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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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延期のお知らせ

家人にパソコンを奪われて今回は書けそうにない。
次の土日に書きます。日本焼物紀行&王道なきロック史ハードロック編番外編の豪華合同企画!

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旅立ちを前に

明日、というよりか今日なんだけれども、尼崎でのイエス来日公演に行きますので今週は休載いたします。
21日・・・関西では三大縁日の内、二つまでも開催される血沸き肉躍る日にちである。京都の東寺の弘法市か大阪の四天王寺の大師会か、どちらに行くべきか煩悶している。野外での骨董市なので天気がすこぶる心配だ。古銅の火鉢または位牌代わりに茶合を納めるための古格ある厨子、または彫刻刀を収納するための侘びた蓋付き小箱なぞを狙っている。ザ・バンドのドラム、リヴォン・ヘルム氏逝去の報。往年のロック芸能者たちが、断続的に鬼籍に入る時代になってきたようだ…音楽的にはあまり関係ないだろうになぜか、今日のイエスのコンサートで、なぜか、とはいえ音楽する人が己に近しい音楽しか聴いていないということはありえぬのだからこうしたこともありえるかもしれぬがイエスがザ・バンドの「怒りの涙」を追悼の意を込めて歌うのを身勝手に夢想してしまう。そういえば来週28日は、今日イエスがコンサートする尼崎のアルカイックホールにて、ザ・フーのロジャー・ダルトリーが来日公演する予定だったな…どこかで見たうろ覚えの記事だが、ちょっこし調べてみると…ええっ、「今回の公演ではザ・フーのオリジナル・アルバム『トミー』を完全再現するほか、ザ・フーのヒット曲も披露する。」って、マジかよ!おい!もしかしてこっちのほうに行くべきであったか。しかしさすがにもうチケット取れないだろうし、いや、試してないけれども、しかし関西に2週続けてコンサートに行くのもなんだし、実家とかに顔見せないとだし、どうしたものか・・・いや、ロジャーのほかのメンバーはどうなんだ…何々、ピート・タウンゼントの弟のサイモン・タウンゼントと来日、とある。ザ・フーらしいが、なんだそのいかがわしさは。この期に及んでどこまでばかばかしいのだろう、いや、サイモンの実力のほどは存じ上げないが…気になるっちゃ気になるが、行くほどのことでもないか、とも思いなおす。脇腹の痛み、ほぼ治った。医者の見立て正しき。

同じような句を以前吐いたことがあったがまた同じような状況になったのだから致し方なし。

家の酒を飲みつくしてぞ春の闇

野に遊んで詠める・・・

土筆そよいでふぐりの日向たんぽぽぽ

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ハードロック編 第三夜「yes/yes songs(1973)下ごしらえ」




 仄暗い底から音も無く注がれる酒を嚥下すればほっこりした温もりで、四六時中持続する右脇腹の痛みも少し痺れ軽減されるにしても、一向に治癒の気配を見せぬ…ほんの少し良くなったような気がするのも文字通り気のせいのような気もして、薄い不安は晴れやしない。日曜日も診療していたので行ったがそのコンビニエンスゆえにどこか専門性の深みに欠けるような気がする小奇麗なクリニックでは「レントゲンで分かる範囲では異状は見られません」という、原発事故対応中の関係者の科学的答弁のような結論しか得られず、問題なのはレントゲンでは映らぬ、X線を透過しやすいのだろう軟骨と、炭カルが大分を占めるからX線を反射して画像になるいわゆる骨である肋骨との接合部ないしは軟骨部なのだからレントゲンで見えるところは大丈夫と太鼓判押されたところでだからどうなのだという恐れは拭えぬわけで、治癒に二週間程度かかると言われても一週間たった今でさえもいっかな好調の兆しが見えぬとあっては、軟骨の折れや接合部のずれ、といった、鎮痛剤や湿布ごときで治るはずの無い重篤な事態を思い浮かべざるを得ず、はたまたそうした事実による、予想だにせぬ内臓系への損傷、それによる劇的な病状悪化へのなだれ込みも無いとは言い切れぬわけで、もし来週末まで耐えても恢復の兆しが見えぬようであれば転院も辞さぬとはいえ、来週は自分の魂の問題と同義であるイエスの来日公演のため尼崎まで這ってでも参上せねばならぬ境遇ゆえ新たな病院探しなぞできぬし、しかし来週を逃せば長期連休で病院は休みだろうし来週までに治らなかったらと思うとやり場のないむしゃくしゃと殺伐で居ても立ってもいられぬ状況でありながら痛みは通奏低音のように生活の小さな楽しみの芽を根こそぎ刈る忌々しさに、もう、差し当たって、浮かばれぬばかりか深まるばかりの飲酒によって心身の痛みを誤魔化す体たらくである。今日、新たな病院を探すのは億劫だ。水玉模様のド派手で蠱惑的な恐竜の卵が脇腹に挟まったような、妙に異物感のある痛みのような…自分の感覚なぞ一切信じてはいないが…。口元を覆うようにぐい飲みで飲むいぎたなさ。

