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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「温泉津温泉」 2008年9月28日 赤口  雨足し

 今週は温泉津焼探訪および持病の腰痛を温泉津温泉にて湯治してきましたのでお休みさせていただきたく。キリングフロアーのアルバム画像は担当者不在のため来週UPします。温泉津焼紀行乞うご期待。

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「killing floor/out of uranus」 2008年9月21日 大安  野分の後腐雲

killingfloor.JPGkilling floor/out of uranus(1970) airac-1062
 本日、茶人として2回目の茶会を催し、それなりに成功をおさめたように思う。その様子、また茶会記にて報告いたますので乞うご期待。

 さて、killing floorである。英国。今宵は充実した疲労はなはだしいので、原色新日本の美術第二回配本「京都画壇」(小学館)をつらつら鑑賞しながら、付け合せに、とるに足らぬバンドの平凡な楽曲を、むしろそれゆえにこそ聴取せざるを得ない、そうした苦しい態度の有り様と数寄心の鍛錬について語れたら、と思ったが、盲で選んだハル・ブレイン「サイケデリック・パーカッション」、如何にもドリーミングサイケなんだけれども、もっとロックを!、と徒然なるまま、セットし替えたのがこれであった。

 相当に批評するのに骨折れそうな快アルバムである。サイケの一言では終わらせられぬ曖昧さである。兎に角聴いてくれ、で終わらせたいが、ブルースのブルースによるブルースのためのプログレ化がロックの王道でありこれ即ちハードロックであるが、そうした常道に至る前の、過渡期の絶妙な境界に踏みとどまっており、過去と未来の全てのロックの交差点でギグし続けているような出来である。ためらいの無いリフの、変拍子とまで行かないまでの凝った作りは如何せんノリがよくて。空間を否定しているので響かないが大きさだけが大きいブルースハープの不躾な音が小気味良いではないか。本当はもっと言わなければならない最重要バンドの一つであるが、東村アキコ「ひまわりっ 健一レジェンド」(モーニング掲載)を2度読みしたいのでこの辺で。

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「the rolling stones,now!(1965) 」 2008年9月12日  仏滅 鬱雨

 左の日本焼物紀行で、伊賀焼紀行をUPしました。茶陶界のガレージサイケ、伊賀焼の凄みを追体験していただきたく、今すぐクリック!

 さてローリングストーンズの才能の無さは、ビートルズが居なかったらこの世に居なかったかもしれない依存性に起因すると思われるが、こうした才能の無さの伝播、ビートルズもどきの雨後の竹の子バンドの単性生殖もまた、ロックという音楽が生まれながらに備えた才能とも言えるだろう。

 60年代初期、その同時期のビートルズの仕事ぶりに比べたら、ストーンズのその頃は、無能にブルースをコピーする我武者羅ではないか、と独りよがっていた矢先、聴くと、既に後年の傑作群の萌芽が芽生えを拒絶しつつ煮えたぎっているではないか。極論もよかろう、そう、ビートルズがベケットならば、ストーンズはブランショである。方法論が全く異なるのである。外への逸脱による創造か、専ら崩壊を目的にした内部崩壊か。退屈なのはいずれも変わらないが、後者の、忸怩たる攻撃性に私は身を寄せたい。

 かつて宗教を批判しえた科学が、功名心に長けたダーウィンの進化論を以って資本主義におもねる悲惨を批判しえないばかりか増長促す有様は、高度資本主義の煽りの下に前近代的マキャベリズムへの盲従を強いる今日である。逸脱とか、目に見えて新しげな変化は制度を補強する階段へ飲み込まれる運びであり、如何にジョンが無政府主義的歌「イマジン」を歌おうとも、イマジンが9.11後のアメリカ帝国への癒しに利用されたばかりか、その癒しがアフガン、イラクでの無辜の民間人大量虐殺を招いたのだった。逸脱解脱よりは癌で死ぬべき、とストーンズなら歌っても可笑しくない。そしてこの土俗。形振り構わぬ怒涛のリフは滋味あっさりと、しかし煽る煽る、ぽつ然と。いたって退屈であるが、従わぬ退屈である。熱力学エントロピー増大の法則に反するのはストーンズで、薄まらぬばかりかいたずらに濃くなる。想像性創造性を一切放棄して。

rollingstone.JPGthe rolling stones,now!(1965) abkco74202

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「茶会記」 2008年9月7日  先負 初風

 去年の事になりますが小生の茶人としての初陣茶会の模様をまとめました。左の「茶会記」を今すぐクリック!

