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 ロック史を体系的議論から解き放ちながら、サイケデリアの土着性とハードロックの非継承性を論ずる。主要1000タイトル、20年計画、週1回更新のプログ形式。
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27日の記事に、どことは言わないが緊急加筆済み。

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「captain beefheart & his magic band/trout mask replica(1969)wpcp-5738」 2009年9月27日 後添え


 国連総会、リビアの独裁者ガダフィ大佐のファッション、かっこよかったですね。髪型が、チェ・ゲバラに似ているし。遊牧民の矜持とばかりに、ニューヨークの公園に宿泊用テントを設置して、当局に撤去されたり。痛烈な米国、国連批判したとのことだが、その言葉がテレヴィで放送されることはなかった。パフォーマンスの部分だけが殊更取り上げられて。後でネットで調べてみればよいのだろう。
 情報に疎いばかりか、情報を得るのが苦手、ひいてはインターネットでも検索下手な小生である。学生の頃、配属された研究室で、そういえば、小生以外の学生らが、インターネットのサイトに絡むことで、大いに面白がっていた事、そして小生にはそれが何のことか分からず、且つ何のことかたずねるほど仲がよいわけでもないので、さして気にもしなかったが、取り残された感があった。なにやら、学生らが各自で独力で、そのサイトの文面を見つけ、そして口頭で、互いがそれについて知っている事を確認した上で、更に面白がって盛り上がっている様子なのだ。断片的ではあるが盗み聴くと、どうも、吉野家の牛丼で、ツユダクにしてくれ、と頼む客を揶揄する内容のようであった。それだけでは、何が面白いのか、いまだに分からない。「誰か、誰か教えてください。」
 勝手な、ひねこびた妄想かも知れぬが、人々は、インターネットで独自に面白いサイトを見つけて楽しんでいるのではないか、と疑っている。小生は、出会うサイトのどれもがつまらなく思え、結局、自分の書いたページばかり見ている絶望的状況にある。一度、面白いサイト、と入力して検索したが、どれもこれも下らなかった。そこで、情報上手のように思える久々に会った友人に教えを乞い、幾つか教えてもらった。酔っていたので殆ど忘れたのだが、リスナー何とか、というのだけ覚えていた。そこで帰って早速、リスナー、と入力検索するも、天文学的数のサイトが出てくる。海の中で針を探すようなものだが、その中から、スーパーリスナークラブというのに出会った。これが、友人が教えてくれたサイトのような気がするし、そうでないかもしれない不安があるがどうしようもない。見てみると、なるほど、こういった荒みかたがあるのだな、と感服する箇所もあった。全体的には、ポップスやらプログレやらの様々な情報を手際よく並べる感じで、そのへんに居る永久機関のような元気を嗅ぎ付け、小生の苦手なタイプではあるが、漫画ゴラクとかアクションとか、柳沢きみお先生(「翔んだカップル」とか)の最近の欲望系漫画に入れ込む様を読んで、小生の心の荒みようはまだまだなのかもしれない、と思った。モーニングとか、漫☆画太郎先生を読んでるくらいでは、まだまだ救われているのかもしれない、漫画ゴラクとかを、自分のものとしてきっちり読むようになって、新しい心の荒廃のステップが開かれるのかもしれない。しかし、そんなところ、行きたくない。
 音楽関係のサイトにろくなものが無いのは承知しているが、小生がなじむ数少ないサイトの一つとして、JOJO広重氏の「こころの歌・最後の歌」がある。共感、などといった行動の様式を拒否する内容であるが、やはり共感できるし、紹介されている音楽を全て聴いているわけではないのでそこのところは何ともいえぬが、音楽に対する姿勢、聴き方には信頼に足るものがある。

