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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「karlheinz stockhausen(1928~2007)/tierkreis, zodiac(1975)wer66592」 2009年12月20日 電子忌


 昨日土曜日、雪吹きすさぶ県北のとある荒れ地で、長らく懸案だった野点茶会第二回をついに決行。近々公開いたしますので乞うご期待。
年の瀬、もう今年は消化試合の態であり、やる気なく、このまま何事も無く、平穏無事に正月を迎えたいと、身を縮こまらせて暮らす日々。
 消化試合ということで、今年は、2009年9月27日にキャプテン・ビーフハートについて、ロック史においてまことに重要な事が書けたので、もう思い残す事は無い。よってしばらく寄り道ということで、最近はコンテンポラリーな音楽を続けて取り上げている。これとて全く下心が無いわけでもなく、最終的には、サイケデリアに聴かれる脱民族的白人性キチガイというものが、現代音楽側から観測できるのではないかという目論みがあってのことである。
 とりあえずシュニトケでも聴いとくか、と憂さ晴らしに思い立ち、数ヶ月ぶりに音楽量販店に足を運ぶ。以前に比べて現代音楽コーナーの棚がひどく狭くなったのは気のせいだろうか、種類も極端に減っていた。主に説け、もといシュニトケもありはしたが、最近の遺作しかなく、往年の、荒みに荒んだやかまし系の弦楽四重奏物が無くてどうしたものかと思っている矢先に目に飛び込んだシュトックハウゼンのコーナー、2007年12月5日、モーツァルトと同じ命日にに鬼籍に入られたことを今更ながら知って驚きのあまりシュトックハウゼン購入した。
 1975年のこの作品であるが、特にこの作品を以ってシュトックハウゼンの何たるかや、彼の作品群の中に占めるこの作品の位置付けや全ての音楽におけるシュトックハウゼンの位置付けを行おうとは思えない。まったく、つかみどころの無い、何をしたいのかさっぱり分からない作品である。ムージルの「特性のない男」という小説は、読むとわりに特徴や物語があったりしたことを思い出しながら、これはどうなのだろうと考える。ヴィトゲンシュタインに言われるまでも無く、言葉に出来ないものは言葉にすべきでないと思われるし、それを言えば音楽について何も言えなくなるが、そうした音楽への心配り以前に、何とも言い様の無い音楽がある。
 アコーディオンと管楽器が絡み、タンゴっぽいジャズ風味かもしれないが特にピアソラでもキース・ジャレットでもなく、そして、いわゆる現代音楽風という概念はこの王道なきロック史においては否定すべきであるがそうした現代音楽風でもない、無論ポップスでも民族風でもない、古典でもない、その全てが混ざったミクスチャー音楽でもない。そして特筆すべきは何もない。持て囃されがちな脱力系の緩め音楽の馬鹿馬鹿しさでもなく、本当に、やる気のない音楽であった。やる気の無い年末には相応しいがもどかしい、しかし薄気味悪さや出来損ないや謎に回収されもしない、いかんともし難い音楽。
 M1がそろそろ始まるようだ。繰り返しを煽る泥臭さが全く面白くない笑い飯を評価しないのは当然だとしても昨年、圧倒的に面白かったオードリーよりも、さほどでもないノンスタイルを高評価したことで、吉本系で占められた審査員らの笑いの評価能力への疑問が生じる破目になったM1であるが、今年はどうなることか。小生はナイツに期待している。かつてはナンチャンなども審査員に入れる配慮がなされていたが昨年は全員吉本系の審査員であって、このことがM1の説得力を欠けさせると、興業主は考えないのだろうか。たかがアメリカの国内リーグが、その優勝者をワールドチャンピオンなどといっている滑稽を見れば分かるだろう。出来れば坂上二郎やタモリが審査員に入っていれば言う事ないが(むしろ、出場して欲しい、R1とかで)、せめてウッチャンを入れるべき、と、本当はどうでもよいが、かように思う。ウッチャンの「内P」の功績を横取りしたかのようなダウンタウンの「リンカーン」、という主題についてはまたの機会に。

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しつこく追記

2009年12月13日日曜日の記事にまた追記しました。
それはそうと、まだ、毎日毎日、0.1mmの肌色の虫が、故あって用途を明かせないシャープペンシルと原稿用紙にうようよ発生しており、毎日拭う毎日。いつまで拭い続ければよいのだろうか。

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追記

下記の記事、たくさん追記しました。ご再読あれ。

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「hindemith/kammermusik1-7(1920~)pocl-4127/8」 2009年12月13日 汚名忌


