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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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「frank zappa the mothers of invention/uncle meat(1969) rykodisc rcd10506/07」 2009年3月29日 憂春


 テレビ番組の年度末ということで今期を以って終了する番組が多いようである。なかでもNHK日曜美術館、壇ふみの降板は小生に限らずとも大きい事件であろう。かねてより壇ふみの後継として和久井映見を推していた小生であるが、そんな小さな声が届くはずもなく、熊本の在日韓国人評論家の羹氏と、NHKの女性キャスターが後釜に座ったようである。どんなもんかいなと本日鼻息あらく午前9時にチャンネルセットすると、小生のしつこい課題である日曜美術館はやっておらず、春の高校野球が放送されていた。相も変わらず団塊世代とその追従者らの玩具に過ぎぬ高校球児の奴隷的見世物ぶりは、空襲警報のような試合開始のサイレンと相俟って吐き気を催す。
 野球漫画でありながら、ほとんど名人芸的にしみる漫画「あぶさん」の酒豪、影浦安武がついに現役最後の年、引退を決めたようです。なんと年齢は60代。一抹の淋しさ、しかしあぶさんの衣鉢を継ごうとして物干し竿(あぶさん特注の長いバット)に執心するルーキーの名前、梅桜風太郎というのだが、なんとも、同じ掲載雑誌(ビッグコミック)にある浮浪雲(はぐれ)のようで、生産や実体から遠く浮つき、じつに風流である。
一つ吾ながら名句を物にしたので眉汚しにご披露。

 梅と桜うちかさなりて雪ときゆ     不吉
 
 自讃まことにおこがましいが、万葉(梅)から古今(桜)まで総覧しつつ、花と雪が境なく互いの印象を打ち消すように渾然とした新古今の世界を平明に叙しながらも、それが近世発祥の俳句、即ち、西行の和歌、雪舟の絵、宗祇の連歌、利休の茶、その通ずるものは一なり、と喝破して自らを風流の後継に任じた芭蕉に代表される蕉風俳諧にもなっている。やまと歌の歴史がすべてここにある、と勝手ながら自負している。

 さて、マザーズのアンクルミート(肉伯父さん)である。前年68年にランピーグレイピーという、欠かすこと出来ぬアルバムがあるが間違えて先にこちらを。60年代のザッパ山脈の最高峰である。最高峰ばかりだから山脈であるのだが、そう書かずにはいられなかった。最早言葉が追いつかぬほど盛りだくさんのこのアルバム、ブルー・ノートとその踏襲、変奏というロックの形を必ずしも守らなくてもロックでありうる可能性を開いたばかりかその極限まで突き詰めてしまった感がある。全くブルーノートから逸脱しているのでもないし、かといって微かなロック形式を、ミュージックコンクレート式に継ぎ接ぎすることで旧来のロック形式からの逸脱を狙う、といった、単に目新しさに鵜の目鷹の目である幼稚な方策ではない。無論、メンバーらが自分がどこをどのように演奏したのか、完成品を聴いても分からないほど編集に賭けているザッパであるから、そのカット&ペーストは、先に挙げたミュージックコンクレートやその他コンテンポラリーミュージックのみならず、当然ながらレイモン・クノーやバロウズといった文芸分野での切り貼り手法、そして何より先行した絵画分野でのキュビズムといった成果への意識の高さが方法論として聴こえる。
 そういった編集技術もさることながら、ヴァレーズへの傾倒著しいザッパであるから、ここはザッパ音階と呼んでもよいような音の運びが、ブルーノートに収まらず既に独特であった。四海あまねく全ての民族音階やそれに含まれるブルーノートや沖縄音階、平均律、ドビュッシー音階、十二音技法(シェーンベルク)、偶然性(ケージ)、管理された偶然性(ブーレーズ)、セリー技法、といった、音楽にとって決定的に制度的である音階の中で、ザッパ音階が誕生したということも提唱したい。元来、音階の発明が音楽家の成果であり、音楽家の誕生を意味するのではなかったか。いかにもロマン主義的な音楽家あるいは作曲家という概念を否定したところからポピュラーに広まったロック史にあっては、ザッパやザッパ同様に独自の音階やリズムを持つ者は異端であり続けた。そうした史観をいたずらに否定するつもりは無い。しかし、ロック史のポピュリズムを批判的に検証したい反逆の心抑えがたく、そのためには、旧大陸的ロマンチストというよりも、ロマン主義の影響を免れえた新大陸の変態でありえたザッパやドン・ヴァン・ブリードやブライアン・ウイルソンといった点在する者らに耳を澄ましたいのである。
 音階だけではない、ロックは音色の探求にも熱心であり、ザッパとて例外ではない。既成の楽器から、いかにテクスチャーの異なる音、即ち音色を引き出すことに執心したか、ギター史だけとってみても明らかである。11番目の楽曲アンクルミートバリエーション、ザッパ音階による天上的に壮麗な世界を、薄汚く変声された卑小な声が歌い上げる白眉である。
 あと、本アルバムはCDで2枚組であり、1枚目は精緻に組み上げられた感のある、編集職人魂の面目躍如であるが、2枚目に至って、編集美の構築なぞ糞食らえとばかりに、編集の妙を全否定するように、自作の意味不明の映画のナレーションやら即興演奏やらがぶち込んである無茶苦茶である。一体に、何を以って、作品としてのまとまり、などと断定できるのであるか。お前の制度化政治化権力化大衆化された趣味を押し付けるな、とでも言いたげに、絵画はとうにそうであるが、音楽の間口の広さを成立させた。それにつけても文芸の間口の狭さよ、3ページ置きに鼻くそが付着していたってよいではないか。見渡せば、何一つ危険を冒さぬ、お上と資本に喜ばれる伝統工芸小説ばかりである。
 もう一つ感想。このアルバム、まことに楽器数多いわりにはすっきりして聴こえる。そしてやはり、異様な創作意欲の暴発のわりには、どこか物寂しい。聞き込むにつけ、かつて引きこもり少年だったザッパの、如何に大勢の仲間との音楽的交渉能力を常に試される社交的生活にありながらも、基本的な侘びへの理解が聴こえるのである。

