ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
「pere ubu/the modern dance(1978) bom812」 2009年7月5日 私信
磁器など侘びに適わぬと敵意剥き出しだったのが、細君が買ってきた煎茶道の本を、「こげなものを・・・」といった態度でぺらぺら斜め読みするに、あっさり煎茶道具にぞっこん、抹茶を本道とするのは変わらぬとしても、煎茶によく使われる白磁の小さき茶碗にも色目を使い出す物欲の権化の小生である。そうなると、実は兼ねてより、磁器の中では例外的に欲していた古伊万里、初期伊万里の、ぽってり侘びて可愛らしい蕎麦猪口への所望が激しくなるこの頃です。あの色褪せた、儚げに遠くに後ずさるような、慎ましい染付けの日の本の草花文がたまらぬ。
ペル・ユビュである。アメリカ、時は1978。プログレッシブが高踏的として批判され、産業サイケデリアがようやく擬似ピースフル連帯としてその欺瞞が喝破されながらも、ガレージの凶暴が擬古典主義的ビートポップあるいはパンクに挿げ替えられた形が不幸な事に先鋭的だと持て囃されもした時代でもあるが、そのようにガレージサイケの率直かつ滑稽な凶暴が文化として文脈化され、一方で旧い世代の文化を共有することの不可能性つまり世代間断裂に立脚した反抗であるパンク~ニューウエーヴのムーヴメントであってみれば、パンクが如何に下劣な叫びを上げようとも、ガレージサイケの真骨頂たる似非土着的野蛮に至らず、擬古典主義的ビートポップに収斂されるのも致し方なかった。(似非土着的野蛮というのは、アメリカ大陸における白人の土着性という矛盾から発せられたキチガイの謂いであるが、詳細はこのプロ愚を遡って読んでいただければ理解していただけると思う。)
しかしながら、かような大勢にあって、否、かような大勢であるからこそ、何度も言うが点在する系譜はムーブメントを拒絶する突発を、孤立して、独自に、しかし着実に、相続も遺伝も拒否して、生まれてしまうのであるし、そうした者らが星座無き点在する系譜として、継続を拒否しながら、各時代に捨て置かれた地雷のようにして居るのである。ペル・ユビュもそうした音楽史的地雷の一つであった。ここでその地雷を分かる限り列挙、紹介しても良いが、そうすると地雷の地雷たる意味がなくなるので、その都度各自で地雷を踏んでしまうように、折に触れて紹介したい。既に本プロ愚で挙げたのであれば、無論ザッパ&マザーズ、ローリング・ストーンズ、ビーチボーイズ、シャッグズ、the 13th floor elevators、ブルースマグーズが相当するがまだまだ居ますのでご安心を。
そしてペル・ユビュは、かような大勢の当時、やはりパンク的文脈で聴かれたかもしれないが、その音楽性に注意深く耳を澄ますと、点在系譜の一つであったといえる。しかも、見かけ上サイケデリア運動が終わった後での事ゆえ、その点在性は否応無く水際立つ。あの時代にあって、ペル・ユビュは、アメリカというものを執拗に考えていた。考えていた音を臆面も無く出していた。
それは、「アメリカ民族」、という概念ではなかろうか、と、ここに小生が初めて提唱したい。小生のホームページに奇妙なべん図があるのをご存知だろうか。そこに、アメリカ音楽の点在する系譜、を含む形で、王道無きロック史と、そしてアメリカ民族の誕生、が記されている。そう、アメリカ音楽の点在する系譜、を本質的に論ずるには、大局として、アメリカ民族の誕生、を見ていなければならないのである。
