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消化試合…
①政治経済外交環境:悪い←WW2<現在→よい
②民度:悪い←現在<WW2→よい
要するに政治経済外交環境は現在のほうがよいが民度は現在のほうが悪いので相対的には翼賛体制成立の確率はWW2頃と対して変わらない、と推察されると思う…
②は、ざっくり云えば、政治に限らず社会現象や自然現象を主体的に判断しうる力と云えようか…しかしそうならば、詳細は割愛するが諸々の歴史状況を勘案すると…WW2:封建制の名残りが農村等で大多数を占める知的脆弱性…現在:過度な文明化、ネット情報化による思考力の退化による知的脆弱性(人間や自然との直接から乖離し、ショッピングモールでスマホいじるだけでは奴隷しか生まれないだろう)、ならば…
②民度:現在≒WW2
かもしれない…いずれにせよ翼賛体制成立を阻止する最後のチャンスは来年の参院選あるいは衆参ダブル選挙である。其のタイムリミットまでに如何なる行動、生き方を自分として発現させるべきか、何が出来るか、何をするべきか、今、無茶苦茶悩んでいる。
未虫が…
しれっと
いつの間にか事ある毎に報道系テレビ番組の画面下に、番組編成が恣意的に取捨選択したに過ぎないツイッタ―が垂れ流され…無論それは新橋駅な どでテレビ局取材者によって捕まえられた大衆の一部としての生身の人間に意見を聞く形の延長でありながら…そららは政治的主権者としての匿名 の大衆の意見として、それらへの批判は予め免除された形で特権的に肯定されている…たとえ如何に愚劣なる意見であっても…無論、テレビは多様 な意見(といってもたかが言説である以上多様性など皆無)を均等に取り上げて並べるのが仕事でそのいちいちに批判を与えるのは視聴者が己や周 囲の人間と意見を直に戦い合わせる内になされたらいいということなのだろうが実際は此の国において市民が社会的政治的な事に関して日常茶飯に 討論することなど殆どなく、テレビやネットで垂れ流される意見を己の中で無批判に吸収するだけなのだからテレビで匿名大衆の意見が特権的に無 批判に垂れ流されるのは限定的にせよ影響がないとは云えない…匿名大衆の意見を垂れ流すならばそのいちいちを批判に晒しうる仕組みを構築しな いといけないだろう…そうでないと匿名的大衆という存在性のみに立脚した特権を許す事になり、言説の屑ばかり放出されるだけで説得力ある論理 性あるいは独立した意志は何時まで経っても形成されないのだからいうなれば純正全体主義に資するのみで、政治的に自立した個別的人間としての 主権者の醸成を妨げる惨めばかり増進される…
それはそうとしてテレビはそのようにして、匿名の大衆に対して無際限に、ただ匿名の大衆であるという事のみに立脚して批判から免れる特権を与 えると同時に批判免除特権に起因する主権を与えると同時に中心無き権力の醸成を保障するのだが…そうしたテレビ界にあって、「有吉とマツコの 怒り新党」というテレビ番組が画期的なのは…テレビにおいて従来は批判を許されない特権を与えられていた匿名の大衆の構成員から寄せられた意 見に対して、有吉とマツコデラックスという個人たる有名人が己の見識を駆使して容赦なく批判を下す、という、およそ反民主主義的番組構成にあ る。従来においては例えばバラエティ番組などでいわゆる素人イジリというのは散見されたが其れは飽くまでも番組が求めるお笑い的雰囲気に其の 素人が即興で合致しうるかどうかを、番組が結果した雰囲気で以て事後的に評価するという雰囲気的なものであり「生身の言論」を介した「批判」 にまで至らなかった。