FRANK ZAPPA guitar, low grade vocals, percussion
RAY COLLINS swell vocals
JIMMY CARL BLACK drums, droll humor, poverty
ROY ESTRADA electric bass, cheeseburgers, Pachuco falsetto
DON (Dom De Wild) PRESTON electric piano, tarot cards, brown rice
BILLY (The Oozer) MUNDI drums on some pieces before he quit to join RHINOCEROS
BUNK (Sweetpants) GARDNER piccolo, flute, clarinet, bass clarinet, soprano sax, alto sax, tenor sax, bassoon, (all of these electric and/or non-electric depending)
IAN UNDERWOOD electric organ, piano, harpsichord, celeste, flute, clarinet, alto sax, baritone sax, spesial assistance, copyist, industrial relations & teen appeal
ARTIE (With the Green Mustache) TRIPP drums, timpani, vibes, marimba, xylophone, wood blocks, bells, small chimes, cheerful outlook & specific enquiries
EUCLID JAMES (Motorhead/Motorishi) SHERWOOD pop star, frenetic tenor sax stylings, tambourine, choreography, obstinance & equipment setter-upper when he's not hustling local groupies
spesial thanks to:
RUTH KOMANOFF who plays marimba and vibes with Artie on many of the tracks
NELCY WALKER the soprano voice with Ray & Roy on Dog Breath & The Uncle Meat Variations

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「franz schubert(1797-1828)/the last three piano sonatas D.958・959・960 three piano pieces D.946 philips438 703-2」 2009年3月21日 鬻春


 第3回目の茶会記を記録しました。左にあるので今すぐクリック!

 本日、広島市内の段原骨董館に繰り出してきた。複数の骨董店が寄せ集まったビルである。店先で骨董関係者の者らが屯して内輪の話で大声しているのを見て、今や小生にとっては、めったに客なぞ来ないであろう骨董街のありふれた風景ではあるものの、感じが悪い印象は拭えぬ。しかし人間の薄汚さとは関係なく、彼らが鬻(ひさ)ぐ器物の方が遥かに重要である。致し方なく、屯している処から比較的遠い店に入ると、店主と思しきおばさんと、客なのか友達なのか分からぬおばさんが世間話。そうはいってもなかなかに品は廉価で良く、三品ほどお助けしてきました。
 NHKの美の壷が終わった後、例によって芸術劇場。この度はモーリス・べジャール特集であった。モダンバレエを代表するのコリオグラファー(振付師)である。ボレロの公演でよく来日するシルヴィ・ギエム、男か女か分からぬが誰か彼または彼女の独断場の踊りを止めてくれ、と懇願したくなるほど抜き差しならぬ踊りを燃やす上半身裸に見えるギエム、どうやら女性だったようだ。男たちを従えながら、朱塗りの円盤の上で、ボレロと共にひたすら高まり跳躍を決める彼女の不世出を今更述べるまでもないだろう。あの朱塗りの円盤が漆なのかどうかが気になる小生である。ボレロも、単調のようでいて、いわゆる西欧古典のソナタのような弁証法ではなく、どちらかというと日の本の序・破・急のようで、一方的に爆発する投げやりが、よい。バレエは直線的か円状の動きが多いが、その中にあって、膝を曲げるポーズは、バロック的な退廃を際立たせて、興をそそるものである。あと、チャドの民族音楽と共にあった踊りも直接的に卑猥であった。サイケデリアの野生の平和は、アフリカの野生の平和であった。

 さて、シューベルト晩年のピアノソナタである。ロック史とは全く関係ないが、しかし、よもやロックに思いを致す者で、ロックしか聴いていない者など、有り得ないだろう。ベートーヴェン生存時の音楽としては、ベルリオーズと並んで、誠に奇妙な音楽性を有する作曲家である。一般的に、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの古典派と、シューマン・リストなどのロマン派の過渡期にあたり、その事に異論はないが、小生としては、ベートーヴェンのゴリゴリ骨太音楽とモーツァルトの天上韋駄天音楽との合いの子のようにも聴こえ、即ち遅れてきた古典派であり、非常に数寄である。いたずらな深刻さはなく、世渡り上手そうな軽やかさもなく、野暮に聴こえる寸前の洗練が、田舎とは一線を画する純朴である。洗われたような魂が惜しげもなくポロポロと袖から転がり落ちるような音楽である。聴けば聴くほど沁みます。ちなみに、演奏は、小生好みの、アルフレッド・ブレンデル。漆界で言えば、螺鈿や蒔絵のような技の華からは遠いが、しかしひたすら木目の渋さを浮き上がらせる拭漆を愚直に丹念に重ねる類のピアノ職人である。

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茶会記をご覧じろ

茶会記を新たにUPしました。至急クリック!小生の茶人としての成長ぶりをご確認いただきたい!

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「spanky & our gang/without rhyme or reason(1968)vscd-739」 2009年3月14日 惜冬

 
NHK教育の朝8時前後に平日放送されている、「にほんごであそぼ」という番組は、ありふれた比喩と知りつつも、一篇の詩のように美しい。失われた日の本の古語や詩歌を、NHK教育独特の可愛い衣装を身につけた子らが、半ば現代的にアレンジされた楽曲や舞台に乗って歌い踊りながら、日本古典とも現代とも隔絶した、まさにNHK教育という独自の分野でしかない世界を遊んでいる。今、音楽を聴きながらなので考えがまとまらないが、ピタゴラスイッチと合わせて、必見である。