 忘年会シーズン。早速の深酔いで午前様帰宅、どうやって帰ってきたのか記憶ないまま何とかこらえて来たのだろう吐き気を解禁、便器に覆い被さって食べてきたホルモン全部を全力で吐く。ゆっけのような吐しゃ物が便器に溜まり、しばし放心してそれを眺める。
 それはそうと先週は日本画家の平山郁夫氏が死去された。加山又造はまだいいが平山画伯の絵のどこがいいのか、まったく分からない。有名な観光名所や世界遺産を、短絡的な綺麗さで、高価な絵の具と時間たっぷり使って描く絵葉書じみた大作を描いては、公官庁のお買い上げとなるこの画伯の金満画業のどこがいいのか、誰か教えてください。書き割りのような人物やシルクロード遺跡群に、悠久の歴史や民族とやらを、卵抱えたザリガニのように後生大事に抱えさせてシルクロードでございと喧伝する上品ないかがわしさは院展の模範絵画として許されるに過ぎない。特に絵画史上に輝くような画業は全く見当たらないと考える。画伯の幼稚かつ普遍的な、既に国会を通過したような承認済みの書き割り絵画に比べたら、まだ、倒産した倉敷チボリ公園や、どうしようもなく豪華に薄っぺらいが価値のある意味など殆ど無いハウステンボスや、日の本の各地の温泉地の日陰でとぐろ巻くエログロ秘法館の張りぼてセットの安っぽさの方がまだましであろう。
 ただ、画伯の、そうした日本画家の安住の典型を成す名所絵画はどうでもよい。最も許しがたいのは、彼の、広島の原爆の絵である。自身も被爆したにも関わらず、ピカドンによる延焼に飲まれる広島の街や原爆ドームを見下ろすように、不動明王を描き加えるこの無神経、無思慮である。広島に原爆を落としたのは誰か、言わずもがな、アメリカ軍である。この動かし難い事実を観念的に歪曲して、あたかも、原爆は不動明王による広島市民への仏罰だと表現しているのだろうか。それともアメリカ軍が不動明王の命によって民主主義という悟りを開かせるために原子爆弾を落としたとでもいうのだろうか。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。アメリカとその軍が、戦争で勝つためであるとか新しい兵器を使ってみたいであるとか戦後の覇権争いを見越してソ連に武力を見せ付けるためであるとか理由は色々あるだろうが要するに戦争下における極めて人間的な卑小な理由によって、人間が、原爆を落としたのである。そして、そうした詰まらぬ下らぬ人間的な要因によって、原爆は落とされ、十万人以上の尊い人命が酷く殺傷されたのである。原爆の絵を描きたいのであれば当然でありながらこの、あまりに人間的なこの受け容れ難い恐るべき事実を直視する事が大事であり、その直視が即ち絵画というものでなかったか。
 それをしなかったばかりか、この広島名誉市民は、原爆を仏罰や自然災害のように観念的にとらえることで、単純な事実、アメリカが落としたという事実と、その拭えようも無い罪を隠蔽しようとするGHQや日本政府の欺瞞的思惑に、恐らく無自覚に便乗し他愛無いプロパガンダへと堕したのである。繰り返すが原爆投下にまつわる事実に深い思想が入り込む余地は無い。そうした思想は国家権力が望む隠蔽工作に寄与するばかりか、とうの被爆者に対する端的な冒涜でもあるため、画伯が望む美による鎮魂にもならぬ無邪気な自己欺瞞に加担したことになる。シルクロードや尾道といった、予め承認された範囲内の画法や美的感覚に居座って安穏するこの画伯が、原爆に色目を使って原爆の絵を描こうとした時に、結果として制度の飼い犬根性を晒すはめになるのは必然であったのだろう。
 無論アメリカが落としたのは衆知の事実である。しかし表現において、2009年8月9日の本ブログ記事で小生が記述したように、アメリカ軍による空襲や原爆を自然災害かのように超越的に捉える日本痴愚思想を証し立てる表現が、マスコミや映画やその他の言説でまかり通る戦後状況が発生したのだ。そして鎌倉名誉市民はこれに深く加担した。しかも、最も自由であるべき絵画において。
 ところで、昨今のテレビ企画映画や漫画(夕凪の街桜の国とか)では確かに、アメリカ軍が空襲や原爆を実行したという事実を誤魔化すことが何か深い思想であるかのような欺瞞表現が多発しているが、戦後の原爆文芸や裸足のゲンはどうなのだろうか。ゲンで充分だと思っていたのできちんと読んでなかったが一応所持している原爆文芸やゲンを確認する必要があろう、「アメリカが広島長崎に原爆を落とした」という一文があるかどうかを。この一文を書き記すことこそが、原爆文芸の原点であり、戦後日本においては最大の批判力である。
 とりあえず、ざっと、夏の花(原民喜)や人間襤褸(大田洋子)や黒い雨(井伏鱒二)やHIROSHIMA(小田実)をめくってみたが、いまのところ、見つからない。よく確認しよう。HIROSHIMAで、投下直後の場面で、被爆した少年が、「アメリカ…」と呻いているが、この一文がきちんと言えなかったようだ。読解する上で重要な場面であろう。
 牡蠣殻ループタイ、快調製作中です。牡蠣殻、すごいです。

