ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
「the who/my generation(1965) deluxe edition mca 088 112 933 」 2009年5月17日 屈春
五月人形界に物申す。なぜいつまでも、鎌倉武士や応仁の乱以前の、大仰な古式ゆかしい大鎧ばかりなのだ。戦国時代や安土桃山時代には、百鬼夜行の如く珍妙な変わり兜の世界が綺羅星の如く広がっているというのに。退屈極まりない鎧兜はやめて、桃山の、百花繚乱たる変わり兜の世界を勉強されたし。そうすれば子供たちばかりでなく親たちの心も掴めるのではないか、売り上げも上がるのではないか。
ザ・フーである。えてしてよく知らぬ、あるいは自分が意識的に知ろうとせぬ民族や人種の顔は見分けがつかぬものであり、たとえば「英国の彼ら」(ザ・フーではない)に偏見しか持たぬ小生にとって初見では「英国の彼ら」の顔の違いは分かり難いし、むしろ分かろうとせぬ意固地が鬱屈している。人間、皆、顔が違う、などというのはこの際どうでもよい。そうした原則と関係ないところで、何度も言うがザッパ&マザーズらの男たちの顔は一目瞭然に、異なっている。そして、同様に男たちの顔が皆、異なる、と言いたくなる英国の希少なバンドの一つが、小生にとって、他ならぬザ・フーであった。一体誰なんだ、この、あまりにも顔が異なる4人組は?という疑問をはね付けるのが、文字通りフーである。
歴史に貢献するためにバンドは演奏するのではないのだがザ・フーのロック史上の位置付けや経緯は既に名を成しているので詳細は省きたい。白人によるブルースやリズム&ブルースの愚直な鍛錬が、言葉に成らぬ浮き世への怒りを暴発させる時に、勢いだけの他愛無いビートロックを、リスナーを社会的危険に陥れる凶暴なガレージロックの萌芽にするのだが、そのプロトタイプがザ・フーであることはここで繰り返す必要がないほど自明でありながら、やはり前提として必要であった。そして、ザ・フーの歴史はロックの歴史を成すものだから、このファーストのみでフーの全てを語れるわけも無い。このファーストや次のクイック・ワンから後年の病的なロックオペラ諸作品まで考えようとしたら、それこそ全ロック史を注入する必要がある。
ここでは、既にこの、純正黒人音楽から脱しえた熱いビートのファーストアルバムから言えることを、ザ・フーが何であったかを、この王道無きロック史の中の位置付けを、完結に宣言するに留めたい。その宣言の原因説明は、ザッパ&~と同様、彼らの全てのアルバムを通聴し逐一考えねばならないために、今後じっくり取り組みたい。関係ないが、小生は、説明責任、という言葉が大嫌いだ。ザ・フーも同じ事を言っている。
ザ・フーは、ビートとガレージの荒野からハードロックという不在へと駆け抜けた。
ザ・フーは、王道無きロック史の、まさに王道であった。
ザ・フーは、ロックの王道の、途絶えた系統であった。
ザ・フーは、継承されなかった。
ザ・フーは、プログレッシブ・ロックやメタルの形式を拒絶する、ガレージ=ハードロックというか細くも険しい踊り場に居続けた凡庸なる異端であった。
この凡庸なる異端、異端なる凡庸が、安住を許さぬ、危機意識に満ちた不安定な殺伐であり、未来永劫ロックのあるべき姿であった。
外部の目新しい音楽におもねようとせぬ、あくまでもブルースによるブルースのプログレッシブ化をハードロックというならば、ザ・フーこそがそうしたハードロックを体現しえた数少ないバンドであった。
既に初期音源にも聴けるが、特に後年の、ザ・フー独特の叙情は、ぎりぎりのところで、欧州ロマン主義に流れた正統プログレッシブロック的叙情やアイリッシュ叙情を避けえた、まことに奇特な持病であった。
聴き方によっては、この奇特な持病ゆえに、最早、先ほど申したような意味でのハードロックなるものからも逸脱してしまった、ザ・フーとしか言い様の無い音楽性に到達した。
マイ・ジェネレーションはロック樹立宣言であった。それは共産党宣言の冒頭に匹敵する。この楽曲、この歌詞に、ロックのレジスタンスの全てがある。制度に承認された範囲内で世渡りする連中を尻目に、うまいこと物が言えぬ、永世的に未熟な者らの、殺伐とした、救いの無い怒りと暴力がある。歌詞を乗り越えて雪崩れるように煽り下るキースのサービス精神旺盛な超絶芸人ドラムがそれを証明するだろう。己に刻み込むために、拙いながら自分で翻訳してみました。お目汚し相済まぬ仕儀。
最後に、キースとジョンの御霊に感謝と、冥福を祈る。私は、死んでいった者のことを決して忘れない。
my generation
people try to put us down
just because we get around
things they do look awful cold
hope I die before I get old
this is my generation
this is my generation, baby
why don't you all fade away?
