ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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休載しながらも絞り出す
やはりこの時間からだと魂の慟哭が上ずるような真剣味ある、己が追い込まれるが如き堅固な文章なぞ書けぬ。故に此度は休載いたしたく候。内的にはついにそろそろハードロック編が始まる兆しが頭を擡げ…フランシス・ベーコンの、見果てぬ夢ならぬ見果てぬ現実=人間ともいうべき歪みの、叫びの強靭なる粘りの荒みきった高速画像…どこまでも言葉が上滑りする駄目な、もどかしい今なのでとてもじゃないがベーコンの浅すぎる戦慄を書ききることなどできないが否が応にも至高の芸術を招来して止まぬ…統制と整理との相対的関係ではなく比較を絶して、ありのままが絶対的なる乱調であり混沌である人間というものを描いたベーコンに喚起されて久方ぶりにレッド・ツェッペリンを再聴…沸沸とハードロックという獰猛かつ凶暴が現実の顔をして、肉薄するが、まだ、熟成ならぬ腐乱が必要…先週書いた自民党の憲法草案についての訂正兼補足…教科書的な事ですけれどもブルジョア革命以降に成立した立憲主義、という記述をしてしまったがちょっと飛躍しすぎた。ブルジョア革命後に成立したは、フランスの権利章典やアメリカの独立宣言にあるような自由主義的人権宣言であり、そこでは、法以前の正当性として個人の尊厳と自由の確立が明確に謳われており、社会契約説は省くが兎も角個人の自由を守るための必要最少悪としての国家、という位置づけである。要するに、all for one(みんなは一人のために)であり、one for all(一人はみんなのために)という思想は明記されない。したがって、フランスやアメリカでは、個人の自由や権利が国家から損なわれる場合は、革命権あるいは抵抗権という言葉で、その国家を打倒ないしは改変する権利を法以前の明証性のもとに記述している。実力による封建領主の駆逐とそこからの独立を果たした歴史的経緯によるのだろう。一方、近代後進国ドイツや、ドイツをお手本にした日本ではそうしたラディカルな歴史を経ない修正主義的な折衷案的な経緯があったため、立憲主義をとっている。要するに、all for one(みんなは一人のために)、且つone for all(一人はみんなのために)、である。よく学校の教室に掲げてあるやつである。この立憲主義は当然ながら矛盾を抱えているため時代によってどちらかに偏る振り子運動から免れないといいたいところだが歴史を見るならば圧倒的に、one for all(一人はみんなのために)に偏りがちである。なぜそうなのかを歴史的に説明するのは、もう、いいだろう。問題は、これからである。したがって立憲主義国家においては革命権や抵抗権は明記されず意識されていないのもあって、人間よりも国家という概念にリアルを感ずる国家主義政党自民党などがしれっと、表現の自由という、個人が持ちうる最も無力かつ肝心要なる抵抗権ないしは革命権の核となる原理までもを、狡猾に払拭したがる。もっと恐ろしいのは、こうした立憲主義国家においてはそもそも表現の自由を欲するが如き者が少数であり、民主的多数派は表現の自由が制限されたところで不自由も侮辱もかんじないような封建的奴婢である事である。絶望的である。テレヴィで讀賣の元記者が愚かなことをいって自民党案を擁護していた…その元記者が大学で学生に講義するに、「公益および公の秩序に反することを認めないってことで反対される方は戦前の事を思い浮かべるようですが、それは時代錯誤でしょ?今は違うでしょ?憲法でそう規定したからと言って今の時代、戦前のようになるわけないじゃないですか。公益および公の秩序に反することで思い浮かぶのは?