[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「白光、白熱~ルー・リード追悼~」
木枯らしの地にも落とさぬ時雨かな 去来
いい句だ…小生の間近の時雨はさほど激しくも無くもう揚がった気ままぶりに、過ぎ去る救急車、部屋干しの洗濯物によって部屋が雨蛙の臭いで充満し生苦しい…
時雨あがりて音細みたり救急車 仄仄
…この一ヶ月で鳥取、岡山、東京と、旅が続いて、今も心持ちは旅づいて当ても無く旅支度せんと疼くのを抑える…初参戦の大江戸骨董市は思いのほかレベルが高かった。箱根の関向こうのアズマエビス何ほどのものぞと幾分たかをくくっていた感はあったが見くびりすぎのあたふたに苛まれようとは、裏腹では結局嬉しい誤算ではあった…横浜や神戸あたりの骨董市では和骨董(朝鮮、中国、安南あたりも含む)よりは西洋骨董、アンティークが主と聴くが、東京駅丸の内口から有楽町方面へ徒歩五分ほど、東京国際フォーラムエントランスでのこの大江戸骨董市は和骨董もあれば昭和レトロもあればアンティークも豊富、昨今のナチュラル業界の隆盛に応ずるようにいわゆるブロカント(百年以上古いのをアンティーク、それより若いのをブロカントという)などもバランスよく取り揃え…いちいち指摘するときりが無いから省くと前言再出になるが要するに品のレベルは高い、高いというのはただ単によい品があるというのでなく、高値で品よきは当たり前、小生如きでもお助けできる価格帯でもそこそこ着眼に値する品がごろごろ、このレベルの市が首都のど真ん中で毎月二回やっているのか…関西の市に引けを取らぬ…カットが激しい緑色のガラスのゴブレットや鉢が幾つも目に止まる…これはウランガラス、蛍光ガラスという奴じゃないか…昼間だと分かりつらいが暮色の中でぼんやりと蛍光を放つらしいガラス器…帝政ロシアとか西洋各国の王政末期の爛熟の賜物…明王朝末期の万暦赤絵といった退廃の黄昏の光輝…欲しいが、毒の光に怯える細君の手前、手が出せず…朝から下拵え、タッパーで鮪をヅケにしていたのを用いて海鮮丼を拵えるため大葉と葱を刻んだりしないといけないのでちょっと失礼(14:06)…戻ってきた(15:05)…旅番組を並行して3本視聴…タカ&トシと温水洋一+女性芸能人の、夜の築地散策は磐石、有吉クンの正直散歩もそうだが、手近な東京近郊をぶらぶらするだけでも安心して緩く和める楽しめる…それに対して徳光和夫と女性ゲスト二人の路線バスの旅は見ていて腹立たしい、徳光が大物ぶって女性ゲストにブランドの鞄を買ってやったり乗りなれぬバスの中で仕事もせず不貞腐れた老い顔晒して寝入る醜態と、多分素の姿なんだろうが仕事してるつもりは全く無くただ単に築き上げた地位を笠に来て若い女性ゲストから無意識に大事にされたがっているだけの見苦しい団塊にありがちな横柄な態度は我慢ならず番組変えると、ウド鈴木が温泉地で女将100人と混浴目指す旅、この下世話がギリギリ番組として成り立つのはウドの芸人としての繊細なる手腕の賜物であって、間に挟まれる天然のギャグの繰り出しも心地好く、下世話ながら低劣には陥らないのはさすがであった。
まずは戦前のタイルをばら売りする店…なかなかツボをついてくるわい、と思う先から目と手が品定め…真っ暗闇から白い舌がぬろんと襲来するが如き釉と、同じく真っ暗闇から白く滲み出た帆立の化石、それから象徴派と印象派の相克に生まれた印象派の油彩が如き妖艶なる色彩のタイルを購入…割り高台飴釉茶碗が、在る。器形は朝鮮系祭器~萩焼の平茶碗にありがちな感じ、キンキンに切り立つ高台の割り高台のこの割れ目は空隙ながらもまるで肉食の牙のような殺意を宿しているではないか…そして釉薬はなぜか飴釉をムラムラと熱く燃え立たせておる…最近の大樋焼の飴釉の品の良さを断罪しつつ、古瀬戸釉が黄瀬戸釉へと馴致せられた歴史を尻目に、野放図に逸れてしまったが故に古瀬戸の獰猛を甦らせる、鉄褐色の焦げ付きが半端無く魔の舌触り、黒雲を縁取る金の光が薄い層雲を貫いて鼈甲を西空いっぱいに溶かし込むドスの利いた甘美が滾る…大樋の先例に倣って飴釉は楽焼の器形に落ち着きがちだが朝鮮系の器形に飴釉という、約定たがえる常軌を逸したこの異形の組み合わせ、ゲテ物狂いの小生好みの茶碗と言えよう…こんなのが欲しかったのだ、ずっと!と心中、思わず喝采。しかも1万円ぽっきりという、手が出せる値…速攻、獲る…高台内の兜巾のぞんざいな鋭利も意表を衝いてあまりあるが、土が少しく硬すぎる、牛糞がたっぷり撒かれたウクライナの黒土が耕されたばかりの馥郁たるざんぐり感が噎せるほどであれば申し分なかった…今からまた鑑定団があるので中座(16:00)…戻ってきた(17:00)…今回は本物ばかり、鍋島の染付と九谷の赤絵と古唐津の奥高麗茶碗も皆本物かよ…由来が整いまくって1500万…唐津にしてはそんなにいい土には見えなかったが…昨日も鑑定団春の二時間スペシャルの再放送と上田宗箇流よいしょ番組を、眠気で気持ち悪くなりながら見通したばかり、横臥して頭を片手で持ち上げながらじゃないとテレヴィが見えないから手が痺れるのをおしてキーボード叩く…口直しならぬ目直しに鼈甲のネクタイピンを買って、英国古陶器の店で19世紀の土鍋をお助け…ちょっと日本人には無い独特のほほえましい生活感溢れる取っ手、あるだけでうれしくなる福福しい丸み、控え目な貫入の植物灰釉が経年で青みを帯びた琥珀色に曇り、いい味出している…そして、緑金の蝶が劇的に幽閉された琥珀の塊(70mm×150mm×20mmほど)に射抜かれてしまい…琥珀の真贋なぞどうでもよい、光と生の終わりの形が永遠へとびりびり留まる、手に負えない聖がただただ美しく、いとおしい…甘い土が結晶化したまま朗朗と流れる琥珀の海に沈む、無謀にも海洋に飛び立った蝶のあまりに可憐で儚い死を悼むゆえにこの高貴かつ勇敢なる蝶は琥珀と共に結晶化し永遠の聖へと磔にされた秘儀であった…祈るような気持ちで、汚れもせぬ、唯々諾々と幾らでも使われるブザマな紙幣9枚と交換、新聞紙で包んだまま懐にしっかと包む…しっかり愛玩するつもりだ。
小生が骨董市で時間を食い潰して疲労困憊しているのもあってあまり東京散策できず、ホテルで一休みしたあとに細君の提案で丸の内と皇居の間のシャレオツな通りを散策…高級ブランド店が軒を連ね電球が巻き付いた並木通りがセレブな感じで…探せば安くてうまい店もあるのだろうが疲れ切っていたので、目貫き通りに面して無駄に人が多いワインバーに転がり込む…禽のレバーのパテなんぞ注文すると文鳥の餌の如き少量でこの値段かよと、ワインは、まあ、いいんだけども、この値段でこの一杯でこの量か…自分できちんと探さないと幾らでも金をふんだくられる、恐ろしい街である東京。そのワインバーの一角で女子会らしきが、大ぶりアクセの働く女性たちが時折ドわわと声を噴火させる華やぎ…ついぞ見た事なかった気がする…関係ないが、「やっかみ」という言葉を忘れていてずっと思い出そうとして今、思い出してすっきり。今夜は眠れそうだ。
思えばこの一ヶ月は地下水脈を辿る旅といってもよい…金払えば簡便にいただけるインフラである水道水に満足するのも悪くはないし、そのままでは飲めない川の水を飲めるまで浄化する水道局の人々の努力を軽んじるものではない(美味しんぼで水問題を扱った時の山岡の立場を小生も踏襲)…とはいえ表を流れる川の水を満遍なく流通させる水道だけが水ではなかった…郷里とそれに関連する土地は小生にとっては呪いであるがしかし、祖父亡き後祖母も痴呆でしかるべき施設に移って空き家になったがまだ空き家じゃなく一族の中心であったその家の熊本市内の水道からそのまま汲み立ての水を飲んだ時の幼い鮮烈は今も忘れられない…阿蘇伏流水からの地下水なのであるがこれが、元気と云うのは嫌いな言葉ではあるがしかし水だけで元気になる、体中を分厚い水の塊が特急する清清烈烈は水というのが味というのを超えた豊潤だと悟らせて余りあった…そんな記憶も甦りながら芸能へと思いを致し、しかるに、表を分かりやすく流れる川の水を手際よく流通させる市場だとかメジャーだとかの、こちらが見つけようとせずとも圧倒的厚かましさで押し付けられるメインストリートのならず者(エグザイル=金ザイル)のコンビニ音楽なんぞは草の根産業ファッショ公害以外の何物でもない、…対して、己が見つけようとせねば、即ち井戸を掘らなければ出会えないだろう地下水脈の芸能のほうが己の魂の誠を着火させてくるのであって…滾るのである…鳥取での音楽体験しかり、そして、此度の東京での文学フリマでの体験しかり、である…
小生が三年前にも出品していたことを覚えておられ、且つその時に全作品三冊買ってくださり、その上、此度も、フリマが始まって間も無く小生が居る所をわざわざ訪れてくださって、小生の著作やHPやブログや荒み宣言を読んでくださったことなどを小生に伝えてくださり、さらに新作「廃業」を買っていただいた、という御人が現れたという慶事がいきなり勃発、確実に、この三千世界で唯一人の読者であると思われる…フリーで置いていた荒み宣言のプリント4部は全て持っていかれ、著作のほうはさらに女性が一人、買っていただいたらしい(その時小生は他のブースチェックで不在)…ありがたい。ありがたいが、しかし、2冊か…という感慨が無いわけでもない…数じゃない、小生の著作の読者一人は、水道水で満足する連中100億人の命が束になってかかって来ても蹴散らせるほどの価値がある、それほどの秘密文書だとの自負はあれど、貧相なさもしさは拭えず…件の御人は御仲間のようなのでそちらに出向き、一冊購入、小生も先方も一冊5百円で販売していたので結果的に物物交換という原始的流通の形になり一抹の空しさは覚えるほどの己の中途半端な社会性に辟易…ただ、会場内(東京流通センター)で井戸を掘る中で、どうせろくなもんじゃないだろと他の出店者を侮っていた節もあったのが侮っていたという事も分かった…あれは買っておけばよかった、二冊だけおいてあって、多分、上下巻なのか、捲ると、登場人物が生まれる前から続いている連歌、というモチーフや北越雪譜への言及があった、千ページ近くあった分厚い創作、買っておけばよかった、ひょっとしたら小生を脅かすほどのものだったかもしれないのに、しかしリュックに詰め込んだ、骨董市での獲物が重過ぎて肩が抜けそうなほど、あの分厚く重い著作をお助けするのに躊躇したのに、己の老いを感ずる…近頃は本が重とうてしょうがない。この文学フリマという催しの意義やらこの場の齎す影響の是非は幾らでも喋れるがそんなのには小生興味は無い、時間も無い、とはいえ結局、かような自分の不首尾もあって自分が脅かされるほどのものは入手できなかったかもしれない…文学フリマでお助けした井戸=作品を以下に紹介。まだ読んでいないので中味の論評はできない。