don't try to dig what we all say
I'm not trying to cause a big sensation
I'm just talkin' 'bout my generation
this is my generation
this is my generation, baby
たむろしてるだけで
奴らが俺たちを潰そうとする
とんでもなく澄ましこんでる奴ら
年とる前に死にたいぜ
これが俺たちの世代
これが俺たちの世代なんだ、分かるかい
お前らみんな消えちまえ
俺たちの言う事を理解しようとするな
俺はでかい事したいわけじゃない
俺はただ俺の世代のことを話してるだけさ
これが俺たちの世代
これが俺たちの世代なんだ、畜生
(不吉 意訳)
ピート・タウンゼンド:ギター
ロジャー・ダルトリー:ボーカル
ジョン・エントウイッスル:ベース
キース・ムーン:ドラムス
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「ruben & the jets/cruising with ruben & the jets(1965?1968?) rykodisc rcd10063」 2009年5月10日 初夏
私企業に身売りして得た銭で以って購入したオンキョウのミニコンポFR-155GXは、一ヵ月後には音を再生しなくなり、その後度々修理に出すがすぐ壊れる、小生、特に音質にこだわるオーディオマニアではない、ほどほどの音を出してくれたらよいのに、音楽再生装置の存在意義である、音を再生するという根本機能に欠けており、最近では、楽曲によって一部コーラスが出ない、ベースが出ないといった不具合に悩まされていた。なぜこの不具合が分かるかというと、小生がハイスクールに通っていた頃親に買ってもらった日立製作所のCDラジカセで、二重にCDの音をチェックしているからである。ただ、このCDラジカセも、楽曲によって出ない音があったりするし、いかんせん音が悪すぎる。従って、この2種の再生装置の、出せない音が合致した場合、小生はそのCDが出せる真の音が分からずじまいになる。
こうした劣悪な音環境を打破すべく、ついに新しく音再生装置をこのほど購入。オンキョウは最悪だったが、今度はケンウッドのミニコンポにした。小生は、繰り返すがオーディオマニアではない、無論できれば良い音で聴きたいが、どんな音質で聴くかよりも、どんな音楽を聴くかに重点を置いて出資しているので、まあそこそこの音質であればよいと思っている。今は書画骨董の類に身銭を注入しているので、書画骨董界と同じく趣味の業叢深く険しいオーディオ界に足を踏み入れる金銭的時間的余裕は皆無である。
それにしても、このたびのケンウッド、割り合い廉価だったにも関わらず前のオンキョウよりも格段に音は良い。(ケンウッドは26000円、オンキョウには45000円払った!)あとは耐久性の問題であるが、何となく具合がよさそうである。前のオンキョウは、思えば買ってすぐに、動作に不可解な前兆が見られた!さすがはケンウッド、と手放しで褒め称えられる日がいつか来る事を願います。せめて7年は音再生機能を保持して欲しい。
さて、ルーベン&ザ ジェッツである。マザーズ オブ インベンションが、ルーベン&ザ ジェッツの名前で作製したアルバムである。名前からも分かるように、ハイスクールダンスパーティバンドの1950年代風の初期ロックンロール、ドゥーワップ音楽である。よってその内容は、自ずとザッパ&マザーズのルーツを掘り下げるものとなるであろう。好き嫌いが別れるであろう、ドゥーワップをマザーズ流に曲解した臭いげっぷの連続のような低音コーラスと耳に優しくない高音コーラスは既に健在であるが、楽曲は専らダンパ用であるからして、古き良き50年代の範疇、映画「アメリカン グラフィティ」に収録されていても不自然は無い作品である。中には、大きくアレンジを変奏、複雑化してマザーズのファーストアルバム「フリークアウト!」に取り入れられている楽曲もあるため、このアルバムは、ファーストが達成した音楽の検証に役立つ。ルーベン&ザ ジェッツという、他愛無いダンパ音楽が、如何様にマザーズが成した珍妙玄妙ロック、取り分けてサイケデリアの金字塔へと変態したか、をリスナーに聴かす為に、あえてザッパが発表したのがルーベン&~であるため、ザッパの自信推し量るべし。
ただ、ファーストとの関係は考えなくても、当然、このアルバム単独で十分楽しめる。後年のロックのように演奏技術の凄みだとかを前面に出さぬ、演奏が楽曲に従属する歌謡曲の伝統の中で、いまだ静かに、しかし確かに牙剥きながら揺籃睡眠するロックの赤子水子を、丹念に聴く事が出来る。それは結局、資本と大衆を安住の外には決して出さぬ危機意識のない歌謡曲あるいはポップスに収まりようもない、ブルースという嘆きと怒りの音楽を根底に持つロックンロールであるからして、権力や人を安心させないロックの誕生の必然を物語るザッパ&マザーズのしたたかな戦略であった。反権力闘争も結局は権力活性化と結託した同じ穴のムジナだというのは単なる言葉上の連想ゲームに過ぎない。ブルースという、言葉あらざる音楽は、音楽であるからして、それを奏する者聴く者にとって、独立的に反権力となる現実である。50年代のロック周辺音楽については、またしっかり考察したい。
なお、メモのため、昭和歌謡サイケ、という考え方を記憶までに。
ray collins :lead vocals
frank zappa :low grumbles, oo-wah and lead guitar
roy estrada :high weazlings, dwaedy-doop&electric bass
jimmy carl black and/or arthur dyer tripp Ⅲ :lewd pulsating rhythm
ian underwood or don preston :redundant piano triplets
motorhead sherwood :baritone sax &tambourine
bunk gardner & ian underwood :tenor and alto saxs
「blues magoos/psychedelic lollipop(1966) repuk1049」 2009年5月1日 頭痛
見なければよいのにテレヴィのニュースなぞつらつら見ていると、時に、航空自衛隊やレスキュー隊の候補生の選抜のための訓練、の模様が流される。半年ほど前に、航空自衛隊の新人訓練、つい先日に自衛隊から選抜された者らのレスキュー隊の訓練、がニュースの合い間の特集として放送された。訓練や試験というと聴こえはよいが、端的にそれは世界中の軍隊特有のしごきであり、せんべいをばりばり齧るたるんだお茶の間の衆目には耐え難い暴力映像であろう。例えば航空自衛隊の新人へのしごきでは、新人の中にいる一人の女性に焦点が当てられるのだが、新人らの部屋の布団が同一に整っていないのを理由に、先輩と称する国権を笠に着た犬どもが、部屋の新人の私物を全て野外に放り出して、犬どもが望む同一の有り様になるまで片付けと放り出しを繰り返したり、入室と敬礼と大声での号令を何度もやらす、といった胸糞悪い不条理の強制である。新人の女性は涙を堪えながら泣いたりして、すると新人の班長に、犬の一人が、あいつどうにかしろよ、みたいな醜く見下した表情で見やったりする。まったく、実際のところ、犬に対して失礼なほど、真性の人間の醜さの炸裂映像である。苛烈で即物的なしごき映像からスタジオに切り替わるも、小奇麗で非生活的なスタジオの空気に解消されようも無く、それでも好意的発言で場を和まそうとするニュースキャスターの苦しいコメント。