そう、オウム真理教でしょ。そういうのを取り締まるのにも必要なんですよ。高知新聞の人とは議論が平行線になったけど、結局、人間をどこまで信じられるか、ということなんじゃないかな」いったい…どこまで…どこまで…下劣なのだろう。どす黒い怒りの焔が己自身を焼き尽くすようだ…。現在と、戦前と、いったい何が違うというのか。文章の読解力がなさすぎだろう。草案を日本語としてそのまま素直に読む限り明らかに治安維持法の文言と同義じゃないか。それを憲法で承認するというのか。現行法でオウム真理教が裁けないというのか。全くわけが分からない。人間を馬鹿にしきった下手くそなゴマカシである。人間が信じられないから法というのがあるんじゃないのか。ルソーやモンテスキューくらい、元記者なら読んどいてくれよ。人間とは信頼が破たんすることがあるのだから法という明文化によって誤解なきよう明記する必要がある。その法が、明らかに、表現のプロパガンダ統制を明記しようとしているのに、意味的には自民党草案はそうした統制にもとれるけれども自民党も含めて僕たち現代人は良識(何だそれ?)があるから実際には戦前のようなことはしないよ、と、なにゆえに分別顔で厚顔無恥にも屈託なく言えるのか。アドルフ・ヒトラーが何度も何度もユダヤ人を絶滅させると著書と肉声ではっきり明言しようとも、選挙戦略で言っているだけで政権とったらいやまさか本当にそんなことはしないだろう、とたかをくくって、ワイマール憲法のくびきをはずし戦車作りまくって不況のどん底から救ってくれたヒトラーを支持したドイツ国民。その事実も、現在は戦前じゃないから、といって一笑に付すのか。過去の事実も直視できない記者が現代の何を報道できるのか。腐った妄言も甚だしい。一体、人間において何が、戦前と現在で変わったのか、元記者は説明できるのか。どんな根拠で人間を信じられるのか。その信頼が裏切られた時の社会的悲惨に人間が追い詰められた深刻を想像したことはあるのか。想像などしなくていい、学んだことはあるのか。そうした悲惨を惹起した責任を、元記者には取れるのか。国策報道でもう一度甘い汁を吸いたいのか。お上から言われたことをそのまま報道する方が何も考えなくてすむから楽でいいとでも?子供だましにもならない、何重にも狂っている、あの、定年後に大学なんかでおしゃべりしている元記者は。高知新聞の記者は、小生が述べたような当たり前のことを主張。土佐は自由民権運動発祥の地である。明日が来る。反吐が出そうな、最悪。くそ。くそっ。最強伝説黒沢、復活の噂あり。本通りの裏に一本入った入った通りはカレー屋激戦区といっていい、カレー通りである。今日、雨の日曜日、このまま一日が終わるのにむしゃくしゃして、ミモザのドライフラワーを買いに珍しく日曜日に外出。いつもなら日曜日は安息日ならぬ絶望の喪に服する日なのだが…続行しているカレー屋開拓。今日で5軒目。テイクアウトの、速さと安さが売りのところ。皿の置き方などががしゃがしゃ耳障りで客への配慮が足りず、店員の厚化粧のおばさんや店の雰囲気、安く荒んでいる。向かいにゲームセンターがあるからか。味は、良くも悪くもなく万人受けの辛さ。続々と、5、6人の男グループで背の低い若い貧相な、V6みたいな人々がゲーセンに入店。V6や関ジャニは年をとるごとに風貌が小さい貧相になる。なんか柄の悪い絶叫が聞こえるなと思ったら、艶消し黒塗の街宣車、誠臣塾と大書してある。何を言っているのかマイクのせいで分からぬが若い男の絶叫だった。憂国の士が、何事にも無関心な市民を叱咤している。黄色い嵐のようなミモザが売り切れ、替わりに吐血のごとき鶏頭のドライフラワーを連れて帰る。いつか、旨いカレー屋を紹介します。
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茶会記更新のお知らせ