 ヒンデミットの室内音楽集1番~7番の全曲収録。肖像画からはナポレオンに似ているがドイツ人、第一次大戦後のドイツ現代音楽界にあって関連団体の代表を務めた当代随一の巨匠であったが、思想的な理由でも民族的な理由でもなく専らその音楽性ゆえに時のナチス政権から睨まれ、退廃音楽の烙印を押された結果スイスへの亡命を余儀無くされた。
 音楽性としては後期ロマン派以降の無調性、十二音階、半音階、電子音などの理論や技法が飛び交う中、理屈はよく分からないが無調性音楽を欺瞞と見なした立場を代表した。複数の音が鳴るとそれらの周波数の和と差の周波数が同時になることで如何に複雑な不協和音といえども何らかの調性が介在してしまうという現象から、純粋不協和音音楽の存在を否定したらしい。素人にはよく分からないが、それだけ聴くとなかなかの人物なのだろう、何かしらの理論(調性、協和音)を不可避と見なした上でその中から、あたかも紋白蝶のさなぎを食い破って、青虫時代から寄生していた寄生蜂が羽化するのを目指したに違いない。端から理論にそっぽ向く突破者でなく、あたかも、同じくロマン主義のくびきから逃れる事無くそのあてどない流刑を流浪にバックドロップ式に転倒させてしまう力技に長けたブランショを思わせる。したがって、そこらの安易な調性回帰主義者ではない。
 この室内楽、如何に聴く者が二日酔いで起きれぬだるさに居ようとも暴力的にけたたましい眩しさを、とにかく耳障りな、やかまし系の音で鮮やかに連打することで、情け容赦無い人生の朝というものを決定付ける。落ち着かせない、まことに気忙しいリズムに乗って、苦み走った、エグミの強い、饐えた和音をだばだばさせるのだから、自ずとこの作曲家が、絵画でいえば1920~1930年代のドイツ表現主義や新即物主義、社会派などの音楽的同伴者であることを証明するし、だからこそチョビ髯伍長のアドルフの機嫌を損ねたのもむべなるかな、である。
 赤松の幹にべっとりしているのを甘い蜜だと勘違いしてじかに舐めてみると、舌を焼き喉をひりつかせる事この上なくしつこく、いくらうがいしてもその松脂のエグミは長い間口腔に固着して離れなかった幼き頃の記憶が蘇るような、キツメの音楽である。時にバッハをリスペクトした暢気な典雅を演奏するが、笑いながら犬の腹蹴り上げているような危険への予感が拭えぬ。バルトークやヤナーチェクなどのある種分かり易い民族性とは異なる、ヒンデミットの微かなキチガイ性はどこか民族的根っこから遊離した机上の空論の突っ走り結晶ゆえに、サイケデリアの凶暴と通ずる。そうすると、アメリカ発祥のサイケデリアと、プログレとは言いながら実質遅れて来た青年サイケのようなジャーマン・プログレッシヴ・ロックの間には歴史的友としてヒンデミットが居るのかもしれない。ヒンデミットはスイス滞在後、アメリカに亡命、エール大学で教えていた。

ロナルド・ブラウティガム: ピアノ
コンスタンティ・クルカ: ヴァイオリン
ノベルト・ブルーメ: ヴィオラ ダモーレ
リン・ハレル: チェロ
キム・カシュカシアン: ヴィオラ
レオ・ヴァン・デーゼラー: オルガン
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
リッカルド・シャイー: 指揮
パウル・ヒンデミット: 作曲

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「arnold schonberg/gurre-lieder(1911)rca no.22」 2009年12月6日 藻屑