 もう一つの苦悩は、本日、日曜日の深夜、見切り発車で、いろんな理由があって、組織的同意無く自分の独断でこれまで試していない方法で生産することになったこと…もう時間も無く、且つ、改めてテスト時間を別途確保するための煩雑すぎる根回しなどの精神的苦痛に打ちのめされるという自分の生来の怠惰やこの期に及んで方向転換するための膂力なぞあるはずもないことによるところが大きいが、にもかかわらず、思いつめると破れかぶれになって瞬間的で空疎な度胸の突発が最も危険な方向へと打って出てしまう自分の性分が情けなく、思い余って、ええい、ままよとばかりに見切り発車でこっそりやることにしたが自分では最早どうにもならぬ事情でよりによって日曜日の夜中にやることになるとは。最悪な事態になると、設備が破壊されるかもしれない…数億円の設備の損壊も、最早自分ではどうにもならぬ責任の重さだが、何より生産が止まってしまうということが、全く余裕の無い計画の中で深刻に致命的である…夜中、もしくは早朝に激怒電話がかかってきたら、おしまいである。取り返しはつかない。死ぬわけじゃないからいいか、と、ぎりぎり思う。書けば心のささくれ立ちが落ち着くかと思ってかような下らぬ個人的な事を吐露したが、まったく落ち着かぬばかりか動悸で息苦しい。落ち着いて眠れないし酒も飲めない何も手につかないし気が気でない。こんなことならやめとけばよかったと後悔しても後の祭り、もう、突っ走るしかない。大丈夫、きっと、うまくいく。安全装置が働いて損壊前に安全停止するはず、しかし、それを上回るほどの暴走が今回のやり方では想定されうるからこんなに怯えている。生き抜く。生き抜け。おさまらない脇腹の受苦に耐えているのだから、今回の件がチャラになってくれないだろうか、と、俄仕込みの低姿勢でさもしい事を思う。

 木蓮の花は雨に弱く風に強し
 腐れども散るべき時を自ら訣す

 効果無き湿布冷たくもなし葉桜忌

 細君切り立ての爪たどたどしく小さい

 ささやかな欲望を詠める…

 位牌替わりに厨子に納まれ茶合かな

 やり切れなくて、また、ソニックスを聴く。ケロイドの声のようだ、と叫ぶように思う。

 金正恩=きれいなジャイアン(女神「あなたが落としたのはこちらのきれいなジャイアンですか?」のび太、ドラえもん「いいえ!、もっと汚いのです」女神「あなたは正直なので、きれいなジャイアンをあげましょう」)

 ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
       (「yes songs, the song remains the same, who's next!」)

 ハードロック編唯一の問答は、これだ。

 問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
 答:「それは、ハードロックである」

 yes/yes songs(1973)atlantic7576-82682-2の下ごしらえ

2.siberian khatru

 いきなりの躓き…khatruって何だ。旧約聖書のヤーウェ的な、安易に読むことを許さぬ子音の素っ気なくも神聖な羅列。辞書に載っていないじゃないか…一説によると、ジョン・アンダーソンの珍造語だという…一筋縄ではいかぬことを、がつんと示してくる。気を取り直して、では、これから、この歌詞の、己の魂への刷り込み作業を行う。

2.シベリアのカートゥル

餌食になった鳥を歌え
美しさが君の足元から始まる
君は決まりを信じるだろうか?
 