これは精密な文献調査を要する結構な大著になりそうでいまだ着手ならないが、漠然とした目論見としては、日本人である小生が、まことに勝手ながら、アメリカ民族というのを定立しその誕生を宣言する事である。アメリカ建国より1世紀以上経った今日、いまだに多民族国家を自己同一性に置いているアメリカであるが、まず、多民族性の特権化特徴化というのを批判したい。そもそも、人間は連綿たる命のリレー過程における、途方も無い混血の結果である。この日の本とてアイヌ民族や沖縄民族を含めた多民族国家である。すべての国家は多民族国家であり、あい異なる文化文明との習合により結果している。そうした観点からすれば、もう建国から幾年月も経過したアメリカであるし、今更多民族国家を云うのはカマトトぶる未熟と云えはしないか、ということである。だいたい、今日、コミュニケーション論の一貫で云われがちな多様性や他者性といった概念が眉唾ものであり、そこで云われる多様性や他者性などは全く不徹底で欺瞞的であることを証明したい。
多民族性を多様性の根拠とするのに欺瞞がある。多民族性は政治や文化の多様性の根拠とはなりえない。多民族とは言い換えれば複数民族であり、複数民族は無限ではなく有限数民族に過ぎない。従って単一とまではいかないにしても結局まとまった可能性の許容範囲内に過ぎないのであるからして、そこから他者性や多様性をいうのはおこがましいだろう。
一方で、イスパニックやアラブやチャイニーズやアングロサクソン等といった他種の文化を起源に持つとはいいながら、今日、既にアメリカ、としてまとめられてしまう程度の文化の均質化がアメリカ国内で進んでいるのではないか、という思いもある。そして、外国に、アメリカ文明のみならずアメリカ文化なるものも既に発信しているのではなかろうか。無論こうした事が本当に言えるかどうか、今後の小生の調査を待たれたい。
ペル・ユビュ初期の本作は、プレーリーの荒野で陽炎の如く立ち昇る白人キチガイの憩いといったものではなく、ジャケットにもあるように、インダストリアル・プリミティヴとも云うべき、都市工場地帯に寄生するプロレタリアートの、汗でぐっしょり濡れた背中から立ち昇る土着的怨念といった、まったく新しい、そしてこの時代に相応しいレジスタンスであった。実にいいジャケットデザインであり、モダーン・ダンスとは言い得て妙である。ペル・ユビュこそはアメリカの、ロックのモダーンといえるバンドの一つである。そして、多民族性を多様性だと言い張る驕慢から遠い処で、彼らは、白人と原住民と黒人らの織り重なる習合と引き裂かれた断絶をありのままに受け止めたサイケデリア音楽を無茶苦茶に無駄に遂行する。
力士並みの巨漢デビッド・トーマスがどこかへなへなの情けない声で怒りを吐き散らすが、その気の抜けようが、点在する系譜地雷の火薬成分の必須であるサイケデリアのピースフルな凶暴を思わす。そして神経症的パルス音ノイズ音や、一聴では親しみやすげな、生き急ぐリズム隊も、決して土着に安泰できぬプロレタリアートの都市部への土着といった引き裂かれをさらに不安にし、これはつまり、サイケデリアの本然(=似非土着的野蛮)と合致するのである。デビッド・トーマスはペル・ユビュ解散後、デビッド・トーマス&トゥー・ペイル・ボーイズを結成、現在でもディープにサイケデリア・アメリカーナに沈潜する試みを続行している。耳が離せぬ最重要人物の一人である。
tom herman:ギター、ベース
scott krauss:ドラムス
tony maimone:ギター?、ベース?
