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反芻編
まだまだ残暑は続くんじゃないかと己に対して意地悪く気負いたっていたのに肩すかし、過ごしやすい気候が続けば続くで、腹に冷たい鋭利を差し込むように不安でたまらなく、暑くて仕方がなかったり長い冬が続いたりの劣悪な環境への憎悪が生活に漸近する頑強な記憶が自虐的によこしまに根回しするのか、こんなに気持ちいい気候が続くのであれば、それ以外の、社会的ないしは私的生活において最悪なことが惹起されるは必定、と、物事の悪化しか信じられぬ成り行きにうつつを抜かし、微細にわななく。これから、ろくなことが無いに違いない。自分の尊厳が踏みにじられる程度ならまだしも、生存すら脅かされるような危機的状況が待っているに違いない。なぜなら、空気が涼しくてたまらなく気持ちいいからである。穏やかな一日を送る…細君は仕事に出かける…午前中、自分好みの洗濯をすませ、水炊きの残りで軽く朝食。自分好みの配列で衣類を天日に干し(小生が住まう賃貸アパートは午前中のみ日当たりがよく、午後から悪くなるのでこの機を逃せない)皿のみならず台所の排水溝の、放っておけばヌルミのある有機汚物が堆積し腐敗臭を吐き出す箇所を毎週の日課として掃除した後は怠いので寝、昼ごろ起きて神学大全(トマス・アクィナス)と大田南畝の漢詩パロディ戯作本をつらつら読む…そして寝て、これまた過日の残りの、小松菜とピーマンと蓮根とベーコンの、塩コショウ等の味付け無しの炒め物と異常に塩辛い塩鮭と御飯といった昼餉…神学大全(スンマ)読んで、おもむろに彫刻…さほどうまくいかずいつもと同じパターンできたなく仕上がったかと思うと夕暮れ、穏やかであった。賃金仕事から帰って苛苛、殺伐とした精神であっても彫刻すると心が落ち着きはする、しかし予め心が落ち着いていないと彫り損じることも多く、やはり予め心が落ち着いている方がよいのだろうがかといって落ち着いていてもうまくいかないものはうまくいかない厳然があって、いずれにせよ全く苦にはならないから面白い…一彫り一彫り、考えながら彫る。思い立ってタンスの中の、今までもこれからも決して着ないだろう衣類を片っ端から引っ張り出して袋詰め、木曜日の有価ゴミの日に備える…5袋…黄瀬戸のように黄ばんでどうにも取れないワイシャツ5枚、同じく黄ばんだ、元は白い、ダサすぎるコート等…日はとっぷり暮れ、急いで洗濯物を取り込むと月が小さく高く、澄んでいる…買い物に出かけ…牛丼チェーン店「すきや」で白髪葱牛丼の豚汁サラダセットを食す…すきやというのも、激マズ回転寿司やマクドナルドと並んで日の本の荒みスポットの一つとして押さえておきたい場所である。日中はマクドナルドでのママ友会合荒みが激しいが、すきやは主に日が落ちてから、親子でジャージ&サンダル、子はジャンボ尾崎風の後ろ髪伸ばしヘアー、といった階級のファミリーばかりとなる…とりわけ小生が行く店の入り口には地元中学生の不良男女がうんこ座りでお出迎え、である。一般客に危害を加えることはない。しかし人は見かけによらないのか、案外、すきやで散見されるヤンキー家族の子供はおとなしく牛丼食べている…大声で騒ぎまくり走り回ることはない…一方、以前にも報告したがマクドナルドに昼間から屯する中産階級風情のママ友連中の子供の騒がしさ、暴れ具合は桁外れに激しく耳障りで傍若無人である。無論、小生にとっては、ヤンキー家族もママ友も、「荒み」という概念の酒を進めるうえでの「つまみ」として、肯定するでもなく否定するでもなく苦しく味わいながら眺めているだけである、彼らと同じものを、牛丼やダブルチーズバーガーを食いながら…細君が、フランス~室蘭観光ツアー、というのを考えているのを記録代わりにここに記す。フランスを一通り観光した後、東京で解散、ではなくて、なぜか北海道の室蘭も観光する、というツアーである。会社の車に会社の人を乗せて小生が運転、幸い会社の人が小生以外に二人以上同乗していたので小生は会話に加わる必要が無いので小生以外の人々の会話を聴くとも無しに聴いていると、おのずと、子供を持ったパパ友的会話となる…聴くと、どうも、街に住む最近の小学生はだいたいサッカーや野球などのスポーツ少年団ないしは水泳や武道などを習わせているようだった。街だから子供の遊び場が無いから公園で遊べといっても、承認された遊び場で遊んだところでそれは既に遊びでないことは子供がてら分かるのか公園などでは遊ばなくなった小学生ぐらいの子供はむしろ率先して社会の仕組みへといっそ没入するかのようだった。自分の経験など、今の自分を顧みれば何の説得力もありはしないが、少なくとも小生は地域のスポーツ少年団なるものに入団することはなく、そんなことは考えたことすらなく、実際に、周囲でも、入団しているのはごくまれだったような気がする。