黄金の、錆びない爪が
人間をはるかに引き裂いた
彼らが究極だと見なした人間を

シベリアでさえも動く

(来週に続く…続くんだけれども、思いの外時間がかかる…ちょっとやり方を考え直さないといけないかも)

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ハードロック編 第二夜



 シメジでも加えてみるか夢の雷

 亀虫が夜明けのカーテンに御座候

 白き吐血かフロントガラスに鳥の糞 

 どんよりとして、もう、やる気が失せた。このところ立て続けに淡淡斎好み宇宙コロニー形車軸釜や蜂図彫刻煤竹茶合、イエスの公演チケット等、己の欲する物を所持することになった。しかしながら、落語の帯久じゃないがそれがケチのつけ始めで。薄薄怯え、もう、これからいいことなんかないに違いない、不幸なことしか起きないに違いないと思い込んでいたところへ、案の定、そらやっぱり、さもありなんとばかりの北叟笑みが何処からともなく聴こえる…仕事中に75kgほどの資材を台車で運搬中、やっぱり荷崩れを起こし、足場の悪い処で荷組みをやり直していると腰をかばう為に変な姿勢で荷を引っ張った途端、右脇腹を、さっと懐に飛び込んできた猛禽類の鋭い嘴で抉られたような鋭い痛みが走り、痛みは残るものの腰じゃなくてよかったと己を慰めながら平日はだましだまし働くが、土曜日の朝、起き上がろうとすると、右肩と右脇腹に、どうにも堪えきれぬほど鋭痛が走り、起き上がるのに至極難儀する…単なる筋肉痛だろうと思うも、経時で悪化している様子から、骨や関節への損傷も予想され、不安は募る。日曜日、痛みはおさまる気配を見せぬので、思い切って病院へ。日曜日も営業しているそこに行き、レントゲン…指触での所見でも分かることだが痛みは、背骨から脇腹に伸びる肋骨と、その肋骨とつながって腹を包むようにして胸骨へと至る軟骨との、その接合部およびその近辺の筋肉の損傷によるのだろうということであった。結局、レントゲンでは肋骨は映るが軟骨はよく分からぬらしく(肋骨の異常は無し)、肝心の、軟骨と肋骨との接合部や軟骨の損傷の詳細は分からぬわけで予測でしかなく、どうにもならぬということで何となく曖昧なまま、痛み止めと湿布をもらう。

 労災、という言葉がよぎる…。よぎるのは、数年前の出来事…まあ、労災なんだけれども、20代前半の、まだ首筋に幼さの残る技術部員の男が、グラインダーでの研磨作業中に指を切創、救急搬送され数針縫うという労災があった。緊急で開かれた安全委員会に、頭数合わせで組合側として何となく出席した小生は、各委員列席のもとに、病院から戻ってきた彼が事情聴取のため出頭してきた現場に立ち会ったのであった。彼は、なぜか、泣いていた。20代そこそこのいい年した大人の男が、何を泣いているのだろう…と思った。まさか、傷口を縫うのが怖くて泣いているのじゃあるまい、もう病院ではないし、公の場で、人前で、何事なのだろう、と怪訝に思っていたが、彼の、長身を濡れそぼらせてしゅんとしょぼくれた態度を、幾分意地悪く見透かしてみるに、どうも、つまり、会社=世間様を騒がせてしまった自分の不甲斐無さへの情けなさが嵩じて、自責の念で泣いているようなのである。責任関係はどうあれ、ともかく怪我したのは自分であるのに、何故か自分を責め、周囲の委員でさえも多少の当惑はあれどなんとなくそれで心情的には事がおさまった具合の満足げなのである。満更でもない感じ。彼…何故に、そこまで求められもせぬのに、組織的なものに恭順を示すのか。最近の若年層の、率先した媚び、というものの小汚さ、を思い出したと同時に、製造業特有なのか、個人の人生の安泰が目的のはずの職場の安全が、いつの間にか組織の安全へとすり替わっているのではないかと持ち前の率先した媚びによって過敏に先取りし、過剰な悔悛の態を見せるに至る倒錯した安全意識、そうした媚びを好材料とばかりに組織固めに具するしたたかな組織の姿、というのを垣間見た。反吐が出る…。

ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
       (「yes songs, the song remains the same, who's next!」)