荒み茶会記第一回~荒みの世の始まり~ を、茶会記に正式に掲載できました。以前はブログにのっけただけで未完成だったのを、ようやく、やり遂げた成果となった。今週も何とか一つ、課題をやり遂げた。また一つ、王道なきロック史に近づいた。また同じことをいうが、フランシス・ベーコンの絵への渇望が甚大だ…画集だけでは満足できぬ、本物が欲しい…ロックという音楽が理不尽にも絵画になったならばそれがフランシス・ベーコンだろう。牧野邦夫という画家の絵もすさまじくよい…戦時中の和製ブリューゲルが壇ノ浦の合戦を描いた時の惨劇リアルエロティシズムが全く新しい解釈だった…30年前の雑誌で既に老人だったから今はもうご存命ではなかろうが、藤井達吉という仙境の画人の絵も、よい…禍禍しくも妖しい黄泉の赤光に縁取りされた山水…焼けた鉄板地獄の上でひん曲がった枝を振り乱し踊り狂う紅梅の図…とはいえ数奇にかまけてばかりだったがこのところついに、「時局」が到来したようだった…自民党の憲法草案…表現の自由の条項に、看過できぬ文言が追記されていた…「公益および公の秩序に反する表現ならびに結社はこれを認めない」激甚なる怒りの沸点を久々に超えて思わず我を失う卒倒しそうであったがここは落ちついて、それでも、冷めやらぬ憤怒のわだかまりは否めず…思わぬ時局の到来に、そうした時局にがっつくさもしさに没入しはしゃぎたい欲求に直情したところで倒錯したマゾの惨めな手合いなのかもしれないがそれでも事を荒立てるに十分な事由があるだろう…自民党の改正案は、もう、明らかに、表現の自由は認めない、と言っているに等しい。立憲国家にあっては憲法とは代議制における権力行使者のやり口を制限するものであって、などという常識論はどうでもよい。多くの成文憲法を整備した近代諸国にあって基本的人権の天賦説を否定するものなどあり得ないし、それを考えても呆れてものも言えなくなるほどの封建性への回帰なのだが、いつの世でも権力は堂々とした態度であれば数百万の殺戮だろうがなんだろうが通せる、という昔ながらの思惑…えてしてファシストというのは経済政策がうまいものだ。かつてのアドルフもそうだった…札束を口にぶち込んでおいてものを云う気が失せたところで雁字搦めに縛りにかかるのがいつの時代でも彼らのやり口なのだから…即ち表現とはそもそも公益および公の秩序に反する事それ自体であって、そうでない表現はいわゆるプロパガンダに過ぎぬ、言わずもがなである…法によって承認されようがされまいが、表現は表現すればいいだけの話である。たとえば公務員は争議権が法によって承認されていないが、本当にやりたかったらやればいいだけの事だろう、人民の基本的権利は常に、承認されざる弾圧下の底辺から自力で(日本は別)勝ち取られてきた。しかし、国家が、この期に及んで、ついに、表現の自由を否認し弾圧に転じるは、国家の態度としては正直ではある。潔さすら感じるし、そういう意味では感服に値する。そういった潔さ感、割り切り感におもねるつもりは毛頭ないが…(「法とは常に最終的には権力の利益のために存在する」レーニンだったと思うが、出典を失念…)繰り返しになるが表現とは政経、芸能、諸科学といった分野に限らず現行秩序への批判と異議、破壊以外にあり得ず、民主主義と人権を現実化するための最低限の条件であり、絶対的に危うくも脆い、武力闘争の惨めから自らを自力で解放した唯一の人間の力である。現行秩序の追認と補強、宣伝は人間奴隷の憂さ晴らしが倒錯した悦びに過ぎぬ体制マゾの発露たる惨めなプロパガンダに過ぎぬ。分野は限らないとはいえ、これらは常にその本然上通底しており、もしそうでないといいきるならばあまりに楽天的犯罪的無知ゆえに一党派への太鼓持ちに成り下がる。政経、芸能、諸科学は通底しており相互貫入しているのだから如何なる表現も政治現場からの鉄の爪の標的になりうる…もう一つあるとすれば深山幽谷に自給自足の隠遁する風流趣味のみが安穏生存を許される。