「メルキド9号」(小説同人誌)…くだんの、小生の秘密文書を読んでいただいた方が作製されている同人誌。セイタカアワダチソウとウツボカズラ収集が気になる。
「解らん」(←「らん」が漢字変換できず)vol.1 特集 大西巨人『神聖喜劇』(二松学舎大学近代文学ゼミナール②)
「旋回する言葉 解放への音楽 齋藤俊夫批評集」(音楽批評)…現代音楽の演奏会にこまごま足を運んできめ細かい批評している。さもしく悪い癖だがつい著者略歴が気になって見ると、二つ年下であった。東工大中退し慶応大文学部で音楽学修士、企業に勤めるも辞職、そして柴田賞受賞して評論活動開始されているとのこと。
「破滅派No.008」(雑誌)…「破滅」という思想を掲げた文芸雑誌。その気骨やよし。小生が提唱する「荒み」に通ずるものがある。寄稿すべきか。
「のり弁大捜査線 竹田あきら 著」…のり弁の研究書。20種類ののり弁カラー写真を見ているだけでムカムカしてくる。短期決戦のフリマで幅を効かす企画物の一つ。状況に媚びるのが必ず出てくるが面白いから文句は無い。
「赤道直下の海峡 高森純一郎 著」(小説)…これは帰りの新幹線で読んだが、小説とは何か、などといった文学論一切無し、明治大学の博士課程後期の東アジア政治の専門家(小生よりも6つ年下)がただひたすら緻密に現代のマレーシア/シンガポール政治経済情勢を描くのに小説という技法をつかっただけ、という切り捨て方が文学としかいいようがないつれなさである。学者特有の狂った几帳面さがよい。
「百合人 第1号」(雑誌)…女性同性愛者/女性同性愛愛好家の雑誌。「薔薇族」が別のブースにあったがこちらは遠慮しておいた。
以下は、河村塔王氏の著作…コンセプチュアル色の強い小説実験の秀逸。多分、こういうところ(文学フリマ)でしか出会えなかったであろう孤高の暴走、応援したい。理念は暴走してこそ、である。小生でも思いつきはするが実行はできなかったことをやってくれた喝采。
「頭の中で組み立てるお話」…命令形小説。毎頁、とにかく小野ヨーコばりにいろいろ手の込んだ命令してくる。
「、。」…頁をめくると「、」と「。」と「」と『』しかない。文字なし。
「■」…メルビルの恐ろしき傑作バートルビーが浮沈する、リアルにインクの滲みに人が突っ込んでいる。本当に。見た者じゃないと分からないと思うが…そして四百字詰原稿用紙に文字を印刷している。
あと、言葉の錠剤を100円で売っていたので買った。小さい短冊状フィルムに文字が印刷され、それがカプセルに入っている。全て胃で溶ける素材とのこと。ちなみに小生のは、「捩れた時間。解れた空間。」と書かれた錠剤。怖くてまだ服用していないが、これを服用せざるを得ない時がくるのだろうか。
小生も此度は著作の内容の彫琢は当然ながら、装丁にこだわってみた…鳥取にもこれらは持参したが表に出せなかったがゆえのリベンジ…写真撮ったが掲載が面倒なので文字で説明すると、表紙に紙やすりを貼りつけたり(これは名は失念したがシチュアシオニストの人が己の著作で試みたらしい。本屋で他の本と一緒に並べられると、取り出した時に他の本の表紙を傷付ける趣向)、海田の河原で摘んできた、手が切れんばかりの萱の葉を丁寧に並べてホッチキスでくっつけたり、表紙の裏から画鋲をびっしり刺しまくって表を棘だらけにしたり選りすぐりの獰猛な貝殻やゴミ、鼻水をすすったティッシュなどを表紙に無理やり接着した、そうした装丁の本を出品したのであった…反応は…いつもの不発。持て余したのかいきなり大声で生臭い文学論をぶち始めて悪目立ちする慶応大のブースと、おとなしい東大のブースに挟まれて、熟年の男性が己の著作を山積みにして、見た感じ芳しくない売れ行きもあってか、ぶっすり無言でいる様子がどす黒く、気になった…会社を定年退職後の田舎暮らしを綴ったブログを印刷した本であるらしいが…少し読んでみた…感想は、言うまい。フォルクスワーゲンのCMが耳について頭にくる、久保田利信が、ポンポンポポンポンポーンッと、いい加減にしろ。冷蔵庫の中で、えのき茸が乾いてミイラだ。最近、頻尿だ。清らかで透明な尿がいつまでも出てくる…そういえば昔、卒業する先輩から「ピッピュ」という漫画をもらったが、これのラストは、尿が止まらない、「長い、なんて長いんだ」最悪だった…出ている鼻毛がなかなか抜けないから目尻の睫毛を抜く。
思えば秋とはいえ終わりの季節が怒涛である…小生のなけなしの些事の終わりが恥ずかしいほどの終わりの顕現が世間でもかまびすしく、前田智徳が引退、みの失脚、タモリが笑っていいとも終了宣言、島倉千代子死去、そしてルー・リード他界… white light! white heat! ルー・リード、あなたの心、しっかり受け取りました…冥福は祈りません、あなたのことだから地獄の底でもロックすることでしょう、小生も、いずれそちらに参りますゆえ…。一体、終わりはまだなのか、まだ終わらないのか、まだなのか、もう、まだ、遠すぎる…激痛がぎっしり続く、