なにぶん田舎のことゆえ、現在は開発されて団地ばかりになったがかつては家の周囲は山しかなく近くにきれいな小川がさらさらいくような自然であったから小生は野山で、近所の子供らとそれなりの序列も意識しながら、それでもお仕着せのルールなど無い処で何かしら遊んでいた気がする…従って放課後にすぐさまスポーツ少年団活動するよりは、小生は人間以外の自然というものと触れ合っていたような気はするがその事が取り立てて豊かな経験、といわれるゆえんもありはしない。しかしかような留保もありつつも、小学生からスポーツ少年団なるところに入団するということは、人間が決めたつまらんルールを金科玉条しながら人間が人間同士でごちゃごちゃとうまいことやる術を幼い時から身に着けるという事なのだろうと推測する。体制的人間を早期に量産するのだろう。極端な例でいえば、かつては人間同士の馴れ合いの同意(宗教等)を覆す存在としてあった科学が技術を媒介にして政治=社会と結託した結果、人間が人間どうしでうまいことごちゃごちゃやる自己完結こそが既成事実として保護された挙句に昨今の原発事故があったのだろう。それを思えば、子供のころから、スポーツという、たかが人間が決めたルールに則して人間が人間同士でうまいことやることに長ける訓練をするのであれば、特に科学に限らないが現状の人間社会の限界を批判的に見据えたうえで何かするという思想は生まれないだろう…自然からの何らかの供給なしには生存できない人間は自然と対峙せざるを得ないが、その際の自然解釈が、たかが人間内部での談合による社会承認に終わっていては、いずれ自然からしっぺ返しを食らうのだろう…しかるに昨今の親は、しかも自然を相手にするのが職業のエンジニアの親らは、自然ではなく人間どうしでうまいことやる世渡り術を子の教育において重視しているようだった。人間よりも自然を見ることは将来的には人間のためになるとは言い条、結局目先の反応に右顧左眄するのが習いである生活者の人間であれば些細ながらも人間への反逆であることを無自覚に察知して人間におもねているのだろう、反逆の苦労を子供にさせたくないという老婆心ではなくて、大人である自分がそうした反逆的行為に加担したくない、加担すれば何があるか分かったもんじゃないという些細且つ決定的な保身ゆえであろう。人間同士で承認しあいながら沈んでいく泥船の様子が目に浮かぶが、しかし小生などいわゆる人類の未来を憂える構えなど野暮ったくてやってられず(人類など存在しない、卑小なる生活者が烏合するのみ…)、その泥舟が沈むのであれば小生も、それを横目で見ながら沈んでいくのだろう…かといって、街のマンションに住んでいるのであれば子供が野山を駆け回れる環境にはないのだからどうしようもないのだろう。それに、幼少のころの経験なぞ、大人に至るときに必ずしも決定的とはいえないだろう。かつて野山を駆け回っていて人間への批判力旺盛なはずのかつて自然児だった小生などは、この時、所用が終わって会社に戻った時、車庫入れに失敗して会社の車の後部バンパーをドガッと柱にぶつけて凹ませ、始末書&反省文という体たらくである。小生が社会社の人を車に同乗させた時のこらえがたい精神の動揺が身体に直結することによる危険運転の発作、については以前書いた。自家用車は軽自動車なので普段は乗りなれない、この国にそぐわぬばかでかい車の幅感覚がつかめず…いろんなことに対して不甲斐無い惨めさや汚辱のみでいっぱいである…(車をぶつけたことにたいしてではない…注)感謝の心は忘れたくないものである。そういえばこうしたことに関連するのだろうが、数年前に放送されたNHKスペシャル「里山で子供が輝く」の欺瞞に対する批判を展開する予定であったのを思い出した。かなり前にメモしていた宿題である。
ブルースマグースのサイケデリック・ロリポップをしつこく再聴。以前にもこのアルバムについてはこのブログで思いを述べたことがあったが、反芻編ということでお許しいただきたい。オープニングの曲以外にはさほど印象に残っていなかったが、改めて聴くと、全曲、よい。麦藁のように猛々しく、やさしい、ポカポカした日なたの暴力である。懐かしいかと問われれば懐かしいが、この懐かしさは、いわゆる懐古趣味が持つ、過去を肯定することによる現状への馴れ合いとは別種である。現在の自分を批判的に奮い立たせるような、攻撃的な懐かしさというのもあるのかと改めて思わされた。ワインはなるべく買わないようにしている。なぜなら一晩で一本飲み干してしまうからだ…またワインを買ってしまった。痛飲中。
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