 ハードロック編唯一の問答は、これだ。

 問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
 答:「それは、ハードロックである」

日曜日の夕方…天ぷらの化石のようにほとほと情熱が枯れ果てているので、致し方なく、今後の論の進め方、というよりも本論を形成するのに必要な下地作業の項目を並べる。本来ならばそうした下準備は終えた上で更に己の中で十分時間をとって寝かし、熟成させてからしかるべき時に本論に差し掛かりたいところであるがそんな余裕は毛頭ないので、練習帳と本番の区別なく露骨に恥じらいも無く晒す破目となる…かようにもったいぶったところでそこで云われる本論というのも、結局、既に筆耕した上記の記念碑じみた問答以外に何もないのであるが、間を遊行揺籃するしかない気ぜわしい人間の性ということで全てを棚上げして真顔で散らかしたい。

 歌詞の日本語訳を己で実施すべし。英語の辞書的な意味ぐらい理解できていればよいが、語学力が小さい小生では残念ながら、ぱっと見て分からない単語というのもある。そこで、この年で中学生じみた努力も辞さず逐語訳を施し、しかる後にイエスならイエスを聴く小生ならではの精神の軌跡を通して、自然として既に存在するイエスの音楽に匹敵する翻訳詩をまずは構築すべし。その翻訳と英語歌詞がマクドナルドのダブルチーズバーガーセット並みに己の意識において渾然と分かち難く、よく熟れさせること。いままでは己の怠惰故に歌詞の意味と楽曲の音楽性を切り離して、音楽性のみを味わってきたが、ロックは歌であることによるロック特有のいかがわしさ猥雑さから、このハードロック論において疎かにすることは、如何に怠惰な小生といえど、出来やしない。主としてこの3アルバムの全歌詞を、翻訳ソフトなど使わず、己自身で、歌うべし。

 この論では、イエスとレッド・ツェッペリンとザ・フーを、まさしく同時に聴くこと、というのを課している。彼らを同時に聴くこととは何か、ということを探求する予定だ。この事が便宜上、論を進めるための方法でもあり目的、あるいは結論にもなってはいるが、しかしそのことが何かしらの大上段の箴言ないしは己の生き方や共同体を組織立てるのに有用な勅語になりうるはずも無く、空回りに過ぎぬのは闇雲に幻聴している。件の記念碑といっても、それは土中を基礎とするものではない、何かのSFであったような、宙を漂泊する黒い石のようなものである。それも、既に粉々に砕け散っているといってもいい。我々が住む銀河はまさに空回りしているではないか。太陽系や銀河の中心はそれらの系を統べる中心にあらず、見かけの糸目に過ぎない。とはいえ、この、まさしく同時に聴くこと、というのを、彼らの音楽と対峙しうるまでの、啓蒙ならぬ迷妄思想にまであられもなく乱れさせるには、ただ言葉を紡いでいるだけでは興が乗らぬ。しかるに、本当に、3台の録音再生装置で以て、同時にこの三つのアルバムの音を再生させ、実際に小生が聴く必要があるだろう。全く新しい聴点(視点)が出現するかもしれない。差し当たって再生装置を2台しか所持していないから、まずは、可能な組み合わせをやってみるのもよいだろう。以下の聴き方の組み合わせを順不同でやる予定。あと1台、設備投資が必要。2台の再生装置から同時に空間に音を放出するのもよいし、2台からそれぞれイヤホーンを耳に繋げ、例えば右耳からイエス、左耳からザ・フーを心に注入するとまた違った状況になるかもしれぬ。何となれば耳が三つ欲しいところだが。

 ○イエス
 ○レッド・ツェッペリン
 ○ザ・フー
 ○イエスとレッド・ツェッペリン
 ○レッド・ツェッペリンとザ・フー
 ○ザ・フーとイエス
 ○イエスとレッド・ツェッペリンとザ・フー