あるいは自衛隊から選抜されたレスキュー隊のしごきでは、直接的な肉体へのしごきもさることながら、新人らの脱いだ靴の紐が揃ってないことを理由に、連帯責任でまた肉体酷使が罰として与えられたりする。その間の、犬どもの怒鳴りや罵りは航空自衛隊と変わるところは無い。犬どもはいっそ無言で、しごかれたがっている保守的新人犬をしごけば、新人犬の忍耐力増強という犬どもの目的に叶うだろうに、罵詈雑言やお前のためにやってるみたいな事を浅知恵に任せて言うために、それが、権力の犬たる由縁である。
外敵侵入に対して専守防衛する自衛隊や災害現場でのレスキュー隊が任務を成し遂げるには権力への絶対服従と同一行動が必須であり、従って絶対服従と同一行動を叩き込むしごきは必要であり、しごきは暴力であるなどと騒ぎ立てるのは現場を知らぬリベラル小市民のきれいごとに過ぎぬといわれると確かにその通りである。
ただ、もしそうであるならば、小市民なりに、私たちは、権力に許されたしごきとそうしたしごきに盲従するしか能が無くそしてしごきを再生産する自衛隊やレスキュー隊の助けを、断固として拒否しなければならない。命がけのきれいごとを守らなければならない時が来るであろう。最早この概念に何の希望も抱けない民主主義、であるが、民主主義を守るため、私は、災害や事故で死にそうになっても、レスキュー隊の助けを拒まなければならないし、出来るだけ頑張るがいよいよとなれば従容として死を選ばなければならないのか。外敵侵入に際しては市民による統率無きゲリラ戦しかないだろう、ただ、核に対しては無力であるし、国民国家が私利私欲で乱立する現状況に対しては、やはり盲腸炎のように暴力汚物と共に痛みに耐えながら生きていかないといけないのか、悩ましい。国家権力による暴力を受け入れるか、市民個人らによる野放図な暴力を受け入れるか、の選択の前提を疑う議論も現在はあり、なんにしても退屈である。なんにしても民主主義は元来命がけのものである。私たちは、権力を笠に着て正義を行なおうとする軍隊や警察などという人種を絶対に信用してはならない。
現在のアメリカや戦前の日の本のように、貧困に耐えかねて入隊するといった事情が少ないにも関わらず、わざわざ、しごきといじめの現場である軍隊とその下部組織に入ろうとする、今に始まった事でもないのだろう、保守的な若い連中を軽蔑することから始めなければならない。
さて、ブルースマグースである。アメリカ。サイケデリックという単語をアルバムに使用した最初期のバンドと言われていることで時として一般のロック史に顔を出すバンドである。まだ10代の、年端も行かぬ者らの音は、ガレージというよりもサイケポップ的な、比較的おとなしめながらも、主としてキーボードを気弱に鳴らすことでサイケの音色に近づく。しかしながら捨て鉢でひねこびた攻撃的楽曲もあり、サイケデリアの根暗な北そ笑みの面目躍如もあり、油断は禁物である。退屈さを厭わぬ、いかにもサイケっぽい冗長なインプロもやってみる素直。取り立てて演奏が激しいとか野蛮だとか上手であるとかいう特徴は無く、凡百のバンドの一つかもしれないが、安易なフラワーに流される事なく、衆に恃まぬ、バンドという単位のみが奏でうる心優しい楽曲の素養には、英国の彼らの影響があるのもこの際致し方ない。英国の彼らとは、その内の一人が暗殺され、その彼に声も姿もそっくりなその彼の息子が日の本の車の宣伝に出たりしている叙勲バンドである。
ralph scala:keyboard
ronnie gilbert:bass
emil "peppy"thielhelm:rhythm guitar
dennis lapore:guitar
john finnegan:drums
「mutantes/mutantes(1969) bom22004」 2009年4月26日 旧寒
人々の中で生きていると、時として独り言をぶつぶつのたまっている人に出くわすものである。小生の出会った独り言人は、大きく分けて二つ。一つは純然たる独り言系で、その中でも、何かしらに対する罵詈雑言系(「糞ったれ!」「ああああ」「あいつムカつく」「絶対殺す」「何でワシが死んでアイツが生きとんや」(?)等々)と、己の精神中の出来事を延々と忠実に口にするプルースト-ジョイス-ベケット的なモダン文学系である。こうした例は公共交通機関や公園などによくいる。