 牛心隊長と彼の魔法楽団、と呼ぶことにする、1969年、アメリカ。もう、この音楽の一般的な位置付けや影響の系譜を述べたりして一般論で消化する意味はないだろう。そんな事に煩わされている場合ではない。専ら、自分の身体の一部として書きたい、そういう態度でしか望まれぬ音楽である。
 キツめの漫画(画太郎)やキツめの小説(嵐が丘、アミナダブ…)、キツめの詩(黒田喜夫、藤原定家…)キツめの侘び、キツめの謡曲、キツめの絵画(ドイツ表現主義、社会派、メキシコ壁画運動、蘇我蕭白、河鍋暁斎)そして何よりもキツめの音楽でしか癒されない。しまいには笑い出したくなるほど、無意味に追い詰められている。寧ろ、自分で自分を追い込んでいる。小生の場合ここで言う癒しとは励まし、と同義であるが、兎も角そういったキツめの芸を日々渇望、摂取する事でしか生きていけない、切実に荒廃した心。もっとキツめなのはないか、もっと、もっと、と飢える毎日。こういったものって、オーバードーズ(過剰摂取)とかあるのだろうか、ドラッグではないのだから、無い、と思って日々摂取に励んでいるが、本当はあるのかもしれない、そうだとしたら、もう、とっくに手遅れだろう、廃人だろう。社会社の空気を敏感に察知しながら処世する泡沫の日々、パソコンと机と人が整然する綺麗な空間や自然のような設備に追いまくられる労働者が居る空間で、途方もなく汚ない絶叫を上げ続けたらどうだろう。それこそキャプテン・ビーフハートのような。こんな妄想は、誰しもが内心思う蟠りであり我慢である習慣のような常態であるが、それをしてしまうという個人の発生は、誰もがしてしまってもおかしくない内的状況なのだから、内的な動機では説明つかない。こんな純然たる結果によって全ては変わる、そんな妄想に取り付かれる。特殊な外的要因などもありはしない日常なのだから、もうこれは結果でしかないのだ。絶叫するかしないか、という結果がすべて。こうしたありきたりな紙一重の毎日の中で、出社のため車中で、卑しくも癒されるために10年ぶりにかけた(賭けた)のが、牛心隊長の音楽なのであった。
 何もかもが分かった。隊長が、何をしようとしてこうなったのか、一声一打一弦の機微が、徹底的に分かりだす怒涛に苛まれ、朝っぱらから車という個室で一人、涙腺が熱く緩む。赤ん坊だったらこんな時大声で泣くのだろうか、赤ん坊が、牛心の音楽を心底理解して泣く、なんて事があるのか分からない、いや、あるような気もする、そんな事思いながら、いい大人なので堪えるのに必死で、仕事どころではない馬鹿馬鹿しさ。いったい、今まで隊長の何を聴いてきたのか。自責の念が厳しく強まる。
 率直極まりない、あまりに身近すぎてかえって分かりにくくなっていたが、一つの事実を、繰り返すが愚直に素直に、真っ当な方法で、隊長は示していた。
 ブルース=リフ
 ブルースとはリフである。リフとはブルースである。これがロックの肝心である。これを元手にロックすることがロックの、在り来たりな王道といえる。この事を何よりも理解し、実作し事実していたのが、牛心隊長であったといっても過言ではない。ジャズやブルースやR&Bをひたすら聴く、兎に角聴き込む事。隊長は、ハイスクール時代から、友人ザッパと共に黒人音楽のレコードをひたすら聴きまくっていたという。ロック創生期にあっては当たり前かもしれないが、ガセネタかもしれないし小生の妄想かも知れぬが、ザッパはブルースやR&Bのレコードだけで10万枚のレコードを倉庫で所持していたという。聴き込むとはこれくらいの数を言うのであり、当然ながら隊長も共にこれくらい聴いたはずである。そして本当は彫刻したかったが自分でも小銭稼ぎのため、ただのブルースではない、ロックをし出した時、至極真っ当な音楽を繰り出し始めた。それがミラーマンやトラウト・マスク・レプリカである。