 
 どこにでも売っている日本ワイン、十勝のトカップ赤で胃を焼きながら、執筆。
 身分が変わった、地位が変わった、名前が、住所が、職が、財が、生態が変わった、といった、傍目にも分かりやすい外的変化など今のところ見当たらないが、移り気なまま、ちょっとしたきっかけもあったり無かったりなのに、心の機微が過剰に増幅され、痛ましく胸苦しい内的生活が強まる日々である。
 いつなんどきでも、ランバダのことを思っていよう、決して忘れまいと誓ったあの日から10年か20年たった現在である。無論、今でも常に思っている。あの、トロピカルなビーチのテラス的なパラソル的なところで、小麦色に焼けたカリブ海風の男女が、恥ずかしげも無く腰すり合わせ、女性の場合などは切れ上がった小股のまさに肝要な箇所が見えかねぬほど特徴的に短いスカートを激しくひらひらさせて小麦色の長い生足が汗と共にびちびち波打たんばかりの激しくも卑猥な踊りに、甘美でトレンディなあの音楽が絡まる情念芸能、ランバダの流行とその映像は、1990年代後半だったか、衝撃的であった。そして流行は去り、あっという間にランバダが少なくともこの国で話題になることは年内に終了していたが、忘れられようかあのトロピカルバブリーな上り調子を。
 自分だけは、ランバダをいつまでも顕彰しようと思っている。何事につけ自分の認識や感覚が信じられぬし信じて行動しても碌な事にならない小生であっても、小生がランバダを覚えているか確認するために生まれてきた男が、不意に背後から迫り、耳元で、「ランバダの事よもや忘れてはいないだろうな」と低く問うてきたとしても、冷静に、「ああ、覚えているとも」と答える事ができる自信がある。
 広島駅前福屋の地下入口前には、よく、沖縄物産店や南米民族音楽の楽団が催すのであるが、最近、また南米民族楽団が、ケーナなどで哀愁のメロディを奏でてコンドル飛ばしていた。そして曲が替わり、いつものことなので素通りした小生の背中に、何と、ランバダのあの音楽が浴びせかけられたのであった。引き返そうか、と思ったが心が解かれてしまって自分がどうなるか分からなかったので、次第に間遠になるランバダのあの音楽を背中で聞き続けたのだった。いつも心の片隅で思ってはいたが、久方ぶりに耳で聞くと、自分が流れてしまうように骨肉がへろへろに甘露煮されておかしくなりそうだ。
 本当いうと、思念の中は牡蠣殻のことで一杯だ。牡蠣殻ループタイである。眠りの中で意識できぬ言葉も牡蠣殻で熟したのだろうか、朝4時頃目が覚めてしまい、自分でも制御出来ぬほど熱く滾る思いは、牡蠣殻だ、牡蠣殻なんだ、牡蠣殻だけなんだ、もう牡蠣殻だ、牡蠣殻しかない、牡蠣殻のみ、兎に角牡蠣殻だ、牡蠣殻なんだよ!、と怒りにも似た欲望に苛まれる始末である。もう一刻も早く牡蠣殻ループタイを作るしかない、そうしないととにかく駄目だ、これ以上思いがつのるとおかしくなってしまう、という切実なうずきで朝から気持ちが悪かった。
 本日、ホームセンターで、牡蠣殻ループタイ作製に必要と思われる部品を購入。まず紐は通常のループタイにありがちな正絹ではなく、ここは野卑な藁縄だろうということで、園芸コーナーで藁縄とシュロ縄を購入。小生好みにぶっとくするために、自分でその縄をさらに三つ編みにして野太さを確保する予定だ。ループタイ用の金具というのも手芸店で売っているらしいが手芸店探している心の余裕ないし太い縄が通るとも思われないので、今回の目的に適した金具を探してみる。ホース固定用のワッカ状のステンレス部品発見、ネジを締めればワッカの径が変えられるので荒縄通すには良さそうだ。あとはこの金具を牡蠣殻に如何に固定するかであるが、ネジ釘で止めるには殻割れなどのリスクが高そうだし殻の厚さが心配なので万能接着剤と、ステンレス接着用の半田こてとステンレス用半田を購入。半田と接着剤でうまくいくのだろうか、素人ながらやりたい放題にやる予定。
 スーパーには殻付き牡蠣が無かったので、いっそ通販で殻付き牡蠣お取り寄せしようか、と、金にまかせて手段選らばぬ急迫した事態となったが、牡蠣の大きさが明瞭でなく、やはり自分の目で選ぶ必要ありと落ち着く。来週、海沿いの牡蠣打ち場の探索および駅中の牡蠣専門小料理屋で生牡蠣所望し身を食した後殻を得るつもりだ。しばしの我慢だ。目に適った牡蠣殻さえあれば、いつでも牡蠣殻ループタイが作れる…。憑かれた心の疼きよ静まれ。
 かごバッグも熱心に探索中。あけびや山葡萄のつるをぐいぐい編みこんだ乱れ編みの無造作極まりない荒々しくて仕方ない造形のかごバッグも激しく所望している。近所の電柱の根元のゴミ捨て場に、回収されなかったゴミが、「なんか違うから回収しません」という貼り紙と共に残されていたが、その中に、かごのバスケット発見。なぜ缶、ビンの日に籐製のかごを出すのか分からないが、かごに対しても疼いていたので目先の欲望を黙らすため取り合えず持って返ろうかと手にして、中を開けると、いかにもサンドイッチ入れそうな、赤白のチェック布の内貼りが施されていた。夜、街灯の下で一人、怒りが急騰、かごに布貼りなどいらぬ、と、新しい自分の数寄が芽生えた瞬間であった。結局拾わずに元に戻した。
 小生の中で2週間ほど滞在して怒涛のように過ぎ去った、ナチュラルインテリアファッション界およびナチュラル雑誌への傾倒に関する顛末も、いずれ詳細に語りたいものだ。
 それはそうと、まだ、毎日、0.1mmほどの肌色の虫が小生の書斎でうじゃうじゃ発生しており、ティッシュで拭う、という生活が続いている。シャープペンシルとして使ってないが何に使っているのかは公言できない小生のとあるシャープペンシルに、毎日、職から帰ってくると、肌色の虫が疎らながら多数たかっている。原稿用紙や机にもうようよしていることがある。小生の体液目当てなのは歴然。賃貸アパートでバルサン炊くのも大仰だし、ティッシュで拭うよりほか為す術が無い小生。いつまで拭えばいいのだろうか。細君が調べた結果、茶立て虫かもしれないというが、小生が茶人だから発生するのだろうか。お願いだからやめて欲しい、0.1mmの肌色の虫どもよ。