しかし怒り新党においては、匿名の大衆構成員が社会や世の中に対してある程度言葉で論理的に示した言説に対して、有吉や マツコが、彼らの言葉で以て論理的に返答し、たとえ否定的であっても言葉の綾でごまかす手加減などなく時としてばっさり切って捨てる容赦の無 さも披瀝するから、「大衆を批判の対象になし得ている」と云っても過言ではない。怒り新党という番組は、「匿名的大衆は批判の対象から免除さ れるという特権」を大衆から見事に剥奪してくれた。匿名的大衆を批判の対象にはなし得ず、徒に批判免除の特権を与えて無際限に匿名大衆の意見 を肯定してきたテレビにおいては稀有な現象である。無論有吉やマツコらも匿名大衆あるいは既成権力からの反撃を察知する神経はタレントとして 一流の繊細であるから批判に用いる言葉は繊細であり、芸風としての当意即妙を維持しつつ、人生経験に根差した多角的視点で論理の硬直化を巧み に緩和させながら批判の核心を的確に射る論理の構成力はずば抜けているからこそ、批判に晒された大衆はぐうの音も出ないばかりか匿名大衆は正 当な反論を繰り出す能力も築き得ないために、番組が炎上する事無く続いているのだろう。
ちなみに中心無き権力という言説…今やポストモダニズムの功罪として、かような言説を弄して悦に入る瞞着に浸る余裕など全くないだろう、此の 荒んだ時局にあっては…自民党が政権を奪還して早々、経団連会長は、これからはどしどし自民党さんに献金させて頂く、と公言しており、…その 後の政治状況、とりわけ労働状況の劣悪化と経団連優遇政策を見ればどこに中心があるか誰の目にも明瞭である。だいたい選挙期間での金品のやり取りは贈収賄として禁止されているのに選挙が終わったら特定の階層による利益団体が政治家に金をやる、これを贈収賄と云わずして何であろうか。献金の内容が種々法律で管理されているといっても、贈収賄がいくら法律で管理されようとも贈収賄以外の何ものでもなく、むしろ法的にある程度承認されているゆえに政治的に悪質である。政治家は特定の団体から献金を貰ってはいるが其の特定の団体のみを利するような政策を作ったことは無い、広く国民のためになる政策を作っている、などという子供だましの詭弁が通るはずがないではないか。現状では法的に承認されている此の政治献金という制度はどう甘く見ても贈収賄以外の何ものでもない欺瞞である。無論、人間が献金し人間が政策を作る以上、其の人間の意志決定の原因を認識論的に論ずるならば中心は無いと云えようが…しかしそんな事で「見かけ上の権力の中心」を免罪していたら此の見かけ上の権力の中心の私腹を肥やすばかりでその他大勢は惨めに搾取されるばかり、という身も蓋も無い現実は、認識論的正当性では解消されないくらい、其の現実は切羽詰っているのである。権力に中心は無いなどと述べて悦に入っている事は、身に迫る生活苦という惨めな現実からすれば生温く高尚な甘えに過ぎず、其ればかりか、其れに付け込んで「見かけ上の権力の中心」はそれこそ民主主義的なる「中心無き権力」を隠れ蓑にして幾らでも、国家のためと云いながら国民をなだめすかしながら誤魔化しながら私腹肥やしと搾取を正当化する口実になる。もう、目の前の権力を直ぐ叩かなければ生活できないほど、余裕はない、此れが現実なのではないのか。
しばらく休載…12/6まで。
人生苦が…
なえて…
「SEALDsにおけるcall and response」