 聴いてみるとよい、誰でも分かるだろう、彼の楽曲は、殆ど、リフだけで出来ている。この、ブルースへのある種過剰な忠実が、どれほど獰猛であることか。そしてこの事がロックに直結する。メロディとかサビ、などといったものは一切無い。あっさりと、牛心は、ポップスとロックの峻別をやってのけた。単純な話だ。メロディとかサビといった統制的なものにおもねる公共事業がポップスであり、アメリカ大陸における白人土俗という欺瞞(※詳細は過去のプロ愚小文を参照されたし)という恥の思いに苛まれながら役立たずの頓狂へと煽るのがリフである。けだしロックすべし、と、音でそそのかす牛心。ブルース起源のリフではあるが逸脱してしまうロック創始者にあっては、自ずとタガの外れたリズムへとさまようだろう。素手で、ガッと土から掘り出したような、ぶっきら棒な、しかし簡素なリフは、もう、ブルースという親の顔忘れた不孝者、即ちロックでしかありえない白人キチガイの、荒んだ、大谷吉継やらい病のように崩れた、揺れ揺れリフである。
 ブルースやビ・バップ、フリージャズのケダモノ性を、心ある白人が聞き込めば、自ずと醸造される音楽なのではないのか。これ即ち、過去に何度も書いたが、ブルースによるブルースのプログレッシブ化であり、ガレージと未可分の、ハードロックのあるべき姿であり、ロックの王道であった。ようは、当たり前のことをやっているだけである。風変わりな人が聞く高尚な音楽でもなければ人を驚かすスノッブな音楽でもなんでもない。凡庸こそが異端とレッテルされる、ままならぬ、唾棄すべき世である。以前、ガレージとサイケの両輪に跨るハードロック、という表現をしたが、何だか、牛心にあっては、もう、サイケという概念すら必要ないように思える。ある意味、ビーフハートの獰猛野生原初ロックの消化酵素として、ザッパが発明したのが、サイケデリアだったと言える。そういう意味では、矢張り、ザッパ的なるものをサイケ起源とした過去の論考と辻褄が合うだろう。(無論、ジェファーソンエアプレインやラブサイケデリコ、スーパーフライなどといった産業サイケは論外)
 それにしても、個人的な信念に基づいて、生活のための訓練を拒絶しながらもがっつり生きてきた、めしいの、つんぼの、片ちんばの、いざりの、せむしの、薄弱の方々が、音楽の何たるかが分からぬ制度に安住した腐った健常者から王権奪取したかのようなこの音楽には、チンドン屋や、かつての農村青年団(今は高齢者)が結成したジンタのような、素朴で他愛無いおかしみもあるし、祈りとも呪詛ともつかぬ、大地が割れて叫びだすような牛心のがなり声は、あの、オオカミウオのような顔したジョン・ケージが吠えたらこうなるのだろうと思わせる、野獣の声であり、癒される、励まされる。噛み付いたら決して離れぬしつこい凶暴である。
 そして、牛心の、凡庸にも思えるほど当たり前の事をやっている素直な、真っ当な王道ロック=ハードロックは、またしても、継承されず、系譜ならざる点在する系譜として、飛び石の一つとなった。しかも、とびきりの巨星として、今も燦然と一つ、輝く。この飛び石を布石に変える次代のロックを待ち侘びながら。
 (関係ないが、最近は、人間よりも動物が気になる年頃である。これは特に新しい視点ではない。確か、ベンヤミンかアドルノのどちらかが、今後は動物と子供が重要云々、と言っていた。東浩紀の「動物化するポストモダン」とか読まなければいけないのだろうか。もう、隣の芝生など見たくも無い、という閉鎖的な気持ちに、自ら鬱屈する。)