 前期メタル的な様式性を否定するならばおよそ系統としては、その名に合わずまことに危ういハードロックという系と、単純に名だけでいうならば対立概念となるであろう、ソフトロック、という分野がある。無論ソフトロックなるものはハードロックの土壌とは異なる処で独自の発展を遂げ、むしろハードロックよりも系統の継承性が水際だった、ソフトと言いながらもしたたかな音楽であった。連日の、場末での、実地のライブによる苦しくも楽しい修行、というバンド形態の延長にあるハードロック的なるものとは異なり、このソフトは、どちらかというと小奇麗な、レコード会社が整えた設備が充実したスタジオにおける、スタジオセッションに長けた人たちによる音楽であった。従ってソフトロックには、バンド性が齎すとしか言い様の無いロック音楽の出現、が期待できるはずもないが、その替わりなのか何なのか、多様な楽器の細やかな使用による凝ったアレンジと楽曲構成が聴き処である。凝ったアレンジとはいっても、ひねくれた変拍子はなく、耳当たりのよい素直な作りである。
 こうして書いていくとソフトロックへの憎悪増すが、小生、そうではなく、ソフトロック的なるものも愛聴するものである。ようするに、身も蓋も無いが、ポップスに近いロック、である。ロックとポップスの峻別、あるいは峻別の必要性に関する議論、といったところに対し、ロックのみならず音楽全般に常に思いを致す者ならば、誰しも一つや二つ見解を弄したい欲望に駆られるであろう。特にロックを聴く者は、理屈の構築以前に、鼓膜に染み付いた感覚によって、ロックとポップスを差別する冷酷を辞さぬであろう。当然ながらこの王道無きロック史、においても、この事は避けて通れぬ課題であると認識している。しかしながら、大変な難儀なので今夜はさて置くとする。
 さて、スパンキー&アワギャングである。ソフトロックの中ではそのアレンジの異様な高度ゆえに、ポップスよりのソフトロックが多い中で(ジ アソシエーションなど)、ロックに近いソフトである。コーラスワークのハーモニーの美しさを高め、当時セルジオ・メンデスやスタン・ゲッツなどによってアメリカに齎されたボサノヴァの取り入れを特徴とし、スパンキーの達者なボーカルと他メンバーのバンド楽曲はフォーク、カントリー、ジャグバンド、ジャズ歌謡ブルースを基調としている多様。禁酒法時代を意識した衣装でステージに上がるコンセプトを有していたユニーク。ソフトロックの中では最もスタジオワークや破綻の無いコンセプト性に凝っている部類であろう。ソフトロックの中には更に、ソフトサイケなる概念もあって、サイケデリアの一継承体でもあったが、彼らも、ソフトロックにおけるサイケ、という有り様を代表する音楽性、である。そうはいっても、ソフトロックにおけるサイケは、ストロベリーアラームクロックなどの若干の例外を除いて、どちらかというとジェファーソン・エアプレインなどのような産業サイケ、ハッピーフラワーサイケであり、スパンキー&~も例外ではない。とすると小生が提唱する20個のサイケコンセプト(凶暴性など)から外れるではないかと思われる向きもあるかもしれぬが、⑳番目の概念、フラワー、という大きい概念に包括されるであろう。どこまでも明るくハッピーなこの感じは、どこまでも正直な無邪気な素朴が馬鹿丸出しに大多数を占めかねないアメリカ民族の、明るい健康的なおぞましさに通底するのである。こうした種類の凶暴性であり、このハッピーでイノセンスな暴力は、イラク、アフガンをはじめ多くの他国で大虐殺しているのである。最近、国際刑事裁判所なるものが発足し、どこぞのアフリカの為政者が住民虐殺の咎で起訴されているようだが、真っ先に起訴して処刑すべきは、ブッシュ前アメリカ大統領である、と、この場を借りて告発したい。ベトナム敗戦によって日本近代化から100年遅れてようやく近代的内面性を体験したようだが、そうした内面性もどこまで本気で継承しているのだか、全く白々しくなるほどの、ハッピーな明るさが病的に蔓延するアメリカ民族だから、イラク人を虐殺し、オバマに熱狂するのである。しかし吾が日の本の民も他人事ではない、日米安保の皮肉なのか、日の本でも同様の傾向が見え隠れする。
 ちなみに、これは、彼らのサードアルバムで、ジャケットのショッキングイエローからも分かるように彼らの中では最もサイケ色の強いアルバムである。ホンコン・ブルースなる楽曲もあって、似非中華風のアレンジは凝りに凝っており、嗅覚鋭い細野晴臣もカバー曲を出している。ファーストとセカンドも佳曲多く、お勧め。

 produced by stuart sharf/bob dorough
 sound by joe sidore
 spanky mcfarlane:vocal
 nigel pickering:guitar
 lefty baker:guitar
 kenny hodges:bass
 john seiter:drums
 malcolm hale:guitar

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「frank zappa and the mothers of invention/we're only in it for the money(1968)rykodisk rcd 40582/3」 2009年3月8日 呆春


 仕事帰りの夕方、運転中に、道路わきに、野生の鹿が立ちすくんでいた。サバンナのインパラや春日大社や宮島などの観光地の鹿のようなほっそりさは無く、その脚は農耕馬、あるいはばんえい競馬のような野太さで逞しく、体つきも筋肉が盛り上がって毛並みも傷だらけの荒々しい鹿であった。ビュンビュンと大型車両が剛速する道路なので、危ないな、と思った。その二日後、同じ道を通ったら、二日前にその鹿の居た場所で、その鹿が轢死体となっていた。全く移動せずに、そこで轢死したようだった。運転中なので一瞬しか見えなかったが、出血夥しく頭部は潰されている模様であった。目眩のような衝撃を受けて、それでなくても季節の変わり目、移ろう風物のいちいちが欝を過敏に深める時期であったので、耐え難いものであった。同日、また同じ箇所を車で通ったら、鹿の骸は片付けられており、どこぞの高校の陸上選手らしき黒人がランニングしていた。もう訳が分からない現実である。