これまでのぎりぎりの、ある意味大人な感じの、理詰めで異物を排斥する強硬に偏らぬ立憲主義的な許容のされ方は、このご時世、人民にとっても国家にとっても生ぬるい欺瞞になってしまったのであろう。それほどまでに、もはや、立法、行政、司法の三権分立のみならず、国家、資本、消費の三権分立もすでに成り立たないばかりかこれらの結託と異物排斥がますます葛藤なくキツクなっているのだろう。その結果、人間のみが疎外されるという現状認識に、めらめらと、目覚めるしかないのだろう。国家資本主義(国家主導で資本をぶん回す、中国、ロシア型)と資本国家主義(資本主導で国家をぶん回す、アメリカ、韓国型)がブロック経済戦争状況で各国がこの二種に収斂し、やり合おうとも、この二種、同じ穴のムジナである。マグナ・カルタこの方ブルジョア革命が確立した立憲主義という、強固な原理に見えながら薄氷のような理念は(理念とはそもそもかように危ういものである。そういう危ういものに酔い、賭けるのが愚かにもしたたかな人間であった)、だれもが建前という衣服に過ぎないと分かっているにもかかわらず、衣服は人間ではないと当たり前のことを言いだした悪意ある馬鹿正直が、人間から衣服をはぎ取って猿に貶めようとしている。猿山の喧嘩…。それもよかろう、しかし、公益ならびに公の秩序、という文言、これも過去に幾度となく使い古されている手口だが、何の規定もできない、権力側の主観がいくらでも拡大解釈し適用できる危険極まりない文言である。無論、政府はそれを百も承知の、狙い通りである。要するに、憲法の承認を得て治安維持法の復活を可能にする文言である。表現は法の承認など関係ないとはいえ、治安維持法、これやられた日には、正直、キッツイぞ…理念の成果である権利はこわれものである。これを、壊れないように大事に守り続けたいのはやまやまだが、事ここに至れば、常にうっかり壊しながら、あるいは強力に壊されながら、自ら生み出さなければならない。諸君、時局が来た。とはいえ、書いてみると、どこにでも書いてあるようなことを書いた。
たこ焼きのたこに刺さらぬ爪楊枝
たこ焼きのたこに刺さらぬ爪楊枝
感想文なき感想もまた一つの成果と
時制関係なくいたるところで追記している。件のミュージアムショップで購入した秋山祐徳太子の泡沫傑人列伝~知られざる超前衛~軽めのエッセイ読み物ゆえ一晩で読了。腐った素麺や腐ったラーメンを画廊にぶちまける、画廊で生きた子牛の首にナイフを突き立てその場で血飛沫屠殺、存在演劇と称して集客した上で舞台では1、2時間何も出てこなかった挙句に終わりのアナウンスするケージばりの過激な試みなどは兎も角として、前衛芸術から前衛芸能へと移り変わる事例をつぶさに知るに至る…欧米のようにパブリックな承認が得られない今、それはそれで好都合、絶好のチャンスとばかりに市井の道端でひっそり咲く突然変異のタンポポたらんとして生活になじみながらの異形の芸風へと生きながらえるのみ、そういえば織部もタンポポを好み、ダダカンことイトイカンジ氏はタンポポを主食としているとのこと、タンポポとはいえ日の本では在来種よりも西洋タンポポが繁茂する昨今ではあるが…泡沫性、という概念がよかった。パンクの一回性とは異なり、奇人変人の類ではなく、不意に突発しながら連綿と市井の中で芽生えては枯れ芽生えては枯れる草のような…うまく説明できないが、補足として赤瀬川氏の「奇人はブラックホールだが泡沫性は暗黒物質」という宇宙物理学的説明で合点がいった。