「始末記、しめやかに…」
学生時代、二郎が相変わらず鯖の味噌煮定食を食していると本条が「鯖ばっか食ってないでたまには肉豆腐でも食え」と、これまた相変わらず苛立たしげに手厳しく云う。肉豆腐…なんとも旨そうだ。最近は米を見ると少し胸がいっぱいになる、あまり米を食いたくない、血中コレステロールは何故か下がったが血糖値は上限ぎりぎり、尿酸値は基準値超えだから米を控えたいところだったからちょうど良い、米に替わって豆腐を主食にしつつある昨今、肉豆腐という料理が気になり、自作、何週間か前の事だが…恐らく豆腐メインのすき焼き、といったものだろうから、肉はわき役という事でひき肉をチョイス、味付けは醤油に砂糖、生姜のしぼり汁と生姜の千切りでよい(砂糖はうちでは北海道のテンサイ糖を使っている。清々しい甘味である)、水引き状の糸こんにゃくに旨味を絡ませ、辛味が仄かに残る程度にさっと一緒に葱を煮れば出来上がり…豆腐は一丁丸ごとをどかどか鍋に入れて、器に移す段でお玉で思い切りよく不定形に掬い取るべし。旨すぎたので、また作る予定だ。終りという事だ、これが、要するに…鬼になった今もさめざめと灰色の涙が無闇に止まらない、心の内で。終焉の衝撃ともいえる、根こそぎ楽天的な目移りのさかしらを払拭する憔悴が激甚であり、折からのしめやかな曇天もあいまって陰陰滅滅、不貞腐れた陰惨すらも物々しさを通り越して寄る辺ない空しさと終わり感が捉えどころなく風も無いのに賽の河原の風車はからからと空回りする骨の音、聾唖の欠伸、残忍な麻痺状態がこのまま続くのか…事を成したとて解放感達成感などの明朗ほど遠く寧ろ惨めな、忌忌しい苦苦しさに一層切実に、窮屈な不安が一時の覚悟なんぞを容易く蹴り倒すのを遠い意識で傍観するしかないほど、他人事ではないのに…だいたい、とうに終わっていたのであった、それは書いた時から分かりきっていた事であったし後で読み返しても最早当たり前の事しか書いていない退屈極まる綺麗事にすぎないのじゃないかと心の隙間で感づいていたとしても後の祭りで、やる気も無い、やる本人の自分すらもがこれからやろうとすることにそそられていないし、とうに白けている…書いてしまうということはそういうことだと分かってはいたが、それに拍車をかけて、これも必然的ではあったと事後的に了解されるのであるが、いざ開始の段になって会場の雰囲気を、ほとんど視野が失われた状況で感ずるに、もう、終わっていたのであった…元より言葉の世界じゃないところにしゃしゃり出た以上覚悟の上、「荒み宣言」の本質は「場違い」であるからして望むところではあったにせよ…これから宣言することが全く理解されない嘲笑と無関心が渦巻く無理解の場、であるならばそれはそれで格好よさ自慢の糧になりうるかもしれないが、そうではない、もう、これから宣言することが、既に、来場した人々の人生の機微で、わざわざまだるっこしい言葉で意識化せずともとうに活動の表れとなっているほどに、あの場に訪れた人々は、もう、この宣言の内容など改めて必要ないほどに分かっている事…理屈を通じて意味を読み解くなどという行儀のいい善良な馴れ合いがとうにいい意味で砕け散ってしまって意味なんかどうでもいいからとにかくはやく音楽を、ロックを聴かせろ躍らせろという獰猛な欲望が率直に揺るぎなく暴発寸前である事…それに感づいた小生は浅はかな、まだ状況が呑み込めないが心底では感づいてしまっている惨めに襲われ…だいたい、いい年した大人なら言われるまでも無く当たり前の心構えをくどくどと得意げに作文にして読み上げている自分の幼稚が、そう思えば思うほど現場では殊更惨めで、情けなく、ちっぽけな恥部を晒して意気地も無く笑い物にすらならぬ、成すべきことを知る大人の中でただ一人居る、くよくよとつまらんことに悩める真ッ裸の碇シンジ(性徴中学生)のような幼い恥ずかしさ情けなさの晒されが、己の意志で登壇したとはいえ、手厳しい惨めではあった。書いた途端、音読した途端、樹立した途端紙くずになるのはこの「荒み宣言」の必然であったし本文にもそれは明記しているにも関わらずそれを書いた本人の自分がその必然の顕現に最もうろたえ、及び腰で為す処知らず惨めをさらし…ともあれ、米子市の荒み音楽祭もとい現代ビート族第二弾というロックイベントのオープニングで「荒み宣言」、宣言した途端、何の価値も無く、瞬く間に詰まらぬ紙くずへと回帰したのであった。自作の当世具足の面貌の狭すぎる視野でほとんど見えない原稿にそれでも必死で食らいつく惨めを思い出すだに…10分程度で、と言われていたがまあ30分くらい欲しいと主催側に申し出るも実際には細君によると45分超喋り倒して客の退屈感うんざり感のボルテージ最高潮で、最後に、客から鋏を借りて「鋏ありませんか、鋏ありませんか、ナイフでもいいんですけど」袋を切って板コンニャクを床に叩き付ける予定でいたが(もっといえば糸こんにゃくとウニ(海の棘棘)と栗(陸の棘棘)を会場にぶちまける思いつきもあったが自粛)そんな雰囲気ではなくなった状況に、これも情けないが、負けて、すごすごと終わらせたのであった(だいたい、板こんにゃくを叩きつけてもよさそうな状況、というのがあるはずないじゃないか…奮起してやればよかったのだ、雰囲気に負けずに…不甲斐無い)…著作物販売の出店などゆるさぬほどの大盛況のお客さんの入り、数学でいうならばフラクタル構造のような複雑な動きを繰り出す熱狂した客の踊り…動きの細部にその動きのひな形を忍ばせてさらにその動きの細部にも…といった無限の踊りを一心不乱に繰り出す橙色の女性…かような憔悴状態だったからこれも情けない事に、肝心のバンドの音のほうをほとんど覚えていない…