 さて、マザーズオブインヴェンションのサードである。サイケデリアの金字塔。過去にこのアルバムについて書こうとして挫折を余儀無くされたが、状況は今も変わらない。特に今日はいつものように脱力脱気している小生にこのアルバムと隅々まで相聞することは不可能であるが、しかしこの相聞し難さは何も小生由来のへたりのみに起因するのではない。このアルバムとサージェントペパーズとの因縁は一般的に有名なのでここではコメントしない。当然ながら、アルバムタイトル「俺たちは金のためだけにやっている」の「俺たち」とは、ビートルズのことである。ちなみに、カフカの「流刑地にて」を読んでから聴け、とジャケットに書いてある。
 それよりも重要なことは、このアルバムに漂うどうしようもない淋しさ、元気の無さ、あるいは低調な造りである。無論それは、作としての駄を云うのではないばかりか、サイケデリアの根本を奏で得たロック史上の稀少を証し立てた。この低調は、サイケデリアにありがちなアンダーグラウンドの闇への安住や吠える野蛮とも異なる。異様に影のない野原で見た目にも可愛らしく小さく咲いている食虫植物が人間の指を咥えているが如き禍々しさ、といっても違うだろう。決して凶暴でないとは云えぬ。おとなしいし、時に親切かも知れぬが、痛みを知る必殺の暴力をいつ繰り出すか分からぬ備えを感得させるのである。
 楽曲の作りは出鱈目な集積回路のように精緻極め、歌詞もアメリカ文化への、薄汚さも厭わぬ痛烈な批判に満ちているであろう。荒々しいバンド作品も時にやるマザーズの中で、この精緻さはザッパ山脈でも3本の指に入るレベルである。しかし、何かしらぐったりとした、でも重くない軽い明るい疲れが憩っているのである。この集積回路はクリームチーズの基盤に馬の毛を松脂でくっつけたような屈託無い無茶な稚拙であるにも関わらず、アポロ計画の制御装置を担いかねぬ異常なる高度技術を成しながら、勢いはへたばっている。肉の臭いがプンプンするザッパの他の作品群の中でも珍しい一品である。ジャケットからも言えるが、腐った野菜のような作品である。悟りや贖罪とは程遠いあきらめを草枕に眠るサイケデリアの本来と、到達すべき極が、ここにある。
 取り合えず、どこまで信用していいか不安であるが、小林秀雄を参考書として本居宣長を読むにつけ、宣長は、古典を、いかなる場合であっても過去の物でしかない作品なるものを、方法や形式、影響といった概念で解釈することを強く否定しており、こうした有り様はサイケデリアと小生との関わりでも寸鉄のように響いている。もう、音楽を、影響、という言葉の暴力で殴り付ける自分の無神経に、うんざりなのである。宣長が言う好信楽、即ち好んで信じて楽しむ、といった境地に、小生はまだそれをあまりに素朴で平易で馬鹿馬鹿しく思う蟠りゆえについてゆけぬが、まだ宣長を全部読んでいず、勉強中です。以前、サイケデリアに関する形容詞を羅列したが、形容詞は何も構築せぬので理論的誤謬を指摘しようも無い無責任ではなかろうかと小生懐疑的であったが、美的判断は体制に包摂されているようにみえながら結局は好事家的無責任なる遊行に過ぎぬのだから音楽を語るにもってこいなのかも知れない、と自分を甘やかしながら、重要なので今一度、サイケデリアの概況を列挙しておこう。⑳番と関係するのか、本作品の歌詞に、パンキーフラワー、なる珍妙な言葉があった。パンクとサイケデリアに断絶を見る小生の自論を揺るがす言葉である。
 ①この殺伐。
 ②すさんだ感じ。
 ③ささくれ立った感じ。
 ④ヨーロッパでは生まれぬ、アメリカ大陸という土地に根差してこそ生まれはしたが影響
  は受けぬ白人の新種のキチガイ。 
 ⑤徹頭徹尾白人的なキチガイ。
 ⑥変態。
 ⑦絶対に品は悪い。下品。
 ⑧アメリカ砂漠性の乾き。
 ⑨凶暴。
 ⑩虫が肉を食うようなおぞましさ。肉に対する昆虫上位。
 ⑪なりふり構わぬ。
 ⑫文化や自然に根差しながらも、継承性、遺伝性が無いキチガイ。
 ⑬男たちの顔が皆、異なる。
 ⑭反ロマン主義的キチガイ。
 ⑮継承性はないが各地で突発、点在するキチガイ。
 ⑯錆びてこぼれた、切れ味の悪い刃で生きた肉を切ろうとする無謀。
 ⑰知性よりも痴性。
 ⑱普段は眠っていそうな、家畜を屠殺するように人に対する禍々しくも平和なキチガイ。
 ⑲陽だまりで穏やかに憩うキチガイたち
 ⑳フラワー

 FRANK ZAPPA :Guitar, piano, weirdness & editing
 BILLY MUNDI :Drums, vocal, yak & black lace underware
 BUNK GARDNER :All woodwinds, mumbled weirdness
 ROY ESTRADA :Electric bass, vocals, asthma
 DON PRESTON :retired
 JIMMY CARL BLACK :Indian of the group, drums, trumpet, vocals
 IAN UNDERWOOD :Piano, woodwinds, wholesome
 EUCLID JAMES MOTORHEAD SHERWOOD :Soprano & baritone saxophone, all purpose weirdness & TEEN APPEAL
 SUZY CREAMCHEESE :Telephone
 DICK BARBER :SNORKS

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「the spiders/the spiders album No.1&No.2(1966)tecn-20387」 2009年3月1日 晩冬