zoot horn rollo:glass finger guitar, flute
antennae jimmy semens:steel appendage guitar
captain beefheart:bass clarinet, tenor sax, soprano sax, vocal
the mascara snake:bass clarinet & vocal
rockette morton:bass & narration
drumbo:drums

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「因州数寄修行」落成のお知らせ

「因州数寄修行」完成しました。
「日本焼物紀行」の中にあります。 読み巧者の中には、小生がいまだ、従来の美的概念(侘びとか渋みとか)に没頭しており、新しい見方なり考え方なりを樹立していないではないか、と指摘する向きもおられよう。その通りである。 今はまだ、品の一つ一つと、己の全てを賭けて向き合う地道において、邁進している最中である。その修行の一端を感じていただければ。

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「frank zappa/hot rats(1969) rykodisc rcd10508」 2009年9月20日 奉涼


 なんか、サッカーの、中田英寿元選手が、彼のテイクアクションなる催し絡みのチャリティとかで儲けた収益金を、日本の伝統工芸界に寄付するらしい。いつもは物資不足の子どもらにサッカーボールをあげたり、地球温暖化対策に効くらしい腕輪を人々に配ったりしていた中田元選手も、数寄に目覚めたのかしらん。
 面白い漫画「クロマティ高校」を世に残した野中英次先生が原作、亜桜まる氏作画で、最近、マガジンで「だぶるじぇい」なる漫画が連載されだした。伝統芸継承部で奇妙なことが起きていた。コミケ風美少女絵の中で、劇画黎明期の、たとえばクロ高の神山的な部長がどうしようもない展開する、注意したい漫画である。
 ジャンプのうすた京介先生「すごいよマサルさん」、マガジンの野中先生「クロマティ高校」と並んで面白い、サンデーのながいけん先生「神聖モテモテ王国」、書店で長い間見ることなかったが、最近、文庫化されて普通に売っていた。
 コンビニで漫画を立ち読みする荒んだ階級にいつのまにか甘んじる小生。ビジネスジャンプなど見ると、漫☆画太郎先生が健在であった。画太郎先生のきっついネタやギャグは、赤塚不二雄や、画太郎先生と同じく汚い絵で人間生活の真実を暴き立てる片岡東陽と双璧をなすが、過激すぎて、買ってまで読もうとは思わなかったが、ずっと、それでも、尊崇の念を抱いていた。ビジネスジャンプ内の、特に見所の無さそうな他の漫画とは隔絶して、久しぶりの珍遊記面白かった。全裸のお婆さんの乳首を食いちぎって脱糞する、などといったかつてのハードコアはたまたま無かったものの、その毒気は健在、そして軽いおかしみのようなものまで発揮されていた。全裸の汚い男らが爆殺されてもいた。今の自分のような、ささくれ立った心の持ち主を癒してくれるのは、画太郎先生の漫画しかない、と思うようになった。そこまで追い詰められている小生、早速買って読む所存。
 野菜の中で生活丸出し感が一番恥ずかしいのは、長葱だろう。買い物の帰り、買い物袋から、ぴょ-ンとあられもなく飛び出た葱を、我ながら何とも恥ずかしく思う。折り曲げて無理矢理袋に押し込めば鮮度に影響しそうだし。学生の頃、石州瓦の豪農屋敷が点在する国道の狭すぎる歩道を自転車でえんちらおっちらする先輩が背負ったリュックから、ぴょ-ンと、臆面もなく葱が飛び出ていたのを、車を運転しながら目撃したのを思い出す。
これが今週の、小生の内的ストレインジ・デイズ。

 ホット・ラッツ。1969年。ジャケットの人物は、確か、ザッパ家の使用人の家族の、ドラッグか何かで気の触れた人である。ザッパがマザーズ解散後に初めて取り組んだ作品である。有名な話であるが、音楽雑誌メロディメーカーの人気投票で、英国の彼らの「アビーロード」を抜いて一位となったキング・クリムゾンのファースト「クリムゾン・キングの宮殿」をも抜いて一位となったのがこの熱い鼠どもであった。良くも悪くも腐れ縁でつるんできた、中には廃人同様の言動の者も居ただろうがその音楽の出鱈目なる凶暴とラディカルで真摯な欺瞞的土着の右に出るのはいないだろう希代のバンドを解散し、後にザッパの常道となるがオーディションで彼の耳に適った者らによって結成された。ザッパ人脈論は本稿にとって重要ではないので置くが、二曲目の「ウイリー・ザ・ピンプ」は盟友キャプテン・ビーフハートがボーカルの、松脂べったりの松の枝を喉に突っ込まれたような、あくの強いヴァイオリンが人を引く濃厚人食いブルース以外は全てインスト。ビーフハートは王道無きロック史の最重要人物、点在するサイケデリアの点在性そのもののような野人であり、ビーフハートにしてみれば、それなりにショウ・ビジネス業界でうまいことやっているザッパすらも浮ついた小利口編集野郎に思えるかもしれない、そういった無比の人物であるからして、詳論はまた控える。
 ジャズロック・アメリカーナとして聴かれただろうこのアルバムのインストは、その、地に足の付いた下品さも厭わぬ垂れ流しぶりといった意匠を剥ぎ取れば、ジャズというよりも、西洋古典音楽の編成といった安定した楽曲構成地盤が見え隠れする。ザッパの音楽に文句をつけるとすれば、リズムが時に統制的に過ぎるといった点が挙げられるが、ザッパに、更にジミ・ヘンドリクスの才までをも求めるというのは贅沢に過ぎよう。ザッパとて骨盤が達磨落としされかねぬ容赦なく荒れたリズムを繰り出すこともあった。ともあれ、如何に地盤は安定していようとも、そのアメリカ原住民的古層から迷い出る臭気は口臭でありきつく、殺伐とした獰猛を放し飼いにする無用心極まりないものである。初めから誰もついてゆけぬスピードで走り去っていた時期もあったが、本作では、茹で蛙のごとく、微温湯で湯治でもしていた遊興気分の聴衆が、いつの間にかぐんぐん盛り上がるビートで熱せられてからりと、あるいはさっくりと揚がった天麩羅のごときに、ノセラレている、という事もある。しかし、スタジオ的な洗練、品行方正な退屈も否めないが、そう思っていると矢張り、渋柿のごとき渋みも聴こえ、油断はならない。今までの、小汚いが突拍子も無い事やってもウケテくれた客ばかりでなく、良識に守られた小市民にまで客層を広げようとした営業努力なのか、あるいはそういった客層にまで己のアクを浸み込ませようとした巧妙な悪意なのか、分からない。