 さてシェーンベルクのグレの歌である。1回ザッパ、2回他者、という順番でいえば今回はザッパのアルバムを選ばなければならないが、もう止めにしたい。これまではザッパの60~70年代初期の作品を軸にサイケデリアの何たるかをかいつまんで来たが、70年代中期以降のザッパの諸作品はサイケデリアとは異なる論法なり新しい視座(聴座)が必要であり、より他の音楽との因縁あるいは絶縁が重要になる。これまでのような定型的論じ方では捉えられぬ、より混沌とした道行きとなるであろうからである。
 シェーンベルクは現代音楽(コンテンポラリー・ミュージック)における理論探求の魁の一つである十二音音階で名を成したが、これはまだ十二音技法を始める前である。したがって作風は後期ロマン派の、しかも最も爛熟した技法の高め合いのくすぶりから何が出てきてもおかしくない逼迫した状況なのである。リスト後期の内省的なピアノ曲(「巡礼の年」など)では、聞きようによっては、現代音楽の発祥の一つであるドビュッシー音階のようにも思えてしまうこともあり、ロマン派というのも安易に聞き逃せないと指摘したいが、このグレの歌はそうした突破が芽生える寸前で結局芽生えなかったくすぶりの絶頂のような、確かにまだ道は開けない絶望的な状況であるところで、ちょっと油断すれば脱線して何かになりそうなほど熟しきっているのに、むしろ我慢してそこに居続けたがゆえの息苦しい新しさが聴こえないだろうか。小生はグレの歌、マーラーとは別の意味で相当好んでいる。歌われている物語は他愛無く問題とするにあたらないかもしれないが(自分は必ずしもそうは思わないが、確か、貴族の男のために死んだ召使の女性が、あの世から、この貴族男を守る、といった男にとって都合のよい話だった)、音楽は、そこそこ苦み走っていながらどよどよと豊かだ。
 現代音楽の存在そのものともいえる理論的概念的仕事の意義については、詳論をさく必要あり、ここでは語らないこととする。

ポール アルトハウス :テノール
ジャネット ヴリーランド :ソプラノ
ローズ ハンプトン :メゾソプラノ
アプラーシャ ロボフスキー バス
ロバート ベッツ :テノール
ベンジャミン デ ローチェ :語り手
プリンストン グリー クラブ
フォートナリー クラブ
メンデルスゾーン クラブ
フィラデルフィア管弦楽団
レオポルド ストコフスキー:指揮
アルノルト シェーンベルク :作曲

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一休狂雲斎

昨晩はブログの調子が悪く変な画面になっていたが今日は元に戻っていた。本日いろいろあって休載します。欝を叫びたい。

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「delaney & bonnie/home(1969)pcd-4421」 2009年11月22日 天然


 風邪引きそうなのでビールで喉を消毒中。
 開運何でも鑑定団で最も重要な企画は言うまでもなく出張鑑定であるが、そこでの楽しみは地方の骨董数寄の腕試しもさることながら、出演者の老人の首元にきらりと光るループタイである。司会が松尾伴内か住田か、あるいは女性アシスタントが新妻さと子か青木直子かも重要であるが、女性アシスタントが、ループタイの老人の首元にマイクを近づけ過ぎるから折角のオシャレが見えにくく、残念であった。
 すごいループタイを思いついたことをここに公表したい。牡蠣殻のループタイである。藤壺などがこびり付いてまだ呼吸しているような荒々しい、磯の匂いぷんぷんの日本産の大きい牡蠣殻まるごと一個に金具を取り付け、野太い荒縄を通して首元にガッと据え付けたならば、何といかした装いだろうか、と夢想している。牡蠣殻のループタイなど売ってないだろうから、自分で作る所存。真似してもよいですが、それは、小生が実行に移してから後にしてもらいたいものだ。
 裁判員制度のニュースも下火であるが、一瞬だけ流れたニュースのこと、裁判員の一人が、裁判官に、発言を控えるよう注意されたようだった。その裁判員は、被告人に対して、いかにもな上から目線で、事件の真相究明とは無関係な単なる人格批判を繰り返したという。
 裁判官が、裁判の終わりなどで被告人に人格的な批判したり先の酒井法子事件では主文などが書かれた文章を酒井氏本人に再読させるといった教育的な施しを行なうことが多々あるが、裁判官が被告人に、人間個人の人格に対して物を言う権利の法的な根拠は何なのか。裁判官は事件を法的に判断する権能しか与えられていないはずである。法的根拠を最も重んずるはずの裁判官が、法的根拠もないばかりか名誉毀損で訴えられても仕方ない、裁判官の主観でしかない曖昧な教育的態度は許しがたいばかりか違憲であると常日頃思っていたが、一般市民から選ばれた裁判員の一人が、国権を傘に着て人を裁くという立場に浮かれ、居丈高に、弱い立場に居る被疑者に対して、侮蔑的な言辞を弄したというのだから、云わんこっちゃ無いと小生、久々にほくそ笑みました。
 裁判に市民感覚を、という美辞麗句の裁判員制度であるが、面接などを経てそれなりに良識を備えた市民を選別しているつもりなのだろうが、選別できようもなく、どうしようもないアホ市民が裁判員になってしまったのだ。そしてこともあろうにその低劣市民は、自分は正義を執行して悪を懲らしめる立場に立ったと幼稚な勘違いをして、目先の、取り合えず犯人にされているが推定無罪の前提であるべき同じ市民と裁判所外の市民に対して、まことにもって愚かしい態度を晒したのだった。大衆というものの、権力におもねる事に恥を知らない、救いがたくも愚昧なる基底というものが剥き出しになった事件であった。隠蔽されていた、市民というものの荒んだ下劣の露呈を見る度に、ささくれ立った小生の心は清々しくなります。
 ただ、小生が気になったのは、その愚劣市民が、いかようにして面接などの選別を潜り抜けて裁判員になりおおせたのか、そのノウハウである。偏った思想の持ち主は落とされると聴いているので小生などは候補になったとしても落とされるのは必定、しかしそこを何とかして裁判員になりたい、そしてなった暁には、裁判の本番で、被疑者の取調べの可視化が成されていない中での供述証拠は全て無効として全員無罪を宣言するためである。そもそも、自白に証拠能力はない。
 最近自分が触手を伸ばしている、否、毒牙にかけているナチュラル系おしゃれ雑貨界に関して多いに思うところあるが、紙面が尽きそうなのでエステの件も含めて先延ばしの人生逃避行。書物的肉汁たっぷりのメルヴィルの白鯨を再読中だが、筑摩の世界文学全集の脅威の三段組は、淡白な日の本の古典ばかり読んでいた最近の小生にはきつく感じつつも、パタリロ読んで馬鹿笑いしている夜更け。