 先週のモーニング誌掲載の「へうげもの」、ついに大きい山場を描き切っており、小生の脳みそ火照りっ放しである。父(利休)なる者を殺した息子(織部)が、父なる者の継承者として否応無く民に承認されてしまうと言う、法や説得を超えた神話的表現の借用は、在り来たりと言われればその通りであるが、そこは漫画家としての山田先生の力量で押し切ったようだ。そしてこの山場に合わせてコミック最新刊も発売とは、商売上手この上なく、速攻で購入する小生である。この間の終末週末は職場での慰安旅行に滅茶苦茶にされ、旅行内容は言うまでも無く最悪を極めたが、宿泊先の尾道はやはり風情がいい。温泉街とか、ああいう浮世離れした歓楽の地、巨大な雇用を守る産業に乏しい遊興の地に住みたいと、志賀直哉ならずとも日頃思います、そういえば坂口安吾も伊豆の伊東温泉に住んでいた。尾道には造船所があるがそれは向島の話、本土の千光寺山はアミューズメントの塊で楽しい事この上無し、古くこじんまりした遊園地は潰れていたが猿山の塔には日本猿が孤独に座り、真言宗千光寺所蔵の千手観音やら愛染明王やらの仏像見物や奇岩名岩、こてこてと土産物や甘味の張り紙した、大阪万博的な展望台そして文学の小路と盛りだくさんである。人々が踏みしめて摩滅した文学の小路の石段は危険極まりかった。小路の道祖神たる、歌の石碑に興味なぞあろうはずも無く、目もくれずひたすら下山する製造業の男ども。千光寺山荘からの、朝の尾道風景は瀬戸内情緒である。自由行動時間、逸早く集団から脱兎した小生は商店街で器屋調査、陶器屋三軒、塗物屋一軒、茶道具屋一軒見つけ、なかなかに安価で程よい具合の織部茶碗や蒔絵の棗なぞが茶道具屋にあったが抑制しといた。句を物したので記録までに。
  文学の小路脇目もふらずに下山する
  岩割りの松の根元に湯気上がる
 尾道出身の漫画家といえば、かわぐちかいじ氏が思い浮かぶ。大正アナキズムの暗黒史を赤裸々に描いた竹中労監修の「黒旗水滸伝」の絵師がかわぐち氏であったし、黒旗水滸伝よりも、「沈黙の艦隊」や現在モーニング誌連載中でこれまた山場の連続である「ジパング」で相当に高い評価を得ているだろう。昨日すさんだお好み焼き屋「R」にて、久方ぶりに「沈黙の艦隊」を読んだ。最終巻までは読んでなかったが、うっかり手に取ったのが最終巻であった。ずば抜けて国家論への意識が高い氏の古典的説得力に圧倒されながらも、どうも、沈黙の艦隊=明かしえぬ共同体(ブランショ)、のようだった。「明かしえぬ共同体」を初めて読んだ時、根源的に孤立して独立した者らが、なぜ共同体、という枠組みで語られなければならないのか分からなかったが、最近は滲むように分かりつつある小生である。その妙はここでは語らぬが、(小生の作「軍国軍記」を読了されたし)国境無き差異が即ち独立であると、小生理解した。すさんだお好み焼き屋でさえも、「沈黙の艦隊」のようなものが手軽に読めるとは、誠に有り難い国である。