飲んでも飲んでも酔いが深まらない、きりのない、浅瀬でしかちゃぷちゃぷできないもどかしさが、正調の古典派ピアノ協奏曲も奏でられ、瀬をはやむ転げ散るピアノ演奏…ゆったりと速く細やかで、印象や述語に辿り付かない不甲斐なさが、結局地平なんだと、耕作を忌避する不毛はゆとりが睥睨する豊かさから滑落する足掛かりの愚昧に託けて、どしどし、瀬をはやみ…書いて彫っていれば一日は矢のごとく過ぎ去るを痛飲、どこぞに行きたしと思えども懸念される人ごみと乗車率に辟易して結局家に蟄居する連休であり、そういえば明日は本当に休みなのか記憶が覚束なくなり記憶に頼る羽目になった己のうっかりぶりに今さらながらこてんぱんにのされ、びりびりと寒々しく苦しくおののいている、確認などしたくもないかさついた気持ちが捨て鉢な憎悪と怒りへと安く炸裂すればまだいいものを、それにしても過日訪れてくれた友人をもてなすにあたって黄色と緑色の春色尽くしでくだけた感じの茶会もそれとなく滑り込ませ、野の河原で摘んできた菜の花、散り方が思い切りよく客人来訪までには八割どっさり落花、野の花のあまりの潔さについていけない悲しみは以前もあったが忘れていてまた痛感させられ、なんぞ新しい言葉を、書きながら書けなければ必ずしも悪くはないにしても衰滅する一方、備忘のためメモランダムに、日々の思索を未熟なまま殴りつけているがそれを正書のように書き興す作業それ自体、今あるものをただ追認する形式のようで吐き気を催し衰弱免れぬのでメモ書きも当てにできないし且つ咄嗟の発想もないから何も出来ない。茶会後に訪れた現代美術館は面白かった。日本の70年代、と、大雑把に題した回顧展、その時代の政治、文化、風俗、前衛もろもろの状況をいっしょくたに展示する…昭和の絵師上村一夫の「同棲時代」の原画、ペン使い筆使いが水際立っており、拝む…もの派の方の、巨大な綿の塊のインスタレーションに正拳突きしていたら監視者に制されもしたが、興味深い当時の作品の数々…川の映像を撮ったフィルムを、同じ川面に映写するコンセプチュアルアートの、意表を突くほどの侘びの底辺や、装丁家だと思っていた粟津潔の、グランドピアノを燃やしながら鍵盤まで炎が来るまでぎりぎりまで熱い演奏続けるガッツあるフィルム…今となっては「時代」ということに収容されている味の、全然同時代でもないにも関わらず小生ですらどこか面映ゆい心地悪さのあるプロテストポスターや百家放斉の雑誌群の数々…寺山修二、天井桟敷、横尾忠則、赤瀬川原平、樺美智子、…時代のイコンへと遠ざかり…もう、たいていのことはなされている、そう思わせてくれないとこちらはやる気がしない、そういう意味で、待ちに待った閉塞感を現在にプレゼントしてくれた有意義な回顧展であった…比治山の現代美術館は自然の中腹にあり環境も四季折々すがすがしくてよいのでまた行きたい。今から、何とか、懸案事項の一つをやり遂げたい、特定の個人の方に向けたお手紙なので公表は差し控えるが、それを以て今週の成果としたい…過日列挙した課題をあらかた片づけないことには、王道なきロック史の再開が出来ない個人的な心情です。明日、本当に休みなのか…気がふれそうだ…ワイン飲みすぎた…こめかみが、こみかみに、鋲を撃ち込まれたように、ずっきんずっきん痛む。課題の一つである手紙も何とか走り書いて、一つ、果たした。ロック史に一歩近づいた。
岩国行状記を胸の内にしまって
岩国への音楽、骨董、観光三昧から帰ってきて、その行状記を書こうとしたらやはり細密になりそうな己の業を何とか踏みとどまらせたいし、やはり午前4時過ぎまで飲んでいたから、命からがらうとうと高速で帰ってきて、意識がダルく…職場では脊髄反射で物語という撒き餌で保身するのに忙しく言葉を言うことは皆無、家で細君と訥々しゃべるのみで人との交流少ないからしゃべり言葉が出難いにしても、こたびは初顔合わせの人とも言葉を、即ち自分が考えてきたことに拠って立つ言葉を、いかばかりか話すことができ、抜本的に自分の思想が面食らうことはなかったがむしろ励まされるという稀有な体験もあり、山口のその現場ではその初顔合わせの人でさえも反骨の気を吐くに会って、経験や体験のもつ説得力をそぎ落とすのに執心する自分であってさえも、己の世間の狭さゆえの思想(=意志?)