 さて、巷間にあふれるロックを論じたニッポンの本ないし雑誌、その多くがディスクレヴュウの形式であり、単なる感想文即ち印象批評や、あるいはバンドやレコード会社の内輪事情の紹介ではなかろうか。音楽を言葉で語ることの意味と限界、方法等にどこまで迫ることが可能なのか、こうした自省のそのまた意味と限界、方法はどうなのか。器楽曲評論は西洋において歴史を重ねているだろうがその限界も踏まえつつ、さらには歌曲評論の批判は成されて来たのだろうか。そしてジャズは、ポップスは、ロックは?各々の歴史や様式に応じた批評が音楽を変動させるほどに屹立しえたか。言葉と曲と歌とは何なのか。

 こうした忸怩たる思いに発して書き始めたものの、これまでの文が、単なるディスクレビュウのぬるま湯で調子に乗っているだけだと喝破する読者も多かろう。

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「the big soul of john lee hooker(1962)」 2008年8月31日  友引 カツオ

 ジョン・リー・フッカー。敬愛するブルースマンの一人である。そういえば鴎外の娘の森茉莉はブルース好きだったようだが、中でもジョン・リーはお気に入りだったようだ。しかしこのアルバム、ブルースと言えるのか。単調な女性コーラス、オルガン、ホーンの持続に乗りもせず、構わず、何事か唸っているだけのようである。ミニマル・ブルースという分野があるならばまさにこれがそれであろう。ブルースの語法を無視しがちになるほど気ままに、よい声でしゃべるように歌う、歌と喋りを区別せぬようなジョン・リーの驀進。

 しかしながらブルースとはそもそも、その辺の黒人がぼそぼそ言っているだけのような、あっさり単純で、素朴なものでなかったか。B・B・キングになるともうロックであり、様式になりきれぬぎりぎりの崖っぷちがその所在であるブルースとは縁遠くなっている。現在でも続いているに違いないがその当時でもまだ色濃かったに違いない差別の対象である黒人の声を真似ようとした、そうした人種蔑視の側から見たら恥知らずこの上ない白人の若者が発する、黒人っぽい発声を当の黒人が真似て、ソウルなる音楽が生まれたのではなかったか、と小生、仮定している。恥知らずの連鎖である。

 1990年代の終わりか2000年初頭に、因島出身のポルノグラフィティという、既にバンド名からして恥をさらして憚らぬポップバンドの歌詞には、大学の知友共々、"愕然” とした記憶がある。僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもうアポロ11号は月に行ったっていうのに、と聴いた時であった。確かに月に行ったことは大変難儀で、かつ偉業かもしれぬが、そうした成功を成した目上の世代を顕揚しつつ自分らを振り返る屈託の無さ。高度経済成長にまい進したけど、学園闘争とか、社会制度への反抗も一応したよ、と免罪符のように政治運動を若気の至り、よき思い出に収束させる恥知らずなあの世代に対し、何ら気負いも無く、そうした世代に対する口には出さぬ反抗のような心すら芽生えぬほど、何も考えたことが無く学んだこともないような、恥を知る知識知能もないような新しい世代の出現への、恥の思いであった。無論、小生とてこうした恥の思いあるいは態度を見限ることも可能であるがそれは飽くまでも批評的立場にならざるを得ず、しかるにポルノグラフィティとそれを気負い無く聴ける連中にはそうした批評的態度すら必要がないほど恥がないのであり、愕然とするしかなかった。こんなのを脱構築とでも言うのだったら馬鹿馬鹿しいにもほどがある。この連中と小生はほとんど同世代ではあると思われる。
fuggar.JPGthe big soul of john lee hooker(1962) pcd-5267