allen ravenstine:ノイズ、キーボード
david thomas:ボーカル、ノイズ
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「the soft machine/the soft machine volumes one and two (1968-1969) cdwikd920」 2009年6月27日 マイケル忌
新しいものを発見する気力や眼力がないというよりも、新しいものの創出による既成権力の破壊を恐れる既成権力の報復を恐れる卑屈な臆病が蔓延しているのだろうか、あるいはそうした卑屈な臆病を自覚出来ぬほどの無知無能が常態となっているのだろうか、かつて承認されたものが改めて追認され持て囃される閉塞的保守的昨今の文化状況である。しかるに、猫も杓子もパチンコ屋もコンビニも、村上春樹、エヴァンゲリオン、美空ひばりである。まして小生などは、はなから美空ひばりを承認、否、好みに思っていなかった。
先週、美空ひばり没後20周年ということでNHKで特集歌番組をやっていた。日の本の歌謡曲を全的に否定するつもりはないし、小生とて田端義夫や村田秀雄、ピンカラ兄弟、内山田洋とクールファイブ、東京ロマンチカ、小椋圭や山口百恵やウィンクを好むものである。しかしながら日本歌謡曲が聴き手の音楽認識の限界を変換、批判しうるような積極的音楽であったことは、上記の彼らを除いてほとんど皆無であろう。その皆無さの代表が美空ひばりという絶望的状況であると言えるだろう。聴き手の趣味範囲を予め措定しその範囲内でやって喜ばれる戦後エンターテイメントの類稀な鼻声の拡張に過ぎない。
ニュースで、美空ひばりの墓参りに訪れたファンの中年女性たちの集いを見たが、中には例外がいるかもしれないと慎重に留保する態度をとったところで状況は変わらないだろうから有体に書くとするならば、彼女らのような美空ひばりファンが、例えば日本GSの本質を聞き取ってその当時きちんとGSを擁護したとは考え難いし、ましてや彼女らがソフトマシーンを、自分を揺るがす体験として聞き取ったとは考え難い。小椋圭が美空ひばりに提供した楽曲「愛燦燦」を、件のNHKの歌番組で小椋圭自身が歌ってくれたが、美空ひばりよりも格段に良い。心におずおずと滲みました。美空ひばりよりも小椋圭が如何に素晴らしい歌手か、についてはまた詳述したい。
ソフト・マシーンである。英国。このファーストとセカンドは、一聴して腑に落ちる音ではなかった。何をやろうとして何になっているのか分かるバンドではなかった。一体何なのだろう。いまだにさっぱり分からないのであるが、少なくとも英国のあの叙勲バンドに端を発した英国の産業サイケに全くサイケデリアの本分を聞くことが出来ない本プロ愚の論旨にとって、英国産でありながらサイケデリアを感得できる数少ないバンドの一つであると言える。しかしそう言った途端、サイケデリアからも様式を嗅ぎ取って速やかに前衛ジャズロック的試みへと流れていくだろう、そうしたバンドである。
まず彼らの成したサイケデリアであるが、決して骨太ではないにしてもその線の細さや弱弱しさや巧妙さが攻撃的でもありうることを、威圧的でない、しかし川の流れが決して単調ではないように複雑巧緻なリズムで納得させるだろう。至って物寂しいが、それが英国あるいはアイリッシュな民俗に許容される雰囲気作りを拒絶する、どこまでも現代的な病的さである。ザッパの場合、凶暴さの背後にどこか低調な衰弱を思わすが、ソフト・マシーンの場合は弱弱しさの切っ先に攻撃性を尖らす、そしてその攻撃性はどこまでも儚いのが、サイケデリアの一様相とも言えるだろう。
ジャズロックについて考えなければならないが、これがよく分からぬ。ジャズ的素養をふんだんに取り入れたインスト主体のロックといってしまえばそれまでだが、そうはいってもジャズロックなるものをいわゆるジャズと聞き間違う事は少ないだろう、ジャズとジャズロックの間には、当然ながら途方もない飛躍がある、と指摘するに留めたい。
ただ、このファーストとセカンドは、ソフトマシーン後期の、おさまりどころを得たようなジャズロック目的のアルバムとは異なる。あまりに儚かったがゆえに彼ら独自のサイケデリアの終りからも流去した彼らは、プログレッシブにもハードにも、ジャズロックにもおさまれぬ無人の荒野で、萩の原のように咲き乱れたのであった。
そう、ソフトマシーンは、ロック史における点在する系譜に含まれうる、突拍子も無い点であった。あるいは、後にカンタベリー一派と括られるにしてもそのカンタベリー~レコメンディッド・レーベルといった英国の日陰者らが、デリダ風に言うと散種された点在する系譜になるのであろう。いかにもインテリジェンスの利いた音作りに聞こえてしまいそこが馴染めぬ御仁があられるかもしれぬが、知性や理念ほど凶暴なものはなく即ちロックに相応しいことを示してもいるのがソフトマシーンである。
マイケル・ラトリッジ:オルガニスト(?)