ペットサウンズをハードロックするというのはロックという音楽の一つの夢であるがそうしたものに果敢に挑もうとしている音もあったがまだそれは表層の意匠レベル、雰囲気作りレベルであり楽曲の抜本の構造に対してそうした嗜好を導入した形跡はない…ならばどうすればいいのかと言われてもそんなことは答えられるはずがない、途方もない道ゆえに…健闘を祈るよりほかない…逆光、煉獄から帰還した麗人と仙人と入道の出現、切実に、「異形の王権」という言葉がついて出る…キャラクターとは断固闘争するつもりであるが、事ここに至ればいう事なし、ほとんど音の記憶が残らないというのは音のあるべき姿かもしれないが記憶にない以上ここで事後的に何か云う事すらも出来ぬもどかしさ、音の内容を具体的には思い出せないがこんな印象は残った、とすら言えぬほど、印象すらも残っていない、これは小生の内的失態のせいも大きいが、音自体の成果=無駄の至りでもあって、何も言えない、どうしようもない、いずれのバンドさんも己の出している音に自らが脅かされている様子が聴こえない堂々たる余裕というのか場馴れというのか、あったし、だから聴いている小生も安心して聴けて少し踊れた安全であった事から芸術的批判ができるのかもしれないがそこまで付け込めるほどの生易しい音ではなかった気もするし、ここでも結局記憶がないからどうしようもない、理屈が通じないという事が理屈の全的通行止めというよりも理屈の通用自体が通用しながら流通ではなく破綻するという意味でなければならない事を踏まえるとあの場では単に理屈が通じないという狂熱であって、だからどうしたというのか、何も言えず、それもあるのか、それはそれでよい、それはそれで、もう、事ここに至っては、どうしようもない、事を踏まえて言うことなど無い、理屈が通じない狂熱超臨界なのだから…自分の内的状況が客として整っていれば、恐らく、ジーバットというバンドさんの音の真価ときちんと向き合えたと悔いるが、貧しいながらも演者としての当事者の感情に翻弄され、その音の凄みを体感できなかったのは事実だが、一体、どんな音だったのか…分からないにも関わらず、だが、もっと、構造を、リズムを、波乱させることができるのじゃないか、切れのいい変拍子とかじゃなくて、もっとぐちゃぐちゃで、ぶんぶん楕円旋回複素数展開、乱れた塊を構造自体に持ち込んでリズムへの信頼を絶つべき時が、すかすかに外れて、音の癌細胞増殖、癌が人間になり替わる音を…そういうのを聴きたい、と、ぎりぎり思う。実際はそうだったのかもしれない、理想が現実に現場で出現してもそれを受け止める心が自分を支えていなかったのかもしれない、だから理想が出現していたとしてもしつこく蒙昧にも難癖つけているだけなのかもしれない、何も確かなことは云えない。ただ、いずれのバンドさんも、音を信頼し過ぎているような気がしてならぬ…ライブ会場スタッフとの細かいチューニングの様子もあった事からすると…チューニングが悪いと云っているわけじゃない、そんな意味ではなくて、もっと捨て鉢な、場違いな、すれっからしな音を!ただし、こんな望みは、ライブが終わってから少し時間が経ってからだから云えることで、当日当時はこんな批評めいた余裕なぞ云えるもんじゃない壮絶音楽であったのは重々肝に銘じている。そして本当に壮絶だったのか、根底から記憶に無くて、記憶に頼る事すらも許されぬというのか、音楽は。…一般的に芸能においては技術を捨ててはならぬ(小生は、捨てるが)、しかし技術を信じてできたものがどうだというのか、どうすれば…ッ。ライブ会場で、岩国のライブハウスオーナーの方とビール飲みながら雑談するという交流も試みたのであった。ともあれ、一年に一度か二度は、こうしたロック体験をしたい、映画でも見るようにこうした会場に足を運びたい、と素直に思ったから、多分この事が一番肝要だと思う。自分でも探して、まずは勘で、ライブハウスに入ってみようと思う…。
ああ、こうして書いていると、終わったことすらも終わった気がするのが幽かに、次の歩を、行方不明ながらも、打つことができそうだ。少し、清々しい気もしないでもない、次が、と…。角度によって表情を変える大山、伯耆富士の名称に留まらぬ豊かな威容が澄んだ秋空に浮かぶ様を各所で満喫、アイスクリーム濃厚で旨し、古刹大山寺参拝、神社の様式である檜皮葺を瓦屋根で再現している唐破風の大胆な建築様式に感服。いにしえの僧兵どもの武辺ぶりを忍ぶ、僧兵バーガー渋滞…南朝の心強い味方、名和長年の家紋は帆掛け船だった気がする、素敵だ。
生まれた途端終わってしまった、棺桶に跨って子を産み落とす恐ろしいほどの呆気なさ(ベケット)、いちいち口にするのも恥ずかしい、現代人の常識「荒み宣言」
(←クリックしたら)自分の中での終わり方が凄い。