幾つもの、きっちり書かないといけない課題を列挙した計画を立てながら自然にぽしゃって来た痛恨すらも呆けた忘却に晒されて無神経な日暮らし、硯に向かいて…晴天続きで何も考えられない…家人からせがまれて、JR貨物のイベントに行く…貨物の車両基地があって、其処が年に一回解放され、古今の動力車や貨車の名機が整備士の目線で間近に観察できる撮り鉄メインながら国鉄モノの物販やソース臭たっぷりの屋台などにも抜け目ない、今や恒例となった鉄道イベント…何ほどのものやあらんとたかをくくっていたら周辺は、毎年数百人規模で圧死するメッカばりに老若男女問わず凄まじい巡礼の道、会場も芋の子洗いで身動きとれぬ人イキレで…早速、電力やディーゼルの動力車周辺は幾重にも三脚が取り巻いてさながら星の誕生のようにフラッシュが絶えない…撮り鉄密度が濃すぎる…貨物の動力車にもそれぞれ、レッドサンダーだとか名前が付けられているのを初めて知る。整備工場内もある程度解放され、そこかしこでエンジンや連結部の現物を指さしながら玄人たちがぼそぼそ熱心に議論している小さな人だかりが其処此処に散見される…此の国の、鉄道に掛ける常軌を逸した偏愛ぶり…三江線廃止の一報が米子支社から発せられ…決まった事ではない、と丁重に言葉を選ばざるを得ないのは偏に此の国の鉄道に関わる過敏な神経を刺激せぬよう気兼ねする周到さが垣間見える…小生は広大なる物販コーナーで、鉄道管理局が監修した、動力係員が携帯を義務付けられているらしい動力車乗務員手帳(乙種)を購入…制動距離算出のための数式やグラフが興味深い…変数が専ら経験則から導入されているのが、どうと云う訳でもなく気になる。イベント前に既に疲れていた理由…喉の入り口左側のみに小豆大のデキモノらしきが出来て、嚥下毎に違和感が否めず、風邪だと喉全体が痛いが左側だけの違和感なので風邪とは違う、何なのかと訝しく考え家庭の医学を見るとHIVや梅毒でも小豆大の結節が喉に出来るとあって仰天…耳鼻咽喉科に行こうとすると飛び込んだ耳鼻咽喉科が立て続けに二件閉店、仕方が無いのでHPがしっかりしている、待ち患者18人とかタイムリーに表示してくる、従って患者も多いデラックスな耳鼻咽喉科に駆け込む…泣き叫ぶ子供の絶叫に堪えながら2時間待ち…診察結果は…体の疲労によって抵抗力が落ちたがゆえの、扁桃腺の細菌性浮腫、といった所見で、クソ忙しそうな医者に一蹴され…赤茶色の、甘苦い薬を患部に付けられ、抗生物質や抗菌剤、嗽薬を処方されて終わる…その日中にあっさり全快する。ベタではあると思えどやはり横から見ると凸型のディーゼル機関車が好みである。
何とか今年中には以下の項目で此の国の政治情勢分析と、ささやかながらの政治的提唱を仕上げたいものだが…
①純正全体主義の一形態としての新社会主義
②抑圧移譲の原理の変容としての虐待の国
③純正全体主義の一形態としての家族主義の蔓延と、其の反作用としての虐待の国
④純正全体主義の一形態としての日本礼賛風潮の蔓延
⑤純正全体主義の起源としての国家=資本主義あるいは資本封建制の成立
⑥国家=資本主義による労働条件から見た虐待の国
⑦虐待の隠蔽/欺瞞的宥和/強化としての家族主義
⑧虐待の国における抑圧反動の無効事態~新社会主義における新奴隷制の成立
⑨国家内三権分立(立法、行政、司法)を参考にした社会内三権分立(市場、国家、人権)の提唱
これらは全て相互に緊密に影響し合っている…。