 さて、約束の時間である。実は既にこのほどは薄まりつつある怒りや屈辱の思いを如何に焚き付けるかが問題であるが、それはそれで今となってはよかろうとも考える。淡々と、在った事を述べたい。あれはやはり10年前ぐらいのことだったろうか、番組名は分からないが、毎週日曜日、ジャニーズのキンキキッズがゲストを呼んで、そのゲストに種々の質問して掘り下げ、最後に、ゲストやレギュラーメンバーと共にポップスをセッションするという趣向の番組であった。この番組は今でも存続しており、今ではメインレギュラーがジ・アルフィーであるが、その昔は、吉田拓郎であった。そこで、小生は初めて見たのである。下らぬ才能を並外れた努力と巨大資本とその組織力によって広められたジャニーズ的事情の元にあるキンキキッズは兎も角、ともあれ今どきの若者としてのキンキキッズが、終戦前後に生まれた団塊の人々の文化に、抵抗も無く素直に理解を示す姿を、初めて見たのである。80年代から90年代半ばのいわゆるバブル期までは、パンクやディスコや暴走族やツッパリや音痴アイドルに代表されるように、その当時社会的支配層である団塊が眉をひそめるような反抗が生きており、パンク兄さんやディスコギャルが、団塊フォークなぞに理解を示す姿が少なくとも公にされる事は決してなかった。ところがバブル崩壊以降、キンキキッズが、拓郎さんの歌をリスペクトしています、というような発言態度を晒して恥じるところないどころか、何の屈託もない気負いの無さなのである。果ては、出演者全員で、吉田の「結婚しようよ」などといった楽曲を演奏する甘い連帯を演じるのである。そして吉田も、若い連中に受け入れられて満更でもない様子の醜さなのである。同じ事を過去のプロ愚に書いたが、岡林信康、松山千春、泉谷シゲル、吉田拓郎といった者らの和製フォークは音楽上、何の価値もない。音楽上、無価値という現象があり得ることを証明する数少ない音楽の一部である。無論和製フォークとて音楽である以上様々な他流音楽の影響の下に成ったのだろうが、成立以降、他流音楽との、音階や音色や奏法上の相克には聾唖な安泰に浸りながら、至って保守的な、当たり障りの無く害の無い、情緒的ふるさと人情物語を危機感なく蔓延させる衆愚音楽である。岡林や高田渡などの反体制フォークなぞ、フォークがフォークの土壌で何やろうとも音楽上保守に過ぎないため社会的にも保守になるのだから馬鹿馬鹿しいにも程があるし、吉田のニヒリズムフォーク以降のニューミュージックなどといった呼称は音楽を馬鹿にするにも程がある呆れた代物である。ただし、森進一に提供した襟裳岬や、さだまさしはよい。陽水については一言では不可能。勇気はあるが音楽的見識の低い左翼が全共闘の集会や安田講堂内で、フォークなぞを肩組んで車座で歌ったりするからフォークの馴れ合いの毒に犯されて革命が駄目になるのであり、しかるに全共闘の集会や安田講堂内で、スパイダースやゴールデンカップスやジャックスなぞのイカしたロックをバックにモンキーダンスやゴーゴーを踊れば、革命は潰えたとしてもその後の日本社会は変わったかもしれない。その是非は兎も角、ロックは、イタリアのプログレッシブバンドのアレアが自ら宣言したように、インターナショナルでポピュラーな音楽なのだから、左翼の教条ともマッチするだろうになぜロックをせなんだか。それとも、ソ連からの指導を排除しようとした当時の日本共産党の方針に全共闘が従った結果、フォークを取り入れたのだろうか。今となっては分からない。
 さて、そうはいってもテレビのやることだし、小生と同世代の人間で、現実に団塊フォークにおもねる奴などいないだろうし、知りもしないだろう、とたかをくくっていた。ところが、それを覆すロック史的個人的歴史的事件が小生をも巻き込んで起こったのである。あれは小生が製造業に身売りして2年目だったろうか、会社内での、同じ大学の小規模の同窓会での出来事である。参加者は50代の会社支配層の団塊数人と、30、40代がいなくて小生含む20代の者数人、という極端な年齢構成であった。男のみ。一次会の創作和食個室系が終わって、団塊の彼ららがもっぱら目的にしている行きつけの流川のスタンドに行く事に。それまでにも数度あったが、彼らはこともあろうにそのスタンドにあるカラオケで往年のフォークソングを歌うのを何よりの楽しみにしている連中なのである。人前でも独りでも歌唱はおろか発声すらも全く苦手な小生だからカラオケだけは御免蒙りたいところ、しかし日本資本主義の笠を来た身近な目上の衆愚による圧制に叛旗を翻す勇気の無い小生は、時にこの2次会に参加しない勇気を絞り出すこともあったが、頑張らないと勇気が出ないので、この時は嫌々ながらカラオケスタンドまで同行。他の20代も同行。団塊が繰り出す仕事上の下らぬ説教事や根性論など今更批評する気も起きぬまま聞き流すも、団塊が自慢の美声とやらで間断なく歌い上げる和製フォークにだけは、小生我慢ならない。そうしたフォーク地獄の中にあって、スピッツばかり歌うという団塊もいて、呆れるような滑稽空間が現出(絶対に空も飛べるはずがない、お前だけは!)、奇しくも60年代フォークの形式的堕落満足と村上春樹的保身馴れ合いさわやか物語制度とが合流したりして、苦々しく聞き続けるしかない小生のみじめはハラワタ煮えくり返る怒りと屈辱にはちきれんばかりの憎悪を、ギリギリの無表情で抑えるのに必死である。そうはいっても団塊のこうした在り様は最早致し方ない物として諦めもつく。フランス革命このかた、エコール・ポリテクニークの例にあるように(エコール・ノルマルのような文系大学生は積極的に革命に参加したが、ポリテクニークは反動的無関心を決め、革命後はナポレオンの庇護を受けた)、いつだって反動保守的であった工学系の彼らがフォークを好むのは歴史の必然なのだろう。
 それよりも、外目にも下手な愛想笑いとは裏腹に恥辱と憤怒にさいなまれている小生の内的怒りを促進させたのは、小生よりも一つ年が若いいわゆる新入社員の者が、なんと、吉田拓郎とか長渕剛とかが好きなんです、などと団塊受けする事を何の躊躇もてらいもなく恥ずかしげも無く言い、そして吉田の歌などを団塊の前で披露した事なのである。その若者は、特に媚びているという風でもない意識下の媚びによるのか、今どきの歌は歌わず、率先して、和製フォークを大声で歌い続けるのである。そして、目上の団塊に可愛がられる始末なのである。時としてこの者は大胆な無邪気な事を言ったりしているようであるがそれも目上の許容範囲内のやんちゃに過ぎず、好ましく思われる程度の元気なのである。今となってはありがちではあるがこの者は、理系体育会系肉奴隷である。気持ち悪い、と小生は、極限まで薄められたまっずい焼酎を、場に耐え難いため煽りに煽ったせいもあるが、吐きそうになった。キンキキッズだけではない、一般の若い連中にも同世代にも、こうした文字通り恥知らずの連中が誕生し始めたのである。そうした状況下で、否応無く、いまだに一度も歌っていない小生の有り様が場で目立ってくる。そして目立つ者を、場を盛り上げたいために、衆愚が弾圧を加えてくるのである。団塊から好まれたいと思わぬのは当然だが如何せん勢い系マッスル団塊にとっては何を考えているのかさっぱり分からぬのだろう小生が自然扱いづらく疎ましくなるのは必定、小生が歌わなければお開きにならない、などと勝手な立法するのである。頑として拒否してきた小生もそんなに強くないただの人、負けて、分厚いカラオケリストをめくるしかなかった。歌える歌など今にも昔にもありはしないのだが、渋々入力したのが、何とかなりそうな、スパイダースの「バンバンバン」。ムッシュの名作である。小汚いステージに立たされてバンバンババババババババーン、などとモニターの棒読みで取り合えず声を出す小生。するとまたしても驚愕の事件がそのモニターおよびモニターと同じ内容が映写されたスクリーンで起きていた。バンバンいう歌詞の裏で、何と、安保闘争や安田籠城戦などの全共闘白黒映像が流れていたのである。歴史的には直接何の関係も無いスパイダースと全共闘が、カラオケ配信会社の底知れぬ無知のせいなのか巧妙な嫌がらせなのか全く分からぬが、ただ60年代、というだけで、カラオケの中で一緒くたにされていたのである。冗談として夢想していた事が、こうした形で実現してしまっていたが、いずれにしても、小生は、小生が全共闘世代即ち団塊に媚びていると団塊や同世代に思われるのではないかと直感し、今までに無い激甚なる恥の思いに狂いそうになった。しかし、小生の内的恥を理解する心や知性も、この者らには無いのだろうとも思い安心もしたがその事が逆に、楽曲のノリとは別に、暗澹たる気持ちにさせた。60年代という時代がこうした無邪気な無知と楽観で以って扱われ、そしてそれを承認し流通させているのも団塊とあってみれば、まことに恐るべき滑稽かつ悲惨な事件であった。いやはや、歴史から、予想だにせぬしっぺ返しをくらい申した。悪質な寓話であった。なぜ小生はこんなにもやるせないのか。
 