 さて、デラニー&ボニーのファーストである。1969、アメリカ。アルバム6枚作って離婚するが当時は夫婦白人ロックであるばかりでなく、スワンプ、あるいはサザンロックの嚆矢である。バッキングはスタックスが誇る黒人プレイヤーの数々。ポスポスいう陽気なドラムが印象に残る。カントリーやゴスペルやブルース、ソウルやR&Bを自家薬籠中にするというと簡単そうに思えて相当な難行であろうに肩肘張らずやっているように聴こえるほっこり出来立てのロックであり、スタックスが純粋黒人音楽から一歩出る賭けに出たロックアルバムの最初がこのアルバムだったのもむべなるかな、である。カントリー調の歌唱や楽曲を得意とするデラニーに対して、内臓吐き出さんばかりのソウルフルを歌い上げるボニーの掛け合いを、こってり煮込まれた豆料理のようなアレンジ演奏が手堅く盛り上げる。デレク&ドミノスに結実するクラプトンとの関わりなどどうでもよいが、この地(アメリカ南部)この時代の、サザンやスワンプといったロックのルーツ回帰運動は70年代初頭にしても、その発生の早さは、ようやく溢れ出したばかりのロックであったろうに、何とも目まぐるしいばかりである。どこまで煮えたぎれば沸点に到達するのか分からぬこの状況下でロックのマントル対流の速さは味噌汁並みである。そしてこのアルバムは1969、そうしたルーツ回帰の起爆剤となっただけに、カナダのザ・バンドとは別の、揺るぎ無い、アメリカ音楽の良心的発露であった。ザ・バンドの試みについては別稿を要する。
 友人の家に上がりこんで、しばしばこのアルバムかけながら、ピーナツを肴に1リットルの缶ビールを昼間からあおっていた記憶あり。生ビールがおいしくなる音楽である。

bonnie bramlett: vocals
delaney bramlett: vocals, guitar
donald duck dunn: bass
al jackson: drums
bobby whitlock: keyboards, vocals
william bell: background vocals
steve cropper: guitar
eddie floyd: background vocals
isaac hayes: background vocals
booker t jones: keyboards

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「殿様キングス/殿様キングス(19??)vicl-41051」 2009年11月15日 知床忌


 過日さんざんにそのマズサを告発した、広島駅内の回転寿司屋「仙台平禄寿司」に、性懲りも無くまた、金曜日の夜、行ってしまった、絶対後悔するんだろうなといういたたまれぬ絶望感を己に見つめ直しながら。入店した途端、湯呑みでボタンを押して自分でお茶を注ぐところが全蛇口で故障との表示があり、寿司屋としてまだ底辺があるのかと早くも憔悴した小生であったが、ところが、結果、思いの他改善されていた。これまでのどうしようもない不味さ、回転系の基本のなって無さは、一回やそこらで下した判断では無い。少なくとも十数回は通った挙句での、その毎回変わる事ない不味さに基づいていたので、今までの不味さは確かである。
 しかし、この度、行くと、まず、回転寿司の基本である、回転コンベア上に、寿司乗せた皿が回る、という事がきちんと、相当数、成されていた。また、寿司自体も以前に比べるとそこそこ旨くなっていた。そうはいっても、下の下だったのが、下の上くらいに上がった程度ではあるが、小生、うれしくて、ついつい食べ過ぎてしまった。頭の食欲に胃腸の力がついていけなかったのか、その晩、激しい腹痛に襲われ力みに力んだ末での全身衰弱。食欲と胃腸能力のずれに、晩秋と共に訪れた加齢、という現実の濃い影による尾行に気付いた不気味さだ。
 諸般の事にげんなりしながらの、小生の全てを賭けうる一縷の希望、西日本宝くじであるが、600円投じて200円当たったという小吉によって、何ほどのことがあろうか。
 何もかも投げ出したい、ここではないどこかに行きたいという心の叫び抑えやまず、向かった先は伊勢神宮。昨日土曜日、広島~伊勢までの日帰り強行軍で開運に励む。一泊したかったが色々あって日帰り。その件は後日に回すとして、帰ってくると、以前から断続していたが、小生の計算機に、0.1mmほどの、肌色した、粒状の、よく分からぬ虫がうようよ蠢いていた。リップタイプの糊にも取り付きうじゃうじゃしており、隣のシャープペンシルにも蠢く。先日は小生が取り組んでいる問題集にうじゃうじゃしており、取り合えずティッシューで拭き取るしかないのだが、どうも小生の手垢や脂を摂取して大発生している模様。幻覚でなければいいが、事実でも、ちょっと困っている。
 しなければならないと思うとやりたくなくなるのが人のサガ、予告していたエステティックの件も後回し。以上の状況や旅疲れにより、それほど衰弱している。