安保反対運動の中で俄かに名を挙げた学生主体政治団体SEALDs(以下、シールズと記す)…国家主義政権自民党の巧みな政治戦略の功が奏しつつあるのか経済ワッショイの雰囲気が醸成される体制の中で、今現在も、即ち安保成立のほとぼりも冷めつつ参院選まで遠いという中だるみした現在においても散発的に国会前でシールズ主催のデモ活動が成されているのは気骨在る意志的持続の力として重要ではある…参加者たちが政治的意見を文章で述べるシーンも一部ありはしたもののたまたまなのかテレビで強調されたのは以下のようなコール アンド レスポンスではあった…「民主主義って何だ!」「此れだ!」「民主主義って何だ!」「此れだ!」(以下、続く…)ヒップホップ調のリズムに乗ってやり過ぎて汚く枯れた濁声の音頭取り乃至は主催者らしきが「民主主義って何だ!」と叫べば間、髪を入れずにその他の支援者群衆が「此れだ!」を繰り返す、という仕儀である。其の突出した単調さ、そして専ら芸術としての、音楽としての詰まらなさに着目してしまうのは小生だけなのか、其れはさて置いても政治的な一抹の危惧は禁じえなかった…其れは、此処でも、例えばまたあの西ノ島新島や昭和新山が大地形成の過程を現在進行形で如実に示すように、シールズもまた、ある種の政治力学の過程を現在進行形で顕在化させつつ、其の力学に収容されつつあるように見えたからであった…
安保法制成立前夜…いわゆる声なき声として形(組織)即ち(政治的権)力にならぬ大衆のもどかしさが募る中にあって俄かに躍り出た政治新星シールズ…彼らが政治的に説得力を持ち得たのは…主権在民という民主主義の大義名分に則って、大衆という匿名性に潜在していたからこそ主権在民を体現したからこその、大衆あるいはマスコミへの説得力なのであった。ところが運動が嵩じる内にマスコミに認知され、「シールズ」という固有名で以て匿名の大衆という立場から「抽出」された時、大衆からの距離を工作され、シールズは匿名性に立脚していた大衆としての主権は剥奪され、大衆から非難あるいは賛同の「対象」になる…という、民主主義社会における政治力学が露呈するのである。そうした、匿名性の剥奪による大衆起源の権力剥奪の動き、を決定的にしたのは、安保成立前夜の、政権主催の公聴会に、シールズの代表者が呼ばれた、と云う事である。此れは政権側の、安保反対勢力への妥協と云うよりも、政権による、極めて積極的で巧妙な政治工作と見るべきであって、やはり政治力学を知悉した自公政権が一枚ウワテだったと小生は考える。此れによってシールズは政治団体としての固有名を、それこそ承認という形で烙印されたのであり、大衆からの分離工作のクサビを一発打ち込まれたのである。
しかしクサビを一発打ち込まれたからと云って完全に大衆と分離したとは云えまい。大衆から批判の対象にはなってしまったが其れでもまだ多数派の核に成りうる可能性がある…と、書きつつ、散発を余儀なくされる運動形態においてヒップホップ調の煽りが悪目立ちする様を編集されるところを見ると今のところは、予断を許さないとしか云えない…それでも、シールズもまた、上記のような政治力学の働きからは免れないだろう、たとえネット社会が発達しているといっても、結局は旧来の政治力学体系の速度と強度が高まるだけで其の構造は全く変わらないだろう。上記の政治力学の餌食となって匿名の大衆的権力が剥奪された反面教師として、「著名」な既成知識人らが関わる「9条の会」が存在するのである。
シールズのヒップホップ調の煽りがどこまで一般受け、大衆受けするかに、多数派の地位獲得が掛かっているが芸能としてみると其の工夫の無さが小生としては目につく…思えば1968パリ5月革命ではサルトルやブランショらが街頭で哲学的思弁的な演説を堂々繰り出し、街には「石畳の下には砂浜がある」といった詩句がばら撒かれたという(石畳…バリケード構築や投石の材料)…同時期の日本における街頭の革命運動といえば詩が生きていない早口左翼演説や造反有理といった貧しい言葉で塗り込められていた…一方で此れは法廷での話であるが其の時期、赤瀬川源平氏の千円札事件の公判では芸術とは何かという根源の事例として氏の仲間の