうりをどうぞ」。棘がピンピンに尖った大ぶりのキュウリを一本、もいだ、頂戴した。少しうれしくなり、早速、金山寺もろみ味噌を別途手配、酒肴の支度に余念なし。
何だかんだで学ぶことも多かったスコラが終わって始まったのがソングライターズ、今視聴しながら書いている。ソングライターズという題目が如実に示すように、いきなりロックから遠ざかった感あり。興醒めである。スコラは、YMOは、まだロックであった、少なくともミスチルや佐野元春なんぞよりは…。ビートルズよりはローリングストーンズ、ビートルズよりはザッパ、はっぴいえんどよりははちみつぱい、YMOよりはムーンライダーズ、ウッドストックよりはワイト島、ゴダールよりはトリュフォー、ピカソよりはブラック、モンドリアンよりはマレーヴィチ…そんなことを思うだけで原理的に説明するつもりも無いが、こういった対立を嫌忌したり壊したり建て増ししたりする以前の低レベルな問題領域にて、醜悪なワークショップが学生とミスチルとの間で繰り広げられている…。鈴木慶一が出る時は気になる…。
低迷編。ジョン・ハダックという人のフィールドレコーディングとスタジオ電子音とのフュージョン作品。1998、アメリカ。紙にCDが入っているだけで何の解説も無いのでどういった素性の人かは皆目分からない。もう、承認され流通する音楽的人脈とかと関係ないところで各自が勝手にやっていてもおかしくない実験音響の世界なのだろう。まさに梅雨の雨雲を這い進むような、もわもわ音やどうどう音、背骨が折られるような音が、分別や形を非力に拒絶している。ブルックリン橋のケーブルや橋桁といった構造体のきしみ音を律儀に増幅させつつ、控え目な電子音を絡ませる、トータル1時間ほどのキツめ音像。
「jurgen brendel etc/moves(1996)scd022」 2010年6月13日 就任
お好み焼き屋で本宮氏のヤクザ漫画、男樹四代目なぞ読んでいると、敵の組の弱みを握った組長が手下に指示する台詞「それ、マスコミにチンコロ入れたれや」。
あまりにキツメの世界に耐えられず、横山光輝が画を担当した、捨て童子 松平忠輝なぞに移る。家康の六男にして蘭方医学に精通したクリスチャンの松平忠輝が、キリスト教禁令の世において、時の将軍、秀忠に何かと狙われるという話。光輝の絵が、心に滲みます。蒼天航路もいいが、光輝の三国志が滲みるのは加齢のせいなのか、先頃、齢32の誕生日を迎えて気弱に思う。いままではひたすらビールだったのが、最近になって、ビールの炭酸が胸につかえるようになって何だか苦しく、日本酒や焼酎に傾き始めたという体調の変化も否めず、年ということが不吉のようによぎる。
件の組長は期せずしてマスコミの垂れ流す情報のチンコロ性について唾棄したわけだが、昨今の政治報道の劣悪ぶり、これまで黙っていたが、もう我慢ならぬところまで来た。来週、多いに鬱憤を晴らす所存。たけしのアウトレイジが見たい。ガレージやサイケを通して荒みということを考えてきたわけだが、アウトレイジ見た後、たけしの荒みとさんまの荒みについて、比較する予定。
王道なきロック史低迷編。これまで、どちらかというと公認の流通レコードを引き合いに出してきたが、音楽は、当然のことながら、かようにせせこましい商品流通圏には留まらないし、何となれば少なくとも健聴者にとってこの世は音に満ちている。難聴者あるいは聾唖者にとっての音楽という批判もいずれ必要だろう。それは兎も角、どこで手に入れたのやら今となっては謎であるが恐らく、とある情報筋の通販でお助けしたと思う。ドイツはフランクフルトの、物音系にして1996年。
西洋古典音楽の文脈からつかず離れずのようにしてストラヴィンスキーやドビュッシーから現代音楽の流れにもジョン・ケージという人は居た。一方で彼は、ロシア革命やドイツ革命前夜のダダや表現主義における詩や絵画でのラディカルな試みの派生あるいは相互侵入、すなわち絵画による音楽批判やその逆といった馴れ初めの隔世遺伝のようにして、つまり自発的に発生する地雷の不連続性ということで王道なきロック史とも、通ずるという意味ではなく自然するわけだがようするに60年代サイケの従兄弟のようなフルクサス運動と現代音楽の合流点をなしてもいた。そしてその後、この両者はこのように一度きりの合流した後、各々の流れを作るに至ったのは幸か不幸か分からない。現代音楽のその後の動きは別稿に譲るとして、フルクサス運動は名を変え場所を変え、小生の知る限りでは90年代終りまでは息づいていた。中でもフィールドレコーディングや物音派は、例えば日本の絵画史の80年代のいわゆる物派とも疎通しかねないが、まずは、確かにあった、そしてこれからもあり続けるだろうことを、勝手ながらここに宣言したい。その物音派の人々が何をしたのかは、音を聴けば瞭然である。ずばり、物音である。