ロバート・ワイアット:ドラムス、ボーカル
ケビン・エアーズ:リード ギター
ヒュー・ホッパー:ベース
「the mothers of invention/weasels ripped my flesh(1970) rcd10510」 2009年6月21日 空梅雨
盆灯篭が恋しくなる季節がやってまいりました。小生は盆灯篭収集家としても功名したいと思い、今年入手すべき盆灯篭は、石灯籠のタイプでいうならば雪見灯篭の形をしたタイプにする所存です。今宵は枕草子でも読みふけりたいので手短に。
60年代マザーズ オブ インヴェンションのライブあるいはスタジオ作品を巧みにつなげて編集した本作は、往時のマザーズの、アメリカンサイケデリアの素地に裏打ちされた、趣味が悪いというよりかは趣味の良さを拒絶する貴重なアクの強さを満喫できる。ナイス邦題は「いたち野郎」。ザッパの場合、特に本職のコンテンポラリーミュージックのような厳密な理論に基づくものではない、聴きこむにつけ身に付いたのであろう現代音楽風の音の運びが違和無くフリージャズやブルースと冥合する猛々しさがある。
2曲目のブルースの、フィドルを思わせるが実はエレクトリック・バイオリンによるささくれ立った音色が、聴くだけで松脂の噎せる臭いに喉がからからにやられそうになるほど、白人土着のブルースキチガイとなっていて聴き処である。男たちは相変わらず変態声を呻いたり喚いたり笑ったりするとめどなさ。そして気の抜けたような、暢気なインストを挟んだりする芸達者でもある。と思いきやサービスを放擲して、フリーインプロヴィゼーションの本気の怒りへと猪突する獰猛でもあるから手がつけられない。地獄の底でしか救われぬ連中である。
こうしたすさんだ音を聴く事でしか癒されぬ、あるいは癒しが違うなら落ち着かぬ性分の小生にとって、この音楽は鎮静剤か睡眠薬の役割を果たす。同好の士も多かろう。アルバム最後、長い長いノイズが待っている。そういえば、20年前ぐらいから一部流行っていたのだろうか、灰野敬二やメルツバウやアルケミーレコードなどのノイズ音楽の最近の動きはどうなのだろうか。このアルバムのザッパの肖像写真が一番かっこよい。関係ないが、夢野久作の父の杉山茂丸(久作以上に相当奇怪な人物である。各自調べられたし)は暢気倶楽部という集まりを持っていた・・・
frank zappa :lead guitar and vocal
ian underwood :alto sax
bunk gardner :tenor sax
motorhead sherwood :baritone sax and snorks
buzz gardner :trumpet and flugel horn
roy estrada :bass and vocal
jimmy carl black :drums
art tripp :drums
don preston :piano organ and electric effects
ray collins :vocal
don sugar cane harris :electric violin and vocal
lowell george :rhythm guitar and vocal
「the rolling stones/their satanic majestiers request(1967) abkco8823002」 2009年6月14日 紫陽花忌
6月8日で、アキハバラ無差別殺傷事件から一年たったようだ。このプロ愚を始めた日にちが6月8日なので、関連した動きについて物申す。
おとつい、NHKで、50代とおぼしき劇作家の男性が、20~30代の劇団員を指導して、アキバ事件と関わろう、アキバ事件を理解しようとする演劇を催しているのを取材していた。この劇作家は、事件を起こした男と同年代の者らを演劇を通じて指導しながら、個々の団員が現実に抱える問題(ふれあいとかコミュニケーションとか)とやらをもどこかに導こうとしていた。小生、あきれ返り、またしても憤激しました。