 何も考えたくないので殿様キングスでも、と思っても、聴いてみるとやはりただならぬ。写真の通り、脂の乗り切った中年男性が、勝手な妄想なのかいじらしい女心の襞に分け入り歌うムード歌謡の至宝である。どっちもどっちかもしれないが着物叙情演歌とダブルスーツムード歌謡を比べた場合、ムード歌謡の衰退が気になる。これは、当事者や聴衆が、着物演歌とムード歌謡との峻別を怠ったのに起因すると思われる。
 人情を、定型化した自然風物による比喩で歌う着物演歌よりも、叙景などかったるいとばかりに身勝手に妄想した女心を具体的に叙述し歌い示すムード歌謡の方が心の襞に分け入る事に優れ、小生好みである。この両者はしたがって似て非なるものなのであるが、音楽に迫る意志に乏しいポップス界、良くも悪くも両者を混同してしまった五木ひろしや森進一の功罪は大きい(嫌いではないが…)。着物演歌の大御所、北島三郎の、最早自然の比喩化をも超えた、自然化祭り化についてはいずれ稿を割きたい(「根っこ」など)。
 しおらしく設定されているが執念深そうな女心の控え目な逼迫を、小沢一郎のように脂の乗った男たちが時にえげつなく唇を歪めてまで艶っぽくなりきって歌うのだから聴かざるを得ない。
 ムード歌謡の再確立を目指して、幻の名盤同盟や秘密博士などの、小沢昭一的心の民間芸能収集にも似た、ムード歌謡収集といった試みもありはしたものの、内山田洋とクールファイヴ以降、殿様キングスやピンカラ兄弟にならぶムード歌謡の継承者は、今、居るのだろうか。心に染み入るあのコーラス…酒場の慰め…途絶えさせたくない系譜である。応援したい。参考にしたCD、発表年月日が無記載のいい加減なものである。
 市販の袋ラーメンは、麺がすこしばかりのびたのが、麺がスープになれて旨いと思う。特にうまかっちゃん。

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「zappa beefheart mathers/bongo fury(1975)rcd 10522」 2009年11月8日 小春


 備前岡山の大手饅頭なる菓子がまことに美味しい。労農茶人を自称するも元来酒飲みゆえに茶の味に疎く、そういう意味で、旨い茶を入れる高度な技術が試される煎茶ではなく、よい湯と茶があれば素人でもそこそこの風味となる抹茶を言い訳にして道具遊びに興じている始末であるから菓子への興味も薄い。これまでの茶事では大豆や胡桃まで出すことを辞さない。それは兎も角、食べ飽きぬアンコの甘みにほだされて、三個続けて大手饅頭を頬張りながら徒然なるままに。
 細君が、道長はすごい、と言い出した。道長をもっと表に出すべきだ、と。藤原道長のことである。確かに時代劇や日々の話題において、信長や秀吉や家康や竜馬などが語られることはあっても、道長が取り上げられることは少ない、せいぜい教科書の中ぐらいだ。日本史忘れがちなれど、自分の娘を天皇家の端々に嫁がせて権勢を振るった、下りを知らぬ目出度さの上るばかりのエスカレーターのような道長に、勝手なイメージながら天晴れを感じたのであろう、と小生も共感する。魯山人などは秀吉がすごい、絢爛豪華に大きいものを建てては壊し建てては壊す後腐れない豪奢がすごい、などとどこかで云っていたが、平安貴族の道長は、少なくとも秀吉にはあった、日の本の政治経済の仕組みを変えてしまうような有能とは無縁に、ただひたすら既成権力皇族との血筋を濃くし地方の荘園を増やしまくって己の権勢と私腹を肥やすどうしようもない無能なる上り調子である。混迷の世、そうした、生活感労働感の全く無い道長の目出度さに、伊勢踊りやエエジャナイカのようにあやかりたい気持ちもあるのかもしれない。
 翻って小生は、小学館の漫画雑誌コロコロに掲載すべき、「外戚小学生 道長!」なる熱血少年漫画を夢想した。
 原案は小生、作画は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのジャンプのワンピースの作者と同期で、小生はワンピース作者よりもデビュウ当時から贔屓していたが、幼児猥褻の嫌疑により一時休職という困難を乗り越え漫画界に復帰した島袋光年氏にお願いしたい。吉本隆明そっくりに老けた小学生たけしが悪い奴らを倒す痛快漫画「世紀末リーダー伝 たけし!」の島袋氏はジャンプよりも、コロコロ向きだと思われる。最近、久しぶりにコロコロを購入、小生が学童の頃と変わらぬ処変わった処が散見され、いずれ指摘したい。負けた悔し涙を拭こうともせず、死んだ親父の墓石に必殺技ボールを激しくぶつけて修行に励むドッヂボール漫画「ドッヂ弾平」(弾平も弾平だが、弾平のボールを受けても倒れない親父の墓石もすごい)や当時流行ったミニ四駆漫画「ダッシュ四駆郎」などが思い起こされる。
 いつも頬に傷跡、鼻頭に絆創膏貼った、髪はぼさぼさの現代の少年、藤原道長が、必殺技「望月」を繰り出すときの決め台詞は、当然あの歌だ。強敵との壮絶な闘いの末、絶体絶命のピンチの中、「この世をば~わが世とぞ思う望月の~」と低く唸りながら、カメハメ波よろしく溜めに溜めて、夜空を占める満月をバックに、「欠けたることもなしと思えばーっ!」と絶叫しながらパンチなり娘?なりを繰り出す、という必殺技である。細君にこのアイデアを話したが、さほどうけなかった。
 和紙に土や流木や羽根を漉き込む紙漉き職人坂田直昭氏の特集を季刊銀花で読む。
 来週、ゆえあって小生がエステティックサロンに行く破目になった一連の騒動について報告したい。 