写真の通りである。珈琲カップや椅子、バケツやスプーンなどに、直接、複数の市販のモーターの軸をあてがう。そして、任意のタイミングで各々のモーターに電流を流して、その物の生の音を愚直なまでに発生させる単純極まりない、仕掛けのむき出しがそのままである。最早音楽や歌といった人間やロマンティシズムを否定し去ったものである。ノリや癒しを根本から破竹する物音の野卑の発見は、ダダ以来、継承されず、その都度発見されるしかなかった。音の実存性といってもいいし、音の鳴き声がぬっとでてくる様が、凄みを捨て去って、あっさり簡素である。(音を発見する、という矛盾はについてはいずれ詳論するが、ロマン主義音楽において音楽は時の芸術として称揚されてきたが、これの批判として20世紀、ケージらに代表される図形楽譜のように、空間による、音楽の時間性権威への侵略という仕方の批判がなされたことを指摘しておく)
「ymo/浮気な僕ら(1983)alca-5222」 2010年6月7日 辞任
今、スコラを楽しく視聴しながら書いている。だからこそいささか書きにくいが指摘しないわけにはいかぬ先々週のフリージャズ編、その体たらくである。音楽に素養があるゆえに番組に招聘された学生どもに、坂本氏と山下洋輔、そして准教授らしき男性が、自由に、思うがままに、音を、出来るだけ速く出すように言ったのだった。それに応える学生の演奏は、結局、いずれも、手にしている既成楽器を色々やらかしたりして、要するに所持している、得意としている楽器の許容範囲のことをやっているだけだったのである。酒が存分に入っているため着火しやすくなっている小生の怒りの焔が、ボッと四散したのである。小生が望んだ場面ないしは音を以下に列挙。
床を噛む音を出せ。
鍵盤を舐める音を出せ。
准教授からサックスを奪ってピアノの脚を叩きまくる音を出せ。
ピアノの鍵盤に豆腐を挟む音を出せ。
ピアノの弦に自ら挟まる音を出せ。
坂本龍一の白髪をバリカンで剃る音を出せ。反撃されて自分も剃られる音を出せ。
山下洋輔の顔をビンタする音を出せ。反撃されて自分も殴られる音を出せ。
サイが分娩する音を出せ。
あえてバッハを演奏せよ。
…その他、幾らでも。
幾らでもやりようはあるだろう。せめて、床を噛むぐらいのことはすべきであったのだ、それ以下のことは確かに何かとリスクを伴うゆえ。山下氏は、「自由にやっていい、しかし、責任も伴うがな」といった大人的内容のことも言っていたが、負うべき責任など音楽においてどこにも無い。義務も無い。音楽において守るべきものなど何もない。音楽を自己規定して縮こまる必要性もなく、空気の無い宇宙も含めて音楽という名においてどこまでもあけすけに体当たりを広げればよいだろう。反撃される覚悟があるなら、器物破損その他法的犯罪も音楽活動に含んでもよい。それがフリーである。
しかし飼い馴らされた公認音楽学生に何を求めても無駄であった。ならば先達として坂本氏と山下氏がすべきであったのを、なんという事だろう。ひとしきり学生どものフリー演奏で白々しく盛り上がった後、番組のラスト、坂本氏と山下氏は、まるで先ほどのフリー演奏が社会社制度に咎められるのを率先して恐れ、取り繕うかのように、臭い物に蓋するように、甘ったるくたるんだ映画音楽を合奏したのだった。それを聴いた小生は、情けない、と思った。あそこでは、二人が、真のフリー音楽をぶちまけるべきであったのだ。いや、しかし、あえてあの場面でバッハを、と提案した手前、あの映画音楽も、フリーの、説き明かされるのを拒む側面であったのか、といううがった聞き方もできる。だとしたらなかなかの老獪ぶり。それ、甲。
YMO。日本。プログレ的な味付けとは異なった、シンセサイザー音による既成楽器音の模倣や逸脱の主体的な使用という意味でテクノ(今はあまり聞かれない範疇かもしれない)の、クラフトワークと匹敵しうる先鋒の一つであるため、モダン・ポップという脈絡で捉えるのは端から無理にしてもその分家筋的なテクノポップとも捕らえがたい音楽ではあった。モダンあるいはテクノポップはパンクの残響ないしは批判が含まれるため前のめりな尖りが錆び付いていようとも分かりやすい血を滴らせるが、YMOには、一聴して説得させるという尖りの功罪は無かった。その詳細をほぐすのはまたの機会にしたいが、いずれにせよYMOは、否、YMO史は、ジャズ/ロック/ポップス/古典~現代音楽史を請け負うがごとくに語らなければならないだろう。
そうしたYMOの端緒とするアルバムにはファーストあたりが順当に相応しかろうが、どっこい、結果的には、この浮気な僕らも乙ではある。YMOのアルバム群の中では意識的なまでに陽性に傾く皮肉ともとれるテクノ歌謡である。
電子の海の波打ち際で、時が崩れた。
思いの他、単位時間当たりの音数が多いわりにはすっきりして聞こえつつ、やはり凝ったアレンジが聴かせる君に、胸キュンは永遠の夏休みトロピカルであり、はっきりと、小生には、キュンキュン来る。思慮の足りなさそうなポップ明るさを持ち味であるかのように蓮っ葉な若作りを突貫させる高橋氏。いかにシティ派を装ってアスファルトを歩いていてもその下で暗くわだかまる、綯い交ぜに生き物とその屍骸が蓄熱する臭い立てる土を直に踏み歩くが如く、凶暴な内向性を露に、ぼそりと黙らせる気骨は時と場所を弁えぬ、人生への楔、それが細野氏。そして、終わりの日の夏の日を既に見据えて、たとえ軽やかな感性なり知性なりとして揶揄されようとも誰よりも失望しえた、とぼけたシニカルを漣のように愚痴る坂本氏。そうした三者三様の有様が楽曲ごとに明解に示されているのがこのアルバムゆえ、である。
細野晴臣
坂本龍一
高橋幸宏