しかし、二つ目の、対話型の独り言は、なかなか居るものではない。先週、行きつけの詰まらぬマクドナルドで、小生定番のダブルチーズバーガーセット(飲み物はコカコーラ)を貪っていたら、隣のおばさんが何やら大声でぶつくさ言いよる。携帯電話しているのかと、いまいましく思いながらふり見ると、電話せず、コーラだけをテーブルにおいて、ああ、独り言系の人である。そして、その取り留めの無い内容を聞くに、珍しくも対話型であった。あまりに取り留めの無い言葉たちなので小生にも、そして本人にも恐らく一切記憶に残らなかったが、どうもおばさんが一方的に喋っており、その喋り方は、二人称に対する構造を持ち、時に相槌までうっている。一度店を出たが、置き忘れたどぎついピンク色の帽子を取りに戻り、そして何者かと喋りながら街へ出たおばさん。
さて、ムタンチスである。ブラジル産サイケ。本作は彼らのセカンドにあたる。60年代末、カエターノ・ベローゾやジルベルト・ジルといった人物が中心であるブラジルのサイケデリア運動「トロピカリズモ」に参加していたロックバンドである。プログレッシブロックは英国のみならず、北欧、東欧、アジアなどにご当地プログレが思い起こされるが、プログレほどではないにしてもサイケデリアでもご当地サイケがあるだろう。ご当地ものには、米英と違ってブルースの模倣、消化、脱却といった地道なロック弁証法に鍛えられた生え抜きの経験がなく、そうした米英の経験をパッケージで輸入したのがロック受容の歴史とならざるをえないところがあるとしても、そのことがご当地におけるロックの未熟を説明するものではない。そいしたことは関係ないのがロックのインターナショナルなところであるが、しかし、そうすると、ロック受容が、ブルーノート即ち音階との格闘という音楽の核との桎梏を逃れて、ポップス的なアレンジ感覚あるいはファッション性となりがちになるだろう。そうしたアレンジ感覚の広がりに助力したのがサイケデリアであり、もっと言えばサージェントペパーズ的サイケデリアの功罪であった、とここに断罪したい。英国の植民地主義帝国主義のなれの果てがサイケデリア伝播にも影響を及ぼした、とまで言う気は無い。
このムタンチスでも、名前の通り(=ミュータント)、サージェントペパーズ的サイケデリアのアレンジ感覚と、南米大陸の豊かな音楽文化や新興ジャズのボッサ・ノーヴァとが奇妙にも自然に馴染み、共生している。散りばめられた奔放な不協和音をも辞さぬ創意のフラワー感が、ボッサ調の憂鬱の五月雨にうたれ、熱帯地方の束の間の清涼を聞かす。
ただ、こうした輸出入可能だった貿易サイケとは別の、まさにそのご当地の事情から生まれた土着のサイケデリアはもっと各国に無いものか、と小生欲する。土着のサイケは、各国文化の深化もさることながら、自ずと米国ブルースを突き抜けて、足を踏み入れた事の無い無双夢想のアフリカの土俗土足の荒くれに至るだろう。少なくとも北米大陸には、ザッパ&マザーズ、ドン・ヴァン・ブリート、ブライアン・ウイルソン、ドクター・ジョン、ヴァン・ダイク・パークスなどが、ムーブメントを拒否する猛々しくも土着のサイケデリアを孤立した人の共有されない夢のように発奮させていたし、英国にはソフトマシーンが、そして日の本ではスパイダースが「フリフリ’66」だけでも日の本独自のサイケデリアの可能性を示したのである。
私たちの土着が即ち音楽であることを示す、「サイケデリアの鎖国宣言」を成しうるサイケデリアを欲する。(なぜならば、小生は、米国の独立宣言に否定的であるからである。詳細はまた今度。)
リタ・リー
アルナルド・バチスタ
セルジオ・ヂアス・バチスタ
野点放浪記第一回観桜茶会
ついに野点放浪記始動。その第一回の野点茶会「観桜茶会」の茶会記が左にあるので今すぐクリック!動画にてお楽しみいただけます。音声付きですので音も出して!