前衛作家らが自作を法廷にどしどし持ち込み、法廷の中がさながら前衛芸術の祝祭と化したという…無論シールズ系のデモにおいても、60年代デモとは違って、どちらかと云うと60年代の産業サイケの復興を髣髴とさせる具合に、ピースフルなフェスやオーガニック野菜を売るシャレ乙マルシェの趣きを踏襲することで大衆性を確保しているのは新しいのかもしれない…しかしそれでも創意工夫に乏しいと感じるのは小生の悪癖なのか…しかしあまりに芸能的に創意工夫に富み過ぎると其の先鋭化が悪目立ちして取り沙汰される事でこれまた上記の政治力学の罠に掛かって、単なる「変質者集団」に収容され矮小化の憂き目に合うが、しかしバランス感覚の問題と云えるのか小生もよく分からない…いずれにせよ新興政治団体シールズもまた固有名の承認=烙印によって上記の政治力学の洗礼を受けたという事実は当事者らは自覚すべきであろう。あのコール アンド レスポンスにはそうした政治的自覚は感じられなかった。どのみち己の発した言葉は大抵、己に返ってくるものである。あの政治力学によって、己の言葉が皮肉という形でシールズ自身に返って来ないよう危惧するものである。
「民主主義って何だ!」
「此れだ!」
「民主主義って何だ!」
「此れだ!」
(続く)
「巨人の応援テーマ」
「耳を澄ませど漆から音は聴こえず」
またしても鑑定団二本立てを続けて視聴せざるを得ず…無茶苦茶眠いが無理して見ている…其れにしても何だ此の美しさは、と、血反吐が出るほど其の瞬間に仰天を余儀なくされたのは、物質というものとの生々しい邂逅を見たからであって…かねてより発注していたど銅粉がようやく到着、さっそく銅継ぎを試してみたのであった…対象は、先週紹介した、岩国は錦帯橋での骨董市でお助けした源内焼緑釉二枚一組皿…見ているだけで頭がおかしくなりそうな、珍品というよりも畸形、としか思えない、考え出したらおぞましいばかりの物品である…真贋は不明、だいたい2枚の皿を、成型段階で明らかに意図的に合体させるという目論見の前衛性が江戸時代後期に有り得たのか、しかし源内先生の事だからそれくらいのぶっ飛んだ所業に討って出ても不思議は無し、たとえ偽物だとしても此の畸形此の創意に悔いはないと思わせる奇跡の品であった…
しかし、よく見ると皿の縁が所所大きく欠け、水で洗いながら擦ると其の断面に塗られた安手の塗料が水溶していくという、どうやら緑色の水彩絵具をちょちょっと塗って欠けを誤魔化すという性根が腐りきった繕いを施されていたのであった。絵具がとれた後に見える胎土はどうも白すぎて偽物である事が濃厚なのには目を閉じるとして…前回、金で其の欠けの断面を繕おうとしたら別件の金継ぎで所有していた全ての金につぎ込んでしまい、此方の源内焼にまで回らなかったのが僥倖でもあったと云えよう。此れだけの断面に金粉を敷こうとしたら結構な御値段となる、其処で、金にこだわる必要も無し、すかさず銅を思ったのであった。無論、経時変化によって程よく酸化して、初期のアカガネ色が、器の緑釉に馴染む緑青色になる事を狙ったのは一介の数寄者としては凡庸ですらあった。朱顔料と朱合漆、そしてテレピン油を練って患部に塗り、一時間ほど生乾きにさせて銅粉を蒔いた其の瞬間といったら…錬金術師の悦びもかくやと驚喜させて余りあるほど…純度99.9%の銅そのものが持つ、あの、銅としか言いようのない確かな金属光沢、あの物質感が刃となって鮮烈に顕現、直接小生の心の臓を貫いたのであった…正直言って、金なんかよりもはるかに此の銅の光沢の方が美しい…金は土そのものの光だが、銅は肉そのものの光と云えようか。