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ハードロック編 第一夜

 週末、妻からの電話への返しにて詠める
 
 妻は鍵を失うてこそ自由なり春待ちの宵帰路の電鉄 

 軽く、取っ掛かりも、淡陽に撫ぜられて尖りが磨滅するように滑落した末、すっかり観念して春雨にくたす袂を絞れど一滴の努力も落ちぬ拍子抜けにも今更の無関心に、ほんわりと、豊かさから離縁する細めの揺らぎが風の隙間をひょうひょうと縫うて、途絶も糸目無く軽々と、笑いの無い楽しみが途方も無く淡く仄々と蒸せて、播種される畝とは別れたばかりの無根拠の高揚ばかりが無闇に薄まり、広がりはせぬ意固地が発芽の拳を土に貫く…フーのセルアウトを恒常的に聴き(実際に録音媒体を再生させて己の聴覚から外部入力することもあれば、記憶に残る曲の断片を四六時中反芻するという意味で)、西村賢太氏の私小説を青嵐のように読み下していると、歩行の連続性が滑落するような殺人的眩暈に襲われ、袋小路で淡く、おかしくなりそうになる…セルアウトについてはだいぶ以前に表層的な事をお為ごかしに記載している。西村氏の獰猛私小説…外見的には突沸的に繰り出される暴力の顕現が、結局言葉のみの純正品では有り得なかった身勝手な理性というものの一形態として目先の弱いものをぶん殴る底辺の現状を剥き出しにするものの、基本的に、基底のところでは言葉の豊穣への信仰に救われている、その是非を問うているわけではないが生死を意識しはせぬ生活者のしたたかさが、ぎりぎりのところで作品=商品となっている図太さの限界と、学ぶべき柵(しがらみ)と、断絶すべき馴れ合いなのだろう…理性というのは暴力という形で表出されることもある。一方で横溢するセルアウト(sell out)を、自分は何故聴いているのだろうか。この、終わりの歌を…。恐らく、例えばザッパのバーントウイニーサンドイッチと同じ格付けで、フーの大抵のアルバムを己の血肉にしてきて正直聞き飽きる寸前まで己を追い込みながらなおのことフーの音楽からその度毎に感動を受けるように内発的に感動を生産せざるを得ない切実な聴者が、ふと思い立って、フーの仕事の全貌が切羽詰った深刻さではなく飽くまでもやんわりと季節の空気を吸うようにして且つ一挙に滝のように己の脊髄を怒涛で伝ってくるアルバムが、このか弱きセルアウト(=売り切れ、裏切り)に他ならない。全体とは終わりである(all is end)、とは言い条、フーの音楽に全体は無い、よって終わりもないのであるが弱さというものに付け入るのが人の心と云うもの、虫唾が走るほど出鱈目な約束のようにして概念も人間を保護しようとしてくる。その作用に抗うことも可能であるがその護持の包摂もまとめて花いちもんめとばかりに芸能が迸るのだから、当ては外れる。取り残された荒野は相変わらず茫漠としている。セルアウトを聴いていると…脳が、右脳と左脳と小脳と海馬にすっきり分かれてそれぞれがぷかりぷかりと気球のように陽気に浮かんでいくような気分になる。

 言葉は精神の身体である。芸能は偶然の身体である。精神とは偶然か?否、そうとは言い切れない。精神は身体によって偶然から隔てられている。だからといって精神に偶然性が全く無いというわけではない。それゆえに芸能は偶然の身体であるといえる。