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「bob marley&the wailers/uprising(1980)」 2008年8月24日  赤口 初涼 

bob.JPGbob marley&the wailers/uprising(1980)tuff gong 422-846 211-2


 レゲエといえばボブ・マーリーと思われがちかもしれないが、ボブのレゲエは一般的な他のレゲエ、例えばラバーズロック的なものと異なる。その主だった違いはブルース色の強さである。ボブの楽曲あるいはギター奏法はレゲエの中で最もブルース的であることが、レゲエのみならずロックにおいても際立っている。レゲエは言うまでも無く英米のジャズやロックと、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエを神とするジャマイカ地産のラスタファリズム音楽との習合である。レゲエの前身スカはブラスジャズとラストとのタッグであり、そしてレゲエはロックとラスタとのタッグ、そしてダブはロックにおけるエフェクト処理(テクノの一手法)とラスタとのタッグであった。このようにしてレゲエ流派はロック史に伴走した。昨今のレゲエはヒップホップのがなる煽りを取り入れているようだが、これは、ラスタ的反抗を忘れてしまったように聞こえる。
   
 ラスタマンの約束の地エチオピアは旧約にも出てくる通り、自然宗教の多いアフリカには珍しく一神教も根差し得た国であった。レゲエの特徴であるワン・ドロップリズム、フェードアウトして終わる無限持続性と、レベルミュージック(反抗の音楽)であり一神教でありながら排他的でなく、どこか大らかな南国音楽、といった諸特性の関係は気になるところである。ボブの作品はいずれ全てを取り上げる予定なのでその度にこのテーマは深めたいと思う。それにしても、例えば、このアルバムではないがボブの「レボリューション」というナンバーにしたって、体制への抵抗ないしは革命を歌うにしては、内気で、小さい感じで、鬱屈した楽曲が多いのはなぜだろう。そういう音楽なのである。無論挑発的な調子のナンバーもありはするが、敵への攻撃への突出よりも、連帯へ向かう内的なベクトルが大きい。リスナーの好き嫌いが分かれるところであろうが、この、音楽における好き嫌い、あるいは趣味界における好き嫌いについては、今後じっくり腰据えて論ずる。

 さて、uprising。ボブ・マーリー&ウェイラーズの最期のアルバムである。私はわりにこの、これまで濃かったエフェクトの曇りがすっきり晴れて涼しくも透明で、枯れたアルバムが好きである。悪化してゆくボブの体調のせいもあるかもしれぬが、寂しげである。もう既に、バンドごとどこか遠くへ遠ざかりながら奏している。例えば大長編ドラえもん「のび太の宇宙開拓史」(傑作!)で、ロップル君とチャミーが住んでる別の島宇宙と地球ののび太部屋の畳をつなぐ入口が、回路が、切れかかって、今まで一つだった入口が二つに(!)分かたれて二つの世界間の距離が異次元を介して大きくなる悲しさ、寂しさである。
  「リデンプション・ソングス」(信仰の歌)絶唱。

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「北京オリンピック」 2008年8月23日  大安 晩夏

 糞面白くも無い北京五輪もようやく閉幕。ジャマイカの人速すぎ。ジャマイカといえばレゲエ。ジャズという大きい音楽の衛星のようにボサノバがあるならば、同じくロックという大きい音楽の衛星のようにしてレゲエがあった。書きたいことはたくさんあるしボブ・マーリーについてもいろいろ述べたいが、今日はいつもにも増して何だか気落ちしているのでこの辺で。

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「the 13th floor elevators/the psychedelic sounds of the 13th floor elevators(1966)」 2008年8月16日  仏滅 曇暑

 しこりでしかない後味の悪さは恥の核となって、もう止めたい、と観念しつつ。
恥の思いを重宝することも内面性の発明ではあり、恥の音楽であると喝破したい
このロックという音楽を彷徨する上で必至ではないかと慰めようにも空しいばかり、胆力不足いかんともしがたく、ザッパのサードは見送り相成った。