 さて、スパイダースである。思い出話が長くなったのでスパイダースやGSの本質については、例えば「明治100年、スパイダース7年」といったアルバム紹介の時に稿を割きたい。ここでは、No.1冒頭の「フリ・フリ’66」について一言。ガレージの世界的先駆である。ドラムとベースはリズムの基本であるが、基本であるが故に率先してリズムのタガを外して野蛮に暴れなければ成らないガレージの宿命が既にだばだばと果たされている。津軽三味線の如きエレキの蓮っ葉な叫びがゆるゆるしながら外聞無く生きておる。そして耳に痛いいかしたシャウト。一転した裂け目からポップな調子を覗かせるもすぐさまその裂け目は閉じて再び軽い軽い凶暴へと突っ走る。自慢しても嫌らしくない最高の格好よさ。No.2はロッククラシックのカバー集。言いたい事は山ほどあるが今日はこの辺で。

 田辺昭知 ドラム
 大野克夫 スティールギター、オルガン
 かまやつ ひろし リズムギター、歌
 井上孝之 リードギター、歌
 加藤 充 ベース
 堺 正章 タンバリン、歌
 井上 順 歌 

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「the beatles/revolver(1966)tocp-51117」 2009年2月22日 灰春


 憂さ晴らしに深酒、酸化防止剤無き国産ワインのまろやかさに溺れるようにして二日酔いとなって頭痛。こうした記述は、見苦しさをあえて晒す写実的告白あるいはアイロニー(自己を貶めて他者を貶める事で自己を持ち上げる保身のやり口)であるが、アイロニーがヒューモアから否定される根底的理由は一切ないであろう。時代によりヒューモアよりもアイロニー、またはアイロニーよりもヒューモアが称揚される転変無常を見据えなければ、近代制度を批判した事にはならない。ヒューモアはアイロニーと比較してどこか開放的であるから、という素朴な感想によってヒューモアを称揚していた「日本近代文学の起源」(柄谷行人)であるが、暗いよりも明るい方がよい、と無批判に愚鈍をさらす頭の悪い教師や実業人と変わらぬレベルであり、近代批判にはならない。内部も結構、外部も結構、ヒューモアも結構、アイロニーも結構、引きこもりも結構、遊行も結構である。
 さて、頭痛がひどいので、特にコメントすべき事が無い手頃なアルバムは無いものか、と探したところ、これ以外にないようだ。自分への罰として、次回は、小生とGSとくにスパイダースとの個人的ロック史的事件に端を発して(「~に端を発した」はフローベールの「紋切り方事典」に追記したい)、吉田拓郎フォークおよび吉田拓郎とキンキキッズとの結託すなわち俗情との結託(大西巨人)批判、という長丁場を課すことにしたい。

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「the mothers of invention/absolutely free(1967)rykodisc rcd40582/2」 2009年2月15日 音春


昨日は、結局広島の段原骨董館には行かず、不意にテレヴィジョンのCMに現れた福山での骨董市「福山の市」@ビッグローズ、に馳せ参じました。詳細は後ほど報告申し上げたいが、品物と小生との闘いはさながら道無き人生に似たり、確固たる信念が無いと己が欲する品をお助けする事ままならず、ほろ苦い思いでありました。

 さて、マザーズのセカンド、アブソリュートリーフリーである。米国。このアルバムは、小生が聴いたロックの、まさに一番最初であった。ロックをまだ意識的に聴いていない頃、ロック界のだいたいの見当をつけるために、何の予備知識も無く、レンタル屋で借りてきた最初の一枚が、この、ザッパ&マザーズのセカンドだったのである。その時の印象は忘失済みであるが、以後しばらく、ロックとはこういうものだと思っていた。これが通常のいわゆるロックだと思っていた。雛のすり込みとでも言うのだろうか、その功罪は兎も角としながら以後種々のロックを聴くにつれ矯正される事になるが、それでも小生のロック観は、ザッパ音楽が基準となってしまった。レンタル屋で借りたこのCDをカセットテープに録音し、部屋や車の中で幾度と無く聴き続け、挙句テープがついに千切れてしまったので、本CDを買い直したのが8年ほど前の事か。すり込みといえば、ドラえもんの「すり込み卵」を思い出す。意中の人を件の卵に入れ、一定時間後に卵から出てきた時に初めてその人が見た人物がのび太であれば、その意中の人はのび太を好きになる、という、犯罪的道具である。うろ覚えであるが、案の定、ジャイコがうっかり?卵に入ってしまってのび太にラブとなったりてんやわんや、上手いこと静香を卵に入れたのび太だが、タイミングが合わず、再誕生した静香は何故か出来杉と出会ってしまい、すり込み功果で出来杉ラブとなった静香を、出来杉は、「そんな道具のせいで好意をもたれても受け止められないよ」的に諌めて、静香は「ますます惚れてしまったわ」などとなる、その一部始終の隣にいるのび太は愚かしく喚く、という話だった。のび太の愚かさが抜群の好エピソードであった。
 話を戻そう。絶対的自由。ビートルズ無しでも成立しえたザッパであり、既にファーストからして、19世紀末から奮発し始めた実験音楽への意識が高い作品であったが、このセカンドでついに爆発した。いかがわしくとても改めて言葉では出来ぬほど卑猥な歌詞を擬人化したアメリカやアメリカ大統領に吐き続けるチーズ臭い白人スラングを良い声で歌うザッパらと共に踊る楽曲にはすでに継ぎ目だけで連なる連続性、各々の完結を拒否して一つながりの疾走となって万華する目くるめく音世界が野糞の如き仲間の下品な男たちの吠え声に混ざって、現代音楽もガーシュインもジャズもブルースも一緒くた、かと思いきや、ザッパは様々な音楽を取り入れたがそれは種々の異種音楽を高速で編集して繋ぎ合わせる編集能力に長けていたに過ぎぬ、楽曲の構造自体がロックと西洋古典とジャズの未分の合成で成立しているとは言い難い、そうした試みの達成はヘンリーカウを待たなければならない、という批評を読んだ事あり、確かに60年代終りまでのマザーズ作品はそうした編集の域を出ぬかも知れぬ、しかし70年代初頭から半ばの、例えばマザーズのロキシー&エルスウエアなどは、楽曲構造自体に異種音楽の遺伝構造が刷り込まれていると反駁したい、と小生考える。それにしても、たとえザッパであっても、ブルース形式から遠く離れてしまった音作りにも関わらず、ドラムとベースがずんどこ煽るだけで、如何ともしがたくブルースやアフロ音楽が聞こえてくるのは何なのだろう。現象以外の秘密があるのだろうか、ここが重要である。
FRANK ZAPPA
RAY COLLINS
JIM BLACK
ROY ESTRADA
BILLY MUNDI
DON PRESTON
BUNK GARDNER
JIM SHERWOOD