そもそもその劇作家がやろうとする演劇は、既に権力=大衆から承認された「人間」や「舞台」や「世界」といった概念を再認した様式であり、一方、そのような承認から最も遠い処に居た犯人=彼であるから、そうした「表現」であの事件を「理解」しようというのが、甚だしい勘違いである。また、劇団員は既に承認された組織でありコミュニケーションが安泰である連中であるから、彼のやり場の無い絶対的孤独とは関係が持てないだろう。劇団員が「彼」を「表現」するのは不可能であるばかりか欺瞞である。何かしたいのであれば、まずそうした認識が必要であり、そうした認識があるならば、演劇などという旧態依然の形式は採れないはずだ。
また、劇作家がアキバ事件を念頭に置いた演劇を団員にやらすことで団員の社会的負の部分を救おうというおこがましさにビックリである。団員たちは救われたいのであれば、まず、指導者の地位で人に指図するこの劇作家を倒す、追放する、あるいは無視することから始めなければならない、と団員に言いたい。あのような「表現」で事件を「理解」しようとする指導者=劇作家の欺瞞、現代的なメッセージを送ろうとする卑しさを攻撃することを優先すべきである。指揮者無きオーケストラを幻視せよ。
しかし団員らはそのように蜂起することなかった。予め設えられた舞台の上で、既に承認された現代的メッセージなるものでしかないメイド服着て踊りまわり、涙流しながら指導者=劇作家にこびへつらってあくまでも劇を通しての自分探しに夢中という醜悪を見せつけた。団塊ジュニアらの奴隷根性、ただの無知不勉強による保守性はどこまでもおぞましく絶望的である。
ローリング・ストーンズのサタニック・マジェスターズは、ビーチ・ボーイズのペット・サウンズ、マザーズのwe're only in it for the moneyに匹敵するアルバムであり、サイケデリアの最重要アルバムである。ロック史一般において本作は、時のサイケ流行におもねったストーンズの迷いであるとかサイケデリアアルバムとしても要領を得ぬ駄作であるとかの否定的評価が多いと思われるが、小生は断じてそうは思わなかった。このアルバムを聴かずしてサイケデリアは語れないが、逆に、例えば英国の叙勲バンドのサージェント・・・などはサイケデリアを聴くに当たって全く不要といってもよい。たとえ、サタニック・マジェスターズが、創造力や構成力からあくまでもロック的立場から決別したためにサージェント・・・に触発されてサタニック・マジェスターズを創ったとしても。否、ローリング・ストーンズは、いわゆる創造力や構成力、即ち珍奇な手法を思いついてその思いつきに基づいて創作したり他分野と思われる手法を自分野に取り入れることで珍奇を衒うといった、思いつき→行動(創作)、といった図式を拒絶するバンドであるので、サージェント・・・に触発される、といった事は見掛けの説明に過ぎず、しかしそうした影響とも関係なく才能が独創した、といえる創造神話からも遠い有り様、としか言い様の無い、土に草が生えるように肉を鍛錬した愚直なのである。そう、鍛錬の結果ですらない捨て鉢である。そもそもローリング・ストーンズほど、英国においては、土臭く土俗しているバンドは無い。対してクリームのブルースロックなどは全く鼻持ちならないが、クリーム批判はまたいずれする。
繰り返しになるが、種々思い付く面白げな音を、思いついて、構成して一つの楽曲にするのではなく、兎も角音楽の中で専ら音楽的に音楽を鍛錬した不様の肉と土の区別がつかなくなった処にある彼らの音楽から、すさんだ不況和音や、小さい音やら、叫びやらノリの悪いリズムが世界のように萌え出てしまったのがサタニック・マジェスターズであり、これはストーンズの音楽の本質と一致するからして彼らの経歴の迷いの産物ではない。サイケデリアのあるべき低調なる生活態度から、土臭い欠伸が絶叫でもあって、どこまでもひねこびた怒りと安らぎを野生するサタニック・マジェスターズ。繰り替えすが演奏は、特にチャーリー・ワッツのドラムは致命的にノリが悪いが、その悪さが殺伐を生み、倦み、呆れ果てたサイケデリアの白人キチガイ的土俗を構築する。物凄いリズムを生む訳でもなく誰もが好むメロディを生むわけではないが、力任せというほど力も無いチンピラ風情が、木とか弦とかをひたすら何かしているだけで、筋の通った、あるいは筋しか通っていない単調を押し通すのがストーンズであった。文章にたとえると分かりやすいかもしれないが、このサタニック・マジェスターズは、繰り返しが多く何がしたいのか分かりづらい悪文であり、決して明瞭流麗な名文ではないのである。しかし、いつも土に起き伏ししている柱が通っているから悪文であっても音楽的不利にはならず圧倒的であり、小生をして聴かす。