破れかぶれついでにもう説明してしまうと、本文中の写真だと分かりづらいから説明すると、ライブ会場で吊り下げさせてもらった小生自作の旗、黒い布地の真ん中を日の丸サイズで貫通させたものである。意味はもう、分かるだろう。黒旗へのオマージュでもあるし、中心無き日の丸でもある。近所の祭りに寄付金出したらくれたカップ酒が、すこぶる不味い。甘ったるくてどうにも…。隠岐の島に行きたい。
モハヤコレマデ
「back from the grave volume two/raw,blastin' rockin' mid60s teen garage punk scree!(1966)crypt cr-0345」
今回もほとんど休載の態に等しいくらいだ。思索や手仕事に忙しくこちらにかかずらっている閑は無いというかやる気が払底しているがしかしか細く途切れがちなれど継続はせねばならぬテーマ、やり残しているテーマ(ハードロック論、悪趣味の系譜…)だから厭厭延命しているに過ぎぬ…人望と人脈が欠乏している小生にあっては数少ない、というか、数少ないなどという表現はこの際欺瞞になるほどの、要するに唯一の人脈といっていい盟友からの誘いがあってのことで、…こんなところで、ほとんど顔が分かる数人しか読んでくれていないウェブの孤島に過ぎぬこのブログで宣伝したところで何の効能も無いのは臍を噛む思いで重々承知なれど、参加のような上り調子に便乗したい下世話が働いて、以下、宣伝する…将棋講座やら木目との対話によってせっかく忘れて落ち着いていたのにわざわざ自分で思い出した愚、またぞろ思い出し、創意の疼きが止まず動悸と息切れ、過呼吸気味でそわそわ落ち着かず意識がシャットダウンしてくれないから苦しいばかり、ほとんど自分の創意による自分への拷問が終わらない状況に、心身が持ちそうに無い、創意といっても屑の、稚拙で下らぬ些細な思い付きばかりでそれをいちいち却下する内的作業で頭が一杯になっており、無意味なメールを大量に送り付けるサイバー攻撃に近い、小生の創意は…ほとんど却下、屑ばかりだ…止めたい、しかし止まらない、死に急ぐ覚醒の呪いから解放されないとおかしくなる、ここまでくるとさっさとやってしまいたい、馬鹿げた思いつきの大量勃発でフリーズするほど灼熱する意識から脱却するには、一刻もはやく終わらせることだが、しかし関係者に関係する日程が決まっている以上自分ではどうにもならぬというのがもどかしく、拷問となって、その上、ここまで準備を日日ねちっこく重ねておいても尚、他方で悪化の一途を辿る状況によっては如何ともしがたい破綻、結局できない、行けない、ということも、何が起こるかわからぬ未来というのも個別にあって如何ともしがたいから想像するだに悔しい怨念が先取りされてまた苦しいのは自分だけである、ここまでくるとほとほとうんざりしている、破れかぶれにもなる。誰の何に対するわけでもなく忌忌しくなる。雨上がり、カリントウどころじゃない、小さめのバナナくらいに肥大したナメクジがアスファルトに焼かれるのを発見、自分の目の高さで100mほど向こうから鳩が真っ直ぐ飛んできた、鳩胸が愚かしいくらい丸々した断面図が猛接近してサルバトール・ダリばりのシンメトリックで宗教的な場面、あわや衝突寸前で鳩が逸れた、
10月13日の日曜日、鳥取県米子市で、前座で小生、基調講演「荒み宣言」を発表する。小生が事あるごとに己のみならず現代の根底を切実する概念として提唱してきた「荒み」を、ついに大勢の人人に披露する機会をいただき、感謝、やらいでか、己の思想の一端を、ついに、世に問う…これに合わせて製本も間に合わせた最新作「廃業」も含めて、その後、会場の隅で自分の秘密文書と缶バッチの物品販売も試みる予定…来てみて損はなし、至高の音楽体験を暴発させるだろう強豪バンドの方々のきっとすさまじい素敵な演奏、ロックの真髄、イカしたDJの方々…何とか完遂したいものだ、切実だ…ホテルがうまいこと予約できない…混乱している…駄目かもしれない…何とかせねば…落ち着いて読書したい…
数週間前に同じシリーズのvol.1を記事にしたがこれはその、小生が愛聴してやまぬラディカル・ガレージ集成の、第二弾だ。思いはだから前回と変わらない。これ以上同じことをくどくど書くつもりも無い。いとおしい、瓦礫の歌だ。雨上がり、湯気がもうもうと立ち込めるほどの、粗い蓄熱…
また休載
また休載
「荒井由美/cobalt hour(1975)toct-10713」処暑