FRANK ZAPPA :guitar, octave bass, percussion
IAN UNDERWOOD:piano, organus maximus, flute, all clarinets, all saxes
CAPTAIN BEEFHEART:vacal on "Willie The Pimp"
SUGAR CANE HARRIS:violin on "It Must Be A Camel"
JEAN LUC PONTY:violin on "It Must Be A Camel"
JOHN GUERIN:drums on "Willie The Pimp","Little Umbrellas" & "It Must Be A Camel"
PAUL HUMPHREY:drums on "Son Of Mr.Green Genes" & "The Gumbo Variations"
RON SELICO :drums on "Peaches En Regalia"
MAX BENNET:bass on "Willie The Pimp","Son Of Mr.Green Genes","Little Umbrella","The Gumbo Variations" & "It Must Be A Camel"
SHUGGY OTIS :bass on "Peaches En Regalia"

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プロ愚「俺の見たジモヤン」紹介

ジモヤン(地元に屯する、あるいは地元から出てゆけぬ地元ヤンキー)の目撃情報を共有しあうプロ愚「俺の見たジモヤン」、一応やってますので、遊びにきていただければ。今のところ小生とその関係者しか書いてないが、どしどし書き込んでください。(ちょっと書き込み方が難しいけど)そこのあなたもジモヤン記者!

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次は休載

ゆえあって9月13日掲載分を休みます。次回は9月20日。
敗北の日々。結局、スパゲッティは、市販のトマトケチャップをかけて炒めるのが一番旨いことに先週気がついた。これまでは、缶詰のトマトやアンチョビなどを使って自分でトマトソースを作っていたが、ケチャップを使ったほうが断然旨かった。
思えば、野菜炒めも、自分で様々な調味料を配合するよりも、焼肉のタレをかけたのが断然旨いし、ヤキソバも、結局、自分でソースの配合やるよりも、オタフクソースが旨かった・・・これまでの自分の努力、こだわりは何だったのか。企業努力には中々勝てぬものである。そういえば、小生が創った時、これは新しいかも、と慄いた味噌ヤキソバ、店頭に売っていた。
そういえば、ノイズの老舗レーベルのアルケミーレコード、ネットでの通販を今月で終了するようだ。ノイズ音楽の是非は兎も角、思えば1970年代後半から30年近く続いた日の本のノイズの灯が細まりつつあるようで、寂しい。ゆずやミスター・チルドレンやB'zやレミオロメンやラブサイケデリコやエグザイルや美空ひばりなどといった、莫迦な人間が聴く莫迦な音楽がのさばる一方(ひょっとしたら、ただ巷で流されている、売られているだけで、誰も、聞いてなぞいないのかもしれないが)、音楽に対して責任を持とうとした試みが、一つ、また一つ縮小を余儀無くされる…いや、一つ、また一つと、抵抗の狼煙は上がっているはずだ…

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加筆

9月6日の内容に、どことはいいませんが加筆しました。

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「love/forever changes(1967)elektra amcy-3193」 2009年9月6日 油夏忌