浪漫や憧憬から逃げ果せる白人的土俗は欧州には無いだろう、アメリカーナである。そして、なぜローリング・ストーンズが英国なのか、なぜアメリカではないのか、がロックにおいて重要な謎であり事実である。音楽に国境は無い、などという認識はあまりに甘ったるい。これはロックが内包する厳然たる矛盾として、常にこの居心地の悪さを感じ続けることがストーンズを、ひいてはロックを聴くことに繋がるだろう。それがロックを聴く事の肝心である、あるいは英国特有の、ヤイバである。
以上、サタニック・マジェスターズになぞらえて、繰り返しの多いわりには要領を得ぬ悪文で綴ってまいりました。
ミック・ジャガー ボーカル
キース・リチャーズ ギター
ブライアン・ジョーンズ ギター
チャーリー・ワッツ ドラムス
ビル・ワイマン ベース
「leadbelly/leadbelly(1935) srcs6349」 2009年6月7日 走梅
夜分、近所の蝙蝠がチュッチュ鳴くのがうるさい。食料品の買い物のために車を走らすと、街のあちこちに浴衣姿の女性が。楚々としたあやめ柄などの日の本の凛とした浴衣の着こなしなどありようもなく、いずれも、昨今のモールがプッシュするビラビラした帯締めにけばけばしいプリント生地を、クロワッサンを十二面観音のごとく頭に盛り上げたような巻き髪茶髪の、傍目に疲れる化粧顔立ちの浜崎あゆみ的女性が着ている。そして成人式で紋付袴を着て市長が挨拶する壇上に上がって一升瓶片手に馬鹿声をだみ上げるジモヤン風情が着流しを威張りながら、そうした女性に侍る。おそらく稲荷さん(とうかさん)があるのだろうが、いつの間にか日の本の夏祭りの風景は、かような荒れた感じになってしまった。
何も考えたくないのでただ書くが、電車の中吊り広告、京都産業大学の准教授の女性が、環境経営なるものについて講演することを広告しているようだったが、その吊り広告の真下に、当の准教授の女性が乗客として居た。吊り広告の隅の顔写真と同じ、あるいはあまりに似ている女性が、真下にいたのであった。
何か特筆すべきことがあったように思うが、忘れた。
心の乱れままならず、明日、いや今日、丹波焼紀行を敢行する所存です。初の福知山線が楽しみである。
さて、レッドベリーである。この不世出のブルース・フォークシンガーは相当な極悪人だったようで、婦女暴行や喧嘩は常習、極め付きは殺人事件まで起こしている。その結果30年の懲役になったようだが、あまりの歌のうまさにテキサス州知事が惚れ込み6年あまりで出所している。今宵は丹波の事で頭が一杯、何も考えなくても良いブルースの簡素な原始に耳を委ねたい。ビロビロした十二弦ギター一つで、何とも色っぽくも野太い良い声でブルース。お休み・・・。
「frank zappa/chunga's revenge(1970) rcd10511」 2009年5月30日 怨春
さて、「チャンガの復讐」である。年代順では「鼬野郎」を先に紹介すべきであるが何となく。この頃になるとバンドとしてのマザーズは解散、次のジャズロック的な試みへの移行期間とも言われたりタートルズのフロー&エディをフロントに迎えたこともあってタートル・マザーズとの別名が与えられたりする時期であるがそうした演者の内情はこのアルバムにおいてどうでもよいだろう。実は、マザーズ解散~ホットラッツ楽団結成の間の、バンドメンバーが流動的だったこの時期こそが、ザッパ山脈において最もロック・バンド的な音を出しているという逆説が成り立っているのである。つまり、一般にザッパのワンマンと思われがちな彼の音楽史において、バンドメンバー各位が少なくとも持ち前の楽器に対しては独自の主導で以って平等かつ対等に発音する上で歯止めを利かしたり利かなくしたりするバンド音楽の粋が際立つ、まことに重要な時期である。これまでの、アンクルミートや鼬野郎までの、極彩色変態低迷サイケデリアを雑多な手法奏法編集法によって万華法華する試みから直接的には離れて、打ち水して、あくまでもロックのコードを、これまでのように壊す事無くその中で、バンド音楽を鍛錬しながら、ジャズもブルースも諸共に新しい音楽を生んでしまったのが、このアルバムである。アルバムではザッパ個人名義となっているが、確かにこれはザッパ個人の主権に留まらない、バンド音楽となっている。