の狭隘や脆弱は否めないのを痛感する次第、多様性などという事をほとんど信じていないが…そして、かような機会を小生に与えてくれた友人に感謝する次第、喜ばしい夜だった…次回再会を胸に、己のなすべきことを粛粛とこなそう、心の刃を研ぎ澄ましておこう、それにしても源内焼二連絵皿、身も蓋もない椿事である。誠実でありたい、だからこそ、鬼にならなければならない、と、まだ、膝がくがく怯えながら、思う…出張茶会もやる予定でいたが出来事が盛り沢山、錦帯橋でのにわか骨董市で奮戦後に、さんざん骨董や古道具を目利きした後に己がわざわざ持参した骨董を披露するはあまりに厚かましく辟易されるが落ちなので此度は自粛した。週末にも別件の茶会を控えているのでそこで鋭意しっかりしようと思う。
五合炊きの地獄
今週末もめっきり搾取され時間を奪われ骨と関節、筋肉の類が身も蓋もなく絞られ、再び立ち上がれぬように丹念に叩きのめされ、元元払底していたやる気が殊更に払拭、と、そこへ、シェーンベルグのグレの歌がNHKから滔々と溢れ返り、光が光速をやめてゆったりと流れ始める…しばし恍惚なれど、明日からの水牢生活を苦しく思い、少し進み始めていた山積の課題がまた、はたと、くったりと立ち止まり、続けられず、挫折がごり押してくるとは言い条、なけなしの無益の成果すらも此処に発表できず、炊飯器を三合炊きから五合炊きに変えたはよいが、計量カップで五回、米を掬い取るというのが、一杯、二杯、3杯目までは記憶が残るが、それ以降は途端に曖昧になり、もう、何合測り取ったかがすこぶる不明瞭で、釜に入れた米をまた温泉津焼の壺に戻し、また測り取るのだが途中で曖昧になってまた全部戻し、というのを延延繰り返す、ベケット的状況に陥り、米を五合測りとるのにまことに難儀する。
「…」
時間があまりに無さすぎる、来週もゆえあって休載、次回は4月6日からです、まったく先行きが見えない、来週先輩の結婚式だがうまく出席できるか不透明過ぎる、もうどうしていいか分からぬ、徴用を拒絶できる理由=物語を虚構する努力に、すかさず萎える、むしゃくしゃする、いったいどこまで搾取されるのか、毎日毎日残業しろ休日出勤しろとののしられる、多数派のゆがんだ狂気にいつまでつきあえばいいのか、危機的状況と悪罵、目をひんむいた本気の怒りと閉所理屈しかやってこない、息切れで気道が炎上しそうだ、社会社の無根柢の悪意を焼き払うにはどうすればいいのか、楽しいことがすべて台無しに破壊される、焼く前に肉がたたかれるように全身の肉がたたかれてたたかれて疲弊しきっている、人間性と生活の質がどんどん転げ落ちて下劣化を辿る、後戻りできない下痢のように絶叫する、屑の…粉塵爆発!被害妄想…病だれの揺り籠…着火、着火、肉、チーズ、酒、半年ぶりに布団を干して冬用タイヤをノーマルに交換したのが肉の疲弊の内幕という落ち、もあって、大声は哄笑、
「…」
嘆きの夜がやってきた。パブロ・ピカソの「泣く女」というのがあるだろう…あんな顔の気持ちだ、今は…またしても、命令者の意図は兎も角結果としての嫌がらせで土曜日、徴用に駆り出されて己の人生時間を搾取され足腰が立たぬほどへなへな。ほとんど惨めな吐き溜め状態になっているこのブログ…エチケット袋とかマナー袋とか長距離バスに備え付けてあるが要するに吐瀉袋ゲロ袋…肥溜めに沈む鬼瓦…くそ、この生ぬるさ、甘んじる無様…ファミレスの…チーズ イン ハンバーグかっ!くだらぬ、あまりにも。おぞ気だって疲れすぎて肌が過敏に毛羽立って眠れぬ夜、魂に沿う本はないんかと偶然手に取ったシモーヌ・ヴェイユが服従の美徳を説くのについていけず思わず投げつける…「墓石の臭いがする」と評してヴェイユをひどく嫌ったバタイユ…余裕のなさすぎる、切り詰めたギスギス生活で。