「frank zappa/lumpy gravy(1968) rykodisc rcd10504」 2009年4月18日 忘冬
不況の煽りを受けて第二、第三金曜日が休業となったため、己の内観を深める契機にすべきだがそうは問屋卸さず、暁を見届けての春眠三昧。おかげで余計頭がすっきりしないので無駄に長い朝寝昼寝夕寝と相成る愚行ぶりに辟易しながらも、三昧の合い間に読むは、井伏鱒二の他愛無くも滲みる随筆「点滴・釣鐘の音」、そして道元禅師の「正法眼蔵」であり、それなりの充実を図ろうとする性急なさもしさが、禅師の鉈のような容赦ない漢文とともに暴発する仕儀。岩波書店版日本古典文学体系のものを読み始めたのだが、前座として所収されている編集者の解説読むに、中世日本の無常観の断絶、を指摘、証明しようとしていたのが気にかかった。要約すると、特に徒然草や方丈記において、冒頭から中盤までは、どちらかというと意匠としての無常観、ファッションとしての無常観であったのが、後半では内省的な、いわゆる本気の、カッコつきでない無常観に変遷した、と言いたいようなのである。前者の無常観は、現世の、たとえば戦乱や旱魃、飢饉、大風や武家の台頭貴族の没落などといった現象を目の当たりにしての率直な感想程度だったのが、後者の無常観は己と世の原理としての無常、即ち中世仏教の影響が色濃くなり、その中でも、「正法眼蔵」の影響は多大だ、と言うようなのである。通説どおりの、いわゆる、日の本固有のへなへな多神教文化に対する、外来としての仏教あるいは儒教原理の対立、による日本思想史の変遷、という図式に対する批評力は小生持ち合わせていないので何とも言えぬが、そう云われると、中世仏教と無常文学との関係のみならず、本居宣長の漢心批判に代表される国学勃興、とんで第二次大戦前後の日蓮門徒の国粋的動き(血盟団、あるいは関東軍の石原莞爾)やロマン的動き(宮沢賢治のイーハトーヴ幻想)、が教科書的に思い出されるのは小生だけではないはずである。
それはさておくとして、言語表現のひとつに比喩、なるものがあるがあるが、「正法眼蔵」や新古今和歌集なぞ読むと、小生にとっての比喩表現がいかに西洋の、たとえばロシアフォルマリズムやチェコ構造美学に毒されていたかが分かる。こうした理論では比喩は実際に対する過度な強調や異化によって印象を強める事で物語移入を促すとされている。対して、老荘でもそうなのだろうが正法眼蔵に出てくる水や月といった物象は異化ではない、ありのままの表裏無い相なのだろう(原理、というと違う気がするし、未熟な小生にはまだ何ともいえぬ。)。あるいは新古今では、枕詞掛言葉縁語の重なりによって、歌の対象を強調するのでなく、むしろ淡く淡く印象を消し去ろうとする彷徨、といった主張の論文を、うろ覚えだが、「国文学 解釈と鑑賞」という雑誌で読んだ気がする。
それはそうと、正法眼蔵、煙に巻かれながらもビシビシ鞭打たれるような面持ちで読まざるをえぬ。禅系の書物は無門関でも臨済録でも以心伝心なのか暴力的だなあという素朴な感想持っていたが、道元には、文学的表現を拒否すべしと言いながらも言葉への執拗がある。なかでも山水経などは、既にブランショ的夜でありながらもしっかり現実、であり、小生励まされます。現成公按の一説をここに写経。
人の悟りをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も爾(弓偏あり)天も、くさの露にやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
なお、意匠的無常から内省的無常へ、という指摘であったが、正直なところ、その差異の明確は非常に難しいのではなかろうか。その差異は在ると小生も考えるが、説明は、何とも困難である。翻って、サイケデリアはどうだろう。これまで、いうなればファッション的サイケデリアを否定し本気のサイケデリアを顕彰してきたが、実のところ、この王道無きロック史では、その論拠をいっこうに説明できていない忸怩がある。また、実際のところ、ファッションが駄目で本気がよい、と言える根拠は無い。ただ、21世紀になって出てきた、ラブサイケデリコ、などというバンドの音を聴くと、小生の鼓膜が般若のごとく怒りと悲しみの形相に歪むのは事実だ。真正のサイケデリアは野蛮であるとか凶暴であるとか性急であるとか獰猛であるとか、形容詞を無責任に連発してその差異を煽るだけ煽るだけで、決定的なことは何一つ言えていないことは賢明なる読者諸氏には承知のうえ、見限る方もおられよう。音楽を単なる現象的結果と思えば、ドラムとベースとギターの配合の妙を技術的に記述する事でサイケデリアを記述できるかも知れぬが、小生、そうはさせじ、と考える。悲しみを、脳のホルモンのある種の電流で説明しようとする頭の悪い脳神経学者の愚を思えばこそ。道元も、薪と灰は関係ない、薪が燃えて灰になるというは嘘だと喝するように、電流と悲しみとの関係は如何に再現性があろうともそれは科学的盲従に過ぎず、再現性は関係性を保証する絶対ではありえない。科学的再現性などは人間の寿命内の有限回数に過ぎず、従って関係の絶対性を保証できない。科学的再現性とは、そうした脆弱な関係性が、せいぜい統計学的推測上の正しさ、にすり替えられたレトリックに過ぎないのだから。聞けば分かる、と言えばそれまでであるので、勉強します。
このほど、久方ぶりに、日の本が生んだロック史上最高峰のバンド(ここではあえて名は出さぬ。いずれがっぷり四つに組んで論ずるゆえ。2007年解散?)のアルバムを聞いたが、至高の音楽であるにも拘らず、その溢れんばかりにエンターテイメント性のせいなのか、その楽曲の多くが小生の欲するサイケデリアとはどこか違ってファッションに過ぎぬサイケデリアに留まっている節があり、小生のささくれ立った心が今一歩のところで癒されず残念に思えたので、こうした事を書いた次第。はたして日の本に誠のサイケデリアが生まれるのか?