 仕事の出先、行きつけのマクドナルドで半ばサボるように長々とした昼食(必ずダブルチーズバーガーのセット、コカ・コーラを選択)を取っていると、階段に、コオロギが居た。どうしたわけか迷い込んだのだろう、腐った草のように、案外何も考えずに、鳴きもせず危うく居た。繰り返すが、マクドナルドの中にコオロギが居た。小生のマクドナルド見聞録については、またの課題としよう。子連れ母子ママ友らの暴れ非常識、子の遊び場の変遷(山→マック)、マックとは関係ないがカブトムシ考、子の自然体験NHK番組の面白い欺瞞、子の分際で店員に食べ物を注文する違和感(子に物を買う権利は無い?、ましてや大人の店員に金でものを指図する権利は無い、ただ駄菓子屋でビックリマンチョコを買う権利あるのみ、お使いは?)…

 ラブ。アメリカ。サイケデリアの生温かい沼池に咲いた一輪の破れ蓮。レコード媒体の解説など読むと、ファースト、セカンドも相当そそられる内容のようであるが、いまだ聴いた事無い小生の怠慢を戒めつつ、小生所持の傑作サードアルバムを個人的に顕彰したい。西海岸のアシッド・フォークが発散する暗い敵意が、時にガレージ風のドラムがジャズ的意匠に留まらず闇雲に形振り構わず地車を轟かせる椿事と合流するが、殆どの場合、簡素な歌や捨て鉢な歌が、朝露を爪弾くように織り成されるか弱いアコースティック・ギターに乗って仄暗いストリングスとホーンの宵からささやく豪奢な不気味。サイケデリアの夢、成仏するサイケデリア。いったいにこんな音楽はどうやったらできるのであろうか。既存のものの組み合わせに過ぎぬ組成から、質量保存の法則を無視して、錬金術のように、座という物語を拒否する星のように、不意に強烈に光ったかと思うとそれは超新星爆発、創作から遠い処で生き死にする我々からしてみれば既に終わりの徒花とは。作品とは大概においてこうした孤独死を免れぬのは分かってはいても、この音楽性が概念として一般化された時、ロック音楽はどうなったかは気になるところである。凡百の、ザ・バーズ的フォーク・ロックなどとは一線を画すこの音楽性が。
 唯一親和的なのとしてソフト・マシーンが思い浮かぶが、ソフトマシーンは、その知的=痴的戦略性ゆえかハットフィールド&ザ・ノースやナショナル・ヘルス等々といった系も生み、メンバーの重複出入りはありはするものの派を築くに至った。
 無論、ソフト・マシーンが主導して派を築く、というのは虚構であり、元々各々独立して活動していたバンドらをカンタベリー派の一言で括るのはレッテルというメディアの暴力であり、気をつけなければならないが、相互に刺激し合う暗黙のコミュニティが茫洋とあったのは事実であろう。ただ、コミュニティはあったが、そのコミュニティに与えられた名によって全てが言えるほどの硬直した音楽性を、各々のバンドが有するはずはなく、当然ながらそうした名からはみ出さざるをえぬ音楽をバンドらは出す。やれ小沢チルドレンがどうの、とはやし立てるメディアを信じる国民なぞさすがにいまい。
 しかし、ラブは、系も派もなさぬという意味でありふれてはいるが、まことに尊い音楽を作った。私らはそれだけで感謝である。朝、もう目覚める事が出来ぬ者が夢見る劇的な朝焼けのような悲しい朝焼けの彼方、どこか束縛から逃れた安堵感で和やかに憩う置いていかれた者らが、先に行って生きていくしかない私たちに手渡す儚げな希望のような音楽。
 ただ、解説(伊藤秀世氏)など読むと、続く4枚目のアルバムは、「ハードロック寄りの次なる展開への転換期にあったというべきか、楽曲自体の魅力の乏しさや散漫な音の作りがやけに目立つ」とある。これが正しいとすると、小生としては、こうした迷いのある音、というのに非常にそそられる。これが良い、と確信めいた権威主義的音楽などはつまらぬだろう。不安に苛まれながらその不安に酔うてもいる千鳥足の遊びに音楽を見出したい。

 アーサー・リー:ヴォーカル、ギター
 ジョン・エコールス(?):ギター
 ブライアン・マクリーン:ヴォーカル、ギター
 ジョニー・フレッケンスタイン:ベース
 ドン・コンカ(?):ドラムス
 ビリー:ストレンジ:ギター
 ドン・ランディ:キーボード
 ハル・ブレイン:ドラムス

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「suicide/suicide(1977~1978)mut red star9104-2」 2009年8月30日 自民党忌