ライナーノーツにもザッパのコメントがあるので転載。「バンドとしての基本的なことが、このグループには存在している。グループとしての精神があり、個々のメンバーが自分たちは凄い事をしている気分になっている。表現の自由が与えられている。マザーズ・オブ・インベンションでは自分だけが聴衆に喋りかけていたが、このバンドではフロー&エディを中心にグループ全体が聴衆とコンタクトしている。聴衆とのコミュニケーションに多様性があるし、芝居みたいなものだ。そして何よりもエインズレー・ダンバーが叩いているからリズムがロック的だ」
ところでその新しさとは、そう、アメリカにおける最初期の、へヴィメタルの誕生であった、とここに宣言したい。小生の知る限り誰も指摘しておらぬようだが、このチャンガの復讐こそは、アメリカによるアメリカ独自のへヴィメタルの始まりであった。既に前年、英国にてレッド・ツェッペリンが、突然変異のように形振り構わぬハードなリフを引っさげてメタルの生誕を打ち上げていた。その特異性については重大すぎるので後日に譲るが、ツェッペリンとはまた異なる方法で、ザッパは、メタルを発明したといえる。微分積分を、ニュートンとライプニッツがそれぞれ独自に構築したようなものであった。
英国ツェッペリンのメタルと米国ザッパのメタルの差異は、ザッパの側から説明すると、ザッパ的メタルは、これまで論じてきたアメリカーナ・サイケデリアを出自としてその延長にある如何ともしがたい獰猛が、自ずとハードな表現に集中した結果の形振り構わぬリフ頼り、に尽きると思われる。英国のみならず欧州には、米国のような非空間的な、雰囲気作りのプロデューサーにさえも噛み付きかねない恩知らずの獰猛サイケデリアの伝統がなかったためメタルがサイケデリアを出自としようが無く、そうした意味でツェッペリンのハード、あるいはへヴィは容易には説明つかぬ突如と、ここでは言い置いておこう。そして、そうしたツェッペリンのへヴィを触媒とした可能性もあるが、兎も角ザッパとマザーズ残党らは彼らの樹立した真性サイケデリアの必然において、そしてこれまた継承されることは無かったが、アメリカーナ・へヴィ・メタルを生誕させたのである。 以上の意味で最重要アルバムであるからして、今夜は一曲ずつ丹念に聴き書きしたい。
1.トランシルヴァニア・ブギ
いきなりの、ワルそうなギターのディストーションが、怪奇な変拍子と共に炸裂しながら当然のように走り行き、途中、ジャズ的雰囲気やブルースにも会釈しながら簡便に去る。後にメタルと確言されるであろうこのギターのワルさが、既にそのメタルという概念をとうに乗り越えている民族臭プンプンなのにモダン極まりないリズムを伴う様は、メタルという概念すら広まっていなかったこの当時どのように聴かれたのか皆目見当つかない。匹敵しうるのはジミ・ヘンドリクスのモダンのみである。ただ、ギター奏者としてのジミとザッパ、という比較は、いずれジミの作品紹介の時に長々としたい。
2.淑女の道
ブルース。ザッパの良い声が堪能できる。ブルースを頭ごなしに力いっぱい叩きつければ、楽曲構成はどう聴いてもただのブルースなのに、へヴィメタルになってしまう、コロンブスの卵のようなナンバー。しかもザッパのへヴィであるから、文化継承の自信に裏打ちされないし、そうした裏打ちを拒否する人喰いの凶暴をきっちり吐瀉する。
3.20本の短い葉巻
馬車に潰されて死んだカエルの美しい夢のような、アメリカの草野心平のようなインスト。
4.ナンシー&メアリー音楽
何という土俗。朝っぱらから混乱したまま土で出来たようなサックスを吹き上げる。そしてびっこあるいは酔いどれのごとき、リズムのずれに頓着せぬドラムの、呂律の回らぬ凶暴な容赦ない連打。呂律の回るスマートな連中を叩きのめすようだ。諌めるようにしてザッパのワルいギターがへヴィにブルースの茶々を入れる。そのうち部族の者らの雄叫びが、ドラムというよりも地団太に近い煽りに煽られて上げ潮の連破となり、トランスの絶叫が最高潮になったかと思うと、相変わらずグズグズしながら猪突猛進だけは忘れぬドラムがリズムを無視して叩きまくられるなか、手数が過剰に多いギターが入り、いつのまにかジャズロック的まとまりも一応聞かせておく。祭りに飛び入り参加したキーボードがいつのまにか生贄あるいは司祭となってその身をロックの業火に燃やし尽くしながら熱となって消尽しても叫び続ける。