さて、ランピーグレイピーである。サードのwe're only in~の姉妹作品である。ザッパ個人名義の最初のアルバムであり、ロック色は薄く、ザッパの現代音楽趣味が固執したスタジオワークごりごりミュージックコンクレートサイケデリア作品である。お楽しみあれ。
FRANK ZAPPA
THE ABNUCEALS EMUUKHA ELECTRIC SYMPHONY ORCHESTRA & CHORUS
「the electric prunes/lost dreams(1968?) bmr022」 2009年4月12日 散春
所蔵している書籍の記憶が遠くなりがちなのは、全ての本を収蔵、総覧可能な本棚がいまだ無く、そこいらに無造作に積み重ねては奥の本が見えない悪状況のためとも言えず、自身の怠慢による、自身の記憶が日々曖昧に霞んでいるためなのだろうと思い、老いと呆けへの微かな恐れをちらとでも感ずる。そうした由でうっかり、既に所持しているのにもう一冊、なぜか新しい気持ちで購入してしまった本としては、ベルクソンの「思想と動くもの」、そして幸田露伴の「幻談・観画談」であった。特に後者に関しては、忘失の彼方から定まり難く迷い現れる感がその風情に合っており、よろしいのであるが、そうはいっても本日、読み終わったので書庫にこの露伴晩年の傑作を納めようとしたら、既に同じ岩波文庫のものが鎮座しており、ぎょっとせざるを得なかった。
さて、エレクトリック・プルーンズである。プルーンというのはそういえばしきりにザッパの歌詞に、恐らくイヤラシイ意味合いで出てくるが、どこかアメリカの、サイケデリアの風土に根差した風物なのだろう。そして何よりもエレクトリックであるからして、電気的であり、且つセクシャルである両義性を含む事は確実であろう。ガレージ・サイケデリアの徒花である。本CDは彼らのLPを纏めたコンプリートである。ドン・ウオーラー氏の解説も、当時としてはありがちながら滋味あってサイケデリア人脈の妙を綴っておるのでそれを読み、そして音を聴くだけでよいのであるが、ご閑読の段。
結論としては、全曲、よい。ダルく不敵なリズムと分明ままならぬまま、独自の素人くさい実験ファズ音が利いたギターと変態じみた野蛮な声どもが噛み付いてくるし、演奏技術を振り捨ててまで生き急いでいる性急さなのであるから、正真正銘のガレージの国民、否、移民である。the 13th floor elevatorsやブルーチアー、ブルースマグースなどと並んで、ガレージ、そしてサイケデリアを解するのに最も適したバンドの一つである。
昨今、NHKで、一押しのバンドとして、黒猫チェリーズなるバンドを聴いた。エッジの利いた裏のリズムを攻撃的にまとめる技量は相当高く、邪気をがなる凶暴性の音楽であり、中々に聴かすものであった。しかしながらその音楽性は、意識的なのかサイケデリアの地獄を排除しているのか知らぬのか、パンク由縁の、パンカビリーやサイコビリーなどと90年代以降創出された鋭さと技巧なのである。悪くは無いので今一度聴きたいものであるが、小生の、鬱屈に荒れに荒れた心と相伴してくれる音楽は、火事場に石臼を担ぎ出して大八車で暴走する不器用な暴走あるいは凶暴な、ささくれ立った形振り構わぬガレージの原初である。サイケデリアの殺意であり、パンクやメタルの小器用ではなかった。
サイケデリアを現在に蘇らせるに際して懐古趣味から脱するのは容易ではないが、ガレージの、ロックの坩堝の怒りに思い致せば可能であると、一縷の望みつないで、エレクトリック・プルーンズの殺伐には、小生、心より癒されます。
「最初に抜けるのは誰だ?」などと言い争った挙句、あっ気なく彼らは解散した。
james lowe-vocals/autoharp/rhythm guitar/tambourine/harmonica