見つめ続ける力で目先の蝋燭の炎が消えんばかりの目の据え方でぎっしり思う鍔迫り合いの切羽詰まりは…目の前の見えざる敵が小生の首根っこに手を掛け今まさに毎日じわじわ絞め殺さんとしている、目の前の見えざる敵を殺さないと自分が殺されるので、目の前の見えざる敵を殺しうる言葉を書くし、殺しうるほど音楽を聴きこんでいる…ということ…物騒な慌てぶりでしか生活せぬ。DEVOを切実に聴いている…意外にも真面目なバンドだ…そろそろロック史中興すべきか。目を離した時に限って転んでいるフィギュア…解説の荒川静香がいちいち技の名前を挿入してくる解説の仕事を忘れて思わず「すっごい…」とつぶやいたのがオンエアされるほどの、キム・ヨナの演技…
「…」
結局日本酒越乃寒梅による意識のぐらつきの助けを借りて、時間がないという典型的言い訳に甘んじる惨めを肴に文字を嘔吐する始末が嫌ならもう目をそむけた方がいい。語る対象のレコードのジャケットの写真を撮ってそれをパソコンで少し加工してウェブ上に載せるという作業だけでも、疲弊著しい昨今にあっては負担が物凄く、耐えがたいからロックについて書けやしないという下らない、幾らでも揚げ足取り可能な浅はかな言い訳がもう既に苦しい。腰を曲げての生活が楽だから何だかだんだん腰を曲げたまま生活している。腰を曲げて皿を洗ってそのままの姿勢で腰を曲げて洗濯物を洗濯機から取り出して腰を曲げて食い終わった食器を片づけて…と、家の中で家事をしていると断然腰を曲げた方が速やかな感じ、いったん曲げた腰を再びまっすぐにするという運動が無駄なものに思え、効率を重視するならば腰を曲げていた方が良いと思うようになる。こうやって老いていくとそのまま腰が曲がってしまうのだろうか…まだ早すぎるとはいえ…膝も痛い、膝の脂が足りない気持ちがして、動かすたびにきしきしと膝が磨滅する気がする。もう走り書きだ。毎日毎日、物語と云う飼葉に餌付けされた社会社の家畜どもに物語という餌をやり続ける毎日に腐るほどうんざり疲弊している。たまりかねて松山に海路逃避行。春の瀬戸内を高速船で渡る…
空も海も色をうしなう春霞光ふりつむ波の音もきえ
やはり文化度が高い松山…意表を衝いてくる物品があるある。
瓦礫と更地があれば生きていける、そんな在野の荒んだリアルガイが今後どんどん出てくることを期待する。
くっそー寒蘭とかエビネとか、そんな園芸熱がこみ上げて来たぞーっ。鷺草とか…この堕落の泥沼の歴史的意味が君には分かるだろ。くっそー徹頭徹尾多数派(ボルシェヴィキ?)の心情をおもんばかるということができない。たとえその多数派が甚大なる悲惨をこうむっていようとも…何度でも書くが、地震&津波&放射線による悲惨を切実にとらえる多数派よりも、「嫌な奴や嫌な組織、設備、場所が死んでくれてせいせいするわ」とほくそ笑む、声なき声の少数者の事を思う。震災から2年経ってようやく、テレヴィで、相馬駒焼の事に言及するのを聴いた…それが片岡鶴太郎だった…松山観光港で出航を待つ、夕日の記憶がまだ鮮烈な夜七時頃待合でテレヴィを見ていて、ばかばかしく小さな慶事…鑑定団が震災関連の番組でつぶれて怒り心頭…救い難い生活の底でしぶとく生き延びてやる。車の保険の更新書類を書いてみる…何をどうすればいいのか何が説明してあるのか全く理解できない、保険の文章を読んでいると自分が犯される気持ちになる。ウヰスキーに移行…したたかのみ過ぎた…明日になれば、心底後悔するのは必定、もう酒なんか二度と飲みたくない、と毎朝思っている。惨めはいつだって底抜けだ。既にかなり気持ち悪い。頭が痛い。萩原朔太郎を読みたい。竹が生え りんりん竹が生え…どこにいった?朔太郎は…
「…」