 せめて、囲碁の布石のごとく、後で効くのではないかと効用願って同時に挙げておいたthe 13th floor elevatorsに言及しないわけにはいかぬ。ロッキー・エリクソンという米人が首魁のようである。ガレージサイケと言われもするバンド群の雄であるのは周知のとおり。俗にサイケといえばサンフランシスコを思いがちであるが、こちらはいわゆるテキサスサイケである。テキサスという土地柄だけでも、先に挙げて置いた、サイケの20概念の多くに合致するだろう。無論音楽性も。サイケ第⑱~⑳概念以外の、①~⑰の全てが、このアルバムを説明するのに事足りる。寧ろ、これを表現する必要に迫られて①~⑰概念は羅列されたのであった。①~⑳概念の全てを包括しうるのが、ザッパの初期作品群である。
  
 the 13th floor elevatorsのこのアルバム、地獄の底で凶暴な叫びを上げるわけだが、気になるのは、原住民の楽器と思しき、名は分からぬが、かつてNHK工作番組でのっぽさんに侍る、ムックのような毛むくじゃらの大型の獣が高速でホクホク苦しげに唸っている音である。殆どの楽曲で聴かれる、他のバンドでは聞いた事がない珍妙な連続音が殺伐としたギターに絡む様は異様である。そして光は無い。視力の退化した生き物が暗闇の底で執拗にバンドする有り様は、この殺伐は、まことに気持ちがいいし、ほくそ笑むに足る。とにかく荒んだ歌、男たちの凶暴ながなりに癒される小生である。時に、この男たちの歌は、優しい。光を、逃げ道のように陰をも作るが所詮大仰な恥知らずの光を知らぬ者たちの、めしいの優しさ、安直に理解せぬし労わりの実践もしない夜の優しさである。
  
 (①~⑳)-(①~⑰)=⑱~⑳=言うなればフラワー(あるいは平和)、である。フラワーは単なる花ではない、日本帝国における敷島の山桜花のように、サイケの重要な側面を伝える概念である。ただし、このピースフルなフラワーは凶暴と不可分である。サイケと呼ばれるものには凶暴性を欠いた産業フラワーロックものもあれば、the 13th floor elevatorsやブルーチアーのように暗闇での殺伐にのみ志向して突っ走った連中もいた。フラワーは光の下に咲く毒の花、とでも暗示しておいて、フラワーと凶暴と平和に関する話はまた後日。13thfloor.JPG







the 13th floor elevators/the psychedelic sounds of the 13th floor elevators(1966) fuel2000 302 061 3202

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「連歌」 2008年8月9日  先負 長崎忌

  the mothers of invention/we're only in it for the money

  いっそ出来損ない無心衆連歌独吟。

  

  稲妻破りて君は吊られる
  
  夜無きに顔異なれり陽だまりに

  日にも乾びて集う平和

  地団太も音無し気味に人払い
  
  顔が異なり声も異なる

  構成が白痴の執着暇乞い

  何も為さぬ笑いだけ居り

  破急に乗じぬ差異の凶暴

  フラワーは咲く花にあらず

  直に開いて覚醒させぬ

  憩いの場にて殺意なき刺し

  Psychedelic dungeons

  GO TO SAN FRANCISCO

  AMERICAN WAY

  Discorporate

  FLOWER PUNK  Absolutely Free

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「pierre schaeffer/l'ceuvre musicale」 2008年8月2日  友引 怠水

pl.JPGpierre schaeffer/l'ceuvre musicale musidisc292572
 先に、電気音響音楽の発達として分かたれるならばこうなるであろう二つの潮流、ミュージック・コンクレート即ち具体音楽と、サイン波合成即ちシンセサイザー音楽についてまとめたい。前者の代表としてはさしずめピエール・シェフェール(仏)、後者にはシュトックハウゼン(独)を挙げればよいだろう。前者は編集であり、後者は合成である。うろ覚えだが、いずれも戦後での活躍目覚しいはずだ。入力したアナログ音を電気的に処理しうる能力と、またそれ自体で既成楽器とは異なる音を出力しもする電気音技術は音楽における作曲あるいは即興といった概念とは別の概念、手法を生み出した。