weasel-vocals/rhythm guitar
ken williams-lead guitar/effects
mark tulin-bass guitar/piano/organ/marimba
mike gannon-rhythm guitar/vocals(track 12&22)
preston ritter-drums
quint-drums/percussion(track 1,11,12,23)
「うしろゆびさされ組/うしろゆびさされ組ベスト(1985~1987) pcca-01615」 2009年4月5日 桜春
洋式便所の便座を下ろしたまま排尿することは男にとってささやかな挑戦であろう。わずかに入口が狭くなるだけではあるが粗相すればそれなりに被害は甚大であるからして、こうした挑戦に賭ける事からでも何かしらあてどない人生の飛躍を遂げたいものである。
本日はNHK日曜美術館の新編成スタートの日。壇ふみの後継が和久井映見にならなかった不満を押し殺しつつ、姜氏の手並み拝見と相成った。結果、ゲストの村上隆の、西洋近代論から一歩も出ぬ詰まらぬ発言はどうでもよいとして、まだ馴れぬながらも持ち前の小声で説得力を番組に染み渡らせていた。今後に期待が持てよう。女性NHKキャスターがお約束のように、画家の青年期までの孤独な生涯、という定形から画風の解説をゲストに求める陳腐も、もう何も云うまい。ただ、スタートから蘇我蕭白を取り上げるとは、過去に取り上げたテーマでもあるが、やはり見る者を相当に本気にさせずにはおかぬ。しかも、生涯初めての、野点茶会を控えた茶人にとっては、奮起されることこの上ない。ついに、野点放浪記が始まりました。その第一席「花見茶会」の模様、後日発表したいので、乞うご期待!
さて、うしろゆびさされ組である。おニャン子クラブの音楽性は50年代の前ロック的な、プレスリーがいるかいないかのいわゆるアメリカオールディーズ楽曲に、秋元歌詞が乗っていたし、ウインクの音楽性はクラフトワーク、YMOの経験も生きているユーロビート・テクノ音楽を基調としていた。その間に当たるうしろゆびさされ組は、ロックに近いポップスであるだろうとの想像に難くない。おニャン子でも歌唱力があってスピンアウトしたデュオの彼女らの楽曲は、例えば代表曲「うしろゆびさされ組」や「渚の『・・・』」に聴かれる只ならぬ性急さによって、ガレージサイケの性急さ、あるいはガレージサイケの模倣あるいはその模倣不可能性の下に不敵に居続けたパンクまでの歴史に通ずるだろう。一瞬ではあるが土俗的に迫るドラムがその証拠だ。うしろゆびさされ組という、世間から弾かれた諸相に生きようとする気概がそのままバンド名になった彼女らの音楽は、アイドルといえども反抗のロック史に燦然と輝く。ハイスクール奇面組の主題歌でもあった「うしろゆびさされ組」の歌詞では、ロマン的狂人から逸脱した「変態」(無論、奇面組リーダー、一堂零のこと)への愛を歌っており、ザッパ的なるものとしてのサイケデリアを発端とする「変態」の、系譜ならざる点在する系譜が、80年代日本アイドル界で突発したのである。勿論、サイケデリアの殺人的変態と、文字通り戯画的な奇面組のハチャメチャな変態とは大いにことなるが、変態どうしに共通点などあるはずがない、途方も無く異なるから変態なのである。前述した性急さは、「うしろゆびさされ組」の歌詞にもあるように、趣味が悪いねとまわりの友達は言うけど魅かれてしまうその悪趣味の対象と合致する。異常で野蛮な性急さと悪趣味が合致したとき、米国のDEVOあるいは80年代英国のモダンポップをも彷彿させる、と言い添えたい。秋元康らの80年代アイドル歌謡のある種天上的トロピカル世界観については、いずれ課題としたい。