およそ十分おきに下痢しに行っているがそれでもよく冷えたビールを腹に流し込むのを止めるつもりはない…もう、あらかた出し終えて、行っても、臭い屁と、ナメクジほどの糞しか出ない、いくら苦しくイキんでも…ちょっと行ってきます…戻った…そして飲む…リーリー虫の音が…一雨ごとにどころか一発の雨でもう秋か。だいたい、雨が今日になって降る前から、いぎたなくももう秋を感じ、きちきちと苦しゅうなっていたのであった。忍び寄る修羅場に向けて心の刃を粗く研ぐのは怠らぬとしても心の萎えがあらゆる些細な現象をも過敏にとらまえては無かった事とする言い訳に仕立てようとする手際の良さだけは虫唾が悪くも、利発だ。気が狂いそうだ。運命の懐柔工作など性根の腐った幻に過ぎぬのに、矛をおさめようとしてどうする、まだ、矛をおさめるつもりはない、往生際を悪化させねばならぬ…もたついているうちに外部から決断を迫られる決定的な時が忍び寄っているのは分かっておろうに…最早、形振り構わぬとはこのことか…結局、映画「風立ちぬ」を、盆休みの初めと終わり、2回も、映画館でねっとり鑑賞したのであった…そればかりか、さもしくも、まだ見足りないとばかりに、今更、あわよくばもう一回足を運びたいとすら思っている…しかし2時間近くもまた、内容を覚えている映画にまた費やすなど、そんな時間の余裕が己にあるのか、別種のさもしさが頭をもたげ、徒にうずうずするのみで何も手につかずかえって時間の無駄を費やす破目に、…美しかったのだ…美しければ、それでよい…そんな捨て鉢に陶酔させて、何が悪いというのかと開き直るほどに、膂力無く傾倒する己のひ弱と日常の萎えが専らの原因で、作品のずば抜けた優れのせいなどではない、もっとよい映画は巷間にそこそこある、しかし、もう、よい映画をがつんと受け止める気力も耐力も、憔悴しきって…風立ちぬ…いくらでも映画のそこかしこや映画中で頻繁に云われる美しいという概念についてなどをあげつらっての批判などはいくらでもできようが、もうそんなことはどうでもよい、美しいのだから…監督の、飛行機に対する思想はよく分かったがこの際それもどうでもよい…ゼロ戦設計者の堀越二郎と大正のあの時期のあの作風の小説家の堀辰雄を「堀」つながりでくっつけちゃう創意は、全く成熟した大人の監督の発想である…粉雪が風に掠れるように舞い散る中、もう、わざわざここで小生の駄文が映画を汚す必要はないだろう。菜穂子の、凛として、すっきりと、けなげで本質的で、可憐な輿入れのシーン…野の花の生涯のような…その時の自分の心のままに病院を抜け出した菜穂子の灰青色のふっくらよく伸びた髪に差した白い花の何とも映えることよ…高まった感情のままの咄嗟の装いが信頼できる人への篤い礼にもなる奇跡の白い花が美しくって…幼き頃は二等車に乗っていたのが山を下りる時は三等車になっているこだわりも、いちいち泣かすし(小生は泣かなかったが)…人間の意志=尊厳が、きちんと、内的にも外的にも、すっ、と尊重されている、美しい夢のような映画だった…外部や他人がごちゃごちゃとつまらん御託を並べて人のやる事の足を引っ張ったり、内部や自分が率先してそれらに後ろ髪引かれて煩悶するといった汚物が排出されない、できるだけスムーズに人間の意志が尊重されて事が渡っていく決然、それがすなわち、粋、であり、心意気、というものであり、非生活的だけど、そういう瞬間にこそ、創意というのが自然と生まれる、そう、黒川夫妻がはからずも仲人になった不時の婚礼のように…公的ではない、あくまでも私的に差し迫ったところに創意が溌剌する、茶の湯しかり、婚儀しかり…もう、音ばかりが、よく聞こえた、音ばっかりの映画とも思えるし、黒川主任…映画の中では一際魅力の気を吐いていたが現実での小生との関係を想念すればうまくやっていけないだろうなあああいう人とは、などとつまらんことを思ったり…とにかくまた風の音や爆撃機の音、震災の音、ドイツの石畳の影の音、黒川家で何故か押し寿司をこしらえている音、こまごました音をずっと聞き続けていたい、20世紀初頭の日本とドイツの調度品や風景の、監督こだわりの描写をまた味わいたい…黒川主任の離れの床の間に飾ってあった薄汚れた、黄色っぽい香炉が気になるがあの時代に、財閥の数寄者以外で黄瀬戸が出回るはずはないし、気になってしょうがない、あれは何焼なんだ、もっと詳しく見せてくれ、あるいは詳しく描いてくれ、と…軽井沢での、自分の今の生活からすればほとほと非現実的で美しい夢のような余暇の豊かさに小生も浸りたい、…あくまでも、美しい夢、と書かねば気が済まぬ。夢のように美しいとは書けやしない小生の荒んだ生活からすれば、夢は現実よりも現実的で生々しく問題を突きつけてくる苦しさ以外のなんでもないのだから…何かしら口上の一つは覚えておきたいものです。小生も、「申す。七珍万宝打ち棄てて身一つ山を下りしは見目麗しき乙女なり…」したい。映画の中の喫煙がどうのこうのいうのはゲス、問題外、ここで言葉を費やすまでもない、頭の悪い人間というのは本当に絶望的に頭が悪いとしか言い様が無い。いね。まあなんにしろ懸案の荒み宣言を起草しおえて今は弱りきっている、弱っていないときなど皆無だが、今はとりわけ…後はねちねち推敲するだけで、脱力とほてりの残響がまだ続いている…きれいなものが見たい、もう、縋るように、ただそれだけである…でも日曜日に出歩きたくはない…映画のエンディングにあった荒井由美の「飛行機雲」ってこのアルバム「コバルトアワー」に入っていたかな、と思って聞くも、残念ながら収録されていなかった。「ルージュの伝言」が入っていた。今となっては、もう、全ての楽器がクリアで輪郭が鮮明なこの、和臭ティンパンアレー系の音作りというのは昔よく聞いていただけに今となってはついていけない、くっきりすぎるベースがいやらしく聞こえて耐え難い。