 さて、梵語幽霊もといボンゴ・フューリーである。ザッパとキャプテン・ビーフハートの共作音源である。70年代の重要傑作群を前にしての、中休み的な位置付けである。曲がりなりにも世に派を立て名を広めた者の影にようにして、原理的な男、本質的な男、というのが伴う場合がある。この事は、立派なる男/本質的な男=ブライアン・ウイルソン/バン・ダイク・パークスの二人について論じたかったが、順番なので、今回は仕方なく、立派なる男/本質的な男=ザッパ/ビーフハートの組を例に取り上げる。王道なきロック史、ひいてはアメリカ音楽の点在する系譜、においては、往々にして、立派な男/本質的な男、の組み合わせが見られるが、往々といっても、小生、先に挙げた二事例しかしらぬ。しいて挙げるとすれば、アメリカ音楽の点在する系譜の、その点在性を最も物語るかもしれないが、英国カンタベリーのソフトマシーンの、マイケル・ラトリッジという御仁が、バンド内で、本質的な男、であったかもしれない。
 この本質的な男は、一見して表立つ立派な男の影のように、世にあっては在りながら、影だからといってその表の男の存在に依存するものではなく、寧ろその表の男の本質を成す控え目である。しかし、控え目というのは風潮の相対的な見方であって、表の男にしろこの本質的な男にしろ、相互に依存する関係ではなく寧ろ各々独立した在り様である。人間だから当然である。この本質的な男は、その名の通り、本質的でしかありえない。この場合、ロックという音楽に対して、原理的な態度でしか挑む事が出来ぬ、不器用もへったくれもない、動かし難く本質的な生き様なのである。
 この本質的な男に、半ば脅かされるような気もしている、将来的に表立つ男は、別の見方すれば本質に脅かされることが可能な鋭敏な(凡)才を、本質を、持ち合わせていることにもなる。だから、表立つ男に本質が無いわけではない、そして、表立つ男は、本質的な態度を薄める小器用な小手先を弄することに長けた商売上手、というわけでもないのだ。むしろ、別の、本質に相応しい方法でその本質性を顕現へと導いた。このことが表立ちの謂いである。表立つ男/水際立つ男、といってもいいかもしれない。ただし、この本質的な男を、孤高の人、と名づけ称揚すると、これまでの論が全て台無しになる。孤高として持ち上げられる存在ではない、ただ、単に、本質的でしかありえなかった、承認されぬ不器用、という俗なる底辺で蠢いているだけだ、そのことは、以前「トラウト・マスク・レプリカ」を取り上げた記事を再読していただければわかると思う。
 ビーフハートは本質的な男として、好き勝手に、しかし本質に抗いようもなく耳をそむけようもなく、ブルースの閉じた坩堝から錬金術のようにロックの種を生成せしめた。一方でその種は、無理を見かねたザッパが坩堝に放り込んだ余計なお世話かも知れず、しかしザッパはその仕事をわきまえ、自身でも十分にその本質を咀嚼した上で、その坩堝を叩き割り、広く広くいかがわしく音楽の肥やしとし、よく肥えた音楽荒野に種を撒き散らしてのサイケデリア樹立でしか、その種も実らなかったであろう。樹が先か種が先か、鶏が先か卵が先か、かたの着く話ではない。
 別の組、立派なる男/本質的な男=ブライアン・ウイルソン/バン・ダイク・パークスでは、さらに信じ難い転倒が起きるが、これはまたの機会に。
 このアルバムは、こうした二人の関係が顕著である。百戦錬磨の、顔の異なるザッパのバンドにあっても、ビーフハートの、岩ががなりたてる凶暴な声やハープは薄まりようもなく、バンドもそれを薄めようとせず野放図にやらせながら、暴走する野獣をいさめるどころか更に急き立てるタチの悪い木刀のようなギターや頓狂なリズムや変態構成の煽りは健在である。時に男くさい抒情に流れたりもするが、すぐさまきびすを返してぐちゃぐちゃやる。立派な男と本質的な男の関係は、関係や縁といった言葉よりも、本来的な意味での、情という言葉が相応しいと思う。小生にも、自分がどこまでも本質的であることで、何かしらを花開かせるような男、というのが近くにいたら、と思ったりもする。
 
 frank zappa :lead guitar, vocals
 captain beefheart :harp, vocals, shopping bags
 george duke :keyboards, vocals
 napoleon murphy brock :sax, vocals
 bruce fowler :trombone, fantastic dancing
 tom fowler :bass, also dancing
 denny walley :slide guitar, vocals
 terry bozzio :drums, moisture
 chester thompson :drums (on 200 years old and cucamonga)

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