5.俺が好きだと言ってくれ
へヴィ・メタル・アメリカーナの金字塔。この楽曲が、アメリカンメタルの発祥である。分厚いベース&ドラムによる噛み付くリフと、他愛無い歌詞をこれまた噛み付くように叫びきる余裕の無さ。一発一発が、聴く者の下腹を殴られるような、肉の痛みを知るへヴィなドラム、エインズレー・ダンバーの名を顕彰したい。確か、この当時も塗装屋が本業で、今も塗装業の傍ら熱いドラムを叩いている偉人である。
6.何だってやろうじゃないか
打って変わってブリティッシュ的、特にキンクス的軽妙楽曲だが、演奏はやっぱりへヴィ。徐々に熱くならざるを得ぬメタルの宿命。
7.チャンガの復讐
野蛮ながらダウナーに始まる。インスト。沈鬱な面持ちながら触れば何されるか分からぬ不穏な空気。そんな時、またカエル的な、どもりながら導くような喋るギターが音色を聞かす。おとなしそうでいて、だんだんに狂い、最早言葉を成さぬ廃人ぶり(インストなので歌詞は最初から無いが)。と、少しは言葉が分かりそうなギターが軽く煽るが、そうすると既に邪鬼と化したカエルのダウナーギターが真っ先に暴力で答える様は、肉を叩き続けるドラムの音が説明する。
8.パチパチパンチや(淋病)
原題はthe clap。拍手や雷とかのパチパチ言う音の事のようだが、淋病の意味もあるようだ。ごく短いインスト。いろいろ叩いている。竹とか。
9.ルディーが一杯奢ってやるんだってよ
下品な男たちの陽気なブルースポップロック。パーティーも終わりに近づき、無理に盛り上がろうとする情に厚い男たちが吐きながら肩組んで歌っている。
10.シャリーナ
顔の異なる男たちが、正面を向いて、正直な気持ちを真顔で歌い奏する、滑稽で気持ち悪い有様。お別れの時間。
frank zappa:guitar, vocal, harpsichord, drum set, wood blocks, temple blocks, boo-bams, tom-toms, etc
ian underwood:organ, piano, rhythm guitar, electric piano, pipe organ, electric alto sax with wah-wah pedal, tenor sax
max bennet:bass
aynsley dunbar:drums
the phlorescent leech&eddie:vocals
john guerin:drums
george duke:electric piano&vocal drum imitations, trombone
jeff simmons:bass&vocal
sugar cane harris:organ
「son house/father of the delta blues; the complete 1965 sessions(1965) srcs5958~9」 2009年5月23日 曇魔
いつか、既に所持しているの新しい気持ちで、幸田露伴の幻談・観画談と、ベルクソンの思想と動くもの、という書物を再度購入してしまうということを書いたが、今度は音楽において、ウォーホースという、ディープパープルを解雇させられた方が結成した英国湿り気オルガンハードロックバンドのCDを、既に所持しているのに、それを忘れて、また買ってしまった。ヴァーティゴレーベルをよく手がけるキーフのジャケットデザインに惹かれたのか。ある意味、自分の心の嗜好の、再現性が確かめられたのであるが、所持品の記憶が失われると同じ物をお助けするばかりで、新たな嗜好、あるいは数寄の境地の開拓難しく、危惧する次第です。
今週はひどく鬱屈している。こうした時は如何なるロックもどうしようもなく五月蝿く感じ入るので、義太夫とかブルースを聴くに限る。特に、ギター一本で黒い民が他愛の無い事やどきりとすることを唸っているだけ、がよい。サン・ハウス。取り立てて声が凄くしゃがれているとか、スモーキーであるとかはなく、こざっぱりした声の歌い手であるが、滋味あって滲みるのである。意味も歴史もどうでもよい、これ以上何も言う必要の無い、黒い民がギターをぴんぴんさせながら淡々と語るように歌い続ける嘆きと道化の小風景、ミシシッピ・デルタブルース。