 完全に均質に分散されることなくざんぐりと荒く混ざる冷気をくるむ暖気にあてられてどこまでも淡い眩暈に襲われているのは、季節以外に動機が無い寄る辺なき心のせいのみではなく、寧ろ、望外に満たされてしまった物欲の、矛先の無い満たされ、によるものであった。インターネットのオークションという恐るべき世界で、船底一枚下の地獄を思わせる簡便さで、かねてより強欲していた茶釜と、故あって入手しなければならぬ茶合を所持できてしまったことによる、その余韻で、いまだに眩暈がしている…深酒によるビタミン不足が原因かと思って野菜ジュースとか飲んでいるが、効かず、眩暈はおさまらず、さらさらした陽の結晶を浴びると、意識の噛み合わせが断絶したかのような刹那の眩暈に襲われる。度肝抜く形態の、まさかの車軸釜…こんな逸品がこんなにいとも簡単に手に入るとは…今までの自分の涙ぐましい労苦と徒労は何だったのだ…これはまずい、身を持ち崩す地獄への案内人=ヤフーオークション、と細君に認定され、しばらく(?)禁止処置に遭う…確かに、やばい…オークション(競り)、という購買形態も、小生の新たな人間性を明るみにしてくる。酔いの人であって賭けの人ではないと自負していた小生である。酔いの人とは、方法と成功の破壊者である。賭けの人とは、方法と成功への偏愛者である。
 賭け事に金を賭ける、ということには、確かに、小生は何の興味も無い。金などどうでもよい…(骨董界には古銭好きとかもいるが、全く共感できぬ世界だ)しかるに、小生の心を鷲掴みにする器なり道具なり書画骨董なり美術品が我が物になるということだと、「なにがなんでも取りにいってやる」「物の価値の分からん奴にこの品を渡すわけにはいかぬ」というどす黒い物欲が否が応にもマグマ噴出、見境なく値を張ってしまう習性があるようなのである。骨董市などで、眼前の品物に業者が張った値にたじろいでしまうことはあっても、オークションという動的状況、自分が所持するために存在するような品物の値が、どこの馬の骨ともしれぬネット上の他人によってどんどん加速度的に上昇していきついに他人の手に渡りそうな危機的状況となれば、普段は尻込みしてしまう金額でも、どーんと張ってしまいそうな、自分が恐ろしい。漫画「骨董屋とうへんぼく」なども熟読しているから、中途半端に、骨董品の業者市場での手練手管を齧っているから、値を提示するタイミングとかのテクニック(方法)にのめり込みそうな自分が居て、恐ろしい。
 そもそもヤフーオークションという危うくも甘い蜜が充溢する蕊に分け入ることになったのは、偶然ネット検索で、小生の我儘で関わらせてもらっている工芸にまつわるところの品が売りに出されていたからで、それを競り落とさんがためである。先代の銘が入った、煤竹に蜂の細密彫刻を施した茶合なんだけれども、関係筋から偽物(ぎぶつ)であるという情報も得てはいたが写真を見る限りどうにも偽物だとは信じ難く、既に所持している偽物の茶合の、ヤドカリ彫刻と比べると技の冴えは今回の偽物?の方が遥かに上を行っているのは確かだ。偽物であるなら猶更世に出回らせる訳にはいかぬし、偽物だから修行の参考にしてはならぬかもしれぬが今の自分からすれば超絶技巧この上ないのは確かであるし、理屈はどうでもよい、兎に角欲しいという形振り構わぬ思いであった。ネットオークションというのは出品者が入札者に成りすまして(別のIDによって)、他の入札者が現れたらいい鴨とばかりに、客が諦めるか諦めないかのぎりぎりを狙って値を釣り上げている可能性もあると聞く…本当ならば由々しき事である。煤竹の茶合が欲しいなんぞ、小生も含めて、よっぽどの数奇者に違いない…この度小生は件の茶合を、ネット上のある入札者と最後まで競り合い、最終的に小生が500円差で競り落としたが、本当にそれが欲しいと思っている数奇者だったら、500円差くらいものともせず上に被せてきてもおかしくないはず…それが無かったということは、適当なところで手を打ってそこそこ儲けておこうとする入札者=出品者なのではなかったかと、勘繰っている。不当に値を釣り上げる、市場の不健全が拭えぬネットオークション界であるが、既に目ぼしい火鉢を見つけている。小生は、茶釜と風炉、の、あの一体感を嫌い、己の目に適った火鉢に、例の仰天車軸釜を据え付けようと企んでいる。饕餮紋を施した、六角形の銅器の呪的火鉢が気になる。今はおとなしくしているが…。

 何事も無かったかのように、全くの手ぶらで、ついに、ハードロック編が始まる。気楽な散歩のように、ほころぶ梅やコブシ、沈丁花の薫香を愛でながらというわけにもいかない、未熟故に肩肘張ったものとなろうが、さてどうなるか。井伏鱒二のようにハードロックを語りたいものだが、無理だろう。準備不足は否めないがしかし、もう、時間がない、小生に残された時間、というのも、痛切に感じ入るこの頃ゆえに、最早、その成すべき業の大きさにたじろいでいる場合ではない、という事だ。闇雲に始めるしかない、と己を奮い立たせる時、始まりとは闇雲であった、と、言葉の悪用の空梯子を掛ける浮足立ちのまま、野を走る兎に一念の誉れあれかし。

 ハードロック論「肯定の歌、永遠の歌、未来の歌」
       (「yes songs, song remains the same, who's next」)