 衆議院議員選挙当日ということで、つまらぬ狂歌を一句。

 静けさや開票前の蝉の声

 昨晩、正確な番組名は忘れたが、NHKで、東京かわいいTV、のようなものをやっていた。在日欧米人が、シヴヤとかギャル雑誌とかに出てくる、ヤマンバギャルやアゲハ嬢などのファッションを、コミケ的マンガやアニメーションも交えて、真似しているばかりか、本国でも、アキバ的な店が繁盛したりそういったファッションに没頭する若人が増えているらしい。NHKらしく、巷間には分かりきった頃に特集する底意地の悪い慎重さなのか単に鈍感なのか、特に目新しくない今更感のある企画である。そこで、日の本のギャルサー(ギャルによるサークル)によるパラパラというディスコで催される踊りが、欧米でも流行っているらしい。欧米人や南米人が、ギャルサーを組んで、欧米や南米で、パラパラのコンテストに打ち込んでいる映像が流れる。
 小生、パラパラ聖典なるVHSビデオを所持鑑賞しており、これは、小津安二郎もビックリなほど決して動かぬ固定カメラの正面で、三人のギャルが、正味2時間ぶっ続けでひたすら様々なパラパラを踊るという、ある種ストイックでハードコアなビデオである。従って小生は僭越ながらパラパラに一家言ある。そして、別の時間帯にNHKでやっていた徳島の阿波踊りの様子も見るに及んで、確信するに至った。
 阿波踊りの本質は、踊りながら、体の芯が滝のように止まっており、すっと下に落ちているのである、冷え冷えとしながら。表層では熱く踊りに没入しているように見えるが、芯は不動である。これを能面のような、とでも言うと白洲正子的な俗悪解釈になるが、この阿波踊りの真髄を、日本文化などについて一顧だにしたことないであろう日の本のギャルが踊るパラパラも、きっちり継承しているのだから、通底する民族の文化というものは空恐ろしいものである。
 一方、欧米人が踊るパラパラは、トランス楽曲に合わせて筋肉も体の芯もぐちゃぐちゃに闇雲に浮き足立って動いており、日の本ギャルのパラパラとはかけ離れた、精髄を知らぬどたばたに過ぎなかった。このことを、日本贔屓の欧米ギャルも知ってほしいものである。

 さて、スーサイドである。ずばり、自殺、である。繰り返しになるがへヴィ・メタルやプログレッシヴ・ロックにまで至ったロックの、技術主義、筋肉主義への叛旗のようにして、簡素な楽曲を稚拙に叫ぶパンクの動きに対してさえも筋肉主義を嗅ぎ取り、一般にニューウェーヴと呼ばれる派も生じてきた70年代終り。後に90年代テクノへと連なるだろうニューウェーヴ史に関しては、この王道無きロック史で自説を述べたい重要なテーマであるゆえ詳論は控えたく、よってこの場での読者諸兄は一般的なニューウェーブ解釈を持っているものとして論を進めたい。何が一般的か、はここでは問わない。兎も角、楽器の演奏技術やライヴでのパフォーマンスといった技術主義筋肉主義への反発のため、シンセサイザーなどのエレクトロニクスを導入し、ツマミやボタンの単純操作だけで、時に人力では演奏不可能な楽曲を拵えようとした連中が現れたのである、いわずと知れたクラフトワーク、YMO、・・・。そしてその極北の一つに、スーサイドが居た。現れた。ギターは時に無い場合もあるがベースとドラムというロックバンドにとって鉄のフォーメーション(ドアーズのようにベースの替わりにキーボードの場合もあるが)すらも無視、一人は声、もう一人がエレクトロ、という、この時代の必然である怒りの編成である。
 各々の楽曲もいたって簡素。男が不安げな事をぶつぶつ言ったり、時に断末魔のような叫びを途切れがちに消尽させながら、これまた単調で、不安と呆気を締まりなく垂れ流す、決して楽観的ではない電子音の羅列。電子音は人為からかけ離れたように錯覚されがちだから天上的な表現に使われがちであり、後のトランスだとかに応用されるのだが、この頃のプレ・テクノ期の、クラフトワークやYMO、そしてスーサイドの電子音には節操があった。
 関係ないが、頭の悪い陶芸家や伝統工芸職人などが、工場で大量生産された製品とは比べものにならぬほど自分らは手間ひまかけてやっているから良いものができる、一つ一つ違うのも味わいがある、などと述べて乙にすましている。産業や物作りを知らぬ恐るべき愚である。規格内に納まる製品を大量生産するための設備開発に必要な人員や知恵や手間というものは、技術開発ということを知らぬ伝統工芸職人の手間の総量とは比べものにならぬほど膨大である。生産物というものは、ほっとけばバラバラな物が出来るものである。それを狭い範囲内におさめながらしかも大量に生産するとなると、絶え間ない努力と工夫が必要なのであり、少々バラバラでも構わぬ伝統職人の手間の比ではない。ああした発言を何の批判も無く垂れ流すマスメディアの無知も甚だしい。日の本はそうした生産力によって成り立っていることを知らぬのはどうしたことか。
 だから、シンセなどのエレクトロを使ったからといって、技術主義や筋肉主義から免れるものではなく、むしろシンセを製造した開発者や労働者の膨大な血と汗が、楽器演奏バンドの血と汗よりもうわまりかねぬ。
 しかし、だからといって、スーサイドの、既存のロックに安住する者らへの敵意むき出しの、殺伐として悲惨な音楽の先鋭性が失われる事はない。こうした事も、安住を許さぬロックという音楽の本性を根暗に証明する。