絶え絶え…息も気力も…今週の土曜日は社会社から徴用され丸一日自分の時間を搾取される、あるいは搾取されるのを承認された自分に甘んじている…仕組みや形のきっかり整った文章など書けない。むしゃくしゃといらいら、くさくさ感が頭陀襤褸で。本来ならばきっちり肉付けしないといけないが仕方がないからメモ帳から抜粋。
○読むとは音ならざる声を聴くこと
○文芸は言葉への不信が決定的になって初めて始まる。自然科学や社会科学は言葉を信じることに依拠するばかりか、言葉への自堕落な信心による物語と権力と現実が互いに結託した政治=プレゼンに媚びるのに右顧左眄する始末。
○尾上菊ノ助の「うかれ坊主」という踊りがすごすぎる。手桶ひとつで次次繰り出される工夫のバリエーションとその洒脱なる飄逸。
○国境という虚構、死の歴史化としての過去
○啓蒙の問題、自分にとって屑としか思えぬ、愛の対象たりえぬ存在こそが啓蒙の対象ならば…ファシズムに満足安心する多数派を、安全な場所から、自分では手を下さず小生を殺しにくる制度的多数派を、命がけで啓蒙しなければならないとしたら、…啓蒙思想を至急学ばないといけない、布教も。
○言葉は言葉でしかないという痩せた現実に耐えるべし、リアリティというムードとフィクションにおもねるべからず。
○命をかけるならば、国を守ることで自分にとって大事な人を守るという承認された観念論を自分に言い聞かせてにっこり笑って敵艦に散るよりも、国家間生存競争という恣意的な境界と資源をめぐる囲い込み競争という観念的な仕組みを相対化して破壊することに命を懸けるべし。しかし、こんな、他愛ない、ちょっと考えれば済むことに、命を懸けたくない…国家を現実だと盲信している人間奴隷を今さら啓蒙したところでそうした人間の人間性が面白いとは思えぬ…いかなる人も深くそれなりに付き合えば面白いものなのだろうか、とてもそうは思えぬ、下らぬ人間はそれこそ絶望的に下らぬ不可逆性が厳然する…あくまでも主観に過ぎぬ…そんな人間のために何ができようか。
○戦時中の、成熟してしまった制度が国民を戦場に送り込む仕組みというのは無茶苦茶巧妙で、実例上げたらきりがないのだが、周りが兎に角戦場に送り込もうと躍起にならざるを得ないところまで人間を追い込む、農村の封建社会を巧みに利用して…
○NHKラララ・クラシック…指揮者の指揮棒がびゅんびゅん音を立てているのが聴こえる、鞭のように。耳障りだ。
「…」
いきなり追記。下線部
この時間になると息が苦しい、動悸がする気がするが気のせいかどうか。自分が継続的にやらないといけないと決めたことの、算出されたノルマをこなしていると昼寝やぼーっとする時間やこまごまとした家事も必要悪として含めてとかく忙しく、こっちで書く暇があまりない…本当は、それらの、継続的にやらないといけないと思いこんでいることが、本当は、最もやるべきでない、人生において最も有害な事とも言えるかもしれないのであるが…こっちで書くのも頑張ればできるのだろうが気持ちが失墜して、できない。ワインや日本酒らの飲酒が小生に与えるダメージが、小生の耐性の衰えと共に相対的に大きくなっている。書くことと彫ることがますます緊密に互いの意味を強烈にしながら、まるで自分の心に合わせてあつらえたかのようにしっくり馴染みつつ己を更新してくる心地よさとはいえ、1、2時間も集中すればぐったりと豊かな疲労感が掛け布団となって小生を覆い尽くし、身動きできなくさせる。少しは、身体や愛すべきものの継続性や社会社から承認された現実的な事もこなさないと、と殊勝にも思い、本屋で、渋渋、家作り本を立ち読むと、見るも無残に心が吐きそうになり手放す。ノンアルコール梅酒というのは梅ジュースと違うのか。逆境に屈しない…イスラム教シーア派の精神…なんとか即席で会得したいものです。不屈、という言葉が、ただ存在するだけで、励まされる気持ちになる、それほどまでに弱り切っている小生…。