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「the beatles/magical mystery tour(1967)tocp-51124」 2009年2月8日 小春


 今や恒常的ではあるものの時に大きい起伏となる欝に襲われ、職場での労働を二日ほど仮病で休みました。インフルエンザや風邪が流行る中、肉体は最高に健康。何もしたくない、という気持ちで一杯です。それは兎も角、広島県立美術館に巡回に来ている第55回日本伝統工芸展を観覧してきました。陶芸、漆工、金工、木竹工、染織、人形、その他の工芸、で分類して見せていた。伝統工芸などと謳いながら変に現代性に媚びるこの日本伝統工芸展を訝しく思う小生、古来から受け継がれてきた工芸技法を駆使して、現代的、と称されるセンスやデザインを取り込んだものが評価されるこの種の世界にはうんざりさせられるものよ、と思っていて半ば嫌々ながら行った。工芸なのだから一途に技法上の開拓や優劣を競えばよいのに、柳宗悦の言葉でいうならばひたすら昔を守ればよいのに、そうした技法上の開拓を、現代的かどうか、という美観で評価する如何わしさは何なのだろう。それも、本当に現代的であればそれはそれでよいのであるが、やはり、ある許容範囲内の現代的センスに過ぎぬのである。たとえば色漆に糞を混ぜるとか、彫漆したあとに金を埋め込むのではなく糞を埋め込むとか(沈金ならぬ沈糞)、天目釉に糞を混ぜた茶碗とかあるだろう。糞が現代的かどうかは別にして、現代性を問うにしても現代美術の挑戦や成果から全く目を逸らした安全圏で誰からも文句言われず胡坐かいているのである。
 以上の先入観を持って行ったのであるが、そしてその多くがその先入観を確信に変える物に過ぎなかったが、そうはいっても、鉄の地肌をあっさり剥きだした茶釜は、使い込まれていなくても渋いものである。伝統工芸展では萩焼と備前が幅を効かしているらしく、さほど工夫が無くてもそれらの茶入れや茶碗や水差しにはついつい触手が反応してしまうし、それなりに目の保養にはなった。なんだかんだでこの伝統工芸展は小生の物欲を刺戟してしまったのだろう、来週には広島の段原骨董館に攻め上る所存です。展覧会の品々はどうせ警備員や法人の権威に守られてお助け出来ないのであるから、ストレスが溜まる一方だ。
 さて、ビートルズ。英国。たとえ感想文を書くに過ぎないにしても音楽に関わるということは、当然ながら音楽の当事者でいなければならない、つまりたとえ聴くだけの者であっても、常に自らの問題意識を更新しながら身銭を切って音楽を購入、聴取し続ける音楽上の現役でなければならないと今更痛感しています。この一連の文章を書き始めた当初は、今ではかつてほどレコードに身銭を切らない立場の小生がおよそ10年前に考えた事を記録するのを趣旨としていたが、こうして続けるにつけ、音楽への問題意識の更新を要請される、あるいは自ずとそうした意識が否応無く芽生えてしまう状況です。つまりは、ああ、もっとあの辺りを買って聴かんといかんな、という危惧であります。茶道具に浪費してしまう今、レコード購入を再開する事は財政上厳しいのであるが、元々音楽に見切りを付けるために書き出したというのに、因果なものである。やはりロックは一筋縄ではいかぬものよの、とほくそ笑む私です。あの辺り、の一つが、ブリティッシュ物であった。ロック史の一般教養程度に英国ロックを聴きこなしそれなりの見解は有しているものの、サイケの新規性を聴くため米国ロックを重視する姿勢は今も変えるつもりは無いが、それでも英国ロックを、より数寄の耳を持って聴けば新たな聴点(視点)が得られるだろうと思われる。
 したがって、今の時点で、ラジカルヒステリーツアーならぬマジカルミステリーツアーについて新たに述べることは何もない。シングル集からアルバム性への止揚、などの物語論もここではどうでもよいだろう。同名のテレビ映画との絡みも、一般的に知れ渡っていることではある。小生はブライアン・ウイルソンを心底焦心させたストロベリーフィールズフォーエバーやペニーレーンにうっとりするだけである。ストロベリーの、奇怪に焦点の定まらぬファジーな1/f揺らぎサウンド、ライナーを見ると、テンポやキーの異なる二つのテイクを一つにまとめて出来たという、有名な話。ファジーという、20年ほど前に家電業界に流行った言葉も今では死語か。死語も死語である。それぐらいはやって当たり前の時代なのであり、伝統工芸展などと比べるのは全くおこがましいが、ストロベリーは、音楽史を引き受けるのも可能でいながら不意に逸れてしまうこの幻惑的寂しさを聴く者に委ね、かつ、そこには、歴史の止揚といったロマン派的解釈も跳ね除けるしたたかさが倫理的美的判断に絡み取られず、流産されたのである。憐れみを施さずに、生きている水子と共存する私たち。

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2009年2月1日(日)加筆

余の憧れる帽子ベストスリー。
1.烏帽子
2.朝鮮の民族帽子。網製で、つばが広く、黒い。
3.ボの帽子。

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