 ハードロック編唯一の問答は、これだ。

 問:「イエスがレッド・ツェッペリンに聴こえ、レッド・ツェッペリンがザ・フーに聴こえ、ザ・フーがイエスに聴こえる時、私たちは何を聴いているのか」
 答:「それは、ハードロックである」

 この問答の間には、禅でいうところの問答無用と云うもので、本当は何も無い。無いが、しかし、聴こえるものがある…音楽を論ずることが音楽を聴くことに限りなく漸近しなければならないし、そうした聴き方=論じ方をしなければ、ハードロックというものは聴こえてこないだろう。便宜上、三つのバンドを取り上げているし、その中でも、イエスとツェッペリンについては、彼らの代表的なライブ版アルバムを聴取の対象とした。多少の語呂合わせ乃至は辻褄合わせでしかない意味でフーにおいてはライブ版ではないフーズネクストを題目に採用しているが、フーについてハードロック編において主に聴取するのはやはりライブ版アルバムの「ライブ アット リーズ」とする。(次回に続く)

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本日休載のお知らせ

彫刻修行のため岡山へ行き…今、帰ってきたところ…。並々ならぬ思い溢れど、本日休載いたしたくご容赦。先週はセルアウトばかり聴いていた。春にふさわしい…幾度となく聴いていたはずだが、それでも、すかさず涙ぐむ車中。工芸、王道なきロック史ハードロック編、思想のこと、生活のこと、数奇のこと、小説…書きたいことは海より深く膨大に存在するが、己の不甲斐なさゆえにいたずらに進歩なき熟成へと捨て置かれるのみへの危機感焦燥感ばかり浮き足立ち。

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蝉脱(せんだつ)の夜明け…



昨日は茶会を決行、人との関係が少ない小生は常日頃は自然や物を客として茶会していたが、一抹の空しさ拭いきれぬ感もありつつ特に自分を卑下するわけでもないが、幸運なことにこたびは久方ぶりに人を相手にした茶会でした。詳細はいずれ茶会記にて。反省点多いが、心地よい疲れでもあるが、心身の疲労困憊は思っている以上に激甚であり、且つ、虚脱の余波なのか魂の荒れ、イライラ感も手の施しようもなく…此度は王道なきロック史休載いたします。写真のように、茶会の折、中立ちの待合席に、吉本氏追悼の一角を設けました。衰弱しているとはいえ、日本のジレンマという番組にすかさず反吐を催す慷慨だけは奮発してしまう…。1970年代生まれの、等身大の若者というのを代弁するらしき論客という人々…年若なせいでこれまでは使役される側だったのがいつのまにやら言葉や他人を使役する立場にのし上がったらしい小器用な連中が、格差や民主主義やナショナリズムについて討論する番組…来週、記憶に残っておれば、その在り様について述べたいと思う。

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訃報

2012年3月16日、吉本隆明氏御逝去…明日、私的に追悼いたします…。

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「das synthetische mischgeweb」春宵酔



 月並俳諧一句

 水の冷たさ心地よければ春近し

 震災一周年という負の記念日を迎えるにあたって、日本中という訳でもないだろうが兎も角テレヴィ界という情報概念世界では朝から晩まで震災福島関係の映像で持ちきりである…ここまで溢れ返ると、震災原発復興関係の映像が、例えば明石家さんまあたりのどぎついバラエティ番組なんぞよりも心落ち着く番組としていつまででも視聴し続けてしまう…まるで「日曜美術館」や「新日本紀行」や「小さな旅」を、自分への思想的影響皆無ながらも見てしまう朝の安穏のように、津波映像や瓦礫映像、成人式を終えて福島の真っ黒に暗い盛り場で醜く爛れたおらび声をカラオケする、除染労働に携わる男とその妻が荒んで「俺らはマウス、実験台」「わたしら子供産んでやるよ(その子供が放射能の影響でどうなるかお前ら好きなだけ確認しとけ)」と酔いに任せて悲壮な覚悟を口汚くヤケクソに叫ぶ生命力繁殖力強そうな様を見続けると、心に馴染みながらしっとりと見てしまう…こんな見方への批判など幾らでも出来ようが、一個人たる小生のこの事実は、無かった事、にすることは出来ないし、させやしない。命や生活の危機に晒された困難時に他人から無償で助けられれば有難いし、そうした喫緊の状況から遠ければ何とも思わない、という、不連続たる人間の自由である。
 記憶があいまいだが、会津若松城か鶴ヶ城は、屋根瓦が茶色だったようだ…青灰色の釉の瓦や銅葺きや鉛葺きや金箔押しの屋根瓦が一般的だと思っていた城の瓦界では、意表を衝く外観が忍べるだろう。そう、山陰から山陽の山間部の農家の屋敷によく使われている石州瓦のように…農家と云うのはみんな瓦が茶色なんだと思っていたが、自分で稼ぐようになって少し旅行するようになって世の中はそうではない、と、蒙が啓けたほどだが、今では、実家に近づくにつれて茶瓦が増えてくるのを目の当たりにすると、息詰まるような嘔吐感は否めない…あの茶瓦を見ると、過去の忌まわしい記憶が蘇ってくるのである…あの茶瓦を石州瓦というということも、焼物を学びだしてようやく知った事である。