 具体音楽は権威づけられた承認の庇護にある既成楽器に飽き足らなくなった者たちがその辺の物音あるいは動物の鳴き声等を聴取の対象に据えた音楽であった。従って遡れば1900年代のダダの騒音楽器もあるし、さらにはモーツァルトやブラームスにも、楽曲のアクセント程度ではあるが物音の使用は聞かれる。そしてレコメン系やフルクサス、あるいは音響派といった流れの中でも物音系として異彩を放ちつつ継承されていって今に至る。ただ、ここで、既成楽器の楽曲のにぎやかし程度ではなく、専ら物音を積極的に音楽たらしめようとする意志が働く時、物音のただの羅列から構成へと傾く弁証法に陥りがちであった。そこで編集であった。シェフェールはフランス国営ラジオの編集技師としての出自も手伝って、種々の物音や既成音楽を切った貼ったで音楽を紡いでいった。こうした編集技術は、やはり20世紀後半の電子音処理技術の発達を待たなければならなかったのである。

 一方シュトックハウゼンを考察するには、単純に、「少年の歌」に聴かれるようなシンセサイザーの合成手法の活用を述べればよいのではない。ドイツ、オーストリアといった、古典からの考察を持続させながら20世紀になっても音楽の中心たりえた土地にいた彼は、後期ロマン派からドビュッシー音階を経て、シェーンベルクの十二音技法、ウェーベルンの音列主義といった現代音楽潮流の只中で実践した人である。無論、メシアンもブーレーズも間近に意識しておろう。ただしここでは割愛して、簡単に、音楽史上において技術発達のおかげで可能になった合成を概念的に特筆して終わるべきであろう。合成は正弦波を理念として、雑多な音素を一本の波形にまとめることによって過去に有り得なかった音を創出した。あるいは波形の特性値を変えることで既成楽器の音を真似ることもできた。よって、人によって演奏しかされなかった楽器音が、人では演奏不可能な思念のプログラムに則って音を出すことも可能になったのである。

 編集は、個々の音が個々の音のまま、ある種の構成から逃れようとする遊びがあるようにも見受けられるが構成である以上、そうした楽観が許されないのは後世の、腐れヒップホップコンビニ音楽などを聴けば分かるだろう。また、合成は、全体主義の発現と見紛うばかりの説明となったが、こうしたテクノロジーからのテクノロジー自体による弱い反逆として90年代に起こったオヴァル、ミクロストリアといったテクノイズの聴取もあり、音楽はまことにはしぶとい。詳細はまた稿を改めて書きたい。現代音楽の変遷についてもまとめる必要があるだろう、ザッパを論ずるために。

 編集は、いかにもガルガンチュア・パンダグリュエルの国フランスの、雑多な、王侯貴族もブルジョア市民もプロレタリアートも農民もその階級が変わらぬまま賑やかで、臓物も果実も汚水も一緒くたに沸騰するが如き国柄に相応しかろう。合成は、観念からの演繹を整然する如何にもドイツらしいありようとも取れる。血液型バラエティ番組はその区分数が4つしかない少なさ故に教条的で乱暴な統制区分となって、反感を持たざるをえない。しかし県民性番組は概ね各県の個別的差異事象を取り上げるのみで、県民すべてがその事象に当てはまると緩く言いはするがさほど説得力も無く笑えるレベルであるから好感を持つ小生は、下らぬと思いつつもこうした国柄話は愛嬌だと思って。また、区分が過剰に多くなることは、空想的社会主義者シャルル・フーリエの砂漠の蜃気楼の如き儚くも膨大綿密な理論のように、統合を生まれながらに知らぬ爽快な解き放ちになるのではないか。

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