野上弥生子「秀吉と利休」で、介錯された利休の首の、盛り上がって白い頸椎の芯を取り囲む肉断面を花の艶か何かに喩えていたように記憶するが利休の頸椎の断面を盛り上がって包む首の肉の断面は赤銅色に輝いていたに違いない。取りあえず銅粉を蒔いただけでまだ半乾きの状態で未完成だから目の効く人からすれば杜撰さが目に付くでしょうが、これから、余分にはみ出た処を削り取ったり金属表面に磨きを掛けたり、と、仕上げの作業は残っている、という事を留意して写真を御覧いただければ幸甚です。ちなみに食品への接触があまり好ましくない銅を用いたのは、欠けた部分が器の縁であり、且つ、此の皿が茶会などの折にせいぜい生菓子を置く菓子器を用途としているためで、縁に口を付ける汁物用ではないからである。
放射線は出ないが赤銅の美しさに潜む毒の光にあてられて…色々あるがそれらについて先鋭的に突っ込んだ事を書く忍耐が今日は衰弱…最早看過できぬ程劣悪化が激しすぎる社会状況…①草の根のファシズムにおける、小生が今後警鐘する予定の、「純正全体主義」としての「新社会主義」、②其の基幹先兵たる、此の国に蔓延る「新家族主義」の、ありとあらゆる機会、ありとあらゆる媒体に付け込んでくる、これでもかとばかりの卑しい、いやらしいプロパガンダ攻勢も具に書きたいが後日に(「絆」とか)…④そうした純正全体主義、新社会主義、新家族主義の底辺では戦前の抑圧移譲の原理が現代に蘇った「虐待社会」が根付いて…(月20万円取る老人ホームでの嘲笑的虐待、コンビニ店員やタクシー運転手への土下座要求や運賃強奪…客と店という経済的階級差に付け込んだ…決して権力を持った「上」には向かない、下へ下へと虐待する人間としての誇りの欠片も無い卑劣が公然たる惨めな民度、底辺での足の引っ張り合い…)、⑤国家、民間があうんの呼吸でプロパガンダする「新家族主義」の底辺の実相では家族間殺人事件が横行する手の付けられなさ、親が子を殺し、子が親を殺し、が絶えない「人間」の勃発…⑥津山での修学の成果も書かないといけない…
辻褄合わせに、漆から音が出れば此のブログの趣旨に合うから耳を澄ませても漆からは音は聴こえなかった、しかし、此れも一つの発見である。戦時中のスローガンの頻発に勝るとも劣らないスローガンだらけの政権安倍…一億総活躍…活躍と云うのは国家に対する忠誠という意味なのは明白…反吐が出る…政権安倍の、国家総動員翼賛報国体制の宣言…上から目線で大衆を慰撫するようにゆっくり噛んで含むが如くに会見する首相安倍…プレゼン担当の議員世耕の指導でしおらしく練習した成果なのだろうが…最近はますます新興宗教の教祖然として薄気味悪さが増している。宮崎の八紘一宇の塔…歴史的経緯を知った中国人団体が問題視…塔の一部になっている、旧皇軍に略奪されたとする石の返還要求…一億円賠償請求という話も出て来て…劣悪化する国家間、国家内情勢がどんどんぐずついて如何ともし難く連鎖緊迫し合いながら、大きな体制からこうした一見些細な事柄にまで波及、現象としては末端のそうした小さな火種からいつ暴発してもおかしくない網の目の連鎖状況…きれいなジャイアン金正恩の肉声…甲高い声なのかと勝手に想像していたが、実際は、喉の閊えた感じの、低いしゃがれ声。小生が警鐘したい「新社会主義」という用語で懸念される誤解を一先ず解消しておくと、此の語は、当然ながら想起される、共産主義や資本主義に挟まれた、双方から修正主義と揶揄される類のいわゆる「社会主義」でもなければ、70年代以降の「新サヨク」とも異なる、とは云っておく。骨太国鉄漫画「カレチ」の池田邦彦氏の新連載「甲組の轍」も面白い…戦前戦中の国鉄をきっちり描く本格派。拍手とコメントくださった方へ、この場を借りて御礼申し上げます。