 いささか愕然としたのは、品物が揃っているので嫌々ながらたまに行くが内心その存在を忌々しく思っている近所の巨大ショッピングモールでの出来事…薄暗い屋内駐車場に駐車してある客の車を、若い男が、それ専用の器具を使って洗車していたのである…客がモールでショッピングを楽しんでいる間に、愛車を洗ってもらう、という新手の商売のようであった。ラグジュアリー感が漂う、七人掛けくらい可能なファミリー向け乗用車をピカピカに磨き上げる、茶髪の、ジャニーズのV6のように貧相な男…ここはまるでインドか、と思った。富の再分配の適正化を口先のみで制度化したがるのみで資本主義批判を巧みに忌避する格差社会論に拘泥するつもりはないが、走馬灯のようにいろいろ思い出した。
 苦しすぎる雁字搦め個人無き共同体を封建制というならば、個人が生まれはしたが一方で個人対組織、個人対国家という対立構図が制度化したのが近代である。近代の発生には当然ながら貨幣経済の浸透の寄与が大きいのだろうが、個人が商売組織と対峙するに最も象徴的なのがバザールやパサージュやデパートやモールなのだろう(その反対で、封建制の農村で、しばしば蔑視されながら重宝もされた商売形式が、行商である。旅の行商人。消費者の共同体の中に、売り手の個人が突入するという…)…19世紀にはバルザックだか誰だか忘れたがデパート小説が書かれたし、そういえば大江健三郎の「万延元年のフットボール」にはスーパーマーケットの天皇(←しかも在日朝鮮人)という人物が暗躍、村上龍の「オールドテロリスト」には「モール」や「スコーン」(←小麦粉を焼いた土台に施された珊瑚のような凹凸に蜜や生クリームを埋設させて食う御洒落洋菓子)に異様な興味を示してくる、隷書体が書ける女が出てくるし、そして昨今では、地域社会と隔絶しながら直接地域の個人に消費を促すショッピングモールがのさばる現状に、資本と国家の日常的な非情なる剥き出しを見たのであった。かといって、小生が、例えば人情商店街のようなものを懐古しているのではない。

 それにしてもこのCDは何なのか…アルバムタイトルも製作者名も極度に分かりにくい表記方法…電子音の畸形を取捨選択した音の粒が神経質なためらいと微細すぎる控えめな態度で無音の闇から浮沈する、いつ終わるともしれぬ虫の宴。承認制度から否定の烙印が無意識的に押されるのすらからもとっくに零れ落ちている無限広大なるノイズの世界の住人たちによる、飛散と狼狽と気まぐれの集中、そして希薄、誰も気にしない精神の余白の隅において丁寧でもある。鼓膜にいきなり着火させんとして耳道を突進してくるとち狂った糸トンボの形したジッポのような、小さい虫ゆえに可能な凶暴を、刹那と終局を暴力的に婚姻させながら劈いてくる。モツモツした音がよい…こういう音楽の分野は何なのか、などといった、分野へ格納することで理解した気になっている情報馬鹿への飼葉に過ぎぬ問いに答えるつもりは毛頭ない。

 今週の言葉…
 
 地獄で待つ者は、きっと楽器を持っている。    岩井志麻子「黒焦げ美人」

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