alan vega:voice
martin rev:electronics 

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「the mothers/fillmore east-june 1971(1971)rcd10512」 2009年8月23日 残暑


 通勤中に門前を通る神社の境内には楠木の巨木が幾棟!も栄え、太枝が道路にまで張り出している。先週末、枝の下を通ると、蝉の骸がそちこちに転がっていた。

 腹すり合わせ組み伏して落つ夫婦蝉

 仰向けで道に焼かれる叫び蝉

 来るべき因幡伯耆旅行のウオーミングアップという位置付けで、広島市中小企業会館にて催された大骨董市・棚卸市に出かける。本気を出すまい、根付とか古伊万里の蕎麦猪口で安いのがあれば二、三お助けしようという程度の心構えで行くも、やはり品々の気に押され、本気を出さざるを得ず、しかし本気を出したくないなぜなら今日は己のしがない金力を使う覚悟が無いから、という思いの板挟みになる。終わってみれば、無残やな兜の下のきりぎりす(奥の細道)、ざんばら髪に傷だらけの落武者のごとき心境であった。何度行っても恐るべし骨董市。特筆すべきは、天目形の器形で、高台脇に高麗の粉引きあるいは刷毛目のごとき白泥を見せるように、本物の黄瀬戸釉を上掛けしている、さらに拙い蟹の絵付けまで施しているという空前絶後に珍しい茶碗に遭遇したことで、しかも桐箱がついてないから思いのほか安く、速攻でお助けした。繰り返すが、物凄い珍品である。県内外で戦った、地方の骨董市蚤の市での小生の戦歴についての詳細はいずれ日本焼物紀行に掲載したい。
 ちなみに、骨董市で奮戦した後、噂の猫カフェに行きました。その一部始終は来週、別の御方がレポートするでしょう。

 さて、マザーズのフィルモアイーストでのライヴ版である。とはいってもザッパであるから随所でオーヴァーダビングしているゆえ、正確な意味でのライヴ版ではない。タートル・マザーズ期の傑作というに留まらず、ロック史上の最重要作品である。というのは、このアルバムの比較的はじめの方の数小節、サイケデリアの高純度を維持しながら形振り構わぬ変拍子で、どこまでもブルースに留まりながら西洋音階を駆け上がるプログレッシヴな展開を見せる野卑極まりないハードロックのイデアが一瞬だけ聴かれるからである。こうした音楽をハードロックとして継承すべきが、ザッパでさえも一瞬でしか成しえなかった荒技だからか、ロックの王道として継承される事は無かった。半世紀近くたった今、心あるロック継承者諸兄の、薄暗いライヴハウスでの地道の中に、微かな希望を見出すしかないのだろう。

Frank Zappa:Guitar, Dialog
Mark Volman:Lead Vocals, Dialog
Howard Kaylan:Lead Vocals, Dialog
Ian Underwood:Winds, Keyboard, Volcals
Aynsley Dunmar:Drums
Jim Pons:Bass, Vocals, Dialog
Bob Harris:2nd Keyboard, Vocals
Don Preston:Mini-Moog

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