和臭ティンパンアレー系のこだわりのアレンジにも、荒んだものしか聴けない今となっては耐え難い…挑戦的でタフで、人生の機微や自然のぎらぎらをぐんぐん受け止めた腰の据わった感情をきちんとした独自の言葉できらきらと輝かせる、自分にも他人にも、迸る無償の愛ゆえに厳しい、凛とした女性として荒井由美の人格や、ついでに吉本バナナの人格が聞こえるわけだがそういう人はそういえば他にも居たなあ、実際に会った事があったなあ、と、つくづく思いつつ、他の楽曲はスキップして陽気なルージュの伝言だけを2、3回聴いた。「卒業写真」は、ちょっと男の自分にはついていけず、聴けなかった。堀辰雄は中、高校生の頃によく読んだものだった。堀辰雄論ひいては大正文学論はここでは省くが、彼の小説の、英語の関係代名詞を直訳した長い文体が日本語表現に新たなスリルを生んだ手際のよい複雑さに森のように魅かれていたのであった…映画の中では、ヴァレリーの詩句を、恐らく観衆に分かりやすいようにという商業的配慮から、あるいは、さほど日本の古語に詳しくないかもしれない飛行機技師の二郎自身が外国語を日本語に翻訳したという脚本上の設定を重んじるために、二郎に、「風が吹いた、生きようと試みなければならぬ」と直訳調のセリフを言わせていたが、ここでは、もう、素直に、堀辰雄の有名な翻訳で、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と二郎に云わせてもよかったと思う。そうすることで堀越二郎と堀辰雄の邂逅という作品ならではの出鱈目を映画の中で高らかに謳うべきであった。夏の休暇中、四国高松に物見遊山。西国で1、2を争うほど長大な商店街があると知り、歩いてみるがアーケード街のあまりの長さ、先の見えなさに意気消沈、戻らなければならないことが重くなって終わりまで行けず中途で戻る…各地の地方の商店街廻りを好む小生にあっては初めてのノックアウト。兎に角長すぎる。街の目抜き通りから一本入ったところがメインの商店街で洒落乙な明るい雰囲気だが、さらに一本入ったところの商店街が、昔ながらの、暗く汚れた、コクのある飲み屋が文字通り軒を連ねる古格ある商店街である…ライオン通りだったかな…そこで大衆居酒屋に入るが人と喧騒が多く、まずは待たされ、暑いのに店内もエアコンが効いていず、つらそうなので、「もうちょっと待っても」という細君のいう事聴かず、待つのが我慢ならず、いくらか待たされた後に店を黙って出る…つらつら獰猛そうな店先を眺め歩くに、「洋風居酒屋「風」」という小さな看板が2Fまで続く細い階段の前にある。奥方連れでもあるし、あまりやけっぱちな居酒屋に入るのも怯えられるから、ちょうどよいと思って入店…客は男一人、さっぱりした内装の清潔な店内で、カウンター席と、テーブル席が二つである。メニュを見ると、「洋風」というように間口が広い言い方をしてあったがその実、ロシア料理を専門的にカジュアルに提供する新趣向らしく…つき出しの野菜のキッシュが、旨すぎる…注文した種種のロシア料理の名前は覚えきれないが、料理につられて、酒も変えざるを得ぬ…店側にはシェフとバイトの男のふたりだが、このバイト君、サーバーからビールをつぐのがうまくいかず何度も泡だけをグラスに満たすしくじりをしでかし、見かねたシェフがかわりにうまいことやる危うさもあったが、料理の工夫は確かだ。肉と小麦粉の味が際立つピロシキでひもじかった腹を温めてビール二杯のあと、料理のコクに合わせて、ギネスビール、赤ワイン2杯、そしてウォッカのロックへと推移し…ウォッカといえば小生、学生の頃、いろいろわけあって後輩が住まう仏教施設の座敷でウォッカと日本酒を混ぜて煽り飲んで意識を飛ばし急性アルコール中毒、友人に救急車呼ばれて搬送、入院、点滴、という苦い思い出があって遠ざかっていたが、十年ぶりのウォッカ…かつては味わいなど分かろう筈も無かったが、シベリアの針葉樹の幹がそのまま一気呵成にずどん、と酒になったかのような野趣あふるる苦味と風味が、今までになく旨い…焼酎よりは好きかもしれない…塩の効いた、味の層は浅いが生半可ではない牛の旨味の鋭さが生クリームの中で呈するビーフストロガノフにこのキツめのウォッカが、いみじくも、合う。静かでいい店だった。正解だった。高松城見物…堀に海水を入れているらしく、餌をまくと日に焼けた黒い鯛が群がってくる珍光景…石垣はそんなによくないな…城の中では讃岐の新進作家さんのクラフトフェア&カフェ的な洒落乙な催しもやってはいたが、もう、旅の行く先先で自分が欲しがるものが手に入ってしまうという現実に嫌気が差して、購入は控えた…業務用扇風機に吹かれながら往時の殿様が愛でた立派な蘇鉄の庭を眺め…ステンレスをばしばしアーク溶接したようなインダストリアルにさばさばしてかっこいい洒落乙なプロダクツのポットに触手が伸び、これで珈琲豆に湯を注ぎたい欲望に駆られたが、上記の内的事情で、よしておいた。久方ぶりの瀬戸大橋から眺める景色は時間を忘れさせるほど爽快だった。列車の進行方向と逆向きに座らざるを得ない席しか空いていずそこに座ったから吐きそうにはなっていた。高松市美術館にも抜け目なく来訪、幕末の工芸家、玉かじ象谷を彫祖とする讃岐彫の、象谷の弟子筋の人間国宝たちの彫漆作品の超絶技巧をつぶさに鑑賞…コウモリとナマズと白菜といったモチーフの取り合わせも激しくて、まったくかなわない、小生こんなところでなにをやっているのであろうか。